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2014.06.29

古事記が解いた古代史  謎の河内(3)

 崇神天皇の時に河内の高句麗人は征伐され、景行、成務、仲哀天皇の時に九州の中国人を征伐した。応神天皇の宮は橿原にあったが、仁徳天皇は摂津の高津宮に移ったのである。
 記ではこの時に秦人を使役して、沢山の池や難波の堀江などの大土木工事を行ったと書いている。仁徳天皇陵を作らせられたのは、これだけの土木工事がやれた秦人が居ったためである。秦人とは高句麗人と考えてよい。河内に居った崇神天皇に征伐された敗残兵の高句麗人が大量に居ったことは、古事記の記述で明らかになった。
 これから数十年後の雄略天皇の宮は大和の長谷にあった。天皇の太后が河内に行幸された時、古事記では下記の様に、河内の「志畿の大県主」が天皇と同じ構造のカツオ木を屋根にのせた家を見付け焼かせようとした。
 「志畿の大県主」は天皇のふるまいをしていたのである。このことは藤原不比等の日本書紀にかいてない。 記と紀の何れにしか書かれてないことが重要なのだ。この「志畿の大県主」が倭の五王の一人だった。


 上記にあった「古事記では下記の様に」は、次の部分です。
初め、大后(おおきさき)の若日下部王(わかくさかべのみこ)が日下(くさか)(現在の大阪府東大阪市日下町付近)にいらっしゃった時、天皇(すめらみこと)は日下(くさか)の直越(ただごえ)の道を通って、大和から河内(かわち)へお出ましになりました。
その時、山の上に登って国内をご覧になると、堅魚木(かつおぎ)を屋根の上に載せている家がありました。
天皇(すめらみこと)は、その家を訪ねさせ「その堅魚木(かつおぎ)を屋根に載せているのは誰の家だ」と問うと、「志畿(しき)の大県主(おおあがたぬし)(現在の大阪府柏原市付近の豪族)の家です」と答えました。
そこで、天皇(すめらみこと)は、「奴(やっこ)め、自分の家を天皇(すめらみこと)の御殿に似せて造るとは何事か」と仰せになり、人を遣(つか)わしてその家を焼かせようとしました。
すると、その大県主(おおあがたぬし)は恐縮し、ひれ伏して「私は愚かでした。愚かであるゆえに気づかず、誤って作ってしまったことは、とても畏れ多いことです。そこで、お詫びの印として、品物を献(たてまつ)りましょう」と申し上げて、布を白い犬にかけ、鈴をつけて、腰佩(こしはき)という名の自分の親族に犬の綱を持たせて献上しました。 大県主(おおあがたぬし)がそのように申し上げたので、天皇(すめらみこと)は、その火をつけさせるのを止めさせました。
 vol.203 雄略天皇(1)【古事記、第六十話】
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu203.html
より拝借。


古事記が解いた古代史  239ページより転載

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2014.06.25

古事記が解いた古代史  謎の河内(2)

崇神天皇の時に山城国の建ハニヤスと河内国の同妻とが相呼応して謀反を起こした。
この建ハニヤスが殺された所が山城町で旧名は高麗村である。この椿井遺跡から銅鏡が40数枚も出土したのである。
 魏志倭人伝の難升米も高句麗人で丹波で天皇の義弟、日下坐王に殺された時と同時期である。出土品からも分る様に、魏の手先となって建ハニヤスも難升米も天皇勢力を攻撃した。中臣も先祖の天児屋命は中国人で、鎌足も中国人の子孫である。
 建ハニヤスは先に述べた様に河内の青玉の女を孝元天皇の后に送りこんで生れた子で、天皇家そのものを乗っ取りを企てた人物だ。
 これは孝元天皇の時に既に河内では高句麗人が天皇をだます位の強大な力を持っていたことである。
 京の周辺の神社の祭神は全てスサノオ系だと述べて来た。しかし河内の式内社の祭神は天児屋命4社、ニギハヤ命4社以外は全く素性が分らない。これは河内の高句麗人はスサノオ命系とは無縁だったことになる。


古事記が解いた古代史  237ページより転載

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2014.06.20

古事記が解いた古代史  謎の河内(1)

藤原が814年に新撰姓氏録をまとめた。
内容は当然に有利に書かれたもと考えるべきである。これは畿内の主なる氏族の、姓と経歴がかかれている。
 これによると河内には中臣姓が最も多くついで物部だから、二大勢力の対立でしかも鎌足の旧姓中臣が圧倒的に多かった。
 河内にはこれも藤原氏が選定した式内社が113社とあり、しかもこの中の90社は八尾、東大阪、柏原3市に密集している。ここの中央を古代に大和川は北流し淀川に注いでいたので大和には藤原勢力を通る外ない。
 河内での二番目の氏族物部は南の河内長野市に先祖のニギハヤヒ命を祀った神社があったことから、ここが本拠地と考えられる。
 藤原勢力と物部勢力の中間地帯の富田林、羽曳野両市と太子町には天皇一族の御陵が密集し、ここが天皇勢力である。
 藤原勢力圏の南には式内社は合計で16社敷かなかった。この様な勢力分野にお互いに民族構成が異なる以上、古くから維持されて来たと考えるべきだ。


古事記が解いた古代史  236ページより転載

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2014.06.15

古事記が解いた古代史  景行天皇の九州征伐(3)

富山房の〝大日本読史地図〟の一部を230頁に引用させていただいた。景行天皇の九州征伐と倭建命の東西征伐の道すじである。
 古事記によって歴代天皇の年代が推定できることになり、4世紀に九州征伐が行われた以上、邪馬台国九州説は全く根拠を失ったことになる。
 古事記は後世に改ざんされたので、景行天皇の九州征伐は最初から全く書かれてなかったか否かは分らない。中国系藤原を刺激する記述は書けなかったとも考えられるが、記には九州征伐は全くみあたらないのである。
 しかし天皇の王子、豊国別王を日向国の国造に任命していることは、天皇の威光が九州で始めて及んだ証拠と考えてよいだろう。
 九州の賊の食糧、武器補給源は朝鮮である。従って神功皇后(前稿で辛国息長大姫大目神社から息長族の神功皇后を、辛国すなはち高麗出身としたのは間違いで、辛国とは伽羅国で新羅の一部の天皇友好国のことだった)が三韓征伐を行ったのである。しかし九州はこれ以後再び中国系ゲリラの本拠地になった。


古事記が解いた古代史  235ページより転載


私よりの一言
富山房の〝大日本読史地図〟の一部を230頁に引用させていただいた

この部分が掲載出来ていません。

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2014.06.10

古事記が解いた古代史  景行天皇の九州征伐(2)

景行天皇の九州征伐だけでも、8年かかった。これ以後の仲哀天皇は九州征伐の途中に九州で崩御された。これ位九州の賊すなはち、中国の残党が多かったのである。
 景行天皇が仮の京を置かれた所が地名が京都郡になっている。ここに御所谷神籠石がある。学者は神籠石は朝鮮から攻めて来る外敵に備えたと発言されているが、石城山や御所谷は瀬戸内海にあるので学者の発言は無責任である。発言には常に裏付が必要だ。
 さて天皇はここで横穴に住んだいる土ぐもを征伐された。神武天皇東征の時紀州に住んでいたのも土ぐもだった。
 秦の始皇帝が徐福と男女5千人で東海の島に長寿の薬を求めて派遣したが、この人達は本国に帰ると罰せられるのをおそれて、行く先にとどまった。この徐福の墓が紀州の南の新宮にある。友人は秦の始皇帝の墓の近くでは現在も横穴に住んでいる人あると教えてくれた。土ぐもと書かれていたのは中国人が横穴生活をしていたのであって、横穴の遺跡は倭人ではなくて中国人の遺跡である。


古事記が解いた古代史  234ページより転載

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2014.06.06

古事記が解いた古代史  景行天皇の九州征伐(1)

崇神天皇の御世には瀬戸内海の倭人用船を全て失っていたので、造船に力を入れた。このことは紀にかかれている。水軍の準備出来た段階で景行天皇ら、九州の賊を征伐に出かけた。この詳細は紀にだけ書かれている。先づ周防の中国人を征伐したのである。
 ここには石城山神社があって中国人の高麗神を祀ってあり、石城山神籠石がある。
 ここの神籠石の詳細は〝日本考古学の視点・下〟に精しい。吉備の鬼ヶ城と全く同じ山城だ。
 神籠石とは神が籠ったのであり、籠の字は竹やぶに隠れた龍すなはち中国人である。地名を中国人がつけた場合は、自分達の民族を神と称した。紀でで箸墓を昼は人が作り、夜は神が作ったと書かれた前例がある。
 九州には各所に神籠石がある。陸続きの戦であれば後退するのが常識である。しかし山に山城を築いて籠る外無かったのは、渡来人だった何よりの証拠である。夜間に山を下って食糧を略奪する外には生存する手段が残されたなかった。「福は内、鬼は外」の福とは倭人であり、鬼とは敗残兵の中国人のことだ。


古事記が解いた古代史  233ページより転載

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2014.06.03

古事記が解いた古代史  関東の君

宇都宮市の二荒山神社には崇神天皇の第一王子が祀られ、式内社ではない。しかも徳川秀忠の時、藤原の子孫の本多上野介が日光街道をこの神域の真中を通して、上宮、下宮に分割して天皇勢力の弱体化を計った。
 この日光街道が日光の同名の二荒山神社に通じているのだ。日光の二荒山神社は大己貴命、田心姫命、アジスキタカヒコネ命を祀ってある。記で大己貴命を祀った神社は本物でないと述べた実例がここにある。この二荒山神社はもちろん式内社で、藤原勢力の関東の挙点である。
 崇神天皇は関東を重視して本来は天皇になるべき第一王子を関東の君にしたのだ。二荒山の同一地名が関東にまで見付かった。
 日光の二荒山神社の隣りが中国に本山がある天台宗輪王寺で、この間に中国系の天海が東照宮を作らせた。ここに三大天皇反対勢力の大ボスが祀られている。源家康(祭神名は徳川だないことに注意)、源頼朝、秀吉が祀られていた。清和源氏の系図ははたして真実だろうか。


古事記が解いた古代史  232ページより転載

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