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2014.07.31

古事記が解いた古代史  石棺は語る(4)

「志畿の大県主」が居った、後世に国府になった所の安福寺にあった石棺は、讃岐の鷲の山石で作られていた。しかも讃岐も以上に割竹・舟形石棺が多かった国である。
 河内では住居跡が密集していた。稲作民族は田んぼの近くに家を作るのが常識である。従ってこの住民は軍隊であって、食糧は讃岐からはこばれていたと考えればよい。
 紀の川の下流の北岸に大倉庫群が出土した。これこそ河内のゲリラの軍用倉庫と考えるべきである。紀の川を遡っても大和には行けないのである。天皇勢力と戦争した時の最も後背地にこの倉庫は位置している。
 しかも讃岐から最も舟運が便利な所にこの倉庫は配置してあった。
 河内からは修羅が出土したが石を運んだのは万里の長城を作った子孫である。吉備の鬼ヶ城、九州の神籠石、吉備の石棺を運ぶのに修羅は必要だった。しかし稲作民の倭人には石は無縁だったのである。
 河内の二上山から吉備に石棺は逆方向にまで運ばれていたのである。


古事記が解いた古代史  251ページより転載


安福寺にあった石棺
http://tempsera.at.webry.info/201106/article_34.html

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2014.07.27

古事記が解いた古代史  石棺は語る(3)

倭の五王は南宋に使者を出した。この時北支には北魏があった。宋は漢族で、魏は鮮卑族だから敵対関係にある。従って宋への使者は朝鮮や北支経由で行ける筈がない。従って東シナ海を直接渡った。熊本県の地名には中国臭のものが多い。例えば熊本市の西南には銭塘村があり、これは中国の銭塘江と同一である。江田船山の中国製の銘入り鉄剣の出土した所は熊本市の北15粁の菊水町である。
 式内社によって出雲や越前が藤原氏とは無縁でないことは確定している。これと熊本とは割竹・舟形石棺でつながっていた。河内の謎で述べて来たが河内は中臣の本拠地である。
 中臣鎌子が宋の後継者の唐の王朝と手を結んで、クーデターを起こした状況証拠はそろった様である。
 あとは河内の遺跡によって証拠がためをすればよい。これには年代は全くあてにならないことは既に述べて来た。あてになるのはカーボン14による、何年前と書かれた資料だけである。ただ何世紀と書かれた主観に基づくものは、従来の学説同様間違いだらけだ。


古事記が解いた古代史  250ページより転載

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2014.07.24

古事記が解いた古代史  石棺は語る(2)

阿蘇の石を使った石棺は山城国八幡町にもあった。ここは高句麗人速ハニヤスが居った高麗村(山城町)のすぐ近くだったことを覚えてほしい。
 これは中国の将軍が八幡町まで攻めて来て前進基地で戦死したと考えたいが如何だろうか。
 左記は〝吉備古代史の未知を解くむ〟から引用させていただいた、石棺の形状による分布図と長持形石棺があった場所である。
 わたしは長持形石棺は天皇一族が使用したもので崇神天皇の御世から、鎌足のクーデターが成功するまでの前方後円墳に使われたと考えたいのである。
 竹割・舟形石棺が出雲と越前に異常に多かった。これは藤原が定めた式内社の、この二国に異常多い事実と一致する。 竹割・舟形石棺が藤原氏は無縁だとは言えない事実である。
この 竹割・舟形石棺は九州では福岡ではなくて熊本に多かった。学者は事毎に朝鮮から何もかも伝来したと述べているが、この学説にも根拠がなかったのである。


古事記が解いた古代史  249ページより転載

私よりの一言----上に「左記は」と記してありますが、素晴らしい記事ですが、省略させていただきます。

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2014.07.20

古事記が解いた古代史  石棺は語る(1)

倉敷考古館長、間壁氏夫妻の〝吉備古代史の未知を解く〟は古代史を考える方は一読願いたいのである。この書物には吉備等にあった石棺を推理でなしに、科学的に、石の出所を解明してある。
 X線回析法によって、石の戸籍調べが正確に行われたのである。如何に立派な学説でも、科学を否定することは許されない。
 先づ吉備にあった古墳の石棺の石は阿蘇で作られて運ばれていた。土着の氏族が豪族に発展したのであれば、吉備の古墳の石棺が他国から運ばれる筈がない。
 これは従来の豪族が発生して行った学説を根本から否定したものだ。
 次には吉備の石棺には阿蘇の石の外に播磨の竜山石、四国の火山石、はては河内の二上山のピンク石まで使われていた。
 これは瀬戸内海全域を支配していた豪族が吉備を本拠地としたと考える外ない、事実である。しかも吉備の古墳から銅鏡まで出土した以上、この豪族は中国と交流していたことである。

古事記が解いた古代史  247ページより転載

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2014.07.16

古事記が解いた古代史  倭の五王(4)

関東の稲荷山から中国製の鉄剣が出土した。この銘から鉄剣が作られたのは471年で、この鉄剣の主は「シキの宮のワカタケル」に仕えたのである。宋書から471年の倭王は武ではなくて興だった。
 ここでもワカタケルを倭王、武としたことは間違いだったことが判明したのである。従って人名のゴロ合せも間違いだった。これは日本書紀が天皇の敵の藤原不比等が創作とすれば片付くもんだいである。不比等は自分達の先祖の倭王、武すなはち雄略天皇と思わせる謀略を行ったのである。
 神武天皇の義父を大物主神ではなしに高句麗人の事代主神にした不比等には前科がある。
又崇神天皇の妹も抹殺した前科があったのだ。
 古事記序文で帝紀が正実と異なると述べた例がここにもあった。 
古事記を正史とすれば鉄剣の銘の宮のワカタケルは「志畿の大県主」だった。この記述は不比等には都合がわるいので、紀ではカットされていたのである。学者なら裏付けなしの拡大解釈や論理の飛躍はしてよいのか。

古事記が解いた古代史  246ページより転載

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2014.07.12

古事記が解いた古代史  倭の五王(3)

宋書を注意深く読めば倭王の在位が推定出来る。倭王、讃は438年に死んで、珍に譲位している。443年に珍のあとの済が遣使しているから、珍の在位は5年未満である。
 460年には済は死んでいるので、済と在位17以上、22年以下である。478年に倭王に倭王武が遣使したときには、父兄共に死んで喪中だとの極めて重要な記述がある。これは倭王興の在位は17年だったことになる。
 テキストで倭王興は安康天皇だと断定しているが、紀での在位は3年、宋書では17年と全く一致しない。済は17~22年の在位だが、比定された允恭天皇は42年である。
 宋書と日本書紀には倭王に関する共通点は皆無だった。 
 当時日本書紀では大和には天皇が倭人に君臨して存在し、河内には宋の皇帝から親任されたゲリラのボスの中臣が倭王として存在していたのだある。
 倭人は漢に圧迫されて渡来し、漢民族とは、敵対関係にあった。


古事記が解いた古代史  245ページより転載

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2014.07.09

古事記が解いた古代史  倭の五王(2)

テキストでは倭王の讃は仁徳天皇とも履中天皇とも云われていると書かれている。これは日本の文献(記と紀)の記述とは一致点がなかったことである。又応神天皇とみなす説が妥当かも知れないとまで書かれている。
 倭王、讃が421年に宋に使者を遣した時の日本の天皇に該当者が確定出来なかったとの学説が大勢を支配することになった。
 倭王、興はテキストでは確定的で安康天皇であり倭王、武は雄略天皇でこれも確定的である。
 倭王、武が雄略天皇だと確定的に述べている根拠は日本書紀をこの部分だけ信用して、紀に雄略天皇が幼武と書かれた、実に一点だけである。
 紀の雄略天皇を引き合いに出すからには、これまでの天皇の在位もテキストの著者は否定出来ない筈である。履中天皇6年、反正天皇5年、允恭天皇は実に42年で、次いで安康天皇は僅か3年である。問題の雄略天皇は23年間である。


古事記が解いた古代史  244ページより転載

私からの一言---上記のテキストとは、大学の教科書である安田元久氏編〝テキストブック日本史〟のことです。
 その一部は、次に有るものです。
http://blog-imgs-44.fc2.com/a/s/i/asilka/20120128082853df6.jpg

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2014.07.06

古事記が解いた古代史  倭の五王(1)

戦前の教育を受け入れた人は倭の五王について何のことかご存じないだろう。反対に戦後派は五王の一人、武は雄略天皇のことで、宋の皇帝に使者を遣して、中国の皇帝のために忠節を尽くしたと答案に書かないことには、大学に入れてもらえないのである。
 この詳細を知るために大学の教科書である安田元久氏編〝テキストブック日本史〟を左記に引用させていただいた。

 この部分は、次のページと同じものです。 
http://blog-imgs-44.fc2.com/a/s/i/asilka/20120128082853df6.jpg倭の五王については中国の宋書に書かれ、これは岩波文庫(33-401、200円)に魏志倭人伝、後漢書倭伝、宋書倭国伝、隋書倭国伝について読下し文と原文が載せて有るので、是非全文を読んでいただきたい。
 上記の教科書や進歩的学者の説は外国文献なら自説に都合よい点が1%でもあれば、それだけを取上げて残り99%は不具合でも黙殺する。日本の文献は例えば古事記に1%の不自然の点や、不勉強で諒解出来ない点を取上げ、残りの99%を否認する。他人の説は偶然だ、論理の飛躍だ、拡大解釈だと批判して一部が正しくても全部否定する実例だ


古事記が解いた古代史  243ページより転載

以下、参考にテキストブック日本史
有斐閣ブックス
安田 元久/編

1980年07月発行
A5判 , 450ページ
定価 2,916円(本体 2,700円)
ISBN 4-641-08408-4

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2014.07.03

古事記が解いた古代史  謎の河内(4)

 〝新撰姓氏録〟で河内では中臣に次いで多かった氏族は物部だと述べて来た。この物部の先祖がニギハヤヒ命である。神武東征でニギハヤヒ命は「天ツ瑞」を返還して天皇に降参した。このニギハヤヒ命の先祖の物部だ。
 河内の葛城山上の鴨習太神社と西麓の高屋神社にニギハヤヒ命が祀られ、東麓の大和に一言主神を祀った一言主神社がある。
 左記は古事記で雄略天皇葛城山に狩に出かけた時の記述である。一言主神が天皇と同じ鹵簿行列をして登って行ったのは鴨習太神社に参拝するためだった。前項で一言主神は「志紀の大県主」と同一人物視したのは間違いで訂正しておきたい。葛城山の西麓も物部の本拠地だったのである。
 鎌足の先祖の志紀の大県主が天皇反対のゲリラ活動を強化したいたので、雄略天皇は百官の新調の服と弓矢までも一言主神に渡して天皇の軍隊としての協力を要請したのだ。
 物部は何れ藤原の敵として滅ぼされ、上記の神社は藤原の勢力下の式内社に組入れられたのである。

古事記が解いた古代史  241ページより転載

「左記は古事記で雄略天皇葛城山に狩に出かけた時の記述である」の部分の文章を下に記します。

 又一時、天皇葛城山に登り幸でましし時、百官の人等、悉に紅き紐著けし青摺の衣服を給はりき。その時その向へる山の尾より、山の上に登る人有りき。既に天皇の鹵簿(みゆきのつら)に等しく、亦其の裝束の状、また人衆(ひとかず)、相似て傾(かたよ)らざりき。爾に天皇望(みさ)けまして、問はしめて曰りたまひしく、「この倭国に、吾をおきて亦王は無きを、今誰しの人ぞかくて行く」とのりたまへば、即ち答へて曰す状もまた天皇の命(みこと)の如くなりき。ここ是に天皇いたく忿(いか)りて矢刺したまひ、百の官の人等悉に矢刺しき。爾にその人等もまた皆矢刺しき。故、天皇また問ひて曰りたまひしく、「然らば其の名を告れ。爾に各名を告りて矢彈(はな)たむ」とのりたまひき。ここに答へて曰しけらく、「吾さきに問はえき。故、吾先に名告りをせむ。吾は悪事(まがこと)も一言(ひとこと)、善事(よごと)も一言、言ひ離つ神、葛城の一言主大神ぞ。」とまをしき。天皇ここに惶畏(かしこ)みて白したまひしく、「恐(かしこ)し、我が大神、うつしおみ有らむとは覚らざりき」と白して、大御刀また弓矢を始めて、百の官の人等の服(け)せる衣服を脱がしめて、拜みて献りたまひき。爾にその一言主大神、手打ちて其の捧げ物を受けたまひき。故、天皇の還り幸(い)でます時、其の大神、満山の末より長谷の山の口に送り奉りき。故、是の一言主大神は、その時に顕れたまひしなり。〈雄略記〉

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