2010.11.01

吉原神社と大河原神社(2)  古事記を読む

大河原神社の資料は、上手く見付かりましたか。
前回と同様に、資料を全部転載します。

鎮座地 日野郡日光村大字大河原字宮山
地図 http://jinja.in/single/86177.html現在地 鳥取県日野郡江府町大河原840番
祭神 底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命、大物主命、須佐之男尊、誉田別尊、大日孁尊、大山祇命

由緒 創立年代不詳、旧山王権現龍王権現石牛王と称せしを、明治元年神社改正の際大河原社と改められ、同五年村社に列す、同六年大河原神社と称す、誉田別尊以下の神も往古より当社の末社として境内及村内に鎮座ありしを明治四年合祭せらる。

例祭日  10月13日
建造物 本殿、神楽殿、随神門
境内坪数 828坪
氏子戸数 55戸


前回と同様に、私が考えたことを記します。正しいとは限りません。読み流して頂ければ良いと思います。
①旧山王権現龍王権現石牛王が難物です。
 山王権現----山王権現(さんのうごんげん)は日枝山(比叡山)の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏習合の神である。天台宗の鎮守神。日吉権現、日吉山王権現とも呼ばれた。
 龍王権現—webで検索しますと、何例かヒットしますが、どのような神か分りません。
龍王山という名の山は、全国に1300程ありますが、ここは、漢人が毎日見上げながら、生活していた所ではないかと考えています。この山に登れば、龍王権現が祀られているのではないかと思います。
石牛王--牛頭天王の事でしょうか。分りません。
3つの神は、すべて、須佐之男尊の子供なのではないでしょうか。

大河原神社も、吉原神社と同様に、明治元年に、底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命の三神が復活したのではと推理します。

古事記につぎのような事が書かれています。
イザナギが黄泉の国にいるイザナミのところへ行って、追われて逃げ帰る途中、筑紫の日向でミソギをします。その時に多くの神が生まれたことが書かれています。アマテラスとツキヨミとスサノオは、特別の三貴人として登場します。こんなに重要なことですのに、日本書紀は殆ど、取り上げていません。日本書紀の第6と第10書の一には、取り上げていますが、古事記と相当異なっています。
日本書紀の作者に限らず、現在の歴史の学者も意味が分らないようです。
そりゃそうです。理解せよと云う方がおかしいです。
イザナギが、右の目を洗った時に、アマテラスが生れたとか、川の流れの底の所で洗っていたら、底津綿津見命が生れたなど、日本書紀の作者は、古事記に書かれていることが理解できなかったか、書きたくなかったと推察しています。
 古事記の作者は、どうして、このような訳の分らないことを書いたと思われますか。

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2010.10.29

吉原神社と大河原神社  古事記を読む

最近、吉原神社の資料を「おかしな世の中」http://asilka.blog61.fc2.com/に掲載出来る事になりました。
 ここを開いて、「吉原神社」で検索しますと、
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-641.htmlに吉原神社の資料が出るように成ります。

全て、を転載しますと、
鎮座地 日野郡日光村大字吉原字牛王
地図 http://jinja.in/single/86170.html現在地 鳥取県日野郡江府町吉原283-2

祭神 稚日女命、底筒男命、中筒男命、表筒男命、大日孁尊、大山祇命、美佐々伎命、誉田別尊、天津児屋根命

由緒 創立年代不詳、旧若宮大明神と称す、明治四年吉原社と改称せられ、同五年子守神社の摂社となる。同六年吉原神社と改めらる、明治四十一年四月日光村大字吉原字児守谷鎮座村社子守神社(祭神 底筒男命、中筒男命、上筒男命、大山祇命、美佐々伎命)
を合併す、昭和八年十月同村大字吉原字西成ノ二鎮座村社西成神社(祭神 大日孁尊、誉田別尊、天津児屋根命)を合併す。

例祭日  10月11日
建造物 本殿、神楽殿
境内坪数 339坪
氏子戸数 50戸

この資料を見た時の私の見方を書いてみます。
①どうして、明治4年に吉原社と改称されたのか理由が知りたいですが、判りません。
②ここに書いてある祭神は、昭和9年当時のものです。
③その時の鎮座地は、日野郡日光村大字吉原字牛王です。大字は吉原です。小字は牛王ですから、牛王神社と改称されても良かったのですが、そうは成らなくて、子守神社の摂社になりました。(明治5年)
 この時の、子守神社の祭神は、底筒男命、中筒男命、上筒男命、大山祇命、美佐々伎命です。
④明治4年に吉原社だった神社が、明治6年には、吉原神社となり、摂社だった吉原神社に、本体の方の子守神社を合併したと書いてあります。
⑤そこへ、西成神社を昭和8年に合併したと書いてあります。
⑥ 現在の吉原神社の祭神から、西成神社の祭神を除きますと、祭神は、稚日女命、底筒男命、中筒男命、上筒男命、大山祇命、美佐々伎命になります。
 これは、子守神社と変わりません。
子守神社のなまえは無くなって、稚日女命が加わって、吉原神社に変わった事になります。
⑦ どうして、この様な複雑な経緯をたどったのでしょう

〔稚日女命〕で検索しますと、稚日女尊では、いっぱい出てきます。
〔稚日女尊〕の名前は、『日本書紀』神代記上七段の第一の一書に登場します。高天原の斎服殿(いみはたどの)で神衣を織っていたとき、それを見たスサノオが馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだ。稚日女尊は驚いて機から落ち、持っていた梭(ひ)で身体を傷つけて亡くなった。それを知った天照大神は天岩戸に隠れてしまった。
『古事記』では、特に名前は書かれず天の服織女(はたおりめ)が梭で女陰(ほと)を衝いて死んだとあり、〔稚日女命〕と〔稚日女尊〕とは同一の伝承と考えられます。

従いまして、明治になってから、この神社では、元からあった吉原神社を復活させたと見ています。(長年、藤原氏の支配下にあった神社を天皇家の神社に戻した)

地図 吉原 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=351950&l=1333104 をご覧ください。
吉原神社の祭神のメインは、底筒男命、中筒男命、上筒男命です。この神は、住吉三神です。こちらは、殆ど、海の近くに祭られています。
 なぜ、この様に海から離れた所にあるのかと疑問に思いますと、「古事記を読む」に繋がって行きます。
 次回は、大河原神社を眺めます。
「おかしな世の中」http://asilka.blog61.fc2.com/ において、大河原神社を検索してください。

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2006.03.10

本を作りました

 本日は 私の宣伝です。

「神武天皇は吉野ヶ里を攻撃した」 新風舎発行 著者は 私です。 大橋 蛍火です。


 カテゴリー「古事記を読む」を読んでいただけましたでしょうか? 

古事記は、神話の部分は、作り話であると言うのが、定説になっています。しかし、私は定説ではなく、実際にあったことであるという説を、「燦然と輝いていた古代」という本において書き続けてこられた田村誠一氏の説を、この5年間、調べててきました。まだ、全部調べたわけではありませんが、調べるほどに、本当だなという感触を得てきました。
古事記に書かれていることを知るには、日本書紀を読むことも必要になりました。同じく、魏志倭人伝も読む必要になりました。素人の私には、とても無理の事でしたが、間違ったことがいっぱいあるでしょうが、毎日、調べたことを書き続けてきました。
あまりにも膨大になり、はじめから読むには大変ですので、歴史の一部分のみを取り出して調べたことを書いたものが、今回の「神武天皇は吉野ヶ里を攻撃した」です。
神武東征のことは、奈良を攻める辺りは、本に取り上げられていますが、なぜ、奈良なのか? 奈良には、攻めるとなにかいいことがあったのか? どの書物も解決していません。

私は、神武天皇が。どうして、日本を平定しようと考えたかを取り上げました。そして、奈良よりもまず、九州の平定をもくろんだ部分のみを書きました。

わずか 78ページの小冊子ですので、直ぐに読んで頂けると思っています。

小説ではありません。
論文のつもりで書きました。 さて、論文になっているかどうか自信はありませんが・・・。

一度、手にして頂ければ嬉しいです。
本体は900円です。消費税が必要です。

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2005.11.27

古事記を読む  火遠理命と産屋

No149
No142において、二人の子供に何故「火」がついているか、その理由を付けたしたのでしょうか? ・・・なんだかすっきりしませんと書きました。
「佐久夜毘売よ、一宿にや妊んだからには、これ我が子ではないだろう。きっと、国つ神の子であろう」とニニギ命に言われて、木花之佐久夜毘賣は、戸無き八尋殿(やひろどの)を作りて、其の殿の内に入り、土をもって塗り塞ぎて、産む時にさいして、火を其の殿に著けて産みました。

このような馬鹿なことはあり得ないと思っていましたが、これに近い風習と木花之佐久夜毘賣のことも書いてある本を読みましたので、紹介します。澤 潔著『西丹波秘境の旅』より
① 京都府の由良川の支流・土師川の分流の川合川の源流に、大原(三和町)に藁屋根妻入りの二畳ぐらいの広さの産屋が復元されています。大原の町では、大正初期までこの小屋でお産をしていた。その後、家でお産をするようになってからも産後、産婦がここに移って七日間、のち三日間の忌ごもりをする風習は、昭和30年(1955)ごろまで続いていたという。
② 対馬の木坂(上対馬町鰐浦)にも似たようなものがあったことを『海神と天神』(白水社)から抜書きをしています。
「婦人が産をなす場合には、ひと川隔てたる血に、わざわざ小屋を造りてこれに移る。而して、一定の日数がたつまで産婦はその小屋に居りて、家人が食事をはこぶなり。また産の時は、男子は小屋に近づくことを禁ぜり。こは人家のある地は、そこにある神社の神領なるをもって、かく離れたる地に至りて産をなせるなり」
上の風習は、明治20年ころまで続いたとあります。『谷川健一著作集⑧』にも詳細にあると澤 潔氏は紹介しています。
「産小屋の中には、川砂を敷気、その上に藁を敷いて床を張らなかった。床を張ったら難産、床を取ったら安産と言われた。産屋の砂は安産のお守りとして、今でも氏子に配られている
」。

③ 若狭に多い産屋と題して、常宮神社の「砂持ち行事」のこと、気比神宮では、いまでも参拝者が砂袋をもらい受け、お産の前に、自分の家屋敷の隅に撒いて邪気を払うなどの記事があります。
立石半島の西浦七郷と呼ばれる縄間・常宮・沓・手ノ浦・色ヶ浜・浦底・立石の七郷と、それに隣接する白木、又常神半島の常神・神子・小川の三村落や内外海半島の外浦の犬熊にも産屋があったことが記されています。

④ 徳之島では、婦人が出産すると、産屋の側で七日間昼夜別なく火を焚く。この習慣は、琉球では、奄美(アマウミの略)から八重山(ヤエ山はハエ山で南の意味)諸島一帯まで行われていた。
同じ習俗はインドネシア、インドシナ半島の諸民族に顕著で、メラネシアまた八丈島にもあるという。
この外に、『古語拾遺物語』の中の一文も加えて、「お産の忌み」に関する風習を記しています。
はじめに書きました大原の藁屋根妻入りの産屋の近くには、大原神社があります。この神社の祭神は、イザナミ命、アマテラス大神、ツキヨミ命です。この神社の又の名は、天一社と云うそうですが、どういう意味か判りません。少し、南下したところの西脇市に天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)がありますが、この天と一を取ったとしますと、こちらは製鉄の神ですし、祭神のアマテラス大神、ツキヨミ命から推察すると、この一帯に高天原から移動した天津族が住んでいたのかも知れません。
産屋に火を点けたのは、疑われたために、間違いないことを証明するために起こした本当の事件であったのかも知れません。

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2005.11.21

古事記を読む  火照命の服従 その2

No148
原文
授鹽盈珠、鹽乾珠并兩箇。即悉召集和迩魚問曰。今天津日高之御子。虚空津日高爲將出幸上國。誰者幾日送奉而。覆奏。故各隨己身之尋長限日而白之中。一尋和迩白。僕者一日送即還來。故爾告下其一尋和迩。然者汝送奉。若渡海中時。無令惶畏即載其和迩之頚送出。故如期一日之内送奉也。其和迩將返之時。解所佩之紐小刀。著其頚而返。故其一尋和迩者。於今謂佐比持神也。
是以備如海神之教言。與其鉤。故自爾以後。稍愈貧。更起荒心迫來。將攻之時。出鹽盈珠而令溺。其愁請者。出鹽乾珠而救。如此令惚苦之時。稽首白。僕者自今以後。爲汝命之晝夜守護人而仕奉。
故至今。其溺時之種種之態不絶仕奉也。
翻訳
鹽盈珠(しおみつたま)と鹽乾珠(しおふるたま)并わせて兩箇を授けて、即ぐに、悉く和迩(ワニ)魚を召して集めて問うて申しました。「今、天津日高の御子である虚空津日高が將に上國へ出幸しようと爲されています。誰か幾日かで送り奉てまつって、覆(かえ)り奏すか」と云いました。すると、各、自分の身長の尋長(ヒロタケ)に隨がって、日を限って申す中に、一尋の和迩(ワニ)が、白します。「僕が一日送り即に還って來ましょう」と申しました。だから、ここで、其の一尋の和迩に「然(しか)らば汝が、送り奉てまつれ。若し、海の中を渡る時に、な惶畏(かしこ)ませりそ」と告げて、即ぐに、載其の和迩の頚に載せて送り出しました。すると期の如く、一日の内に送り奉てまつる也。
其の和迩を將に返えそうとする時、所佩(はか)せる小刀の紐を解いて、其の頚に著(つ)けて返しました。それ故、其の一尋の和迩は、今に於いて、佐比持神と謂う也。
是に以ちて、備(つぶさ)に、海の神の教え言の如くにして、其の鉤を與えました。故に、それより以後は、稍愈(やや)に貧しくなって、更に、荒い心を起して迫めて來ました。將に攻撃をしようとする時、鹽盈珠を出して溺れるように命令し、其の愁い請うたれば、鹽乾珠を出して救い、此の如く、惚(なやま)し苦るしむように命令すると、稽首(のみ)白うしました。「僕は今自以後は、汝の命の爲に、昼夜の守護人として仕え奉ります」と申しました。
だから、至今に至るまで、其の溺れし時の種種の態、絶えず、仕え奉てまつる也。

考えたこと
① 和迩(ワニ)とありますが、海ですから、鮫のことでしょうか? 
② 「自分の身長の尋長(ヒロタケ)に隨がって」の部分が、判るようで判りません。尋長は、どこかの長さでしょう。前に「身長」とありますから、口のさきから、尾の先まででしょうか? 尾の付け根まででしょうか? 頭はいれないのでしょう? 人ですと、手を広げた長さを一尋と言います。この長さが広い人ほど、泳ぎが速いと思われていたのでしょうか? 身長そのものとすると、身長が長いほど、和迩も速く泳ぐとおもわれていたことでしょうか? 
③ 鹽盈珠と鹽乾珠---こんな玉があれば、便利です。海の水が何故、塩辛いかという物語を読んだような気がするのですが、マンガだったかもしれません。塩が出るように願っていたら、その人は悪い人であったので、塩が止まらなくなってしまった。そのために、海の水は塩辛いのだと。花咲かじいさんでも、同じことです。正直者は、ある道具を手にすると、願いことが叶うというパターンです。もっとも、新しいもので、子供達に夢を与えたものは、ドラエモンのどこでもドアです。
それだけ、海幸彦(火照命)は、憎かったのでしょう。兄弟でも、許せなかったのだと思います。
③ 「日を限って申す中に、」 いついつまで戻ってくるように、限ったということでしょうか? 一日で送って帰ってくると云ったワニがいたのですから、日を限る必要も無かったように思えますが・・・。
④ 「其の溺れし時の種種の態」が理解困難。種種の態とは、いろいろの状態でしょう。溺れるときの原因が種々なのか、溺れるときの、苦しがる様でしょうか? まあ、四六時中、守ってくれたことは確かでしょう。

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2005.11.15

古事記を読む   火照命の服従

No147
原文
於是火袁理命思其初事而。大一歎。故豐玉毘賣命聞其歎以。白其父言。三年雖住。恆無歎。今夜爲大一歎。若有何由。故其父大神問其聟夫日。今旦聞我女之語云三年雖坐。恆無歎。今夜爲大歎。若有由哉。亦到此間之由奈何。爾語下其大神備如兄罰失鉤之状。是以海神悉召集海之大小魚問曰。若有取此鉤魚乎。故諸魚白之。頃者赤海[魚へんに即]魚於喉[魚へんに更]。物不得食愁言故必是取。於是探赤海[魚即]魚之。喉者。有鉤。即取出而清洗。奉火遠理命之時。其綿津見大神。誨曰之。以此鉤給其兄時。言状者。此鉤者。淤煩鉤、須須鉤、貧鉤、宇流鉤云而。於後手賜【於煩及須須。亦宇流六字以音】然而其兄作高田者。汝命營下田。其兄作下田者。汝命營高田。爲然者。吾掌水故。三年之間必其兄貧窮。若恨怨其爲然之事而攻戰者。出鹽盈珠而溺。若其愁請者。出鹽乾珠而活。如此令惚苦云。
翻訳
是において、火袁理命は其初めの頃の事を思って、大いに一つ歎げきました。そこで、豐玉毘賣命は其の歎きを聞いて、其の父に白し言いました。「三年住んでいると雖えども、恒には歎げくことは無いが、今夜は大いに歎いておられます。若し何の理由が有るのでしょう」。そこで、其の父である大神は其の聟夫(むこ)に問うて言われました。「今朝、聞我の女の語るのを聞けば、『三年坐ますといえ、恒は歎げか無くても、今夜は大いに歎げいた』と言われました。若し理由が有る哉。亦、此間に到った理由は奈何」と言われました。爾に、語下其の大神に備(つぶ)さに兄の失しなった鉤の状の如くを語り下しました。是れで以って、海神は、海之大小魚を悉く召し集めて問うて曰烏されました。「若し此の鉤取った魚は有る乎」。すると、諸の魚は白しました。「この頃は、赤海の魚、魚の喉に於いてノギが刺っていて、物を食べれないと言って愁いています。だから、必らず、是れを取りたい」。是に於いて、探赤いチヌの喉を探ると、鉤が有り、。すぐに、取り出して清く洗って、奉火遠理命にそれを奉て祀ったときに、其の綿津見大神が誨(おしえて)言われました。
「此の鉤を其の兄に給う時に言う状(さま)は、『此の鉤は、淤煩鉤(おぼち)、須須鉤(すすぢ)、貧鉤(まぢち)、宇流鉤(うるぢ)』と云うて、後手にして、賜いなさい。然し而、の兄が高田を作ったら、汝じの命は、下田を營みなさい。其の兄が下田を作れば、汝命は高田を營見なさい。そのように爲せば、吾の掌の水であるから、三年之間には、必らず其の兄は、貧しくなり窮すであろう。若し、其のことを恨怨(うらん)で攻め戦うのであれば、鹽盈珠を出して溺らせ、若し、其のことを愁いて請(もう)須用であれば、鹽乾珠を出して活(い)かして、此の如く令惚(なや)まし、苦しめなさい」と云われました。

考えたこと
 『此の鉤は、淤煩鉤(おぼち)、須須鉤(すすぢ)、貧鉤(まぢち)、宇流鉤(うるぢ)』と云うて、後手にして、賜いなさい。
この部分は、気になるところです。「後手」を訳本では、「しりへで」と読ませて、注釈には、「人を呪うときの行為」とあります。本当でしょうか? なぜ、疑問に思うかといいますと、もし、呪いの言葉であるとしますと、「この針は、おぼ針、すす針、貧針、うる針」だぞと言ったことになります。なんのことか、さっぱり判りません。倉野氏は、心のふさがる針、心のたけり狂う針、貧乏な針、愚かな針と書いておられます。原文をみてください。【於煩及須須。亦宇流六字以音】このように書いてあります。漢字には意味はなく、音だけですよと、断ってあるのに、「貧鉤」を「貧乏な針」と訳しておられます。貧乏な針、愚かな針とは、どういうことでしょうか? この針を持った人は、貧乏になる、愚かになるということでしょうか? 私はもし、呪いの言葉であるのであれば、聴いた相手が、何のことか判らないので、気味が悪くなって、気になって仕方が無いようになると思うのですが・・。
「後手」も手を後ろにやってでは翻訳は間違っているのでしょうか? 「後手」は、前に手をやる動作です。手を前にしますと、姿勢は自然と前屈みになります。手を擦ると揉み手になります。後ろ手にすると、自分ですると、姿勢は良くなり、堂々として見えます。この状態で、紐でくくられると犯罪者になります。自信満々で、言いなさいということではないでしょうか?
ところが、判らなかったのは、私ばかりではなく、日本書紀の作者も判らなかったようです。日本書紀の作者が正しいと思っている内容は、別書の部分ではない、はじめのところに書いてあります。ここには、「この釣鉤を兄上にお渡しになるときは、そっとこの釣鉤に『貧鉤(貧乏になるつりばり)と言っておあげなさい』と言っておあげなさい」と書いてあります。是であれば、意味がよく判ります。「淤煩鉤、須須鉤、貧鉤、宇流鉤」の4つが書いてあるのに、何故、貧鉤しかないのか? 古事記が間違いで日本書紀が正しいのかと思いきや、日本書紀は、ある一書には、「貧鉤、滅鉤、落薄」とあると書き、ある一書には、「大鉤、踉?(足+旁鉤、貧鉤、痴騃鉤」と書かれています。後者は、きっと、古事記のことだと思います。「淤煩鉤、須須鉤、貧鉤、宇流鉤」と同じ、4つあり、順序も同じです。宇流鉤は痴騃鉤と変換するのは判りません。宇流鉤はウルヂでしょうが、痴騃鉤をウルヂと読ませるのは、無理でしょう。しかし、井上光貞氏の訳本では、ウルケヂとして、意味は(おろかもの)としています。
それにして、内容は陰湿ですね。天皇家といえども、この様に呪いながら、自分が生き残ろうとしたということでしょう。日本書紀を書いた漢人も、自分達の都合の良いように書き、籠神社の人たちは『丹波国造本記』に記録として残し、物部氏の人たちは、自分達の書いたものや、古事記などを参考にして、先代旧事本紀に残したのではないでしょうか?

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2005.10.30

古事記を読む  海神の宮訪問 –2

No146
原文
故隨教少行。備如其言。即登其香木以坐。爾海神之女豐玉毘賣之從婢。持玉器將酌水之時。於井有光。仰見者。有麗壯夫吉【訓壯夫云袁登古下效此】以爲甚異奇。爾火遠理命見其婢。乞欲得水。婢乃酌水。入玉器貢進。爾不飮水。解御頚之璵含口。唾入其玉器。於是其璵著器。婢不得離璵。故璵任著以進豐玉毘賣命。爾見其璵。問婢日。若人有門外哉。答曰。有人坐我井上香木之上。甚麗壯夫也。益我王而甚貴。故其人乞水故奉水者。不飮水。唾入此璵。是不得離。故任入將來而
獻。
翻訳
そこで、教えに隨って少し行くと、其の言った如く備っていました。すぐに、其の香木(かつら)に登って坐ますと、ここに、海神の女の豐玉毘賣の從婢(まかだち)が玉器を持って、將に、水を酌もうとした時、井に於いて光が有りました。仰ぎ見れば、麗わしい壯夫(をとこ) 有りました。甚だ異奇(あや)しと以爲(おも)った。ここに、火遠理命、其の婢を見て、水を得ることを欲すると乞いました。婢はすぐに、水を酌んで、玉器に入れて貢進(たてまつ)りました。そこで、水を飮まないで、御頚の璵(たま)を解いて口に含んで、其の玉器に唾き入れました。是に於いて其の璵は、器に著いて、是を璵は離すことができなくなりました。そこで、璵に著けるに任かせて豐玉毘賣命に以って進(たてまつ)りました。ここに、其の璵を見て、婢に問い申しました「若し、人、門の外に有哉」答えて曰しますに、「人が有ります。我が井の上の香木(かつら)の上に坐す。甚(いと)麗しき壯夫(をとこ)也。我が王に益(して)甚貴し。故、其の人、水乞うと 故水を奉まつれば、水を飮まないで、此の璵を唾き入れました。是れ得離さず。故 入れるに任かせて、將に來て獻てまつりました」といいました。
原文
爾豐玉毘賣命思奇。出見。乃見感目合而。白其父曰。吾門有麗人。爾海神自出見。云此人者天津日高之御子。虚空津日高矣。即於内率入而。美知皮之疊敷八重。亦[糸施-方]疊八重敷其上。坐其上而。具百取机代物爲御饗即令婚其女豐玉毘賣。故至三年住其國。
翻訳
そこで、豐玉毘賣命 奇(あやしい)と思って、出て見て、乃(すなわち)見感(みめ)でて、目合(まぐわい)して、其の父に申しました。「吾が門に麗しき人が有ります。海神が自から出て見て、「此の人は天津日高の御子、虚空津日高です」といいました。 即、内に率いて入って、美智の皮の疊を八重に敷き、亦[糸施-方]( きぬ)疊八重に其の上に敷き、其の上に坐って、具百取の机代の物を具えて、御饗を爲して、即、令婚其の女豐玉毘賣を婚いするように命令した。

考えたこと
豐玉毘賣の從婢が、水を汲もうとして、なぜ玉器に汲もうとしていたのか判りません。単に入れ物なのでしょうか? 山幸彦は、首に巻いていた璵を首から外して口に含み、貰った水は飲まないで玉器に入れた。そうすると璵がくっついて取れなくなった。確かに不思議な現象ですが、それがどうしたのでしょう。山彦はそんな不思議な術をもっていたということでしょうか?
その不思議さゆえに、山彦は豐玉毘賣と出逢うことになり、結婚することになります。

わたしが一番、気になったところは、「美智の皮の疊を八重に敷き、亦[糸施-方]( きぬ)疊八重に其の上に敷き」の部分です。豐玉毘賣の一族は、美智の皮を獲って、絹の敷物を作る技術があったということです。
海幸彦と山幸彦の話は、はじめから、もやもやするものがあります。古事記の作者は、海の中の物語にする必要があるから、海の宮へ行ったことにしました。その理由がわかりません。本当に、海の中のことであれば、おかしいです。これに似た話に、浦島太郎が、助けた亀に連れられて竜宮城へ行った話があります。こちらの住民は、鯛やヒラメが舞を舞ってくれたことになっていますから、海動物です。住民である美智(アシカと翻訳本にあります)を皮にして敷物にするのはおかしいです。

このように考えると、古事記の作者は、山幸彦(火遠理命)が、海の宮の住民と関係があったことを書きたかったが、正面から関係があったと書きたくなかったのかも知れません。

その浦島太郎の伝説は、全国あちこちにありますが、丹後半島の伊根町に浦嶋神社があります。この神社は825(天長2)年に創建された古社。『丹後国風土記』に登場する浦嶋伝説の舞台と伝わる神社です。
このすぐ、近くに籠神社があります。この神社の祭神は、彦火明命です。この神社の歴代神主である海部家のことを書いた「勘注系図」に次のような記事が書かれています。

「一本にいう、『丹波国造本記』に、彦火明命は正哉吾勝勝也速日天押穂耳尊の第三番目の子である。兄の火闌命(ホノスセリ)は海の幸をとるのが上手だったので海幸彦とよんだ。弟の火明命は、又の名を彦火火出見尊といったが、山の幸をとるのが上手だったので山幸彦と呼んだ」と書かれていると書いています。このように書いたということは、海部宮司家は、正しいと思っているから「勘注系図」に入れたことになります。
ところが、古事記では、天忍穂耳命の子供は、二人で、ニニギ命(弟)と天火明命(兄)で、ニニギ命とコノハナサクヤ姫との間に生れた子供が、火照命(海幸彦)、火須勢理、火遠理命(山幸彦)です。両者の記録では、山幸彦は一代違いますが、両方とも、天皇家に直結しているのだと述べています。
この奇怪な海幸山・山幸彦の話は、古事記独占の話ではないことになりますが、籠神社に残る海部氏本系図は、870代に記録されたことが判っています。古事記が出来たのは、712年ですから、「勘注系図」は古事記を参考にしたかもしれません。

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2005.10.24

古事記を読む  海神の宮訪問

No145
原文
於是其弟泣患居海邊之時。鹽椎神來問曰。何虚空津日高之泣患所由。答言。我與兄易鉤而。失其鉤。是乞其鉤故。雖償多鉤不受。云猶欲得其本鉤。故泣患之。爾鹽椎神云我爲汝命作善議。即造无間勝間之小船。載其船以教日。我押流其船者。差暫往。將有味御路。乃乘其道往者。如魚鱗所造之宮室。其綿津見神之宮者也。到其神御門者。傍之井上有湯津香木。故坐其木上者。其海神之女見相議者也【訓香木云加都良】
訳文
ここに於いて その弟泣き患(うれ)いて海辺に居る時、鹽椎神(しおつちかみ)が來て問うて云いました。「何にして虚空津日高(そらつひこ)の泣き患れう所由(ゆえ)は」といいますと、答えて言いました。「我と兄は鉤を易えて、其の鉤を失いました。是に乞其の鉤を乞う故に、雖償多くの鉤を償うと雖えど受けてとりません。(兄は)『猶欲得其の本(もと)の鉤を得ることを欲すと云います』故に泣き患うています」と云いました。
ここに鹽椎神、「云我 汝の命の爲に善き議(はかりごと)を作ろうと云って、即ち、无間勝間(まなしかつま)の小船を造り、載其の船に載せて、教えて云いました。「我れ、其の船を押し流すと、差(やや)暫し往くと、將に味(うまし)御路(みち)が有ります。乃(すなわち)其の道に乘って往けば、魚鱗の如く造れる所の宮室()がある、其れは綿津見神の宮也」。其の神の御門に到りましたら、傍の井の上に湯津香木(ゆつかづら)が有ります。そこで、其の木の上に坐りますと、其の海神の女(むすめ)、見て相議(あいはか)りなさい」と言いました。

考察 今回も理解困難なところはありません。鹽椎神を翻訳者は「しおつちのかみ」と読ませています。どうしてこのように読むことが出来るのでしょう。
書くこともありませんから、少し、拘って見ます。
訳本の作者は、「潮路を掌る神の意であろう。書紀には塩土老翁とある」と書いています。文章を読みますと確かに、味(うまし)御路(みち)を教えてくれましたから、水先案内人の役をしていることになります。
「鹽椎神」の鹽は塩の旧の漢字です。椎の読みは、「ツイ、ヅイ、スイ」意読は「しい、うつ、つち」です。鹽も椎も意読されたのですから、漢字のもっている意味を解さないと間違っていることになります。「椎」は木とフルドリの合わさったものです。フルドリはずんぐりとした鳥だそうです。似た漢字には、脊椎、鉄椎、椎魯、すべてどっしりしたものに使われています。椎は木で出来て鳥の形をした木槌らしいです。塩椎は塩を作るときに木槌をつかったのでしょうか? 製塩をする人のことでしょうか? 
  日本書紀の作者は、古事記を見ながら、日本書紀を書こうとしていますが、「鹽椎神」の意味が判らなかったのだと思います。そこで、「塩土老翁」と書きました。椎が「つち」と読むからといって、「土」に置き換えたのでは、全く意味をなしません。
  判らないのであれば、そのままにして、読む人が好きなように読めばいいと思います。
  もう少し、拘りますと、日本書紀では、もう少し話しがすすみますと、海の中でまた、塩土老翁に出会います。今度は、「塩筒老翁」と書いてあります。その所為でしょう。日本書紀の翻訳者は、「塩土老翁」も「塩筒老翁」も「しおつつのかみ」と読ませています。こうなりますと、製塩をする人ではなくなります。
  日本書紀の作者も現代の学者も、古事記の作者に振り回されていることになります。
  太安万侶は、おおいに喜んでいることでしょう。
  このように書いている私は、輪をかけてチンプンカンプンです。どうして、太安万侶は、海の中の宮を書かなくてはならなかったのでしょう。
  これと同じパターンが、どこそこの国にあるから、そこから導入したのだという研究が必ずあると思います。しかし、その場合はそれでおしまいです。無理に推し進めますと、太安万侶は、その国を旅行して話しを聞いたとか、その国からやって来た人に聞いたぐらいです。
   もう一つ気になることがあります。「无間勝間」を「まなしかつま」と読ませています。これまた、なんのことか判りません。「无」は「ない」という意味です。「あいだがない、あいだがかつ」らしいです。
  これに相当する話しが、日本書紀にあります。「大目麁籠」一説には、「無目堅間」に火火出見尊を入れて海に沈めたと書いています。面白いですね。日本書紀は水がじゃじゃ漏れの籠を作って、沈めた。硬い目でない小船を作って乗せたから沈んで、海の中に入って行ったことになっています。どうして、海の中の物語になるか辻褄の合うように試みています。
ところが、古事記は、「无間勝間」の船を作って載せたとあります。ということは、船は木製や石製ではなくて、葦などで編んだ船だということです。
  これは、ペルーの湖の上に、葦の島を作って住んでいる人が、葦の船で移動しているのを見ましたから、葦の船は、ここに出てきてもおかしくないことになります。
   海神の宮訪問のところを読み始めてから、ずっと気になっていることがあります。どうして、海の中の話でないといけないのかと云うことです。たとえ、似たような話が、外国にあったとしても、火照命と火遠理命のことを知らせるのに、このようなわけの判らないことを書かなければならなかったかと云うことです。
  本当は、ずばりと書くと、関係者は暗殺されることになり、古事記も燃やされてしまうことになったのでしょう。この部分は量が多いだけに、太安万侶としては、どうしても書き残したかったことだと思います。
 これは、丹後半島の籠神社のことを書いたのではないでしょうか? 籠神社から海岸に沿って北東に進みますと、伊根町があります。ここには、浦島太郎の伝説がのこっており、浦嶋神社があります。太安万侶は、籠神社と浦島太郎の伝説を織り込んで、火照命と火遠理命のことを伝えようとしたのではないでしょうか?

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2005.10.17

古事記を読む  海幸彦と山幸彦

No144
原文
故火照命者爲海佐知毘古【此四字以音。下效此】而。取鰭廣物。鰭狹物。火遠理命者。爲山佐知毘古而。取毛麁物。毛柔物。爾火遠理命謂其兄火照命。各相易佐知欲用。三度雖乞不許。然遂纔得相易。爾火遠理命以海佐知釣魚。都不得魚。亦其鉤失海。
於是其兄火照命乞鉤曰。山佐知母。己之佐知佐知。海佐知母已之佐知佐知。今各謂返佐知之時【佐知二字以音】其弟火遠理命答曰。汝鉤者。釣魚不得一魚。遂失海。然其兄強乞徴。故其弟破御佩之十拳劍。作五百鉤。雖償不取。亦作一千鉤。雖償不受。云猶欲。得其正本鉤。
翻訳
火照命(ホデリノミコト)は海佐知毘古(ウミノサチヒコ)として、鰭(ハタ)の廣物を取り、鰭の狹物を取り、火遠理命(ホオリノミコト)は、山佐知毘古(ヤマノサチヒコ)として、毛の麁物(アラモノ)、毛の柔物(ニコモリノ)を取られました。ここに、火遠理命、その兄の火照命に、「各佐知(サチ)を相い易(カ)えて、用いることを欲する」と謂いて、三度乞いて雖えども許しませんでした。然し、遂に纔(ワズ)かに、相易えることとなりました。ここに、火遠理命は以海サチ用の針で魚を釣りましたが、全く、魚を得ることはできなくて、釣針を海で失いました。
そこで兄の火照命は鉤を乞うて言いました、「山サチも。己之サチサチ。海サチも。已之サチサチ。今は各サチを返そう」と謂う時に、其の弟の火遠理命は答えて言われるには、「汝の鉤は、魚を釣ろうとして一匹の魚も得ずで、。遂に海に失った」と言われた。然し、其の兄は強く戻すように攻めた。そこで、弟は御佩の十拳劍を破りて、五百の鉤を作って、償いたいと雖えども、取らなかった。亦一千の鉤を作って、。償ぐなうと雖えども受けとらなかった。「猶其の正本(モト)の鉤を得たい」と言いました。
考えたこと 
① どうして、お互いの道具を取り替えなければならないのか判りません。佐知(サチ)を相い易(カ)えて、用いることを欲するとありますから、お互いの幸を交換するのであれば、判りますが、道具を変えたからといって、上手く取れるわけがありません。弟の火遠理命は、兄のものがほしがったということでしょうか?
② ②「山サチも。己之サチサチ。海サチも。已之サチサチ。今は各サチを返そう」の部分が意味不明。

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2005.10.10

古事記を読む  木花佐久夜毘売は富士山麓へ

No143
古事記では、木花の佐久夜毘売でNo142登場して終わりです。そこで全く別の角度から
木花佐久夜毘売のその後、探ってみます。
ニニギ命が、伯耆の久米郡、高千穂に遷都したのは、紀元前150年頃とおもわれますが、その頃漢の武帝は周囲の国々に勢力を広げていた時代で、お金が必要ですから、わが国に大量の漢族を潜入させて絹の収奪をしていました。なぜそうかといいますと、この時代の漢鏡の出土数が多くなるからです。
それに対して、ニニギとニニギの父である天忍穂耳命は、九州に進出しました。天忍穂耳命は遠賀川の源の英彦山に移っています。また、二人を祭る神社が嘉穂郡、鞍手郡、田川郡、遠賀郡、京都郡から14座見つかります。
このころ、天照大御神、丹波に遷都し、全国に水田を普及させようとしました。
あまりにも、東西に忙しくなったためか、天照大御神は静岡に多くの苗族を入植させました。そのときの指導者が、木花佐久夜毘売です。
No142の最後に、「なんだか すっきりしません」と書きましたが、本当は、古事記には、この後に木花佐久夜毘売が静岡県へ行きましたという一言ぐらいが書かれていたのではないでしょうか?
富士吉田市上吉田に、北口富士浅間神社があり、木花開耶姫命が、祀られています。
二人で輿入れしたが、容貌が悪いために、父親のもとに返された石長比賣は、その後、応援に派遣されたのでしょうか?
富士吉田登山口五合目の小御嶽神社に祀られています。祭神名は、磐長姫命です。
木花開耶姫命と磐長姫命に注目してください。これは、日本書紀に書かれている漢字です。どのように読まれていたのでしょう。古事記では、木花佐久夜毘売と石長比賣です。どの翻訳本でも、前をコノハナサクヤヒメ、後ろをイワナガヒメと読んでいます。本当は、同じように読んだかもしれませんが、古事記に書かれている木花佐久夜毘売は、後の世の人には、知られたくないものですから、日本書紀の作者は、苦労して書き換えました。書き換えたのに、現場の神社の記録に、木花佐久夜毘売と書かれていますと困りますから、北口富士浅間神社と小御嶽神社では、祭神を日本書紀と同じになるように書き換えました。書き換えたときがいつか判りませんが、その時は、木花佐久夜毘売の勢力圏ではなく、漢人の勢力範囲であったことになります。
静岡の地図をごらんください。苗族が入植した証拠に、田に関する地名がいっぱいです。
ここには、木花佐久夜毘売の父も一緒に出動したのでしょう。大山祇命を祀った神社が、伊豆国に102座、駿東郡の富士山東に48座、富士川流域に60座、安部川流域に26座、大井川流域に14座、遠近国に109座残っています。

勿論、この人たちばかりではありません。絹をめぐって、建御名方神を祀る諏訪神社も、134座あります。反対勢力の速須佐男命を祀った神社も519座ありますから、これらの数字が、そのまま、当時の勢力を現すものではありませんが、争いが当然起こり、古墳の数が多いことの説明ができます。
あらすじを書きましたから、このような話は信じられないと思われるでしょう。騙されたと思って、静岡県の神社と福岡県の神社を全部書き出して調べていただければいいと思います。そして、その後で、両方の神社がどのような所にあるか、自分の足で回られますと、当時の彼等が、ある山を挟んで、いがみ合っていた姿などが目に浮かぶのではと思っています。
私は全部していませんから、結果を教えてください。

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