2011.04.07

シルクロードは日本(8)

正倉院には沢山の錦織がある。これはげんざいの技術でも、簡単にまねが、出来なかったと述べた。
 この織物については、げんざいではカーボン14を使用すれば、年代は正確に分る筈である。しかし絶対的な年代が公表されているのだろうか。公表して都合が悪いだろうと、素人はカングリたくなる。
 今一つ年代が分るのはイランのカットグラスである。これ位素晴らしいカットは誰でもが簡単に作れるものではない。従って、長期間、例えば何百年もイランて、作り続けたとは考え難いのである。
 このカットグラスは中国では出土例がないと書かれている。(杉山著 〝正倉院〟)
 カットグラスを持った壁画が、千仏洞に画かれている以上、カットグラスはカイロでなしに陸路を運ばれたと考えるべきだろう。
 〝河を忘れた古代史〟の西域、雲南ルートがあれば、遣唐使は中国の、骨とう店で買わなくてもすむ。唐の皇帝は西域の品をわざわざ中国の土産に、くれる筈はないのである。


第13話 建国の日は正しかった  55ページ より


上に書いてある〝河を忘れた古代史〟は、次で読んでください。
倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-3
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/05/3-3-b851.html

|

2010.10.23

又有裸國黒齒國復在其東南(2) 魏志倭人伝

前回、又有裸國黒齒國復在其東南 魏志倭人伝
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2010/10/post-8cb3.htmlを書きましたが、この部分は、判ったにしても、日本の歴史を考える時に、役に立ちません。
 本当は、役に立ちます。例えば、中国に海南島があります。ここは、紀元前後には、中国の支配地ではありませんでした。
 尖閣戦争資料編 苗族 http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/1832969/に、当時の地図を掲載しておきました。

 少し、見難いですが、海南島、その上の雲南省、四川省、福建省、台湾は、白くなっています。この地域は、現在は、中国が、自分の領土だと云っていますが、殆ど、領土ではなかったことが判ります。
 だれも、賛成して頂けませんが、雲南省からは、多くの人達が、紀元前にやってきました。そして、稲作を持ってきたと推理しています。海南島からは、古事記に掲載されている少名毘古那命が帰って来て、養蚕と薬の知識を伝えたと考えています。
 この海南島を占領したのは、前漢の武帝の時代(紀元前100年)に珠崖など2郡がおかれたとされています。その後、漢人官吏の搾取に対する抵抗が絶えず、Bc82年に[イ詹]耳郡が、Bc46年には珠崖郡も放棄されたとされています。(この辺り、自信がありません)

 WEBで読んだ範囲では、この時に、既に、厖大な軍隊を船で移動させていますから、中国の船の技術は、相当なものであったと思われます。 
 是は、多くの人を運ぶことが出来た例になります。
 所が、魏志倭人伝には、「又有裸國黒齒國復在其東南」の記述があり、そこまで、一年掛けて、帰って来た話が書いてあることになります。
 
 では、本当に、一年も掛けて行った所に、裸國黒齒國が有ったのかと云うことになります。

|

2010.10.01

又有裸國黒齒國復在其東南 魏志倭人伝

魏志倭人伝に、侏儒国・裸國・黒齒國の事が書かれています。この3つの国の事は、良く解らないらしく、人それぞれです。しかし、皆さん果敢にアタックして居られます。

邪馬台国を行く(侏儒国)
http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/yamai08.htm

黒歯国・侏儒国は本当にあったのか
http://www.inoues.net/mystery/kokusikoku.html

『よみがえる魏志倭人伝』
http://wakokujyoou.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-433a.html

読み比べてください。
『よみがえる魏志倭人伝』には、次のような原文を掲載して、見事に説明して居られます。
原文
・ 女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
・ 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里
・ 又有裸國黒齒國復在其東南
船行一年可至
このページの筆者は、上の原文を掲げ、〔復〕と〔又〕は読み変えなければいけないと書いて居られます。その通りだと思います。

そして、次の様な解釈して居られます。
復の本義は「往来」ということなのである。又はその代替詞であるからそのまま「往来」の意となる。
従ってこの部分の訳は、
・ 女王国の東、海を渡ること千余里にて往来ある国に至るが、これらはみな倭種である。
・ また侏儒国もそのひとつであり、その南にある。人のたけ三、四尺である。女王からは四千余里離れている。
・ 裸国・黒歯国も往来の有る国々の倭種である。その東南船行一年で至るであろう。
即ち、原作者は侏儒国、裸国、黒歯国といった倭種の国々とよく行き来している、ということを強調したかったのである。

侏儒国、裸国、黒歯国は、何処にある国かとなりますと、百人百様の感がありますが、結局解っていません。
『よみがえる魏志倭人伝』
の作者も出だしは良かったのですが、次第に研究にはまり込んで、ご自分は理解して居られるのですが、どうして、このような事が魏志の国の歴史書の倭人伝のところにかいてあるかということは書いて居られません。

|

2010.09.27

魏志倭人伝と「自女王國以北」(2)

魏志倭人伝を翻訳された石原道博という方は、岩波文庫の訳本の43頁に置いて次のように書いて居られます。
斯馬國以下、奴国(重出) にいたる二十一国は不詳。九州説と大和説とではその比定もことなるし、又音の似たような国名、地名などみだりにあてても意味をなさない。例えば斯馬を志摩とあるいは櫻島としたり、・・・・。

例えば斯馬を志摩とあるいは櫻島としたり、・・・・。などは、
 当たり前でしょう。 邪馬台国を九州説と大和説などと考えていますと、当てはまる地名は無いでしょう。
 「自女王國以北」は、 難升米から聞いたことを元にして、陳寿が書いたと思われます。難升米が、日本の地名を聞いて、中国風に発音して、陳寿に伝えたでしょう。当然、漢字等は、一致する筈も有りません。
しかし、「音の似たような国名、地名などみだりにあてても意味をなさない」と一笑に付すべきものでもないでしょう。

 田村誠一氏は、『ヒルゼン古事記』という本に、「自女王國以北」の国名を書かれました。
これが正しいわけでもなんでもありませんが、成る程と思われるものが中に有ります。

ヒルゼン古事記  一大率 page—53
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/09/page53-e40b.html
 斯馬---須磨、 己保子---網干、 伊邪---伊和、姫路
都支---出石、 弥奴---美の、好古都---香登、カガト
不弥---? ? 、 姐奴---竜野? ? 、対蘇—千草? 、蘇奴---曽根
呼邑---赤穂? 、華奴蘇奴---相生? 、鬼---三木、為吾、鬼奴---? ? 、
邪馬---山崎、躬臣---? ? 、巴利---播磨、 支惟---宍栗、烏奴、--有年
 これらの国は、舞鶴国が統治していました。 ヤマトの女王国の東に千里(450キロ)海を渡った所に倭の種族の国があったと書かれ、これが近畿にあたります。

上に記しましたように、ヒルゼン古事記の53頁のものです。この前に、1頁から全部掲載しました。探してお読みください。先日、有年から赤穂まで、古墳を訪ねて走ってきました。 有年原のクルミ遺跡などどうして、このような大きな古墳がいっぱいあるのだろうと思っていましたが、
 伊邪---伊和、鬼---三木、烏奴、--有年は、これまでに行きましたが、すべて、関連してきます。
 もういちど、魏志倭人伝を見直しても良いと思います。
 
現在、【但馬の歴史】と題して、http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/1797271/
に70回書いています。この辺りは、魏志倭人伝で云われています伊都国であることが次第に感じられるようになっています。
 卑弥呼の時代に、既に、伊都国は、中国の人に、支配されていたことが分ります。その後、益々、支配を受ける事が強くなり、式内社が131社となり、現在の所、日本でトップの遺跡・古墳出土の県となっています。

|

2010.09.21

魏志倭人伝と「自女王國以北」

魏志倭人伝には、女王国より北に多くの国があると書いてあります。北九州に邪馬台国があると思っておられる方は、「自女王國以北」を無視して居られる事になります。奈良に有ると思っておられる方は、奈良より北ですと、いくらでもあります。しかし、このことを論じた人は見あたりません。

自女王國以北をキーワードにして、検索しますと、次の二つだけです。他にもヒットしますが、原文を掲載したものがヒットするだけです。
①自女王国以北と七万余戸
http://itoitokoku.hp.infoseek.co.jp/ihoku.html

②女王国より以北に、特に一大率をおいた
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page558.html
(忘れていましたが、これは私の書いたものでした)

魏志倭人伝 他の諸国のタイトルで書いたことがあるのも忘れていました。
そのまま、転載しておきます。

原文 
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁國は遠絶で、詳細を得ることができない。次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽きる所なり。その南に狗奴國有り。男子を王とする。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡(帯方郡)より女王國に至ること萬二千余里。

①女王國より以北に次の国があると列記してあります。一番北が、奴国とあります。
奴国は、米子平野だと書き、邪馬臺國は、吉備の西大寺あたりだと書きました。
【奴国~邪馬臺國】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page466.html
ということは、上に書かれた国は、岡山と鳥取にすべてあるということになります。一部が現在の地名に当てはまり、その国の特徴を現している所を、地図を眺めながら探してください。

②「其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里」は、重要だと思われます。「其南有狗奴國」の其の南とは、奴國の南です。国名は、狗奴國といい、男子の王がいて、わざわざ、邪馬臺國の支配下にはないと断ってあります。ということは、他の国は支配下にあったことでしょうか? 

③復習しておきますと、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page464.html
おいて、「伊都国」について触れました。
  「有千餘戸、世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐」とあり、ここは、岡山から遠いのにも関わらず、「皆統屬女王國」と書かれ、支配を受けていたことが判ります。

④「自郡至女王國萬二千餘里」も重要です。朝鮮半島のソウルの辺りが、魏が支配していた帯方郡です。そこから、邪馬臺國(岡山)まで、萬二千餘里とあります。一里は、ほぼ70mになります。「萬二千餘里」は、いい加減な数値とすれば、すべてが無になります。
   この70mという数字は、朝鮮の一里の数値です。「萬二千餘里」を採用しますと、九州も大和も当てはまらなくなります。陳寿は、中国と朝鮮の数値を混ぜながらつかったのでしょうか? そうとすれば、どこかにキーが隠されているはずです。

|

2010.09.16

魏志倭人伝と「倭國亂」(3)

倭国大乱の意味を取り違えたばかりに、高地性集落は、「倭國亂」があったから、全国に一杯出来たことになりました。普通に考えれば、判ることです。100ほどあった国が、何を奪い合いをして70年も戦争をしていたと云うのでしょう。

高地性集落と「倭國亂」は関係ありません。
 卑弥呼の事も、陳寿は碌々知らないのに、難升米から聞いたことを元にして、書いたのでしょう。難升米は、卑弥呼に会ったこともなかった筈です。しかし、皇帝に使いに出されたのは、どういう事情だったのでしょう。

邪馬台国になりますと、愈々、日本の学者や素人が入り乱れて、収拾が付きません。永遠に解決しないことになります。

何故、このような事になるのかと云いますと、先に示した①卑弥呼 ②邪馬台国 ③倭国乱 以外の所を読んでいないからだと思います。

例えば、
邪馬台国のことを述べた部分があります。
南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]、可七萬餘戸。

自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

邪馬台国は、大きな国ですね、このように書いてあるのに、吉野ヶ里が発見された時には、これは邪馬台国かもしれないとメディアで大騒ぎになりました。
 **************************
「吉野ヶ里」現場からの報告
 邪馬台国が見つかった         佐賀新聞社・角川書店編
******************************************************************
この本を買って、吉野ヶ里に行ってきました。
魏志倭人伝に書かれてある通りの、卑弥呼の宮殿である 「宮室・楼閣・城柵」は、見事に復元されていました。
しかし、ここには、七萬餘戸は無理です。
70000戸と云うことは、5人家族で無いと、家族は次第に減って行きますから、最低、5人は要ります。350000人の国になります。350000人の食べ物は何処で作ったのだろうと見まわしました。
 それを作る人の事は、考えておられませんでした。
吉野ヶ里は、邪馬台国で無いことは、素人でも判るのに、「宮室・楼閣・城柵」を建設しました。
 今後、どうされるのでしょう。
なにがなんでも、邪馬台国は、九州にないと困ります。生きている限り、譲るわけにいきません。
 このような施設を九州の各都市では、作ってしまいました。

 調子に乗って書いていましたら、
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。
この部分のことを書くのを忘れていました。
陳寿は、出鱈目に、書いた筈はありません。
 ここに書いてある国が、現在でも、地名として残っているとは限りません。しか、陳寿は、難升米から聞いた筈です。
 中国人の人に、読んで頂き、探る必要があります。

|

2010.09.12

魏志倭人伝と「倭國亂」(2)

日本の古事記や日本書紀は、信用置けないと思われる人が多く、中国の資料であれば、信用する人が多い様に思います。その為か、魏志倭人伝はよく引用されます。
 2000字ほどの日本に関する資料ですが、話題に上るものとしては、
①卑弥呼
②邪馬台国
③倭国乱
 この3つです。
 ① 詳しく書いてあるのに、どうして、卑弥呼のことは詳しく判らないのでしょう。
日本の女王だったのに、弟がいたことと、1000人ほどの婢がいた。おかしいですね。婢とは、賎民の召使の事でしょうか。中国人が書いたのですから、普通に考えますと、賎民だったのでしょう。兵隊とは書いてありません。

卑弥呼の姿を見たものがいないのでしょう。それなのに、どうして、〔鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす〕が分ったのでしょう。
「卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人」
この文章からは、魏の人は、卑弥呼が死んだことも知っていたし、お墓をつくるのも見ていたことになります。分っているのは、この部分だけです。
 
 ② 邪馬台国の事は、これ又、はじめから、詳しく書いてあるのに、何所にあるのかは、九州と奈良に意見が分かれています。 この問題は、いつか決着がつくのでしょうか。

 ③倭国乱です。 いつの時代でも、どこの国でも、戦争は有ったでしょう。たった三文字で「倭國亂」と書いてあるだけなのに、沢山ある国が、70~80年も戦争をくりかえし、これらの国の王は男だったので、纏まらないので、相談をして、女王を決めたと100%の人が、解釈して、納得して居られます。
 魏志倭人伝を書いた人は、魏の国の人が、日本に来て、実情を見ていたら、倭人は、70~80年も戦争を繰り返していたことを見ていた事になります。見ていなくて、70~80年の戦争の有ったことをどうして、知ったのでしょうか。

 「倭國亂」とは、倭の国の人が、中国の皇帝に反乱を企てたことを指すのだと、田村誠一氏は、指摘しておられます。その理由の一つとして、朝日新聞発行の『邪馬台国』の記事を紹介して居られます。
 魏志倭人伝では、どうして、「倭國亂」として、後漢書では、「倭國大亂」としたのでしょう。
1


2


|

2010.09.04

高地性集落の謎と倭国大乱

高地性集落の研究の創始者と云われる小野忠熈氏、其の後、森 浩一氏、佐原真と田辺昭三氏、武藤誠・村川行弘、石野博信氏らが、すべて、高地性集落と「倭国に大乱があった」が関係があったことを認めておられます。
 その高地性集落は、弥生時代で終息し、古墳時代へと移行していったのだ。高地性集落という形態の山城は、平城へと変化していった。これは、2002年当時の石野博信氏の結論の様です。
 これだけの事が揃いますと、歴史的事実と考えても良いのではないかと思えます。しかし、いくら年代から判断して、高地性集落の終焉と古墳時代の始まりが繋がるからと云っても、「倭国に大乱があった」から 高地性集落は発展し、大乱が終息したから、高地性集落はなくなり、古墳時代に突に有したという筋書きになりますと、古墳時代は、箸墓古墳のような巨大な古墳から始ったことになっています。
 高地性集落どころか、大乱は益々激しくなったと考えませんと、理屈が合いません。

 このように考えるだけでも、「倭国大乱」と高地性集落は関係無いことが判ります。
「倭国大乱」とは、どういうものかという事を
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/05/post_5a03.html に書いています。
 
リンク先を読んで頂ければ良いのですが、大切なことですので、そのまま、もう一度、掲載します。

「倭国大乱」という言葉は、魏志倭人伝とは関係ありません。范曄(398-445)が著した中国史書の後漢書に書かれている言葉です。
「桓霊間倭国大乱あり」とあります。岩波文庫の訳本では、「大乱」を「おおいに乱れる」と読んでおられます。大いに乱れるとは、どのようなことでしょうか? 例えば、5つの国が、お互いに乱戦しているのでしょうか? 国数がもっと多くて30ヶ国が乱戦ということでしょうか。僅か、1000人ほどの国が、戦いをしたことを「桓霊間倭国大乱あり」と、国家の歴史書に書くでしょうか? 
やはり、桓霊に対して、倭国が、歯向かったのでしょう。
桓帝が即位したのが、146年です。霊帝が死んだのが、189年です。「倭国大乱」があった年代は、146~189年の間であることは、確かです。仮に桓帝が20歳のときの事件だとしますと、20年ぐらい続いたことになります。166~189年のことです。
一方、朝鮮の古代史〔三国史記〕に、「阿達20年(173) 夏五月、倭国の女王の卑弥呼が使者をよこして礼物を献じた」とあります。記述は簡単で、何のために行ったか判りませんが、使者が行ったことは、確かでしょう。
もう一つの資料です。日本書紀の崇神紀65年に任那国の使者が朝貢してきた記事があります。日本書紀に書かれている年代は、確かではありませんので、何時のことかわかりませんが、崇神天皇の次代に任那があったことは確かです。問題は、朝貢してきたかどうかは、割り引いて考えないといけないと思います。日本書紀は、作者の都合の良いように書いたと思われる所が多いからです。
任那の地は、中国が日本へ軍隊を送るときの、補給地であったのではないかと思っています。崇神天皇は、卑弥呼を通じて、新羅に使者を派遣し、中国の侵略を防ぐために、
任那の地を攻略したのではないでしょうか? 
任那が倭国の国となりますと、中国軍は、補給を断たれます。そうしますと軍人に支給していた鏡は無くなります。これは、軍人が死んだときに是非必要なものです。それまで、本国から送られてきた漢鏡がなくなります。食料もなくなります。そこで、漢人の人は、山に篭城し交戦です。最後には、全滅しますが、その地には、のちに鬼ヶ山とか鬼ヶ城のような名前が付けられました。かつては、そこは、竜王山と名前が付いていたと思われます。吉備の国、福知山の鬼伝説は、このときのものでしょう。日本の記録には、四道将軍の名前を記し、崇神天皇が中国人を攻撃したことを記しています。
すべて、想像になりますが、「倭国大乱」を倭国と中国の戦争だと読めば、その後、歴史は、無理なく説明が付きます。調子に乗りますと、後漢は、倭国との戦争に負けて国が潰れることになります。それほど、絹は国の経済に重要なものであったはずです。歴史書には負けたとは書けませんから、「倭国大乱」と書きました。 蛇足ですが、  桓霊(コウレイ)間に居られた天皇と言う意味で、孝霊(コウレイ)天皇でしょうか?

倭国大乱の事は、同じ『楽しい人生』の中で、田村誠一著 〔第8話 吉備にあった漢の古墳 〕から、倭国大乱(1) から倭国大乱(9) にわたって、転載していますから、読んでください。
倭国大乱(1)**** http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/08/1-3e4f.html

|

2010.09.02

高地性集落の謎・その後

『謎の古代 京・近江』という書物は、多くの執筆者によって書かれています。その中に、森 浩一氏が、〔高地性集落の謎〕とのタイトルで文章を書かれ、高地性集落の解明が重要なことを述べておられます。
 この時、高地性集落の建設が、紀元前から、三世紀ごろまでずっと続いて、その要因の一つが、「倭国に大乱があった」ことに注目して居られる事が判ります。
 この話は、30年前の時の資料から言えることです。

今回、『邪馬台国と古墳』という本に、高地性集落に対する新しい見解が書かれていましたので、紹介します。
 著者は、石野博信氏です。
第一章 のタイトルを先に紹介します。

 第一章 倭国乱---弥生の山城と平城
  高地性集落から山城へ
  環濠集落から平城へ
  山城・平城の発生と「倭国乱」
  山城と平城の集落構造
 以上は7ページから28ページを使って解説して居られます。

タイトルを見ただけで、理路整然としているのが判ります。
① 高地性集落が発生して、其の後山城へと変わって行った。
② 高地性集落の中には、環濠を有するものが出来、この合体したものは、平城へと発展。
③ 山城・平城の発生と「倭国乱」とは、関係がある。

 以上の事の順を追って、登場する遺跡名を挙げますと、
1.山口県天王遺跡 (1950年) 防御機能あり。小野忠熈
2.山口県島田川流域の弥生集落。濠の存在。 倭国大乱と関係あり。小野忠熈。 (昭和53年書籍)
3.福岡県板付遺跡。 日本考古学協会。
4.紫雲出山遺跡。荘内半島(瀬戸内海) 55年から小林行雄。64年から佐原真。「石鏃の変質」石鏃が近畿では、弥生前期後半から大型化する。 即ち、殺す対象が人間に変わったと結論。
 其の後、佐原真と田辺昭三氏は、高地性集落と倭国大乱について、積極的に論をすすめた。
5.会下山遺跡 芦屋市・六甲山麓。56年から、武藤誠・村川行弘。

 紫雲出山遺跡と会下山遺跡の資料から、こうした高地性集落は、単なる烽火場や見張りや逃げ城だけではなく、日常生活を行っていたことが判った。これは山城であるとの結論になった様です。
 そこで、石野博信氏は、山城の変遷 –山城三段階論を展開して居られます。
 
第一段階  弥生時代中期後半---二世紀後半の日本列島列島内で、本州西端から南関東に及ぶ大きな騒乱があったことを示す。
            
第二段階  近畿地方中心に分布し、その時期は 弥生時代後期前半~三世紀中葉に限定出来る。

第三段階  第二段階の山城の分布地域には認められない。

以上は、14ページまでの論説です。
その後の展開は、次第に素人では、難しい展開になります。

石野博信氏は、第二段階が、『魏志』と『後漢書』にある「恒霊の間」(147~188年)の「倭国大乱」に相当する。
魏志倭人伝では、「倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子をたてて王となす。名づけて卑弥呼という」著名な記事につながると書いておられます。

30年前に、森 浩一氏が書かれた高地性集落は謎でしたが、ずっと、300年位続いたというのが、森 浩一氏の考えでした。

石野博信氏が書かれた『邪馬台国と古墳』は、2002年ですから、高地性集落のことは、随分、進展したことになります。

①高地性集落は、山城であった。(かって、戦争がおこなわれた)
②高地性集落には、3回ピークがあった(ピークの場所が違った)
③第二段階の高地性集落、「倭国大乱」と関係があった。

高地性集落と「倭国大乱」は、はじめに、小野忠熈氏が研究発表されて以来、どの学者も、共通していることです。
森 浩一氏が「高地性集落の謎」のその後を書きました。以上を読んで頂きますと、「高地性集落の謎」は改称した様に思われますが、『邪馬台国と古墳』を7ページから28ページまで読んで頂きますと、あまり、進展していないと云うことがお分かりになると思います。

研究された学者は、全員、日本を代表される方ですが、30年経っても、高地性集落とは、どのようなものであるかが判らないと云うことは、どこかが間違っているのではないかと思います。

高地性集落と「倭国大乱」が関係あると考えているために、ここから抜け出せないのではなかろうかと考えています。

| | TrackBack (0)

2010.08.31

高地性集落の謎

『謎の古代 京・近江』の76ページに森 浩一氏が、京滋の古墳文化というタイトルで、執筆されています。はじめに、弥生時代は、舟を重要視しなければと云う趣旨の文章を書いておられます。つぎは、〔高地性集落の謎〕と云うタイトルで、弥生時代では、見逃せないのが、高地性集落であると書いておられます。
 この集落は、字句の通りで、普通は生活出来ないところ、たとえば、高いために風が強いとか、水がないとか生活に適さないのに、集落が作られました。それも全国的に作られました。多くの場合、環濠がつくられ、明らかに、何者かから襲われた時の防御施設と思われる集落です。
 それも不思議な事に、西暦紀元前と紀元後の二回のピークがあったのですが、森 浩一氏は、西暦紀元前後から三世紀ごろまでずっと続いているのですと書いておられます。
 どうして、このようなものが、全国的に出来たかは、断言して居られませんが、
次のように書いておられます。
<西暦二世紀後半の日本列島について、「倭国に大乱があった」とほとんどの中国の歴史書は書いているのですが、よほど大きな緊張状態が続いたということが高地性集落の研究からいえるわけです>
 
 「倭国に大乱があった」と云うのは、一例を挙げますと、范曄(398-445)が著した中国史書の後漢書に書かれている言葉です。「桓霊間倭国大乱あり」とあります。
別の例は、大乱とは書いてありませんが、魏志倭人伝には、〔倭国乱れ、相抗伐すること歴年〕とあります。
森 浩一氏は、ずっと、続いたと書いておられますが、歴年とは、200年も続いた事ではないと思います。
 この高地性集落の謎の時代が続いた後に、高地性集落は無くなり、謎の古墳時代が始まるわけです。
 と云うことは、大型古墳がなくなるまで、謎の歴史が続くことになります。

この書物は、1981年4月25日の発行ですから、30年前の文章になります。
現在では、高地性集落の研究が進み、又、別の事が判っているのでしょうか。

倭国大乱のことは、何故か、〔魏志倭人伝を読む〕(私の書いたもの)
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page691.html
に書いています。倭国大乱などは無かったのではないかと今でも思っています。
これは3年前に書いたものです。なぜなかったのかの理由を書いています。

魏志倭人伝には、武器の事が書いています。
原文
兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與 耳、朱崖同。
翻訳
兵器は、矛、楯、木弓を用いる。木弓は下が短く、上が長い。竹ヤリ或は鐵鏃、或骨鏃である。(その他産物風俗の) 有無は、 耳、朱崖と同じである。

こんな武器で、200年も全国で争う訳がありません。

魏志倭人伝には、次のようにも書いてあります。
原文
種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、[糸+兼]緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與タン耳、朱崖同。(タンは人偏に澹の右の部分)
訳文
禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・ケンメンを出だす。 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。 兵には矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。有無する所、タン耳・朱崖と同じ。

この事から、倭人は桑を植え、蚕を飼っていたことが判ります。

争ったのは、この絹を巡って、中国人と倭人が争ったのではないでしょうか。

そうでなければ、中国の歴史書に書く筈がありません。

|

より以前の記事一覧