2009.12.19

屈辱の書「魏志倭人伝」(2)

中国との国交はこのあと、425年まで途絶えた。180年近く国交が断絶する様な大事件だったことに気付くべきである。
 倭の国が難升米を軍司令官にして、崇神天皇の軍隊の根拠地狗奴国すなはち、美作の久米国を攻撃したのである。
 大和の軍隊があることを忘れていた。倭人伝には、邪馬台国の東に海る渡ること千余里に国あり、と書かれている。この国が崇神天皇が居った国だった。
 大和の軍隊が出動して来たので、軍司令官を今一人増やした。率善中郎掖邪狗がこの名前である。この将軍だけは逃げ帰った。しかし難升米は殺されていたが、こんなことを正史には恥しくて書ける筈がない。
 この時には千余人が殺されたとある。これは日本側の損害である。伊都国側は物部連が主力で戦って全滅したと考えられる。
 この時死んだ中に敵将難升米が、含まれていたから、逃げ帰ったリストに書かないことで難升米の戦死を倭人伝に知らした。記録はうしろから、うらを読むべきた。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 14ページ
発行日 昭和56年6月10日

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2009.10.19

売国奴 ニギハヤヒの命(1)

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第5話 古代史と大江山  
売国奴 ニギハヤヒの命(1)
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漢書107年に倭面土国が朝貢して来たと書かれている。この時生口を160人献じたのである。生口とは中国では捕リヨのことだ。
 ニギハヤヒの命は口の上手な悪人である。しかも日本書紀ではナガスネヒコと最初は協力して、神武天皇軍を苦しめていた。神武勢が優勢と見るや神武勢に寝返りしている。
 裏で何をしているか分からない、悪人中の悪人ではないか。神武勢が分からないようにニガスネヒコの捕リヨを160人も漢に献上した。
 107年の朝貢は後漢書で、倭面土国からと書かれている。57年の朝貢と漢倭奴国王の金印を授けたことも同じ後漢書である。
 漢は倭奴国と倭面土国は別の国だったことを承知していたことになる。面土国の朝貢を認めることは、取りも直さず、奴国すなはち神武勢の討伐を援助することは、国際感覚があれば分る問題である。捕リヨを160人も献上して、兵力を誇大宣伝したのだ。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  28ページ

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2009.08.30

崇神天皇三兄妹(1)

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第8話 吉備にあった漢の古墳
 崇神天皇三兄妹(1)
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046

9代開化天皇は古事記では上の如く、若倭根子日子大毘毘命とかかれている。この天皇には御子五柱あった。
この中の御真木入日子印恵命が後の崇神天皇である。妹の御真津比売が日巫女であり、卑弥呼と魏志倭人伝に書かれた。
崇神天皇の義弟が日子坐王(ヒコイマス)で久米国王であり、同じく魏志倭人伝では、狗奴国王卑弥弓呼となっている。
 名前はこの様に同一人物が呼び名が、何様もあるので本来は統一すべきだが、分かり易い様に混ぜて使用したい。
 この当時は天孫族は玄米食で現在の健康食品だけだったから長生きだった。魏志倭人伝でも百才位で80、90才のひともあると書かれている。
この時代は食物のぜいたくなんか,無かったのである。後世になって不健康食品を食べる様になって寿命は短かくなった。
平均90才でも実に5代の親子である。天皇でも同じ宮に住むことはできなかっただろう。親せきだけで数百人に達する。

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2009.06.05

古事放談 3-8

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-8
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チベット式の数字の読み方を追求して行く内に隠岐にたどりついたのである。 この隠岐に過疎の地に犬町と犬来の地名がある。犬が来たとは珍しい地名である。参考までに目に着いた所は安来(安南から来たことだろう) 富来 (能登半島にあり近くに福浦と福ノ神族の地名があるので富来は福来すなはち雲南人が来たと考えたい) 戸来 (先に述べた様にヘブライ人--伝説ではキリスト、が来ただろう)等が見つかった。
 古代の地名のつけ方の一つである。この犬がつく地名が蒜山高原に犬挟、犬畑と二ヶ所ある。
 ここで2400年昔の中山王国の文物展を思い出した。この文物展には目をみはる美術工芸品にまじって中山王の二頭の愛犬が金銀の首輪をつけたまま展示されていたのである。
 この文物展には銅たくが14ケ音階順に並べて出品してあった。イザンギ命が移られた青海八幡市の隣の野洲町と神戸市からも銅たくが14ケ出土していたのである。
 イザナギ命は中山王国からの亡命者だった。

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2009.03.23

第四話 湖南人?  新羅人 〝邪馬台国〟 154ページ

上記文献に日本人の血液分布は、湖西省とハンガリー人にだけ見られる独特の血液分布だと書かれている。
 日本人と華南人の血液型が似ていると指摘したのはオッテンベルグや古畑種基氏である。
 赤城毅彦氏は〝古代日本人の謎を解く〟で種々の角度から華南人だと立証している。
 これに対し江上氏の騎馬民族説には納得の行く証明が残念ながら出くわさない。
 これは日本民族の問題である。丸山ワクチン式に密室で処理しないでほしい。週刊朝日の56/02/15増刊号で国民はなぜ騎馬民族なのか分った人があるだろうか。
 朝鮮経由位分かり難い説明はない。朝鮮は古代からあらゆる民族に占領されたことがある。従って朝鮮経由なら、はたしてどの民族かの説明が欲しい。
 日本に先住民が居ったのを全部殺したのであれば少人数でも、その渡来民族であってよいだろう。しかし、進駐軍が極めて僅かで血液型も変わらない位の時の民族の定義が先決だ。

私より一言---このページは、私にとっては、難問です。理解するには、丸山ワクチンのことと週刊朝日の56/02/15増刊号の内容を読む必要があります。
 DNAを比較検討するならば、理解できますが、血液型の分布のみで、日本人のルーツは、華南人であると結論付けるのは、無理でしょう。はっきりと華南人とは、どう言う人たちを言うのか、定義が必要であり、血液の検査をした人が、ここ300年ぐらい、同じ地域にすんでいたことを確かめませんと意味がありません。実験動物は、何代にも亙って繁殖させたねのを使用します。 例えば、犬であれば、どのように実験しても良いことにはなりません。雑種などを使った実験などは、なんの意味もなしません。


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2009.01.13

第四話  占領軍軍司令官  〝邪馬台国〟256頁

左記の投書は、〝邪馬台国〟に載せられていた。卑弥呼の使いとして、魏の都に行った難升米は、魏の植民地征服のための、最高指揮官に任命されたと投書は教えてくれた。
  前漢の時代に占領目的でヒルゼン高天原を設定した。57年は漢倭国王の金印をもらったのは、漢の植民地が誕生したことを意味していたのだ。小生の説に誤りはなかった。
 後漢から、魏に国が変わったので、卑弥呼は親魏王に任ぜられた。
 魏志倭人伝は倭国が中国の占領地域であることの証明ではないか。
 小生が天照大神は実在したとして展開した古代史の基本には誤りはなかったことになる。
 重要なのは、むしろ朝日新聞の態度である。
いかなる理由があるにせよ、黒田氏の投書は〝邪馬台国〟出版前に入手していたのに、一顧も与えなかった。
 占領軍か否かは邪馬台国では無視できない基本問題だ。学者優先こそ朝日の態度で、権勢におもねることは、この一事で分かる。


私より一言----上記のことで、「前漢の時代に占領目的でヒルゼン高天原を設定した」の部分は、私は現在でも、納得できない部分です。著者の田村誠一氏は、その後、古事記の最初に書かれている神々が、高天原の予備調査をし、イザナギとイザナミが国造りをしていったように、古事記の解釈をしておられます。
上の文ですと、主語は書かれていませんが、中国の前漢の人が、高天原を建設したこととしておられます。 矛盾しますが、田村誠一氏が、どのように歴史に取り組んで行かれたか、見て頂ければと思います。
では、ここに書いてあることは、間違っているのかと言いますと、大いに,朝日新聞に対して立腹しておられることが判ります。


魏志倭人伝の最初に書かれてあることは、
【倭人は帯方の東南大海の中に住み、山島によって国邑をつくる。もと百余国。漢のとき朝見する者あり、いま使訳の通ずるところは三十国】と書かれてあります。
〔使訳の通ずるところ〕とは、中国の使者と言葉が通じるところの意味でしょう。昔、漢の時代には、100余国があったが、その内、今では、占領して魏の国の者がいて、言葉が通じると書いてあります。

〔左記の投書〕の部分は次回に書きます。

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2008.12.31

第4話 古代史学の謎  その2

その2と書きましたが、田村氏が書かれたものではありません。これから私が書こうとしているもののタイトルです。
 6と7ページは見開きになっていますので、両方を比べながら読みますと理解し易いです。
6ページをスキャンして、ブログに書いてある通りにしているのですが、大きくなりません。表示を100パーセントになっていますから、200パーセントにしますと、大きくはなるですが、字がぼやけます。
 
 少し、言訳を書いた所で、この文を読んだときの感想を書きます。この冊子を息子さんから送って頂いた時に、どんどん読みました。全部理解できました。しかし、今振り返ってみますと、半分しか、判っていなかったなと思っています。
 試しに、家内に読んでもらいました。分かったかと聞きますと、そんなものだろうと。他に、なにも返事をしません。きっと、嫌な世界だなと思ったのだと思います。

 どんどん、私が解説をしますと、「お父さんのやっていることも、誰も認めないでしょうね。 田村さんも認められなかったが、お父さん(私のこと)が一人が認めたことになるね。 生きておられる間に、お会いできたら、どんなに喜ばれたか」と云いました。

樋口清之博士が、古稀を記念して出版された『大和の海原』の中です書かれた文をもう一度書きます。 古稀とは、70歳のことです。現在では、70歳くらいでは、そうめでたいことではありませんが、 お祝いをした理由が、「唐の詩人杜甫の曲江(きょっこう)詩「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」からきています。
 お祝いは、自分でするものではなく、周りの者が、お膳立てをして祝うものです。だから、『大和の海原』も多くの人が関わられたうえで、完成した本です。
なのに、博士は、次の様に書いたと坂名井氏が、『鉄剣銘百十文字の謎』の本の中で書いておられます。
 -----だいたい専門でない者のいうことが大そう、当てになるものでして、専門の人のいうことはたいへん当てになりかねる。ことに、先輩、師匠が一ぺんにいいますと、なかなかのちの人は訂正いたしませんで、もし訂正すると、師匠が死んでおりましても同門の外の師匠から、絶交されたりしまして、大変孤立しますので、つい、つきあい上、師匠のいった説を死ぬまで押し通し、また、いいがかり上、つい、やめられなくなって押し通すなどというつまらん者もおりまして、そういうことが随分多うございます。-----
 お祝いの記念誌に、このようなことを書かなくてもいいのに、書かれました。この文章は、痛烈なことを書いておきながら、あまり、痛撃さを感じさせない所があります。これは、生まれた土地柄だろうかと思い、どこのご出身かと調べる気になりました。調べると言っても、WEBで検索するだけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E6%B8%85%E4%B9%8B によりますと、凄い経歴の持ち主であらせられます。著書も多いです。奈良の桜井の出です。
沢山の本を出版されましたが、人に迷惑がかかることは、書かれなかったのでしょうか?
そこで、続けてWEB
を眺めていましたら、樋口清之博士の県別にみる日本人診断 http://www.euc.co.jp/ken/ がありました。私はもっとも、興味があるのは、三重県です。そこで、三重県の所を読んでみました。 調べないうちから、三重県を調べるのは難しいと思っているので、私が気に入らない所もありますが、思ったことは、随分、はっきりと書いておられます。「伊勢地方の人は、色は白くないが、筋肉質で楕円顔、名吉屋の人に似ている。しかしここもあまり美人を見かけないところである。」なんのことはない、先生の好みの女性が少ないだけのことでしょうに、思ったことは書いておられます。

 しかし、『大和の海原』の中では、周りの者を不愉快にさせないように、気配りの文を書いておられます。きっと、記念出版会が行われたことでしょう。なんと言っても、歴史に関係ある人がお集まりになったと思います。 その席でも、嫌われるのを承知で、おしゃべりをされたと思います。
 その時の様子でしょうか? 坂名井氏は、「こんなのは死ぬ直前につくらねば駄目なのです。生きて発表すると一ぺんにひっぱたかれますから。ぱっと発表して、ぱっと死にますと、ひっぱたきようがないから、やっぱり暗免は勝です。」と同書で述べている。

 当の先生は、70歳の時に、すぐに死ぬと思われたのでしょう。しかし、亡くなられたのは、1997年2月21日ですから、28年後で、98歳でした。
 
 今の歴史学界も、同じようなことなのでしょうか? 歴史学界に限らないのでしょうか?

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2005.12.16

其行來渡海詣中國

No37
其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。

訳文
渡海して中国に行き来するときには、恒に一人を使用する。(専属をおく) 頭の髪を梳かず、蟣を去らず、衣服は垢によごれたままで、肉を食べず、婦人を近づけず、喪に服している人のようにさせる。これを名づけて持衰と為す。もし旅がうまく行けば、人々は生口・財物を与え、もし(道中)疾病があり、暴害にあえば、直ぐに持衰を殺そうとする。その持衰が謹しまなかったからだというのである。

①「これを名づけて持衰と為す」とありますから、このような風習は中国には無かったのでしょう。
②蟣蝨(きしつ)  しらみ。
③〔不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚〕は汚いままで居る。
 〔不食肉、不近婦人〕は 汚らわしいものから離れるということでしょうか?
この二つの相反することをすることによって、困難を克服する。 何処で関連するのでしょうか?
④〔持衰〕衰退を持つ?
⑤ 念願成就すると、生口財物がもらえる。生口は捕虜だと思っていましたが、ここでは与えられるものです。

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2005.10.06

倭地温暖

No36
原文
倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飮用[竹+下に邊]豆、手食。
其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。
已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
訳文
倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べている。皆徒跣(ハダシ)である。屋室があり、父母兄弟で、異なる処で、寝ている。朱丹(赤い顔料)をその身体に塗って、中国人が粉を用いるようだ。飲食には、ヘントウをもちいて、手で食べる。
死に際し、棺があって榔がない。土で封して冢(つか)をつくる。死ぬと、まず喪を停めること十余日、(その) その時は、肉をたべない。喪主は哭泣し、他人は歌舞飲酒につく。すでに葬れば、家をあげて(家じゅう)水中に入り、澡浴をする。それは(中国における)練沐のようである。

① 以朱丹塗其身體--朱丹を以って、その身体に塗る。朱も丹も赤いことです。赤い色の顔料でしょうか? 頬紅とは違うのでしょう。だけど、こんなもの身体に塗るでしょうか? 中国でもするとありますから、まあ、いいでしょう。
② 飲食のときに、ヘン豆を用いるとあります。ヘン豆は、竹製のタカツキだと説明してあるものもありますが、正しいかどうか確かめていません。手で食べるのは、インドでは、現在でも残っていますから、普通だったのでしょう。記録したということは、中国では手でたべなかったのでしょう。
③ 其死、有棺無槨、封土作冢は、重要な記述です。棺おけはあるが、槨が無いとあります。
この記述が正しいとしますと、槨がある墳墓があれば、日本人の墳墓でないことになります。前方後円墳は、殆ど槨どころか、石槨があります。時代が5~6世紀ともなればそうかもしれませんが、それにしても、始めは、日本人でない者が、槨を作ったのを真似たとしますと、魏の国のころには、まだ、有棺無槨であったことになります。
④ 封土作冢は、当たり前のようですが、冢を作るとなると石垣のようなものがあって、初めて冢を作るの表現になるでしょう。ただ、土を盛っただけでは、冢とは云わないでしょう。(中国では、ただ土を盛っただけのものを冢というと漢和辞典にはあります)
⑤ 始死停喪十餘日---始死は、死んで始めてぐらいしか読めません。始めて死んだのでは何のことか判りません。停喪とはなんのことでしょうか? 喪を停止する。喪とは、喪に服するなどと使います。辞書をひきますと、「も。うしなう。ほろびる。ほろぼす」とあります。このうち、「も」が一番いいようにも思いますが、「も」は死者に別れをする行事でしょうか? 外出や仕事などを控えて行うように思います。それを停止するということは、喪に服さないことになります。十餘日。十餘日喪に服すのであれば解りますが、十餘日喪に服さないでは、何のことか解りません。澡浴は現在もあるでしょうか?

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2005.05.25

魏志倭人伝を読む   倭国大乱

No35
「倭国大乱」という言葉は、魏志倭人伝とは関係ありません。范曄(398-445)が著した中国史書の後漢書に書かれている言葉です。
「桓霊間倭国大乱あり」とあります。岩波文庫の訳本では、「大乱」を「おおいに乱れる」と読んでおられます。大いに乱れるとは、どのようなことでしょうか? 例えば、5つの国が、お互いに乱戦しているのでしょうか? 国数がもっと多くて30ヶ国が乱戦ということでしょうか。僅か、1000人ほどの国が、戦いをしたことを「桓霊間倭国大乱あり」と、国家の歴史書に書くでしょうか? 
やはり、桓霊に対して、倭国が、歯向かったのでしょう。
桓帝が即位したのが、146年です。霊帝が死んだのが、189年です。「倭国大乱」があった年代は、146~189年の間であることは、確かです。仮に桓帝が20歳のときの事件だとしますと、20年ぐらい続いたことになります。166~189年のことです。
一方、朝鮮の古代史〔三国史記〕に、「阿達20年(173) 夏五月、倭国の女王の卑弥呼が使者をよこして礼物を献じた」とあります。記述は簡単で、何のために行ったか判りませんが、使者が行ったことは、確かでしょう。
もう一つの資料です。日本書紀の崇神紀65年に任那国の使者が朝貢してきた記事があります。日本書紀に書かれている年代は、確かではありませんので、何時のことかわかりませんが、崇神天皇の次代に任那があったことは確かです。問題は、朝貢してきたかどうかは、割り引いて考えないといけないと思います。日本書紀は、作者の都合の良いように書いたと思われる所が多いからです。
任那の地は、中国が日本へ軍隊を送るときの、補給地であったのではないかと思っています。崇神天皇は、卑弥呼を通じて、新羅に使者を派遣し、中国の侵略を防ぐために、
任那の地を攻略したのではないでしょうか? 
任那が倭国の国となりますと、中国軍は、補給を断たれます。そうしますと軍人に支給していた鏡は無くなります。これは、軍人が死んだときに是非必要なものです。それまで、本国から送られてきた漢鏡がなくなります。食料もなくなります。そこで、漢人の人は、山に篭城し交戦です。最後には、全滅しますが、その地には、のちに鬼ヶ山とか鬼ヶ城のような名前が付けられました。かつては、そこは、竜王山と名前が付いていたと思われます。吉備の国、福知山の鬼伝説は、このときのものでしょう。日本の記録には、四道将軍の名前を記し、崇神天皇が中国人を攻撃したことを記しています。
すべて、想像になりますが、「倭国大乱」を倭国と中国の戦争だと読めば、その後、歴史は、無理なく説明が付きます。調子に乗りますと、後漢は、倭国との戦争に負けて国が潰れることになります。それほど、絹は国の経済に重要なものであったはずです。歴史書には負けたとは書けませんから、「倭国大乱」と書きました。 蛇足ですが、  桓霊(コウレイ)間に居られた天皇と言う意味で、孝霊(コウレイ)天皇でしょうか?

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