2006.03.10

本を作りました

 本日は 私の宣伝です。

「神武天皇は吉野ヶ里を攻撃した」 新風舎発行 著者は 私です。 大橋 蛍火です。


 カテゴリー「古事記を読む」を読んでいただけましたでしょうか? 

古事記は、神話の部分は、作り話であると言うのが、定説になっています。しかし、私は定説ではなく、実際にあったことであるという説を、「燦然と輝いていた古代」という本において書き続けてこられた田村誠一氏の説を、この5年間、調べててきました。まだ、全部調べたわけではありませんが、調べるほどに、本当だなという感触を得てきました。
古事記に書かれていることを知るには、日本書紀を読むことも必要になりました。同じく、魏志倭人伝も読む必要になりました。素人の私には、とても無理の事でしたが、間違ったことがいっぱいあるでしょうが、毎日、調べたことを書き続けてきました。
あまりにも膨大になり、はじめから読むには大変ですので、歴史の一部分のみを取り出して調べたことを書いたものが、今回の「神武天皇は吉野ヶ里を攻撃した」です。
神武東征のことは、奈良を攻める辺りは、本に取り上げられていますが、なぜ、奈良なのか? 奈良には、攻めるとなにかいいことがあったのか? どの書物も解決していません。

私は、神武天皇が。どうして、日本を平定しようと考えたかを取り上げました。そして、奈良よりもまず、九州の平定をもくろんだ部分のみを書きました。

わずか 78ページの小冊子ですので、直ぐに読んで頂けると思っています。

小説ではありません。
論文のつもりで書きました。 さて、論文になっているかどうか自信はありませんが・・・。

一度、手にして頂ければ嬉しいです。
本体は900円です。消費税が必要です。

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2005.11.27

古事記を読む  火遠理命と産屋

No149
No142において、二人の子供に何故「火」がついているか、その理由を付けたしたのでしょうか? ・・・なんだかすっきりしませんと書きました。
「佐久夜毘売よ、一宿にや妊んだからには、これ我が子ではないだろう。きっと、国つ神の子であろう」とニニギ命に言われて、木花之佐久夜毘賣は、戸無き八尋殿(やひろどの)を作りて、其の殿の内に入り、土をもって塗り塞ぎて、産む時にさいして、火を其の殿に著けて産みました。

このような馬鹿なことはあり得ないと思っていましたが、これに近い風習と木花之佐久夜毘賣のことも書いてある本を読みましたので、紹介します。澤 潔著『西丹波秘境の旅』より
① 京都府の由良川の支流・土師川の分流の川合川の源流に、大原(三和町)に藁屋根妻入りの二畳ぐらいの広さの産屋が復元されています。大原の町では、大正初期までこの小屋でお産をしていた。その後、家でお産をするようになってからも産後、産婦がここに移って七日間、のち三日間の忌ごもりをする風習は、昭和30年(1955)ごろまで続いていたという。
② 対馬の木坂(上対馬町鰐浦)にも似たようなものがあったことを『海神と天神』(白水社)から抜書きをしています。
「婦人が産をなす場合には、ひと川隔てたる血に、わざわざ小屋を造りてこれに移る。而して、一定の日数がたつまで産婦はその小屋に居りて、家人が食事をはこぶなり。また産の時は、男子は小屋に近づくことを禁ぜり。こは人家のある地は、そこにある神社の神領なるをもって、かく離れたる地に至りて産をなせるなり」
上の風習は、明治20年ころまで続いたとあります。『谷川健一著作集⑧』にも詳細にあると澤 潔氏は紹介しています。
「産小屋の中には、川砂を敷気、その上に藁を敷いて床を張らなかった。床を張ったら難産、床を取ったら安産と言われた。産屋の砂は安産のお守りとして、今でも氏子に配られている
」。

③ 若狭に多い産屋と題して、常宮神社の「砂持ち行事」のこと、気比神宮では、いまでも参拝者が砂袋をもらい受け、お産の前に、自分の家屋敷の隅に撒いて邪気を払うなどの記事があります。
立石半島の西浦七郷と呼ばれる縄間・常宮・沓・手ノ浦・色ヶ浜・浦底・立石の七郷と、それに隣接する白木、又常神半島の常神・神子・小川の三村落や内外海半島の外浦の犬熊にも産屋があったことが記されています。

④ 徳之島では、婦人が出産すると、産屋の側で七日間昼夜別なく火を焚く。この習慣は、琉球では、奄美(アマウミの略)から八重山(ヤエ山はハエ山で南の意味)諸島一帯まで行われていた。
同じ習俗はインドネシア、インドシナ半島の諸民族に顕著で、メラネシアまた八丈島にもあるという。
この外に、『古語拾遺物語』の中の一文も加えて、「お産の忌み」に関する風習を記しています。
はじめに書きました大原の藁屋根妻入りの産屋の近くには、大原神社があります。この神社の祭神は、イザナミ命、アマテラス大神、ツキヨミ命です。この神社の又の名は、天一社と云うそうですが、どういう意味か判りません。少し、南下したところの西脇市に天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)がありますが、この天と一を取ったとしますと、こちらは製鉄の神ですし、祭神のアマテラス大神、ツキヨミ命から推察すると、この一帯に高天原から移動した天津族が住んでいたのかも知れません。
産屋に火を点けたのは、疑われたために、間違いないことを証明するために起こした本当の事件であったのかも知れません。

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2005.11.21

古事記を読む  火照命の服従 その2

No148
原文
授鹽盈珠、鹽乾珠并兩箇。即悉召集和迩魚問曰。今天津日高之御子。虚空津日高爲將出幸上國。誰者幾日送奉而。覆奏。故各隨己身之尋長限日而白之中。一尋和迩白。僕者一日送即還來。故爾告下其一尋和迩。然者汝送奉。若渡海中時。無令惶畏即載其和迩之頚送出。故如期一日之内送奉也。其和迩將返之時。解所佩之紐小刀。著其頚而返。故其一尋和迩者。於今謂佐比持神也。
是以備如海神之教言。與其鉤。故自爾以後。稍愈貧。更起荒心迫來。將攻之時。出鹽盈珠而令溺。其愁請者。出鹽乾珠而救。如此令惚苦之時。稽首白。僕者自今以後。爲汝命之晝夜守護人而仕奉。
故至今。其溺時之種種之態不絶仕奉也。
翻訳
鹽盈珠(しおみつたま)と鹽乾珠(しおふるたま)并わせて兩箇を授けて、即ぐに、悉く和迩(ワニ)魚を召して集めて問うて申しました。「今、天津日高の御子である虚空津日高が將に上國へ出幸しようと爲されています。誰か幾日かで送り奉てまつって、覆(かえ)り奏すか」と云いました。すると、各、自分の身長の尋長(ヒロタケ)に隨がって、日を限って申す中に、一尋の和迩(ワニ)が、白します。「僕が一日送り即に還って來ましょう」と申しました。だから、ここで、其の一尋の和迩に「然(しか)らば汝が、送り奉てまつれ。若し、海の中を渡る時に、な惶畏(かしこ)ませりそ」と告げて、即ぐに、載其の和迩の頚に載せて送り出しました。すると期の如く、一日の内に送り奉てまつる也。
其の和迩を將に返えそうとする時、所佩(はか)せる小刀の紐を解いて、其の頚に著(つ)けて返しました。それ故、其の一尋の和迩は、今に於いて、佐比持神と謂う也。
是に以ちて、備(つぶさ)に、海の神の教え言の如くにして、其の鉤を與えました。故に、それより以後は、稍愈(やや)に貧しくなって、更に、荒い心を起して迫めて來ました。將に攻撃をしようとする時、鹽盈珠を出して溺れるように命令し、其の愁い請うたれば、鹽乾珠を出して救い、此の如く、惚(なやま)し苦るしむように命令すると、稽首(のみ)白うしました。「僕は今自以後は、汝の命の爲に、昼夜の守護人として仕え奉ります」と申しました。
だから、至今に至るまで、其の溺れし時の種種の態、絶えず、仕え奉てまつる也。

考えたこと
① 和迩(ワニ)とありますが、海ですから、鮫のことでしょうか? 
② 「自分の身長の尋長(ヒロタケ)に隨がって」の部分が、判るようで判りません。尋長は、どこかの長さでしょう。前に「身長」とありますから、口のさきから、尾の先まででしょうか? 尾の付け根まででしょうか? 頭はいれないのでしょう? 人ですと、手を広げた長さを一尋と言います。この長さが広い人ほど、泳ぎが速いと思われていたのでしょうか? 身長そのものとすると、身長が長いほど、和迩も速く泳ぐとおもわれていたことでしょうか? 
③ 鹽盈珠と鹽乾珠---こんな玉があれば、便利です。海の水が何故、塩辛いかという物語を読んだような気がするのですが、マンガだったかもしれません。塩が出るように願っていたら、その人は悪い人であったので、塩が止まらなくなってしまった。そのために、海の水は塩辛いのだと。花咲かじいさんでも、同じことです。正直者は、ある道具を手にすると、願いことが叶うというパターンです。もっとも、新しいもので、子供達に夢を与えたものは、ドラエモンのどこでもドアです。
それだけ、海幸彦(火照命)は、憎かったのでしょう。兄弟でも、許せなかったのだと思います。
③ 「日を限って申す中に、」 いついつまで戻ってくるように、限ったということでしょうか? 一日で送って帰ってくると云ったワニがいたのですから、日を限る必要も無かったように思えますが・・・。
④ 「其の溺れし時の種種の態」が理解困難。種種の態とは、いろいろの状態でしょう。溺れるときの原因が種々なのか、溺れるときの、苦しがる様でしょうか? まあ、四六時中、守ってくれたことは確かでしょう。

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2005.11.15

古事記を読む   火照命の服従

No147
原文
於是火袁理命思其初事而。大一歎。故豐玉毘賣命聞其歎以。白其父言。三年雖住。恆無歎。今夜爲大一歎。若有何由。故其父大神問其聟夫日。今旦聞我女之語云三年雖坐。恆無歎。今夜爲大歎。若有由哉。亦到此間之由奈何。爾語下其大神備如兄罰失鉤之状。是以海神悉召集海之大小魚問曰。若有取此鉤魚乎。故諸魚白之。頃者赤海[魚へんに即]魚於喉[魚へんに更]。物不得食愁言故必是取。於是探赤海[魚即]魚之。喉者。有鉤。即取出而清洗。奉火遠理命之時。其綿津見大神。誨曰之。以此鉤給其兄時。言状者。此鉤者。淤煩鉤、須須鉤、貧鉤、宇流鉤云而。於後手賜【於煩及須須。亦宇流六字以音】然而其兄作高田者。汝命營下田。其兄作下田者。汝命營高田。爲然者。吾掌水故。三年之間必其兄貧窮。若恨怨其爲然之事而攻戰者。出鹽盈珠而溺。若其愁請者。出鹽乾珠而活。如此令惚苦云。
翻訳
是において、火袁理命は其初めの頃の事を思って、大いに一つ歎げきました。そこで、豐玉毘賣命は其の歎きを聞いて、其の父に白し言いました。「三年住んでいると雖えども、恒には歎げくことは無いが、今夜は大いに歎いておられます。若し何の理由が有るのでしょう」。そこで、其の父である大神は其の聟夫(むこ)に問うて言われました。「今朝、聞我の女の語るのを聞けば、『三年坐ますといえ、恒は歎げか無くても、今夜は大いに歎げいた』と言われました。若し理由が有る哉。亦、此間に到った理由は奈何」と言われました。爾に、語下其の大神に備(つぶ)さに兄の失しなった鉤の状の如くを語り下しました。是れで以って、海神は、海之大小魚を悉く召し集めて問うて曰烏されました。「若し此の鉤取った魚は有る乎」。すると、諸の魚は白しました。「この頃は、赤海の魚、魚の喉に於いてノギが刺っていて、物を食べれないと言って愁いています。だから、必らず、是れを取りたい」。是に於いて、探赤いチヌの喉を探ると、鉤が有り、。すぐに、取り出して清く洗って、奉火遠理命にそれを奉て祀ったときに、其の綿津見大神が誨(おしえて)言われました。
「此の鉤を其の兄に給う時に言う状(さま)は、『此の鉤は、淤煩鉤(おぼち)、須須鉤(すすぢ)、貧鉤(まぢち)、宇流鉤(うるぢ)』と云うて、後手にして、賜いなさい。然し而、の兄が高田を作ったら、汝じの命は、下田を營みなさい。其の兄が下田を作れば、汝命は高田を營見なさい。そのように爲せば、吾の掌の水であるから、三年之間には、必らず其の兄は、貧しくなり窮すであろう。若し、其のことを恨怨(うらん)で攻め戦うのであれば、鹽盈珠を出して溺らせ、若し、其のことを愁いて請(もう)須用であれば、鹽乾珠を出して活(い)かして、此の如く令惚(なや)まし、苦しめなさい」と云われました。

考えたこと
 『此の鉤は、淤煩鉤(おぼち)、須須鉤(すすぢ)、貧鉤(まぢち)、宇流鉤(うるぢ)』と云うて、後手にして、賜いなさい。
この部分は、気になるところです。「後手」を訳本では、「しりへで」と読ませて、注釈には、「人を呪うときの行為」とあります。本当でしょうか? なぜ、疑問に思うかといいますと、もし、呪いの言葉であるとしますと、「この針は、おぼ針、すす針、貧針、うる針」だぞと言ったことになります。なんのことか、さっぱり判りません。倉野氏は、心のふさがる針、心のたけり狂う針、貧乏な針、愚かな針と書いておられます。原文をみてください。【於煩及須須。亦宇流六字以音】このように書いてあります。漢字には意味はなく、音だけですよと、断ってあるのに、「貧鉤」を「貧乏な針」と訳しておられます。貧乏な針、愚かな針とは、どういうことでしょうか? この針を持った人は、貧乏になる、愚かになるということでしょうか? 私はもし、呪いの言葉であるのであれば、聴いた相手が、何のことか判らないので、気味が悪くなって、気になって仕方が無いようになると思うのですが・・。
「後手」も手を後ろにやってでは翻訳は間違っているのでしょうか? 「後手」は、前に手をやる動作です。手を前にしますと、姿勢は自然と前屈みになります。手を擦ると揉み手になります。後ろ手にすると、自分ですると、姿勢は良くなり、堂々として見えます。この状態で、紐でくくられると犯罪者になります。自信満々で、言いなさいということではないでしょうか?
ところが、判らなかったのは、私ばかりではなく、日本書紀の作者も判らなかったようです。日本書紀の作者が正しいと思っている内容は、別書の部分ではない、はじめのところに書いてあります。ここには、「この釣鉤を兄上にお渡しになるときは、そっとこの釣鉤に『貧鉤(貧乏になるつりばり)と言っておあげなさい』と言っておあげなさい」と書いてあります。是であれば、意味がよく判ります。「淤煩鉤、須須鉤、貧鉤、宇流鉤」の4つが書いてあるのに、何故、貧鉤しかないのか? 古事記が間違いで日本書紀が正しいのかと思いきや、日本書紀は、ある一書には、「貧鉤、滅鉤、落薄」とあると書き、ある一書には、「大鉤、踉?(足+旁鉤、貧鉤、痴騃鉤」と書かれています。後者は、きっと、古事記のことだと思います。「淤煩鉤、須須鉤、貧鉤、宇流鉤」と同じ、4つあり、順序も同じです。宇流鉤は痴騃鉤と変換するのは判りません。宇流鉤はウルヂでしょうが、痴騃鉤をウルヂと読ませるのは、無理でしょう。しかし、井上光貞氏の訳本では、ウルケヂとして、意味は(おろかもの)としています。
それにして、内容は陰湿ですね。天皇家といえども、この様に呪いながら、自分が生き残ろうとしたということでしょう。日本書紀を書いた漢人も、自分達の都合の良いように書き、籠神社の人たちは『丹波国造本記』に記録として残し、物部氏の人たちは、自分達の書いたものや、古事記などを参考にして、先代旧事本紀に残したのではないでしょうか?

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2005.10.30

古事記を読む  海神の宮訪問 –2

No146
原文
故隨教少行。備如其言。即登其香木以坐。爾海神之女豐玉毘賣之從婢。持玉器將酌水之時。於井有光。仰見者。有麗壯夫吉【訓壯夫云袁登古下效此】以爲甚異奇。爾火遠理命見其婢。乞欲得水。婢乃酌水。入玉器貢進。爾不飮水。解御頚之璵含口。唾入其玉器。於是其璵著器。婢不得離璵。故璵任著以進豐玉毘賣命。爾見其璵。問婢日。若人有門外哉。答曰。有人坐我井上香木之上。甚麗壯夫也。益我王而甚貴。故其人乞水故奉水者。不飮水。唾入此璵。是不得離。故任入將來而
獻。
翻訳
そこで、教えに隨って少し行くと、其の言った如く備っていました。すぐに、其の香木(かつら)に登って坐ますと、ここに、海神の女の豐玉毘賣の從婢(まかだち)が玉器を持って、將に、水を酌もうとした時、井に於いて光が有りました。仰ぎ見れば、麗わしい壯夫(をとこ) 有りました。甚だ異奇(あや)しと以爲(おも)った。ここに、火遠理命、其の婢を見て、水を得ることを欲すると乞いました。婢はすぐに、水を酌んで、玉器に入れて貢進(たてまつ)りました。そこで、水を飮まないで、御頚の璵(たま)を解いて口に含んで、其の玉器に唾き入れました。是に於いて其の璵は、器に著いて、是を璵は離すことができなくなりました。そこで、璵に著けるに任かせて豐玉毘賣命に以って進(たてまつ)りました。ここに、其の璵を見て、婢に問い申しました「若し、人、門の外に有哉」答えて曰しますに、「人が有ります。我が井の上の香木(かつら)の上に坐す。甚(いと)麗しき壯夫(をとこ)也。我が王に益(して)甚貴し。故、其の人、水乞うと 故水を奉まつれば、水を飮まないで、此の璵を唾き入れました。是れ得離さず。故 入れるに任かせて、將に來て獻てまつりました」といいました。
原文
爾豐玉毘賣命思奇。出見。乃見感目合而。白其父曰。吾門有麗人。爾海神自出見。云此人者天津日高之御子。虚空津日高矣。即於内率入而。美知皮之疊敷八重。亦[糸施-方]疊八重敷其上。坐其上而。具百取机代物爲御饗即令婚其女豐玉毘賣。故至三年住其國。
翻訳
そこで、豐玉毘賣命 奇(あやしい)と思って、出て見て、乃(すなわち)見感(みめ)でて、目合(まぐわい)して、其の父に申しました。「吾が門に麗しき人が有ります。海神が自から出て見て、「此の人は天津日高の御子、虚空津日高です」といいました。 即、内に率いて入って、美智の皮の疊を八重に敷き、亦[糸施-方]( きぬ)疊八重に其の上に敷き、其の上に坐って、具百取の机代の物を具えて、御饗を爲して、即、令婚其の女豐玉毘賣を婚いするように命令した。

考えたこと
豐玉毘賣の從婢が、水を汲もうとして、なぜ玉器に汲もうとしていたのか判りません。単に入れ物なのでしょうか? 山幸彦は、首に巻いていた璵を首から外して口に含み、貰った水は飲まないで玉器に入れた。そうすると璵がくっついて取れなくなった。確かに不思議な現象ですが、それがどうしたのでしょう。山彦はそんな不思議な術をもっていたということでしょうか?
その不思議さゆえに、山彦は豐玉毘賣と出逢うことになり、結婚することになります。

わたしが一番、気になったところは、「美智の皮の疊を八重に敷き、亦[糸施-方]( きぬ)疊八重に其の上に敷き」の部分です。豐玉毘賣の一族は、美智の皮を獲って、絹の敷物を作る技術があったということです。
海幸彦と山幸彦の話は、はじめから、もやもやするものがあります。古事記の作者は、海の中の物語にする必要があるから、海の宮へ行ったことにしました。その理由がわかりません。本当に、海の中のことであれば、おかしいです。これに似た話に、浦島太郎が、助けた亀に連れられて竜宮城へ行った話があります。こちらの住民は、鯛やヒラメが舞を舞ってくれたことになっていますから、海動物です。住民である美智(アシカと翻訳本にあります)を皮にして敷物にするのはおかしいです。

このように考えると、古事記の作者は、山幸彦(火遠理命)が、海の宮の住民と関係があったことを書きたかったが、正面から関係があったと書きたくなかったのかも知れません。

その浦島太郎の伝説は、全国あちこちにありますが、丹後半島の伊根町に浦嶋神社があります。この神社は825(天長2)年に創建された古社。『丹後国風土記』に登場する浦嶋伝説の舞台と伝わる神社です。
このすぐ、近くに籠神社があります。この神社の祭神は、彦火明命です。この神社の歴代神主である海部家のことを書いた「勘注系図」に次のような記事が書かれています。

「一本にいう、『丹波国造本記』に、彦火明命は正哉吾勝勝也速日天押穂耳尊の第三番目の子である。兄の火闌命(ホノスセリ)は海の幸をとるのが上手だったので海幸彦とよんだ。弟の火明命は、又の名を彦火火出見尊といったが、山の幸をとるのが上手だったので山幸彦と呼んだ」と書かれていると書いています。このように書いたということは、海部宮司家は、正しいと思っているから「勘注系図」に入れたことになります。
ところが、古事記では、天忍穂耳命の子供は、二人で、ニニギ命(弟)と天火明命(兄)で、ニニギ命とコノハナサクヤ姫との間に生れた子供が、火照命(海幸彦)、火須勢理、火遠理命(山幸彦)です。両者の記録では、山幸彦は一代違いますが、両方とも、天皇家に直結しているのだと述べています。
この奇怪な海幸山・山幸彦の話は、古事記独占の話ではないことになりますが、籠神社に残る海部氏本系図は、870代に記録されたことが判っています。古事記が出来たのは、712年ですから、「勘注系図」は古事記を参考にしたかもしれません。

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2005.10.24

古事記を読む  海神の宮訪問

No145
原文
於是其弟泣患居海邊之時。鹽椎神來問曰。何虚空津日高之泣患所由。答言。我與兄易鉤而。失其鉤。是乞其鉤故。雖償多鉤不受。云猶欲得其本鉤。故泣患之。爾鹽椎神云我爲汝命作善議。即造无間勝間之小船。載其船以教日。我押流其船者。差暫往。將有味御路。乃乘其道往者。如魚鱗所造之宮室。其綿津見神之宮者也。到其神御門者。傍之井上有湯津香木。故坐其木上者。其海神之女見相議者也【訓香木云加都良】
訳文
ここに於いて その弟泣き患(うれ)いて海辺に居る時、鹽椎神(しおつちかみ)が來て問うて云いました。「何にして虚空津日高(そらつひこ)の泣き患れう所由(ゆえ)は」といいますと、答えて言いました。「我と兄は鉤を易えて、其の鉤を失いました。是に乞其の鉤を乞う故に、雖償多くの鉤を償うと雖えど受けてとりません。(兄は)『猶欲得其の本(もと)の鉤を得ることを欲すと云います』故に泣き患うています」と云いました。
ここに鹽椎神、「云我 汝の命の爲に善き議(はかりごと)を作ろうと云って、即ち、无間勝間(まなしかつま)の小船を造り、載其の船に載せて、教えて云いました。「我れ、其の船を押し流すと、差(やや)暫し往くと、將に味(うまし)御路(みち)が有ります。乃(すなわち)其の道に乘って往けば、魚鱗の如く造れる所の宮室()がある、其れは綿津見神の宮也」。其の神の御門に到りましたら、傍の井の上に湯津香木(ゆつかづら)が有ります。そこで、其の木の上に坐りますと、其の海神の女(むすめ)、見て相議(あいはか)りなさい」と言いました。

考察 今回も理解困難なところはありません。鹽椎神を翻訳者は「しおつちのかみ」と読ませています。どうしてこのように読むことが出来るのでしょう。
書くこともありませんから、少し、拘って見ます。
訳本の作者は、「潮路を掌る神の意であろう。書紀には塩土老翁とある」と書いています。文章を読みますと確かに、味(うまし)御路(みち)を教えてくれましたから、水先案内人の役をしていることになります。
「鹽椎神」の鹽は塩の旧の漢字です。椎の読みは、「ツイ、ヅイ、スイ」意読は「しい、うつ、つち」です。鹽も椎も意読されたのですから、漢字のもっている意味を解さないと間違っていることになります。「椎」は木とフルドリの合わさったものです。フルドリはずんぐりとした鳥だそうです。似た漢字には、脊椎、鉄椎、椎魯、すべてどっしりしたものに使われています。椎は木で出来て鳥の形をした木槌らしいです。塩椎は塩を作るときに木槌をつかったのでしょうか? 製塩をする人のことでしょうか? 
  日本書紀の作者は、古事記を見ながら、日本書紀を書こうとしていますが、「鹽椎神」の意味が判らなかったのだと思います。そこで、「塩土老翁」と書きました。椎が「つち」と読むからといって、「土」に置き換えたのでは、全く意味をなしません。
  判らないのであれば、そのままにして、読む人が好きなように読めばいいと思います。
  もう少し、拘りますと、日本書紀では、もう少し話しがすすみますと、海の中でまた、塩土老翁に出会います。今度は、「塩筒老翁」と書いてあります。その所為でしょう。日本書紀の翻訳者は、「塩土老翁」も「塩筒老翁」も「しおつつのかみ」と読ませています。こうなりますと、製塩をする人ではなくなります。
  日本書紀の作者も現代の学者も、古事記の作者に振り回されていることになります。
  太安万侶は、おおいに喜んでいることでしょう。
  このように書いている私は、輪をかけてチンプンカンプンです。どうして、太安万侶は、海の中の宮を書かなくてはならなかったのでしょう。
  これと同じパターンが、どこそこの国にあるから、そこから導入したのだという研究が必ずあると思います。しかし、その場合はそれでおしまいです。無理に推し進めますと、太安万侶は、その国を旅行して話しを聞いたとか、その国からやって来た人に聞いたぐらいです。
   もう一つ気になることがあります。「无間勝間」を「まなしかつま」と読ませています。これまた、なんのことか判りません。「无」は「ない」という意味です。「あいだがない、あいだがかつ」らしいです。
  これに相当する話しが、日本書紀にあります。「大目麁籠」一説には、「無目堅間」に火火出見尊を入れて海に沈めたと書いています。面白いですね。日本書紀は水がじゃじゃ漏れの籠を作って、沈めた。硬い目でない小船を作って乗せたから沈んで、海の中に入って行ったことになっています。どうして、海の中の物語になるか辻褄の合うように試みています。
ところが、古事記は、「无間勝間」の船を作って載せたとあります。ということは、船は木製や石製ではなくて、葦などで編んだ船だということです。
  これは、ペルーの湖の上に、葦の島を作って住んでいる人が、葦の船で移動しているのを見ましたから、葦の船は、ここに出てきてもおかしくないことになります。
   海神の宮訪問のところを読み始めてから、ずっと気になっていることがあります。どうして、海の中の話でないといけないのかと云うことです。たとえ、似たような話が、外国にあったとしても、火照命と火遠理命のことを知らせるのに、このようなわけの判らないことを書かなければならなかったかと云うことです。
  本当は、ずばりと書くと、関係者は暗殺されることになり、古事記も燃やされてしまうことになったのでしょう。この部分は量が多いだけに、太安万侶としては、どうしても書き残したかったことだと思います。
 これは、丹後半島の籠神社のことを書いたのではないでしょうか? 籠神社から海岸に沿って北東に進みますと、伊根町があります。ここには、浦島太郎の伝説がのこっており、浦嶋神社があります。太安万侶は、籠神社と浦島太郎の伝説を織り込んで、火照命と火遠理命のことを伝えようとしたのではないでしょうか?

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2005.10.17

古事記を読む  海幸彦と山幸彦

No144
原文
故火照命者爲海佐知毘古【此四字以音。下效此】而。取鰭廣物。鰭狹物。火遠理命者。爲山佐知毘古而。取毛麁物。毛柔物。爾火遠理命謂其兄火照命。各相易佐知欲用。三度雖乞不許。然遂纔得相易。爾火遠理命以海佐知釣魚。都不得魚。亦其鉤失海。
於是其兄火照命乞鉤曰。山佐知母。己之佐知佐知。海佐知母已之佐知佐知。今各謂返佐知之時【佐知二字以音】其弟火遠理命答曰。汝鉤者。釣魚不得一魚。遂失海。然其兄強乞徴。故其弟破御佩之十拳劍。作五百鉤。雖償不取。亦作一千鉤。雖償不受。云猶欲。得其正本鉤。
翻訳
火照命(ホデリノミコト)は海佐知毘古(ウミノサチヒコ)として、鰭(ハタ)の廣物を取り、鰭の狹物を取り、火遠理命(ホオリノミコト)は、山佐知毘古(ヤマノサチヒコ)として、毛の麁物(アラモノ)、毛の柔物(ニコモリノ)を取られました。ここに、火遠理命、その兄の火照命に、「各佐知(サチ)を相い易(カ)えて、用いることを欲する」と謂いて、三度乞いて雖えども許しませんでした。然し、遂に纔(ワズ)かに、相易えることとなりました。ここに、火遠理命は以海サチ用の針で魚を釣りましたが、全く、魚を得ることはできなくて、釣針を海で失いました。
そこで兄の火照命は鉤を乞うて言いました、「山サチも。己之サチサチ。海サチも。已之サチサチ。今は各サチを返そう」と謂う時に、其の弟の火遠理命は答えて言われるには、「汝の鉤は、魚を釣ろうとして一匹の魚も得ずで、。遂に海に失った」と言われた。然し、其の兄は強く戻すように攻めた。そこで、弟は御佩の十拳劍を破りて、五百の鉤を作って、償いたいと雖えども、取らなかった。亦一千の鉤を作って、。償ぐなうと雖えども受けとらなかった。「猶其の正本(モト)の鉤を得たい」と言いました。
考えたこと 
① どうして、お互いの道具を取り替えなければならないのか判りません。佐知(サチ)を相い易(カ)えて、用いることを欲するとありますから、お互いの幸を交換するのであれば、判りますが、道具を変えたからといって、上手く取れるわけがありません。弟の火遠理命は、兄のものがほしがったということでしょうか?
② ②「山サチも。己之サチサチ。海サチも。已之サチサチ。今は各サチを返そう」の部分が意味不明。

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2005.10.10

古事記を読む  木花佐久夜毘売は富士山麓へ

No143
古事記では、木花の佐久夜毘売でNo142登場して終わりです。そこで全く別の角度から
木花佐久夜毘売のその後、探ってみます。
ニニギ命が、伯耆の久米郡、高千穂に遷都したのは、紀元前150年頃とおもわれますが、その頃漢の武帝は周囲の国々に勢力を広げていた時代で、お金が必要ですから、わが国に大量の漢族を潜入させて絹の収奪をしていました。なぜそうかといいますと、この時代の漢鏡の出土数が多くなるからです。
それに対して、ニニギとニニギの父である天忍穂耳命は、九州に進出しました。天忍穂耳命は遠賀川の源の英彦山に移っています。また、二人を祭る神社が嘉穂郡、鞍手郡、田川郡、遠賀郡、京都郡から14座見つかります。
このころ、天照大御神、丹波に遷都し、全国に水田を普及させようとしました。
あまりにも、東西に忙しくなったためか、天照大御神は静岡に多くの苗族を入植させました。そのときの指導者が、木花佐久夜毘売です。
No142の最後に、「なんだか すっきりしません」と書きましたが、本当は、古事記には、この後に木花佐久夜毘売が静岡県へ行きましたという一言ぐらいが書かれていたのではないでしょうか?
富士吉田市上吉田に、北口富士浅間神社があり、木花開耶姫命が、祀られています。
二人で輿入れしたが、容貌が悪いために、父親のもとに返された石長比賣は、その後、応援に派遣されたのでしょうか?
富士吉田登山口五合目の小御嶽神社に祀られています。祭神名は、磐長姫命です。
木花開耶姫命と磐長姫命に注目してください。これは、日本書紀に書かれている漢字です。どのように読まれていたのでしょう。古事記では、木花佐久夜毘売と石長比賣です。どの翻訳本でも、前をコノハナサクヤヒメ、後ろをイワナガヒメと読んでいます。本当は、同じように読んだかもしれませんが、古事記に書かれている木花佐久夜毘売は、後の世の人には、知られたくないものですから、日本書紀の作者は、苦労して書き換えました。書き換えたのに、現場の神社の記録に、木花佐久夜毘売と書かれていますと困りますから、北口富士浅間神社と小御嶽神社では、祭神を日本書紀と同じになるように書き換えました。書き換えたときがいつか判りませんが、その時は、木花佐久夜毘売の勢力圏ではなく、漢人の勢力範囲であったことになります。
静岡の地図をごらんください。苗族が入植した証拠に、田に関する地名がいっぱいです。
ここには、木花佐久夜毘売の父も一緒に出動したのでしょう。大山祇命を祀った神社が、伊豆国に102座、駿東郡の富士山東に48座、富士川流域に60座、安部川流域に26座、大井川流域に14座、遠近国に109座残っています。

勿論、この人たちばかりではありません。絹をめぐって、建御名方神を祀る諏訪神社も、134座あります。反対勢力の速須佐男命を祀った神社も519座ありますから、これらの数字が、そのまま、当時の勢力を現すものではありませんが、争いが当然起こり、古墳の数が多いことの説明ができます。
あらすじを書きましたから、このような話は信じられないと思われるでしょう。騙されたと思って、静岡県の神社と福岡県の神社を全部書き出して調べていただければいいと思います。そして、その後で、両方の神社がどのような所にあるか、自分の足で回られますと、当時の彼等が、ある山を挟んで、いがみ合っていた姿などが目に浮かぶのではと思っています。
私は全部していませんから、結果を教えてください。

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2005.10.08

古事記を読む 木花の佐久夜毘売 その2

No142
原文
爾大山津見神因返石長比賣而大恥。白送言。我之女二並立奉由者。使石長比賣者。天神御子之命。雖雪零風吹。恆如石而。常堅不動坐。亦使木花之佐久夜毘賣者。如木花之榮榮坐。宇氣比弖【自宇下四字以音】貢進。此令返石長比賣而。獨留木花之佐久夜毘賣。故天神御子之御壽者。木花之阿摩比能微【此五字以音】坐。故是以至于今。天皇命等之御命不長也。
翻訳
 ここに、大山津見神、石長比賣を返すに因りて、大いに恥じて、白うし送って言いました。
「我の女を二人並べて立て奉った理由は、石長比賣を使われるならば、天つ神の御子の命は、雖雪が降っても風が吹いても、恒に岩の如く、常に堅くて動かすことができない。また、木花之佐久夜毘賣を使わしたら、木の花の榮えるが如く榮えるでしょう」と貢進りました(進言)。そこで、石長比賣を返えすようにして、ひとり木花之佐久夜毘賣を留めました。「故天つ神の御子の御壽は、木花の阿摩比能微(あまひのみ)坐す」と言いました。是を以って今に至るまで、天皇命(すめらみこと)等の御命は長くなくなりました。


故後木花之佐久夜毘賣參出白。妾妊身。今臨産時。是天神之御子。私不可産故請。爾詔。佐久夜毘賣。一宿哉妊。是非我子。必國神之子。爾答白。吾妊之子。若國神之子者。産不幸。若天神之御子者幸。即作無戸八尋殿。入其殿内。以土塗塞而。方産時以火著其殿而産也。故其火盛燒時所生之子名。火照命【此者隼人阿多君之祖】次生子名。火須勢理命【須勢理三字以音】次生子御名。火遠理命。亦名天津日高日子穗穗手見命【三柱】

後に木花佐久夜毘売、参り出て申されるには、「私は妊身(はら)んでいますが、今産む時に臨(な)りました。この天つ神を父とする御子を、私は産んではいけないでしょうか。請(もう)す。」ともうしました。そこで詔りたまわれますのに、「佐久夜毘売よ、一宿にや妊んだからには、これ我が子ではないだろう。きっと、国つ神の子であろう」とのりたまひき。そこで答えてもうされますには、「吾が妊みし子、若(も)し国つ神の子ならば、産むときに上手くいかないであろう。若し天つ神の御子ならば、幸ちとなるだろう」ともうして、即ち戸無き八尋殿(やひろどの)を作りて、其の殿の内に入り、土をもって塗り塞ぎて、産む時にさいして、火を其の殿に著けて産みました。故、其の火の盛りに燃える時に生める子の名は、火照(ほでりの)命。此は隼人(はやと)阿多君の祖。次に生める子の名は、火須勢理(ほすせりの)命。次に生める子の御名は、火遠理(ほをりの)命。亦の名は天津日高日子穂穂手見(あまつひこひこほほてみの)命。

考えたこと
① 話しの流れが違いますので、上下に分けました。上は上で一つの話しになっています。何故、天皇の寿命が短くなったかが判ります。しかし、前後の文と繋がりがありません。古事記がつくられた頃、それぞれの人たちは、自分の都合の良いように,天皇の寿命を定めて、辻褄があうように、自分達の先祖のことを語っていたのでしょうか? みなさん、それは間違っていますよ。最近の天皇は、もっと短くなっていますよとの警告なのでしょうか?  
② ①のように受け止めますと、下の部分は、最近、火照命は、本当の天皇の子ではないという噂があるが、決して、そのようなことはありません。佐久夜毘売は命をかけて、子供を産まれたのですよ。一夜の褥では、当時、妊娠しないと思われていたのでしょうか?
③ 二人の子供に何故「火」がついているか、その理由を付けたしたのでしょうか? 

と言う次第で、火須勢理命と火遠理命の話しをいたしましょうと次に進むことになるでしょうか? 海幸彦と山幸彦の物語になります。         なんだか、すっきりしません。

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2005.10.02

古事記を読む  木花の佐久夜毘売

No141
原文
 於是天津日高日子番能迩迩藝能命於笠紗御前遇麗美人。爾問誰女。答白之。大山津見神之女。名神阿多都比賣【此神名以音】亦名謂木花之佐久夜毘賣【此五字以音】又問有汝之兄弟乎。答白我姉石長比賣在也。爾詔。吾欲目合汝奈何。答白僕不得白。僕父大山津見神將白。故乞遣其父大山津見神之時。大歡喜而。副其姉石長比賣。令持百取机代之物奉出。故爾其姉者因甚凶醜。見畏而返送。唯留其弟木花之佐久夜毘賣以。一宿爲婚。

翻訳
 ここに於て、天津日高日子番能迩迩藝能命(ニニギの命)は、笠のように見える砂浜の岬で麗美人に遇いました。そこで「誰の娘か」と問いますと、答えて申すには、「大山津見神の娘。名は神阿多都比賣、亦の名は木花之佐久夜毘賣」と申しました。又「汝の兄弟は有るか」と問いますと、「我が姉、石長比賣が在り也」と答え申しました。ここに詔りたまわれて、「吾は目合うことを欲するが、汝は奈何に」と。「僕は申すことはできません。僕の父の大山津見神が將に白うすでしょう」と答え申しました。故、その父大山津見神に乞い遣わした時、大いに歡喜して、其の姉の石長比賣を副えて、百取机代之物を持つように命じて、奉てまつり出しました。
しかし、その姉は甚だ凶醜(醜い)ので、見畏仕込みて送り返しました。唯その弟木花之佐久夜毘賣を留めおいて、一宿結婚されました。

考えたこと
① 久しぶりに、意味が判る文章に出くわしました。
② 天津日高日子番能迩迩藝能命の天津は血筋を述べています。 次の日高は出身の地名と思うのですが、伯耆の国に見つかりません。日子は男子であることを現す、彦でしょうか?次の番能がわかりません。その内に閃くかもしれませんから、このままにしておきます。
③ 神阿多都比賣には、「神」が付いていますから、ユダヤ出身であることを伝えたかったのでしょう。
④ 『古事記』では大山津見神、『日本書紀』では国津神の大山祗神(おおやまつみのかみ)と記されています。大山津見神は誰でも読むことが出来ますが、大山祗神では読むことができません。日本書紀は古事記を見てではなく、古事記を書き換えようとしたことが、このような事からでも推察できます。
⑤ 百取机代之物がよく判りませんが、生活に必要なものを用意したのでしょう。
⑥ 木花之佐久夜毘賣という別名がどうして必要であったか???

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2005.09.30

古事記を読む  猿女の君

No140
原文 
 故爾詔天宇受賣命。此立御前所仕奉猿田毘古大神者。專所顯申之汝送奉。亦其神御名者。
汝負仕奉。是以猿女君等。負猿田毘古之男神名而女呼猿女君之事是也
訳文
 ここに天宇受賣命に詔りたまいしく、「この御前(みさき)に立ちて仕へ奉りし猿田毘古大神は、專ら顯わし申せし汝(いまし)送り奉れ。また、その神の御名は、汝負いて仕へ奉れ」とのりたまいき。ここをもちて猿女君等、その猿田毘古の男神の名を負って、猿女君と呼ぶ事これなり。

考えたこと
① この二行の文の主語はなにでしょうか? 猿田毘古大神が何者であるかを天宇受賣命に聴きにやらしたのは、天照大御神と高木神です。ここも同じでしょう。たま、「御前」は、天照大御神の御前であれば、「おんまえ」でしょうが、この前の部分に「岬」の意味が使われていますから、岬でしょう。猿女君等の「等」の意味がわかりません。この部分全体が、前の文章と全く繋がりません。天宇受賣命に猿田毘古大神を送っていくように命令しています。どこへ送って行くのでしょうか? 意味が繋がりません。意味がつながらないということは、間の文章が抜けているのでしょう。抜けているのに、辻褄が合うように訳するととんでもない間違いをします。解らないままの方が正確だと思います。もう一度、私なりの訳を書きます。
天照大御神と高木神は、天宇受賣命に云われました。「この岬に立って仕え奉っている猿田毘古大神は、專ら明らかに申すようにした汝が送り奉りなさい。また、其神御名は汝が責任を負うてこれからも猿女君等に仕え奉りなさい」 猿田毘古の男神名を負うて 女(天宇受賣)を猿女君と呼ぶ事の是理由です。

原文
故其猿田毘古神坐阿邪訶【此三字以音。地名】時。爲漁而。於比良夫貝【自比至夫以音】其手見咋合而。沈溺海鹽。故其沈居底之時名謂底度久御魂【度久二字以音】其海水之都夫多都時名謂。都夫多都御魂【自都下四字以音】其阿和佐久時名謂阿和佐久御魂【自阿至久以音】

訳文
 さて、其の猿田毘古神が阿邪訶(あざか)に坐ましたとき、漁をしていると、比良夫貝に、その手を食われて、海で溺れ沈んでしまいました。その時底に沈んでいる時の名を底度久(どく) 御魂といい、
底どく御魂=そこどくみたまといい、海水に立つ泡の名をつぶたつ御魂といい、その泡の裂けるときの名をあわさく御魂という。
考えたこと
① この部分は、この前の文章となんら関係ありません。意味不明です。前後になにか文章があったのでしょう。
② この部分は、日本書紀にはありません。猿田毘古神のことは書いてありません。猿田毘古神の変わりに、岐神(ふなとのかみ)のことが書かれています。日本書紀の作者は、猿田毘古神のことは書きたくなかったようです。
③ 書きたくないのであれば、書かなくてもいいのですが、古事記に書いてあるので、この文を入れることによって、古事記はなにを言いたいのかわからなくしただと思います。このように書きながら、なんだか最近の自分は、少々ひねくれているなとも思っています。しかし、考えるほど、私の推理は正しいような気になります。


於是送猿田毘古神而。還到。乃悉追聚鰭廣物。鰭狹物以。問言汝者天神御子仕奉耶之時。諸魚皆仕奉白之中。海鼠不白。爾天宇受賣命謂海鼠云。此口乎。不答之口而。以紐小刀拆其口。故於今海鼠口拆也。是以御世嶋之速贄獻之時。給猿女君等也。

翻訳
ここにおいて、猿田毘古神を送って還(かえり)到りました。
(猿女の君は) 鰭廣物、鰭狹物を集めて、「お前達は天つ神の御子に仕え奉る?」問うた時に、
諸魚の皆が仕て奉つると言う中で、海鼠(なまこ)は答えなかった。天宇受賣命は海鼠に
「この口は、答えられぬ口か」といい、海鼠の口を小刀で切り落としてしまった。
現在、海鼠の口が裂けているのはそう言うわけである。
このことがあって、この後ずっと、海からの貢物は猿女の君等が賜るようになった。
考えたこと
① この部分は、筋が通っています。
② ただ、どこへ送って行ったか書かれていません。本当は書いてあったのでしょう。阿邪訶という地名が、伊勢らしいですから、猿田毘古神の役目が終ってから、伊勢に送っていったということでしょう。そして、二人は結婚をして、伊勢神宮で、海からの献上物を扱っていた??

こんなストーリにしますと、全体の流れはよくなります。

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2005.09.28

古事記を読む 天孫降臨---2

No139
故爾詔天津日子番能迩迩藝命而。離天之石位。押分天之八重多那【此二字以音】雲而。伊都能知和岐知和岐弖【自伊以下十字以音】於天浮橋宇岐士摩理蘇理多多斯弖【自宇以下十一字亦以音】天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣【自久以下六字以音】故爾天忍日命、天津久米命二人取負天之石靭。取佩頭椎之大刀。取持天之波士弓。手挾天之眞鹿兒矢立御前而仕奉。
故其天忍日命【此者大伴連等之祖】天津久米命【此者久米直等之祖也】於是詔之。此地者向韓國。眞來通笠紗之御前而。朝日之直刺國。夕日之日照國也。故此地甚吉地詔而。於底津石根宮柱布斗斯理。於高天原氷椽多迦斯理而坐也。
翻訳
ここに天津日子番能迩迩藝命に詔りたまひて、天の石位(いはくら)を離れ、天の八重たな雲を押し分けて、イツのチワキチワキて、天の浮橋にウキジマリタタシテて、竺紫の日向のの高千穗のクジフルタケに天降り坐した。ここに天忍日命、天津久米命の二人、天の石靭(いわはぎ)を取り負い、頭椎(くぶつち)の大刀を取り佩き、天の波士(はじ) 弓を取り持ち、天眞鹿兒矢(あまのまかこや)を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。
その天忍日命〔これは大伴の連の祖〕天津久米命〔これは久米直等の祖なり〕ここに詔りたまいて、「この地は韓國に向いて、笠紗の御前を眞來(まき)通って、朝日の直刺(たださ)す國、夕日の日照國なり。故此地甚(いと)吉(よ)き地」詔りたまいて、於底つ石根に宮柱フトシリ、於高天原に氷椽(ひぎ)タカシリて坐(いま)すなり。

考えたこと
① 古事記の初めのところに、「天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神【訓高下天云阿麻下此】」という文章があります。
私流に読みますと、「天(テン)と地ができて初めのころ、高天原に、成し遂げながら(平定しながら)やってきた神の名は天之御中主神(テンノミナカヌシ)です。
【訓高下天云阿麻下此】の部分は、註です。高天原の「高」の次の「天」は「阿麻アマ」とい読むように、以下同様ですとでもなるでしをょうか?
その少し後のところで、国を作るときに、「天つ神諸の命が、「天の沼矛」を渡して」という文章があります。この部分は註が有りませんから、この部分の天という字は、テンと読むのだと思います。テン(滇)から持参した沼矛という意味になります。
この号には、いっぱいの「天」があります。書き出しますと、天津日子番能迩迩藝命、天の石位、天の八重たな雲、天の浮橋、天忍日命、天津久米命、天の石靭、天の波士弓になります。
三つにぶんるい出来ます。人名、高天原の光景、道具です。人は天孫族をあらわすと思います。天津の人が住む高原を高天原といい、その中の字はアマと読むようにと註がありましたから、人名も高天原の光景も「アマ」と読むのだと思います。道具は、滇からの持参の品で、「テン」と読むのだと思います。
② 「イツのチワキチワキて、天の浮橋にウキジマリタタシテて、竺紫の日向の高千穗のクジフルタケに天降り坐した」の部分は意味不明です。岩波文庫では、カタカナの部分を漢字に直して、「稜威の道別き道別きて、天の浮橋にうきじまり、そり立たして、竺紫の日向の高千穗のくじふる嶺」と読んでいます。この部分の意味が日本書紀の作者も理解できなかったと見えて、「自?日二上天浮橋」(?の字は、木偏に患)とあり、いよいよ解らないことが書いてあります。古事記の作者はしてやったりと喜んでいるでしょう。なにかが隠されているのだと思います。クジフルタケを倉野氏は、くじふるという名前の山だと解釈しておられます。くじ触峰という山の名前なども日本書紀には見えますが、益々理解困難な文章になっています。日本書紀の作者は、消すわけにも行かず、苦心した跡を見ることが出来ます。この部分宿題です。
③「竺紫の日向の高千穗の」の表現は、古事記において、イザナギが、黄泉の国から逃げ帰って、禊をするシーンにも出てきます。
「到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐【此三字以音】原而」多くの書物では、この文章は、筑紫の日向の橘小門という所の阿波岐原と、すべて地名をならべたものと解釈しています。現在では、地名のない所など無いほど、山の中でも地名が付いていますが、当時は、地名など殆ど無かったと思われます。あちこちを調査して回った稗田阿礼は、地名のないところでは、その場所を言葉で表現したと思われます。
竺紫は尽くすところです。大山は、当時ブナで覆われていました。麓に来るとブナ林は尽きて石ころが多いところになります。そして、日当たりの良い、橘の木が門のようになったところを潜ったところに展開する阿波岐原となり、どこにも地名はありません。
④ どのような所に降臨したかといいますと、勿論地名はありませんでした。そこで、詳しく説明しています。「この地は韓國に向いて、笠紗の御前を眞來(まき)通って、朝日の直刺(たださ)す國、夕日の日照國なり。故此地甚(いと)吉(よ)き地」
この土地は、韓国に向いています。(日本海に面しています)  笠紗は、笠の形をした砂地の岬(御前)が真北にあって、朝日の直ぐに刺す國、夕日の日照國です。

鳥取県大栄町に高千穗という地名があります。ここから、大山を見ますと、いっぱい尖った部分が見えるところだから地名が付けられたと思われます。この位置に立って、この土地を表現しますと、韓国に向かっており、北には北条砂丘があります。砂山は笠のように見えますから、笠砂です。ニニギは、ヒルゼン高原にいました。ここは、千メートル級の山に囲まれた盆地ですから、朝日がでても、直ぐには、陽は刺してくれません。太陽が、西に傾くと山に隠れて夕日が照る景色は全く見られません。蒜山高原に住んだものでないと判らないことです。稗田阿礼は、蒜山高原の住民でした。800年ほど前のニニギは、きっと、「故此地甚(いと)吉(よ)き地」と云ったであろうと、稗田阿礼は代弁しただと思います。
高千穂のあるところは、昔は久米郡といいました。天津久米命が住んでいたところです。

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2005.09.24

古事記を読む 天孫降臨

No138
爾天兒屋命、布刀玉命、天宇受賣命、伊斯許理度賣命、玉祖命并五伴緒矣。支加而。天降也。於是副賜其遠岐斯【此三字以音】八尺勾璁鏡。及草那藝劍。亦常世思金神、手力男神、天石門別神而。詔者。此之鏡者專爲我御魂而。如拜吾前伊都岐奉。次思金神者取持前事爲政。
此二柱神者。拜祭佐久久斯侶。伊須受能宮【自佐至能以音】次登由宇氣神。此者坐外宮之度相神者也。次天石戸別神。亦名謂櫛石窓神。亦名謂豐石窓神。此神者御門之神也。次手力男神者坐佐那那縣也。故其天兒屋命者【中臣連等之祖】布刀玉命者【忌部首等之祖】天宇受賣命者【猿女君等之祖】伊斯許理度賣命者【鏡作連等之祖】玉祖命者【玉祖連等之祖】
翻訳
 ここに天兒屋命、布刀玉命、天宇受賣命、伊斯許理度賣命、玉祖命併せて五人の供が緒を支えて天降らしたまいき。ここにその招(お)きし八尺(やさか)の勾玉、鏡、草薙剣、又常世の思金神、手力男神、天の石門別神を副(そ)え賜りて、詔りたまいく、「この鏡はもはら我が御魂として、吾が前を拝(いつ)くがごとく斎きまつれ。次に思金神は前の事をとりもちて、政(まつりごと)をしたまえ」とのりたまいき。
この二柱の神はさくくしろ五十鈴宮に拝つき祭る。次に登由宇氣神(とようけ)。こは外宮の度相(わたらい)に坐す神なり。次に天の石戸別神。亦名は櫛石窓神(くしいわまど)と謂う。亦名は豐石窓神(とよいわまど)と謂う。此の神は御門(みかど)の神なり。次に手力男神は佐那那縣(さななかだ)に坐すなり。そして、その天兒屋命者【中臣連等之祖】。布刀玉命は【忌部首等之祖】
天宇受賣命は【猿女君等之祖】。伊斯許理度賣命は【鏡作連等之祖】。玉祖命は【玉祖連等之祖】。

考えたこと
① 五伴緒がよく判りませんが、閣僚の長官ということになるでしょうか? この五人は、高天原において、スサノオが大暴れをしたときに、危険を感じたアマテラスが、天岩戸に避難する騒動がありました。そのときに、岩戸の前の会議に出席した人たちです。
この五人の長官を支えたのが、思金神、手力男神、天の石門別神の三人です。
「ここにその招(お)きし八尺の勾玉、鏡、草薙剣」この部分が、浮いてきます。意味が不明です。この前後になにか文があったと思われます。
五人の役割を書いておきます。
 天兒屋命---------占いと祝詞を上げる
布刀玉命---------占いと祝詞を上げるおよび 諸々の準備
天宇受賣命------ 舞踊
伊斯許理度賣命-- 鏡を作る
玉祖命---------- 玉作り
天岩戸の騒動のときは、アマテラスを岩戸から引き出すための作戦で、この五人が選ばれたのかと思いましたが、そうではなく重要人物であったことになります。
② 思金神、手力男神、天の石門別神は、その次に重要な補佐役です。
  思金神は、政を受け持ちます。
手力男神は、書いてありませんが、軍事を司るのでしょうか?
天の石門別神は、別名が櫛石窓神。豐石窓神と云う。仕事は御門(みかど)の神とありますから、御所の門を守る兵隊でしょうか?
③ 「この二柱の神はさくくしろ五十鈴宮に拝つき祭る。次に登由宇氣神。こは外宮の度相(わたらい)に坐す神なり」は重要な部分です。
   五十鈴宮は伊勢神宮の内宮のことだと思います。この二柱の神と書かれている神は、思金神、手力男神と思われます。登由宇氣神は外宮に祭られています。
   古事記に書かれていることは、神話だと云われていますが、神話に実際にある地名とか、神社の名前が出てくるのはおかしいことになります。ここに出てくる神は、ヒルゼン高原にある神社にすべて祭られています。実際にあった話をどうして、このように神話の形にしなければならなかったか考える必要があります。
④ ただ、変なところもあります。この天孫降臨は、紀元前150年のころのことです。この時に、伊勢神宮に思金神、手力男神、登由宇氣神が祭られていると書いてあること自体がおかしいです。誰かが、書き換えたのかもしれません。

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2005.09.18

古事記を読む  猿田毘古神

No137
原文 
爾日子番能迩迩藝命將天降之時。居天之八衢而。上光高天原下光葦原中國之神於是有。故爾天照大御神、高木神之命以。詔天宇受賣神。汝者雖有手弱女人。與伊牟迦布神【自伊至布以音】面勝神。故專汝往將問者。吾御子爲天降之道。誰如此而居。故問賜之時。答白。僕者國神。名猿田毘古神也。所以出居者。聞天神御子天降坐故。仕奉御前而。參向之侍。
翻訳
 ここに日子番能迩迩藝命將、天降りする時、天の八衢(ヤチマタ)に居て、上は高天原を光(テラ)し、下は葦原中國を光らす神 是れに有り。故ここに天照大御神、高木神の命を以(モ)ちて、天(アメ)の宇受賣神(ウヅメノカミ)に詔(ノ)りたまわれた。「汝は手弱女人(タワヤメ)で有ると雖えども、伊牟迦布神(イムカフカミ)と面勝神(オモカツカミ)なり。故 專(モ)はら汝往(イ)って將に問う、『吾が御子の天降りする道を 誰ぞ此の如くに居る』ととへ。」とのり賜いました。
故 問い賜いし時、答えて白しました。「僕は國つ神。名は猿田毘古神也。出で居る者所以(ユエ)は、。天つ神の御子天降り坐すと聞いた故に、仕奉御前に仕え奉てまつろうと、參い向え侍ぶらう」と。

考えたこと
①「故爾天照大御神、高木神之命以」この部分が重要です。迩迩藝命が降臨する現場にいないのに、どうして、天照大御神、高木神が判ったのか不思議ですが、天宇受賣神に聞きなさいと命令しています。その場所にいないときは、このように間接的に命令しています。では、どこにいたのかと言いますと、福知山へ行っていたはずです。
五人のお供の中の宇受賣神に依頼しました。宇受賣神は天岩戸の前で、踊った神です。この時の役目と今回とはつながりがありません。
②「居天之八衢而」八は数が多いときに使われますが、実際に八つに道が分かれているところがあるのかもしれません。これを指摘できれば、いよいよ、高天原と降臨の地・高千穂が確定できますが、スサノオが、八俣の遠呂智を退治したところが、横田町の八方に道が通じていた八俣でしたから、同じ「ヤマタ」ですから、単に道が分かれていて間違いやすいので、道案内に来たと受け取ってもいいかもしれません。
③大勢に関係ありませんが、天の宇受賣神は、手弱女人ではあるが、伊牟迦布神と面勝神の両方の性格を持っているので、適任者だと判断されたことになります。どのような性格でしょうか?
④猿田毘古神が重要人物ですが、だれの説を読んでもなるほどと思われません。私は仮定の話しですが、上は高天原を光(テラ)し、下は葦原中國を光らす神 とありますから、光と大いに関係があって、天津神ではないことは確かです。光輝きながら現われた人が外にもいます。それは大物主神です。この神も正体不明のところがありますが、奈良の大神神社の祭神で、崇神天皇のときにも天皇の上に立ち、命令を下しています。
私はユダヤ人だと思います。ユダヤ人は神武東征のときにも、天皇の応援をしています。ユダヤ人は、常に自分の居る位置を知る方法をもっていたのと、お金として当時通用していた絹を持っていました。 
田村誠一氏は、やちまたの様子を次のように表現されています。
「やちまたで高天原や葦原の中ツ国を原の中ツ国を猿田彦が光らしていました。が光らしていました。これは鏡を利用して通信が行われていたことです。古代に現代人が創造もできない、通信網が全国に出来ていました。この問題を解く一つの鍵が鉄を鍛えて作った鏡の利用と考えられます。
ここに出てくるやちまたは道が各方面に分かれている所で、れに該当する所は鏡成(カガミナル)です。道を間違わないために、原の中ツ国を猿田彦が光らしていました。が道案内を引き受けました。
これから一行は蒜山高原の明連川を遡り、鏡成を経由して高千穂に下ったことが分かり
ます。一行は天の浮橋すなはち雲海が出ている、早朝に出発し明ッ神が連れ立って遡った川は明連川と名付けられました。明連川の北側の山は擬宝珠山で、天の浮橋の欄干に由来に由来している地名です。地名は紀元前150年の大ロマンを教えてくれます。

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2005.09.16

古事記を読む  天孫の誕生

No136
原文
爾天照大御神、高木神之命以。詔太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命。今平訖葦原中國之白。
故隨言依賜。降坐而知看。爾其太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命答白。僕者將降裝束之間。
子生出。名天迩岐志國迩岐志【自迩至志以音】天津日高日子番能迩迩藝命。此子應降也。
此御子者御合高木神之女。萬幡豐秋津師比賣命。生子。天火明命。次日子番能迩迩藝命
【二柱】也。是以隨白之。科詔日子番能迩迩藝命。此豐葦原水穗國者。汝將知國。言依賜。
故隨命以可天降。
翻訳
ここに天照大御神、高木神の命以って、太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命(ヒツギノミコ マサカツアカツ カチハヤヒ アメノホシホミミノミコト)に詔り賜れた。「今、葦原中国を平(コトム)け訖(ヲ)へぬと白(モウ)せり。故(カレ)、言依(コトヨ)さしたまひし随(マニマ)に、降りまして知らせ。」とのりたまひき。ここにその太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、答へ白したまひしく、「僕は降らむ装束しつる間に、子生れ出でつ。名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニギシクニニギシ アマツヒコヒコホノ ニニギノミコト)ぞ。この子を降すべし。」とまをしたまひき。此の御子は、高木神の女(ムスメ)、万幡豊秋津師比売(ヨロズハタトヨアキツシヒメノ)命に御合(ミアイ)して、生みませる子、天火明命(アメノホアカリノミコト)。次に日子番能邇邇芸命なり。是(ここ)を以ちて白したまひし隨に、日子番能邇邇芸命に詔科(ミコトオホ)せて、「此の豊葦原水穂国は、汝(イマシ)知らさむ国ぞと言依さし賜ふ。故、命の隨に天降るべし。」とのりたまひき。

①「天照大御神、高木神の命以って、」という表現は、天照大御神が直接命令しないで、言い渡したことになるでしょうか? 天照大御神は高天原には居られなかったのではないでしょうか?
②どうして、このように名前が長いのでしょうか? 天忍穗耳命が呼び名で、前の部分は、説明でしょうか? 太子は「日嗣の御子」です。「後継者である正しく勝ち吾れにも勝ち勝ちぬいて太陽より速い天忍穂耳命」と書かれた字句を使って並べてみました。どうやら、素晴らしいことを三つの表現を並べて強調したのでしょうか? 後継者であるなにごとにも勝る天忍穂耳命に言われました。「葦原中国は平定された報告がありました。以前から命令していたように、降りて知らしめなさい」
③天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命は、一層長くなりました。天忍穂耳命よりもっと、素晴らしいことを言いたかったのでしょうか? お手上げです。邇邇芸命(ニニギノミコト)という名前にします。
④天忍穂耳命の子供は、長男の天火明命と次男の日子番能邇邇芸命が生まれたことになります。そして、次男の邇邇芸命が、天下り、豊葦原水穂国を治めるように命令されます。

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2005.09.14

古事記を読む  大国主神の国譲り その3

No135
原文
是我所燧火者於高天原者神産巣日御祖命之登陀流天之新巣之凝烟【訓凝姻云州須】之八拳垂麻弖燒擧【麻弖二字以音】地下者於底津石根燒凝而栲繩之千尋繩打延爲釣海人之口大之尾翼鱸【訓鱸云須受岐】佐和佐和迩【此五字以音】控依而打竹之登遠遠登遠遠迩【此七字以音】獻天之眞魚咋也。
故建御雷神返參上。復奏言向和平葦原中國之状。
訳文
 この我が燧れる火は、高天原には、神産巣日の御祖命のトダル天の新巣の凝烟(スス)の八拳垂れるまで燒き擧げ、地の下は底つ石根に燒き凝らして、栲繩(タクナワ)の千尋繩(チヒロナワ)打延(ハ)へ、釣を爲(シテ)いる海人(アマ)の口大(クチオオ)の尾翼鱸(ヲハタスズキ)、さわさわに、控(ヒ)き依(ヨ)せ而、打竹のとををとををに、天の眞魚咋(マナグヒ)を獻る。
といいました。
そして、建御雷神が參り上ってきて、葦原中國が和平に向かった状を復奏しました。

① 私には手に負えませんので、訳本の通りにかきましたら、著者には悪いですが、日本語になっていません。「の」をフト文字にしましたが、「の」が多すぎます。
② こうなるとここにある単語を使って意味が通るように、自分勝手に翻訳してみるしかありません。No134に出てきました赤土平甍は、書いてある以上どこかで使うのでしょう。これは、釣をして海人が捕らえた口の大きい、尾翼鱸を平皿に乗せて、さわやかに引き寄せて竹で順番に突き刺して、神に献上します。是を天之眞魚咋と云います。
③ 擦って起こした火を使って、高天原におられる神産巣日の御祖命を象徴する天の新しい住処を燻し固めてススが垂れるほど焼き上げます。地中に収まる底つ石根の部分も焼き固めます。そして、栲繩製の千尋もある長い繩でぐるぐる巻きにします。
④ そして、天之眞魚咋(特別の料理なのでしょう)をお供えするのを見届けて、建御雷神は、
 葦原中國の平和な様子を高天原に報告にもどります。

どうも翻訳になっていませんが、是ぐらいにして次にすすみます。

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2005.09.12

古事記を読む  大国主神の国譲り その2

No134
原文
如此之白而。乃隱也。故隨白而。於出雲國之多藝志之小濱造天之御舍【多藝志三字以音】而。水戸神之孫櫛八玉神爲膳夫。獻天御饗之時。祷白而。櫛八玉神化鵜。入海底。咋出底之波迩【此二字以音】作天八十毘良迦【此三字以音】而。鎌海布之柄作燧臼臺以海蓴之柄作燧杵而。鑚出火云。
訳文
このように申して、直ぐに隠れました。そのように申しながら、出雲國のタギシの小濱に天の御舍を造って、水戸神の孫である櫛八玉神を膳夫に爲して、天の御饗を獻する時に、祷(ホ)き白(モウ)して、櫛八玉神を鵜に化して、海底に入って底のハニ(赤土)を咋い出して、天の八十毘良迦(ヤソビラカ)を作って、海布の柄を鎌(カ)って燧臼(ヒキウス)に作って、海蓴(コモ)の柄でもって燧杵(ヒキリギネ)を作って、火を鑚(キ)出して云います。


例によって、訳の判らない解説を加えます。
① 出雲國のタギシの小濱 タギシは多岸でしょう。 しかし、そんな日本語あったのでしょうか? 少なくとも多藝志は、音だけだと書いてありますから、地名ではないはずです。
問題は小濱です。地名や人の名前に、小濱や大濱はあるのに、その意味となりますと、辞書に載っていません。濱が小さいということは、どういうことでしょうか? 遠浅の海岸ですと、小浜になるかもしれません。
② 「天の御舍を造って」とあります。訳本では、御舍を神殿としていますが、その後ろに続く文章が関係あるとしたら、神殿で天の御饗を獻するのは、いいのですが、用意もすべてするとなるとおかしいことになります。出雲退社のホームページには、三十二丈の建物の想像図が掲載されています。階段がずっと続き、その上に神殿があることになっています。そのような上に神殿がありますと、毎日、大変です。又、風があったら、建物は揺れていることになるでしょう。ただ、奈良の香具山の南方に大管大寺の礎石が残っています。七重の塔だったと言われ、礎石の大きさからみますと、100mの高さはあったと思われます。奈良の東大寺の七重の塔も然りです。700年代ですと、高さ100mのものは存在したし、塔で倒れた物は無いそうですから、天の御舍も七重の塔のようなものだったかもしれません。しかし、私は、そうではなく高い部分は青森の三内丸山遺跡の六本の柱のようなものだと思います。柱の太さは、三内丸山遺跡のものより、出雲大社のほうが太く、しかも出雲大社は、その柱が三本に束ねてありました。
③ 「水戸神之孫櫛八玉神爲膳夫」水戸神は、港を司る神でしょう。膳夫は炊事係りです。
④ 「祷白而」祷は祈祷の祷ですから、お祈りをしながら。
⑤ 「櫛八玉神化鵜」以下がよく判りません。どうして、お祈りをしていたら、櫛八玉神は鵜に化身できるのか。どうして、海底の赤土でなくてはならないのか。天の八十平甍はどうも重要なものらしいですが、なぜ急にでてくるか。  燧臼と燧杵も大切なのでしょう。

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2005.09.10

古事記を読む 大国主神の国譲り

No133
原文
故更且還來。問其大國主神。汝子等事代主神、建御名方神二神者。隨天神御子之命。勿違白訖。故汝心奈何。爾答白之。僕子等二神隨白。僕之不違。此葦原中國者。隨命既獻也。唯僕住所者。如天神御子之天津日繼所知之。登陀流【此三字以音。下效此】天之御巣而。於底津石根宮柱布斗斯理【此四字以音】於高天原。氷木多迦斯理【多迦斯理四字以音】而治賜者。僕者於百不足八十[土+冏]手隱而侍。亦僕子等百八十神者。即八重事代主神爲神之御尾前而仕奉者。違神者非也。

翻訳 そこで、更に還(カエ)って来て、その大国主神に問われました。「汝が子等、事代主神、建御名方神の二人の神は、天つ神の御子の命の隨(マニマ)に違わないと申している。汝の心は奈何(イカニ)」 と問われました。ここに答えて申しました。「僕の子等、二神の申すように、僕も違いありません。此の葦原中國は、命に随って既に獻る也。ただ僕が住む所は、天つ神の御子の天津日繼を知られるように、之登陀流(トダル) 天の御巣として底津に石根を使った宮柱を布斗斯理(フトシリ)、高天原に於いて、氷木たかしりて、治めたまはば、僕は百足らずの八十クマ手に隠れて侍(サブラ)っています。また、僕の子等である百八十神は、すなわち八重事代主神、爲神の御尾前となって仕え奉まつります。違反する神はありません」と申しました。

①「天津日繼」の意味が判りません。大国主神らが、天つ津神から引き継いでいるが判るように というぐらいの意味でしょうか? その後の文も意味が不明です。どうやら立派な社を建てるらしいですが、何故立派だと天つ津神から引き継いだことになるのか判りません。
②「とだる天の御巣として」も意味が判りません。岩波文庫の注釈では、「とだる」は「富み足る」の意味であると。または、安藤正次は琉球語のテダ(太陽)を活用させたテダルの転で、太陽の照り輝く意とすべきであろうと記しています。こんな話は専門家に任せるとして、文の流れからすると、
  一目見ただけで、「天つ神の御子の天津日繼であることが判るように、」天の御巣を建てたいということでしょう。象徴的なというような言葉はどうでしょうか。要するに、日本語で「とだる」といったが、中国語には無かったのでしょう。
③ では、具体的にどのようなものだといいますと、これがまた、訳が判りません。
   於底津石根 宮柱フトシリ
於高天原 氷木タカシリ
上記のように並べてみますと、底津石根と高天原は場所のようです。宮柱と氷木は、物のようです。 フトシリとタカシリは、意味不明ですが、フトとタカに分けることが出来ます。
フトは 太い。 タカは 高い。 「於」を単純に、高天原に於いてと考えますと、高天原に於いて氷木を高くしとなります。これは意味が通りますが、底津石根に於いてとなりますと、底津石根はどこだということになります。判っているのは、宮柱と高天原だけということになります。
天の御巣を出雲大社だということにしますと、少しは進展します。といいますのは、古い言い伝えで、出雲の神殿は、「三十二丈」ありました。祖田浩一著 「古代出雲 巨塔の謎」(2002年8月15日発行)において、「この三十二丈というのは、桁外れに高すぎて、まず信ずることは、できない。常識から考えても問題外であろう」と書いています。江戸時代の「寛文の造替」以後は、八丈であり、それ以前の中古には、十六丈だったといわれていた。出雲大社本殿の指図である「金輪御造営図に記されていた通りの三本の柱を束ねて一本の柱にしたものが、1.5mのところから、出土し、その基礎は石で固められていました。この構造から考えますと、十六丈の建物は実際にあった可能性は大きいです。十六丈は48mほどになります。1031年以降だけで、記録にあるだけで、4回転倒していますから、それ以前を含めると、6~7回ぐらい転倒していることになるでしょう。現在の倍の高さぐらいでは、転倒しないのではないでしょうか? 「三十二丈」あった可能性があります。
「高天原 氷木タカシリ」の氷木の意味が判りませんが、高天原に届くぐらいに高くして ぐらいの意味に捉えることはできます。
 「於底津石根 宮柱フトシリ」の底津石根の部分が、困りものですが、底の石根は、底の石の基礎の上に、宮柱を太くしてと考えますと、どうにか、無理が通るように思えます。
④ 而治賜者。僕者於百不足八十[土+冏]手隱而侍。
この部分も意味不明です。而治賜者の部分は、訳本では、「治めたまはば」どころではありません。「僕者於百不足八十クマ手隱而侍」とは、山の上から見ると何本もの川がながれてクマデのような形をした所に隠れるように大人しくしています。こんな意味でしょう。治めるのは、オオクニヌシではないのでしょう。
⑤ 「亦僕子等百八十神者」は、一族が180人いたということでしょうか。それにしたら、「三十二丈」の神殿は大きすぎるような気がしますが、この馬鹿でかい建物は、神のためではなく、外国からやって来たときの目印ではないでしょうか? 
 オオクニヌシとスクナヒコナの神は、盛んに全国に、入植者を導入しましたから、大山に変わるものが必要だったのでしょう。
 神殿を建てた場所は、船が近づいてから見えるようにだと思います。その前の目標は、357mの高尾山だと思います。(高尾山は、全国に目印の山として、二等辺三角形に整形されて存在します) そして、先端に、日御崎と御の字をつけた岬があり、日御崎神社があります。
 このように考えますと、オオクニヌシは敗れはしましたが、いつかは復帰を願ったと思われますが、187社の式内社に囲まれ、身動きがとれ無かったのだと思います。

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2005.09.08

古事記 地名 竜王・竜王山

No132
昨年9月から「古事記の新しい読み方」と題して、毎日のように書いてきました。ほぼ、岩波文庫の「古事記」に沿って読んできました。ところが、最近の号は、古事記本文と離れて、倭文神社・諏訪神社・地名-神戸、ユダヤ人と地名などを書いています。「建御名方神の服従」で止まってしまっています。次は、愈々、「大国主神の国譲り」となるのですが、どうして、アマテラスに国を明け渡さなければいけないのか判りません。ある程度、その理由を掴めてから、「大国主神の国譲り」に入ろうと、いろいろ探ってきました。
 最後に、「竜王・竜王山」を扱って、「大国主神の国譲り」に掛かろうと思います。

竜は、空想の動物です。空想の動物の竜を日本人が使わないと単純に考えました。竜とくれば中国と思っていましたので、漢民族の「王」の象徴として、地名をつけ、山に名前を付けたと考えました。(もっとも、これも田村誠一氏のものです) 
もっとも、この名前が付けられたのは、紀元後になってからだと思います。
現在、この地名は何処にあるかといいますと、
① 奈良県天理市の長岳寺の東にあります。この辺りにある柳本古墳群の中に黒塚古墳(3世紀末~4世紀前半)が有ります。全長160mの前方後円墳は、近くにある崇神天皇や景行天皇の墳墓に比べては、小さいですが、三角縁神獣鏡が33枚も出たので有名です。
これについては、別の機会に書きますが、この鏡を副葬した墓の主は、漢族か又は、関係者だと思います。現在は想像の域に過ぎませんが、そのように考えないと辻褄が合いません。(私がかんがえている日本史と) 想像を膨らませますと、柳本一帯に住んでいた漢族の人は、崇神天皇をやっつけようと思いましたが、崇神天皇は、岡山県に避難していました。崇神天皇の妹の卑弥呼は、京都府の大江町で、アマテラスのお祭をしていました。ところが、難升米が、卑弥呼を人質にして監禁していました。調子に乗りましたが、ここで大きな戦があり、多くの墓が残りました。一方、岡山の崇神天皇のところでも、戦が続きましたから、大きな前方後円墳が作られました。造山古墳は、漢族の最後の古墳だと思われます。京都の椿井古墳でも、多くの三角縁神獣鏡が発見されました。地図を開いてみてください。椿井という地名が何処にあるかです。平城京から7~8kmの地点です。
木津川を挟んで、戦があったことでしょう。そして、天皇の一族は、負けて大和盆地に漢族の侵入を許したのかも知れません。すべて、想像です。
② 大阪府茨木市北側に竜王山があります。隣の市ですが、高槻市に安満宮山古墳で、が出土しています。安満宮山古墳の眼下を流れる淀川は数キロメートル上流で桂川、宇治川、木津川の椿井古墳に繋がっています。同じ高さの所に、大規模な高地性集落の古曾部遺跡が発掘されました。高地性集落も又、別の機会に述べますが、漢族と多いに関係があります。
③ 岡山県和気郡和気町にもあります。ここには、吉井川が流れています。この川を挟んで、戦が繰り返されたと思います。漢族は、天皇方より武器は断然、鉄器が多く強かったと思われますが、人数は少なかったのではないかと考えます。ここは、苗族の入植者が多く、漢族はてこずったのではないかと思います。その証拠に、福の字がつく地名が、沢山残っています。
④ このほか、山梨県の甲府市・甲斐市。山梨県中巨摩郡竜王町。滋賀県蒲生郡竜王町があります。これらの地でも、漢族との争いがあったはずです。
今後、調べれば、いくらでも発見できると思います。

漢族は、日本の絹をもとめて、紀元前から侵出していました。その一大拠点が、北九州だと思います。その総元締めが、吉野ヶ里遺跡のあったところだと思います。この拠点を叩かないことには、追いつきませんから、神武天皇は、熊本県に苗族を大量に呼び込み、屯田兵と食料の増産を行ったと思われます。その証拠が、熊本県に、神武天皇を祭った神社が多く、その内の半分は天草で占めています。そのほか、多い県は、広島・岡山・福岡です。神武天皇が、漢族と戦った跡と考えてもいいことになります。
日本書紀・古事記・魏志倭人伝にも書かれていませんが、中国は、国の政策として107年に日本に兵を差し向けたと思われます。その後、崇神天皇の征伐まで、日中戦争が続いたことになります。

随分、想像を交えながら、歴史の流れを書きました。調べてもらえれば判りますが、すべて、現在認められている資料を基に、組み立てています。
今後、退屈な古事記を読むことになりますが、時々、このような話も挟んでいきます。

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2005.09.06

古事記  福の字がつく地名 その3

No131
④日置川周辺には、福の字の付く地名は存在しない。
⑤湖山池周辺 福井2、
⑥千代川の本流には、福和田と高福のみ。 
千代川の支流では、宇戸川—福田、八東川—福本

⑦勝部川 ⑧加瀬蛇川 ⑨黒川 ⑩尾張川 ⑪甲川 ⑫下市川 ⑬宮川 ⑭阿弥陀川
⑮由良川 
⑦~⑮は、50000分の1の地図では、福の字の付く地名は存在しない。河口は潟を形成していなかったようである。
⑯塩見川—福部

兵庫県
① 蒲生川、②陸上川 ③岸田川 ④矢田川 ⑤竹野川 ⑥円山川
以上 福の字の付く地名を発見しない。
京都府
① 川上谷川 ②福田川 ③竹野川 ④野田川 ⑤由良川—福知山 ⑥伊佐津川
⑦野原川
⑤由良川—福知山を除いては、福の字の付く地名を発見しない。

これらの東である福井県は、調べていませんが、塩見川以東、兵庫県・京都府には、福族が入植しなかったことになります。

〇福の字のつく地名を調べるときに、ついでにその周りの地名も調べると別の発見ができます。福族は、稲作と養蚕を持ってきましたから、「田」の字のつく地名も多くなります。
〇福の字はつきませんが、吹浦は福岡、大分、山形にあります。
〇すべてでは有りませんが、福の字はつかないところは、漢民族と言うことになります。このほか、高地性集落・銅鐸・鏡の出土地、古墳などと組み合わせますと、「倭国大乱」の激戦地が浮かび上がります。

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2005.09.04

古事記を読む  福の字がつく地名 その2

No130
福浦と福良の地名は、中国の華南地方から、移民してきた人たちの拠点だと述べました。ここを中心に村が、発展していったのでは有りません。船の寄港地、即ち、つぎの所へ行くための水と食料の調達する所だと考えたいです。ここを経由して彼らは、どこへ行ったでしょうか? 彼らが持っていた技術は、養蚕と稲作です。
 私は、彼らが落ち着いた所では、「福」という字をつけたと思っています。それも、急に山の中に村を作ったのではなく、始めは、葦の茂っている潟で、直播の稲作を始めたと思います。「浦」は、普通、海岸線がカーブしているところにつけられているようです。河口であれば、「福江」となります。潟に流れ込む川を遡って、川の近くに村を形成して行ったとも考えられます。
全国の川すべてを調べますと、苗族の人たちが生活をしていたところが、判るはずです。
殆どの人は、魏志人伝にでてくる「奴国」は九州と思っておられますが、私は米子市の日野川一帯だと思っています。スサノオがオオクニヌシに大国をおさめるように命令しますが、大国は大国村のようなもので、この辺りを「是奴国也」と古事記は書いています。
そこで、一番に、日野川周辺を眺めてみます。
①  1.福原 2.福市 3.福岡 4.福成 5.福鎌 6.福永 
支流である野上川を遡りますと、福島 福居 福岡 上流の印賀川には、福寿実 
支流 東長田川には、福頼 福成? などが見えます。
島根県の伯太川 福富
上三行は、このような山の中で、稲作はおかしいですから、スサノオが鬼退治をした神話がありますが、私は「大呂」にあった製鉄所を攻撃したのだと思っています。この製鉄所は、其の前からあったはずです。当時の製鉄がどのような方法であったか判りませんが、盛んであった江戸時代の蹈鞴(タタラ)であれば、膨大な炭が必要です。自然風を利用した登り窯であれば、燃料である木が必要です。ここの福族(仮称)は、そのような仕事に携わったのではと想像しています。
② 淀江町---日野川の少し、東に位置する淀江は、潟であったはずです。
ここには、福岡がありますが、この辺りまで、潟であった可能性があります。ボーリングをすれば直ぐに判ることです。壷瓶山の麓に福頼と福井がみえます。
③ 鳥取・天神川—1.福庭 2.福田(加茂川) 3.福守(国府川) 4.福光(国府川) 5.福吉(鴨川) 6.福山(鴨川) 7.福富(北谷川) 7.福本(北谷川) 8.福吉(加茂川)
これだけ、多いとやはり、関係あることになります。
天神川の東に、東郷池があります。この周りには、福の字のつく地名は見えません。
福庭が近くですが、山の西側で、天神川によってできた土地です。ここには、波波伎神社があります。伯耆を連想させる神社名です。

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2005.09.02

古事記を読む  地名—福の字がつく地名

No129
田村誠一氏は、「福浦」の地名は、渡来の人たちが、船でやって来たときの港であり、その港を基点に、次々と移動するときの補給港だったと述べています。ニニギの命が、天孫降臨する時にしても、神武天皇が東征されるときも、誰が従ったかとか、誰が死んだとかは、問題になっていますが、一番大切なのは、後方支援である食料です。これなくしては、前に進むことはできません。
着眼は素晴らしいと思います。田村誠一氏は福浦地名をいくつか挙げて説明しています。
渡来人はどこから来たかが問題です。中国の福建省の地図(1:740000)を求めて、探しますと、福州市、福安市、福瑤列島を見つけ,インターネットで、寧徳市の福鼎があり、福清という小さな町が見つかります。ヒットした記事の内容に、「日本で犯罪を起こし、逮捕された中国人の約9割が福建省出身で、しかも、福建省出身者の犯罪者の約9割が福清から日本に密入国した人です。つまり、日本で犯罪を起こした中国人の約8割が福清出身のものです」とあります。この記事の真偽は確かめていませんが,この記事から推理しますと、日本にやってくる中国人は,現在でも、大部分は福建省出身と思われます。昔から、伝統的なものと思われます。
漢の時代には,福建省は、閩越とよばれ、狭い地域であるにも関わらず、どの政府からも侵略されなかったと言われています。漢がベトナムまで支配したときでも、徹底して交戦し、従わなかったと言われている種族に、苗族があります。現在の雲南省に勢力が強かったと言われています。当時、同じように、従わなかったのは、朝鮮半島の新羅、海南島に住んでいた人も同じ苗族であることが、前漢書に記されています。この人たちに対する圧迫は、秦の始皇帝の頃から、始まり、紀元前141年には、絹の生産をしていた海南島は前漢に攻略されました。
従いまして、逃げ場をなくした人々は、日本にやって来たと思われます。この人たちの特徴は、養蚕の技術と稲作の技術を持っていたことです。「福浦」という地名が、ころ良い距離に分布しているところから考えますと、点でばらばらにやってきたのではなくて、日本へ組織的に呼び寄せる人が居たのではないかと思われます。
その人は、誰かといいますと、全国的に、神社で祭られているのは、天照大神と神武天皇です。神武天皇は、熊本県が、一番多く、そのうちの大半が、天草に集中すると云うことは、ここを基点にして、苗族の人を呼び寄せたと思われます。
 全国に存在する「福浦」は、次の通りです。
1. 青森県青森市大字飛鳥字福浦
2. 青森県五所川原市大字梅田字福浦
3. 青森県むつ市川内町福浦山
4. 青森県つがる市森田町中田福浦
5. 青森県北津軽郡中泊町大字福浦
6. 青森県下北郡佐井村大字長後字福浦
7. 青森県下北郡佐井村大字長後字福浦川目
8. 宮城県古川市福浦
9. 宮城県宮城郡松島町松島字福浦島
10. 神奈川県横浜市金沢区福浦1丁目
11. 神奈川県足柄下郡湯河原町福浦
12. 新潟県佐渡市福浦
13. 石川県羽咋郡富来町福浦港
14. 兵庫県赤穂市福浦
15. 島根県松江市美保関町福浦
16. 島根県隠岐郡隠岐の島町北方福浦
17. 広島県呉市天応福浦町
18. 山口県下関市彦島福浦町1丁目
19. 愛媛県南宇和郡愛南町福浦
全部検討したわけではありませんが、古代には、潟であったところが多く、所謂葦原を求めて、入植し稲作をはじめたと想像できます。福浦に似た発音の地名に、「福良」があります。
①福島県 郡山市湖南町福良  猪苗代湖近く
②栃木県小山市大字福良  結城の北
③愛知県 蒲郡市清田町福良   
④兵庫県 南あわじ市福良乙  港
⑤山口県 山口市大字黒川   港から少し離れる
⑥徳島県海部郡海南町浅川字福良  港
⑦高知県須崎市浦ノ内福良     港
⑧高知県宿毛市小筑紫町福良    港
⑨大分県大分市大字福良    少し内陸
⑩大分県臼杵市大字福良    少し内陸
⑪宮崎県東臼杵郡椎葉村大字下福良  山の中・椎葉の近く
⑫鹿児島県指宿市東方中福良   港
⑬鹿児島県薩摩川内市中福良町  少し内陸
これらの所は、地名だけで調べていません。殆ど、海に近いですから、出身地が異なる人の補給地かも知れません。
この考え方の素晴らしところは、入植は青森であっても、新潟であっても同時代に入植が可能ですから、稲作の遺跡が全国何処で、見つけられてもかまわないことになります。以前は、朝鮮を経由して、九州に入ってきた稲作が、どんどん北上したと説明されていましたが、青森で、奈良より古い稲作の遺跡が発見されてもいいことになります。

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2005.08.31

古事記を読む  諏訪神社と御射山(みさやま)

No128
御射山は、諏訪神社の御射山祭りが行われた所の地名です。諏訪神社は、神祭事が、特別に多いように思われます。それも、他の神社と違って異色なものが多いです。御射山祭りは、その中でも重要なものとされています。
この祭りは、今は昇り祭八月二十六日、本祭二十七日、下り祭二十八日に行われますが、中世のころは、毎年七月二十六日の「登御」(のぼりまし)から七月三十日の「下御」(くだりまし)までの五日間、鎌倉幕府の庇護のもとに盛大に行われました。(長野県の地名その由来 松崎岩夫著より)
 現在は三日に減っていますが、かつては今より重要視していたと思われます。
このことの詳細は、ご自分で調べて頂くこととして、次に他の地域の御射山について記します。
① 御射山は、諏訪市以外に次の所に有ります。
 伊那市、辰野町、東部町、原村、小海町、下諏訪町、中村村、松川町、箕輪町。

② 表記の漢字は異なるが、「みさやま」と読む地名を以下に記します。
「旧御射山」(もとみさやま)   諏訪市
「明神山原」(みさやまはら)   飯田市
「美佐山原」(みさやまはら)   飯田市
「三さ山」 (みさやま)     駒ヶ根市
「三才山」 (みさやま)     塩尻市
「三社山」 (みさやま)     上田市
「美射山」 (みさやま)     飯島町、高森町
「みさ山」 (みさやま)     天竜村
「御射山神戸」(みさやまごうど) 富士見町

御射山の語源は、「長野県の地名その由来」P621には、
御射山とその狩猟神事を結びつけ、これは狩の神にのように即断し勝ちですが、太陽、風、雨、すなわち大自然の神、さらに山霊、稲を育む神々などの原始農耕神とするのがよいとする見方が妥当と考えられ、「みさやま」の語源は、宮地直一氏の『諏訪史』二巻には、「み」は敬称、「さ」は語調を強める語で意味はなく、狭霧の「さ」と同じで、結局「み」も「さ」も「やま」につけられた形容語ということになるとあります。このほかに「御諏訪山」(みすわやま)が縮んだものとかも「み」は美称、「さ」は「矢」で山の幸を射るという意味も有りますが、このような抽象的なとこから古い地名は発生するかどうか疑わしいと思います。やはり、「さの」(佐野)「さくら」(桜)などの「さ」と同じで、「狭」つまり狭い谷状地形の山を意味する「狭山」(さやま)に接頭語の「み」がつけられたものから生まれたように考えています。
失礼な言い方ですが、上に書かれた御射山の語源は、わけが判りません。「狭山」に
接頭語の「み」が付いたのであれば、上記の各地名は、狭山にあることになります。私は調べていませんが、調べる気になりません。何故かと言いますと、「狭い谷状地形の山」の意味が不明だからです。地名は、必要に迫られてつけるものです。皆が苦労して、いろいろの説を述べられたのですが、その説の意味すら判らないのです。

住んでいた人が、信仰していたから、敬意を込めて、「み」は敬称、「さ」は語調を付けようではないかと相談したことになります。仮に、その説が正しいとしても、後が続きません。このようなときは、私は外来の地名ではないかと考えます。難読地名は外来でいいと思います。
諏訪神社の御射山では、神官の長らが、そこのススキで、「穂屋」と呼ばれる仮の小屋を組み、五日間参篭して奉仕しました。だから、「御射山祭」を「穂屋祭」と言ったそうですから、御射山ではお祈りをしたことになります。表記はちがっても、(みさやま)という地名は、お祈りをする所、祭壇があったところに付けられた地名と考えた方がまだ、ましだとだと思います。
「御射」は、ずばり、「ミサ」でいいと思います。諏訪神社で行われる神事は、他の神社とは違ったもので、キリスト教の「ミサ」ではなく、ユダヤの「ミサ」であろうと思っています。何故かと言いますと、キリスト教は紀元前にはなかったからです。
①②の地名「ミサ」では、ユダヤ人によるミサが行われていたのではないでしょうか?
先に、「その説が正しいとしても、後が続きません」と書きましたが、「ミサ」であれば、どんどん、ユダヤと関係ある地名はないだろうかと後に続けることが出来ます。
群馬県・諏訪一帯は、ユダヤ人による絹の集積地であったのではないかという私の
仮定が正しいという証拠の一つになるのではないかと思っています。

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2005.08.29

古事記を読む  式内社の全国分布

No127
山城122-- 伊賀25-- 近江155-- 丹波71-- 紀伊31-- 志摩3-- 若狭42-- 播磨50

大和286-- 伊勢253-- 美濃39-- 丹後65-- 淡路13-- 尾張121-- 越前126-- 美作11

河内113-- 飛騨8-- 但馬131-- 阿波50-- 参河26-- 加賀42-- 備前26

和泉62-- 信濃48-- 因幡50-- 讃岐24-- 遠州62-- 能登43-- 備中18

摂津75-- 上野12-- 伯耆6-- 伊予24-- 駿河22-- 越中34-- 備後17

壱岐対馬53-- 下野11-- 出雲187-- 土佐21-- 伊豆92-- 越後26-- 安芸13

日向4-- 陸奥100-- 石見34-- 筑前19-- 相模13-- 佐渡9-- 周防10

出羽9-- 隠岐16-- 筑後4-- 武蔵44-- 長門5

下総11-- 豊前豊後12-- 安房6--

常陸28-- 肥前肥後8-- 大隈薩摩7-- 上総5



① 大和・伊勢・出雲は、神社の数が多く、特殊な土地であることが判ります。伊勢
神宮は、式内社の勢力に囲まれ、天皇といえ、参拝すらできなかったと思われます。
② 大和から遠いところは、少ないです。この頃には、勢力が九州から、大和に移動
していたことが判ります。
③ 伯耆・美作・志摩・飛騨・淡路は、極端に少なくて特殊な土地です。
  まだ、一部しか調べていませんが、これらの式内社へは天皇から、幣帛をたまわっているに
  も関わらず、殆ど、天照大神が祀られていません。この頃、天皇は名のみ、天皇以外の勢力が、
  軍事資金を神社宛に分配し、全国を支配していたことが判ります。

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2005.08.27

古事記を読む 天照大神は、本当に皇祖神なのか

No126
前回に書きましたように、私は皇祖神だと思っていたのに、そうではないらしいです。一応、古事記には、流れとしては、後の天皇に続いてはいるのですが、業績が書いてありません。あまりにも、古い話ですので、判らないから書いていないのかと思いましたが、そうではありません。
 私はこの「新しい古事記の読み方」を書き始めるきっかけは、何回かは書きました「田村誠一」という方の云われたことにあります。この方は、これでもかというほど、いろいろのことを調べて、本にしておられます。私がこれまでに書いてきましたことは、この方が云われたことの焼き直しに過ぎません。
歴史の専門家であれば、田村氏が主張されることは、悉く否定されると思います。しかし、誰一人、反対すらされません。反対するほどの価値も無いものだということです。しかし、次に述べることは、反対どころか、現在でも気がついておられる方が無いのではないかと思えるほど、素人の人も口にしません。インターネットでも発見できません。

どのようなことかといいますと、延喜式年間に、制定された法律書にあたるものに、政府から幣帛をうける資格のある神社名が記載されています。私は幣帛の意味が判りません。辞書をひきますと、「神に奉献する物の総称。みてぐら。にきて。ぬさ。」とあります。辞書というのは、難儀なシロモノです。判らないことがかえって増えました。奉献する。みてぐら。にきて。ぬさ。何のことはありません。書かれていることのうち、判ったのは、「神に 物の総称」だけです。しかし、本当はわかっていません。「神」にささげるのです。そんなものを捧げて神は喜ばれるでしょうか? 喜ぶのは、神主さんだけではないでしょうか? ついでのことに、「ぬさ」を辞書で調べます。かっこして「幣」と書いてあり、麻、木綿、帛または、紙などでつくつて、神に祈るときに供え、または祓えにささげ持つもの。みてぐら。にぎて。幣束。
おかしいですね。幣帛の説明に、幣帛は「ぬさ」だと書いておきながら、「ぬさ」の説明に「幣」と漢字で書き、「帛」もあります。「ぬさ」という意味を二つ重ねたものが、幣帛だということです。辞書を引くたびに、判らない言葉が増えますので、以後、私の講義になります。
「帛」は発見です。「ぬさ」のことです。この字には、巾という字が含まれます。「はば」とも読みますが、これは、幅の略字です。もともと、「巾」という字かあり、「きん」と読みます。「巾」を部品にしている漢字を思い出してください。帚、箒、掃、婦、帰、吊、希、啼、帖、佩、帯、布、師、帝、席、帷、常、幡、帳、綿、柿、綿、滞など。これらのことから、「きれ」であることが判ります。「帛」は、ただの布ではなく、「白い」きれであることが判ります。「白い布」は、昔は無かったのです。「帛」は絹、それも白い絹のことを言ったことが判ります。
ところが、「巾」という字は、どうやら、細長い布を称して「巾」と言ったらしく、帯とか幡に表れています。「帚」は「ほうき」と読みますが、布で出来ていて、それこそ神棚ぐらいしか使用しなかったのでないでしょうか? ハタキのことです。そのうちに、竹でできた「箒」ができて、それを使ってはくことを「掃く」と表現し、掃くひとは、女性の仕事だったのでしょう。「婦」の字が生まれたことになります。調子に乗って書いていますが、正しいかどうか責任はよう持ちません。
話は元に戻ります。幣帛は、神主さんがお払いをするときに、振られる道具のことです。あんなもの、朝廷から貰ってもなんら嬉しくありません。あれは代表者のようなもので、本体は朝廷から、白い絹を貰ったのでしょう。それも沢山貰ったと思われます。腐りはしませんから、米を大量に貰うよりはましです。絹は、その当時、簡単に何にでも交換できたのでしょう。すなわち、市(イチ)が存在していたと言うことです。絹はお金の代わりでした。
政府から幣帛をうける資格のある神社名のことを式内社と呼んでいます。別名官社ともいい、①全国の神社を、神祇官の管轄する神社(官社)とそうでないものに分けていた。
②官社に対しては、祈年祭の際に幣帛を班つとともに、社殿の管理や神職の選任に於いて、神祇官や国司が監督 ③管理をするための台帳は、早くから作成されていた。
『続日本紀』慶雲3年(706)2月庚子条には、
  「是の日、甲斐・信濃・越中・但馬・土佐などの国一十九社、始めて祈年の幣帛の例に入る」とあって、祈年祭の際に、幣帛を受ける神社名を記した「神祇官記」なるものがみえている。  (歴史読本767 P180)
『延喜式』は延長5年(927)に撰進され、康保4年(967)に施行されて、50巻よりなりますが、そのうち、巻第九(神祇九、神名上)・巻第十(神祇十、神名下)の二巻が のちに「神名帳」と呼ばれるようになり、この中に、3132座の神社名が記載されています。
 以上のことから、3132社のうち、19社はすでに、706年には、政府の管轄であったことが判ります。国の名は、甲斐・信濃・越中・但馬・土佐です。この国名については、又、考察します。
3132社のうち、大和国が、286社、伊勢国は253社、出雲国は186社でダントツです。
なるほど、然もありなんと思われた方はいっぱい居られると思います。ところが、式内社のなかには、天照大神を祭った神社がありません。ということを唱えておられるのが、
田村誠一氏です。そんなことは無いと思っていましたが、田村誠一氏の言われることが本当かも知れないと思うようになり、調べています。全く無いわけではありませんが、殆ど無いといってもいいと思います。(まだ、一部しか調べていません)
 この事実は、どのように説明したら良いのか、従来の日本史では説明がつきません。
タイトルの「天照大神は、本当に皇祖神なのか」のことは、何も書かずに、2ページを使おうとしています。上の事実から、「天照大神は、皇祖神である」と言いたくない人たちがいたということが判ります。逆に、皇祖神であった可能性が強いと言うことが言えるようです。 

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2005.08.24

古事記を読む 古事記の不思議

No125
古事記には、理解できないことがいっぱいあります。これを不思議というのであれば、これから述べることは、最大の不思議だと思います。
No2 において、どうして、古事記が作られることになったかを書きました。もう一度、書きますと、
『古事記の序文に当たるところに、次のような部分があります。
「私は聞いた。諸家にもたらされている帝紀及び本辞は、既に真実と違っている、多く虚偽が加えられている。今この時期に、その誤りを改めねば、数年しないうちに本当のことは消えてしまうだろう。これは国家行政の根本であり、天皇徳化の基本である。ここに、帝紀を撰録し、旧辞を皆で調べ、偽りを削り真実を見定めて、後世に伝えたいと思う。」と言われた。』
どの部分が、真実と違っていて、どの部分に多く虚偽が加えられているかは、記されていません。古事記は、詳しくは、イザナギ・イザナミから始って、天照大神・スサノオ・月読命、そして、ニニギ命・神武天皇・以後歴代天皇のことが記されています。
どの人物も、なにをしたか詳しく書かれているのに、天照大神と月読命のことは、なにも書かれていません。神武天皇は、詳しく書かれていますが、天照大神と月読命と2代から9代までの天皇は、簡単にしか書かれていません。2代から9代までの天皇は記載事項が少ないのは、実在しなかったから、書くことがなくて、無理やりに作り事を書いたことになっています。
歴史がないから、欠史八代というとんでもないネーミングをして抹殺しようとされています。
天照大神と月読命と欠史八代の天皇のことがどうして書かれていないかといいますと、書きたくない人が、書いてあったのに消したと考えた方が、無理がありません。この10人は、私は丹後と関係があるのではないかと考えています。日本書紀を書いた漢人の人たちは、この部分を消し去ることで、自分たちと天皇家は、同等の位があることを知らせたかったのではないでしょうか?
消された部分の復元を試みてみようと考えています。そのためには、いろいろのことをしなくてはなりません。漢人は、徹底的に、天照大神と月読命を消し去ろうとしました。とはいうものの、全く消し去ることは出来なかったようです。消すことが出来なかった部分を見つけないといけません。どのようにして、消そうとしたか証拠を見つけないといけません。天照大神と月読命はなにをしたのか。残っていたら、これも見つけなくてはなりません。
古事記の解読は、まだ、ニニギ命・神武天皇・以後の歴代天皇は、まだ手を掛けていませんが、古事記の解読と平行して、天照大神と月読命のことを追求していくつもりです。

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2005.08.22

古事記を読む  No124 地名 神戸

No123 難読地名として公文をあげました。これは、「くもん」と読み、全国で10ヶ所はあります。「公文」は荘園領主から荘園の管理の仕事を任されていた荘官の一職名です。公文が居たところを公文所と呼び、そこが地名になったと考えられます。さて、役職名ですから、これも外国製の言葉ではなかったかと考えます。
 難読だからユダヤに関係あるというのは、乱暴ですが、ものを考えるときに、このように目をつけるということは大切だと思います。目をつけた以上は関係あるかどうか一歩踏み込んでみる必要はあろうかと思います。
 そこで、「神戸」を調べてみたいと思います。
有名な地名ですから、多くの地名の本に取り入れられています。①渡河点 ②川処
③神社に属した封戸(かんべ)④超処 などが云われています。③はもっとも判りやすいのですが、この近くに神社がないと理屈に合いません。「神戸」と漢字表記する地名は、69件見つかります。小字をいれるとまだまだ増えるでしょう。①②は、この地名には、川があるためだと思います。
69件の読み方は、それぞれです。全部あげておきます。
がうど、かうど、かど、かのと、かみど、かんど、かんべ、ごうと、ごうど、こうど、ごうどう、こうべ、ごおど、ごおと、じんご。
分布は、山梨 8、長野 8、岐阜 7、愛知 5、岡山 6、群馬 7、埼玉 の7県です。 あれと思われましたか?  諏訪神社の分布と倭文神社の分布と似ているところがあります。「神戸」は、神さんの居られるところへの入り口だと思います。湯原温泉の少し南の「社」へ入る分岐点が「神戸」です。村から村へ行くときは、はじめは、川に沿って移動したために、分岐点には、川が存在します。川が大きければ、船渡(舟戸)もあったでしょう。道の分岐点は、川の合流点になっているところが多く、そこには、後世には、川合というような地名があります。紀元前の頃ですと、神社はなく、山が神の居られるところという考えであったと思われます。「神戸」の近くには、神をあらわす山があるはずです。
地名は、実際にその場に行かないと判らないものですが、無視して長野県の神戸について考えて見ます。次の7つの町にあります。
① 大町市 ②辰野町 ③松川町 ④穂高町 ⑤諏訪市 ⑥松本市 ⑦木曾福島町
さて、上記の町がどこにあるのか調べるだけで一苦労です。①②③は、白馬村と安曇村にはさまれた富山県に近いところです。⑤⑥は諏訪湖に近いところです。これぐらいしか判りません。あとは、長野県の方の力を借りるしかありません。
どれも、「神戸」は、神さんの居られるところへの入り口だというような可能性が出てきますと、①~⑦までの地域に、ユダヤ系の人、または部下のような人が住んでいて絹に関係があったという推理も可能になってきます。
他の難読地名もこのようなことが云えますと、ユダヤ人と絹は関係あることになります。

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2005.08.20

古事記を読む ユダヤ人と地名

No123
ユダヤ人と書きましたが、正確には、この人がユダヤ人と云う方はおられないと思います。私は日本人と思っていますが、なにを根拠にいえるのかとなりますと、自信がなくなってきます。従いまして、随分昔に、世界に追われました民族のことはよく判っていません。10の部族に分かれていたと云いますが、仮に、日本へ到達したとしても、長い年月を掛けて移動してきたとなりますと、通過した土地の人々の血も入り、言葉も入り不明な部分ばかりです。M・トケイヤ著に、「ユダヤと日本  謎の古代史」という本があります。この書物では、日本とユダヤには、よく似た点がいっぱいある話が書かれています。似ているから、ユダヤ人が日本に来た証拠にはなりませんが、文章全体に無理がありません。読み終わったときに、「ユダヤ人が日本に来ていたのでは?」と思わせますから、不思議です。
このようなことを念頭に、現在、残っている地名から、考えてみようと思います。

読むことが困難な地名を難読地名と名づけています。地名は、住んでいる人が必要になって初めて、付けられます。従いまして、読めばすぐにどんなところか判らなくては意味がありません。現在はわからなくても、付けられたときは判っていたはずです。
真庭(旧大庭)、久米、磐梨、和気、邑久、御津。さて、読めましたか? すべて、吉備にある地名です。吉備という地名すらおかしな地名です。どのような意味があるのか判りません。今度は、村の名前です。神庭、巨勢、公文、周匝、弓削、香香美、大倭、倭文西、倭文東、打穴、垪和、大垪、佐伯、石生、雄神などです。この際、美作の地図を買って、眺めてください。
これらの地名がユダヤと関係があるというのではありません。判らない地名は、外国から来た人がつけた可能性は大きいと思われます。これは、朝鮮の地名だと云われる方は大勢おられます。きっと、そうだと思われることが多いのです。例えば、海のことを朝鮮語で、パタというそうです。パタが変じて、ハタとなった。カヤという国があつたから、加悦という地名は、朝鮮の人が渡来したのだというような調子です。可能性は大きいですが、これだけで断定するわけにはいきません。私は、ユダヤ語は全く知りませんので、地名がユダヤ語ではないかという推理は困難なように思いながら書いています。
 もう一つ、この一帯には、「神」という字がついた地名が多いことです。陶棺が発掘されたところでは、神庭(カンバ)、神代(コウジロ)、神郷(シンゴウ)、神戸(ゴウト、カンド)、神田(コウダ)、神(コウ)などがあり、カミとは発音しません。小田郡笠岡町に神ノ島(コウノシマ)があり、その南隣りは、神武天皇が八年駐留したという高島です。このとき、ユダヤ人は、自分たちの住処を提供して、神武東征に協力したと考えてもいいかも知れません。
この神は、日本書紀に書かれている「星の神 天香香背男命」の神と考えては駄目でしょうか?
ユダヤ人が歩いたのではないかと思える道を記します。
神湯村の星ケ山と下関・彦島とを結んだ線上に、
  ①三次盆地
  ②日本ピラミッド
    広島県庄原市の西部、東城町と総領町に隣接する庄原市本村町に、葦嶽山(あしだけやま)があります。    この山は、何処から 見ても、三角形にみえて、誰にでも判りやすい目安になる山です。(滋賀県の三上山    もどこからも見え、三角形です) また、ここは神石郡であり、葦嶽山のすぐ東の山が御神山です。神がつき    ます。
  ③神武の安芸の可愛宮 があります。

  日本ピラミッドから星ケ山を目標に進むと、その線上に神代川、神郷(新見)、矢 神村、神代村、神庭(カンバ、勝山)、神戸、神湯村と神がつく地名が続きます。ヨーロッパの中世の都市の中央に広場があります。神庭はこの広場で、ここがユダヤ人の政治の中心です。八神(ハガミ)と神庭は同じ緯度です。 (田村誠一著 平成古事記より)
 星の神 香香背男が、移動するときには、道を間違えないように、目標と成るものが必要でした。何処からも見え、同じ三角形の形をしている山が一番でした。どの山も、三角形であることは、無理ですから、ある程度は人工の力を加え、形成したと思われます。葦嶽山がピラミッドでないとしても、目標にしたのは、確かだと思えます。
 湯原インターを出て、313号線を北上しますと、西の方向に、星山という名前の山があります。
全国に、星山は、山とは限りませんが、岩手県、茨城県、神奈川、静岡、和歌山、長崎、宮崎各県にありますが、全て、〔ほしやま〕と読みます。岡山県の星山は、〔ほしせん〕です。
星の神 香香背男一族は、とうやら、緯度経度は測量できたようです。なにかを基準にして、移動する必要があります。どこから見ても、円錐の形をしていると、道がいくら曲っても、常に目標の山が見えます。実際に車で走って見ますと直ぐに、理解できます。
No41において、高尾山がやはり、移動するときの目標になった可能性を述べました。この場合は、イザナギと関係があるのではと書きましたが、ユダヤ人は、このイザナギより以前から、日本に渡来していたのではと想像しています。

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2005.08.17

古事記を読む  美作にはユダヤ人が居たのでしょうか

No122
「吉備古代史の未知を解く」は、間壁忠彦・間壁葭子氏の著書の名前です。両者は倉敷考古館学芸員であり、館長も勤められています地元の研究者であるだけに、内容は素晴らしいものです。外に、間壁忠彦の「石棺から古墳時代を考える」の著書があり、吉備の歴史だけではなく、石棺を通じて、全国の勢力分布を述べておられます。
 すべてを紹介するわけにいきませんので、その一部を紹介しますと、「吉備古代史の未知を解く」の162ページに、「久米の子の里」と題して、奇妙な陶棺のことが書かれています。陶器製の棺おけのことです。九州では、甕を二つ合わせた形の甕棺が有名ですが、ここの陶棺は、土師質亀甲形と須恵質および切り妻家形の二種類とその他分類不明の陶棺に分かれます。全国に分布はしているらしいですが、その7~8割は岡山県に分布し、其の又、7割は美作とよばれた地名で発見されています。
「何か特別な生産にたずさわる集団と、関係がある棺ではないか、と見られている面が多い」と微妙な表現をされ、須恵器窯跡と関係、土師質陶棺の場合は、土師部との関係、鉄の生産が盛んであった土地柄、鉄生産者との関係、屯倉との関係などを挙げておられます。当然、他の人も精力的に研究し、成果を発表されておられるらしく、それらに負けられない気持ちがあったのではないでしょうか? 「久米の子の里」のページに43ページも費やされています。この項のはじめのところで、著者は「陶棺の存在に対する結論など、こうした本の上で簡単にでるものでないことを意味していることでもあるだろう」と慎重に、駄目押しをしておいて論をすすめておられます。
 それに対して、私は簡単に、この陶棺はユダヤ人の棺おけで、しかもユダヤ人は絹を東郷湖まで運んでいるのだと前に述べ、それどころか、その絹はローマまで運ばれてい
るのだと書きました。この凄腕のプロをくつがえすことはとても、私には無理ですが、著者は、ここで発掘された陶棺の時代を次のように述べておられます。「この地域の後期古墳は、六世紀中頃に築造が始まり、七世紀末まで使用されており、時には七世紀中頃以降でも築造され、中には八世紀の火葬骨を追葬しているものもある」
私は、この部分が良くないのではないかと思っています。最近、岡山県で鉄を製造した遺跡が発掘されていますが、私はどれも、200年ぐらい遡らなければならないのではないかと思っています。そうしますと、古事記に書かれているスサノオが襲撃した製鉄所に一致します。(No62~65) 陶棺が発掘されたときに、なにを基準にして、使われた年代を決めるのでしょうか? 
普通に考えても少し、おかしいと考えられませんか? 「六世紀中頃に築造が始まり、七世紀末まで使用されており」と書いておられますが、これですと、二代しか生活していなかったことになります。仮に北海道のように、明治時代に入植されたとします。帯広の原野では、一代が暮らすだけでも厳しかったそうですが、私の友人は、三代目で、200頭を超える乳牛を育てています。美作は三代ぐらいで逃げ出さなくてはならないような所とは思えません。それどころかずっと、子孫の方は現在も生活しておられると思います。
この陶棺は大きなもので、陶棺を作る技術がなかったのではないでしょうか? 陶棺は、6~7世紀と固定しているために、また、歴史に詳しいために、ユダヤなどの発想はとんでもないものだと思います。
岡山県英田郡美作町平福から発掘された切妻形の陶棺には、寒羊と思われる尻尾の太い二匹の羊を連れて羊の顎ひげを触っている人物が描かれているそうです。これは日本にはいなかった動物と思われます。子羊は聖書にでてくる神の使いだそうです。又、寒羊は、イスラエルが原産でユダヤと関係がありそうです。が知識として知っていたので、描いたのかもしれません。よって、描いた人は異国の人であったと考えていいと思います。

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2005.08.15

倭文神社の考察 その2

No121
No120 は少し飛躍があったと思われます。それ故にご理解願えない部分が在ったのではと思っています。書いている私も現在頭が混乱しています。志津と宮内の倭文神社は天皇派と漢人派の対立があったように書きましたが、紀元一世紀ころは、仲良くとはいかなくても競争しながら、絹を運んでいたのではないかと想像しています。ところが、絹を運んでいたのは、天皇派と漢人派だけではないようです。それ以上に、ユダヤ人が大活躍をしていたのではないかと思います。古事記の最初に登場した人たちは、入り乱れながら、絹の争奪戦をしていたのではないでしょうか。
 何分、紀元一世紀から、紀元後700年頃までの長きにわたって、繰り返されましたために、抜きつ抜かれつの繰り返しではなかったかと推察します。詳細を知ることは不可能ですが、おぼろげには知ることができます。少しずつ解きほぐしていきます。

岡山県久米郡倭文中村柚木(久米郡久米町油木北332)に倭文神社があります。
祭神は、天羽槌雄神外です
久米郡において天香香背男命を祭った神社は、
岡山県久米郡福渡村下神目     志呂神社     「事代主神、天香香背男命」
岡山県久米郡打穴村打穴      榊葉神社     「天香香背男ほか」
岡山県久米郡久米町油木北1608  少彦名神社 少彦名命 配 天香香背男命、瀬織津姫」
岡山県久米郡久米町里公文1514  高津神社 「大日・貴尊 配天香香背男命外」
岡山県久米郡旭町里1827     八幡神社(湯田神社)「譽田別命 配 天香香背男命ほか」

上に挙げました神社は、式外社です。美作国には、式内社が少なく、全部で11社しかありません。(ということは、天皇勢力の強かったところになります。久米の兵がいたところです。)
米子道の湯原インタ-から、国道313号線を北上しますと、社口ダムが左手に見えます。三叉路になっていますから、右折しますと、56号線になり、町名は、「社」です。右折したところは、古い地図では、〔神戸〕となっていました。ヨミカタは、「ごうど」です。
〔神戸〕は、兵庫県の神戸は、「こうべ」と読み、有名ですが、岡山県にある〔神戸〕は、「かみど」「こうど」「じんご」といろいろあります。
「神戸」の「戸」は、神の里への入り口とも考えられます。「社」が、神の里だったのか、「湯原村」が神の里だったのか判りませんが、湯原町は、明治37年 八幡村、神湯村が合併 湯原村になりました。昔の人は、神さんから頂いたお湯と考えて、村の名前を神湯村とされたのでしょうか? 重要なのは、「社」です。この町に、町と云っても山村ですが、ここに11のうちの8つの式内社があります。いつの時代か判りませんが、村全体が、美作国からあつめられた漢人で成り立っていたことが判ります。重要拠点だったのです。美作から湯原温泉を通って、ヒルゼン高原、そして、山を越えて天神川を下って絹を運んでいたユダヤ人を封鎖したのでしょう。

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2005.08.08

古事記を読む  倭文神社の考察 その1

No120
天照大神は、ニニギ命を天孫降臨させるにあたって、天鳥船神を副えて建御雷神を遣わしました」(No110) 淀江町の伊那佐の小濱で談判して、オオクニヌシと事代主神は、服従しましたが、弟の建御名方神は、歯向かいました。古事記には書いてありませんが、日本書紀に、星の神 香香背男も従いませんでしたとあります。香香背男はどこにいたのでしょうか? 全国のあちこちの神社に祭られていますが、このときは、葦原中つ国(伯耆国)に居た人たちをやっつけに行きましたので、伯耆です。伯耆にある倭文神社は、東伯郡東郷町宮内754の倭文神社と倉吉市志津の倭文神社です。このどちらかに居たと考えていいと思います。
両社の祭神を書きます。
    東郷町宮内(古くは東伯郡舎人村宮内)の倭文神社----東郷湖の東
    祭神 建葉槌命、下照姫命、事代主命、建御名方神、少彦名命、天稚彦命、
       味耜高彦根命
    倉吉市志津(古くは東伯郡北谷村志津)の倭文神社------東郷湖の西
祭神
経津主神、武葉槌神、下照姫神、伊弉諾命、伊弉冊神、誉田別命、国狭槌尊

同じ、倭文神社ですが、神さんの名前が少し違います。殆ど、同じだと思っては  
いけません。宮内の祭神は、古事記に書かれている字体です。しかも舎人村
(天皇の警護をする人が住んでいたところです)です。志津の倭文神社の祭神は、日本書紀に書かれている字体です。この神社は、6世紀のころには、日本書紀を書いた人たちによって支配されていたため、日本書紀と同じ字体に書き改めるように、強制されたと思われます。一方、宮内の倭文神社一帯は、天皇勢力が強かったために、漢人たちは祭神を書き換えることはできず、現在に至っています。
実際に行かれますと判りますが、直ぐ近くです。紀元前は、絹を求めて、漢人の人と天照大神の人たちは、やっつけあうことなく、住み分けていたことが判ります。日本書紀が完成したころは、大部分の神社が従い、藤原不比等は、自信をもつて、日本書紀を完成させ、古事記を葬ることにしました。No13において書きましたように、天武天皇を暗殺しました。その後、延喜式なる法律を927年に完成させ、全国の神社で、漢人に従うところは、式内社の資格を受け、其の数は、3132社となり、その神社は、式内社と呼ばれています。さて、其のことが名誉あることのように、現在でも、わが社は、式内社であると誇りにしておられる神社がいっぱいです。No85では、「八上比賣沼神社」であったと思われる神社を「賣沼神社」と延喜式に掲載されている例を記しました。神社名、そして祭神、そして神社自体を関係ないところ(No52)に作って、日本書紀が正しいように細工をしたと思われます。

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2005.08.06

古事記を読む  倭文神社と絹の関係

No119
倭文神社は、全国に14社存在します。
上野国佐波郡           甲斐国巨摩郡
大和国葛下郡           但馬国朝来郡
伯耆国久米郡           伯耆国川村郡
駿河国富士郡           伊勢国鈴鹿郡
丹後国与謝郡           丹後国加佐郡
因幡国高草郡           美作国久米郡
伊豆国田方郡           近江国滋賀郡

現在の地名による倭文神社の所在地と祭神は、次の通りです。
① 奈良県北葛城郡当麻町加守     葛木倭文坐天羽雷命神社 
② 三重県鈴鹿市加佐登町       倭文神社 
③ 静岡県富士宮市星山         倭文神社 
④ 静岡県田方郡伊豆長岡町江間   倭文神社 
⑤ 山梨県韮崎宮久保          倭文神社 
⑥ 茨城県那珂郡瓜連町         静神社 
⑦ 大津市坂本本町            倭神社 
⑧ 伊勢崎市東上宮町380        倭文神社 
⑨ 京都府綾部市今田町         倭文神社 
⑩ 京都府与謝郡野田川町三河内   倭文神社 
⑪ 兵庫県朝来郡生野町         倭文神社 
⑫ 鳥取市倭文               倭文神社 
⑬ 鳥取県 東伯郡東郷町宮内754   倭文神社   
⑭ 鳥取県倉吉市志津           倭文神社    
⑮ 岡山県久米郡倭文中村柚木     倭文神社
〔倭文〕は、しずり、又はしとり、しどりと言います。これは、倭文織ことで織物を表わしています。倭文神社は、織物に関係していた人たちが、お祀りをしていたことになります。だれが祀られているかと言いますと、各神社には、いろいろの神が祀られていますが、主に、〔建葉槌命〕と言う神さんです。この神は、日本書紀では、「邪神や草木・石まで平らげたのに、最後まで従わないのは、星の神 香香背男だけになった。そこで、建葉槌命を遣わして服従させた」とあります。最後まで、従わなかったのは、星の神 香香背男です。
美作には、久米郡倭文中村油木に、倭文神社があります。星の神 香香背男を祀った神社が、五座あります。(志呂神社、榊葉神社、高津神社、少彦名神社、八幡神社)。久米郡三保村錦織には、瀬織姫命を祀った錦織神社があります。
ということは、いつの時代か判りませんが、美作では、絹を使って織物をしていたことが判ります。絹を作っていたかどうかは、これだけではわかりません。
上野国佐波郡の中心に当たるところは、伊勢崎市になります。群馬県には、建御名方神を祭った神社が三社あります。従いまして、建御名方神は諏訪だけではなく、伊勢崎市にも関係があったことになります。この近辺では、現在の織物の町は、秩父、八王子、桐生、足利、伊勢佐野、武蔵になります。こうした地域で生産された絹は、伊勢崎市に集積されたので、最も大きく倭文神社がつくられたのではないでしょうか? 
ずっと、後のことになりますが、東大寺献物帳によると、和銅7年(714年)に上野国(今の群馬県)がはじめて「あしぎぬ」を織って朝廷にさしだしたことや延喜5年(905年)当時の租税制度に上野の国の税金は「あしぎぬ」と定めてありますから、この頃には、米が取れない代わりに絹を出したと思われます。もっと、時代が下りますと、桐生では水車動力を各工程に利用し、多くの反物ができ「市」が賑わい、桐生の織物がたくさん売れ、全国に普及していった結果、天命年間には日本のお金の三分の一が桐生にあったといわれる位、多くの織物屋にお金が集ったそうです。。この辺りの織物について書かれたものを読みますと、殆ど、江戸時代・明治になって養蚕が活発になったように書いてありますが、古事記が出来たときには、すでに、絹が重要視されていたことがわかります。
1738年に伊勢崎藩主に提出された茂呂村(現在の伊勢崎市)の買上帳に
一、絹織り出し六百疋、但し近年繭にて近江商人に受け渡し、または糸に仕候。
一、絹、数の儀はおおかた弐百五十疋程。
という古文書が残っていますから、近江商人との関係がわかります。
美作国と上野国のことのみ書きましたが、倭文神社の分布を眺めながら、いろいろ考えて頂ければと思います。それと、No117、118に掲げました諏訪神社の分布もあわせて眺めると違ったことが浮かんできます。 

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2005.08.04

古事記を読む   諏訪神社全国の分社から判ること

No118
もう一度分布表です。
平成11年10月現在 諏訪大社調べ
新潟 長野 東京 神奈川 埼玉 群馬 千葉 茨城 栃木 山梨
1658 1219  94  98  338  438  151  83  72  196

宮城 福島 岩手 青森 山形 秋田 三重 愛知 静岡 岐阜
36  185  24  15  86  57  42  105  171  151

福井 富山 京都 大阪 兵庫 奈良 滋賀 和歌山 鳥取 島根
33  297  16  16  50  11  24  24  31  62

岡山 広島 山口 徳島 香川 愛媛 高知 福岡 大分 佐賀
69  43  34  36  22  23  24  71  25  29

熊本 長崎 宮崎 鹿児島 北海道 沖縄
65  11   37   129   7   0

① 一番に気がつくことは、長野より新潟の方が多いということです。両県とも他府県より多いのがわかります。ミシジグの神は、地元の神さんではなく、はじめは、新潟県に上陸した神でしょう。それから、何年かかって、諏訪湖の地に移動したかわかりませんが、なにか諏訪には素晴らしいものがあったのでしょう。
② 現在の絹の三大産地は、群馬、埼玉、福島です。
③ ②に続く県は、千葉、山科、静岡、富山、岐阜です。

次の表をごらんください。全国にある織物の団体名です。
都道府県名 事業実施主体名
山形    鶴岡絹人繊織物構造改善工業組合  /米沢織物工業組合
福島    福島県絹人繊織物構造改善工業組合
群馬    桐生織物協同組合 /群馬県生絹織物協同組合
埼玉    埼玉絹人繊織物工業組合
東京     八王子織物工業組合
神奈川    神奈川県織物工業組合/十日町織物工業協同組/
新潟   十日町織物工業協同組合 /小千谷織物同業協同組合 /五泉織物工業協同組合
山梨   山梨県絹人繊織物工業組合
岐阜   岐阜県絹人繊織物工業組合
富山   富山県南部絹人繊織物構造改善工業組合
石川   小松織物工業協同組合 /石川県織物工業協同組合
福井   福井県絹織物工業協同組合/春江ちりめん協同組
滋賀   浜縮緬工業協同組合
京都   西陣織工業組合/丹後織物工業組合
兵庫   兵庫県絹人絹織物工業組合
福岡      博多織工業組合

鹿児島と長野を除くと略、二つの表は一致します。現在、絹に携わっているかたは、紀元前からのつながりがあると考えていいと思います。
④ 新潟県は、何故、三つの団体に分れているのでしょうか? 加入している人が多いということでしょうか? 調べていません。
④ 絹は、群馬、埼玉、福島で昔も作られていたと思われます。それは、織物の神である、倭文神を祭る倭文神社が、全国に14社残っています。このことは、別に書こうと思います。この地方で、作った絹を日本中に売っていたのではなく、中国を介して、ヨーロッパに売っていた可能性があります。多くの人が、この商売に携わったと思われますが、諏訪神社の分布が多いところは、その地を通過して絹を運んでいたのではないかと思います。一番のメインは、九州に運んでいたのではないかと推察しています。
⑤ 近畿地方と瀬戸内海の各府県をみてください。全部、諏訪神社が少ないです。このルートは、諏訪神社と別の人たちが絹を運んでいたと推察しています。
まだ、全部調べていませんが、このルートの近くで発掘される古墳からは、漢鏡が出土していますから、中国の漢の時代に、日本に渡来していた人の可能性があります。勿論、漢人から信頼されて漢鏡を貰った人とも考えられますが、漢人が関与していたと推察して良いと思います。
⑥鹿児島だけが多いのは、どのように考えたらいいでしょうか? 海のルートがあったということでしょうか? 追求したい点です。 

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2005.08.02

古事記 諏訪神社全国の分社

No117
新潟 長野 東京 神奈川 埼玉 群馬 千葉 茨城 栃木 山梨
1658  1219  94  98  338  438  151  83  72  196
宮城 福島 岩手 青森 山形 秋田 三重 愛知 静岡 岐阜
36  185  24  15  86  57  42  105  171  151
福井 富山 京都 大阪 兵庫 奈良 滋賀 和歌山 鳥取 島根
33  297  16  16  50  11  24   24  31  62
岡山 広島 山口 徳島 香川 愛媛 高知 福岡 大分 佐賀
69  43  34  36  22  23  24  71  25  29
熊本 長崎 宮崎 鹿児島 北海道 沖縄
65   11   37   129   7    0

上の表は、No112の③において、「建御名方神は、伯耆と信濃の間を行き来していたことになります。そして、逃げるときには、こうした人々の支援があって本拠地である諏訪大社まで辿りつきました」と書きましたものの、根拠がありません。伯耆国と信濃国の間には、建御名方神を祭った諏訪神社が無数にあります。諏訪大社が、いつ出来たのかわかりませんが、全国の諏訪神社は、諏訪大社ができた後にできたのではないでしょうか。 このことが正しいかどうか知るために、全国に分布する諏訪神社を調べました。

諏訪神社だけが、ぽつんとできるはずはありません。やはり、何らかの形で、諏訪大社と関係がある人が、其の土地に住みつき、その後、諏訪神社を作ったと思われます。無くなるときは、二通りになります。諏訪神社と関係ある人が、全く居なくなり、神社を守る人が居なくなった場合。何らかの圧力が加わり、神社を祭ることが出来なくなった場合。後者は、近いところでは、例えば、明治になったときに、政府の力で、8つあつた神社が、1つに統合されたりしました。代表の神社の名前は残りましたが、他の神社の名前はなくなりました。運がよければ、摂社とか、末社の名前で、代表の神社の境内に、小さな祠の形で残りました。
上の表は、建御名方神がいた時代の数字ではありません。長い年月の間に、新しくできたり消滅したりしていますから、正確には、判断に使うことは出来ないかもしれませんが、大まかな傾向はつかめるのではないかと思います。
建御名方神は、自分でも力の強さでは自信があったのに、相手の力は、それ以上でしたから、逃げても直ぐに捕まるはずですが、捕まらなかったということは、助ける人がいたと考えても悪くはありません。助けるとしますと、見知らぬ人は誰も助けません。知っていてもなかなか助けません。人間利害が絡んだり、恩を受けていますと助けますから、建御名方神と助けた者のあいだには、そのようなものがあったと考えます。
大昔は、どういう経過があって、山の中とか海際に住んでいたか判りませんが、石器時代の集落の跡が、あちこちで見つかっています。考え方としては、ある土地に住んでいた人が、そこを基点にして、どんどん移り住んだとも云えますが、別々に住んでいたかも知れません。動物が自分のテリトリーの範囲でのみ、生きているようにです。なにかと出来事があって、その範囲内で生きていくことが出来なければ、産む人数を減らして乗り切ります。それでも、食料が少なくなる、寒くなるなどの環境が厳しくなれば、移動することになります。このようなことが無ければ、自分のテリトリー内で過ごします。たまたま隣村に、優れたものがあるときは、ほしくなります。奪い取るか、向こうがほしがるものと交換になります。頻繁に行き来しますと、道が生まれます。
道を介して、品物と人が行き来します。今でいう商売になります。建御名方神は商売をしていたのではないでしょうか?
伯耆と諏訪のように遠くても商売はしていたのだということを説明するために、無い知恵を絞ってここまで、書いてきましたが、忘れていました。
 三内丸山遺跡では、北海道産の黒曜石・岩手県久慈産のコハク・秋田県産のアスファルト・新潟県姫川産のヒスイなど遠隔地との交流を示す遺物も出土していました。もう一つ挙げますと、岡山県北部の奥津町久田堀ノ内遺跡では、整理箱にして100箱をこえる大量の縄文晩期前葉(約3000年前)の土器・石器・玉等の遺物が発見されています。この中には、東北~北陸・関東・近畿・九州地方との関わりを示す土器や北九州産の可能性のある玉のほか、新潟県姫川産のヒスイ、香川県産のサヌカイト、島根県隠岐島産の黒曜石などが含まれています。建御名方神は紀元前160年頃のことですから、伯耆と諏訪間など、交流は当然あったことになります。
問題は、何を運んでいたかということになります。候補としては、一番に漆、絹、鉄、水銀などが挙げられます。物質も諏訪から伯耆まで運んだだけではありません。伯耆を基点にして、中国そして、世界に向けて輸出をしていたのではと考えています。
漆は、平成13年に、北海道・南茅部町の垣ノ島B遺跡にて、9000年前のものが見つかりました。これは、中国の7000年前のものより、古く、日本の英語名のJAPANが、辞書を引くと、一番に漆があるところを見ると、漆は日本が原産地かもしれません。絹の原産地は中国ということになっています。絹は残りませんので、遺跡から発掘される例は少なく、絹に関する書物もおおくありません。エルネスト・パリゼー著の「絹の道」という本がありますが、原著は1862年に書かれた古いもので、3世紀以前のことも書かれていますが、詳しくはありません。日本では布目順郎氏が、詳しく絹のことを研究されていますが、日本の遺跡で見つかったものは、すべて、中国のものであると書いておられます。私は、確たる証拠はありませんが、逆ではないかと思っています。それどころか、日本の絹は、始めは、所謂、北の絹の道を通ってではなく、中国の雲南省、ビルマ、インドを通って、ヨーロッパまで運ばれていたのではないかと想像しています。
鉄も良質のものは、日本から中国へ輸出されたのではないか・・・。水銀は、全く調べていませんが、水銀に関する神社は相当多く分布しています。ずっと、後のことになりますが、空海が最澄と一緒に遣唐使として、中国へ渡りました。最澄は、国費で行きましたが、空海は自費渡航でした。その3~4年間は、空海がどこにいたか判らないことになっています。四国で修行していたなども読んだような気がしますが、旅費の工面として水銀の採取をしていたのではないかと思っています。空海は、膨大な経典を持ち帰っています。中国に残るように云われたぐらいですから、これらの経典は、無料で頂いたことも考えられますが、帰国後、最澄から貸してほしいと依頼していますから、最澄はそれほど、持ち帰らなかったのかも知れません。
水銀は、中毒で有名です。どのような症状になるのか知りませんが、毒性のあるものは、少量を使うと薬になるはずです。秦の始皇帝が、徐福に不老長寿の薬を探してくるように命じたという伝説がありますが、それを求めて日本に来たのであろうという伝説もいっぱいです。意外と水銀は不老長寿の薬かもしれません。このように考えていきますと、日本から輸出できるものは他にもあると思います。
建御名方神が諏訪から、運んでいたと仮定しますと、漆、鉄、水銀は除去されます。州絹は現在、諏訪にはありませんが、周りにはいっぱいあります。このことについては、改めてかくことにします。
諏訪神社全国の分社の分析をするつもりが、とんでもない話になりました。
もう一度、次回に挑戦したいと思います。

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2005.07.31

古事記を読む  建御名方神は、誰の子供か

No116
そりゃ オオクニヌシの子供に決まっています。No112をご覧ください。
「亦有可白子乎。於是亦白之。亦我子有建御名方神。除此者無也。如此白之間。其建御名方神」と談判の相手に、返事をしています。ところがおかしいことがあります。今度は、No91の大国主の末裔をごらんください。
最後に、数えてくださいと書きましたが、数えられましたか? 大国主の子供が羅列してあります。なぜこのように、お母さんと子供の名前を書いたのか、この点も理解できません。
しかし、書いて置いてくれたお陰で、次のことが発見できました。
No91の大国主の末裔には、12名しか書かれていません。
「右件自八嶋士奴美神以下。遠津山岬帶神以前。稱十七世神」と書かれています。17人の神さんが書かれていたはずです。八嶋士奴美神は最初に書かれていたはずです。「いなばの白うさぎ」に出会った後、河原町の八上姫に逢いに行き、結婚して出来た子供が、木俣神ですが、この神もありません。建御名方神もありません。
この三人の神を数えても、まだ二人足りません。誰かが、古事記に書かれていた五人を削除したことになります。古事記の作者は、書いておきたかったことになります。
 話は変わりますが、日本書紀にやはり、天孫降臨に関する記述があります。
天照大神は,武甕槌神(タケミカヅチノカミ)と経津主神(フツヌシノカミ)を出雲の五十田狭(イタサ)の小汀(オバマ)に派遣し、大己貴神(オオアナムチノカミ・大国主命と同じ)に国を明け渡すように談判しています。
大国主命は子供の事代主神の意見を聞いて、事代主神が葦原中国を明け渡すことに同意したので、大国主命も同意して、「おかくれになった」と書いてあります。死んだことになっています(?)。以後、出雲における大国主命のことも出てきません。(建御名方神は稱十七世神に入っていなかったかも知れません)   こんな話もありますという形で、
武甕槌神と経津主神は、服従しない神々を誅殺した(草木石にいたるまで)が、まだ服従しない神がいた。その神の名前は、星の神の香香背男であった。そこで、倭文神(シトリガミ)の建葉槌命(タケハツチノミコト)を派遣したら、この神も服従した。
最後まで服従しなかった部分は、建御名方神と同様ですが、建御名方神は、力持ちの神さんで、その後、諏訪大社では武人の神さんとして祭られています。建葉槌命(タケハツチノミコト)を派遣したら、この神は服従したのですから、最後まで服従しなかったのは、建御名方神が最後だったのでしょう。大国主の末裔に、星の神の香香背男を加えたいと思います。
日本書紀の作者は、事代主神と香香背は書いても良かったのですが、建御名方神も他の大国主命の子供のことは書きたくなかったことになります。
建御名方神と星の神の香香背男が別の神である証拠に、全国に、星の神の香香背男を祭った神社がいっぱいあります。
建葉槌命は古事記には、記載されていませんでした。倭文神の神とは、織物の神さんです。
アメリカと繊維のことでトラブルに成ったときのようなものです。文部大臣を派遣しても埒があきません。織物の神で解決したということは、経済問題は解決したことになります。

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2005.07.29

古事記を読む  諏訪神社の年間行事

No115
1月1日早々、①歳旦祭、②若宮社祭を終えると、宮司以下神職一同、神橋の上に整列、
③蛙狩神事(カワズガリ)が始まる。
蛙狩神事とは、どのようなことをするかと言いますと、御手洗川に入った二人の人が、神鍬でもって川を掘り返し、蛙を見つける。川辺に待ち構える権宮司が、それを白木の三宝に載せて、幣拝殿に向かう。
拝殿正面の祭員が、受け取り柳枝の弓と篠竹の矢で、蛙を射抜きます。
この蛙を神前に捧げ、宮司が祝詞を捧げ、国家平安と五穀豊穣を祈る。
このように書きますと、なんでもない神事ですが、眠っている蛙を6匹捕らえ、串刺しにし,生贄にします。見ていますと少々残酷な気がしますが、元旦からしなければならないことでしょうか? 他の神社でも行われているでしょうか?
続いて、拝殿にて ⑤御頭御占神事が行われる。
御頭御占神事とは、御頭祭を司る村を占いによって決める神事です。10の郷から選ばれた郷を御頭郷といい、1月5日には、⑥御頭受の神事、11日には、御頭の村の社宮司社に⑦御符納(ミフオサメ)の神事がある。 このほかにも、
 『この日から、御頭郷は、村境に精進潔斎のため、境〆の幣帛が四か所に立てられる。村の御頭御社宮司社近くに、神使(オコウ)と奉仕する氏子、鹿人(ロクビト・料理人)などの住む「精進屋」という建物を作る。この建物に神長はミシャグジの神を降ろし、・・・・・3月の御頭祭まで準備にはいる』ここまで、長かったですが、宮坂光昭著 『諏訪大社の御柱』から抜粋しました。どれほど、大変なことをするのかということを知って頂くためです。神使は6人の幼童が決められ、14名の神代神主がきめられ、以後神事をおこないます。選ばれた村は、こうした決定を断ることはできず、一年間神事に携わることになります。大きな行事としては、其の他、11月28日の神使御立座神事です。この行事のことは省きますが、御頭祭に要するものは、江戸時代の記録では、鹿75頭、いのしし、兎、海産物など山海の珍味が用意され、千両の金子が必要であったといいます。
さて、問題の御頭祭ですが、行われるのは、4月15日です(以前は3月の酉の日)。
神前には当然、鹿の頭が供えられます。現在は75頭とはいかないそうです。想像するだけでも、凄い光景があったと思います。
日本の神社では、供物は稲を筆頭に、植物ばかりと思っていましたから、動物を生贄は一番気になるところです。これは外国から伝えられたと考えるしかないと思います。
気になる行事は、下社で、2月1日と8月1日に行われる遷座祭です。神社は春宮と秋宮がありますが、神霊は、両方に住むわけにいきませんから、この日に、神さんとともに、行列をして移動することになります。そのためには、神さんに神輿に乗って頂く事になります。冬に山で住んでおられた神さんに、お正月に里に降りていただき、田の神さんとなって貰い、収穫が済んだら山に帰ってもらうところと、少し似ているような気もしますが、
少し違うような気もします。 ミシャグジの神は外国の神でしょう。

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2005.07.27

古事記を読む  諏訪大社と建御名方神

No114
諏訪大社は長野県の諏訪湖を挟んで、南と北にある四つの神社の総称です。
南には、諏訪市と茅野市にまたがって上社があり、上社は本宮・祭神は建御名方神と、前宮・は祭神は八坂刀売神(ヤサカトメノカミ・建御名方神の妃神)の二つの社からなります。湖の北には下社があります。下社も春宮と秋宮の二つの社からなり、祭神は建御名方神、八坂刀売神、相殿・八重事代主神(ヤエコトシロヌシノカミ・建御名方神の兄神)です。
全国に諏訪神社と称する神社・末社は、一万を超えると言われますが、大社と呼ばれるものは、長野県のこの神社だけです。延喜式神名帳には南方刀美神社(ミナカタトミノカミ)と記され、信濃国四十八座の第一にあり、当時既に信濃国一之宮として信仰されていました。「明治四年に国幣中社に列格、同二十九年に官幣中社、大正五年に官幣大社に昇格し、終戦を迎え昭和二十三年に諏訪大社と改称致しました」と大社の由緒にありますから、諏訪大社となったのは、最近のようで、初めから、四つの神社があったわけではなさそうです。
大社と呼ばれるのは、現在、島根県の出雲大社、静岡県の三島大社、長野県の諏訪大社、和歌山県の熊野速玉(はやたま)大社、熊野那智(なち)大社、熊野本宮大社、滋賀県の日吉大社、多賀大社、京都府の松尾大社、伏見稲荷大社、大阪府の住吉大社、奈良県の龍田大社、春日大社、福岡県の高良大社などがあります。大社の意味が良く判りませんが、日本書紀・持統天皇五年(691)のところに、「八月辛酉 遣使者祭、竜田風神信濃国須波、水内等・・・」とあり、持統天皇が諏訪神社に勅使を派遣され、朝廷との関係が深かったことが判ります。
次に、諏訪大社には本来神様が奉られる本殿と呼ばれるものがありません。代りに秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は守屋山を御神体として奉っています。
 神殿がなく、背後の山を御神体としている例としては、奈良の大神神社が三輪山を、春日大社が三笠山をそれぞれ御神体としている外、沢山ありますが、いずれも、古くからある神社ではないかと思われます。
このように、歴史は古いのですが、
712年に出来た古事記には、国譲りのところで、建御名方神は建御雷神との戦いで敗れ、諏訪の海まで追いかけられ、建御雷神に命乞いしたことになっています。南方刀美神社に逃げこんだのではありません。古事記の神話は、紀元前のことですから、諏訪大社は存在しなかったでしょうが、逃げていったということは、建御名方神を引き受ける人が、この辺りに居たのではないでしょうか? 
もう少し、遡って書いてみます。
 諏訪地方には、ミシャグジ信仰があります。このことについて調べようとしました。なぜかと言いますと、宮坂 光昭(諏訪市文化財専門審議委員長、諏訪市市史編纂委員)という諏訪地方の歴史の専門家がおられます。宮坂氏は、インターネットで、「諏訪の歴史と御柱」というタイトルで文章を書いておられます。
その中で、次の文章があります。「諏訪神社の祭神、タケミナカタニミコトという名前を知らなくても、御年輩の方たちは諏訪神社の御神体はヘビだということを、よく言います。それはみんな諏訪神社の中に残っている、一つのヘビの信仰から出ているわけですね」と、諏訪の人々のことを記しておられます。諏訪神社の祭神、タケミナカタニミコトであることは、知らない人はおられるということです。そりゃそうでしょう。私の家の近くの神社は、式内社の古社です。そして、私の子供たちは、生まれて直ぐに、この神社でお祓いを受け、大きくなってきましたが、子供も親も、祭神は誰かは知らないと思います。産土の神がだれであるか知らないのが普通です。
しかし、諏訪大社は格別です。七年目ごとに、御柱を建てます。そのために費やすエネルギーとお金は、他の町の人には、想像できないものであることを知りました。この神社では、お正月の行事として御頭祭というものがあり、鹿の頭を神前に供えるとある書物で見ましたので、確かめるために、平成16年の春に諏訪を訪れることにしました。間直になって、旅館を取ろうと思いましたら、取れません。七年に一回の御柱の日でした。大きな柱を谷底へ落とす話は知っていましたが、他のお祭に見られる観光客を巻き込んだ祭ではなく、諏訪の人々が、心の底から、祭りにどっぷり浸かっておられる様子に感激して、二日もお祭と付き合いました。
大阪・岸和田市のだんじり祭りのような激しさがあるわけでもないのに、祭が終わると町中の人が、腑抜けのようになると聞いています。話はそれましたが、「諏訪神社の祭神、タケミナカタニミコトであることは、知らない人はない」と思いました。
 宮坂氏は、また、次のようにも述べておられます。「いちばんもとの信仰体は何だろう、ということを探しているわけです。おぼろげながら私はミシャグジという信仰だというふうに思っております。諏訪神社の今の神事を見ておりましても、祝詞、あるいはいろんな神事を見てましても、オオクニヌシとかオオクニヌシノミコトの子どものタケミナカタノミコトですね、次男ですね、この方を祀るということは殆どありません。いつも神社の神事の中に出てくるのは、ミシャグジですね」
これは重大な発言です。諏訪大社は、行事が多いように思われます。上社では、一年に100回近くも行事があります。ということは、準備は2日で済まさなければなりません。タケミナカタニミコトなど全く、関係ありません。ミシャグジの信仰が基本だといっておられます。
 こうなりますと、ミシャグジを避けて通るわけには行きません。また、インターネットの力を借りることにしました。いろいろの方が書いておられます。
「ミシャグジは、ミシャグジ様、ミシャグチ、ミサグチと呼ばれます」 「漢字も当て字がいっぱいあります」 「自然万物に降りてくる精霊といわれています」 「諏訪湖の土着神で、縄文時代から祀られてきた」 全部、読んでも、これでは何のことか判りません。
長年研究されておられる宮坂氏でさえ、「おぼろげながら私はミシャグジという信仰だというふうに思っております」と言っておられます。

いろいろの方がミシャグジについて、述べておられますので、そちらで勉強して頂くとして、私は、四つの別の方向から、探ってみようと思います。次回は、100回ほど行われる神社の行事のうち、私が気になるものを紹介し,それでも気になる方は、自分で追及して頂こうと思っています。

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2005.07.25

古事記を読む   建御名方神の服従

No112
故爾問其大國主神。今汝子事代主神如此白訖。亦有可白子乎。於是亦白之。亦我子有建御名方神。除此者無也。如此白之間。其建御名方神。千引石{敬手}手末而來。言誰來我國而。忍忍如此物言。然欲爲力競。故我先欲取其御手。故令取其御手者。即取成立氷。亦取成劍刄。故爾懼而退居。
爾欲取其建御名方神之手。乞歸而取者。如取若葦。搤批而投離者。即逃去。故追往而。迫到科野國之洲羽海。將殺時。建御名方神白。恐。莫殺我。除此地者。不行他處。亦不違我父大國主神之命。不違八重事代主神之言。此葦原中國者。隨天神御子之命獻。

ここに、其大國主神に問いました。「今汝の子 事代主神 このよう白(モウ)すだろうか。亦白(モウ)すへき子は有るか」ととひたまいました。是に於いて亦、(大國主神は)白されました。「亦我が子、建御名方神が有る。此れを除いては、無き也」此の如く白うす間に、其の建御名方神は、千引(チビキ)の石を手末(タナスエ)にささげ來て、「言誰か來我國に來て忍び忍びに此の如く物言(モノイウ)  それなら、力競らべ欲爲(シタイ)  そして、我が先きに其の御手を取りたい」と言いました。そこで、其の御手を取りますと、即(ス)ぐに取成立氷に取り成し、亦、取成劍刄に取り成しました。そこで、懼(オソ)れて退(シリゾ)き居りました。
すると、(今度は)其の建御名方神の手を取りたくなって、乞うて歸って取りますと、若葦を取る如く、搤(ツカ)み批(ヒシ)ぎて投げ離しますと、即に、(建御名方神は)逃げ去りました。そこで、追うて往(イ)って、科野國(シナノコク)の洲羽海(スハノウミ)に迫(セ)め到たって、將(マサ)に殺ろそうとした時、建御名方神は言いました。「恐(カシコ)し。莫殺我を殺さないでください。此の地を地を除いては、他處へは行きません。亦、我父の大國主神の命に不違(タガイマセン)。八重事代主神の言うことに不違。此葦原中國は、天つ神の御子の命の隨(マニマ)に獻ります」と。
①「千引(チビキ)の石を手末(タナスエ)にささげ來て」の部分意味不明。千引の石とは、千人の人が引っ張らないと動かないほどの石ということでしょうか? 手末が不明。 
②取成立氷—氷になった? 取成劍刄---剣の刃になった? なんとなく雰囲気は判ります。
③上のようなことより、このページは重要なことが書いてあります。それは、建御名方神が伯耆の国から、信濃国の諏訪湖まで逃げたことです。何人で逃げ、何人で追いかけたとは書いてありませんが、最後には、追いつかれて殺されそうになり、命乞いをしたことになっています。「若葦を取る如く、搤(ツカ)み批(ヒシ)ぎて投げ離します」と書かれていますから、直ぐに、捕まったはずが、捕まらず、遠い信濃国の諏訪湖まで逃げています。逃げた道も書かれていません。建御名方神は諏訪湖にある諏訪大社に祭られています。伯耆国と信濃国の間には、建御名方神を祭った諏訪神社が無数にあります。
 ということは、この神社を支えている人は、何の気なしに建御名方神を祭っているはずがありません。建御名方神となにか関連があったはずです。このように考えると、建御名方神は、伯耆と信濃の間を行き来していたことになります。そして、逃げるときには、こうした人々の支援があって本拠地である諏訪大社まで辿りつきましたが、追いつかれました。
④そこで、命乞いですが、そのときの言葉は、「恐(カシコ)し。莫殺我を殺さないでください。此の地を地を除いては、他處へは行きません」です。ということは、この地以外に出かけていたということです。私は、諏訪湖周辺の絹を伯耆の国へ運んでいたのだと考えています。(この事は、又の機会に記します)
⑤「大國主神の命に不違(タガイマセン)。八重事代主神の言うことに不違。此葦原中國は、天つ神の御子の命の隨(マニマ)に獻ります」とうことによって、此葦原中國を収める権利を放棄しました。ということは、絹を輸出する権利も放棄したことになりますが、その権利を天照大御神が受け取り、輸出に関与したかどうかは、これからの調べによります。

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2005.07.22

古事記を読む  事代主神の服従

No111
是以此二神降到出雲國伊那佐之小濱而【伊那佐三字以音】拔十掬劍。逆刺立千浪穗趺坐其劍前。問其大國主神言。天照大御神、高木神之命以。問使之。汝之宇志波祁流【此五字以音】葦原中國者。我御子之所知國。言依賜。故汝心奈何。
爾答白之。僕者不得白。我子八重言代主神。是可白。然爲鳥遊、取魚而。往御大之前。未還來。故爾遣天鳥船神。徴來八重事代主神而。問賜之時。語其父大神言。恐之。此國者立奉天神之御子。即蹈傾其船而。天逆手矣。於青柴垣打成而隱也【訓柴云布斯】
翻訳
是れ以って、此の二神は、降到出雲國の伊那佐の小濱に降り到って、十掬劍を拔いて、逆に、打ち寄せる浪の穗に刺して立て、其の劍の前に(アグ)み坐(マ)して、其大國主神に問い言いました。「天照大御神と高木神の命(ミコトを)(モ)って、問うように使わせました。汝の宇志波祁流(ウシハクル)葦原中國は、我が御子の知らす所の國ですと言って依り賜まわれます。汝の心は奈何(イカニ)」
爾に答えて白(モ)うされて、「僕はよう白(モ)うしません。我の子の八重言代主神が、是に白うすのがよいでしょう。しかし、鳥と遊び、取魚を取りに御大(ミホ)の前(サキ)に往(イ)つて、未だ還って來ません」といいました。そこで、天鳥船神を遣って、八重事代主神を徴(メ)して來て、問い賜いし時、其の父の大神に語って言いました。「恐之、此の國は天神の御子に立奉つります」と言って、即に、其の船を蹈(フ)み傾けて、天の逆手(サカテ)を青柴垣に打ち成して隱れてしまいました。
① 天照大御神、高木神之命以。問使之。この部分の「命」は岩波の翻訳書ではミコトと読ませていますが、命令のことのようです。No101においても、「天照大御神之命以」とあります。天照大御神は高天原にいなくて、他のところから命令したのではないでしょうか?
② 逆刺立千浪穗趺坐其劍前とは、劍の先を砂に突き刺したのではなく、握るところを突き刺したのでしょうか? これでは、あまり脅かされた感じがしません。談判のときの儀式のようなものだったのでしょうか? 日本書紀では、刃先の上に座ったとあります。
③ 宇志波祁流が判りません。葦原中國を修飾する言葉でしょうが。
④ 即蹈傾其船而とあります。蹴ったぐらいで傾くぐらいですから、ボートぐらいのものでしょう。
⑤ 「青柴垣打成而隱也」が判りません。青柴垣とは、何でしょう。柴で作った垣であれば、青くありません。青い部分の残っている柴垣としましょうか? その垣を「打成」とは叩いて壊したということでしょうか? 又、「隱也」とは居なくなってしまったということでしょうか? そんなことで赦して貰えるのでしょうか? 死んでしまったということでしょうか?

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2005.07.20

古事記を読む  建御雷神

No110
原文
於是天照大御神詔之。亦遣曷神者吉。爾思金神及諸神白之。坐天安河河上之天石屋。名伊都之尾羽張神。是可遣【伊都二字以音】若亦非此神者。其神之子。建御雷之男神。此應遣。且其天尾羽張神者。逆塞上天安河之水而。塞道居故。他神不得行。故別遣天迦久神可問。故爾使天迦久神。問天尾羽張神之時。答白。恐之。仕奉。然於此道者。僕子建御雷神可遣。乃貢進。爾天鳥船神副建御雷神而遣。
訳文
 ここに天照大御神は詔りたまわれて「亦、曷(イズ)れの神を遣(ツ)かわせば吉(ヨイ)だろうか」
と。爾に、思金神及び諸の神が白(モウ)されて「天の安河の河上の天の石屋に坐す、名は伊都之尾羽張神(イツノオハバリノカミ)、是を可遣(ツ)かわす可し。もし、この神がだめであるならば、其の神の子である建御雷之男神(タケミカヅチノカミ)、此れを應えて遣わそう。また、其の天尾羽張神(アメノオハバリノカミ)は、天の安河の水を逆に塞ぎ上げて、水を塞いで居るので、他の神が行くことが出来ない。故に、別つに天迦久神(アメノカクノカミ)遣わして問うわしてみよう」
そこで、天迦久神を使いに出して、天尾羽張神に質問させたら、答えて白(モウ)しました。「これは、恐れおおいことです。仕え奉りましょう。然し此の道に於いては、僕(ワ)が子の建御雷神を遣わしましょう。乃(スナ)わち、貢(タ)てまつります。爾に、天鳥船神を副えて建御雷神を遣わしました」
① No24をみてください。迦具士神を産んだために、イザナミが死に、怒ったイザナギが迦具士神を切ったときに使った刀の名前が、伊都之尾羽張(天之尾羽張)です。そして、そのときに生まれた神のうちの一人が、建御雷之男神です。天尾羽張は刀の名前でもあり、建御雷之男神の親でもあります。よく理解できません。
② No55 の天の岩戸にアマテラスが避難したときに、天の安河原に神々が集まって、相談して、天の安河の河上の天の石屋から天堅石を取ってくる話があります。ここに書かれている同じ、天の安河だと思われます。伊都之尾羽張神は刀の名前ですから、刀に関係があるのかと思えば、違うようです。天堅石は天の金山の鐵を取るために必要でした。その鉄で、鏡を作ったのですが、今回は、刀をつくっていたのでしょうか? 建御雷之男神は、その息子ですから、素晴らしい刀を作る人であったのかも知れません。
③ 天鳥船神が家来として同伴します。なにかの役に立つはずです。この神は、イザナミとイザナギが、国生みのときに、生んだ神の一人です。No20に出ています。別名、鳥之石楠船神です。 字句のまま、解釈すると、石と楠で出来た船で、舳先に鳥の飾りでもあるのでしょう。この神は、ヒルゼン高原のどこかの神社で祭られていたので、神話に取り込んだと思うのですが、見つかりません。それどころか、全国的に見ても少ないです。千葉県神埼町神崎に神崎神社があり、この神社の祭神です。このあたりから、調べるとなにかわかるかもしれません。 先導役でしょうか?

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2005.07.16

古事記を読む  葦原中国は、伯耆の国にあった

No 109
此者在美濃國藍見河之河上喪山之者也。其持所切大刀名謂大量。亦名謂神度劍【度字以音】故阿治志貴高日子根神者忿而飛去之時。其伊呂妹高比賣命。思顯其御名。故歌曰。阿米那流夜。淤
登多那婆多能。宇那賀世流。多麻能美須麻流。美須麻流迩。阿那陀麻波夜。美多迩布多和多良須。阿治志貴。多迦比古泥能迦微曾 此歌者夷振也。

読み下し
此れは、美濃國藍見河の河上に在る。喪山はこれなる也。其の持つ所の切れる大刀の名は大量と謂う。亦の名は神度劍と謂う。そして、阿治志貴高日子根神が忿(オコ)って、飛び去る時。其の伊呂妹(イロモ)の高比賣命、其の御名を顯(アラ)わそうと思って、そこで、歌って言いました。
阿米那流夜(アメナルヤ) 淤登多那婆多能(オトタナバタノ) 宇那賀世流(ウナガセル) 多麻能美須麻流(タマノミスマル) 美須麻流迩(ミスマルニ) 阿那陀麻波夜(アナタマハヤ) 美多迩布多和多良須(ミタニフタワラス) 阿治志貴(アジシキ) 多迦比古泥能迦微曾(タカヒコネノカミソ) と歌いました。
此の歌は 夷振(ヒナブリ)也。

検討します。
①「此者在美濃國藍見河之河上喪山之者也」 この文章は奇怪なる文章です。阿治志貴高日子根神が、死人と間違えられたと怒って、十握剣を使って、喪屋を叩き切りました。そして、急に、この文があります。その後は、太刀のことが記されていて、全く、関係ありません。
 この文章の前後は、誰かが、抹消したことになります。ついでに、この文章も消せばいいのに、残しました。この文章と同じことが、日本書紀にあります。
 「乃拔十握劒斫倒喪屋。其屋墮而成山。此則美濃國喪山是也」
 このことから、日本書紀の編纂に関わった人が、古事記に細工をしたことがわかります。

 この文章からですと、阿治志貴高日子根神は、弔いに美濃國藍見河に行ったことになります。
死んだ天若日子は、アマテラスの命令で、葦原中国の平定をするために、大国主命のところに派遣されました。美濃國藍見河のような山の中ではなく、葦原の茂っているところです。
No26において、イザナミが黄泉の国へ行ったときの事を記しました。現在の西伯郡会見町の御墓原のところです。この部分でも書きましたが、意味が判らなくなっています。誰かが、イザナミが死ぬ前に、伯耆の国に居たということを知られたくなかったために、意味が不明になっていましたが、この部分でも、伯耆の国の出来事だとは書きたくなかったことが判ります。
古事記には、「会見(アイミ郡)の河上の喪山」と書かれていたのでしょう。会見を藍見河と書き改めるだけでは、判らなかったらいけないので、美濃国と付け加えました。日本書紀では、丁寧に、喪屋を切り倒すと、喪屋は天から地上に落ちて山になったとあります。天高原は、美濃國藍見河の真上にあることになります。会見の御墓原という所は、入院先でもあり、死んだら、直ぐに喪屋が作られたところでもあり、黄泉の国でもあったわけです。
このように、隠したく思ったということは、「葦原中国は、伯耆の国にあった」の証明するようなものです。
 
 ②伊呂妹(イロモ)の高比賣命は、阿治志貴高日子根神と同じ母の妹。
 ③「其の御名」の御名は、阿治志貴高日子根神のことでしょう。
 ④歌の部分は、岩波文庫の訳によりますと、
   天(アメ)なるや 弟棚機(オトタナバタ)の 項(ウナ)がせる 玉の御統(ミスマル)
 御統に 穴玉はや み谷 二渡らす 阿治志貴高 日子根の神ぞ

注釈として、次の文があります。
 天上界にいるうら若い機織女が、頸にかけておいでの、一本の
 緒に貫き統べた首飾りの玉。首飾りの玉よ、ああ。その玉のよう
に谷二つにも渡って照り輝いておいでのアジキタカヒコネの神
である。
この歌は雷神の電光を讃嘆したもの。

とあります。注釈を読んでも何のことか理解できません。
この歌と同じものが、日本書紀にも収録されています。日本書紀では、もう一首の歌が書かれています。これをどのように解釈したらいいのか、迷うところです。

 ⑤「其持所切大刀名謂大量」の「大量」は、「おほはかり」と、岩波文庫の訳では、振り仮名があります。「大呂」が、No62において、出てきます。関係はないのだろうか?
 ⑥会見町の御墓原の西の方に、「高姫」という地名があります。「高比売」との関係は?

参考に、日本書紀の同じ部分の原文を挙げておきます。

故味耜高彦根神登天弔喪大臨焉。時此神形貎自與天稚彦恰然相似。故天稚彦妻子等見而喜之曰。吾君猶在。則攀持衣帶不可排離。時味耜高彦根神忿曰。朋友喪亡。故吾即來弔。如何誤死人於我耶。乃拔十握劒斫倒喪屋。其屋墮而成山。此則美濃國喪山是也。世人惡以死者誤己、此其縁也。時味耜高彦根神光儀華艶映于二丘二谷之間。故喪會者歌之曰。或云。味耜高彦根神之妹下照媛。欲令衆人知映丘谷者。是味耜高彦根神。故歌之曰。阿妹奈屡夜。乙登多奈婆多廼。汚奈餓勢屡。多磨廼彌素磨屡廼。阿奈陀磨波夜。彌多爾輔■和■邏須。阿泥素企多伽避顧禰。又歌之曰。阿磨佐箇屡。避奈菟謎廼。以和多邏素西渡。以嗣箇播箇■輔智。箇多輔智爾。阿彌播利和■嗣。妹慮豫嗣爾。豫嗣豫利據禰。以嗣箇播箇■輔智。此兩首歌辭今號夷曲。』

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2005.07.14

古事記 No108 閑話休題 編年体と記伝体

No108
編年体と記伝体は、歴史書において歴史的事実を表す方法の呼び方です。実例を挙げたほうが理解し易いので、代表をあげますと、『日本書紀』は編年体、『古事記』が記伝体で書かれています。編年体は、「何年何月に、次のようなことがあった」という形式で書かれています。日本書紀は、ただそれだけでなく、一書に曰くというような文章が書かれています。一書どころでなく、十書を越える記事が列挙されています。
 これだけ、いろいろの書物がありますが、それぞれの書物には、このように書かれています。しかし、添え書き以外の部分、即ち、日本書紀の作者が正しいと思っている内容は、本文に当たるところに書かれています。だけど、読者の皆さんは、他の書物を参考に掲げておきますから、ご自分で考えてくださいという雰囲気になっています。
 さて、一書ですが、一例も現実に残されていません。従いまして、書かれていることの真偽は確かめる方法がありません。他の一書に当たるものとして、古事記があります。記事に似ている部分が多々ありますが、この部分は古事記から借用したと思われるところは皆無です。それどころか、古事記も発行されてから、100年も行方が分かりませんでした。
 一書にあたる部分は、全部作り話であると断定する根拠はありませんので、実在したとします。では、なぜ、一冊も残っていないのか不思議なことです。
 随分、後のことになりますが、風土記という書物が残っています。どうやら、全部の国に、その国の様子を書いて提出するように命じたと思われますが、残っているのは、五ヶ国の風土記だけで、それも、完全に残っているのは、出雲風土記だけらしいです。
 そんなに、見事に無くなる事はありうるでしょうか? 日本書紀の他の資料と同様に、処分されたと考えるのが自然だと思われます。その理由は推察するしか方法はありません。その方法は、無くなったものからは推察できませんから、残っている風土記に何が欠けているかを調べることによって、ある程度推察できるのではないかと思われます。

私がこれまで接して来た書物では、日本書紀が編纂されたとき(720)、先進国と言われた中国や朝鮮は、国史は、編年体で書かれており、日本書紀はそれに加えて、「他の一書」が多いので、信頼おける。それに対して、古事記は記伝体で、書かれている記事が、正確には、何時の事実であるか判らないので、信用が置けないというものでした。外国の歴史書を全部ピックアップして、編年体で書かれているのか、記伝体で書かれているのか、確かめていませんので、正確には判りませんが、中国では、記伝体が多かったように思われます。
記伝体のほうが、一つの話題の記述は、流れが良くわかるのと、詳しいように思われます。
編年体の方は、年月が書かれていますから、どちらの事件が、先に起こったか理解し易いです。No13をもう一度、ご覧ください。この文章は、編年体で書かれた記事のうち、壬申の乱のときの天武天皇の部下の記事だけ抜き出したものです。このような事をすると、別の意味で真実が浮かび上がります。 研究する余地のある部分です。

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2005.07.08

古事記を読む 阿遲志貨高日子根神の弔い

No107
原文
此時。阿遲志貴高日子根神【自阿下四字以音】到而。弔天若日子之喪時。自天降到天若日子之父。亦其妻。皆哭云。我子者不死有祁理【此二字以音。下效此】我君者不死坐祁理云。取懸手足而哭悲也。其過所以者。此二柱神之容姿甚能相似。故是以過也。
於是阿遲志貨高日子根神大怒日。我者愛友故弔來耳。何吾比穢死人云而。拔所御佩之十掬劍。切伏其喪屋。以足蹶離遣。
訳文
此の時、阿遲志貴高日子根神(アジシキタカヒコネノカミ)は到りて、天若日子の喪(モ)を弔(トム)らった時、天より降り到った父とまたその妻は、皆哭きながら云いました。「我が子は死なないで有り祁理(ケリ)、我が君は死七位で坐まし祁理」といいながら、(阿遲志貴高日子根神の)手足に取り懸(カカ)って哭き悲しむ也。其の過(アヤマチ)の所以(ユエ)は、此の二柱神の容姿は甚だ相よく似ていた。是れ故に、以って過(アヤマチ)也。
是に於いて阿遲志貨高日子根神は大へん怒って日(イ)う、「我は愛する友故に、弔らいに來たのですよ。何で吾を穢(キタナ)い死人と比らべる」と言いながら、御佩(ハカ)せる所の十掬劍(トツカノツルギ)を拔いて其の喪屋(モヤ)を切り伏せ、足を以(モチ)て、蹶(ク)ゑ離ち遣(ヤ)りました。

検討
① 阿遲志貴高日子根神は大国主の子供で、母の名は、多紀理姫。同じ母の兄弟に、高姫(天若日子の妻の下照比売)がいます。両方とも「高」がつきます。阿遲志貴は地名ではないでしょうか? どちらにしても、弔いにきたのですから、近くに住んでいたのでしょう。阿遲志貴高日子根神に、(根)がついています。これが判りません。
② 我子者不死有祁理の部分の「祁理」は「けり」と読むように指定してあります。漢字に書くことが出来ない言葉でした。もともとあった日本語だと思われます。どうもどのような意味なのか判りません。辞書を引くと、いろいろの使われ方が掲載されていますが、どの例にも当てはまらないようです。死んでいないと言いながら、「有」をつけて、強調して、「けり」でもう一度念を押した感じがします。断定を表す言葉のようですが、辞書にはありません。
③ 我者愛友故弔來耳---このフレーズに何故 「耳」がついているのでしょう。要りませんが・・・。
④ 拔所御佩之十掬劍---御佩は旗がなびいている様子でしょうか。それにしても、剣はなびきません。なびくようなものが剣についている。それでは、邪魔になって使い物になりません。???。
⑤ 取懸手足而哭悲也—愛おしくて手足を触って確かめる様子は、表現が細やかです。
⑥ 以足蹶離遣---足という漢字がありますから、蹴散らかすという意味でしょう。

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2005.07.05

古事記を読む  葦原中国の平定 ニムロッドの返し矢

No106
原文
【此還矢之可恐之本也】亦其雉不還。故於今諺曰雉之頓使本是也。
故天若日子之妻。下照比賣之哭聲。與風響到天。於是在天天若日子之父。
天津國玉神及其妻子聞而。降來哭悲。乃於其處作喪屋而。河雁爲岐佐理持
【自岐下三字以音】鷺爲掃持。翠鳥爲御食人。雀爲碓女。雉爲哭女。如此
行定而。日八日夜八夜以遊也。

訳文
 〔此を還(カエ)り矢の恐る可く話の本(モト)也〕亦、其の雉は還(カエ)らなかった。だから、今は諺に曰(イ)う「雉の頓使(ヒタヅカイ)」の本は是れ也。そこで、天若日子の妻である下照比賣哭(ナ)く聲は、風と與(トモ)に、天に響き到(イタ)りました。是に於いて、在天(アメ)に天若日子の父、天津國玉神及び其の妻子も聞いて、降りて來て哭き悲しみ、すぐに、於其の處に於いて喪屋を作りました。河雁(カワカリ)を岐佐理(キサリ)持ちとして、鷺を爲掃持ちとして、
翠鳥(ソニドリ)を御食人(ミケビト)として、雀(スズメ)を碓女(ウスメ)とし、雉を哭女(ナキメ)として、此の如く行いを定めて、日八日夜八夜(ヒヨカヨヤヨ)を遊びました。

検討します。
①還矢--天神に反逆したために、自ら放った矢が戻ってきて、その矢に当たって死ぬといった説話。この説話に似ている話として、メソポタミアのニムロデの説話があります。(金関丈夫氏)  中国においても、『史記』の殷の皇帝武乙の説話や、『戦国策』の宋の康王の説話などがこの形式である可能性が指摘されており(フランスの学者マスペロ)、また、インドにおいても、『賢愚経』巻一の王舎城の宰相の子恒伽達に関する伝承や、『法句譬喩経』巻一の倶曇弥国王優填の伝承などが挙げられている(金関氏)。
    このように見ますと、メソポタミア周辺(ユダヤやイラン地域)において起源し、それがインドあるいは中国を経由して伝播したと推測される。
    また、ギリシア神話にも、似た話があり、雉ではなく、白い羽をしたカラスが使いとして出かけ、アポローン神が放った矢が、コローニスの胸に当たったという説話があります。(『神話の系譜』大林太良著) 
      以上のことから、還矢の話は、どこの国にも共通して通商をしていたユダヤ人から得た説話を古事記に取り込んだと思われます。
② 死者の葬送の役割。  雁は死者のための食物を頭に載せる役。 鷺は箒を持って掃除役。翠鳥は死者に供える御饌を作る役。雀は米搗きの女。雉は泣き女。
    現在のお葬式では、泣き女は聞いたことはありますが、他の役はあるのでしょうか?

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2005.07.02

古事記を読む  天若日子死亡

No105
原文
爾其矢自雉胸通而。逆射上。逮坐天安河之河原、天照大御神、高木神之御所
是高木神者。高御産巣日神之別名。故高木神取其矢見者。血箸其矢羽。於是
高木神告之此矢者所賜天若日子之矢即示諸神等詔者。或天若日子不誤命。爲
射惡神之矢之至者。不中天若日子。或有邪心者。天若日子於此矢麻賀禮
【此三字以音】云而。取其矢自其矢穴衝返下者。中天若日子。寢胡床之高胸
坂。以死
訳文
ここに、其の矢、雉の胸自(ヨリ) 通っ而(テ)、逆さまに射(イ)上(アガ)って、天
の安河の河原に坐(マ)す天照大御神と高木神の御所に逮(イタ)りました。
是の高木神は、高御産巣日神の別名です。そこで高木神は其の矢を取って
見ると、其の矢の羽に血が箸(ツイ)ていた。
是に於いて高木神は、「此の矢は、天若日子に賜(タマ)へし所の矢だ」と告げられ
て、即に、矢を諸神等に示され、詔(ミコトノリ)されて「或(モ)し、天若日子が命
(ミコトノリ)を誤(アヤ)まらず、惡い神を射る矢が至り爲(ナ)せば、天若日子に中
(アタ)らないだろう。或し邪心が有るならば、天若日子に於いて、此の矢は
麻賀禮(マガレ)」と言って、取其の矢を取って其の矢の穴自(ヨリ)衝き返えし下
すと、胡床の高胸坂に寝ていた天若日子は、それで以って死にました。

検討します。
①「是の高木神は、高御産巣日神の別名」どうして、急に、取って付けたように、
この文があるのでしょう。この前に、高木神の神のことを書いた部分があったの
でしょう。古事記を書き直した人が居るように思えます。
②麻賀禮は、その後ろに【此三字以音】とありますから、読みは「マガレ」です。
訳本では、漢字の「禍」と書いてあります。「禍」の漢字は、左は祭壇を表す「示」で、左の部分は、浅い丸い穴を表す。意味は神の祟りを受けて思いがけないおとし穴にはまることと辞書にありますが、古事記に「麻賀禮」があったから、この言葉を禍に当てはめ、「禍」を慣習てきに、「まがれ」と読むようになったのではと思います。
麻賀禮という言葉はあったのでしょう。すなわち、神に逆らって罰を受けることを麻賀禮と日本では表現していたが、古事記を書くときには、その漢字がなかったのでしょう。
③胡床は訳本では、朝寝ている床とあります。「字通」に、「胡牀コショウ 」の熟語が掲載されていて、意味は背にもたれのある折り畳み式の椅子とあります。 牀は、床の意味だそうです。これですと、朝でなくてもいいし、寝ていなくても良いことになります。
④高胸坂は、訳本では、「胸」となっています。三字で書かれているのに、胸だけでは、少しさびしいです。というものの、判りません。

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2005.06.30

古事記を読む  葦原中国の平定 鳴女を遣わす

No104
原文
故爾天照大御神、高御産巣日神亦問諸神等。天若日子久不復奏。又遣曷神以。問天若日
子之淹留所由。於是諸神及思金神答白可遣雉名鳴女時。詔之。汝行。問天若日子状者。
汝所以使葦原中國者。言趣和其國之荒振神等之者也。何至于八年不復奏。
訳文
そこで、天照大御神と高御産巣日神と亦、諸の神等は問いました。「天若日子は久しく復(カエ)り奏(モウ)さない。又、曷(イズ)れの神を遣わして、天若日子が淹(ヒサシク)留(トド)まる所由(ユエ)を問おう」と。是に於いて諸神及び思金神(オモイカネノカミ)は、「雉(きじ) 名は鳴女(ナキメ)を遣わす可(ベ)き」と答えて白(モウ)された時、「汝が行ったときに、天若日子に問う状態は、『汝を葦原中國に使わした所以(ユエ)は、其の國の荒振神等を、言趣(コトム)け和するように也。何(イ)かに、八年にるまで復命しないのか』と問いなさい」と詔りされました。

① 天照大御神はワンマンではなかったことが判ります。合議制であるし、武力ではなく、荒振神等を、言趣(コトム)け和するようにとの方針です。
② このようなときに、雉を使いに出すという説話がどこかにあるのでしょうか?
原文
故爾鳴女自天降到。居天若日子之門湯津楓上而。言委曲如天神之詔命。爾天佐具賣【此三字以音】聞此鳥言而。語天若日子言。此鳥者其鳴音甚惡。故可射云進。即天若日子持天神所賜天之波士弓。天之加久矢。射殺其雉。
訳文
そして鳴女が天より降り到ると、天若日子が居る門湯津(トユツ)の楓の上で、天神の詔(ノ)りたまわれた命(ミコト)の如く、婉曲に言いました。爾(ココニ)、天佐具賣(アメノサグメ)はこの鳥の言うことを聞いて、天若日子に語って言いました「此の鳥は其の鳴音は甚く惡い。故に射る可し」と言いながら進み、即に、天若日子が天つ神から賜った所の天之波士弓と天之加久矢を持って、其の雉を射殺しました。

①「居天若日子之門湯津楓上而」の部分は、訳本では「天若日子の門なる湯津楓の上に居て」となっています。「湯津楓」を「枝葉が茂っている楓」となっています。なんのことか解りません。どうせ解らないのであればと、「門湯津楓」を一つのものとしました。楓で門のような形にしてあるのでしょう。その木に止まって口上を述べたのでしょう。
③ 天之波士弓と天之加久矢が、No102に書かれていた天之麻迦古弓と天之波波矢と全く違っています。「天神所賜天之波士弓と天之加久矢」とありますから、天つ神から貰ったことは確かですが、どのような意味があるのか判りません。

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2005.06.28

古事記を読む  天若日子、下照比賣と結婚

No103
 前のページへ戻らなくていいように、訳文を書いておきます。
是を以(モ)ちて、高御産巣日神(タカムスビノカミ)、天照大御神 亦、諸(モロモロ)の神等に問いました。「葦原中國に遣わした所の天菩比神(アメノホヒノカミ)は久しく復(カエ)り奏(モウ)さず。亦、何(イズ)れの神を使いにすれば吉(ヨイ)でしょう」と。
爾に、思金神(オモヒカネノカミ)答えて白(モウ)されるには、「可遣天津國玉神(アマツクニタマノカミ)の子である天若日子(アメノワカヒコ)を遣わす可(ベキ)です」と。故爾(ソコデ)以って、天之麻迦古弓(アメノマカコユミ)と天之波波矢(アメノハハヤ)を天若日子に賜って遣かわしました。是に於いて、天若日子が其の國に降り到ると、即(スグ)に大國主神之女である下照比賣を娶って、亦、其の國を獲(エ)ようと慮(オモイハカ)って、至于八年に至まで、復奏しませんでした。

③天菩比神が帰ってこないので天若日子を派遣することになります。天若日子)は、岩波文庫では、このように振り仮名がありましたので、(アメノワカヒコ)と書きましたが、又、天の若日子です。「アメ」ではなく、「滇」の出身です。何のために派遣するのかと言いますと、蒜山高原は、稲が取れません。葦原中國の田がほしいのです。稲作を持ち込んだ「滇」の出身の天菩比神に続き、天若日子に決定します。日本書紀では、両者は、天穂日命と天稚彦とあります。日本書紀の作者は、大国主のところでは、あまり書かなかったのに、ここの部分は、自分と同族であったのでしょうか? 詳しく書いています。滇の出身と思っていたが、違ったのかも知れません。
③天若日子を派遣するときに、今度は武器を持たせています。
天之麻迦古弓と天之波波矢です。「天」の次に「之」が入っていますから、「滇」の麻迦古弓と波波矢です。これまでに、滇の製品が出てきました。「天の沼矛」です。ほかにも探してください。
④天若日子が降り到るやいなや、大國主神の娘の下照比賣と結婚しました。政略結婚でしょうか? 「其の國を獲ようと慮って」とありますから、そのつもりだったのでしょう。しかし、丸め込まれて八年も復命しませんでした。
⑤最後になりましたが、葦原中國です。一般に、天孫降臨は天上から天孫が降りていくことを言います。天上はどうみても空の上にあるように思われています。神話ですから、少々の矛盾は平気のようです。教えられた方も、文句の一つ言う人もありません。天上ではなく、蒜山高原です。両方とも割りと穏やかであったようです。天若日子は八年も音沙汰なしです。天菩比神の年月も入れると、葦原中國を平定しようとしてから、10年は経っています。蒜山高原は開墾前は,葦が茂っていました。そして、「稲」も取れないのに、「田」の字が付く、地名がいっぱいです。このようなことから推察すると、はじめは、葦原を改良するところから米を作ったと思われます。日本海側で、もっとも広い平野で葦原であったと思われるところは、倉吉平野です。ここが、葦原中國であったと思われます。

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2005.06.26

古事記を読む 芦原中国の平定---天若日子

No102
原文
是以高御産巣日神、天照大御神亦問諸神等。所遣葦原中國之天菩比神。久不復奏。亦使何神之吉。爾思金神答白。可遣天津國玉神之子。天若日子。故爾以天之麻迦古弓【自麻下三字以音】天之波波【此二字以音】矢。賜天若日子而遣。於是天若日子降到其國即娶大國主神之女。下照比賣。亦慮獲其國。至于八年不復奏。

翻訳
是を以(モ)ちて、高御産巣日神(タカムスビノカミ)、天照大御神 亦、諸(モロモロ)の神等に問いました。「葦原中國に遣わした所の天菩比神(アメノホヒノカミ)は久しく復(カエ)り奏(モウ)さず。亦、何(イズ)れの神を使いにすれば吉(ヨイ)でしょう」と。
爾に、思金神(オモヒカネノカミ)答えて白(モウ)されるには、「可遣天津國玉神(アマツクニタマノカミ)の子である天若日子(アメノワカヒコ)を遣わす可(ベキ)です」と。故爾(ソコデ)以って、天之麻迦古弓(アメノマカコユミ)と天之波波矢(アメノハハヤ)を天若日子に賜って遣かわしました。是に於いて、天若日子が其の國に降り到ると、即(スグ
)に大國主神之女である下照比賣を娶って、亦、慮獲其の國を獲(エ)ようと慮(オモイハカ)って、至于八年に至まで、復奏しませんでした。

検討を加えます。
① 高御産巣日神(タカムスヒノカミ)の名前は覚えておられますか?  No4(別天つ神五柱)の二番目に出てきます。その部分をかきだすと、
「天之御中主神(テンノミナカヌシ)です。その次にやってきたのは、高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)。そして、神産巣日神(カミムスヒノカミ)でした。この三人は、独身者で、そのうちに、身を隠しました」
次はNo93 において、少名毘古那神の親であると言って出てきます。
No4に戻ったついでに、高御産巣日神という神を考えてみますと、「身を隠しました」とありましたが、外国や日本のあちこちに行ったのではなくて、高天原にいて、天照大御神より位が上だったようです。(天照大御神より前に記述されています)その子供の少名毘古那神は、外国に行っていたようで、天之羅摩船に乗って帰ってきました。(No92参照)
 高御産巣日神と神産巣日神の二神の名前を見比べてください。高御--産巣日神と神--産巣日神です。毎日、古事記を後ろに前にと繰っていますと、長い神の名前と名前の前に「神」の字が付くのが気になります。私は長い名前の神の前の部分は出身地ではないかと思えるようになっています。この二神の場合、「高」が地名ではないかと。神産巣日神の「神」はユダヤ人を表しているのではないかと。天皇の名前にも「神」の字が付く場合は、同じではと。また、そのうちに調べようと思っています。
②葦原中國に天菩比神を使いにやります。天菩比神は覚えておられますか? No50をごらんください。スサノオが「天照大御神の左の御角髪に纏かせる八尺の勾聰の五百箇の御統の珠」
を貰って、口の中に入れて噛み砕き、息吹きをすると五にんの神があらわれました。その中の一人が、「天之菩卑能命」です。天と菩卑能命の間に、「之」が入っています。菩卑能命は「天」=「滇」の出身です。
この文章のもう少し、後に「天菩比命の子、建比良鳥命、こは出雲国国造、上菟上国国造、下菟上国国造、伊自牟国造、津島縣直、近江国国造等が祖なり。」の文章を載せています。「建比良鳥命、こは出雲国国造」を言いたいのですが、建比良鳥命の親は、天菩比命だと警告しています。この号のはじめの部分をみてください。天菩比神は、天菩比命と表記が違います。同じ、古事記の中で、作者は使い分けていることが分かります。その天菩比命は、天照大御神が大国主のもとに使いに出したら、寝返ってしまったトンデモない男ですよ。その子供の建比良鳥命が出雲国国造をしているのですから、皆さん、注意してください。No50で、付け足したように警告文があったことになります。

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2005.06.24

古事記を読む 葦原中国の平定---天菩比神

No101
原文
天照大御神之命以。豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者。我御子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命之所知國。言因賜而天降也。
於是天忍穗耳命於天浮橋多多志【此三字以音】而詔之。豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者。伊多久佐夜藝弖【此七字以音】有那理【此二字以音。下效此】告而。更還上。請于天照大神。
爾高御産巣日神天照大御神之命以。於天安河之河原神集八百萬神集而。思金神令思而詔。此葦原中國者。我御子之所知國。言依所賜之國也。故以爲於此國道速振荒振國神等之多在。是使何神而將言趣。
爾思金神及八百萬神議白之。天菩比神。是可遣。故遣天菩比神者。乃媚附大國主神。至于三年不復奏。
訳文
 天照大御神の命(ミコト)を以って 「豐葦原(トヨアシハラ)の千秋長五百秋 (チアキノナガイホアキ)の水穗國(ミズホノクニは、我御子(ワガミコ)である正勝吾勝勝速日天忍穗耳命之所知國(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)の知らす国ぞ」と言(コト)よさしたまひて、天降(アマクダ)したまひき。
ここに天忍穗耳命は、天の浮橋に多多志(立って)詔りたまひしく、「豐葦原の千秋長五百秋之水穗國は、伊多久(イタク)佐夜藝弖(騒ぎて)有り那理(ナリ)」と告げて、更に還(カ)えり上りて、天照大神に請(モウ)されました。
そこで、高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)と天照大御神の命が思われて、天の安の河の河原に神を集めますと、八百萬神が集って、思金神(オモイカネノカミ)はみなに考えるように命じ、言われました。「此の葦原の中つ國は、我御子のよく知っている所の國、言依(コトヨサ)したまへりし國也。故(カレ)、この国に道速振荒振(チハヤフルアラフル)國つ神等の多(サワ)なりと以爲(オモ)ほす。これ何(イス)れの神を使わして、言趣(コトム)けん」といわれました。ここに、思金神及八百萬神は、議(ハカ)って申されました。「天菩比神。是可遣(これをツカワスベシ)」。そして、遣天菩比神を遣わしますと、すぐに大國主神に媚び附きそって、三年に到るまで、不復奏(カヘリゴトモウサザリキ)。
 ややこしい訳文になりました。意訳した部分や翻訳本のままの部分が混ざったものです。
疑問の部分を書き出して考えてみます。
①豐葦原の千秋長五百秋の水穗國---豐葦原は、豊かな葦の生える原(肥沃な湿地帯)でしょう。秋は収穫の季節です。千の秋、それより五百多い秋ということで、何年でもいっぱい収穫できる豊かな葦原を持つ稲作の国。
②正勝吾勝勝速日天忍穗耳命---正勝吾勝勝速日の部分は、天忍穗耳命を褒め称える修飾語。では意味はとなりますと、困ります。お預けです。
③言よさしたまひて---言明されて。自身を持って言い切る。
④更に還(カ)えり上りて---偵察に行かれて、戻ってこられたのでしょう。
⑤言趣けん----前後の関係から考えますと、武力ではなく、言葉で説得しようぐらいです。
⑥道速振荒振(チハヤフルアラフル)國つ神等---よく判りません。
⑦不復奏―--帰ったと申さなかった。三年過ぎたら帰ってきたのでしょうか?
天菩比神は 何者でしょうか?

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2005.06.22

古事記を読む    紀元

No100
紀元とは、年数を数える際の起点となる年を言います。普通はキリスト紀元(西暦)を言います。
 どの国にも、その国の始まりを表す紀元があります。例えば、
1.ローマ建国紀元---------紀元前753年
2.フランス共和紀元---フランス革命を紀元とする。1789年。
3.仏暦紀元---------------釈迦が入滅した年から。スリランカ、ミャンマー  紀元前544年を仏滅紀元元年。釈迦が入滅した一年後から紀元。タイ・カンボジア・ラオス。紀元前543年を仏滅紀元元年。
4.神武天皇即位紀元--神武天皇即位の年を紀元とする。紀元前660年。
5.中華民国暦----------1912年が元年
その他、ヒジュラ暦(イスラム歴)、ペルシア歴(イラン歴) などいっぱいある。

3,4のように、正確には紀元が判らないものもあるが、最も判らないものは、キリスト紀元(西暦)です。元年は、キリストが生まれた年ではありません。キリストが何時生まれたか正確なことは誰にも判りません。
正確でもないものを、現在では世界中で基準にして使っています。

西暦紀元は6世紀のローマの神学者によって算出されました。紀元0年が無く、元年(1年)より始まるのは、当時、まだゼロの概念が西洋に伝わっていなかったからで。この暦法はなかなか受け入れられず、西洋で一般化したのは15世紀以降と言われています。
ということは、キリスト教を信じる国で共通して用いられていたのではないことが判ります。
では紀元元年は、誰が決めて誰が使っていたのでしょう。
「新しい古事記の読み方」の元になっているのは、田村誠一著の「燦然と輝いていた古代」ですが、この書物の追加篇89ページに、田村氏は、「西暦は神武紀元」のタイトルで、西暦元年は、神武天皇が橿原で平和宣言した辛酉の正月のことだと記しています。

辛酉は、干支の一つで、「しんゆう」又は「かのととり」と読み、60年に一回巡ってきます。辛酉は政治的変革が起こるとされ、これを辛酉革命という。特に1260年に一度の辛酉の年には、国家的大変革が起きるとされた。推古天皇9年(601年)がその年に当たり、この年の1260年前である紀元前660年に神武天皇が即位したものとされた。
 日本書紀の編集者は、ただ此れだけで、660年前にしたわけではないでしょう。もっと大きな理由があったと思われますが、このことは、もっと、後のこととして、660年もどうして、ずらしたのでしょう。天皇の年齢が多すぎるところでは、干支がずれないように、60歳多くしました。古事記にはない、神功皇后のページを挿入しました。
100号記念に、「西暦は神武紀元」の結論だけ書いてみました。 古事記を読み進みますと、これは間違いであるとは言えなくなります。

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2005.06.20

古事記 大年神の神裔 その2

No99
羽山戸神娶大氣都比賣神【自氣下四字以音】生子。若山咋神。次若年神。次妹若沙那
賣神【自沙下三字以音】次彌豆麻岐神【自彌下四字音】次夏高津日神。亦名夏之賣神。次秋毘賣神。次久久年神【久久二字以音】次久久紀若室葛根神【久久紀二字以音】
 上件羽山戸神之子自若山咋神以下。若室葛根以前。并八神。
翻訳
羽山戸神、娶大氣都比賣神(オオゲツヒメノカミ)を娶(メト)って、生んだ子は、若山咋神(ワカヤマクイノカミ)。次に若年神。次に妹若沙那賣神(イモワカサナメノカミ)。次に彌豆麻岐神(ミヅマキノカミ)。次に夏高津日神(ナツタカツヒノカミ)。亦の名は、夏之賣神(ナツノメノカミ)。次に秋毘賣神(アキビメノカミ)。次に、久久年神(ククトシノカミ)。次に久久紀若室葛根神(ククキワカムロツナネノカミ)。
上件羽山戸神の子より若山咋神以下。若室葛根以前(ヨリサキ)。并せて八神。

又、神の名前ばかりです。 羽山戸神と大氣都比賣神の間に、
①若山咋神 ②若年神 ③妹若沙那賣神 ④彌豆麻岐神 ⑤夏高津日神
⑥秋毘賣神 ⑦久久年神 ⑧久久紀若室葛根神
の八人の神が生まれたと書かれています。
No97 の天知迦流美豆比賣の子供は、10人いました。その中の一人が羽山戸神です。
10人の内の一人だけを書きとどめて置く理由が判りません。

No97とNo98は、大年神の末裔が書かれているのみです。古事記の作者は、是非、書いて置きたかったはずです。No91大国主の神裔も神の名前だけです。
考え方は、二通りです。
大国主神の末裔は、天皇家の血筋ですよ。反対に天皇家の反対勢力ですよ。だから、今後、この人たちの末裔には、注意をしてください。
大年神と大国主神は、スサノオの子供です。

もう少し、元にもどりますと、イザナギが禊をしたときに、現われたのが「三貴人」です。天照大御神・月読神・須佐之神です。仲良く国を治めよとイザナギから命令されましたが、スサノオは従わずに、追放されます。スサノオには子供が三人いましたが、そのうち、大国主神だけ、特別に子供の名前を書いています。
やはり、大年神と大国主神が、詳しくかかれているということは、書いて置きたかったことになります。日本書紀は、この二人のことは、殆ど書いていませんから、書きたくなかった。出来れば、抹消したかったのかもしれません。大年神と大国主神のみ詳細に書かれている理由が見つからないということは、他の神も詳細があったのに、何年後かに、誰かが消したのかもしれません。大国主神の母は、刺若比売で苗族の血縁。 大年神の母は神太市比売で、ユダヤ系の血縁だから、書いておきたかった。???。

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2005.06.18

古事記を読む  少名毘古那神 よもやま話

No98
① 大国主と少名毘古那神の二人を一緒に祀った神社は、東北から四国までで70座ほどあります。これをどのように考えたらいいのでしょう。少名毘古那神が外国からやって来たときに、ラマ船にのって、鵞鳥の羽を使った服をきたと考えましたが、鳥の羽は利用できますが、なめして皮にしますと、毛が抜けてしまいます。蛾の皮を蚕の繭と考えますと、諸国を歩いて養蚕と稲作を広めたことになります。
 水戸の大洗海岸の大洗磯前神社。酒別磯前神社。山形県の出羽三山神社。米沢市の一宮神社などに、二人が祀られています。
② 大洲市に少名彦神社があります。次の由緒が書かれています。
  「肱川を渡ろうとされた少彦名命は激流にのまれて溺死された。土地の人々が『みこがよけ』の岩の間に骸をみつけて丁重に「お壷谷」に葬った。その後御陵を設けてお祀りしたのがこの神社である。少彦名命は医学・養蚕・酒造等の神様で県下は勿論のこと高知県、九州方面から参拝者も多い。命の神体を祀ってあるところは全国に多数あるが終焉の地は当地といわれている」
① で養蚕を書きましたが、この由緒には、医学と酒造もあります。これはどこからわかるのでしょう。日本書紀も古事記にも書かれていないことです。
③ 出雲風土記に二人で飯石郡多彌郷に巡回してきて、稲の種を播いたとあります。陸稲を広めたのでしょう。
④ 三輪神社 西伯郡大和村大字小波字東岡畑(旧表示)に、大物主命と速須佐之男命と少名毘古那命が祭神です。すべて大国主神と関係ある人達です。どれぐらいの期間かわかりませんが、この土地と関係があったと考えてもいいです。
⑤ 配志和神社--中里字根岸九番地 旧奥州街道沿(ホームページ 小野寺啓氏作より )
  天明六年(AD1786)九月、菅江真澄の「はしわのわかば続」には、配志和神社の天孫降臨の祭礼の事が書かれている。その中に『根岸という処にお着きになると、少彦名の神がお出迎えになって、こうしてどんどんお進みになり、お帰りの道でも少彦名の神がお送り申し上げる』とある。小野寺氏は、次のように述べておられます。「県神社庁登録八五九社中で少名彦神社を名乗っているのは、ここだけである。この神が合同されているのは、四十二社(うち、主神六社)土地神・氏神の社に多く、国土・領内鋳護と薬師神社のように、病気療養の神として祭られている」
⑥ 大阪の道修町にある少名彦神社は、薬の町の守り神です。神農さんと呼ばれ、今は11月の22日と23日にお祭が行われます。お祭では、笹に張子の虎を頂くことになりますが、江戸時代に流行ったコレラと関係があるそうですが、何故虎なのか判りません。薬の神さん・範囲を広げて医学の神さんということでしょうか?
⑥ 出石神社---兵庫県高砂市阿弥陀町生石171 
祭神---大穴牟遲命、少毘古那命  
祭神を大国主神と書かずに、大穴牟遲命と書かれています。式外社。巨大な石造物が御神体。『播磨国風土記』の印南の郡大国の里の條に出てきます。

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2005.06.15

古事記を読む  大年神の神裔

No97
故其大年神、娶神活須毘神之女、伊怒比売、生子。大國御魂神。次韓神。次曾富理神。次白日神。次聖神【五神】。又娶香用比賣【此神名以音】生子。大香山戸臣神。次御年神【二柱】。又娶天知迦流美豆比賣【訓天如天亦自知下六字以音】生子。奧津日子神。次奧津比賣命。亦名大戸比賣神。此者諸人以拜竃神者也。次大山(上)咋神。亦名山末之大主神。此神者坐近淡海國之日枝山。亦坐葛野之松尾。用鳴鏑神者也。次庭津日神。次阿須波神【此神名以音】次波比岐神【此神名以音】次香山戸臣神。次羽山戸神。次庭高津日神。次大土神。亦名土之御祖神。【九神】
 上件大年神之子。自大國御魂神以下。大土神以前。并十六神。
翻訳
さて、其の大年神(オオトシノカミ)、神活須毘神(カムイクスビノカミ)の女(ムスメ)、伊怒比売(イノヒメ)を娶(メト)って生んだ子は、大國御魂神(オオクニミタマノカミ)。次に韓神(カラノカミ)。次に曾富理神(ソホリノカミ)。次に白日神(シラヒノカミ)。次に聖神(ヒジリノカミ)【五神】。又、香用比賣(カヨヒメ)を娶って生んだ子は、大香山戸臣神(オオカガヤマトオミノカミ)。次に御年神(ミトシノカミ)【二柱】。
又、天知迦流美豆比賣(アメチカルミズヒメ)を娶って、生んだ子は、奧津日子神(オクツヒコノカミ)。次に奧津比賣命(オクツヒメノカミ)。亦の名は大戸比賣神(オオベヒメノカミ)。此は、諸人の以ち拜(イツ)く竃神(カマノカミ)也。次に大山(上)咋神(オオヤマクイノカミ)。亦の名は、山末之大主神(ヤマスエノオオヌシノカミ)。此の神は、近っ淡海國の日枝山に坐(マ)し、亦、葛野(カヅノ)の松尾に坐して、鳴鏑(ナリカブラ)を用(モ)つ神也。次に庭津日神(ニワツヒノカミ)。次に阿須波神(アスハノカミ)、次に波比岐神(ハヒキノカミ)、次に香山戸臣神(カガヤマトオミノカミ)。次に羽山戸神(ハヤマトノカミ)。次に庭高津日神(ニワタカツヒノカミ)。次に大土神(オオツチノカミ)。亦の名は、土之御祖神(ツチノミオヤノカミ)。【九神】
 上の件の大年神之子。大國御魂神より以下、大土神より前は、并(アワセテ)十六神。

少し、整理してみます。誰と結婚したのか。
① 伊怒比売—大國御魂神、韓神、曾富理神、白日神、聖神の5人
② 香用比賣—大香山戸臣神、御年神の2人
③ 天知迦流美豆比賣—奧津日子神、奧津比賣命、大山(上)咋神、庭津日神
阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神
大土神の10人 【九神】のありますから、一神、多すぎます。
遡って、スサノオには、三人の子供がいます。
① 八島士奴美神--------大国主神(母・刺国若姫)-----新羅---苗族
② 大年神
③ うかの御魂
棒線を使って表示しないと判りにくいですね。No91とNo97は、大国主神と大年神の末裔が列挙されているのみです。どうして、二人の一族を書かねばならなかったのでしょう。

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2005.06.14

古事記を読む 少名毘古那神と久延毘古

No96
No92に逆戻りです。少名毘古那神がラマ船に乗って現われたときに、何者であるか誰も知りませんでした。久延毘古が知っていました。古事記が書かれた時には、山田の中で、案山子として立っていました。
どうして、このようなことが書いてあるのでしょうか?
先代旧事本紀という書物があります。その序文によると、推古天皇の二十八年(620)に勅によって、聖徳太子が蘇我馬子とともに撰定したものとされます。しかし、実際の成立年代は、平安初期と考えられ、偽ものだという説もあります。この書物の先代旧事本紀卷第四の地祇本紀のなかに、次の文があります。

大己貴神之平國矣.行到於出雲國之御大御前而且當飲食之時,海上忽有人聲.乃驚而求之,都無所見. 于時,自浪穗乘天蘿摩船而有一箇小男,以白蘞皮為船,以鷦鷯羽為衣.亦內剝鵝皮剝為衣服.隨潮水以浮到于大己貴命所.而取置掌中而翫之.則跳囓其頰.乃恠其物色,爾雖問其名,不答.且雖問所從諸神,皆為不知.
 爾,多邇且久白言:「此者久延彥必知之.多邇且久者,蟾蜍也.」即召久延彥問時,答曰:「此者神皇產靈神之御子-少彥名神.」故爾白上於天神之時,神皇產靈尊聞之曰:「吾所產兒凡有一千五百座.其中一兒最惡,不順教養,自指間漏落者.必彼矣.故與汝葦原色男為兄弟,宜愛養矣.」即是少彥名命是也.
 所謂久延彥者,於今者山田之曾富騰者也.即,案山子,稻草人也.此神足雖不行而盡知天下之神者也.

古事記と異なる部分を取り出しますと、「自浪穗乘天蘿摩船而有一箇小男」「以白蘞皮為船」
「以鷦鷯羽為衣」 「多邇且久者,蟾蜍也」  蟾蜍はヒキガエルのことです。蘞はあつめるという意味です。岩波文庫に書かれている注釈は、すべてここから取られたと思われます。先代旧事本紀は偽ものであると言われだしたのは、江戸時代で、私にはよく判りませんが、日本書紀と古事記と古語拾遺の本をもとに作られたとの説があります。古事記を参考にしたにしても、先代旧事本紀を書いた人は、古事記のままでは意味が通らないので、「谷蟆」という漢字は使わないで、「蟾蜍」にしたことになります。
久延毘古がなぜ 曾富騰(案山子)として田んぼにあるのか説明がありません。中国の華北において、現在では、案山子はないそうです。案山子はなんでも知っているという伝承を伴って、稲作が伝わったと考えられます。
久延毘古は米子市内の目組神社に祭られています。少名毘古命はその近くの粟島神社に祭られ、村の名前は彦名村です。伊勢の苗代神社の祭神は、少名彦名命です。蒜山高原の苗代の地名の近くの徳山神社にも祭られています。少名毘古命は、苗族の人たちからいろいろの事を学んで帰国したと思われます。久延毘古は米子市内に住んでいたのでしょう。

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2005.06.13

古事記を読む  少名毘古那神と国作り その4

No95
少し長いですが、田村氏の本から、抜粋です。
【大国主が少名彦を失って「吾一人では国をよく治められない、誰か吾とよく国を治める神はないかしら」と思案しておりました。この時海を照らして美保崎から現れた神が大物主で伯耆に渡来しました.この神に相談しますと「我が前を治めれぱ吾共に相作り成さむ.然らずぱ国なりがたし」と告げました。
それには「吾を倭の青垣の東の山上にいつきまつれ」と告げられ、これはキリストを敬えと同じです.これが御諸の山上の神だと書いてあります。周囲が山に囲まれた大国村倭の眞東の山は大山です。大国村の北隣は天津村で日御崎神社がある所の地名が三崎です。従って御崎が正しいつで藤原が工作しました。
この近くに諸木の地名があり、御崎と諸木を結んだ一直線上の大山のしかも山上にふさわしい場所に大神山神社があります。これで御諸の山の謎が解けました。
大和の三輪山は藤原が偽装目的で作ったので本物は伯書の大山の大神山神社でした】

少し無理があるようにも思いますが、地名ではなく、山に名前を付けるときは、いろいろ考えたと思います。以前に「高尾山」(No41)の紹介をしましたが、位置と方角は正確に判断できる人たちでしたから、田村氏の推理は全く否定するわけにはいきません。御諸の山の山が大山だったと断定すると奈良の三輪山や大神神社(ミワジンジャ)は何だとなります。「藤原氏が偽装目的で作った」という過激な文章になりますが、今後、古事記を読み進めていきますと、このように考えると日本書紀と古事記がどうして、書いてあることが違うのかとか、日本書紀はどうして、同じ地名や人名なのに、漢字表記をすべて変更したのかが理解できると思います。
大物主神は、その後、大和に住むことになります。普通は奈良の大和と言うことになっていますが、神さんですから、奈良の三輪山に祭られているとあるだけで、住んでいたことになっていません。本当は、神さんではなく、人間ですから、住んでおりその後、大国主神のアドバイス役をしています。

私はNo94の2で、「海を光して依り來る神」を、大物主神のことだと書いていますが、古事記には書いてありません。田村氏も勝手に、大物主神だとして話を進めておられます。祟神天皇のところに、似たような表現があるので、そのように解釈しました。
このような記事では、必ず神の名前が書かれていたのに、ここでは書いてありません。元々、書いてなかったのか、書いてあったが、誰かが削除したと思われます。
字に書かれているように、実際は「大物」で「主」のような存在だったのではないかと思われます。その割には、正体は、古事記の作者にも日本書紀の作者にも判らなかったのでしょう。

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2005.06.11

古事記を読む  少名毘古那神と国作り その3

No94
於是大國主神愁而告。吾獨何能得作此國。孰神與吾能相作此國耶。是時有光海依來之神。其神言。能治我前者。吾能共與相作成。若不然者。國難成。爾大國主神曰。然者治奉之状奈何。答言吾者伊都岐奉于倭之青垣東山上。此者坐御諸山上神也。
翻訳
ここに大國主神は愁いて、言われました。「吾獨(ヒトリ)して何(イカ)に能(ヨ)く此の國を作り得ようか。孰(イズレ)の神と吾(ワレ)と能く此の國を相(アイ)作ろう耶(ヤ)」と。是の時、海を光らして依(ヨ)り來る神がありました。其の神が言われるには、「能く我が前を治めるならば、吾は能く共に相作り成しとげよう。若(モ)し、不然(シカラズ)ば、國は成り難(ガタ)いでしょう」と言われました。爾に、大國主神が曰(モウ)されますには、「然(シカラ)ば、治め奉てまつるには、奈何(イカ)なる状態がいいでしょう」。「吾をば、伊都岐奉于倭(ヤマト)の青垣の東の山上に、伊都岐(イツキ)奉れ」と答えて言われました。此は御諸山(ミモロヤマ)の上に坐す神なり。
① 有光海依來之神---このフレーズが最大の難点です。訳本では、海を光(テ)らしてとあります。海が明るくなったのですが、その神の所為で明るくなったのでしょう。仏像に見られるような後光があったということでしょうか? 後光ではなく、神自身が輝いていたということでしょうか? 単に、神々しく思えたということの表現でしょうか?
② よく判りませんので、別の角度から眺めて見ます。神が光を発するわけがありません。古事記を作った人は、なにを読者に伝えようとしたのでしょうか? 大國主神より実力のある人が、現れ、その人の力で大國主神は、国を開拓することができた。この神さんは、祟神天皇の御世に民の半分以上が死ぬような事態になったときに、夢に現われたことになっている神さんです。現われただけではなく、祟神天皇に宮中で祀っている天照大御神を追い出すように命令しています。
奈良の大神神社に祭られている大物主という神さんです。偉大な神であったことが判ります。
③ 私はなにをしたら良いでしょうかと、この神に訊ねましたら、
「吾者伊都岐奉于倭之青垣東山上」と答えました。「私を倭の青垣の東の山の上に斎き祭れ」と。御諸山の上に坐す神だと断っています。(大物主)とは書いてありません。
 訳本では、倭は大和のこと。御諸山は奈良の三輪山のことと書いています。
④ この神さんは、海の向こうから輝きながらやってきました。美穂の岬です。それがどうして、奈良の三輪山に祀るのでしょうか? 倭がどうして大和になるのでしょうか。大和は、大国主が住んでいた大国村にあります。
この倭の東の山とは、大山のことになります。さて、大山のことを御諸山と呼んだかどうか判りませんが、田村誠一氏は、次のような文を書いて推察しておられます。次回に、
少名毘古那神と国作り その4として記します。

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2005.06.10

古事記を読む  少名毘古那神と国作り その2

No93
故爾白上於神産巣日御祖命者。答告。此者實我子也。於子之中自我手俣久岐斯子也【自久下三字以音】故與汝葦原色許男命爲兄弟而。作堅其國。故自爾大穴牟遲與少名毘古那。二柱神相並。作堅此國。然後者。其少名毘古那神者度于常世國也。故顯白其少名毘古那神。所謂久延毘古者。於今者山田之曾富騰者也。此神者足雖不行。盡知天下之事神也。
翻訳
ここに、神産巣日の御祖命(ミオヤノミコト)にもうし上げると、答えて告げられました。「此は實の我子也。子の中に於いては、我の手の俣より久岐斯(くぎし)子がいた。だから、汝と葦原色許男命は兄弟となって、其の國を作り堅めよ」と言われました。
故にそれからは、大穴牟遲と少名毘古那と二柱神を相い並んで、此の國を作り堅めました。然て、その後は、其の少名毘古那神は、度于常世國(トコヨノクニ)に渡りました。そして、其の少名毘古那神を顯わし白した所謂、久延毘古(クエノヒコ)は、今は山田の曾富騰(ソフド)也。此の神は足を使えないと雖ども、盡く、天下の事を知っている神也。

① 神産巣日の御祖命—親である神産巣日でしょうか。
② 久岐斯—翻訳本では、「漏きし」と書いて、「くきし」と振り仮名があります。漏れると表現しますと、手の俣から漏れるぐらいですから、一寸法師となったのでしょう。
手から離れていったぐらいの意味ではないでしょうか。
③ 少名毘古那神---どうして「那」が撞いているのでしょう。よく判りません。
④ 常世國へ渡っていったということは、川があって、その向こうでしょうか? やはり、海の向こうに行ったのでしょう。
⑤ 山田の曾富騰---山田の案山子と翻訳本にあります。どうして、突然、山田の案山子なのでしょう。少名毘古那は誰も知らなかったのに、久延毘古は知っていました。だから、その後、久延毘古は物知りだといわれたのであれば、判りますが、歩けなくなって山田の中で、一本足で立っています。天下の事は何でも知っているとあります。やはり、なにか抜けているのでしょう。
または、曾富騰が、案山子だとの解釈が間違っているかです。

もとに戻って考えてみます。古事記を作る目的は、天皇家の歴史が、歪められているから、それを正すことです。それと案山子とどのような関係があるのか理解できません。
それにしても、この時代から、雀を追い払うことは大切なことであったらしく、この知識を知っていた所から、日本人の先祖はやって来たようです。さて、雲南省の苗族は、案山子を使っているのでしょうか?
確認の必要がありますが、どうして調べればいいものでしょうか?

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2005.06.09

古事記を読む  少名毘古那神と国作り

No92
故大國主神坐出雲之御大之御前時。自波穗乘天之羅摩船而。内剥鵝皮剥。爲衣服。有歸來神。爾雖問其名不答。且雖問所從之諸神。皆白不知。爾多迩具久白言【自多下四字以音】此者久延毘古必知之。即召久延毘古問時。答白此者神産巣日神之御子。少名毘古那神【自毘下三字以音】
故、大國主神が 出雲の御大(ミホ)の御前(ミサキ)に坐す時、波の穗自(ヨリ)天(テン)の羅摩船(カカミフネ)に乘り而(テ)、鵝(ガ)の皮を内剥(ウチハギ)に剥いで、衣服に爲(ナ)して、歸り來る神が有る。ここに其の名を問え雖も答えず。且つ所從う所の諸神に問え雖も、皆、不知と白(モウ)す。ここに、多迩具久(タニクク)が言うてもうすには、「此は久延毘古(クエビコ)が必ず知っている」と。即に、久延毘古を召して問うた時に、「此は神産巣日神(カミムスビヒノカミ)の御子。少名毘古那神(すくなびこなのカミ)です」と答えて申しました。

① 御大は訳本では、〔ミホ〕と読ませています。漢字で美穂岬のようです。現在の地図には、美穂岬はありません。他には、地蔵岬と日御崎しかありません。早見ヶ鼻のように、鼻がつくところも岬ですが、〔ミオ〕に近いものはありませんから、美穂神社のある辺りを古くは、美穂御前と呼んだと思われます。
② 波穗乘天之羅摩船 --波穗は、波が穂のように垂れる様を言うのでしょう。天之羅摩船には、〔アメノカカミブネ〕と振り仮名があります。アメはまだしも、カカミブネは無理です。なぜ このような振り仮名があるかといいますと、日本書紀につぎのような事が、書かれているからでしょう。
「はじめ わが国を平定されたとき、出雲国の五十狭狭(イササ)の小汀(オバマ)にお着きになって食事しようとされた。そのとき、海上に突如として人の声がする。そこで驚いてその声の主をさがされたが何も見えない。不思議に思っておられると、しばらくして一人の小男が白蘞(カガミ)の皮で舟をつくり、鷦鷯(ミソサザイ)の羽を着物にして、潮の流れのまにまに浮んでやって来た。大己貴神はそれを拾い上げて、掌においてもてあそんでおられたところ、ぴょんとはねて大己貴神の頬に噛み付いた」
とあります。そこで、羅摩をカガミと読ませています。羅摩はラマでしょう。ラマは、ラマ教があります。香港島の南にラマ島があります。この島がどうして、ラマという名前がついたか分かりませんが、滇は現在の雲南省ですから、舟で下ってくれば、海岸伝いにラマ島までいけます。羅摩は地名ではないでしょうか? 羅摩で使われていた船で良いのではないでしょうか(チベットでは現在も皮の舟があります)。雲南省あたりの川の深さが良く判りませんが、皮でできた舟であれば、川が浅くても下ることは可能ですし、そのまま、日本まで来ることは簡単であったはずです。4~5日もあれば、到達できたはずです。避難用のボートが皮で作られていると考えればいいです。問題は、多くの人が乗ることが出来ないということです。
③ 鵝(ガ)の皮を内剥(ウチハギ)に剥いで---仮に少名毘古那神が、掌にのるような一寸法師であれば、鵝(ガチョウ)は大きすぎますから、日本書紀では鷦鷯(ミソサザイ)の羽にしました。この鳥は、日本で最も小さい鳥だから理屈にあいます。しかし、古事記では、少名毘古那神は一寸法師とは書いてありません。少名毘古那神は、大国主神が国を平定したときに来たのではなく、二人で国を開拓していったことになっています。一寸法師のように小さくては役に立ちません。
④ 鵝(ガ)の皮を内剥(ウチハギ)に剥いで---鵝はガチョウのことです。どうやら、ガチョウでは洋服を作らなかったとみえ、どの翻訳も、鵝という漢字は、蛾と字を間違ったということで、幼虫の蓑虫の皮で作った服と書いておられます。蓑虫の中の虫を取り出すことを内剥というでしょうか、剥がれない様にくっついているものを取り除くことを剥ぐというはずです。鵝は、やはり蛾の間違いだと言わないで、鵝とすべきです。古代の人は、糸を作って織物を織って衣服を作ろうと思うでしょうか? 普通は、温そうに着ている毛皮や羽をそのまま、身に纏うことを考えるでしょう。問題は、鵝の内臓を取りだとして、皮や羽にしますと、腐ります。腐る前に乾かしますと、ごわごわで着心地が悪いので、なめす必要があります。アルプスで5000年前のミイラが発見されましたが、すでに毛皮をつけていました。鵝で作った衣服があってもなんら不思議ではありません。皮製のボートも然りです。
⑤ 歸り來る神が有る---帰り来るが判らないので、「寄り来る」と翻訳してあります。「帰」には、「寄り」という意味はありません。「帰ってきた」だけです。「帰」の旧字体は、「追」の右の部分の下に「止」、右側は「帚」とかきます。箒をもって、歩いて行くで、結婚する意味があったそうです。それでは結婚しにやってきたのかと考えたくなりますが、誰も正体を知らないと次に続きますから、結婚ではありません。少名毘古那神は滇へ派遣されて帰ってきたことになります。次に、少名毘古那神は神産巣日神(カミムスビヒノカミ)の御子だとあります。神産巣日神はNo4で出てきました、別天つ神五柱の中の一人です。
 少名毘古那神は、波の穗をかき分けて天(テン)の羅摩船(カカミフネ)に乘って、美穂岬に帰ってきたことになります。
日本書紀も合わせて読んでください。大国主神のことは別名があったことと、少名毘古那神が一寸法師であったこと、そして大国主神が大物主であったことが記されていますが、大物主は奈良の大神神社の祭神です。ここで、大国主神と一緒だと宣言したために、祟神天皇のところで、大神神社の神話を作らなければならなくなっています。日本書紀の作者は、少名毘古那神も大国主神も大物主神も書きたくなかったのだと思います。古事記と全く違うことを書いたために、その後、どんどん変な方向へ行くことになりました。

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2005.06.07

古事記を読む  大国主の神裔

No91
このページは、大国主神の子供の名前ばかりです。眺めるだけでも眺めてください。

故此大國主神娶坐胸形奧津宮神。多紀理毘賣命。生子。阿遲【二字以音】[金且]高日子根神。次妹高比賣命。亦名下光比賣命。此之阿遲[金且]高日子根神者。今謂迦毛大
御神者也。大國主神。亦娶神屋楯比賣命。生子。事代主神。亦娶八嶋牟遲能神
【自牟下三字以音】之女。鳥耳神。生子。鳥鳴海神【訓鳴云那留】此神。娶日名照額田毘道男伊許知迩神【田下毘又自伊下至迩皆以音】生子。國忍富神。此神。娶葦那陀迦神【自那下三字以音】亦名八河江比賣。生子。速甕之多氣佐波夜遲奴美神【自多下八字以音】此神娶天之甕主神之女。前玉比賣。生子。甕主日子神。此神娶淤加美神之女。比那良志毘賣【此神名以音】生子。多比理岐志麻流美神【此神名以音】此神娶比比羅木之其花麻豆美神【木上三字花下三字以音】之女。活玉前玉比賣神生子。美呂浪神【美呂二字以音】此神娶敷山主神之女。青沼馬沼押比賣。生子。布忍富鳥鳴海神。此神娶若晝女神。生子。天日腹大科度美神【度美二字以音】此神娶天狹霧神之女。遠津待根神生子。遠津山岬多良斯神。
 右件自八嶋士奴美神以下。遠津山岬帶神以前。稱十七世神。

此の大國主神が娶った、胸形の奧津宮に坐ます神である多紀理毘賣命か生んだ子は、
阿遲鉏高日子根神(アジスキタカヒコネノカミ)。
次に妹高比賣命(イモタカヒメミコト)、亦の名は下光比賣命(シタテルヒメノミコト)
 この阿遲鉏高日子根神は今、迦毛大御神(カモノオオミカミ)謂う者也。
大國主神は亦、神屋楯比賣命(カムヤタテヒメノミコト)を娶って生んだ子は、事代主神。
亦八嶋牟遲能神(ヤシマムヂノカミ)の女(ムスメ) 鳥耳神を娶って生んだ神は、鳥鳴神(トリナルノカミ)。この神、日名照額田毘道男伊許知迩神(ヒナテリヌカタビチヲイコチニノカミ) を娶って生んだ子は、國忍富神(クニオシトミノカミ)。この神、葦那陀迦神亦名八河江比賣(ヤガハエヒメ)を娶って生んだ子は、速甕(ハヤミカ)の多氣佐波夜遲奴美神(タケサハヤヂヌミノカミ)。この神、天之甕主神(アメノミカヌシノカミ)の女、前玉比賣(サキタモヒメ) を娶って生んだ子は、甕主日子神(ミカヌシヒノカミ)。この神、淤加美神(オカミノカミ)の女、比那良志毘賣(ヒナラシビメ) を娶って生んだ子は、多比理岐志麻流美神(タヒリキシマルミノカミ)。この神、比比羅木(ヒヒラギ)の其花麻豆美神(ソノハナマヅミノカミ)の女、活玉前玉比賣神(イクタマサキタマヒメノカミ) を娶って生んだ子は、美呂浪神(ミロナミノカミ)。この神、敷山主神(シキヤマヌシ)の女、青沼馬沼押比賣(アヲヌマウマヌマオシヒメ) を娶って生んだ子は、布忍富鳥鳴海神(ヌノオシトミトリナルミノカミ)。この神、若晝女神(ワカツクシメノカミ) を娶って生んだ子は、天日腹大科度美神(アメノヒバラオオシナドミノカミ)。この神、天狹霧神(あめのサギリノカミ)の女、遠津待根神(トホツマチネノカミ) を娶って生んだ子は、遠津山岬多良斯神(トホツヤマサキタラノカミ)。
 右の件(クダリ)の八嶋士奴美神自(ヨリ)以下、遠津山岬帶神以前(ヨリサキ)。十七世神と稱(マヲ)す。(全部でいくつか 数えられましたか? 何のために、こんなに書いたのか? ) 

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2005.06.06

古事記を読む  葦原醜男における「醜」という漢字

No90
(字通より抜粋)
〔形声〕声符は、酉(ユウ)。酉は酋とともに同字であった。
「説文」九上に 「悪(にく)むべきなり」とし、酉声とする。
意味は
① 酒を酌む、礼貌して鬯酌する形。 ②みにくい、あやしい。悪い ③にくむ、きらう
④なかま ⑤州・尻と通じ、尻の穴

〔古訓〕醜女、志古女(しこめ) カタナシ、ハヂ、モロモロ、ミニクシ、アシ、、タノシ、ココメ、ハナツ、ニクム、ツタナシ。
〔熟語〕醜悪、醜夷、醜怪、醜好、醜行、醜名、醜虜、醜老、遺醜、黒醜、狂醜、衰醜

大国主神の別名として、日本書紀に、葦原醜男が記されています。葦原醜男にあたる同じなまえとして、古事記には、葦原色許男神が記されています。前記の醜女、志古女(しこめ)も〔醜〕の字を〔シコ〕と読ませているようです。

司馬遼太郎は、〔街道をゆく〕の中で、次のように述べています。
「色許男は醜男ともいい、この醜はミニクイというより、強悍という意味である。上方方言で、男の児たちがあばれちらすことをシコルという。これは、「醜(シコ)る」ということです、とかつて田辺聖子さんが教えてくれた。‘醜(シコ)の御盾(ミタテ)’も強い近衛兵ということであり、また相撲で力士が土俵にのぼって四肢(シコ)を踏む、というのも、敵に対して大いに醜(シコ)を利かせてみせる、という古代からの所作、ことばであるにちがいない。ともかく、醜というのは、わるいことばではない」

二人の大家が言われることですから、私が別のことを述べるのは気が引けますが、原文を読みますと、スサノオは、「此者謂之葦原色許男」と言って、即に、喚び入れて、蛇の室に寝るように命令しました。殺そうとした大国主神を褒め称えるような言葉を使うのはおかしいです。日本書紀の作者は、大国主神は気に入らないので、あまり書きたくなかったのですが、書きました。葦原色許男をどのように読むのか知っていましたし、古事記と同じ漢字は使いたく無かったので、「醜」を使いました。勿論、醜いの意味で使ったはずです。

はじめに記しましたように、「醜」には、勇ましいとか逞しいとかの意味は全くありません。熟語は、中国の文献に見られるものですが、良い意味は一つもないのに、どうして、悪い言葉でないことになるのか不思議です。
殆どの本では、力づよい神と書かれています。それほど立派であれば、スサノオは結婚に反対などしないでしょう。

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2005.06.04

古事記を読む  大國主神の別名

No89
古事記には、大國主神には、別名として、大穴牟遲神、葦原色許男神、八千矛神、宇都志國玉神があり併せて五つの名があると記しています。
一方、日本書記の第六番目の一書には、大国主神、国作大己貴命、葦原醜男、八千戈神、大国玉神、顕国玉神、大物主神の七つの名が見られる。第二番目の一書には、大己貴命(オオアナムチノミコト)のみが、記されています。

どうして五つの名前があるのでしょう。誰でも気になるところです。岩波文庫の校注者の倉野憲司氏は、「それぞれの神名による神話を大國主神に統一したのである」と注釈しておられます。此れでは、説明になりません。何故統一しなければならなかったか。なぜ別の名前であちこちで祀られているのかの説明になっていません。
この部分は、避けて通るわけにはいきません。すこし、アタックしてみようと思います。
古事記と日本書記は、天武天皇の希望によって、作られた国史と言ってよいのに、国史が同時に作られた感じがあります。出来上がったのは、古事記は、712年、日本書記は、720年ということになっています。このように何故、同時に作らなければいけなかったのか?
完成後、日本書記は国史のように扱われたのに、古事記は抹殺されました。この事と関連があるかどうか判りませんが、両書では、同じ読み方をすると思われるのに、地名、人名など、悉く漢字表記が違います。
〔大己貴命--大穴牟遲神 オオムナチ〕〔葦原醜男--葦原色許男アシハラシコオ〕
 〔八千戈神--八千矛神ヤチホコノカミ〕 〔顕国玉神-宇都志國玉神-ウツクシクニタマノカミ〕
大國主神の名前だけが、同じです。
大國主神が同じということは、大国主神が名前ではないのでしょう。スサノオが、二人の駆け落ちを認めて、大国主神となれ、また宇都志國玉神となれ、そして、須勢理毘売を正妻にしなさいと命令しています。宇都志國玉神は、宇都志は、〔現し〕であり〔顕し〕で、現実に出来上がった国の神という意味でしょう。場所は宇迦の山の山本(ヤマノフモト)にで、ここに太い宮柱を立てて、住居を定めたとあります。宇迦の山のあるのは、大国村です。大国主神は、大国村の主の神という意味で、名前では無いことになります。
それぞれの名前が古事記ではどこに出てくるかもう一度、確認しておきます。
① 大穴牟遲神—No70 において、袋を担いで、八上比賣に逢いに行く時。
② 葦原色許男神—No75 根の国訪問した時。
③ 八千矛神---No79高志國の沼河比賣と結婚しようと、行幸した時。
④ 宇都志國玉神---No77 二人で駆け落ちして逃げ切ったとき。
 時代が違うことが判ります。魚の鰤が、大きくなるに従って、名前が変わるようなものです。
日本書紀では、具体的な話はなに一つありません。知らなかったか、書きたくなかったかです。
古事記は、No64では、五つの名前を挙げて強調しています。 
日本書紀の大己貴命には気をつけよ。でないと、まとめて名前を書く必要がありません。

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2005.06.03

閑話休題-- 神社と祭神数

No88
次の文は、昭和8年 島根県隠岐支庁発行の隠岐島誌の神社に関する資料の最初の部分です。
「隠岐島民は、敬愛愛国の思想に富み、神社を崇敬するの風あり。古来、有名な神社多く、延喜式神名帳に掲載せられたるもの、十六座に及び、就中、「名神大」と註せられしもの、知夫郡由良比女神社(ユラヒメ)、海士郡宇受加命神社(ウズカノノミコト)、同郡伊勢命神社の四座を有し、出雲国百八十七座中、大社二座、因幡国の五十座中、大社一座、伯耆家石見の大社無きに比し、隠岐の孤島にして、十六座中、大社四座を有するは、実に畏敬と謂わざるべからず。殊に、上古は、朝鮮半島交通の要路に当り、平安朝以来は、新羅来寇の衝に当たれるを以て、屡、勅を下して、異国調伏の祈願あり。神階授与の事、亦屡、国史に見えたり。朝廷に於いては、当国の辺要防備に就きて、常に、意を用ひられたる事亦知るべし」

ここにあるとおり、この小さな島に、延喜式神名帳に掲載せられたるものが十六座もあります。国が式内社を選定したときに、伯耆や因幡よりも重要視していたことが分かります。
式内社は次のように記しています。
式内神社 当国には、延喜式神名帳に掲げられたろ神社十六座あり、即ち左の如し。
隠岐国十六座 大四座、小十二座
 知夫郁七座   大一座、小六座
   由良比女神社 名神大 (元名和多須神)     大山神社
  海神二座
   真気命神社                       比奈麻治比売命神社
                                 天佐志比古命神社
 海部郡二座  大一座  小一座
   名伎良比売神社                    宇受加命神社 名神大
 周吉郡四座 併小
   賀茂那備神社        水祖神社
   玉若酢命神社        和気能須命神社
 穏地郡三座   大二座 小一座
   天健金草神社 名神大
   伊勢命神社          水若酢命神社  名神大

上記の神社に限らず、この島の神社の祭神は、一つのものが多いです。元々、祭神とは、数は少ないものです。神社は、そこに住んでいた人が、自分たちの先祖を祀ったものだと思われます。
ところが、祀る人が追い遣られたり、少しずつ減ったときに、近くの人が、自分たちの神社境内に、持ち主が居なくなった神社を一緒に祀ったのが、合祀であり、長い年月の間に、祭神の仲間入りをしたのだろうと思われます。
No8で紹介しました鳥取県頭郡智頭町大字智頭にある那岐神社の祭神は、国之常立神、豊雲野神、宇比地邇神、妹須比智邇神、角杙神、妹活杙神、意冨手能地神、妹大斗乃辨神、於母陀流神、妹阿夜訶志古泥神の10神です。
この10神がこの地に、集団でやってきたと考えるか、次第に増えていったと考えるかどちらでもいいと思います。少なくとも、古事記に書かれているから、ここに那岐神社を作ったと考えるのは、間違いでしょう。稗田阿例が、あちこちの神社を訪れ、其の上で、古事記を神話仕立てに作ったのでしょう。
このように、祭神の数は、合祀により増えたことは、大いにあったと思います。
その例の一つに、茅部神社があります。
真壁君川上村大字西茅部字磐座山1499番地 (古い住所)
村社 茅部神社
祭神 天照大神    御年神       天児屋根命   少彦名命
    素盞男命    市杵島姫命     息長帯姫命   大綿津美命
    軻遇突命    菅原神       大山祇命    稚日?命
    稲田姫命    多々美比古命    経津主命    狭田彦命
    神直日神    誉田別命      倉稲魂命    建甕槌命
    武内大臣    句々廼馳命     稲背波岐命   道祖命
次に最近の合祀の資料を書きます。
明治42年6月22日、
 本村大字西茅部 字大蛇  無格社 多々美比古神社(祭神 多々美比古)
            字社田、 無格社 社田神社 (祭神 大綿津美命)
            字郷原  無格社 天満神社 (祭神 菅原神)
            字下郷原 無格社 荒魂神社 (祭神 素盞鳴命)
            字故茅部 無格社 尾田神社 (祭神 素盞鳴命稲田姫命)
   大字東茅部  宇間谷  無格社 武雄神社 (祭神 素盞鳴命)
            字黒岩  無格社 八幡神社 (祭神 品陀別命 神直日命 素盞鳴命)
を合祀せり。

明治43年4月21日
本村大字本茅部  字原   無格社 別部神社 (祭神 稚日ル命)
   大字東茅部  字粟住  無格社 阿波須美神社(祭神 稚日?命) 
                  無格社 厳島神社(祭神 市杵島姫命)
            字祝詞  無格社 祝詞神社(祭神 天児屋根命)
            字大森  無格社 倉稲魂神社(祭神 倉稲魂神)
を合祀せり。

明治44年4月21日
本村大字西茅部  字後山  無格社 八幡神社(祭神 品陀別命)
を合祀せり。

祭神の数が多い理由に、上記のようなものがあることは確かです。

もっとも、祭神数が多い神社はご存知ですか?
靖国神社です。其の数、2466495柱です。 (平成15年10月15日現在)平成おお15年10月17日現在平成15年10月17日現在
多いところを拾いますと、日露戦争が、88429、満州事変が17176、支那事変が、191243、大東亜戦争が、2133885柱。明治維新以後を合計しますと、2466485柱となります。
祭神を、丁寧に眺めると、いろいろの事が分かります。歴史の分野で、あまり人が手をつけていないところだと思います。
知られていない事柄が発見できるでしょう。

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2005.06.02

古事記を読む  天照大御神は何処から来たか

No87
「倭人」を太伯の裔とする説は、『晋書』『梁書』に見られます。
『晋書』  (唐王朝、撰者・房玄齢578~648)
「列傳・四夷・東夷・倭人」には次のように記されている。
「男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後」
男子は大小と無く、悉く黥面文身す。自ら太伯の後と謂ふ。

『梁書』   (唐王朝、撰者・姚思廉?~637)
「列傳・諸夷・東夷・倭」には
「倭者、自云太伯之後。俗皆文身。」
倭は自ら太伯の後という、俗みな文身す。

『晋書』と『梁書』がどれほど信頼のおけるものか判りませんが、信頼できるとすれば、中国に行った倭人が、自分たちは太伯の裔と自称していると書いています。魏志倭人伝には書かれていませんから、魏の時代以降で、唐の時代までに中国に行った倭人が自称していたことになります。
史記 卷三十一 呉太伯世家に
「呉の太伯、太伯の弟仲雍は皆周の太王の子にして王季歴の兄也。季歴は賢にして聖子昌有り。太王、季歴を立て、以って昌に及(およ)ぼさんと欲す」とある。
太伯は季歴に後を継がせようと弟の仲雍とともに荊蛮の土地へ出て行き、いれずみをして断髪して野心のないことを示した。
太伯は国号を句呉と称した。すると荊蛮の民で彼に帰服したものが千余家あり、彼を立てて呉の太伯とする」とあります。
史記書かれている「太伯」と『晋書』に書かれている「太伯」とが、同じ人であるとは限りません。
史記書かれている「太伯」は、その後、死亡し弟が継いだとの記述もありますから、関係ないかもしれません。荊蛮は、荊州に住んでいる蛮族という意味でしょうか。現在の湖北省荊州市でしょうか?  荊蛮は 「江蘇省無錫市新区梅村鎮の辺りです。“江南第一古鎮”と言われている場所です」と、〔中国まるごと百科事典〕・管理人の生川様から情報をいただきました。
この地には、ヤオ族と苗族が住んでいたらしいです。

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2005.06.01

古事記 スサノオは何処から来たか

No86
もう一度復習です。No30とNo31をご覧ください。イザナギが禊をしていて、
 ①洗左御目時 所成神名------ 天照大御神
②洗右御目時、所成神名------ 月讀命
③次洗御鼻時、所成神名------ 建速須佐之男命
と記しましたように、それぞれの部分を洗っていたときに、やってきたのが三人です。
そして、三貴人を得ましたと書いてあります。以前にあったことがあるので、貴人であることを知っていました。
三人とも、亡命してきた人で、同じ頃にやってきたはずです。
月讀命は、仏教を信じて、〔山〕を〔せん〕と読む人たちでした。(No67) 紀元170年頃です。

さて、スサノオです。
魏志東夷伝の韓の部分に、魏志倭人伝と同様に、朝鮮のことが書かれています。
「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。辰韓者、古之辰國也。馬韓在西。其民土著、種植、知蠶桑、作緜布。各有長帥、大者自名爲臣智、其次爲邑借、散在山海間、無城郭。」  途中省略
「大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸。
   辰王治月支國、臣智或加優呼臣雲遣支報安邪shuku[偏足旁叔]支濆臣離兒不例拘邪秦支廉之號。其官有魏率善邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長。
  省略して、私の都合のいいところを抽出しますと、
 「侯準既僭號稱王、爲燕亡人衞滿所攻奪」
「將其左右宮人走入海居韓地、自號韓王。」
このような文が見つかります。
帶方之南に韓の国が在り、、東西は海だと、そして、その南は倭に接している。
三国のうち、辰韓は昔の辰国である。    ---省略----
 辰の王は、月支國を治めていた。
 (朝鮮)侯の準は既に僭號(勝手に)王を称えていて、燕の亡命人の衞滿に
  攻奪された。
  其の左右の宮人を走らせ入海し、韓の地に居し、韓王を自號す。
以上のことより、韓王は、海を渡ったということは、行先は日本しかない。
韓王(スサノオ)は朝鮮からの亡命者である。 これは、紀元前194年のことです。
辰韓は、元は秦国から、亡命してきた人たちが住んでいたから、秦韓とも書かれていた。
ユダヤ人が多く住んでいました。
それでは、スサノオは日本の何処に亡命したのでしょうか?
鳥取県大山町に唐王という地名があります。読み方は「とうおう」です。海際で、淀江廃寺で有名になった淀江町の隣ですが、この辺りは、昔、高麗村といわれたところです。高麗とか韓のつく地名は、変更されたところが多いですから、ここもはじめは、韓王であったのが、唐王(からおう)になり、「とうおう」になったのかもしれません。
この地に、唐王神社があり、祭神は速須佐男命の娘で、後に、大国主命と結婚した須勢理毘売となっています。よって、この辺りに住んでいたと考えてもいいのではないでしょうか?
大山町に孝霊山(751m)があります。この山も元は、高麗山であったのではと思っています。
このことから、亡命先は、ここに間違いないでしょう。 何故、この村を高麗村と呼んでいたかです。スサノオは高句麗から亡命し、月支國を治めていて、ここで、大国主神の母と結婚した可能性が大きいです。月支國は、50ほどあった国の一つの名前です。従いまして、大国主神の母は、ユダヤ人であったかもしれません。

日本書紀では、天照大御神と月讀命と 建速須佐之男命は、イザナギの子で、兄弟ということになっています。
スサノオは、高句麗から朝鮮の秦韓を経由して、日本へ来たという結論は、同じ頃で、他の民族から、滅ぼされて日本に到達したと考えると、それほど的外れではないと思われます。

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2005.05.30

大国主神と八上比売神

No85
米子市街の東を流れる日野川を遡っていくと溝口町がある。その隣町が西伯町です。県道180号線沿いに、〔倭〕がある。ここが昔の大国村です。一方、鳥取市の千代川を15Kmほど遡りますと、支流の曳田川があります。この辺りに住んでいたのが、八上比売神です。
 大国主神の兄弟である八十神と大国主神がどうして、100Kmほども離れたところの八上比売神を知っていたのか分かりませんが、彼女と結婚したいと旅に出ます。大山がどんと坐っていますから、日野川を下り海岸にでて、海岸に沿って千代川を目指したでしょう。
現在の気高町の岬を通りかかったときに、丸裸にされた素兎を見つけ、大国主神は兎に指示を与えます。
その後、千代川を遡ったことが、インターネットで次のように書かれています。
「鳥取市から河原町にはいると、「布袋」「袋河原」と言う地名があります。古に、大国主命が曳田の八上姫にかよわれた時、重い袋をここに置かれたというので「袋河原」、その袋は布の袋であったろうということで「布袋」と名づけられたのではないでしょうか。さらに、恋文を書いたところが「倭文」(鳥取市)。現在の「円通寺」(鳥取市)という地名は、2人が縁を通じた「縁通路」に由来するとか」。
「倭文」は、「しとり」と読み、全国あちこちにありますが、恋文とは関係なく、絹織物と関係があることが分かっています。地名もこのように考えますと楽しいです。
支流・曳田川に入りますと、曳田という集落があります。ここに、売沼神社(メヌマ)があります。ここの由緒には、「「延喜式神名帳」に「八上郡賣沼神社」とある神社でありまして、中世より「西日天王」といっておりましたが、元禄年間よりもとの賣沼神社という名にかはりました。御祭神は「八上姫神」でありまして御祭日は十月一日を大祭としております「古事記」の伝えるところによると、出雲国の大国主神は八上姫神をオキサキになさろうとしてこの因幡国にお出になりました。途中で白兎の難をお救いになりまして、この白兎神の仲介で八上姫神と首尾よく御結婚になりました。この神話伝説は漂着した外地の舟人たちが千代川をさかのぼって、まずこの曳田郷をひらいたことに間違はありません。対岸山麓の前方後円墳を神跡とするのも決して単なることとは云えないようであります」とあります。
大国主神と八上比売神は結婚し、御井神(別名木俣の神)を生みますが、八上比売神社と河ひとつ隔てた対岸にある黒木神社には御井神が大国主命と共に祀られていますから、八上比売神と御井神は、ここで過ごしたのでしょう。
 上に書きました由緒は、最近のものですが、古い由緒には、「由緒に売の文字の上に比があったのを延喜式に脱した」とあったことを田村誠一氏は、「平成古事記」に記しています。延喜式神社に指定されるまでは、「八上比賣沼神社」であったと思われます。
ということは、指定した人が、神社名を変えさせたことになります。

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2005.05.28

古事記を読む  大国主神はどうして兄弟に苛められたか

No84
古事記に従って読み進んできましたが、大国主神が、古事記に占める割合は大きいのに、建国に関わった話はありません。流れを追ってみます。
素兎を助け、兄弟から苛められ、その後、八上比売と結婚。また、兄弟から苛められます。その後、木の国に避難、根の国を訪問します。スサノオの女、須勢理毘売と駆け落ちします。スサノオから結婚は認められ、兄弟を追放します。次は高志国の沼河比売と結ばれます。
八上比売がついに怒るのかと思いきや、須勢理毘売の嫉妬の話があり、おのろけ話があるだけです。
命を懸けて、古事記を書いたにしては、内容が伝わってきません。作者はなにか重要なことを伝えたかったに違いありません。見逃していたのではないか、戻って検討して見ます。

No64 をもう一度確認します。スサノオには、三人の子供が生まれます。
① 八嶋士奴美神(母は稲田姫)
② 大年神 (大山津見神の女の大市姫)
③ 宇迦之御魂神
 八嶋士奴美神から5代目の孫が大国主神です。
父は天之冬衣神。母は刺國大神の女である、刺國若比賣となっています。
大国主神は根の国を訪問して、スサノオの娘の須勢理毘売と駆け落ちします。スサノオの子どもは、上に3人と書きましたから、おかしいことになります。スサノオの長兄である
八嶋士奴美神の5代孫が、大国主神ですから、100歳ぐらい年齢差があります。須勢理毘売は、娘ではなくスサノオの女であるか、古事記のほうに辻褄が合わないから、作為が加えられたかです。日本書紀では、刺國若比賣は登場しません。本文では、大蛇退治のときに、助けた奇稲田姫と結婚して、生まれたのが、大国主神とあります。日本書紀には、スサノオが追放されたときに、息子の五十猛命と新羅の国に行かれたことが記されていて、古事記と異なっています。
スサノオは、駆け落ちした二人を追いかけますが、許して大国村の主になれと言います。そして、兄弟を追い払えと言います。自分の子どもをすべて、追い払えということは、須勢理毘売はやはり、本当の娘でしょう。
八嶋士奴美神から5代目の孫ではなく、八嶋士奴美神の子供ということになります。もう一度、
No64に戻りますと、
① 布波能母遲久奴須奴神
② 深淵之水夜禮花神
③ 淤美豆奴神
④ 天之冬衣神
⑤ 大國主神
となり、5人兄弟の一人となります。それでも、まだ叔母と甥の関係になります。
このように考えますと、宇迦之御魂神の子供を除いても、22人の兄弟がいることになります。

さて、別の角度から検討を加えます。因幡の海岸に兄弟たちと出かけました。大國主神は、
最後に、袋をかついで歩いていました。自分で担いでいたのと、担がされていたのでは大いに違います。身分的に、最下位だったのか、年齢が下位だったのか分かりません。八上比売の奪いあいとなり、八十神から苛められたのか。最下位だったので苛められたのか分かりません。八十神は、大勢の神の意味にとっている人が多いですが、八十という名の神と捉えている人もあります。ここは、22人以上となれば、沢山の神々と取っていいでしょう。
⑥ 苛められた理由の一つに、人種問題があります。大國主神の母が、刺國若比賣です。刺國は、訓でよみますと、刺す国・太陽が照る国に対して、沈む国でしょうか? 中国と朝鮮になります。音では、〔しこく〕となります。この漢字の国は両国にありません。資料には登場しませんが、ユダヤ人が紀元前から、日本に来ていたようです。ユダヤ人関連でも、刺國はありません。同じ時代で無理に比定しますと、〔秦〕があります。一説には、始皇帝は、ユダヤ人の血が流れていると言われています。しかし、秦の国と刺國が同じというのは、無理があるようです。
⑦ もう一度、人種問題で検討します。古事記を眺めますと、イザナギとイザナミが多く割かれています。次は、スサノオです。その子の大國主神です。天照大御神は、大國主神に国を明け渡すように迫ります。スサノオも大國主神も天皇の方から見ると敵にあたります。天武天皇が、由緒正しき人物であることを述べるには、この人たちが、いかに天照大御神と人種が違うことを述べなければならなかったのではないでしょうか?
当時、朝鮮は、馬韓・弁韓・辰韓があり、一番南が辰韓で、後の新羅にあたります。魏志東夷伝の韓伝には、倭人と同様に、養蚕をして倭人に似ていることが記されています。北の高句麗人とは、人種が違ったようです。
   辰韓は辰国から興ったことが、魏志東夷伝の韓伝に記されています。こうなるとスサノオがどこからやってきたかを書かなければなりません。天照大御神も必要です。
 避けて通ることは出来ないようです。
 少し、古事記から離れますが、先ず、スサノオを検討し、次に天照大御神の出自を調べて、何故、大國主神は他の兄弟から苛められたに戻ろうと思います。

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2005.05.27

古事記を読む  須勢理毘売の嫉妬 その3

No83
爾其后取大御酒坏。立依指擧而歌曰。夜知富許能。加微能美許登夜。阿賀淤富久
迩奴斯。那許曾波。遠迩伊麻世婆。宇知微流。斯麻能佐岐邪岐。加岐微流。伊
蘇能佐岐淤知受。和加久佐能。都麻母多勢良米。阿波母與。賣迩斯阿禮婆。那
夜知富許能加微能美許登夜阿賀淤富久迩奴斯那許曾波遠迩伊麻世婆宇知微流斯
麻能佐岐邪岐加岐微流伊蘇能佐岐淤知受和加久佐能都麻母多勢良米阿波母與賣
迩斯阿禮婆那遠岐弖。遠波那志。那遠岐弖。都麻波那斯。阿夜加岐能。布波夜賀
斯多爾。牟斯夫須麻。爾古夜賀斯多爾。多久夫須麻。佐夜具賀斯多爾。阿和由岐
能。和加夜流牟泥遠。多久豆怒能。斯路岐多陀牟岐。曾陀多岐。多多岐麻那賀理。
麻多麻傳。多麻傳佐斯麻岐。毛毛那賀迩。伊遠斯那世。登與美岐。多弖麻都良世
*如此歌。
即爲宇伎由比【四字以音】而。宇那賀氣理弖【六字以音】至今鎭坐也。此謂之神
語也。
そこで、其の后(キサキ)は大御酒坏(オオミサカズキ)を取り、立ち依り指擧(ササ)げて歌われました。  以下、岩波文庫の訳を記します。
八千矛の 神の命や 吾が大国主 汝(ナ)こそは 男(ヲ)に坐(イマ)せば 打ち廻(ミ)る
島の埼埼 かき廻る 磯の埼落ちず 若草の 妻持たせられ 吾はもよ 女(メ)にしあれば 汝(ナ)を除(キ)て 男は無し 汝を除て 夫(ツマ)は無し 綾垣(アヤカキ)の ふはやが下に 苧衾(ムシブスマ) 柔(ニコ)やが下に 栲衾(タクフスマ) さやぐが下に 沫雪(アワユキ)の若やる胸を 栲綱(タクツナ)の 白き腕(タダムキ) そだたき たたきまながり 眞玉手(マタマデ) 玉手さし枕き 百長(モモナガ)に 寝(イ)をし寝(ナ)せ 豊御酒(トヨミキ) 奉らせ。
とうたひたまひき。かく歌ひて、すなはち盞結(ウキユヒ)して、うながけりて今に至るまで鎮(シヅ)まり坐(マ)す。これを神語(カムガタリ)と謂(イ)ふ。

 又もや、良く理解できませんが、前回り少しわかるような気がしますので、判り難い言葉の説明だけ記します。①磯の埼落ちず(?) ②妻持たせらめ(?) ③吾はもよ(?)
④綾垣—アシギヌで作った幕 ⑤ふはやが下(?) ⑥苧衾—からむしのベッド ⑦栲衾--カジの木の繊維で作ったベッド ⑧さやぐが下に(?) ⑨そだたき---しっかりと抱く
⑩たたきまながり(?) –〔まながる〕は 手足をさし交わして抱く ⑪豊御酒(?)—いっぱいの御酒?  ⑫盞結--酒を酌み交わして心の変わらないことを確かめ合う ⑬うながりて---肩にに手を掛け合って、仲睦まじく
 お后は、嫉妬して怒っているのかと思えば、そうでもないのですね。貴方以外に男はいないし、夫もいません。さあ、お酒をいっぱい飲んで、抱き合って寝ましょうといっていることになります。絹はカーテンとして利用されていました。カジの木でできたハンモック状のものに、カラムシで出来たベッドがあったことが分かります。

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2005.05.26

古事記 須勢理毘売の嫉妬 その2

No82
「出雲より將に倭國上り坐して、束裝し立つ時、片方の御手(ミテ)は、御馬の鞍に繋(カ)け、片の御足(ミアシ)は其の御鐙(ミアブミ)に」とありますから、ここでは、間違いなく、「馬」が使われていたことが分かります。
 さて、長歌の部分は、このままでは、意味が判りませんので、岩波文庫を拝借します。
ぬばたまの 黒き御衣(ミケシ)を まつぶさに 取り装(ヨソ)ひ 沖つ鳥 胸(ムナ)見る時 はたたぎも これは適(フサ)はず 辺(ヘ)つ波 そに脱き棄(ウ)て 鴗鳥(ソニドリ)の 青き御衣(ミケシ)を
まつぶさに 取り装(ヨソ)ひ 沖つ鳥 胸(ムナ)見る時 はたたぎも 此も適はず 辺つ波 そに脱き棄て 山縣(ヤマガタ)に 蒔きし あたね舂(ツ)き 染木(ソメキ)が汁に 染(シ)め衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも 此(コ)し宜(ヨロ)し いとこやの 妹(イモ)の命(ミコト) 群鳥(ムラトリ)の 我が群れ往なば 引け鳥の 我が群れ往なば 泣かじとは 汝(ナ)は言ふとも 山処(ヤマト)の 一本薄(ヒトモトススキ) 項傾(ウナガ)し 汝が泣かさまく 朝雨(アサアメ)の 霧に立たむぞ 若草の 妻の命(ミコト) 事の 語言(カタリゴト)も 是をば 

どうも頭が良くないのには、ほとほと参ります。何のことがさっぱり判りません。もう少し、砕いて読んでみます。黒い衣で、充分に装うて、水鳥が毛づくろいをするように、袖の袂を手繰り上げてみたりしたが、似合っていないので、波ぎわに脱ぎ棄てました。青い衣で、充分に装うて、水鳥が毛づくろいをするように、袖の袂を手繰り上げてみたりしたが、是も似合っていないので、波ぎわに脱ぎ棄てました。山の畑に蒔いた茜草の根を搗いて、その染め草で染めた衣で、精一杯着飾り、水鳥が毛づくろいをするように、袖の袂を手繰り上げてみたりしますと、此れは宜しいです。愛する妹よ 群れ鳥のように、我が皆と一緒に往ったなら、一匹が飛び立てば、他の鳥も一斉に飛び立つように私が行っても、泣かないと貴方は言うでしょうが、山の麓に生える一本のススキが首を垂れているように、項垂れて 貴方は泣きながら、きっと霧の中にたたずむでしょう。若々しい私の妻の事を語っておこう。
皆さんは、自由に読んで見て下さい。私はこのように読んでみたのですが、大国主神が、旅立に際して、仰々しく馬の鞍に手を掛けて、鐙に足を掛けたままで、言わなければならない内容でしょうか?  黒も青も衣は似合わなかった、茜色の衣は似合った。それだけ妻のために衣を選んだということでしょうか?貴方は泣かないい言うだろうが、 悲しむだろう。此れでは辻褄が合いません。ということは、私の訳が間違っていることになります。
私が注目したいのは、衣をすでに染めていたという事です。自然界にある木の実や葉から採取したものではなく、山の畑に染め木の種を蒔いて、植えてあり、それを搗いて作ると書いてあります。時代は、紀元前のことになります。
この長歌に対する歌がありますから、それを読んでから、もう一度、大国主神の長歌に検討を加えようと思います。

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2005.05.17

古事記を読む  須勢理毘売の嫉妬

No81
又其神之嫡后須勢理毘賣命。甚爲嫉妬。故其日子遲神和備弖【三字以音】自出雲將上坐倭國而。束裝立時。片御手者。繋御馬之鞍。片御足蹈入其御鐙而。歌曰。
奴婆多麻能。久路岐美祁斯遠。麻都夫佐爾。登理與曾比。淤岐都登理。牟那美流登岐。波多多藝母。許禮婆布佐波受。幣都那美。曾迩奴岐宇弖。蘇迩杼理能。阿遠岐美祁斯遠。麻都夫佐迩。登理與曾比。於岐都登理。牟那美流登岐。波多多藝母。許母布佐波受。幣都那美。曾迩奴棄宇弖。夜麻賀多爾。麻岐斯。阿多豆都岐。曾米紀賀斯流迩。斯米許呂母遠。麻都夫佐迩。登理與曾比。淤岐都登理。牟那美流登岐。波多多藝母。許斯與呂志。伊刀古夜能。伊毛能美許等。牟良登理能。和賀牟禮伊那婆。比氣登理能。和賀比氣伊那婆。那迦士登波。那波伊布登母。夜麻登能。比登母登須須岐。宇那加夫斯。那賀那加佐麻久。阿佐阿米能。疑理迩多多牟敍。和加久佐能。都麻能美許登。許登能。加多理碁登母。許遠婆
翻訳
 又 其の神の嫡后(オホキサキ)須勢理毘賣命(スセリヒメ)は、甚く嫉妬をしました。そこで、其の日子遲(ヒコジ)の神は和備弖(ワビテ)  出雲より將に倭國上り坐して、束裝し立つ時、片方の御手(ミテ)は、御馬の鞍に繋(カ)け、片の御足(ミアシ)は其の御鐙(ミアブミ)に蹈み入れて、歌われました。
奴婆多麻能(ヌバタマノ) 久路岐美祁斯遠(クロキミケシヲ) 麻都夫佐爾(マツブサニ) 登理與曾比(トリヨソヒ)淤岐都登理(オキツトリ) 牟那美流登岐(ムナミルトキ) 波多多藝母(ハタタキモ) 許禮婆布佐波受(コレハフサハズ) 幣都那美(ヘツナミ) 曾迩奴岐宇弖(ソニヌキウテ) 蘇迩杼理能(ソニドリノ) 阿遠岐美祁斯遠(アオキミケシヲ) 麻都夫佐迩(マツブサニ) 登理與曾比(トリヨソヒ) 於岐都登理(オキツトリ)牟那美流登岐(ムナミルトキ)  波多多藝母(ハタタキモ)  許母布佐波受(コモフサハズ) 幣都那美(ヘツナミ) 曾迩奴棄宇弖(ソニヌキウテ) 夜麻賀多爾(ヤマガタニ) 麻岐斯(マキシ) 阿多豆都岐(アタネツキ)曾米紀賀斯流迩(ソメキガシルニ) 斯米許呂母遠(シメコロモヲ) 麻都夫佐迩(マツブサニ) 登理與曾比(トリヨソヒ) 淤岐都登理(オキツトリ) 牟那美流登岐(ムナミルトキ) 波多多藝母(ハタタキモ) 許斯與呂志(コシヨロシ) 伊刀古夜能(イトコヤノ) 伊毛能美許等(イモノミコト) 牟良登理能(ムラトリノ) 和賀牟禮伊那婆(ワガムレイナバ) 比氣登理能(ヒケトリノ) 和賀比氣伊那婆(ワガヒケイナバ) 那迦士登波(ナカジトハ) 那波伊布登母(ナハイフトモ) 夜麻登能(ヤマトノ) 比登母登須須岐(ヒトモトススキ) 宇那加夫斯(ウナカブシ) 那賀那加佐麻久(ナガナカサマク) 阿佐阿米能(アサアメノ) 疑理迩多多牟敍(キリニタタムゾ) 和加久佐能(ワカクサノ) 都麻能美許登(ツマノミコト) 許登能(コトノ) 加多理碁登母(カタリゴトモ) 許遠婆(コレヲバ)と。

又、長歌になっています。須勢理毘賣命は嫉妬をしました。当たり前です。しかし、男たるものは、これぐらい出ないと、人類は滅亡します。この辺りは人によって考え方は違いますから、この位にして、先に進みます。
「倭國上り坐して」とあります。重大です。倭國とは どこだです。考えておいてください。次回にします。

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2005.05.16

古事記を読む  沼河比売求婚  その2

No80
爾其沼河日賣。未開戸。自内歌曰 夜知富許能。迦微能美許等。奴延久佐能。売迩志阿礼婆。和何許許呂。宇良須能登理叙。
伊麻許曾婆。和杼理迩阿良米。能知波。那杼理爾阿良牟遠。伊能知波。那志勢多麻比曾。伊斯多布夜。阿麻波世豆迦比。許登能。加多理碁登母。許遠婆。
阿遠夜麻迩。比賀迦久良婆。奴婆多麻能。用波伊伝那牟。阿佐比能。恵美佐加延岐弖。多久豆怒能。斯路岐多陀牟岐。阿和由岐能。和加夜流牟泥遠。曾陀多岐。多多岐麻那賀理。麻多麻伝。多麻伝佐斯麻岐。毛毛那賀爾。伊波那佐牟遠。阿夜爾。那古斐支許志。夜知富許能。迦微能美許登。許登能。迦多理碁登母。許遠婆*
故其夜者不合而。明日夜爲御合也。
翻訳 つづいて岩波文庫の翻訳を記します。
ここに其の沼河日賣、未だ戸を開かずに、内自(ヨリ)歌いました。
八千矛(ヤチホコ)の 神の命(ミコト) ぬえ草の 女(メ)にしあれば 我が心 浦渚(ウラス)の鳥ぞ 今こそは 我鳥(ワドリ)にあらめ 後(ノチ)は 汝鳥(ナドリ)にあらむを 命(イノチ) な殺(シ)せたまひそ いしたふや 天馳使 事の 語言(カタリゴト)も 是をば
青山に 日が隠らば ぬばたまの 夜は出でなむ 朝日の 笑み栄え来て 栲綱(タクツノ)の 白き腕(タダムキ) 沫雪(アワユキ)の 若(ワカ)やる胸を そだたき たたきまながり 眞玉手(マタマデ) 玉手さし枕(マ)き 百長(モモナガ)に 寝(イ)は寝(ナ)さむを あやにな恋ひ聞こし 八千矛の 神の命 事の 語言も 是をば 
とうたひき。 故、その夜は合うはずて、明日(クルヒ)の夜、御合(ミアヒ)したまひき。

ぬえ草は、なよなよとした草のようなとの意味で、次のメにかかる枕言葉。このように、言葉の説明がありますが、それを全部読んでもまだ、良く理解できません。それでもおぼろげには判るようですので、このままにして置きます。気になるのは、沼河日賣が越の国に住んでいて、何故遠い越の国まで、結婚したくて行ったかです。出雲に古志という地名がありましたが、ここは国ではないと思います。やはり、以前から交流があったのだと思われます。越の国は越前、越中、越後のどこかと言うことになるでしょう。間に丹後の国があります。この国は、出雲・伯耆の人と相容れない人が住んでいたと思われます。四隅突出型墳丘墓というのがあります。紀元前後~3世紀頃にみられ、分布は岡山・島根・鳥取・富山・福井・石川県に集中しています。このことから、丹後を飛ばして,交流があったことが想像できます。丹後を飛ばすということは、海路を通じて交流があったのだと思います。大国主神は、記録に残る海路交流の一番古い例だと思われます。
 さて、この神話は、日本版のロミオとジリエットです。歌を歌って、恋を訴えますと、戸を開かずに返事を返し、その夜には合わなかったとは、奥ゆかしいというか、現在とは、随分違います。魏志倭人伝に、「婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし」とありますから、この表記は正しかったことになります。

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古事記

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2005.05.15

古事記を読む  閑話休題 銅鐸は日本の製品か

No79
銅鐸は、全国で500個ほど見つかっています。神戸市の桜ヶ丘遺跡から見つかった14個の銅鐸は、40cmぐらいの高さです。野洲町の銅鐸博物館に展示されている銅鐸は、大きいものが多く、134cmのものもあります。
よく似たものに風鐸があります。お寺の建物の四隅に吊り下げられているものです。風鈴のようなものでしょう。No35で紹介しました編鐘は、中山王国から出土したものですが、14個で、14の音階を持った楽器です。
銅鐸は、歴史界では、祭祀に用いられたというのが定説になっていますが、可能性が高いというだけのことで、本当のことは誰にも判りません。音を出すために作ったことは確かだと思われます。
何に使ったかは、他の本に任せまして、タイトルの「銅鐸は日本の製品か」について、考えてみようと思います。勉強不足で、よく知らないのですが、1メートルを超えるような銅鐸は、日本にしか無いそうです。日本にしか無いという意味で言えば、日本独特の製品といえると思います。

神戸市立博物館では、桜ヶ丘遺跡の銅鐸を常設室で展示しています、これは、素晴らしいもので、動物の絵が描かれています。完成してから、線で絵を描くのであれば、簡単ですが、浮き上がらすのは非常に難しいと思われます。

私は銅鐸を作っているのをテレビで見ただけですので、詳細は知りませんが、作り方を簡単に説明しますと、仮に1cmの厚さの銅鐸を作るとします。銅鐸が初めからあれば簡単です。銅鐸の周りを粘土で固めます。その粘土の塊を二つに分けて、中の銅鐸を取り出します。もう一度、二つに分かれた銅鐸をくっつけます。中に空洞ができます。その空洞に溶けた銅を流し込みます。
銅が固まったら、粘土をこわして完成です。
 それぐらいは、誰でも知っています。それでは、その空洞に入れる銅はどうするのだと言いますと、熱して銅を溶かします。銅は1083度で溶けるらしいです。溶けた銅を上からしか流せませんから流します。仮に石鹸水を流したとします。うすい石鹸水、濃い石鹸水どのように流れるのでしょうか? 真っすぐに流すと直接下まで落下するもの、横の壁に当たるものいろいろです。泡が出来ると思います。銅では泡はできないでしょうか? 泡が出来たら均一になりません。粘土の容器が冷たいとします。銅を流すしりから、温度は下がります。均一に出来ないと音は安定しません。銅は石鹸水のようにいきません。いくら熱をくわえてもある程度は粘張度があります。水のようにさらさら出ないと、動物の絵のような線のようなものは浮びあがりません。
このように考えていきますと、どんな銅でもいい訳ではないようです。
「古代日本の超技術」志村史夫著から、知恵をお借りします。745年奈良で大仏の建立が始まった。5年の歳月をかけて完成しましたが、鋳造に使われた銅は、490トン、白メ(錫)8.5トン 錬金440キログラム、水銀2470キログラムとあります。銅だけではないということです。当時、銅は貴重品で、全国から集められたと思っていましたが、山口県の長登(美東町)の銅が使われたと紹介してあります。
1988年1月に奈良東大寺大仏殿回廊西側から、200点の木簡が出土し、その内、100点ほどが解読でき、銅の重量や銅を溶かした竈の番号、鋳造に従事した工人の名前、人数が記されていました。『続日本紀』『東大寺要録』などと総合すると推定延べ260万人もの人が、携わったことが判っています。当時の人口の半分相当する人数ですから、いかに大きな国家的プロジェクトであったが判ります。
木簡だけではなく、溶銅塊も出土し、その成分が、銅90.3 砒素3.2 銀.02パーセントがわかっています。
奈良時代には、武蔵、山背、因幡、備中、備後、周防、長門、豊前の銅山が知られていましたが、砒素3.2の濃度が、長登産の銅であるとの決め手になりました。
「古代日本の超技術」では、もっと詳細に書かれていますので、興味のある方は、一読されることをお奨めします。
もう一つ、加えておられることがあります。長門は秋吉台で知られますように、石灰岩の多いところです。ここの鉱山は、砒素という不純物だけではなく、石灰分が多いのが特徴です。この二つがあるために、鋳造するときに、銅はさらさらになって、全体に均一に流れて、隅々まできめ細かなものが出来上がるそうです。
以上は、大仏の話ですが、このような知識は、どうして獲得したのでしょうか?銅鐸の厚さは2ミリメートルぐらいです。大仏を作るときより、流し込むのは難しいと思われます。大仏が出来た年(745)より、800年も前から、銅鐸を作った人はクリアしていたことになります。
確かに、製鉄や製銅のテクニックは大陸から学んだのでしょうが、銅鐸の素晴らしさは、日本人が工夫して出来上がったものだと思います。いくら工夫しても材料が無ければ出来ませんから、これらの事が混ざり合って、その後の素晴らしい仏教美術の花が開いたと思います。
 こんなことを思いながら、神戸市立博物館と滋賀県野洲町の銅鐸博物館を訪問されますと楽しさが倍増します。

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2005.05.10

古事記を読む  根の国訪問  その4

No77
故其所寢大神。聞驚而。引仆其室。然解結椽髮之間。遠逃。故爾追至黄泉比良坂遙望 呼謂大穴牟遲神日。其汝所持之生大刀、生弓矢以而。汝庶兄弟者追伏坂之御尾。亦追撥河之瀬而。意禮【二字以音】爲大國主神亦爲宇都志國玉神而。其我之女爲須世理毘賣。爲嫡妻而。於宇迦能山【三字以音巳】之山本。於底津石根。宮柱布刀斯理【此四字以音】於高天原氷椽多迦斯理【此四字以音】而居。是奴也。
故持其大刀、弓。追避其八十神之時。毎坂御尾追伏。毎河瀬追撥而。始作國也。故其八上比賣者如先期美刀阿多波志都【此七字以音】故其八上比賣者雖率來。畏其嫡妻須世理毘賣而。其所生子者刺狹木俣而返。故名其子云木俣神亦名謂御井神也。

翻訳
其の所で寢ていた大神は、それを聞いて驚いて、その部屋を引き仆(タオ)しました。然し、椽に結んである髪を解いている間に、遠くに逃げました。すると、黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)に追い至り、遙かに望んで、大穴牟遲神は、呼(サケン)で謂いました。「其の汝の所持(ショジ)する生大刀と生弓矢で以って、汝の庶兄弟を坂の御尾に追い伏せて、亦、河の瀬に追い撥(ハ)って、意禮(オレ) 大國主神と為(ナ)って、亦、宇都志國玉神と爲って、其の我の女(ムスメ)の須世理毘賣を嫡妻と爲して、宇迦能山(ウカノヤマ)の山本に於いて、底の石根(イワネ)に、宮柱布刀斯理(ミヤバシラフトシリ)、高天の原に於いて、氷椽(ヒギ)多迦斯理(タカシリ)して居利なさい。是が奴(ヌ)也」
そして、其の大刀と弓を持って、其の八十神を追い避けた時に、坂の御尾毎に追い伏せました。河の瀬毎に追い撥らして、始めて國を作りました。そこで、其の八上比賣は先に期した如く、美刀阿多波志都(ミトアタハシツ)。そして、其の八上比賣を率いて來ましたが、其の嫡妻の須世理毘賣を畏れて、其の所で生れた子を木の俣に刺(サ)し狹(ハサ)んで、返しました。だから、其の子を名づけて、木俣神と云う。亦名は御井神(ミイノカミ)と謂(イ)います。

さあ、根の国の訪問は、終わりました。ここは、重要なことが書かれていますので、字句の解説は止めにして、どこが大切かを記します。
① また、黄泉比良坂が出てきました。ここを黄泉の世界に通じる比良坂と多くの本では、考えられてきましたが、そうだとしますと、三人は、黄泉の国へ行くしかありません。黄泉比良坂は、地名が付いていなかったから、夜見(よるにみえる)比良坂です。日野郡根雨町板井原 に板井原神社があります。祭神は大巳貴神、須勢理比売命とあります。二人は、ここまで逃げてきたのでしょうか。古事記では、大穴牟遲神、須世理毘賣と書かれているものが、大巳貴神、須勢理比売命と書かれています。なぜだと思われますか? 

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2005.05.09

古事記を読む  根の国訪問  その3

No76
於是其妻須世理毘賣者。持喪具而哭來。其父大神者。思已死訖。出立其野。爾持其矢以奉之時。率入家而。喚入八田間大室而。令取其頭之虱。故爾見其頭者。呉公多在。於是其妻。以牟久木實與赤土。授其夫。故咋破其木實。含赤土。唾出者。其大神。以爲咋破呉公唾出上而。於心思愛而寢。爾握其神之髮。其室毎椽結著而。五百引石取塞其室戸。負其妻須世理毘賣。即取持其大神之生大刀與生弓矢及其天詔琴而。逃出之時。其天詔琴拂樹而。地動鳴。
翻訳
是に於いて、其の妻の須世理毘賣は、喪具を持って哭(ナ)いて來ると、其の父の大神は已(ス)でに死んだと思って、出立其の野に出て立ちました。そして、其の矢を持ちて奉る時、家に率いて入って、八田間(ヤタマ)の大室(オオムロ)に喚(ヨ)び入れて、其の頭の虱(シラミ)を取るように命令しました。そこで、頭を見ますと、呉公が多くいました。そこで、其の妻は、牟久(ムク)の木の實と赤土を取って、其の夫に授(ツ)けました。そして、其の木の實を咋(ク)い破り、赤土を口に含んで唾を出すと、其の大神(スサノオ)は、呉公を咋い破って唾を出したと思って、心に愛(?)しく思って寢てしまいました。其の神の髮を握って、其の室の毎椽(?)結び著(ツ)けて、そこに、五百引の石を其の室の戸に取り塞いで、其の妻の須世理毘賣を背負うやいなや、取持其大神の生大刀(イクタチ)と生弓矢(イクユミヤ)及び其の天の詔琴(ノリゴト) を取って、逃げ出す時、其の天の詔琴が樹に拂(フ)れて、地は動き鳴りました。

喪具がどのような物かは書かれていませんが、お葬式の用意をしたので、スサノオは騙されました。それでも尚、八田間(ヤタマ)の大室に入れて頭の虱をとるように命じます。
須世理毘賣は牟久(ムク)の木の實と赤土を大国主命に塗ると、いよいよスサノオは、安心して寝てしまいます。毎椽は軒か柱でしょうか。五百人で引かないと動かないような石にスサノオの髪の毛を結びつけて追って来られないようにしました。そんな重い石をどうして動かしたのでしょうか。疑問はありますが、どうせ作り話ですからということにしておきます。
このページで重要なことは、須世理毘賣が天の詔琴を持っていたという事です。こんな時に琴どころでないのに、持って逃げようということは、貴重なものであったのでしょう。
No9をご覧ください。「天の沼矛」 「天の御柱」 「天の班馬」がありました。「天」は「アメ」と読むのではなく、「テン」らしい。現在の中国の雲南省にあった古い国の名前です。スサノオは、高句麗からやってきたと、前に書きましたのに、高天原で大暴れをした時に、機織小屋に投げ込んだのは、人の馬ではなく、「天の班馬」であったことになります。スサノオは、高句麗から雲南省のテンに亡命してから、天の班馬と天の詔琴をもって、日本にやって来たことになります。

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2005.05.08

古事記を読む  根の国訪問  その2

No75
故隨詔命而。參到須佐之男命之御所者。其女須勢理毘賣出見。爲目合而相婚。
還入。白其父言。甚麗神來。爾其大神出見而告。此者謂之葦原色許男。即喚入而。
令寢其蛇室。於是其妻須勢理毘賣命以蛇比禮【二字以音】授其夫云。其蛇將咋。以此比禮三擧打撥。
故如教者。蛇自靜故。平寢出之。亦來日夜者。入呉公與蜂室。亦授呉公蜂之比禮。教如先故。平出之。亦鳴鏑射入大野之中。令採其矢。故人其野時。即以火迴燒其野。於是不知所出之間。鼠來云。内者富良富良【此四字以音】外者須夫須夫【此四字以音巳】如此言故。蹈其處者。落隱入之間。火者燒過。爾其鼠咋持其鳴鏑。出來而奉也。其矢羽者。其鼠子等皆喫也。
翻訳
故、隨命(ミコト)の詔(ノリ)たまえる隨(ママ)に、須佐之男命の御所(オントコロ)に參り到(イ)たると、其の女(ムスメ)の須勢理毘賣(スセリヒメ)が出でて見えて、目を合わして、相婚して還(カエ)り入りました。其の父に白(モ)うして言うには、「甚だ麗わしい神が來ました 」と。そこで、其の大神は出でて見て、告(ノ)りたまいました。
「此は葦原色許男と謂うのだ」と言って、すぐに喚(ヨ)び入れて、其の蛇の室(ヘヤ)に寢るように命じました。そこで、其の妻の須勢理毘賣命は、蛇の比禮(ヒレ) 以って、其の夫に授(サズ)けて云いまた。「其の蛇が將に咋(ク)おうとすれば、此の比禮を以って三回擧(アゲ)て打ち撥(ハナ)ちなさい」と。
そして、教への如くすれば、蛇は自から靜かになる。平(ヤス)く寢て出でていくでしょう。亦、來る次の日の夜には、呉公(ムカデ)と蜂を室に入れたときに、又呉公蜂の比禮を授け、先の如く教えました。すると、平く出ていきました。亦、鳴鏑を大野之中へ射入りて、令採其の矢を採って来るように命令しました。そこで、其の野に入った時、すぐに、火を以って其の野を迴り燒きました。そこで、出る所を知らないでいると、鼠が來て云いました。
「内は富良富良(フラフラ)  外は須夫須夫(スフスフ)」此のように言いまして、蹈其の處を蹈(フ)むと、落ちて隱れ入る間に、火は燒け過ぎてしまいました。そこで、其の鼠は其の鳴鏑を持って咋って、出て來て奉まつりました。其の矢の羽は、其の鼠の子等が皆で喫ってしまいました。

一目ぼれで、目を合わせただけではないことが判ります。そして、父の須佐之男命に事後報告をしたら、「此は葦原色許男と謂うのだ」と言いましたから、須佐之男命は大国主命を知っていたことになります。大国主命の母が、刺国大神の女で刺国若比売と知っていて(No64にて掲載)、結婚に反対して、大国主命を殺そうとしたのでしょうか。
布切れを振ったり、まじないを唱えると危機を脱することができたことになりますが、
この術は、須勢理毘賣がもっていたことになります。須勢理毘賣は淀江町(旧高麗村)の唐王神社に祀られています。これで、此処が根の堅州国であることが、確定しました。

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2005.05.07

古事記を読む  根の国訪問

No74
長いので、区切りながら読んでみます。
於是八十神見。且欺率入山而。切伏大樹。茹矢打立其木。令入其中即。
打離其冰目矢而。拷殺也。爾亦其御祖哭乍求者。得見即。拆其木而取出
活。告其子言。汝者有此間者。遂爲八十神所滅。
乃違遣於木國之大屋毘古神之御所。爾八十神覓追臻而。矢刺乞時。自
木俣漏逃而云。可參向須佐能男命所坐之根堅州國。必其大神議也。
 翻訳
是に於いて、八十神見て、且(カ)つ、欺(アザム)いて山に率入れて、大樹を切り
伏せて、茹矢を其の木に打ち立て、其の中に入るように命令するやすぐに、
其の氷目矢(ヒメヤ)を打ち離って、拷(ウ)ち殺しました。爾(ココ)に亦、其の御祖
(ミオヤ)は哭(ナキ)乍ら、求めれば、見得てすなわち、其の木を拆(オ)って、取り出
して活きかえらせて、其の子に告げて言いますには、「汝は此間(ココニ)に有れば、
遂に八十神の爲に滅ぼされる所となるでしょう」と言いました。
乃(スナワ)ち、木國の大屋毘古神の御所に違えて遣(ヤ)りました。すると、八十神は
追い求めて至って、矢を刺して乞(コ)う時、木の俣()マタ自(ヨリ)漏れて逃がして、
云いました。「須佐能男命の坐(イマ)す所の根堅州國へ參り向う可(ベ)し。必らず 
其の大神が議(ハカ)り也」と。
意味の判らない言葉・部分
① 茹矢 茹は読み方は、ジョ くらう、ゆでる 意味はやわらかい。岩波文庫では、   
茹矢で〔ひめや〕と読ませています。
     ひめ矢は、木を割るときにつかうクサビとあります。
     「茹矢を其の木に打ち立て」とありますが、クサビを打ち込んでも、その中に人は入れませんから、茹矢はクサビではなさそうです。
      氷目矢は〔ヒメヤ〕と読めます。打ち離って、殺したとありますから、
     ヒメを辞書で引きますと、すずめ目の小鳥とありますから、小鳥を捕るための籠のようなもので、鳥が入ると自動的に矢がでるような仕掛けでしょうか。
② 違えて すれ違うの意味でしょうか。八十神に会わないように。
③ 木國之大屋毘古神 が問題のところだと思います。岩波文庫の訳本では、木國は、和歌山県の紀伊の国となっています。これまで、古事記を訳してきましたが、すべて、出雲、伯耆、因幡あたりのことになっています。和歌山は遠すぎます。
近くで木の字が付くところでは、三木市があります。三木は御木ではなかったでしょうか? 三木市には、〔御坂神社〕があります。三坂社を含めると、八社あり、祭神は、神社によって、いろいろで、葦原志挙乎命・大巳貴命とあったり、播磨風土記には大物主葦原志許男神の名が見えます。

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2005.05.06

古事記を読む  八十神の迫害

No73
例によって、原文と翻訳です。
於是八上比賣答八十神言。吾者不聞汝等之言。將嫁大穴牟遲神。故爾八十神忿。
欲殺大穴牟遲神共議而。至伯岐國之手間山本云。赤猪在此山。故和禮
【此二字以音】共追下者。汝待取。若不待取者。必將殺汝云而。以火燒似猪大石
而轉落。爾追下取時。即於其石所燒著而死。爾其御祖命哭患而。參上于天。請神
産巣日之命時。乃遣キサ{討の下に虫}貝比賣與蛤貝比賣。令作活。爾キサ貝比賣岐佐宜
【此三字以音】集而。蛤貝比賣持水而。塗母乳汁者。成麗壯夫【訓壯夫云袁等古】
而出遊行。

翻訳
是に於いて、八上比賣が、八十神に答えて言うには、「吾は汝等(ナンジラ)の言うことは聞きません。將に嫁大穴牟遲神に嫁(トツ)ぎます」すると、八十神は怒って、大穴牟遲神を殺そうと欲っし、共もに議(ハカリ)て、伯岐國の手間の山本に至って言いました。
「赤い猪が此の山にいます。ワレ、共に追い下ろすので、汝は待っていてうち取れ。もし、うち取らなければ、必らず將に汝を殺す」と言って、火でもって猪に似せた大石を焼いて轉落させました。そして、追い下ろす(石を)受け取った時、すぐに、其の石で焼き着きて死んだ。そこで、其の御祖命(母)が哭(ナ)き患(ワズ)らって、天に参り上りて、神産巣日之命(カミムスヒノミコト)に請(コ)うた時、乃(スナワチ) キサ貝比賣と蛤貝比賣(ウムガイヒメ)を遣(ツカ)わして、作って活きかえさせた。そこで、キサ貝比賣は岐佐宜(キサゲ)を集めて、蛤貝比賣は水を持って母の乳汁を塗れば、麗わしい壯夫(オトコ)に成り、出て遊びに行きました。
意味が良く判りませんね。「必らず將に汝を殺す」と言いました。赤い猪の代わりに、赤く焼けた石を山から落としました。受け止めなければ石は横を落ちていくかもしれませんのに、どうして受け止めたのでしょうか? 受け止めなくても石が当たって死んだと言うことでしょう。猪を捕まえないと殺すという文章があったのでしょう。無理難題であろうが、大国主命は、八十神の命令に従わなければならないほど、立場が弱かったのかも知れません。「必ず 死ぬはずです」
キサ貝と蛤貝と御祖命(刺国若比売)のお乳を混ぜて死体に塗ると生き返るという迷信でもあったのでしょうか? 少なくとも、傷ぐらいには良く効いたのではないでしょうか。

キサ貝比賣と蛤貝比賣は高天原の隣の日野町の根雨神社に刺国若比売と一緒に祀られていました。また、西伯郡手間村大字寺内字久清に赤猪岩神社に大穴牟遅命と刺国若比売命が祀られています。 稗田阿礼は、やはり、こらの神社を訪れたのでしょう。

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2005.05.03

古事記を読む  稲羽の素兎 その3

No72
稲羽の素兎は、神話の形にして、日本書紀の作者をも騙しました。その後、古事記を読んだ日本人すべてを騙しました。学者も騙されました。
 そこで、実際の話は、どういうことなのか、考えてみようと思います。
素兎は、岩波文庫では、「しろうさぎ」と読み仮名がうってあります。「素」は「しろ」と読むのかと疑ってみましたら、漢和辞典(EX-word)「しろし」「もと」「しろ」とあります。それでも納得できず、「字通」を繰りました。
「ソ、しろぎぬ、もと、もとより」とあって、「しろ」の読み方は書いてありません。
つぎのように説明してあります。
糸をそめるとき、束の上部を結んだ部分が白く残される。その部分を素という。
しかし、別のところに、読み方が、記されています。一つは、古訓とかかれているもの、もう一つは、
① しろ、しろぎぬ、むじ
② もと、もとのいろ、もとの状態
③ もとより、まえから、あらかじめ、つね
④ たち、本来の性質、まこと、ただしい、すなお
⑤ むなしい、いたずら、なにも加えない
素を使った熟語がいっぱい掲載されていますが、「白」の意味は、少ないです。

【故爲如教其身如本也。此稻羽之素菟者也】とあります。わざわざ、稻羽之素菟と断ったということは、兎が白かったことをいう為ではないと思います。素(モト)の身体に戻った兎でしょう。
なぜ、拘るかといいますと、兎そして、白いと書かれていますと、本当のウサギのことと捉えます。すんなり、神話に入り、だれも疑いません。
訳の中では、「兎」という漢字を使いましたが、原文では、「菟」になっています。この字も兎と読みます。
もう一つ、注意することは、「淤岐嶋」は、岩波文庫では、注釈に「隠岐の国を指すか」とありますが、古事記では、隠岐と淤岐は別に扱っています。また白兎海岸という所に、白兎神社があります。そのすぐ、近くに淤岐嶋があります。
この島までは、続いていて歩いて渡ることが出来たのだと思います。ある日、潮干狩りに出かけた人が、潮が満ちてきて、帰れなくなった事件があったのではないでしょうか?
この話を取り入れて、神話を作ったことになります。
ここまでの話では、白兎は、当時朝鮮にあった玄菟でしょう。衣服を脱がされて裸になっていました。騙されたのは、和邇村の人で、イザナギの勢力圏ですから、白狄人です。
因幡の八上村の売沼神社に、八上比売は祀られています、元は比売沼神社だったのに、式内社になったときに、売沼神社になったと伝えが残っています。(無理に変え・・。)

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2005.05.02

古事記を読む  稲羽の素兎 その2

No71
故欺海和迩【此二字以音。下效此】言。吾與汝竸。欲計族之多少。故汝者隨其族在悉率來。自此嶋至于氣多前皆列伏度。爾吾蹈其上。走乍讀度。於是知與吾族孰多。如此言者。見欺而列伏之時。吾蹈其上讀度來。今將下地時。吾云。汝者我見欺 言竟即 伏最端和迩 捕我悉剥我衣服。因此泣患者。先行八十神之命以。誨告浴海鹽當風伏。故爲如教者。我身悉傷。
於是大穴牟遲神教告其菟。今急往此水門。以水洗汝身。即取其水門之蒲黄。敷散而。輾轉其上者。汝身如本膚必差。故爲如教其身如本也。此稻羽之素菟者也。於今者謂菟神也。故其菟白大穴牟遲神。此八十神者必不得八上比賣。雖負袋(衣の部分が巾)汝命獲之。

そこで、海の和迩(ワニ)を欺(アザム)いて言いました。「吾(ワタシ)と汝(アナタ)と競争して、どちららかの族(ヤカラ)の数の多少を計(カゾ)えたいと欲す。そこで、汝は隨其の族の在る隨(マニマ)に、悉くを率いて來て、自此の嶋自(ヨ)り氣多の前に至まで皆を列らばせ伏せて渡る。そこで、吾が其の上を蹈んで、走り乍ら讀(ヨン)んで渡る。そこで、吾の族と孰(イズレ)か多いかを知ろう」と言いました。此の如く言いましたが、欺いて列らび伏せているのを見て、吾は其の上を蹈みながら、讀み度り來て、今、將(マ)さに、地に下りるという時、吾は云いました。「汝は我に欺されたのだ」と言い竟(オワ)るや、最後の端に伏せていた和迩(ワニ)が我を捕らえて我の衣服を剥ぎました。此の因により泣き患(ワズ)らっていると、先行の八十神の命が、海の鹽を浴びて風に當って伏せているようにと教えてくれました。そこで、爲如教えられたようにしていますと、我の身は、悉く傷ついてしまいました。
是に於いて、大穴牟遲神其の菟に教え告げました。「今、急いで此の水門に往って、水を以って、汝の身を洗いなさい。即ぐに、取其の水門の蒲黄を取って、敷き散らかして、其の上で輾轉(ネコロガ)れば、汝の身は本(モト) 如く膚は必らず治るでしょう」そこで、教えられた如く爲(ナ)すと、其の身は如本のようになった。此は稻羽の素菟(スウサギ)也。今は菟神と謂う也。そこで、その兎が大穴牟遲神に申すには、「此の八十神は必ず八上比賣を得ることは出来ない。袋を背負っていると雖も汝の命が之を獲るでしょう」と申しました。

日本書紀の作者は、この神話は何のことかわからなかったのでしょうか。それとも、問題にするほどのことはないと思ったのでしょうか? この後、まだまだ続きます。八十神の名前も出てきます。日本書紀に書かなかったということは、これも知られたく無かったのだと思います。知られたくないのであれば、稲羽の素兎の部分は、古事記の方も削除すればいいのですが、削除しませんでした。他愛もない物語だと思ったのでしょう。
この後、八十神が大国主命を苛めます。須佐之男のいる根の国にも行きます。須勢理毘売に出会います。
長い物語ですが、削除しないし、日本書紀で取り上げなかったことは、謎と言ってもいいかもしれません。

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2005.05.01

古事記を読む  大国主命 -稲羽の素兎

No70
有名な白ウサギの神話です。原文と訳文です。

故此大國主神之兄弟八十神坐。然皆國者避於大國主神。所以避者。
其八十神各有下欲婚稻羽之八上比賣之心共行稻羽時。於大穴牟遲神負袋(衣の
部分が巾)。爲從者率往。於是到氣多之前時。裸菟伏也。爾八十神謂其菟云。
汝將爲者。浴此海鹽。當風吹而。伏高山尾上。故其菟從八十神之教而伏。
爾其鹽隨乾。其身皮悉風見吹拆。故痛苦泣伏者。最後之來大穴牟遲神見其菟。
言何由汝泣伏。菟答言。僕在淤岐嶋。雖欲度此地。無度因。故欺海和迩
【此二字以音。下效此】言。吾與汝竸。欲計族之多少。故汝者隨其族在悉率來。
自此嶋至于氣多前皆列伏度。爾吾蹈其上。走乍讀度。於是知與吾族孰多。如此
言者。見欺而列伏之時。吾蹈其上讀度來。今將下地時。吾云。汝者我見欺。言竟。
服。因此泣患者。先行八十神之命以。誨告浴海鹽當風伏。故爲如教者。我身悉
傷。於是大穴牟遲神教告其菟。今急往此水門。以水洗汝身。即取其水門之蒲
黄。敷散而。輾轉其上者。汝身如本膚必差。故爲如教其身如本也。此稻羽之素
菟者也。於今者謂菟神也。故其菟白大穴牟遲神。此八十神者必不得八上比
賣。雖負袋(衣の部分が巾)汝命獲之。

さて、此の大國主神の兄弟は八十神坐(イ)ます。然(シカ)し皆國は大國主神から避けました。その避けた理由は、其の八十神は各人 欲婚稻羽の八上比賣と結婚したい心が有って、稻羽にいった時、大穴牟遲神に袋を背負わせ、従者として率(ヒキ)いて往(イ)きました。そして、氣多の前(サキ)に到達した時、裸の菟(ウサギ)が伏せていました。そこで、八十神其の菟に云いました。「汝は將(マサ)にしなさい、此の海の鹽を浴びて、當風吹いている風に當って、高い山の尾の上に伏せていなさい」と。そこで、其の菟は八十神の教えに從って伏せました。
その内に、其の鹽が乾いてくると、其の身(カラダ)の皮の悉くが風に吹かれて拆(サケ)ました。そして、痛み苦しんで泣きながら伏っていまいすと、最後に來た大穴牟遲神が其の菟を見て、「何由(ナニユエ)に汝は泣いて伏せているのか」と言いました。菟が答えて言いますのに、「僕は在淤岐嶋に在(イ)まして、此の地に渡りたいと欲しましたが、渡る方法が無い」

少し長いので、続きは次回です。
この神話の部分は、日本書紀にはありません。何故無いと思われますか?
このようなことを考えながら、もう一度読み返していただければと思います。古事記の作者は、命を掛けて伝えたいことを書きました。この文章のどこを伝えたかったのでしょう。

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2005.04.30

古事記を読む  月読命は どこへ行ったのでしょう

No69
イザナギが月読命に行くように命令しましたが、その行き先は、古事記と日本書紀では異なっています。
   古事記----天照大神は高天の原を、
         月読命は夜の食国を、
         建速須佐之男命は、海原を  治めよと命令した。

  日本書紀--天照大神は高天の原を
         月読命は青海原の潮の八百重を
         素戔鳴尊は、天下を   治めよと命令した。

  日本書紀---第十一の一書には、
          天照大神は高天の原を
          月夜見尊は日の神とならんで天を
          素戔鳴尊は青海原   治めよと命令した。
 古事記の原文は、【所知夜之食國矣】 左記のように書かれています。「夜之食國」とはどういう意味でしょうか? 日本書紀の方は、一層意味不明となっています。「青海原の潮の八百重」も判りません。日本書紀の作者も、古事記に書かれている意味が判らなかったのでしょうか? 判ったから、書き換えたのでしょう。元の古事記には、「夜食之国」と書かれていたのではないでしょうか? 「夜食之国」であれば、誰にでも 「夜久野国」と読めて判ってしまうので、「夜之食國」としました。それだけでは、まだ心配で、日本書紀では、「青海原の潮の八百重」にしました。それでは、古事記にかかれている建速須佐之男命の行き先と同じになりますから、日本書紀では、建速須佐之男命は、「天下を治めよ」となっています。いや、是でも古事記が発見されると困るので、日本書紀---第十一の一書には、 月夜見尊は日の神とならんで天を、素戔鳴尊は青海原   治めよと命令したと記しています。

私の心が曲がっているのでしょうか? ここだけではありません。日本書紀は、古事記に書いてあることを知られたくないような部分では、いろいろの手を使って、カムフラージュを試みています。
さて、夜久野町はご存知ですか、京都府の福知山市は有名です。その西隣で、兵庫県と県境に位置します。
月読命が、夜久野に派遣されたとしたら、目的があるはずです。地元に行けば、なにか掴めるのではないかと行きました。存在する神社は、すべて回ってみようと思いましたが、いろいろで手間取り、一泊することになりました。夜久野町の人には、悪いですが、何もない町です。真ん中に牧川が流れ、川に沿って国道9号線が走っています。両側は、山です。 郷土資料館を訪れました。係りの方に、いくつか質問をさせて貰いました。夜久野という地名は、どうして付いたか?
私が期待したのは、月読命を祀る神社が一杯あるだろうとでしたが、有りませんでした。収穫は、次のことぐらいです。
【地名】
 郵便番号簿にみられる地名
 井田、板生 (イトウ)、今西中、小倉、大油子(オユゴ)、末 (スエ)、高内、
 千原 (チハラ) 、直見、額田(ヌカタ)、畑、平野、日置(ヘキ)
 
 地図に記載のある地名(上記以外)
 白井、牧、福谷、山中、稲垣、西ノ谷、中田、金谷、金尾、水坂、 
 奥水坂、田谷垣、現世、才谷、宮垣、垣本、上町、門垣、

 考察---太文字の地名は、日本的な地名ではありません。言い換えます
      と、意味がわかりません。地名をつけたときに、必ず、その土地
      をあらわす文字が使われた筈です。
      額田、日置は、歴史的にある程度判っている地名です。
      この地名は、JR下夜久野駅周辺にあります。
      昔は、この辺りが繁華であったはずです。
大呂は、福知山市ですが、夜久野町の真上にありますから、以前は夜久野かもしれません。日置は、測量や人口を調らべたり、周りの様子の調査をする当時の最高の技術集団ではないかと思っています。綾部市、篠山町にもあります。それだけ大切な土地であったはずです。問題はいつの時代のものか判りません。

【神社】  大歳神社が多い。
       中千原、今西、畑、垣本、桑村、金尾にある。
      一宮神社(額田) 
【山】 鉄鈷山—この山から鉄が出たという話は聞かなかったとのこと。鉄も出ないのに、こんな名前がどうして付くでしょうか?
    郷土資料館で、チラッと捲った冊子に、縄文・弥生時代の遺跡が多かったような気がします。(送って頂こうと思っています)  遺跡が多いということは、人間が沢山住んでいたことになります。又、沢山の人が死んだのではないでしょうか? 隣町の福知山は、古墳がいっぱいであったような気がします。
日本書紀の作者が、何故 月読命が夜久野へ行ったことを隠したかったか理由が判らなければ、夜久野とは断定できません。この後、天照大神の孫の邇邇芸命(ニニギノミコト)が、高天原から、高千穂へ行くことになります。その後、天照大神はどうなったか不明ですが、福知山市の大江山の麓の皇大神社に月読命と天照大神が祀られていますので、ここに来たのではないかと思われます。天照大神の出自のところで述べたいと思います。

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2005.04.29

古事記を読む  月読命はどこから来たか

No67
月読命の名前を覚えておられますか? イザナギが黄泉の国から帰ったとき、身体が穢れたから、禊をします。そのときに、生まれた神は一杯ですが、特に優等生が三人いました。三貴人といわれた人の一人です。月読命は、古事記では、「ツキヨミ」と読んだようです。日本書紀では、古事記と同じにするのが嫌だったので、無理矢理に、月読尊、月弓尊、月夜見尊と表記しています。「ツキヨミ」と言ったらしい証拠が、「月夜見尊」でわかると思います。どう読むのか、頼りないですが、頼りないところがミソです。
ここの部分は、田村誠一氏の文章をそのまま頂戴しないと私の頭では追いつきません。平成古事記---P44より

月読命は月支国から亡命      
韓伝にも月支国が登場します。この月氏は西域の仏教壁画で有名な敦煙付近で栄えていたウイグル人で紀元前170年頃、匈奴に滅ぼされました。この国の人民は西に逃げましたがシルクロードをユダヤ人が往来しているので東に文化が高い国があることを知って、王の月読命だけは隠岐に渡来していました。辰韓とありますが秦韓のことで秦韓はユダヤ人が住んでいた地域です。月読命が仏教の国から渡来した証拠は蒜山高原の周囲の山と統治を命令された但馬の山の名前を仏教の須彌山(スミセン)と同じ様にセン又はゼンと発音することです。例えば蒜山(ヒルゼン)、大山、鳥ケ山、氷ノ山、扇ケ山等は山をセンと発音します。更に蒜山高原には仏ケ仙と仏がつく地名が残りました。海上保安庁の海流図によると対馬海峡に達した黒潮は隠岐と島根半島の間を流れています。対馬海峡まで来て偏西風を利用すれば安全に山陰沿岸に間違いなく来られます。隠岐に渡来してここに先ず民族毎のコロニーを作りました。伊耶那岐命・伊耶那美命だけが三貴人より一足早く渡来していたのです。伊耶那岐命は隠岐で国生みの国土計画を実施に移したのです。

以上ですが、何故、月氏の一族かという根拠の一つとして、NHKの番組にあった「大宮踊り」のことをあげておられます。
これまた、全文を掲げます。
 大宮踊り
現在は8月5日にヒルゼン中福田の福田神社で踊られている。無形文化財に指定されている。のんびりした一風変った踊りである。
福田神社はもと太宮大明神と呼ばれていた。古代に大宮と、大の字がつくのは、最高か天子を意味する。大山は山のトツプである。大礼、大葬、大典ぱ天子に関することである。
大和の三輪大明神以上に格式が高いものと思えてならない。
NHKのシルクロード、音楽の旅は、天山山脈のクチヤから、日本の宮廷音楽が来たことを教えてくれた。
放映を見て、クチヤの踊りは大宮踊りと同じことを見出した。
クチヤの楽器と一緒に踊りが来なければおかしい。雅楽の舞はクチヤから伝はったと考えられる。ヒルゼンを通って都にもたらされたことと考えられる。
天の岩戸で神々が踊ったのが大宮踊りだった筈だ。2000年踊カつづけられた、大宮踊りの歌の文句は、天子の子が踊るとなっていた。

以後、私の考えたことを書きますと、
私は、「大宮踊り」も、「NHKのシルクロード、音楽の旅」も見ていませんから、何一つ言えませんが、No25「山をセンと読む山」 において、記しましたように、所謂仏教伝来以前に、蒜山高原周辺に、仏教を信仰する人が、住んでいたことは確かです。
 それでは、仏教は中国や朝鮮に何時頃、伝わったのか調べてみました。手っ取り早く、インターネットだけで検索しましたら、殆ど掲載されていません。どうやら よく判っていないらしいです。紀元前後のことらしいです。私は紀元前300年頃かと思っていましたが、知識不足でした。仏教はが中国に伝わるには、南からのルートと北からのルートが考えられますが、天山山脈の近くにあった月支国に、仏教が中国を通って伝播したとは考えにくいですから、やはり北から伝わったと思われます。わざわざ、仏教を伝えるために、危険な砂漠を通ってくるとは考えられません。この時、すでに、シルクロードが機能していたと思われます。
月支国は紀元前170年頃に国が潰されて、人々は、西の方へ逃げたような文章がありましたが、よく判っていません。絹は中国も作っていましたが、私は日本からの絹が優秀だったから、この時代にすでに、ヨーロッパに絹が運ばれていたので、月氏は、日本の様子は知っていたと思われます。よって、日本に来た可能性は、大きいです。また、三貴人に選ばれたということは、月支国の文化が高かったことでしょう。
現在のところ、150~190年ぐらいの間で、仏教国はほかにありません。田村氏は、月支国の王である月読命だけが、日本にきたように書いておられますが、それでは、楽器と踊りが伝わらないでしょう。また、あちこちに「セン」と呼ぶ名前の山は付かなかったと思います。

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2005.04.11

古事記を読む 大蛇退治の後のスサノオ

No66
製鉄所の男たちは、男ばかりの世界だったのでしょうか? 男ばかりではなくとも女性の人数は少なかったと思われます。麓までおりてきては、略奪結婚とでもいうか、攫って行くことが多かったと思います。
さて、製鉄所を襲撃したことは判ったのですが、その後、この製鉄所はどうなったのでしょう。スサノオが引き続き製鉄をしたのでしょうか?
No64の一部を採録します。

「其の速須佐之男命は、宮を造作す可(ベ)き地を、出雲國に求めて、須賀の地に到り坐(マ)して、「吾は此地に來て、我の御心は須賀須賀斯(スカスガシ)」と言われました。其の地に宮を作り坐(マ)した。それで、其の地を今では須賀と云う也」とありますから、大呂には留まらなかったとおもいます。約束通り、スサノオは櫛名田比売を娶って須賀に落ち着いたのでしょう。
「須賀」という地名がどこにあるかといいますと、大原郡大東町須賀というところに、「須我神社」あり、須佐之男と稲田姫命が祀られています。きっと、ここの須賀に住居定めたのだと思います。
この製鉄所を人共に、壊滅させたのであれば、この製鉄の技術は途絶えたことになります。その後、200年ほどすると、No65で述べました製鉄所が生まれてくることになります。五色塚古墳のときと同様です。古墳にしても、製鉄所にしても、次第に高度に発達したという考え方は、可能性は強いが、100パーセントでないことを知らないと大きな間違いをする可能性があります。
 この後、スサノオは、もう一度古事記に登場しますが、スサノオ自身はどのような活躍をしたという記事は見えません。大国主命に国を明け渡したようです。このことは、後に取り上げますが、スサノオが行きたいと言っていた根の堅州あたりを大国主命に明け渡したようです。そうであれば、この当たりは、大国主命を祀った神社があるはずです。現在のところ、調べていません。鉄を作るのが得意であったとか、米を作るのが得意であったとかが判ればいいのですが、後になって、スサノオは京都の八坂神社に祭られるようになります。ということは、京都にも進出下とも考えられますが、京都に撤退したとも考えられます。撤退で有れば、鳥取県には、スサノオを祀る神社は少ないはずです。ところが、現在(H16.12.06)の鳥取県だけで、スサノオを祀る神社が、次のページだけあります。これは、昭和9年の調査による鳥取県神社誌に掲載されているものですから、京都の八坂神社から勧請したという神社もあるかもしれません。全く関係ないのに、スサノオを祀るということはありませんから、長年、スサノオは尊敬されていたと考えるべきしょう。 この表から見ますと、鳥取県からは撤退したとは思えません。

鳥取県におけるスサノオを祀った神社
 素盞鳴尊と表記されているスサノオは、日本書紀による表示です。日本書紀を作った人の支配を受けていたと思われます。スサノオの表記がいろいろあるのも、注目してください。なぜか? です。
一覧表にうまく出来ませんでしたので、リンク先の表を見ていただいてもいいです。〔リンク先
神社名   表記 神社名 表記 神社名 表記
荒神社 素盞鳴尊 茂田神社 素盞鳴尊 岩淵神社 素盞鳴尊
中谷口神社 素盞鳴尊 小畑上神社 素盞鳴尊 荒神社 素盞鳴尊
来見野神社 素盞鳴尊 荒神社 素盞鳴尊 岸野神社 素盞鳴尊
荒神社 素盞鳴尊 下津黒神社 素盞鳴尊 花原神社 素盞鳴尊
東井神社 素盞鳴尊 荒神社 素盞鳴尊 山上神社 素盞鳴尊
池田神社 素盞鳴尊 水分神社 須佐之男命 谷口社 素盞鳴命
貴布禰神社 素盞鳴命 鷹狩神社 須佐之男命 赤波神社 須佐之男尊
田岡神社 須佐之男命 笹尾神社 須佐之男命 津野神社 須佐之男命
福園神社 須佐之男命 賀茂神社 須佐之男命 東谷神社 須佐之男命
金山神社 素盞鳴命 片野神社 須佐之男神 品治神社 速須佐之男命
湯所神社 須佐之男命 萬田神社 素盞鳴尊 小西谷神社 須佐之男命
東大路神社 素盞鳴尊 西大路神社 素盞鳴尊 久来神社 須佐之男神
越路神社 須佐之男神 八幡宮 素盞鳴命 眞幡木神社 素盞鳴命
太田神社 須佐之男命 手見神社 素盞鳴尊 金比羅神社 素盞鳴命
温宇井神社 須佐之男命 篠坂神社 須佐之男神 毛谷神社 須佐之男命
郷原神社 須佐之男尊 三谷神社 素盞鳴尊 今在家神社 須佐之男尊
徳吉神社 須佐之男尊 釜口神社 素盞鳴尊 渡一木神社 素盞鳴尊
袋河原神社 素盞鳴命 都波只知上神社 素盞鳴尊 小畑神社 素盞鳴尊
弓河内神社 須佐之男尊 高藤神社 素盞鳴神 市谷神社 須佐之男神
郡家神社 須佐之雄神 福井神社 須佐之男神 隼神社 須佐之雄神
西谷神社 須佐之男神 見槻神社 須佐之雄神 志子部神社 須佐之男神
荒神社 素盞鳴尊 布留多知神社 素盞鳴尊 島神社 須佐之男尊
荒武神社 素盞鳴尊 南神社 素盞鳴尊 日埜田神社 素盞鳴命
荒神社 素盞鳴尊 横田神社 素盞鳴尊 茂田神社 素盞鳴尊
岩淵神社 素盞鳴尊 中谷口神社 素盞鳴尊 小畑上神社 素盞鳴尊
荒神社 素盞鳴尊 若桜神社 素盞鳴尊 来見野神社 素盞鳴尊
荒神社 素盞鳴尊 岸野神社 素盞鳴尊 根安神社 素盞鳴尊
荒神社 素盞鳴尊 池田神社 素盞鳴尊 明辺神社 素盞鳴尊
下津黒神社 素盞鳴尊 谷口社 素盞鳴尊 花原神社 素盞鳴尊
荒神社 素盞鳴尊 貴布禰神社 素盞鳴尊 山上神社 素盞鳴尊
山田神社 素盞鳴尊 鷹狩神社 素盞鳴尊 東井神社 素盞鳴尊
 まだまだ有ります。

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