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2014.04.25

古事記が解いた古代史  崇神天皇と疫病(1)

 古事記では崇神天皇の御世に疫病が大流行して人民の大半が死んだと書かれている。この事実関係を外国文献で調べて見た。朝鮮には三国史記と称する歴史書がある。この新羅の項の193年6月に「倭人が大いに飢えて食糧を求めて来る者が千人以上もあった」と書かれている。(鈴木氏編訳〝三国史記〟)
 これは192年稲の植え付けが出来なかったことで、従って191年に倭人が沢山死んだためと考えられる。次に中国では189年から190年にかけて年号が4回も変わっている。これは皇帝が次々と死んだとしか考え様がない。
 漢族は九州四国をこの時代には、まだ占領していたので、スペイン風邪の様な猛烈な量超え性感冒が中国から日本に伝染したと考えられるのである。
 歴代天皇年表では9代開化天皇が191年に崩御している。しかも63才と当時としては若死にである。わたしが作成した歴代天皇年表は、崇神天皇の御世の疫病大流行で開化天皇が崩御されたことを証明している。


古事記が解いた古代史  224ページより転載

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2014.04.20

古事記が解いた古代史  里程と方角の謎(2)

倭人伝は魏が呉と戦った記録の一部でしかも魏は一敗地にまみれたのである。魏がどの様な作戦すなはち呉の九州に残っていた勢力を攻撃する詳細は負けた以上隠しておきたいのが常識だ。しかしあまりにも被害が大きかったので全く黙殺することは許されなかった。
 従ってここでも陳寿が衆を惑わす手段が必要である。
 倭人伝は利害関係がない事柄は極めて正確である。例えば馬が居らないと書いているがこれは戦争の目的に超発されていたので、魏の使者の目にふれなかったのだ。
 大人は4・5婦と書かれ、これは若夫婦の主人は全員守備のため招集されていたのである。
 九州は呉の占領地だから魏の使者には敵地で日向浦に来た。ここが末廬国すなはち松江国だった。距離は440粁も正確である。
 本州の周囲が五千里(2200粁)とあるが、長門と津軽は1100粁で、これも倍してあった。紀伊半島は紀の国屋文左衛門でも決死で回ったのである。


古事記が解いた古代史  223ページより転載


私よりの一言---[大人は4・5婦と書かれ、これは若夫婦の主人は全員守備のため招集されていたのである]
 この部分の大人は4・5婦の部分は、魏志倭人伝にかかれているものです。
[これは若夫婦の主人は全員守備のため招集されていたのである]は田村誠一氏の推理です。なるほど、素晴らしいと思えますが、
[大人は4・5婦]を勝手に、若夫婦に置き換えるのは如何でしょうか。

 これは、呉の国では、[大人は4・5婦]だったのではないでしょうか。
呉の国は、海に近い所だと思います。
 海南島、福建省、済州島は、苗族の人が、チベットの方から、移動して来たのではないかと推理します。
 チベットは、中国の属国であった頃は、一夫多妻だったように記憶するのですが・・・。

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2014.04.15

古事記が解いた古代史  里程と方角の謎(1)

倭人伝で国名が辛うじて正しかったのは、対馬と奴国だけである。壱岐は陳寿は故意に中国人を惑わす様に方三百里しかないが一大国だとかいたのである。戦争に負けたので腹いせに、この様な書き方をした。国名等は全て卑劣な文字である。この壱岐は径24粁の丸い島だから一里は80米になる。壱岐まではこの換算で、軍から邪馬台国一万二千里も同じ換算で960粁で正しかった。
 魏志の鮮卑、高句麗等の里の単位には魏の単位には魏の単位すなはち440米が使われ、これは韓の単位の80米を使用してなかったし、魏の単位でないことにはおかしい。
 実は壱岐以降の例えば末廬国までの距離等は全て440米換算で、これは当然のことだ。壱岐から末廬国までは千里で従って440粁である。
 倭人伝で壱岐と末廬国だけが唯一方角が書いてない。陳寿が忘れたのではなくて故意に書かなかったのである。これで中国人も惑わされるが、中国の領土にならなかった国だから中国に被害は全くない。


古事記が解いた古代史  222ページより転載

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2014.04.09

古事記が解いた古代史  箸墓(2)

日本書紀の箸墓の記述をウッカリ読み過ごすと倭迹々日百襲姫が自殺したと勘違いする書き方がしてある。現に国土地理院の地図までが、倭迹々百襲姫の墓と載せている。しかし自殺したのは先程述べた創作の、倭迹々姫である。倭迹々日百襲姫と名前に不愉快な襲の字をさけたのは不比等で、記では夜麻登母母曽姫で崇神天皇を助けた功労者である。
 中国系の不比等に取っては崇神天皇の一族位にくらしい人物はなかったので、崇神天皇の妹の卑弥呼を抹殺するために箸墓の主を、卑弥呼でなしに、架空の、しかも神話まで創作した上での架空の人物にした。
 さて紀は箸墓は昼は人が作り、夜は神が作ったと書いている。不比等の同俗は捕虜でも神である。箸墓は昼夜兼行で、記と記述と一致していた。敵は卑弥呼を殺したまま放置したのでは、祟りがあるので、自分達が作りもしないのに、如何にも手厚く葬った様に書き残したのである。


古事記が解いた古代史  221ページより転載

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2014.04.06

古事記が解いた古代史  箸墓(1)

紀では天皇の妹が箸で陰所を突いて死んだので箸墓と呼んでいると書かれている。この箸墓は大和にあって前方後円墳で崇神天皇の御陵と兄妹仲よく並んでいる。水谷慶一氏は〝知られざる古代〟で、この箸墓と伊勢の斎宮が全く同じ北緯34度32分の線上にあると述べて居られる。要するに箸墓は極めて正確な真東に斎宮があった。
箸墓の主が丹波の伊勢大神宮り日巫女であった今一つの証拠である。
古事記では天皇の妹(藤原朝臣が実在しない名前に校正) が伊勢大神宮を拝き祭ったと書かれていた。又記は始めて墓に人柱をたてたと書いている。
魏の軍隊が崇神天皇の妹を殺した以上、この捕虜を人柱にするのは常識である。
日本書紀は不比等の同俗が敗けたので、真実は書けないからこの時代にまで神話を創作してあった。先づ開化天皇には妹はなかったのに、妹をが自殺したうわさを、紀の作者は黙殺出来なかったので創作したのだ。


古事記が解いた古代史  220ページより転載


私から一言
次の所に、箸墓古墳のことを掲載しましたから、ごらんください。
資料 古墳 箸墓古墳 (1) 北緯と太陽の道

http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2011/05/1-ec82.html

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