2012.04.23

伊都国

華南弁(呉音)表記    

華南弁表記が日本でどれ程行き渡っているのかを知っていただくために、まず都府県名を調べてみました。 最初の訓みが華南弁、続いて華北弁(漢音)を表します。

群 ぐん :くん  馬 ま  :ば   京 きょう:けい  岐 ぎ  :き
賀 が  :か   都 つ  :と   兵 ひょう:へい  和 わ  :か
奈 な  :だ   

ここでは華南弁、華北弁とも同じ訓みの漢字は省略させていただきました。 福島、群馬、東京、神奈川、福井、岐阜、愛知、滋賀、京都、兵庫、奈良、和歌山、徳島、高知、福岡、佐賀、には華南弁、華北弁の訓みが含まれていますが、以上のうち京都の「都」だけが華北弁表記です。 ここには記されていない青森、大阪等の府県名と、上記都府県名に含まれる、島,神、川、井、良、山、岡、等の残りの漢字は全て訓読みで表記されています。 
続いて他の重要と思われる漢字も拾ってみました。 以下でも、三,四、五、火、水等の華南弁、華北弁共通の訓みの漢字は省略させていただきました。

一 いち :いつ   二 に  :じ    六 ろく :りく   七 しち :しつ 
八 はち :はつ   九 く  :きゅう  十 じゅう:しゅう  百 ひゃく:はく
万 まん :ばん   上 じょう:しょう  下 げ  :か    右 う  :ゆう
内 ない :だい   外 げ  :がい  南 なん :だん  西 さい :せい 
赤 しゃく:せき   黄 おう :こう   青 しょう:せい   緑 ろく :りょく
白 びゃく:はく   父 ぶ  :ふ   母 も  :ぼ    兄 きょう:けい
弟 だい :てい   妹 まい :ばい  日 にち :じつ  月 がち :げつ
木 もく :ぼく    金 こん :きん  土 ど  :と    年 ねん :でん 
時 じ  :し     神 じん :しん  社 じゃ :しゃ   寺 じ  :し 
祭 さい :せい   仏 ぶつ :ふつ  教 きょう:こう   宗 しゅう:そう
手 しゅ :しゅう  足 そく :しょく   目 もく :ぼく   耳 に  :じ 
鼻 び  :ひ    口 く  :こう    頭 づ  :とう   毛 もう :ぼう
米 まい :べい  豆 づ  :とう    麻 ま  :ば    田 でん :てん


まだまだ有りますが華南弁の発音で表記される漢字の方が、華北弁の発音で表記される漢字よりも、生活に密着して使用されているのをご確認ください。 元々日本列島に住んでいた人たちだけでは、これ程までに華南弁が行き渡るとは思われません。 いつの時代かに多くの華南弁を話し言葉とする人々が、日本列島に到来したと考えると説明は簡単です。
 なお、朝鮮半島では 神社は(しんしゃ)、○○寺は(○○さ)、地図は(ちと)と発音されるように華北弁がより行き渡っていたのではないでしょうか。

参考までに平仮名あいうえおの漢字語源も記しておきます。
(安 あん:あん)(以 い:い)(宇 う:う)(衣 え:い)(於 お:よ)
(加 か:か)(幾 き:き)(久 く:きゅう)(計 け:けい)(己 こ:き)
(左 さ:さ)(之 し:し)(寸 すん:そん)(世 せ:せい)(曽 ぞう:そう)
(太 たい:たい)(知 ち:ち)(川 せん:せん)(天 てん:てん)(止 し:し)
(奈 な:だ)(仁 にん:じん)(奴 ぬ:ど)(祢 ねい:でい)(乃 ない:だい)
(波 は:は)(比 び:ひ)(不 ふ:ふ)(部 ぶ:ほ)(保 ほ:ほう)
(末 まつ:ばつ)(美 み:び)(武 む:ぶ)(女 にょ:じょ)(毛 もう:ぼう)
(也 や:や )(由 ゆ:ゆう)(与 よ:よ)(良 ろう:りょう)(利 り:り)
(留 る:りゅう)(礼 らい:れい)(呂 ろ:りょ)(和 わ:か)(遠 おん:えん)


如何でしたか。 ここで魏志倭人伝に記されている伊都国に移りたいと思います。 その前に前回に問題として取り上げた(やまと)の漢字表記としての、「日本」と「倭」について気が付いたことを記しておきます。 日本書紀、巻第一、第四段に初めて 廼生大日本 日本此云耶痲謄下皆效此 豊秋津洲 と振り仮名が出てきて、「日本」を(やまと)と云うように指示しています。 ということは、当時、「日本」は新しく導入しようとした国名であり、書物を読む人々にとっても、振り仮名を必要とする文字であったということです。 古事記には「日本」表記が無くて、日本書紀には200回以上見出される理由もはっきりします。 さらに男性の名前には日本が用いられ(例:神日本磐余彦天皇)、女性の名前には倭が用いられている(例:倭迹迹日百襲姫命)ように思います。 日本書紀もやまと書紀と呼ばれていたのではないでしょうか。 また、巻第三には 倭国磯城邑、曰虚空見日本国矣 と出てきますが、ここでも小さな領域の「倭」と、大きな領域の「日本」を使い分けているように思われます。

日本書紀、巻第一、第六段には 臂著稜威之高鞆 稜威此云伊都 と振り仮名があり、稜威を(伊都)と読むように指示しています。 さらに読み下し分では(伊都)を(いつ)と読んでいます。 日本書紀、巻第六では 意富加羅国到干穴門時其国有人名伊都々比古 と書かれており伊都々比古を(いづつひこ)と読み下されています。 日本書紀、巻第八に於いては、筑紫伊覩県主祖五十迹手 と出ており「都」の字は使われておりません。 即ち日本書紀においても「都」は(つ)と読まれているわけです。 伊都国を(いとこく)と読むのであれば、帯方郡の連絡者が命名した地名と考えるべきです。 しかも都の意味を持たせていると思います。 日本列島では○○国の訓みは、(○○のくに)となり、(生まれはどちらのくに?)という風にも使えるはずです。 邪馬台国を(やまたいのくに)とか(やまたいの生まれ)とか言えますか。 日本では多くの場合、国は郡を意味しているようです。 このような理由により、伊都国は(いつのくに)と読むべきです。 現在の地名で当てはまるのは出石とか舞鶴ではないでしょうか。 出石は伊都志と書かれる場合があります。 どちらでも魏志倭人伝の謎解きIに述べた末盧国の日向より東南に歩き始めて五百里余(約200Km)です。 もし伊都国という地名が帯方郡よりの報告者の命名であれば、大江山の近傍を当時は伊勢(現在は元伊勢)と呼ばれていたことでもあり適合します。

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2012.03.29

魏志倭人伝の謎解き II

はじめに 
『魏志倭人伝の謎解き II 』は、ブログ管理の私あてに、頂いた私信です。 これを参考にして、私の勉強を充実させてと思っていましたが、なかなか、進みませんので、掲載させていただくことにしました。 読者の皆さんで、発展させれる部分がありましたら、参考にしていただければと思います。
添付されていました地図は、最後に貼り付けました。 上の黄色に囲ったところが、末廬国です。 拡大できます。


この前の謎解きの続きです。 地図を添付しておりますが、この地図は最新情報を用いて説明するほうが理解して頂き易いと考えて、昭文社の中国道路地図(2010年版)の米子近辺を合成させていただきました。 今後のこともあり、歴史等も併せて楽しむのであれば購入をお勧めします。
前回、筆者が想定した末盧国の位置は、境港市の対岸にある日向浦、福浦と表示されている一帯です。 また、前回述べましたように「末盧国」が朝鮮半島から見て付けられた呼称としますと、魏志倭人伝における日本列島の起点は末盧国としても良いと考えます。 古代の地名は2地点を往き来する人に取っては、経由地情報を含まないほうが重要と考えます。 
魏志倭人伝では末盧国に続いて、東南陸行五百里到伊都国、という文章がありますが、今回は起点という考えにより伊都国を飛ばして次に出る文章、東南到奴国百里、を追いかけてみます。 添付した地図の南のほうに南部町と表記されていますが、すぐ左に倭(やまと)という地名があります。 こんな地名がまだ残っているのです。 この近辺は明治時代には大国村と呼ばれていました。 倭から西には青垣山も見つかります。 倭から東北すぐに会見(えみ)という地名があり、近くの三崎、諸木(みもろ)を東にたどりますと大山の中腹に大神山神社があるのです。 また、会見の辺りは明治時代には手間村となっており、この地図には表記されていませんが手間山の麓には赤猪岩神社もあります。 さらに地図の右上、淀江の近くに小波という地名がありますが、この辺りは明治時代には大和村(やまと)と呼ばれており、三輪神社、大神山神社(冬社)も残っています。 奴国は末盧国の東南百里ですのでこの辺り一帯が最適地です。 なお「奴」は華北弁では(ど)、華南弁では(ぬ)と発音されています。 「漢委奴国王」の奴国であり、日本列島で最古の国ではないでしょうか。 ついでになりますが、「金印偽造事件」幻冬舎新書という本が最近出版されており、95%偽造という結論を著者の三浦佑之氏は導いておられます。 古事記では、八上比売の物語の最後に、於高天原氷橡多迦斯理而居是奴也、と書かれており「奴」という土地を示しているのではないでしょうか。 古事記に書かれている神話が地名、神社名を辿ることにより奴国に結びつくように思いませんか。
 
問題:倭の文字が古事記には66回、日本書紀には181回、大和(やまと)の文字が古事記には0回、日本書紀には215回出ます。 ほとんど同時に出来た書物ですがどのように解釈すればいいのでしょうか。

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2012.03.10

魏志倭人伝の謎解き   執筆 田村邦夫

魏志倭人伝を理解するためには、編者:陳寿(233~297)の生育時の環境だけでなく時代の変化も知る必要があります。 さらに魏書東夷伝に著わされている文章の内容は、著された順序に従って陳寿の頭の中に鮮明な記憶として残っていると考えねばなりません。

1.まず陳寿の生育時の環境ですが、蜀で生まれ最後は西晋で終えたということは華北人であり、華北弁(漢音)をしゃべっており、魏の度量衡に慣れ親しんでいたと考える必要があります。 次に時代の変化ですが、魏(220~265、洛陽)、蜀(221~263、成都)、呉(222~280、建業)、の三国は著作完成時には全て滅亡していました。 魏が滅亡して20年後ぐらいに三国志は著わされていますので、前時代のことは明瞭に記憶しているでしょう。 風俗、地理の部分はほぼ正確だと思われますが、魏と倭の外交について述べている部分には陳寿及び報告者の誤解や偽装報告も含まれていると思われます。 呉に対しては、華南人の国、即ち華南弁(呉音)でしゃべっていることでもあり、魏の敵国として好悪の感情もあったでしょう。 魏の滅んだ理由も重要ですが、滅亡に向かう10年程前から30年間位は、陳寿が生活をしていた地域も相当荒廃していたと思われます。

2.上記前提の下に謎解きを進めてみます。 魏書東夷伝には高句麗伝、馬韓伝などの後に倭人伝が書かれています。 即ち、陳寿の頭の中では、魏志倭人伝における文章の内容や用語の用法も、高句麗伝等に繋がっていると考える必要があります。 先ず高句麗伝をご覧頂きますと、高句麗在遼東之東千里、という文章が最初に出てきます。 この文章を解読するためには魏の距離単位、千里=約430Kmを採用する必要があります。 即ち、陳寿が慣れ親しんだ魏の距離単位を使っているわけです。 魏志倭人伝の謎解きをするためには、文章中において何処の距離単位を採用しているかを知ることは重要です。 このことを知った上で、倭人伝の初めの部分に出てくる、到其北岸狗邪韓国七千余里、という文章の解読を要求されるわけです。 朝鮮半島の地理に対しては、陳寿は情報を持っておらず、帯方郡で生活をしている報告者の述べたままを転記していると考えれば理解できます。 即ち、報告者が現地で使用している朝鮮半島での当時の距離単位は、千里=約75Kmとなります。 続けて、報告者は対馬を対海国、壱岐を一大国と呼び、面積まですらすらと述べられるぐらいに詳しい情報を持っているのが解ります。 ところが次の到着地点である末盧国に対して、距離は解っているのですが、方角と面積の情報を持っていないことになります。 もし、壱岐よりすぐ南に見えている松浦を、末盧国と決めるなら、方角を書かなかった理由が必要になります。 さらに、又渡一海千余里至末盧国、と記されていますが、壱岐より松浦までは朝鮮半島の距離単位で五百里と言ってもいい位の距離です。 ということは、この報告者も育ちは華北人とすれば、詳しく知っている領域を外れると慣れ親しんだ魏の距離単位を採用してしまうわけです。 即ち、末盧国は、壱岐から千里=約430Kmの所に見つける必要があります。 又、以降に記されている距離数字も、魏の距離単位を採用していると考えなければなりません。 筆者は末盧国の候補地として現在の境港の対岸を選んでみました。 現地は岩浜であり、魏志倭人伝に書かれている土地を説明する文章、浜山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之、にぴったりした山影にある風の影響を受けにくい良港です。 方角が書かれていないのは報告者が知らなかったからです。 面白いのは、倭人伝の中程に書かれている、参問倭地絶在海中中洲島之上或絶或連周旋可五千余里、という表現です。 陳寿も、日本列島の本州は島であり一周が2000Km余りと知っていたということです。

3.次は末盧国の名称について検討したいと思います。 馬韓伝には末盧国のように盧の文字の付く国名、速盧不斯国、莫盧国、離牟盧国、狗盧国、駟盧国、萬盧国、捷盧国、牟盧卑離国、が記されています。 弁辰伝には、瀆盧国、斯盧国が出てきます。 陳寿もしくは報告者は何らかの意図を持って盧の字を使っていると考えられないでしょうか。 日本列島における地名、人名には漢字に意味を持たせない呉音表記の文字が引き当てられています。 倭人は文字を使用していなかったのであり、これほど普遍的に呉音表記の漢字が使われているということは、地名、人名の文字表記を必要とした非常に多くの華南弁をしゃべる華南人(呉人、越人、苗族等)が日本列島に来ていたということです。 彼らは一体何をしていたのでしょうか。 また、朝鮮半島には呉音表記の地名は残っているのでしょうか。 ここで末盧国に戻りますと「末」の字は2音で発声されます。 ということは、朝鮮半島からみて命名された、もしくは報告者が情報として知っていた「末盧国」であると考えられます。 斯盧国と組になった末盧国と考えられないでしょうか。 斯盧国から船を出しますと容易に末盧国に到着できるのです。 

この後、邪馬台国に行き着くわけですが、「末盧国」がここにあったとして皆様でルートを考えてみてください。

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2012.02.17

「是奴也」びっくりしました

古事記に「奴国」が出ていたのですね。 なにか反応はありましたでしょうか。

私はこの前の日本書紀が気になって調べてみたところ下記の結果を得ました

1.日本書紀:日本表記 215以上、倭表記181以上
2.古事記:日本表記  0  倭表記 66以上

日本書紀ですが 日本はやまとと読まれているようです  さらに1箇所
倭日本とかいてやまとと読み下しています。男の神様には日本が使われ
女の神様には倭が使われています。 歌の中では夜麻登と書かれており
文字よりも言霊の栄えた国という感じが解ります。

上記とは変わりますが一書曰に対して魏志云とか百済本義云と書かれており
呉国朝貢とか新羅朝貢もありました
とにかく原文にあたる必要がありますね


管理人より
 この文章は、August 27, 2009  に頂いたメールのものです。 
 丁度、今日、「奴国」のことをかいたばかりです。魏志倭人伝に出てくる「奴国」は 末廬国から100里の所にあると書いてあるのですが、皆さん、どこかわからないようです。末廬は、出雲の松江の所になります。魏志倭人伝は、240年ころのことですが、古事記の
「奴国」ハ、スサノオが大国主に向かって、結婚の許可をした時の口上にあります。 日野川流域一帯は、昔から、奴国とにほんでもね呼んでいたのを難頌米は知っていたことになります。

古事記には、〔日本〕はゼロなのに、日本書紀には〔日本〕 215もあるというのは、面白いですね。 日本書紀の作者は、〔日本〕 という言葉を認めさせたかったことが判ります。

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2012.02.13

古事記王朝と日本書紀王朝の戦いが壬申の乱だった

 前回に対して、メールをお出ししましたら、次の様なメールをいただきました。


早速丁寧なメールを頂きありがとうございます

この前は気になりながらも書かなかったことがあります
古事記王朝と日本書紀王朝の戦いが壬申の乱だった
そして日本を版図とする日本書紀王朝が現代も続いている
このような考え方はいかが思われますか

その他、2000年前頃の東アジアについて
主家(中国本土)~庭(東シナ海)~渡り廊下(朝鮮半島)
~奥座敷(日本列島)と言う仮定で色々と考えています
例えば奥座敷に行く必要があった場合に取りあえずは
庭を通って行き来していましたが、渡り廊下の完成に従い
廊下経由も多くなりました。ただあくまでも渡り廊下なので
途中に立ち止まる部屋(文明の留まる場所)は出来ませんでした
いかがでしょうか

開設者より----壬申の乱の部分に於いて、古事記と日本書紀を読み比べて頂きますと、
古事記王朝と日本書紀王朝と云ってもいい位の違いが見えてきます。

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2012.02.10

日本書紀のタイトルについて

漢書というのは漢という版図を支配した中国人の歴史書であり魏書というのは魏という版図を支配した中国人の歴史書である。これから類推すれば「日本書」紀というのは日本という版図を支配した中国人の歴史書であり、当時の倭国の征服できた地域を日本と命名したのである。これから導かれる結論として「日本書」紀の作者の藤原不比等は倭にいた中国人であり祖先が倭に居なかったため、正当化するための書物「日本書紀」を書き上げたのです。そのために「日本書紀」には200箇所以上「日本」という文字が使われていますが「古事記」には一箇所も使われていません。藤原不比等は「日本」という国号を当時の
中国王朝に売り込もうとしたのです。
参考:神野志隆光著「日本」とは何か


開設者より----この記事は2009.07.27 に、私のメールに対する返事として頂いたものです。
古事記が作られるようになった経緯は、古事記の始めに書いてあります。
この文を翻訳された人は、見たことがありません。

 とは、嘘で、中西進著 『天つ神の世界』に書いてあります。丁寧に、解説されていますが、私の頭が悪いのでしょう。チンプンカンプンです。

 序文には、なにが書いてあるのか、一言で云えませんが、30字ぐらいで、説明できなければ、翻訳したとは言えません。
 一方、日本書紀は、日本の正史とされているのに、作られた経緯が書いてありません。
 田村氏のように考えますと、経緯は、書くことが出来なかったことが理解できます。


日本と云う国名は、何時、どのようにして、決められたのか、誰が名前を付けたのか。何一つ、分かっていません。
〔「日本書」紀というのは日本という版図を支配した中国人の歴史書であり、当時の倭国の征服できた地域を日本と命名したのである
 こんな短い文章で、日本の国名ができた経緯が、語られました。

田村氏の記事よりも、私のコメントの方が長くなってしまいました。 
H240210

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2012.02.05

田村邦夫の部屋 開設

本日より、「田村邦夫の部屋」を開設します。私の【楽しい人生】では、「田村誠一氏に捧ぐ」のカテゴリーで、記事を読んで頂いています。
 田村邦夫氏は、田村誠一氏のご子息に当たられます。

 これまで、田村誠一氏のご著書やその他の資料を提供して頂くとともに、その内容を、【楽しい人生】にて公開することの許しを頂戴していました。もう、随分長くなりますが、田村邦夫氏は、歴史には、あまり、ご興味が無かったのか、歴史に関するお話をお聞きする機会は、ございませんでした。
 
2009.07.27 に
〔日本書紀のタイトルについて〕の御提案を頂きました。 素晴らしい考えで、驚きましたが、手いっぱいのため、私の考えは及びませずで、そのままになっていました。

 この部屋には、田村邦夫氏の考えられたことを納めたく思います。

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