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2014.05.29

古事記が解いた古代史  東日本征伐(3)

景行天皇の時に倭建命が九州の熊襲の酒宴の席に倭建命は単身で女装をしてもぐりこんだ。この時熊襲の兄弟を殺したが、軍は全く抵抗しなかった。
 この状況を分析して見ることだ。熊襲が軍に押されてボスになったのではない、むしろ軍は無理矢理に徴発されていたから抵抗しなかったと考えてよい。
 熊襲こそは絹の密貿易のボスでしかも中国人で、この下に倭人が奴隷として使われていたと考えたいのである。
 熊襲の<襲>を中国的にシユウと読まないで日本独特の読み方をしている。しかも襲の字は龍と衣の組合せで、龍すなはち中国人が絹に関係していたことを示している。熊襲は錦がついた錦江湾(鹿児島湾)で、錦の密貿易をやっていたと考えてよい。
 倭建命は熊襲を征伐すると直ちに出雲の出雲建を征伐に行った。これも絹屋の地名から絹商人と考えてよい。大毘古命も建沼河別も絹の略奪者のボスを征伐したのである。


古事記が解いた古代史  231ページより転載

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2014.05.25

古事記が解いた古代史  東日本征伐(2)

倭人伝に「もと百余国、今使訳通じる所、三十国」と書かれている。使訳通じる所とは、この時は魏の敵の呉と交流がある国のことだ。
 漢の銅鏡が出土した所は当然、この時には呉と交流したのである。これは日本国内に漢族が居ったことのなによりの証拠で、この外の七十余国が倭人と白狄人の国と考えてよい。
 学者は日本人が銅鏡を好んだとのべているが、七十余国と中国とは交流がなかったことを倭人伝は証言ている。この七十余国が主として倭人の国だった。
 ここでも従来の学説は間違っていたと云えるのである。関東の稲荷山では銅鏡と一緒に中国の鉄で作った鉄剣まで出土した。これこそ使訳を通じていたよい例である。
 漢族は絹を収奪するために日本各地を占領していた。これは銅鏡を出土した所が絹に縁がある地域だった。次にはここに中国人の地名のパターンがあった。例えば稲荷山の近くには二字目に城がつく結城があり、竜がつく竜ヶ崎と鬼がつく鬼怒川がある。このボスを征伐したのである。


古事記が解いた古代史  229ページより転載

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2014.05.19

東日本征伐(1)

崇神天皇の御世に丹波に侵略して来た、魏軍を征伐したあと、北陸道から大毘古命が越前、越後の中国人の拠点を征伐して阿賀野川を遡って会津盆地に進んだ。
 一方大毘古命の子の建沼河別は東海道から十二道の敵を征伐して、会津盆地で両将軍が会ったので、会津(記では藤原朝臣が相津と改めた筈)の地名が付いたと書かれている。 わたしはこの事実を確かめるために会津若松の北にある伊佐須美神社を訪れて見た。この人はもとの場所からは移されていたが、少く共500年代には創建されていた。この神社に二人の将軍は祀られていたのである。
 紀では四道将軍を派遣した記述があり、これはデマだ述べて来た。しかも二人の将軍の行先も秘している。
会津で二将軍が出会ったことは、古事記にしか書かれてない。しかも古事記は14世紀まで一般の目に触れることはなかったので、この神社は古事記とは全く無関係に創建されていたことになる。古事記が偽書だとする根拠はここでも失われたことになる。


古事記が解いた古代史  228ページより転載

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2014.05.12

古事記が解いた古代史  山城と河内征伐(2)

 魏志倭人伝で「女王国の東、海渡る千余里、また国あり、皆倭種なり」と書かれている。女王とは卑弥呼ではなくて、崇神天皇の曽伯母の夜麻登登母母曽姫(やまととももそひめ)である。
 この女王国とは邪馬台国(夜麻登)であり吉備上道国でよかった。この海を東に渡った国とは河内で、ここには倭人でなくて、倭種すなわち倭人類似の氏族が居ったと書かれている。高句麗人、陳寿はこの様に発言していた。
 日本人は一度住み着いた村を離れることは悪いことをした時である。立身出世しても墓は故郷に残すものだ。又他人の村に勝手に移り住むことは、占領しないことには出来ない。
 山城に高麗村があればここには代々高句麗人が住んでいたと考えるべきである。又河内には崇神天皇以前から高句麗人が住んでいた証拠が出て来たのである。2世紀にすでに高句麗人が居った。これは漢が九州を攻めた時に軍隊に高句麗人を使役したためだ。河内の高句麗人はもともとは敗残兵と考えるべきである。


古事記が解いた古代史  227ページより転載

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2014.05.06

古事記が解いた古代史  山城と河内征伐(1)

戦後に山城国の山城町の椿井古墳から40数枚のもの銅鏡と三角縁神獣鏡が出土した。ここは大和から北に進んで、木津川を渡った所である。この山城町に合併された村に高麗村があった。要するに高句麗人が住んでいた所である。
 古事記も日本書紀も崇神天皇の御世にねこの地点で建ハニヤスを殺したと述べている。天皇家そのものを乗っ取るべく、河内の青玉が女のハニヤス姫を孝元天皇の妃に送りこんだ。この間に生まれたのが、建ハニヤスである。
 吉備の巨大古墳の石棺は阿蘇の石、播磨の竜山石、讃岐の火山石の外に二上山のピンク石で作られ運ばれていた。河内の青玉はこの時代の人物で、しかも高句麗人だと考えてよい。
 丹波を同じ崇神天皇の御世に占領した玖賀耳之御笠(難升米)も高句麗人だった。南北相呼応して大和を攻撃しようとした。更に建ハニヤスの妻は河内から大和を攻撃しようとしたのである。大和が敵に包囲されていたことの証拠が現れたことになる。


古事記が解いた古代史  226ページより転載

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2014.05.01

古事記が解いた古代史  崇神天皇と疫病(2)

天皇が大変うれえておられる時に、夢に大物主の大神が現れて「意富多多泥古(おおたたねこ)に、わたしを祭らせなさい」とのお告げがあった。
 大物主神の子で神の子の、意富多多泥古を探出して、御諸山の意富美和(おおみわ)の大神を拝き祭ったのである。御諸山については、大物主神が始めて渡来した時に現れた時に、倭(大国主命村倭)の東の、御諸の山と書かれた大山のことである。御崎(三崎)と諸木の地名を結んだ一直線上の山上に大山の大神山神社がありこの神社で祭を行ったのだ。、
 藤原はこれとまぎらわしい地名や神社名を大和において、ここでも古事記を偽書扱いにする謀略を行っていた。大物主神を祀った三輪神社は西伯郡の淀江町にあり、大物主神は大和に出かけた証拠はまだ見付からない。
 古事記ではこの時に始めて神社を創建したと書かれている。度々述べて来たが、貴族の住居が宮と呼ばれ、これが神社にこの時転化したのである。更にこの時以後は貴族が住居していた所以外にも神社が出来たと考えたい。これは有名な祭神に限られる筈である。


古事記が解いた古代史  225ページより転載

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