2015.11.17

「乱」を語る   執筆 田村邦夫

始めに  この原稿を縦書きで頂戴しましたが、縦書きに掲載する方法が判りません。
コピーして、縦書きに変換してください。 日本語は縦と横では随分印象が異なるようです。


① 壬辰倭乱(文禄の役、一五九二年)
② 壬申の乱(六七二年)
③ 倭国乱 (三国志 魏志倭人伝)
④ 倭国大乱(後漢書 倭伝)

右の①~④を見てどのようなことを考えられますか。 ①は全ての文章を中国風に書いていた李氏朝鮮時代に、秀吉の朝鮮出兵を朝鮮側から名付けた呼称です。 壬辰の時代に倭と戦争があったということです。 即ち「乱」とは戦争を意味します。 ②は大友皇子と大海人皇子の皇位継承の争いであり、壬申の時代に世の中が乱れたわけではありません。 また、日本国内の争いであるために、初出表記はどのような形(壬申乱?)であったのかは解かりませんが、やはり「乱」は戦いを意味します。 ③、④は当時の漢人が現地言葉で書いた歴史書に出る表記です。 即ち、「乱」という字の用法は①、③、④共に同じと考えるべきではないでしょうか。 ③と④の違いは「大」の字だけです。 ④に於いて大陸内ではなくて、洛陽から見て東の果てにある一つの島国の状況をわざわざ「大」まで付けて表記しようとした意図は何だったのでしょうか。 それ以上に、「三国志」よりも後に著された「後漢書」に於いて、漢字を重視する国の歴史書における「大」の字の追加は非常に重く受け止めるべきではないでしょうか。 「大禮」「大葬」等は天子に対してのみ用いられる用語です。 もし「大乱」も同じ用法で用いられていると仮定すれば、古代の日本の歴史はどのように書き換えられるのでしょうか。 
 以下に考えられることを記してみます。 まず④の「後漢書」に「倭国大乱」と記されていますので、「倭国」が「後漢」を相手に戦争をしたことになります。 「倭国」が戦うのですから北部九州が「後漢」(呉人主体)に占領されていたと考えてみます。 遡って前漢時代から北部九州が呉人に占領されていたとしますと、漢時代の呉鏡が多く発掘されるのは当然です。 吉野ヶ里に環濠集落を作り、戦いの痕跡を残したのも呉人だったのです。 またここで「倭国」とは春秋時代に大陸を追い出されて、水田稲作技術を携えて列島にやって来た越人及び苗族主体の国と考えます。 すると呉と越ですから、話し言葉は同じとしても仲が悪いのは歴史書に記されているとおりです。 
 次に③の三国志より検討してみます。 書かれた主体が魏ですので単に「乱」のみで合っています。 魏志倭人伝において末盧国を詳述するよりも前に、一大国より南北市糴、と記されていますが、壱岐の人達は北九州の沿岸部で交易していたのであり、続いて記された末盧国、伊都国、奴国とは交易をしていなかったのです。 後れて三世紀に日本列島にやって来た魏の使者は、当時は呉と戦争状態にあるのですから、北九州には立ち寄ることができません。 そのように判断すれば壱岐より末盧国まで千里という距離の不適合とか、方角が記されていない理由も納得できます。 
 参考
一、「歴史の交差路にて」 司馬遼太郎、陳舜臣、金達寿著 七六頁
ぼくは最初の朝鮮における漢字の音が、中国江南地方の呉音だったということで・・・
日本でも、最初は呉音ですね。
二、日本書紀 一  岩波文庫 補注 三二〇頁
古事記は、百済を経由して伝来した、五、六世紀頃の、揚子江下流地域の発音に拠っている。 書紀は、それに後れること百年以上の、北方中国の長安・洛陽の地方の発音に拠っている。
三、随書 倭国伝
又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏・・・達於海岸自竹斯國以東皆附庸於倭

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2015.04.10

  「方二千里」と「方四千里」どちらが大きい?

 最近、『魏志倭人伝の末盧国はどこ?』、『伊都國は「イトコク」それとも「いつのくに」』、という二つの文章により、現時点での末盧国、伊都國の位置設定に対する不合理性を取り上げてみました。 最初の文章では、三国志東夷伝より数々の例を取り上げて、現在では九州唐津近辺に確定している末盧國の位置設定がおかしい、ということを述べてきました。 結論として、末盧國の位置は、壱岐より方角は定めずに千余里=400Km程先の適地、ということにしておきました。 第二の文章では、「伊都國」の「都」の文字の訓みに疑問を感じ、魏志倭人伝、古事記、日本書紀から全例を拾い上げて、使用方法を検討してみました。 結論として、「伊都國」を「イトコク」と訓ますために、日本書紀の編纂者は苦心した跡が見られます。 どうやら魏志倭人伝を解釈するにあたっての誤解の根源は、日本書紀において神功皇后の功績を、卑弥呼と関連付けるための作為に、以降の歴史解説者が引っかかったことにありそうです。 古事記も日本書紀の作為にあうように書き替えられていると思われます。 この二つの文章から導き出される結論として、「末盧國=マツロコク」、「伊都國=いつのくに」の位置設定が、それぞれ独立した理由により間違っていたということです。 
 もう一度それぞれの文章の主要部分を取り上げてみます。 『魏志倭人伝の末盧國はどこ?』では、三国志東夷伝における高句麗の大きさが「方二千里」、三韓の大きさが「方四千里」、と記されている点を取り上げました。 即ち、東夷伝に記された距離基準が、「魏」の基準と「半島」の基準の二重基準になっているのです。 しかも魏志倭人伝の最後に記された卑弥呼の、大作冢徑百餘歩、において直径約150mというのは、三百歩=一里=約430mの「魏」の距離基準に戻っていることです。 さらに「末盧國」における「盧」の文字が、「斯盧國」等、合計十二か国に使用されており、何らかの意味を持っているのでは、と考えられることです。 
 続いての文章、『伊都國は「イトコク」それとも「いつのくに」』では、「都」の文字の出現頻度と使用法を、魏志倭人伝、古事記、日本書紀で調べてみました。 結果は以下の通りです。 
魏志倭人伝  「みやこ」の意味3ヶ所、訓み方不明5ヶ所(これには伊都國も含む)
古事記    「みやこ」の意味1ヶ所(都邑)、「つ」の表音として222ヶ所、「かつて」3ヶ所 
日本書紀   「みやこ」の意味38ヶ所、「つ」の表音として77ヶ所、「かつて」3ヶ所
        これ以外に「ト」と訓んでいる例が3ヵ所あります(阿都=跡)。 
同時代に著された古事記と日本書紀ですが、日本書紀に於いて「都=みやこ」の用法が増えており、倭語とか歌謡においても、「つ」の表音のために「津」等、他の漢字が使用される例が増えています。 日本書紀の編纂者は、「都」を「つ」として使いたくなかったのだと思われます。 なお、古事記の中哀天皇の段に、在筑紫國之伊斗村也。亦到坐筑紫末羅縣之玉嶋里而、という文章があります。 伊都村とは書き辛かったのでしょうか。 「都」を「ト」と訓めないことに気付いていたようです。 
 今回は「奴國」も取り上げてみました。 古事記、大國主神の段に、其汝所持之生大刀・生弓矢以而、汝庶兄弟者、追伏坂之御尾、亦追撥河之瀬而、意禮二字以音爲大國主神、亦爲宇都志國玉神而、其我之女須世理毘賣、爲嫡妻而、於宇迦能山三字以音之山本、於底津石根、宮柱布刀斯理音此四字以、於高天原氷椽多迦斯理此四字以音而居。是奴也、という文章が出てきます。 この最後に書かれている「是奴也」だけが「この奴め」という抒情文で読み下されています。 しかし他の使用例「是〇也」から見ても「これが奴です」即ち「ここが奴國です」と言っていると思われませんか。 古事記の記述者、太安万侶は三国志も当然読んでいたでしょう。 更に「奴國」の位置を決めつけるための有力な証拠品として、志賀島から出土した「金印」が有ります。 この印鑑は封印のために用いられるべきものであり、封泥を問題とすべきですが、朱肉で押された抜け殻の立派な印影ばかり発表されています。 何か勘違いをされているのではないでしょうか。 
 以上の三点の論理に従って、新しい「邪馬壹國」の位置を推理して見られませんか。

記 田村邦夫氏

ブログ開設者より一言---- 最後の一行は、私へのメッセージですが、どなたか、挑戦してください。

完成しましたら、コメントを受け付けるにしておきますから、ご連絡ください。 原稿用に、別のアドレスをお送りします。

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2014.12.22

汗と常識(19)

肺ガンの学術会議の学者達は堅苦しい会議が終わると煙草を早速取出して、紫煙もうもうとさせリラックスしていた。リラックスの手段に煙草は有効だったのである。リラックスすればガンは防げることを学者達は実せんしてくれたのである。
 肺ガンの原因がニコチンなら、葉巻の方が紙巻よりガンになり難いからと半分しか吸わないで、従ってストレスを解消しきらないから肺ガンにかかり易い。葉巻をゆうゆうくゆらしている人達にはストレスがなかったのではないか。
 支援もうもうの中に入れられたネズミには恐ろしいストレスだから、肺ガンになる外ないだろう。
 わたしは人間ドックには何回もはいる様奨められた。しかし70才を越えた体が無キズである筈はない。ドックにはいれば新しいストレスで健康を損ねることだろう。
                          19ページより転載

私からの一言----紙巻タバコの方が、葉巻よりガンになり易いのは、吸ったときのストレスの差ではないでしょう。 人間は、紙に火をつけて、その煙を吸うことは有りません。しかし、煙草を吸っておられる方は、煙草の燃えかすも吸っていますが、周りの紙の煙も吸っています。これが発ガンの原因ではと考えます。ネズミで実験する時は、人間と鼠の体重比で、紙も含めて実験すれば、同じ様なデーターは出る筈です。
 ネズミは、入れられた様気の中で、苦しいから逃げようと動き回ると思います。そうしますと、全身に酸素が供給されますから、癌はなりにくいし、癌があっても、大きくなりません。
 その理由は、次の所に書いています。

膀胱がん闘病記(12) 低酸素細胞  病気の話
 http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2014-12-18胱がん闘病記(13) 低酸素細胞(2)も読んでください。
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2014-12-20

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2013.12.11

邪馬台国は九州にはなかった

中国には三国志と云う歴史書があります。 紀元後1世紀から3世紀にかけて、中国には後漢と云う国が有りましたが、西暦220年に滅亡しました。 広大なる後漢の領域で覇権を争ったのが魏、蜀、呉の三国であり、三国時代と呼ばれています。 三国時代の各国および周辺の情勢を書き記した書物が三国志です。 秦の始皇帝による文字の統一の結果、後漢の北方領土(主に魏、蜀により領有=華北)、南方領土(主に呉により領有=華南)では事物に対して同じ漢字を使用していましたが発音は異なっていました。 例えば、邪〈や、じゃ〉、馬〈ま、ば〉、台〈だい、たい〉(前が呉音=華南弁、後が漢音=華北弁)の如くです。 華北弁を使用していた魏は西暦265年に滅亡し、華南弁を使用していた呉も西暦280年に滅亡して三国時代は終了しました。
 
三国志を著した陳寿は蜀で仕官し、魏に住み続けたようですので華北弁で日常生活を送っていたと思われます。 この事は魏志倭人伝なり、邪馬台国論争を理解するために重要なことです。 即ち、魏志倭人伝が著されるよりも以前に日本列島にやって来た多くの渡来人(呉人、越人等)は華南弁を日常言語としており、日本人(倭人)が話す言語を表記するために用いた文字は、ほとんどの場合華南弁を起源とする一音節の漢字であったということです。 倭人語(縄文語?)の発音では必ず母音を含むため、一音節の漢字を使い易かったと思われます。 その当時「邪馬」は「山」と書くことが可能だったかも知れませんが、華南人が意味する「山」と、倭人が話す「やま」とは、まだ結びつきが無かったのでしょう。 その後「山都」という地名も現れます。

三国志魏書の末尾に東夷伝と云う、主に魏より東方に位置した国々の地理、風俗、魏との外交等について述べられた部分があります。 東夷伝には、高句麗伝、馬韓伝、倭人伝等が含まれています。 以降では、三国志の倭人伝の部分に通常用いられる用語、即ち「魏志倭人伝」に記されている文字、その後に著された文献、出土品、さらに九州北岸の現地名等との関連によりもたらされた連想により、既定の事実とされている「末盧国」の位置を疑ってみました。 現時点では「末盧国」は唐津市周辺にほぼ確定ということになっています。 
 
「魏志倭人伝」は以下の文字列で始まります。
① 倭人在帯方東南大海之中依山島爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里

② 初度一海千餘里至對海國其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴

③ 又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴

④ 又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之

以下では文字列の適当な部分を順次取り上げて、≪末盧国が唐津市近辺に有ったとする現時点での定説≫に対する反論を試みます。 まず文字列②には對海國と有りますが、朝鮮半島から見た地名として、対馬のことを對海國と呼んでいたのではないでしょうか。 土地山險多深林、乗船南北市糴、と書かれています。 陸地の通行が困難なため、船で対馬の南北各地を巡って物々交換をしていたのでしょう。 対馬では場所により異なった産物が取れたのだと思われます。 面積は方可四百餘里、即ち四百里×四百里位、人口は有千餘戸と記されていますので、当時は一戸当たり四人家族とすれば、四千人位だったと考えられます。
 
続いて記されている文字列③の一大國ですが、上記と同様に、当時の朝鮮半島より見た場合の壱岐の呼称でしょう。 壱岐の地勢について述べますと、最高峰が213m、南北15㎞東西13㎞位、面積は134㎢、長崎県で一番大きな平野が有ります。 ③の文字列中に於いて面積は、方可三百里(三百里×三百里)と書かれているところから判断すれば、領海?を含めても百里=約5㎞~7㎞という換算が成立します。 多竹木叢林とは、現在の里山を想像すれば良いでしょう。 有三千許家と書かれていますので、人口は約一万二千人位(現在人口28000人弱)でした。 この人口数から判断すれば十分、一大國と呼べるのではないでしょうか。 ①に記された七千餘里、②の千餘里、③の千餘里を上記換算率、百里=約7㎞を用いて計算しますと、①は約490㎞、②と③は約70㎞となり、不都合な数値だとは思われません。 これ等の数値は①に書かれた帯方(郡)の役人の報告だと考えられます。 この文字列に続いて、差有田地耕田、猶不足食、南北市糴と書かれています。 田圃はあるけれども食料が不足するため南北に物々交換に出向いているということです。
 
ここで重要な問題点が出てきます。 ほぼ平らで平野のような島ですが、食料が不足するために南北に交易に出かけていると書かれていることです。 南とは何処のことを意味するのでしょうか。 ①、②、③までの文章には「末盧國」のことは何も書かれていません。 次の文字列④に初めて末盧國の説明が出てきます。 なぜ③で南北市糴と書きながら、国名の解っている「末盧國」と書かなかったのでしょうか。 現時点の定説に因りますと、壱岐からは、対岸に東松浦半島「末盧国」、糸島半島「伊都国」も見えており、船で少しばかり沖に出ると志賀島「奴国」も見えたでしょう。 九州の北岸が市糴の対象地域だったとすれば、問題はありません。 

しかし、魏の住人であった陳寿(華北人)は、呉の住人(華南人)に占領されていた九州北岸については詳しく書きたくはなかったのでしょう。 ①、②、③までの説明に「末盧国」については、まだ記述の順序として考慮されていなかったのです。 陳寿が、一大國の人々の九州北岸への物々交換を、単に南北市糴とのみ記しているのであれば、彼は訪問するべき必要のある国々の存在を九州北岸に認めていないことになります。 わざわざ壱岐より、対馬海流に逆らって対岸の一番西に位置する東松浦半島から糸島半島、博多へと順序をたどって訪問することの理由を説明する必要も無くなります。 ④以降に続いている文章中の五百里とか、百里の距離、東南という方角も問題解決です。 
 
さらに付け加えますと、陳寿が、④に於いて、又渡一海千餘里至末盧國、と著していますが、この語列には③において南北市糴と記された南という方角も書かず、一大國より末盧國?に属する九州北岸の呼子まで約五百里(約35㎞)にも満たない距離を、わざと千餘里と記している理由の説明も必要です。 要するに④の文章では、「魏志高句麗伝」と同じ魏の距離基準に従って著しているのです。 陳寿は、“「末盧国」の方角は解らないが、距離は千餘里でしょう”と言っているわけです。 改めて考えてみますと、平野の少ない東松浦半島に四千餘戸、即ち16000人も住むことの出来る土地を見出すことが出来るのでしょうか。 広い壱岐でも12000人です。 

繰り返しになりますが、陳寿は、一大國以降の文章に関しては、改めて東夷伝の初めにある「魏書高句麗伝」に戻って、魏の距離単位(千里=約430㎞)を採用して著述していると考えれば、「魏志倭人伝」の読み方に一切の問題は生じません。 後は「末盧国」の位置として、壱岐(一大國)より方角は考慮せずに、約430㎞離れた適地を探せば良いことになります。 結論として「末盧国」の位置が変われば、「邪馬台国」は九州にはあり得ないことになります。

以前に書きました『末盧国は松浦近辺で正しいのでしょうか』も併せてお読みください。

http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/09/post-1cf2.html


ブログ解説者より
尚、田村邦夫氏のこれまでの記事は、右の欄にあるカテゴリーの田村邦夫の部屋をクリックして頂きますと、そのすべてを読むことが出来ます。


 原稿には、一大国と、九州北岸にあるとされる末廬国、伊都国、奴国が見える地図が添付されていましたが、
新しいコピ器ーに買い換えてから、これをブログに載せれなくなりました。 ご自分の地図で、壱岐と北九州が載っている地図で、位置関係を確かめてください。

H25.12.29 訂正の以来がありましたので、訂正しました。

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2013.04.16

邪馬台国?

邪馬台国? 一体どう読めばいいのでしょうか。 もしこの言葉を華南弁(呉音)で発音すれば「やまだいこく」、華北弁(漢音)で発音すれば「じゃばたいこく」となります。 「やまたいこく」は華南弁と華北弁の重箱読みになっています。 ところで魏志倭人伝においては「邪馬台国」とは全く表記されていません。 正確には「邪馬壹国」となっているのをご存知でしょうか。 「壹」は「一」の旧字体です。 もし「邪馬台国」を探すとすれば、後漢書倭伝において、「邪馬臺国」続いて振り仮名として、案今名邪摩惟音之訛也、と記されているのです。 ここで「臺」は「台」の旧字体です。 しかも多分「やまと」と読みますと書かれているのです。 しかし現在ではどこで間違ったのか解りませんが、(魏志倭人伝に書かれている邪馬台国)と呼ばれています。 古田武彦が著した「邪馬台国はなかった」という本がありますが、魏志倭人伝を問題にするのであれば、「邪馬台国」とは書かれていなかったということです。 
ここでさらに詳しく「邪馬壹国」の文字について検討してみます。 魏志倭人伝を著したのは晋の陳寿ということですので日常会話では華北弁でしゃべっていたはずです。 すると彼は華北人でありながら華南弁表記の「邪馬壹?国」を知っていたことになります。 彼は何故華北弁表記ではなくて華南弁表記の漢字を使用したのでしょうか。 何故かといいますと、1世紀、2世紀頃の倭列島には、各地を往来する目的を持った多くの華南人が渡来しており、訪問先の地名等の記録を必要としたために、倭人の話し言葉を華南弁漢字で表記した地名や人名等が固有名詞として定着していたということです。 実際に奈良時代以前に於いて、倭列島で使用された言葉の漢字音表記は殆んどの場合に華南弁に因っており、現在でも日常用語として(例:数え方、県名等)使われています。 このように考えれば、陳寿は「やまと」の音を、華南弁表記による漢字で覚えていた「邪馬」と、取りあえず使用した「壹」を合わせて書いてしまったのではないでしょうか。 何故「壹」を用いたかと云いますと、「一」の字は魏志倭人伝の中では「一大国」として文字に意味を持たせる場合に使用されていますので、ここで用いられた「壹」は意味を持った「いち」の二音ではなく、倭言葉の一音であるはずです。 私は、陳寿が「壹」の字に「豆」の字が含まれているために華北弁で「とぅ」と読める(華南弁では「づ」)、と考えて使用したと考えてみました。
 田村 邦夫
2013.4.15

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2013.02.14

魏志倭人伝(大作冢、徑百餘歩)の謎解き

魏志倭人伝の末尾近くに、大作冢徑百餘歩、と記されています。 これは通常、卑弥呼のお墓の大きさと理解されており、百余歩は魏の長さの基準を採用すると約150mに相当することが定説になっています。 ここで謎解きに入りますが、魏志倭人伝を著したのは晋の陳寿であるということを頭に入れてください。 当然、陳寿には、三百歩が一里という換算表も、暗黙の了解事項として頭に入っていると考えなければなりません。 即ち、ここで一里は約430mと考えてみますと、百里は約43Km、千里は約430Kmということになります。 
魏志倭人伝を後の方から目を通していきますと、百余歩を含んでどこまでが魏の距離基準で記されているのだろうかということに興味が湧いてきます。 百余歩に続いて距離に関する数値を含んだ文章が著されているのは、參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里、です。 この文章を、倭地(本州島)は一周約2500Km~3000Kmの島であり、船で回ることが可能である、と解釈すれば非常に詳しく本州島のことを知っていたことになります。 続いて距離表現のある文章は、又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里、ですが本州の南2400Km位にあるグアム島等を考えればいいでしょう。 さらに続いての距離表現のある文章は、女王國東渡海千餘里復有國皆倭種、ですが女王国のあるところを吉備(西大寺近辺)とすれば、瀬戸内海を東に渡って400Km~500Kmには大和も東海も含まれており、正しい表現になっています。 
続いての距離表現のある個所は、自郡至女王國萬二千餘里、ですがここで自郡とは帯方郡を意味しています。 この文章は中間に入れられた説明文ですので、魏の距離基準とは無関係と考えます。 この理由によりここでは帯方郡を起点とする距離基準が用いられていると考えて、千里は約75Kmとすれば、萬二千余里は約900Km、吉備にあるとした女王国にぴったりです。
次にある距離表現は、東南至奴國百里官曰 馬觚副曰卑奴母離有二萬餘戸東行至不彌國百里、です。 魏の距離基準を用いて奴国は東南約40Km、不弥国は東約40Kmと考えてみます。 さらに次に出てくるのは、東南陸行五百里到伊都國、です。 この文章も東南方向へ歩きだして伊都国まで約200Kmと考えてみます。 どこからという方角に関しては後程説明いたします。 ここでやっと、又渡一海千餘里至末盧國、が出てきます。 この文章に疑問点が多いのです。 即ち、末盧國を松浦近辺に比定しますと壱岐から南に見えているのに方角は記されておらず、しかも距離は30Km位しかないのに千余里と記されています。 壱岐より松浦へ向かうには強い海流に向かっての航海です。 何故いきなり北九州方面に向かわなかったのでしょうか。 
末盧國を境港近辺に比定しますと距離は魏の距離基準で千余里,即ち壱岐より約400Kmであり、方角は不明だったのですが海流に乗れば行き着くわけです。 陳寿は、末盧國が倭人の国の入口と考えたのです。 それ故に魏志倭人伝に記された末盧國以降の国々については、末盧國を起点として、伊都国は歩いて向かうため「到」、その他の国々に関しては単にあるという意味で「至」が用いられているのではないでしょうか。 距離、方角ももちろん末盧國が起点です。 この説明によりますと魏志倭人伝に於ける距離、方角に関しての変更は不要です。


ブログ管理人より
 今回のお話は、素晴らしいものだと思います。皆さんは、どのように思われますか。賛否どちらでも、感想を戴ければ、嬉しいです。

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2012.09.24

末盧国は松浦近辺で正しいのでしょうか

魏志倭人伝における邪馬台国の位置を読み解くにあたって、前提条件として末盧国と伊都国の位置は確定と云うことで扱われています。 しかし、何故確定なのかを述べている文章には出会ったことがありません。 

以下に末盧国を松浦に比定した場合の疑問点を挙げてみます。 
1. 一大国までは国の面積が述べられていますが、末盧国以降には述べられていません。 
2. 対海国より一大国に向かうには、又南渡一海千余里、と著されており方位、距離共に記されていますが、一大国より末盧国に向かうに当たっては、又渡一海千余里、とあるだけです。 壹岐島から松浦は南方に見えており、直線距離では五百里位でしょう。
何故方位は記さず、間違った距離を記したのでしょうか。 さらに海流を考えれば、松浦から壹岐島には渡ることが出来ますが、壹岐島からであれば糸島の方に渡海するのではないでしょうか。 伊都国が、郡使往来常所駐、と書かれる位に重要な国とすれば、何故直接伊都国に向かって渡海しなかったのでしょうか。 
3. 末盧国の「末」の字は2音で発音されます。 朝鮮半島より見た場合の呼称だとすれば、「末」の字には意味が含まれていないでしょうか。 ここで、馬韓伝、弁辰伝を見ていただきますと、「盧」の字の付いた国名は、速盧不斯国、莫盧国、離牟盧国、狗盧国、駟盧国、萬盧国、捷盧国、牟盧卑離国、瀆盧国、斯盧国の10国も出てきます。 
何か「盧」の字にも意味が含まれているように考えられます。 「斯-末」は日本列島に渡るための出港地、目的地だとすれば面白いです。 末盧国が日本列島の玄関口と考えれば、以降に著された国名は末盧国を起点にしていることになります。 
4. 万葉集では松浦は麻都良で出てきます。 伊都国の読みですが、古事記、日本書紀に於いては、・・・伊都・・・と記されている場合には全て・・・いつ・・・と読むことになっています。 

以上の疑問点を解くに当たって、帯方郡から一大国までの領域は朝鮮半島で用いられていた短里(千里=約75Km)を採用し、その他の領域例えば魏から高句麗及び一大国からの日本列島では魏の距離単位(千里=約430Km)を採用して魏志倭人伝が記述されているとすれば、以降に述べられた国々に対する説明に困りません。 なお、末盧国は一大国より千余里の、境港の北岸とすれば、浜山海居草木茂盛行不見前人、と記された岩浜があり良港もあるところで最適です。 松江は以後に末盧国から類推されて付けられた地名と考えています。 

地名は二地点以上を往来する人々に重要なものです

地図 ダブルクリックで 大きくなります。

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2012.06.17

魏志倭人伝の謎解き Ⅲ

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今までに三編の報告書を書きましたが、距離基準という根本問題の理解をしていただけないようですので再度書き改めてみます。 過去に数多く出版された魏志倭人伝に関する著書、レポート群では、倭人伝が著された当時の日本列島に関する情報だけを利用するのではなく、以降に知り得た知識を加えた視点で著述されています。 三国志はAD290年頃に晋の陳寿により著された書物です。 魏志倭人伝は、その中に含まれているほんの一部分なのです。 ということは、三国志に著されている内容は、恐らく当時洛陽にいた陳寿が、司馬遷により著された「史記」を見習って、各地の情報を集めて書き残したものでしょう。 洛陽で書かれたことを前提にしますと、三国志では一部の例外部分を除き、全編にわたり魏の距離基準が採用されていると考えなければなりません。 
 例えばアメリカで発行された日本への旅行書を考えてみます。 ニューヨークからロサンジェルスまでは当然マイルが距離基準として使われています。 多分、東京までの距離もマイルが使用されているでしょう。 ところが東京に到着した後、横浜とか大阪までの記述ではKm単位になっていると思います。 何故だか理由はお判りでしょうか。 距離などは現地の単位を採用しないと道を尋ねることもできません。 この例の場合にはマイルとKmという距離基準の表記が異なっていますので誤解を生じません。 しかし魏の「里」と朝鮮半島の「里」では、文字は同じですが距離基準が異なっているのです。 又、同一の場所の地名でも、見る人の立場により表記が変わってきます。 上記旅行書では、国名にしても日本(NIHON、NIPPON)ではなくて、JAPANになっているはずです。 何故問題にしないのでしょうか。 最近韓国ではありとあらゆる方法で、世界地図上の日本海(SEA OF JAPAN)を、東海(TONHE)に書き替えようと画策しているのをご存知でしょうか。 地名はどうでもいいというものではないのです。 
 再び三国志に戻ります。 三国志東夷伝にはまず、高句麗の条があり、高句麗在遼東之東千里、で文章が始まっています。 高句麗は遼東半島の東、千里に有りますということで、ここでは魏の距離基準、一里=約430mを採用しても千里=約430Kmとなり異論は出ないと思います。 続いて表された数値では、高句麗の面積に関して、方可二千里、と書かれており約850Km四方と考えても違和感はありません。 ところが次の東夷伝馬韓の条を見ますと、韓在帯方之南東西以海為限南与倭接方可四千里、と書かれています。
もし同じ魏の距離基準を採用しているとすれば、馬韓の面積は高句麗の面積の4倍ということになります。 ここで重要なことは、朝鮮半島の情報に関しては、陳寿が採用した魏の距離基準ではなくて、現地に詳しい役人の報告通りに記載しているわけです。 従って東夷伝馬韓の条では朝鮮半島の距離基準、一里=約75mを採用する必要が生じます。 上記に引用した馬韓の条に記された、方可四千里は、約300Km四方となり朝鮮半島南部の現状に適合する大きさです。 
 続いて東夷伝倭人の条を読んでみます。 距離の表現を持った最初に出る文章は、従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里、です。 千里=約75Kmで計算すると、帯方郡より現在の釜山の南にある巨済島の辺りまで海岸沿いに約520Kmとなり適合するのではないでしょうか。 さらに続いて、始度一海千余里至対海国・・・・方可四百余里、・・・・又南渡一海千余里・・・・至一大国・・・・方三百里、という文章がありますが、75Km余り・・・30Km四方・・・75Km余り・・・22Km四方となり不都合は生じません。 ここで注意が必要なのは対海国(たいかいこく)、一大国(いちだいこく)という名称です。 朝鮮半島ではこのように呼んでいたわけであり、間違いではありません。 対馬)、壹岐は日本列島に居り、地名を必要とした人々(いわゆる弥生人)が使用した名称であり、うまく該当すると思った方がいいわけです。 一大国ですが壹岐には長崎県で最大の平野があるのです。 一応ここまでが帯方郡にいる役人の管轄領域と考えられます。 何故かと云いますと、続いて書かれている文章、又渡一海千余里至末盧国、には距離は書かれていますが方位は書かれていません。 ここからは自分の知っているのは距離だけですと言っている感じがあります。 目の前に見えている場所までの距離(しかも間違っている)は書きながら、方位は未記入ということがあるでしょうか。 即ち、以降の文章では再び魏の距離基準に戻っていると考えれば辻褄が合います。
現在では全ての文献において、末盧国は松浦に確定ということになっています。 しかし、松浦は壹岐の南約40Kmに位置します。 比定するには、はっきりと南に見えている松浦を何故、南と書かなかったのか、わずか40Km位の距離を何故、千余里と書いたのか、末盧がどのような変遷を経て、麻都良⇒松浦と書かれるようになったのか、答える必要があります。 なお、日本書紀、古事記を見る限り、「都」は「つ」と読まれています。
白紙地図に戻って、末盧国を現在の境港の北岸にあったとすれば、末盧国以降の文章を説明するのに都合が良くなります。 一大国より末盧国までの距離は約400Km(千余里)ぐらいです。 魏志倭人伝の謎解きに記したとおり、現地は砂浜ではなく岩浜なので人影も無かったでしょうし、上陸するのには良港があります。 末盧国等、魏志倭人伝に記された国名は、邪馬壹国を含めて全て魏、もしくは朝鮮半島で呼び慣わされた呼称だと考えます。 さらに末盧国の名称に対する疑問については、魏志倭人伝の謎解きに書いた通りです。 誰が何の目的のために国名、地名を必要としたかということを説明する必要があるのです。 私は朝鮮半島から日本列島に何らかの物資を求めて人々が訪れていたと考えます。 魏志倭人伝には、帯方郡より女王国(岡山の西大寺近辺、古都)まで萬二千余里と書かれています。 ここでは帯方郡からの距離を論じられていますので、朝鮮半島の距離基準を用いますと約900Kmとなり、正しく知っていたことになります。 日本列島の情報として、本州が周囲約五千余里(2000Km余り)の島であるのを知っていたのも驚くべきことです。 あと一つ付け加えますと、魏志倭人伝の最後の方に、大作塚径百余歩、という文章が有りますが、ほとんどの専門家は魏の距離基準(一里=三百歩=約430m)を暗黙のうちに採用して、直径約150mと云っています。 何故、ここの説明には理由なしに魏の距離基準を採用するのでしょうか。

 ここからは私の独り言です。 
 魏志倭人伝は、後漢が滅んだ後に魏が日本列島の征服を企てていた証拠の情報記事であり、単に邪馬壹国を目的地とした旅行記事ではないと考えます。 日本列島にはまず苗族が気候寒冷化によりBC1000年ごろに移動してきました(初期弥生人)。 続いて晋、前漢の中国統一により追われた人々が、BC200年頃に水稲、養蚕技術を携えてやって来ました(中期弥生人)。 主に越人であり、天照大御神の一群と考えます。 朝鮮半島からも移住して来たでしょう(須佐之男命)。 水稲とか養蚕に関連のある地名は本州全域で大量に見出すことができます。 その後に来たのが、環濠集落に住んだ人々=渡来人(占領軍)=後期弥生人(後漢人)と考えれば、当時の情勢を説明しやすくなります。 例えば、華南弁(呉音)が日本列島に行き渡った理由も、苗族、越人、呉人(後漢の人々)が日常に使っていたと考えれば納得できます。 絹の集積をしていた呉人は、越人とは仲が悪かったために環濠集落に住まざるを得なかったわけですし、日本各地の土器が環濠集落で発掘されるのも当然です。 船はBC2000年頃には相当の進歩を遂げていたようです。 魏は内陸国であり船に関しては相当遅れていたのではないでしょうか。 後から日本の占領を狙った魏と、吉野ケ里等日本の各地に環濠集落を作り住んでいた後漢と、水田稲作をしていた中期弥生人が、日本列島で戦争をしていたと考えればどうでしょう。 魏志倭人伝には、官、副官の名前が書かれていますが、進軍の際の交渉すべき担当者名として必要な情報です。 女王国と伊都国との関係など、何故旅行記に必要なのでしょうか。 日本列島で呼び慣わされた地名とか、とりあえず書く必要のあった人名に用いられた文字、例えば、邪またいこく、卑みこ等 見下していると思いませんか。 これ等の文字が使われていれば、魏にとって敵国、あるいは敵国人だと考えれば納得できます。 もし友好的であればこのような文字は採用しなかったと思います。 征服する目的ですから、各地の戸数、風俗、それに軍隊の上陸地である末盧国を起点としての距離、方位が必要なのは言うまでもありません。 特に侵攻目的国への距離ですが、軍隊を末盧国に上陸させた後での必要日数等を示しています。 例えば投馬国には、軍事物資を持って日野川を遡り、高梁川を下るために水行二十日必要なのです。 金印とか銅鏡百枚とか記されていますが、卑弥呼を買収できると考え、各地で卑弥呼の軍の大将に与えるための戦略物資だったのでしょう。 しかし卑弥呼は買収されなかったために殺されました。 卑弥呼しか開くことの出来ない封印付の書類の内容を、使者が知っていたのはおかしなことです。 魏志倭人伝の後ろの方に、 詔賜倭難升米黄幢付郡假授、 黄幢という文字が出てきますが、黄色の旗を意味します。 これは皇帝が与えた軍旗のことであり、難升米を大将としての戦争開始を意味しています。


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2012.04.23

伊都国

華南弁(呉音)表記    

華南弁表記が日本でどれ程行き渡っているのかを知っていただくために、まず都府県名を調べてみました。 最初の訓みが華南弁、続いて華北弁(漢音)を表します。

群 ぐん :くん  馬 ま  :ば   京 きょう:けい  岐 ぎ  :き
賀 が  :か   都 つ  :と   兵 ひょう:へい  和 わ  :か
奈 な  :だ   

ここでは華南弁、華北弁とも同じ訓みの漢字は省略させていただきました。 福島、群馬、東京、神奈川、福井、岐阜、愛知、滋賀、京都、兵庫、奈良、和歌山、徳島、高知、福岡、佐賀、には華南弁、華北弁の訓みが含まれていますが、以上のうち京都の「都」だけが華北弁表記です。 ここには記されていない青森、大阪等の府県名と、上記都府県名に含まれる、島,神、川、井、良、山、岡、等の残りの漢字は全て訓読みで表記されています。 
続いて他の重要と思われる漢字も拾ってみました。 以下でも、三,四、五、火、水等の華南弁、華北弁共通の訓みの漢字は省略させていただきました。

一 いち :いつ   二 に  :じ    六 ろく :りく   七 しち :しつ 
八 はち :はつ   九 く  :きゅう  十 じゅう:しゅう  百 ひゃく:はく
万 まん :ばん   上 じょう:しょう  下 げ  :か    右 う  :ゆう
内 ない :だい   外 げ  :がい  南 なん :だん  西 さい :せい 
赤 しゃく:せき   黄 おう :こう   青 しょう:せい   緑 ろく :りょく
白 びゃく:はく   父 ぶ  :ふ   母 も  :ぼ    兄 きょう:けい
弟 だい :てい   妹 まい :ばい  日 にち :じつ  月 がち :げつ
木 もく :ぼく    金 こん :きん  土 ど  :と    年 ねん :でん 
時 じ  :し     神 じん :しん  社 じゃ :しゃ   寺 じ  :し 
祭 さい :せい   仏 ぶつ :ふつ  教 きょう:こう   宗 しゅう:そう
手 しゅ :しゅう  足 そく :しょく   目 もく :ぼく   耳 に  :じ 
鼻 び  :ひ    口 く  :こう    頭 づ  :とう   毛 もう :ぼう
米 まい :べい  豆 づ  :とう    麻 ま  :ば    田 でん :てん


まだまだ有りますが華南弁の発音で表記される漢字の方が、華北弁の発音で表記される漢字よりも、生活に密着して使用されているのをご確認ください。 元々日本列島に住んでいた人たちだけでは、これ程までに華南弁が行き渡るとは思われません。 いつの時代かに多くの華南弁を話し言葉とする人々が、日本列島に到来したと考えると説明は簡単です。
 なお、朝鮮半島では 神社は(しんしゃ)、○○寺は(○○さ)、地図は(ちと)と発音されるように華北弁がより行き渡っていたのではないでしょうか。

参考までに平仮名あいうえおの漢字語源も記しておきます。
(安 あん:あん)(以 い:い)(宇 う:う)(衣 え:い)(於 お:よ)
(加 か:か)(幾 き:き)(久 く:きゅう)(計 け:けい)(己 こ:き)
(左 さ:さ)(之 し:し)(寸 すん:そん)(世 せ:せい)(曽 ぞう:そう)
(太 たい:たい)(知 ち:ち)(川 せん:せん)(天 てん:てん)(止 し:し)
(奈 な:だ)(仁 にん:じん)(奴 ぬ:ど)(祢 ねい:でい)(乃 ない:だい)
(波 は:は)(比 び:ひ)(不 ふ:ふ)(部 ぶ:ほ)(保 ほ:ほう)
(末 まつ:ばつ)(美 み:び)(武 む:ぶ)(女 にょ:じょ)(毛 もう:ぼう)
(也 や:や )(由 ゆ:ゆう)(与 よ:よ)(良 ろう:りょう)(利 り:り)
(留 る:りゅう)(礼 らい:れい)(呂 ろ:りょ)(和 わ:か)(遠 おん:えん)


如何でしたか。 ここで魏志倭人伝に記されている伊都国に移りたいと思います。 その前に前回に問題として取り上げた(やまと)の漢字表記としての、「日本」と「倭」について気が付いたことを記しておきます。 日本書紀、巻第一、第四段に初めて 廼生大日本 日本此云耶痲謄下皆效此 豊秋津洲 と振り仮名が出てきて、「日本」を(やまと)と云うように指示しています。 ということは、当時、「日本」は新しく導入しようとした国名であり、書物を読む人々にとっても、振り仮名を必要とする文字であったということです。 古事記には「日本」表記が無くて、日本書紀には200回以上見出される理由もはっきりします。 さらに男性の名前には日本が用いられ(例:神日本磐余彦天皇)、女性の名前には倭が用いられている(例:倭迹迹日百襲姫命)ように思います。 日本書紀もやまと書紀と呼ばれていたのではないでしょうか。 また、巻第三には 倭国磯城邑、曰虚空見日本国矣 と出てきますが、ここでも小さな領域の「倭」と、大きな領域の「日本」を使い分けているように思われます。

日本書紀、巻第一、第六段には 臂著稜威之高鞆 稜威此云伊都 と振り仮名があり、稜威を(伊都)と読むように指示しています。 さらに読み下し分では(伊都)を(いつ)と読んでいます。 日本書紀、巻第六では 意富加羅国到干穴門時其国有人名伊都々比古 と書かれており伊都々比古を(いづつひこ)と読み下されています。 日本書紀、巻第八に於いては、筑紫伊覩県主祖五十迹手 と出ており「都」の字は使われておりません。 即ち日本書紀においても「都」は(つ)と読まれているわけです。 伊都国を(いとこく)と読むのであれば、帯方郡の連絡者が命名した地名と考えるべきです。 しかも都の意味を持たせていると思います。 日本列島では○○国の訓みは、(○○のくに)となり、(生まれはどちらのくに?)という風にも使えるはずです。 邪馬台国を(やまたいのくに)とか(やまたいの生まれ)とか言えますか。 日本では多くの場合、国は郡を意味しているようです。 このような理由により、伊都国は(いつのくに)と読むべきです。 現在の地名で当てはまるのは出石とか舞鶴ではないでしょうか。 出石は伊都志と書かれる場合があります。 どちらでも魏志倭人伝の謎解きIに述べた末盧国の日向より東南に歩き始めて五百里余(約200Km)です。 もし伊都国という地名が帯方郡よりの報告者の命名であれば、大江山の近傍を当時は伊勢(現在は元伊勢)と呼ばれていたことでもあり適合します。

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2012.03.29

魏志倭人伝の謎解き II

はじめに 
『魏志倭人伝の謎解き II 』は、ブログ管理の私あてに、頂いた私信です。 これを参考にして、私の勉強を充実させてと思っていましたが、なかなか、進みませんので、掲載させていただくことにしました。 読者の皆さんで、発展させれる部分がありましたら、参考にしていただければと思います。
添付されていました地図は、最後に貼り付けました。 上の黄色に囲ったところが、末廬国です。 拡大できます。


この前の謎解きの続きです。 地図を添付しておりますが、この地図は最新情報を用いて説明するほうが理解して頂き易いと考えて、昭文社の中国道路地図(2010年版)の米子近辺を合成させていただきました。 今後のこともあり、歴史等も併せて楽しむのであれば購入をお勧めします。
前回、筆者が想定した末盧国の位置は、境港市の対岸にある日向浦、福浦と表示されている一帯です。 また、前回述べましたように「末盧国」が朝鮮半島から見て付けられた呼称としますと、魏志倭人伝における日本列島の起点は末盧国としても良いと考えます。 古代の地名は2地点を往き来する人に取っては、経由地情報を含まないほうが重要と考えます。 
魏志倭人伝では末盧国に続いて、東南陸行五百里到伊都国、という文章がありますが、今回は起点という考えにより伊都国を飛ばして次に出る文章、東南到奴国百里、を追いかけてみます。 添付した地図の南のほうに南部町と表記されていますが、すぐ左に倭(やまと)という地名があります。 こんな地名がまだ残っているのです。 この近辺は明治時代には大国村と呼ばれていました。 倭から西には青垣山も見つかります。 倭から東北すぐに会見(えみ)という地名があり、近くの三崎、諸木(みもろ)を東にたどりますと大山の中腹に大神山神社があるのです。 また、会見の辺りは明治時代には手間村となっており、この地図には表記されていませんが手間山の麓には赤猪岩神社もあります。 さらに地図の右上、淀江の近くに小波という地名がありますが、この辺りは明治時代には大和村(やまと)と呼ばれており、三輪神社、大神山神社(冬社)も残っています。 奴国は末盧国の東南百里ですのでこの辺り一帯が最適地です。 なお「奴」は華北弁では(ど)、華南弁では(ぬ)と発音されています。 「漢委奴国王」の奴国であり、日本列島で最古の国ではないでしょうか。 ついでになりますが、「金印偽造事件」幻冬舎新書という本が最近出版されており、95%偽造という結論を著者の三浦佑之氏は導いておられます。 古事記では、八上比売の物語の最後に、於高天原氷橡多迦斯理而居是奴也、と書かれており「奴」という土地を示しているのではないでしょうか。 古事記に書かれている神話が地名、神社名を辿ることにより奴国に結びつくように思いませんか。
 
問題:倭の文字が古事記には66回、日本書紀には181回、大和(やまと)の文字が古事記には0回、日本書紀には215回出ます。 ほとんど同時に出来た書物ですがどのように解釈すればいいのでしょうか。

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