2008.06.25

No90 日本書紀と美濃王、御野王、三野王、弥努王、美務王

美濃王は、どのように読むのかは、正確には分かりません。仮に、全部、同じ王であれば、可能性としては、「みのおう」でしょうか?
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、(みののおおきみ)と「みののおほきみ」を記しています。
 (みののおおきみ)が正しいのかも知れませんが、私に限りますと、自分で(みののおおきみ)と読みますと、一瞬、思考が途切れます。
 難しいところですが、無理に、(みののおおきみ)と読まないで、「みのおう」が自然の様に思います。この読み方は、歴史を学ぼうかとおもう人を委縮させるように思います。
 
 さて、本題です。美濃王、御野王、三野王、弥努王、美務王と並べました理由は、全部、「みのおう」と読んだのではないかということを言う為です。
美濃王、御野王、三野王は、「みのおう」と読めますが、弥努王、美務王は読めません。
弥努王と書いてあるところでは、同じ人物を「みぬおう」と発音していたため、書くときには、弥努王、美務王と書いたのではないでしょうか?

 このことを考える資料として、次に、日本書紀に書かれた「みのおう」を記して置きます。

(1) 天武天皇2年(673年)12月17日に、小紫(従三位)・美濃王は、小錦下・紀訶多麻呂 とともに造高市大寺司に任じられた。高市大寺は大安寺の前身。
「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」では御野王と記される。
(2) 天武天皇4年(675年)4月10日に、小紫(従三位)・美濃王は小錦下・佐伯広足とともに遣わされて竜田の立野(奈良県三郷町立野)で風神を祀った。奈良県三郷町立野にあたる。天武朝では、竜田風神と広瀬大忌神の祭りは『日本書紀』に連年記録された重要な祭祀で、その初見がこの年のものである。
(3) 天武天皇10年(681年)3月17日に、天皇は帝紀と上古の諸事を記し、確定させた。その詔を受けたのは、川島皇子、忍壁皇子、広瀬王、竹田王、桑田王、三野王、上毛野三千、忌部首、安曇稲敷、難波大形、中臣大島、平群子首であった。
(4)天武天皇11年(682年)3月1日に、小紫・美濃王及び宮内官大夫等に命じて新城(平城)に遣いして、其の地形をみるように命令する。新しい都を作ろうとされた。
(5) 天武天皇13年(684年)の2月28日には、三野王は采女筑羅とともに信濃国に遣わされ、地形を見るよう命じられた。
(6)  天武天皇閏4月11日に、三野王は信濃国の図を提出した。
(7) 天武天皇14年(683年)9月11日に、天皇は宮処王、広瀬王、難波王、竹田王、弥努王を京と畿内に遣わして、人々の武器を検査した。
(8)持統天皇8年(694年)9月22日に、浄広肆(従五位下)三野王は筑紫大宰率に任命された。

タイトルにどうして、日本書紀を入れたかと云いますと、同じ人物なのに、日本書紀の作者は、どうして漢字を変えたのかを知りたいからです。

日本書紀は、いろいろ不思議な部分があります。神武天皇は沢山書いたのですが、神武天皇のことは書きたくなかったのではないかと思っています。普通は、書きたくなかったら、書かなければいいのです。このように考えますと、その後の天皇で、書いてある事柄が少ない天皇があります。書きたくなかったのだと思います。
 では、神武天皇は、何故書きたくないのに、いっぱい書いたのでしょう。
このことは、又、判りかけたら書くこととして、美濃王のことは、ある程度、真相に迫れるのではないかと思っています。

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2008.01.17

No89引佐郡細江町の銅鐸

引佐郡細江町は、引佐郡引佐町の南に位置します。都田川を東の方から、下ってきて水は、細江町を通過して浜名湖に流れ込んでいます。
Photo


この地図は、季刊「自然と文化」の小集落の地名 P33の地図に手を加えました。
下部の黒い○は、銅鐸出土地です。細江町からは、9個出土しているのと、東からでは、最も東の地区から出土しています。静岡県では20個出土しています。ということは、静岡県は、銅鐸に関しては、特殊な地域とみられますが、なぜ、静岡県に銅鐸が多いかは、どなたも説明しておられません。
西に斜めに3つ並んでいますが、ここの地名は、「七曲り」です。西から、「悪ヶ谷」「大谷」「小砂川谷」「穴ノ谷」「才四郎谷」と谷があったことが判ります。(p36に拡大地図より)
少し、汚いですが、銅鐸が埋められた時は、赤く色を塗ったところは、水があったことになりのす。この上の直線で区画された部分も海水があり、葦原だったと思われます。
一番西の3つのうちの、西側は「悪ヶ谷」です。谷を渡ったところに「銅山」という小字名になっています。その東にある銅鐸出土地は、「小砂川谷」です。

従いまして、「銅山」で採掘された銅で、銅鐸が作られていた可能性はあります。ただ、銅鐸を使っていた人たちは、引佐町の方に住んでいたのではないかと推察しています。
 もう少し、東へ行きますと、天竜川があります。この辺りに入植した人を指導したのは、引佐町にいた人たちではないかと考えています。即ち、イザナギに由来する人たちが引佐町・細江町に住んでいたのではないか?
静岡県の銅鐸出土地の一覧表を作って置きましたので、眺めてください。なにか連想できるかも知れません。(全部作ったつもりですが、掲載されていません)

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2008.01.14

No88風土記の編纂と逸文と残欠

奈良時代の初め、713年(和銅6)5月、元明天皇は諸国に風土記(ふどき)の編纂を命じた(この時点では風土記という名称は用いられていない)とされています。
されていますと、書いた理由は、この文章はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
から拝借したもので、自分で確かめていないからです。

私が問題にしたいのは、713年(和銅6)という年代です。5月という月まで、書かれてあるということは、確かな証拠が残っているということです。713年という年は、どのような年かと言いますと、712年に古事記が編纂された年です。

現在の歴史家は、日本書記が正しくて、古事記はそうでないようなとらえ方をされているようです。一言では言えませんが、私は、逆ではないかと思うようになっています。

そのことと、タイトルの「風土記の編纂と逸文と残欠」とどのように関係があるのかです。
そのことを知って頂くためには、私が現在書いているブログ「新しい日本の歴史」を読んで頂くしか、簡単な説明の方法はありません。
 結論だけを書きますと、712年に完成した古事記を見た藤原不比等は、古事記に書かれていることを見て、驚いたと推察しています。しかし、不比等の行動は、素早かったようで、風土記の編纂と日本書記の編纂を命じたと推察しています。
一行目に、風土記の編纂を命じたのは、元明天皇と書きましたが、これは間違いで、藤原不比等でしょう。
 
日本書記の編纂を命じられた人たちは、一から調査するには、膨大な時間がかかりますから、早速、古事記を参考にしながら、日本書記の編纂をおこないました。少しでも、両方の本を読まれた方は、歴史の資料としては、日本書紀の方が優れていることを知ることが出来ると思います。
 日本書紀は、歴史を時間的に、古い方から並べて書く編年体という書き方で書かれています。一方、古事記のほうは、天皇家のことが中心で、しかも、登場する人物(神の名も含む)の血縁関係を重要視した記述で正しいという証拠はなに一つありません。
 ところが、日本書記の方は、古事記のことは、一切触れずに、内容に辻褄が合わないようなときには、日本書記の編集者は、このように思いますがと前に書いておいて、後ろに、ある書物では、これこれのことが書いてありました。多い時には、10例ほど、書かれてあります。この部分が、現在の人に人気があるところらしく、歴史家は、この「ある書」の部分から、自分の説に都合のよいものを採用して、論説を展開されますから、いろいろの部分の組み合わせによって、なん百という仮説が生じることになります。
その時には、人文科学ではいろいろの説があっていいのだという捉え方があるようで、歴史はてんでバラバラの感があります。おかしいでする。歴史、特に古代史では、判らないことが多いことは、事実ですが、本当の日本史は、一つしかありません。
 このような意味では、自然科学を学校で学び、その考え方を使って、50年も生きてきましたから、人文科学もサイエンスである以上、自然科学と同様な手法で説明をしようと思っています。自然科学の様に、説明をしまして、その後、同じような手法で、他の人が違った角度から調べ直します。同じ結果が出ます、その結果は、正しいと認めることになります。

人々は、自分に生きていた証しとして、後世に残しておきたいと思うらしく、誰かが、いてくれるのを待っていますと、待ちきれませんので、自分で書くことが流行しています。所謂、自分史です。自分は、どれほど、苦労をしたかを書く人もおられます。自分は、こんな成功をおさめましたを強調する人もおられるでしょう。しかし、自分は、こんな恥ずかしいことをいっぱいしましたと書く人は、100パーセントいないでしょう。社史、府県史、市町村市、警察史、いくらでもありますが、プラスの面ばかりです。

このように考えますと、古事記も日本書記も書いた人の都合の良いことばかりが書かれています。
日本書記を編纂した人は、100パーセント古事記を参考にしたはずですが、それは、知られたくなかったと見え、古事記に書かれていて、日本書紀にも書かれている地名や人物名は、尽く、漢字の書き方を変えました。
これほど見事に書きなおすことは、古事記を見ながら書き改めませんと、他の本からの参考だけでは、不可能です。なぜか、その後、古事記は世の中から、姿を消します。しかし、400年後に、姿を表したことが知られています。
 消し去ったはずですが、代々、消されないように残した人がいたことになります。

随分、前置きが長くなりましたが、古事記を参考にして、日本書紀を書くだけでしたら、風土記は、必要ありませんでしたが、完全に残っている出雲風土記を見ますと、わたしには、軍事資料に見えます。
 自分の国のことを洗いざらい書いて提出した国と、提出しなかった国で、その後の政府(藤原不比等)の対応は変わったと思われます。
現在、残っている風土記は、出雲国風土記がほぼ完本で残り、播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記が一部欠損して残っているそうです。

その残り方はいろいろと思われますが、播磨風土記逸文と丹後風土記残欠などと、研究者によって、使い分けておられます。私は、逸文のほうが、沢山残っているのではないかと想像しています。残欠となりますと、残っている者が、少ない。考えようによりますと、残欠の形でも残しておきたかったから、残ったということではないかと思っています。具体的に、言いますと、丹後風土記残欠は、藤原氏の人にとっては残ってほしくなかったのではないかと思っています。全く残っていない風土記の地方は、残欠すら残らないように末梢されたと考えています。
 では、残った出雲国、播磨国、肥前国、常陸国、豊後国は、藤原氏にとっては、優等生だったことになります。このことは、今後の私の課題ですが、出雲国と常陸国は、解決済です。 

いろいろの苦労を重ね、日本書記は、古事記の完成12年から 8年後の720年に完成しました。
中国人が、自分たちの社会を築き、記念に、「大化」という元号を作用したのが、645年です。それから、75年後に、天皇制という仕組みは、残しながら、むずかしい傀儡政権を獲得した記念誌として、日本書紀は完成したと考えています。
しかし、それと同時に、力を使い果たしたように、同じ720年に死ぬことになったとみています。    
その後の藤原氏は、順風満帆とは参りませんでしたが、全国に根を下ろし、その拠点と思われる所の神社には、式内社という名前をあたえたと考えています。
「式内社と祭神」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html

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2008.01.06

No 85 元伊勢 「遠江国浜名宮」

元伊勢と呼ばれる神社は、あちこちにありますが、「遠江国浜名宮」は、伊勢から近いと言えば近いのですが、丹後の国から、どこか良い所はないかと、順番にやって来たにしますと、離れていると思いながらも、気になるので行ってきました。
 随分、古い話です。記録を探し求めるだけでも、随分掛りました。平成13年2月11日・12日と一泊で行ってます。

どこかに、この時のことが書いてあると思って探しましたが、見つかりませんでした。あの時は、カーナビもなく、旅行は大変であった記憶が残っているだけです。行った割には、殆ど、歴史的な成果がなかったらしく、旅行記のように書いたものが残っていました。これはこれで、記録ですので、そのまま、以下に記します。


日本は広いな!日本は古い国やな!

久し振りに 一泊の旅行をしてきました
    雪の心配をしながら、 満開の菜の花を眺めてきました。

2月11,12日の連休に一泊で、山陰地方の蹈鞴(製鉄)のあとを数箇所見学に行くつもりをしていました。
急に、今が冬である事に気づきました。私は大阪に住んでいますので、 中国自動車を利用する事になりますが、時によると、お隣の兵庫県からは、雪のためチェーンが必要になります。チェーンを持っていない、雪の上を走った事の無い私ですから、何も無理をすることはないと考え、中止にしました。暖かいところでは、和歌山、淡路島、四国がありますが、すべて、最近訪れています。
調べものをしたいところとしては、伊勢市・上野市・岐阜県本巣郡・静岡県引佐郡です。
上記の4箇所は、天候が悪ければ、どこも、雪に遭いそうなところを通過しなければなりません。鈴鹿・関ケ原が問題です。冬に走った事の無い私ですが、 やはり、チェーン無しでは、えらい目に遭うと想像し、買う事にしました。 チェーンを購入したのは、20年ぶりです。自動車部品の店に入ったことの無い私は、ただ、製品の多いことに驚き どれを選択したらよいかに困惑し、又、20年前の金額より随分高いことに、又もや驚きながら、購入。 帰宅後、実際に装着しますと、不器用な私でも、一分で装着。20年前、雪が降りしきる、真っ暗の中で、ジャッキーで車を持ち上げながら、 凍える手でチェーンを装着した事を思い出すと、これなら、値段の高いのも納得と言い聞かせながら、トランクに収めました。
名神を走行するうち、米原に近づくと雪に覆われた伊吹山(滋賀県ではもっとも高い山だと思いましたが)が気持ちの良いほどに美しく眺められます。 チェーンを持ってきて良かったと思いながら、走りますが、醒ケ井を過ぎるところから、道路が少し、融解剤?で白くなっているぐらいで、 雪は皆目無しでした。
三ケ日のインターで高速を降り、目指すは、「英多神社」という神社ですが、食事をとったお店で尋ねると、誰も知らないとのことでした。「御園」という地名があるので、その方向へ車を走らせる。途中。電話ボックスがあるので、電話帳で確認、記載されていない。 ということは、神主さんが居られない神社と判断する。 それなら、図書館に行って、本で調べようと図書館の電話番号を見ましたが、やはり、記載されていませんでした。(図書館は立派なものが出来たばかりのようで、電話帳にも掲載されていないようでした。休館日。)
次は、町役場へ行きましたが、日曜日で閉鎖。お隣消防所をたずねました。我ながらいいところへ来たと思っていました。火事の知らせがあれば、町内どこへでも行ける人です。5~6人居られた署員の方は、誰もご存知ありませんでした。 三人寄れば、文殊の知恵とはよく言ったもので、 次々アイデアが出まして、どうやら、「浜名総社神明宮」の中にあるのではないかということになりました。 と同時に、ある署員の方は、「初生衣神社」の神主さんに、電話をしてくださいました。話がややこしいので、直接私が受話器を取り、お話をお聞きすると解決でした。 
私が、目指していた神社以外に、「初生衣神社」も、「岡本八幡宮」という神社も関係あることを教わりました。「暫く、居ますから、来られたらいいですよ」と言ってもらって、いく事になりました。
この目指す、神社がどのようなものかを簡単に書いてみます。
私も詳しいことは、よく判りませんが、日本の初代天皇(ハツクニシラス天皇)は、二人おられて、はじめの天皇が、神武天皇です。今から、2660年前に奈良の橿原の地に、都を定め、「ヤマト建国」の第一歩を築いた事になっています。その後、天皇は綏靖・安寧と続き、 第10代は 崇神天皇ですが、やはり、「ハツクニシラス天皇」と言われています。
崇神天皇は紀元前30年頃の天皇と言う事になっていますが、 諸々のことから考えると、3世紀ごろではないかと言われています。 どちらにせよ、随分むかしのことになります。 崇神天皇のときに、宮中で祀られていた 皇祖神である「天照大神」を、奈良の笠縫村に祀ったと『日本書紀』という書物に書かれています。そのときの世話役として、「豊鍬入姫命」という人が選ばれています。 どうやら、笠縫村は、居心地が良くなかったと見え、3年後には、丹波国の吉佐宮に宮を移しています。 その後、「倭姫命ヤマトヒメノミコト」という人が、御守役として仕えながら、適当な場所を捜し求め、50数年後、今の伊勢神宮に宮を定めた事になっています。
伝説をも含め、29ケ所の地を訪れた事になっています。 その内の、一つが、「遠江国浜名宮」であり、「尾張国中島宮」です。 
前者が「英多神社」であり、一宮市の「酒見神社」であろうと言う事で、 実感を得るために、訪問する気になりました。
神社の話は、これぐらいにして、「初生衣神社」におよりして、神主さんのお話を少しだけ、お聞きしました。名刺を頂戴して、びっくりです。 「神」「上」さんというお名前の人は、どこでみたような気がしましたが、「神服部 博喜」 のお名前は、初めてでした。 ご本人も、日本で一人ですと言われ、 〔かんはとり〕とふり仮名が振られてありました。 神社のある辺りは、現在は〔岡本〕と言われていますが、ずっと、「ごんど」 (ごうどだったかな?)
漢字で書くと 「神戸」と書きます。 全国に一杯あります。 神社の租・庸・調を受け持つ人たちの事でもあり、その人たちが住んでいた土地に名前が残っています。前に書きました「御園」は、その人たちが作っていた野菜園のようなものでしょうか? 伊勢神宮を支えていたところは間違いありません。 
この日の宿は、渥美半島の先端の伊良湖に定め、車を走らせますと、田原という町の近くで、「神戸」という地名を見ました。また、宿の直ぐ近くに、東大寺の瓦を焼いたという窯跡を見てきました。伊勢ではなく、東大寺となると随分遠いですが、 瓦を焼いては、運んでいたのを想像すると 日本と言う国は、「古いなあ」と思えました。
伊良湖の風は、まだ冷たかったですが、菜の花の絨毯が、私を歓迎してくれました。
この一日で、 日頃、50キロも走らない私は、300キロを走り、それも、雪の心配をしながら、春の訪れを感じました。「日本は広いな」と感じた次第です。
翌日は、フェリーで知多半島の師崎(モロサキ)へ渡り、一宮へ。 目指す「酒見神社」は今伊勢という町にありました。ここにも、どう読むのか知りませんが、「神戸」という地名を認めました。
倭姫命が滞在されたところは 「元伊勢」と呼ばれています。伊勢神宮が定まるまで、伊勢のできるまでの元になったところと言う意味でしょうか? 「笠縫村」 以外は、作り話であるように書かれた書物もありますが、 「神戸」「御園」などの地名まで、創作する事は大変です。 これらの地名が記載されている書物まで、偽物を作るとなると膨大なものになります。 やはり、素直に、伝承されたものを受け入れればいいとおもいました。
帰宅後、 電子電話帳で調べました。
神服部というお名前は、一件だけでした。
服部さんは 35585人 。神さんは 3795人 。上さんは 1056人。 上見さんは 241人。
加美さんは 156人。 加美さんは 156人。 紙さんは 95人。 賀美さんは 27人。 香味さんは 26人。
嘉美さんは 15人。 嘉見さんは 49人。
このような数字を見ると、いかに、「神服部」というお名前が特別であるかと言う事がわかります。
長い事、お付き合い有難うございました。
最後に 伊良湖の海の幸は 美味しかったです。 一度、訪れられる事をお奨めします。
以上です。
歴史的な成果が無かったので、下手な旅行記を書いたようです。
下手でもなんでもいいですね。

久しぶりに、思い出しました。

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2008.01.02

No84 三重県の神島

又かと、思われるかもしれませんが、地図を出してください、愛知県の渥美半島の先に伊良湖岬があります。三重県と伊良湖岬の間に、神島があります。
 伊良湖岬には、泊まったことがあるのですが、伊良湖という湖はあったでしょうか?
ここは、元々、伊良古ではなかったかと思っています。伊良湖岬と神島を結んで、南西に行きますと、加布良古岬があります。
 ここは、安楽島というところの岬になります。安楽島町字加布良古に伊射波神社があります。
志摩国の式内社の三座は三座あると延喜式に書かれています。
粟嶋坐伊射波神社二座
粟嶋坐神乎多乃御子神社
両方とも、粟嶋と書いてありますが、今は安楽島です。

このことは、「楽しい人生」の中の「古事記と日本書紀」のカテゴリーの中の、No66、67
に書いています。http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2007/09/no37_12a4.html

その加布良古と伊良古が、関係があったのではないかと思っています。

もう一つは、岡山県笠岡市に高島という島があります。この島へ行くときは、「神島」から船に乗ります。
カミジマではなくコウノシマと読みます。この読み方はユダヤ人がつけた名前です。この土地は特別な所です。

突拍子も無い話と思われるかもしれませんが、古事記に書かれていることが本当のことであると考えます。高天原は蒜山高原にありました。ここに最高峰の1218mの毛無山があります。この毛無山の真北に宮内(神武の御所)があり、真南に高島と神島があり高島神社と神島神社に神武が祀られています。
又、神島は淡路島の伊弉諾(イザナギ)神社と御所市の本馬丘と同一緯度にあります。このような位置関係にある場所を設定するということは、緯度の測定ができ、地図を持たなかった古代人の知恵だと思います。
神島の北に福浦という地名があります。福浦は、神武天皇が、中国の雲南省から苗族を入植させたところだと思われます。

もう一度書きます。笠岡市の神島は、鳥取県の宮内と南北に並び、同緯度ということは、淡路島の伊弉諾神社と奈良県の御所市の本馬丘と横に並んでいることになります。これだけ、重要な位置が、偶然に並ぶことがあるでしょうか?

今度は、三重県の神島です。
12月2日、紅葉の俳句を作りに行こうと、妻と出かけました京都府福知山に大江町があります。ここには、元伊勢と呼ばれる内宮の皇大神社と外宮・豊受大神社があります。
ここは、以前に行き、荒廃していますから、もう駄目になっているのではないかと心配して行きました。そうしましたら、修理中でした。

そこで、「今年一番嬉しかったこと」に書きました。
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/432029/ 5回に分けて書いています。
 
外宮を先に行き、次は内宮に行きました。ここの壁に、次のような写真にあるように、壁に絵が貼ってありました。(写真をクリックしますと、大きくなります)
Photo


字が小さいですが、冬至のときに、伊勢の海に出た太陽は伊勢の内宮・外宮を通り、大江町の内宮を通り、日室山の頂上を通過していることを表しています。

日室山の写真 を掲載します。
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日室山は、麓からみても、綺麗な二等辺三角形の山です。写真の位置は、内宮から天岩戸大神宮へ行く途中にある遙拝所からのものです。

私はこのようにきれいな二等辺三角形の山は、人間が整形し、目印にしたり、ノロシをあげたりしたところだと思っています。

 今度はもう一度、伊勢です。外宮を通過した太陽は、一志町美杉村を通過します。
インターネットで、「日置 美杉村」を入力しますと、日置という方の会社などがいっぱいでています。電話帳で調べますと、半分ぐらいの方が、日置さんです。
わたしは、日置さんは、この通信網を構築した人たちの子孫ではないかと思います。日置流という弓の流儀がありますから、同時に、軍事面にも携わっていたのかも知れません。
 以前に日置で調べたことがあります。

http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page180.html
に掲載しています。この中の「現在の日置姓の府県別数」が自分で褒めるのも、変ですが抜群です。 鹿児島を除きますと、現在の絹の生産地に集中します。
鹿児島は、神武天皇と関係があるのではないかと考えています。吉野ヶ里を攻撃するときに準備をしたのではと思っていますが、証拠はありません。
前回に、No83水に見舞われた伊勢神宮内宮
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2007/12/no83_2f79.html
最後に、内宮ははじめに、どこに造られたかですが、私は斎宮の近くであったのでは無いかと推察しています。即ち、斉宮から離宮院までの間にあったと考えています。

続けて書きますと、長くなりますので、次回にその理由を書こうと思います。
と書いています。神島と大江町の内宮とを結ぶ、線上に造られていたのではないかの推理の根拠を今回述べました。それは、斉宮の近くにあるのではないかと思っています。

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2007.12.23

No83 度々洪水に見舞われた伊勢神宮内宮

斉宮の研究は進んでいまして、いろいろのことが判ってきたようです。制度が確立したのは、天武天皇の御代になってからとされています。そうなりますと、現在斎宮跡とされているところは、あまりにも、内宮から遠すぎるように思われます。制度は、天武の御代ですから、680年頃ですが、内宮が出来たのは、宮中に祀られていたアマテラスが、追い出されたのは、崇神天皇の御代ですから、西暦180年頃になります。それから、元伊勢と称せられるところで、4年ぐらい滞在しながら、巡行を繰り返しながら、伊勢に落ち着かれましたから、100年はたっているでしょう。280年の頃でしょうか?
 この時に、斉宮も神社も近くに建てたと思われます。
ということは、400年ほどたってから、斎宮は、立派なものになったと思われます。最も、その前に、外宮が丹後のほうから、豊受の神を呼び外宮に祀られました。
伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている。450年ころのことです。
 この頃は、倭の五王と言われている中国人が、勢力をもっていた時代で、丹後も大きな古墳からは、漢鏡が出土していますから、中国人の圧力で、外宮が作られたのではないかと、推察はしていますが、証拠はなしです。
 少し、調べたところでは、内宮と外宮は、アマテラスの食事の世話どころか、仲が悪かったようですし、江戸時代までは、外宮の方が、力が強かったようです。この辺りのことを調べるとしますと、新しい課題となります。
 
 現在の外宮である豊受皇大神宮の所は、海抜4mですから、海岸の近くに建てられたと思われます。一方、斎宮跡は13m、勝見 10m、明星 10m、新茶屋 10m、明野9m、新出 8m あげました地名は、道路に沿ってある地名を見ました。海抜が殆ど一緒ということは、この道は、昔から使われていた道だと思います。
 地図をご覧下さい、。この道路の名前は判りませんが、この道だけ曲がっています。その田はまっすぐですから、古いことが判ります。この道は、明野にきますと、集落が途切れています。きっと、この辺りは、洪水があったと思われます。JR宮川駅のところに、離宮院跡があります。ということで、現在の内宮、外宮に行くときは、この道を通った可能性が大きいです。宮川橋を渡りますと、外宮です。
離宮院は、斉王が伊勢神宮に、年3回訪れるときに、宿泊したところです。離宮院から外宮までの地図ありますから、
http://www.yokoyama-vc.jp/marugoto/walking60/12.pdf 
クリックして、拡大してから見てください。

内宮ははじめに、どこに造られたかですが、私は斎宮の近くであったのでは無いかと推察しています。即ち、斉宮から離宮院までの間にあったと考えています。
続けてかきますと、長くなりますので、次回にその理由を書こうと思います。

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2007.12.17

No82 滝原神社と洪水

No78 において、天照大神を奉斎する地は、『倭姫命世紀』によると、次のような順番で変遷したと記しました。その26番目に、矢田宮と書きました。ここは、三重県伊勢市
楠部町字口矢田とされています。楠部町は範囲が広いので、一概には言えませんが、海抜4m~7mの地帯のようです。
 伊勢は、地盤が固いのか、川から離れますと、意外に海抜が高く洪水になっても内陸部まで浸水しなかったのではないかと考えますが、紀元前後ですと、海抜4mぐらいの所は、海だったのではないかと想像しています。

現在の滝原神社のところで、地図を見ますと、ダムが造られていて、これは農業より治水のためではないかと思っています。支流の大内川のほうへ、ダムが伸びていますから、きっと、大内川の方が水量がおおいのかも知れませんが、宮川の方が、渓流が深いのかも知れません。
治水のためにダムが造られているにも関わらず、滝原神社が沈むほどの洪水が3年前にあったということは、下流では昔から3年に一度ぐらいの洪水はあったはずです。

そこで、滝原神社の所から、地名を適当に取り、その場所の海抜を書いてみました。
滝原神社(三瀬川) 61m、--瀬戸 50m、神原(このはら) 48m、黒坂 29m、大久保 18m
岩出 4m、鹿海町 3m、楠部4m~7m、 宇治山田3m、神宮神田 5m

伊勢内宮 9m
如何ですか? 滝原神社(三瀬川)から-瀬戸で10mの落差です。黒坂から大久保までも、同じく10mの落差です。大久保から岩出までは、14mの落差です。岩出以降は、海水が来ていたか、逆流していたはずです。

そこで、私は内宮が作られた時は、現在のところではなく、別のところであったのではないかと考えました。その一つの根拠が、現在のところですと、洪水には遭いませんが、現在の所は、斎宮から遠すぎるのが気に入りません。では、どこに造られたかを検討します。

伊勢神宮を建立したときに天照大神から倭姫命への神託があったことが、記録にあります。『日本書紀』垂仁天皇25年春3月丁亥朔丙申条では「是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國」、『倭姫命世記』では「是神風伊勢國 即常世之浪重浪皈國也 傍國可怜國也 欲居是國」であります。意味は、神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の波の敷浪の帰(よ)する国、傍国(かたくに)の美まし国なり。この国におらんと欲(おも)ふ。と書いてあるのをここに借用しました。傍国を方国、すなわち、大和にくらべて、地方の国ということにしておられる方もおられました。
『倭姫命世紀』は768年禰宜五月麻呂の撰録と伝えられますが、鎌倉時代、伊勢外宮の度会氏が編纂したものとされています。詳しくは良く判っていないようです。
神託の内容は、日本書記と全く同じですから、神社関係の人が、日本書紀を移したことになります。問題は、この文章を神社の人は、信頼したというか、あまり考えずに移したかで、対応が全く異なることになります。
斎宮歴史博物館 http://www.pref.mie.jp/saiku/HP/ のホームページを読んでいますと、プロの研究員の方は、あまり、『倭姫命世紀』に書かれていることを信用されていないようですが、なにもないのに、このようなことも書かないでしょうから、神社の人が、このように考えたでも良いのではないかと思います。

神託は、僅か、これだけです。「是神風伊勢國 即常世之浪重浪皈國也 傍國可怜國也 欲居是國」 なのに、誰も正確に現代文にしておられません。 
意味の理解できない言葉が、4つもあるからです。
(「皈」の漢字は、「帰」と「歸」と同じです)
 神風、常世、傍國、可怜
①神風 は辞書を引きますと、枕詞と書かれています。日本書紀はそれ以前のものですから、昔から、神風という言葉は使われていたのだと思います。
 風神といったかどうか分かりませんが、古事記には、イザナギとイザナミが、志那都比古神(しなつひこのかみ)を生んだと記しています。日本書紀では級長津彦命(しなつひこのみこと)と表記されています。余談ですが、日本書紀は古事記を参考にして作りました。しかし、古事記と同じ漢字は一切使っていないため、どうしても無理があり、級長津彦命は、シナツヒコと読むことはできません。しかし、日本書記は、「長」の漢字を使っていますから、志那都には、息が長い意味があると書いておられる方がおられます。
息が長いと良いことは、海に潜るのにいいのですが、風の神ですから、息吹が長いと製鉄や土器を焼くときに上手くいきます。
 風には、雷神と風神が対になって、害を与えることもありますが、神に祈ることによって、自分たちの都合の良い風を神風と言ったのだと思います。
 
 その実際に神が出てくるのは、奈良の龍田神社に見られます。龍田神社の祭神は、
天御柱命(あめのみはしらのみこと)・国御柱命(くにのみはしらのみことです。同社の祝詞などでは、天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされていています。
『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたとい言います。
天武天皇の所に、「竜田の風神・広瀬の大忌神を祭った」という記録が、元年07月16日まで毎年続けられます。そのことが、気になって、調べたことがあります。私の推理は、奈良の法隆寺の西にある竜田神社の所は、鉄の生産をしていたのではないかと考えて、探りました。この時に、広瀬神社の方は、奈良県の水をすべて集まってくる所にありましたので、天武天皇は、風の神さんに、適当に風を吹かせるように、祈らせたのではないかと思いました。しかし、龍田の鉄の生産は、はっきりしませんでしたが、今でも裏山は、大阪府の柏原市の製鉄が行われたところですから、龍田も関係があったと考えています。その時に考えたことを
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2006/10/index.html 
のNo30~38に書いていますので、読んでください。
 
 長くなりましたが、ここの神風は、神さんが、人間にやさしい風を送ってくれるところだと解したく思います。伊勢の地で、祈りますと、きっと願を叶えてくれるでしょうと。

②常世。 この言葉が難儀です。 そのまま読めば、常に変わらない。永久に変わらない。常世の長鳴鳥、常世の木の実(橘の果実) 、常世の国 (不老不死の国、海の彼方にある国、死人の国) 常世の虫、常世物、常世辺、などとして使われています。すべて、古事記や万葉集などで使われています。
ここでは、いつまでも居たいような国でしょうか? 「浪重浪皈國」波が何度も押し寄せ、返す国とありますかすら、海岸縁にあることになります。楠部4m~7mの矢田は、作ろうと試みたのではないでしょうか? 葦が生えていたように思われます。洪水もやって来たと推察されます。
私は、楠部4m~7mの矢田ではなく、現在、斎宮跡とされている近くの海岸に近い所ではなかったかと思っています。げぐうは、確か、50年ご位に建てられたと思いますが、現在の内宮のほぼ、西の高台の麓に造られています。現在の内宮の海抜は9mぐらいです。
このように見てきますと、
『倭姫命世紀』に書かれていることは、充てにならないと思われていますが、元伊勢の話は、案外、実際にあったことなのかもしれません。

③傍國--傍國の字は、他では、夜傍(夜に近い)とか道傍(みちばた)などと使われています。傍國を「方国」とかいて、地方の国と捉えておられる方もおられましたが、やはり、天皇や皇族が傍におられる国でしょう。
④可怜—これも困ります。可怜をカレイと読まないで、美しい国(うましくに)と書いてあります。美は(うまし)と読むのでしょうか? 殆どの人が、このように書いておられますから、従っても良いのですが、私は、なんども洪水に見舞われた荒れた土地だったと思うのですが、如何とおもわれますか? 「怜」の字は、見慣れない字ですが、辞書をひきますと、憐れむの俗字とあります。憐れむべき土地だけれども、ずっと、住んでみようとなったのではないでしょうか? 紀元250年ころのことだと思います。

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2007.12.10

No81 多岐原神社 その3

No66からNo80で書きましたように、これらのことから、考えますと、伊雑宮と瀧原宮は、藤原氏にとっては、自分たちが天皇家の封じ込めるために、どうしても必要であった拠点であるような結論になりそうです。
それだけではなく、20年に一度の遷宮も、天皇家に財産上の負担を強いるものではなかったかと、意地の悪い想像しています。
しかし、時間というものは、素晴らしいものだと思います。そのようなことが、例え、あったとしても、藤原氏がいなかったら、現在の日本の繁栄はなかったと思えますし、そのような見難い戦いなど、無かったかのように、伊勢神宮の人たちは、日本の平和を願って毎日、祈りを続けておられます。

伊雑宮と瀧原宮も、一度訪れてください。どうして、仕事だと言っても、このような寂しいところで、毎日、昔から行われていることを、ただ、ひたすら守って生活しておられるのだろうと思ってはいけないのだろうか? と思ってしまいました。 
 神社では、ひたすら、神に対して感謝と祈りを続けてこられました。 神社にお参りしていた日本人も、そうだったように思うのですが、神にはお願いをして、感謝はしなかったのではないでしょうか?
現在の社会を眺めていますと、何事に対しても、感謝と祈りが大切なのに、忘れられようとしてい.気がしています。

No80までだけですと、あまりにも、伊勢神宮がかわいそうですので、他に、なにか役割があったのではないかと考えました。

お聞きしたことで、他に、二つあります。
多岐原神社の鳥居の上から1.2mのところまで、川の水が浸かったことです。私が神社まで降りてきたときに、そこに田がありましたが、その田も水に浸かったそうです。河原からどれぐらいの高さの所にあるのか調べませんでしたが、相当高いところにあると思います。このような洪水が頻繁に起こったから、すぐ上流にダムが治水目的で造られたとおもいます。それでも、これほどの浸水があったことになります。
 それだけ、多岐原神社の周囲というか、上流は広大な面積であり、降雨量が多いのだと思います。その水は、大きい川で言います、宮川と大内山川に流れ込み、多岐原神社で合流しています。
 この厖大な降水量で育った杉やヒノキが、大木になって育っています。確か、江戸時代まで、多岐原神社のところは、貯木場があったとお聞きしました。全国に、貯木場は、木場・木代・木部などの地名で残っています。
 話は飛びますが、奈良の吉野に、下市と上市というところがあります。今でこそ、吉野は吉野山の桜で有名ですが、元は吉野の貯蓄場があって栄えたところだと思います。現在も現役です。この吉野山へ行く電車は、下市で右に90度カーブして吉野川を渡りますが、川沿いの国道を東へ進みますと、円錐形の妹山という山が見えてきます。(重要な地点では、目印になるように、円錐形にしたと思っています) この山の麓に、大名持神社があります。祭神は、大名持命・須勢理比咩命・少彦名命です。創祀不明の小さな神社ですが、貞観元年(859)に正一位を奉られていましたが、その値打ちはどれほどのものか知りません。当時としては、大和でこの位は、春日大社と二社のみという格式ですから、その力は相当であったと思われます。
この祭神の大名持命は、延長五年(927に完成した延喜式神名帳 によると、大和国吉野郡十座の一つとして金峰神社とともに名神大社に列せられており、月次(つきなみ)・新嘗(にいなめ)に官弊がささげられています。
 菅原道真らの撰進した史書『三代実録』(901)に貞観元年1月27日、大和国従一位大己貴神正一位とあります。この大己貴神という名前は、大国主神の別名です。しかし、日本書紀では、大己貴神と書き、古事記では、大穴牟遅神と書かれています。

創紀の年代は詳らかではありません。 延喜式には『大名持神社』、同式臨時祭を受ける名神二八五座の中に『大名持御魂 神社一座』とあり、大神分身類社鈔によると、中世には『妹背神社』とも称されまし た。近時は、俗に『大汝言』(おなんじのみや)、音転倒によって『おんなじの宮』 とも云われています。
この由来は、神社の前の吉野川の潮生渕に、毎年、6月30日に潮水が湧出するという伝承があり、吉野川の清水を汲みに、磯城・桜井地方の宮座の当屋がここに来て、六根清浄の禊をし、吉野川の清水を汲み、河原の白石を拾って帰り、地元で祭祀を行う。これを「大汝詣で」と言います。
どうして、どうでもいいことを長々と書いたかと言いますと、延喜式内社は、朝廷から授かった神社ではありません。朝廷が作ったことになってはいますが、藤原氏が構築した法律書(延喜式)に掲載された神社です。式内社は、藤原氏の言うことを聞く神社のみに与えられた称号と言っていいと思います。
ところが、祭神の大穴牟遅神を大己貴神に書き換えることは、断ることが出来なかったのだと思います。そこで、祭神の名前は譲って、神社の名前には、「大穴牟遅神社」ではなく、「大名持神社」と書いて許して貰ったのだと思います。この大名持も藤原氏からは、嫌われたらしく、中世には『妹背神社』と名乗ったり、古くから行われていた行事も、「大汝詣で」と言って、苦しい変え字でごまかしていたのだと思います。
神社をもう少し進みますと、「清滝」という地名があります。持統天皇が、30数回も訪れたという行宮のあったところです。
この「清滝」も重要な拠点であったと考えています。このまま、進みますと、東吉野を通って、伊勢と和歌山へ街道になります。「清滝」は天皇が、奈良から逃げるときの大切なところであっただけではなく、逆に明日香が攻められるときに最初に防御し易いところでもあったことになります。
大名持神社に戻ります。ここで、道は二手に分かれます。左に道を取りますと、旧伊勢街道になり、宇陀を通って、多岐原神社に行くことができます。右を取りますと、清滝です。清滝に一度行ってください。ここは流れの激しい瀬になっています。多岐原神社のところも、三つの瀬がありましたから、三瀬の地名が残っています。瀧原の地名は、滝が多いからではなく、大きな滝がある所は、攻防に都合の良いところであったことが判ります。
伯耆の国では、6ヶ所しか、式内社が獲得できなかった藤原氏ですが、天武天皇・持統天皇の大切なところも、藤原氏に取られたことが判りますが、

 
須勢理比咩命は大国主神の后です。
大名持神社 http://kamnavi.jp/as/yosino/oonamuti.htm

瀧原宮は、伊勢を守るための拠点であっただけでなく、ここに貯木場があったということは、伊勢国の材木の多くは、ここで調整されていたのではないでしょうか?
次回は、しばらく、別宮のことを離れて、内宮がどうして、現在の所に造られた書いてみます。

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2007.11.26

No80多岐原神社 その2

多岐原神社の境内で、教えて貰ったことの中で、心に残ったものは、
①神社には、瀧原宮から毎日、お祈りにこられる。 
と、④3年前のときに、この鳥居の上から1.2mのところまで、川の水が浸かったこと。私
神社まで降りてきたときに、そこに田がありましたが、その田も水に浸かったことです。

瀧原宮と多岐原神社は、6キロぐらいの距離でしょうか? それにしても、毎日とは大変なことです。ただ、仕事だからでは説明がつかないなと思いました。

 瀧原宮から多岐原神社へ来るときに、42号線から、ある交差点を右折しましたが、この交差点を左折しますと、橋を渡ります。この橋から一瞬見た景色は、両側とも深い渓谷でした。
渓谷になっているということは、両岸は岩であるということです。(もう一度確認に行くつもりです) その岩がどうして、深く削られて渓谷になっているかということです。考え方は、二つです。一つは、その部分だけ、軟弱な層があった。もう一つは、水量が多かったです。たとえば、四国や和歌山の吉野川や紀の川は、断層が生じた所に水が集中したのでしょうか?  宮川のところに断層が走っているのかどうかは、調べていません。地図でこの部分をみますと、カーブしていますから、断層ではなさそうです。
 42号線からある交差点を右折と書きましたが、その交差点から、しばらくの集落の名前が、「船木」です。この地名は、10年前から気になっているところです。重要な地名ではないかと思っています。ここは、川が流れていますが、川がなくて船に関係ないようなところでもあります。(どなたか調べてください)交差点を曲がる西には、「川合」の地名があります。このように眺めて行きますと、川が合流するところに付けられた川合のように、その土地の様子から付けられた地名があることが判ります。
「瀧原」はインターネットを見ていますと、この辺りは、滝が多いから名前がついたと書いておられますが、本当でしょうか? 私は、「多岐原」は道が、沢山分かれている所、分岐するところではなかったかと想像しています。
 古事記で、「高志之八俣遠呂智」と記述があります。スサノオが大蛇を退治に行ったところです。「高志」は地名ですが、「八俣」は、八つの俣になったところです。現在の横田というところだと思います。地図でみますと、八つあるようには見えませんが、「八」は多いという意味かも知れません。そのすぐ後ろに「谿八谷峡八尾」があります。これは実際に八あるのではなく、沢山あるの八だと思います。大蛇の身が、八頭八尾をもっていると書いてありますが、こちらは、お酒の樽を用意しましたから、数字の八だと思います。
太安万侶は、「谿八谷峡八尾」全体が製鉄所になっている山の人々をやっつけた話を古老から聞いて、このような話にしたと思います。
「須佐之男の大蛇退治」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page355.html 
数字が多い意味では、このように「八」が使われます。「多」が使われた例を見つけていませんが、間違いいのではないかと推察しています。
というのは、伊勢からみますと、宮川の左岸を西へ行きますと、奈良盆地へ通じます。「三瀬川」で、宮川の右岸に渡り、三瀬坂峠を超えますと、瀧原宮です。この道は、熊野街道だと思います。

ここは、天皇家にとって重要な地点でしたから、多岐原神社が作られましたが、8世紀になってから、藤原氏にとって、重要な所になったので、三瀬川よりも広いところに滝原宮を建て、その地を瀧原とよぶようになったのではないかと推理しています。

伊雑宮は、海から侵入する者を監視し、滝原宮は奈良と和歌山からの侵入をチェックしたのではないかと推理しています。 
このような見方で、この辺りの地名を地図で眺めてください。多岐原という地名が、古くからあったのではないでしょうか?

 次回、もう一度、多岐原神社について書こうと思います。

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2007.11.21

No79 多岐原神社

No79 多岐原神社

Tanosimu_2

この写真を見て、何か思われましたか? 車の横の道を20mほど、進みますと、右に下りていく細い道があります。下ったところに、小さな社があります。 (写真をクリックしますと、少し大きくなります)
私は、多岐原神社に行こうと思って車を走らせてきました。ここへ来る前は、伊勢神宮の別宮である瀧原宮に行ってきました。インターネットで、行く方法が丁寧に書かれていました。その通りに、42号線にある信号を右折し、2キロほど走りますと、多岐原神社のある集落にたどり着くが、気をつけないと通り過ぎてしまうと書いてありました。カーナビは、目的地に到達しましたと教えてくれましたが、どこか判りません。ゆっくり、注意しながら、走っていますと、生垣にうずもれて、消えかかった「多岐原神社」の字を見つけました。左折してすぐに、写真の山が眼前に広がりました。
この山を見て、ここに多岐原神社があると確信しました。歴史に興味を持つようになって、10年ほどですが、目的地に行くたびに眼前に現れる山が、この二等辺三角形の山です。このきれいな形の山は、古代の人が、目印にした山ではないかと考えています。たとえば、伊勢の外宮から、宮川を遡り、一日歩きますと、この山が見えるのではないかと思っています。
多岐原神社の裏の山が、この山で、ご神体かと思いましたが、神社と山の間に宮川が流れていますから、そうではないようです。

私は、思わず車を止めて、カメラに収めることにしました。車に戻ろうとしますと、電柱の向こうに人影が見えましたので、声をかけてみました。「あの山の名前はなんといいまいか」。しばらく、間があって、「別に名前はないな」。 これをきっかけに、多岐原神社はどこですかとお聞きし、車の止めるところなどもお聞きしました。
車を止めて坂道を下って行きますと、道の端に並べてある川石を並べ直しておられるご婦人に出会いましたので、同じ質問をしました。3回ほど教えてくださいましたが、よく聞き取れません。もう、80歳ぐらいにはなろうかと思われる方でした。言葉がうまく喋れないのですと言われましたので、それだけで失礼しました。

5mも歩きますと、左折した所に伊勢神宮独特の白木で造られた社がありました。

Takihara1_2

Takihara2_2
 
 写真を撮るのが楽しみでしたのに、全部、ぶれていたり、見るに堪えないものばかりでした。辛うじて、この2枚が助かりました。
 左の写真の真後ろに先ほどの山があることになります。

ここで、ゆっくりしていましたら、先ほどのご主人がやってこられました。歴史のことがお好きらしくて、質問する度に教えてくださいました。この多岐原神社は、手持ちの知識では、伊勢神宮の摂社であることと式内社であることぐらいで、他には何も知りません。

教えていただいたことを書きます。
①神社には、瀧原宮から毎日、お祈りにこられる。
②伊勢神宮と同様に、遷宮が行われること。
③遷宮のときは、白装束の人が、来られて夜間に行われること。建物は、釘は使わないで立てられる。
④写真には写っていませんが、社の前に鳥居があります。3年前のときに、この鳥居の上から1.2mのところまで、川の水が使ったこと。降りてきたときに、そこに田がありましたが、その田も水に浸かったこと。
⑤左の写真の前に道があります。氾濫した川は、その道の下にあり、宮川という川であること。
⑥ この集落は三重県度会郡大紀町三瀬川です。どうして、三瀬というかと言いますと、上流から流れてきた川は、集落のところで狭くなっているそうです。三つの瀬があり、この瀬の所しか、川を渡ることはできないそうです。その内の一つが最近まで利用されて、渡しが残っていたそうです。
⑦ 伊勢から熊野へ行く街道筋であったらしく、この渡しでは、江戸時代には、宿が5,6軒あったことが記録に残っているそうです。
⑧はじめに、お尋ずねしました山の名前は、「ゴウド」でした。   

反対から見た多岐原神社の写真があります。
http://www.genbu.net/data/ise/takihara2_title.htm

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2007.11.18

No78 瀧原宮と倭姫命世記

瀧原宮で頂いたしおりは、伊勢神宮に残されている【倭姫命世記】を参考にして書かれています。
【倭姫命世記】は、神道五部書の一つで、五巻からなります。 768年禰宜五月麻呂の撰録と伝えられるが、鎌倉時代、伊勢外宮の度会氏が編纂したものとされています。

その全文は、【倭姫命世記】
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/sintou_gobusyo/yamatohime01.htm においてみることができます。
この中の瀧原宮に関する部分を書き出します。
 従其処指河上乎幸行波。砂流速瀬有支。于時真奈胡神参相渡奉支。其瀬真名胡御瀬号弖御瀬社定給支。
従其処幸行。美地到給奴。真名胡神爾。国名何問給支。大河之滝原之国止白支。其処乎宇大之大字禰奈乎為天。荒草命茢掃天。宮造令坐支。此地波。皇太神之欲給地波。不可有悟給支。其時大河自南道。宮処覔爾幸行爾。美野爾到給支。宮処覔侘賜比。其処平和比野止号支。

翻訳は、
そこから河上を指して幸行すると、砂流れる速き瀬があった。真奈胡弓神が現はれ参上して、御船をお渡しした。その瀬を真奈胡御瀬となづけて御瀬社を定められた。

 そこから幸行して美き地に到った。真奈胡神に、「国の名は何そ」と問ふと、「大河の滝原の国」と申上げた。その地に、宇大の大宇祢奈に荒草を苅り掃ひさせ、宮を造って坐さしめたが、この地は、皇太神の欲ほし給ふ地には有らずと悟った。また大河の南へ宮処を求めて幸行するに、美き野に到って、宮処求め侘びて、そこを和比野となづけた。

上に書きました「そこから河上を指して幸行すると」のそこからは、ここに書かれている前の「相鹿瀬」のことです。新たに落ち着ける場所を求めて、河上に向かわれたことになります。
 三瀬の渡しのところに、御瀬社を定めたとあります。これが現在、三重県度会郡大紀町三瀬川に鎮座します多岐原神社です。祭神は、女性の麻奈胡神。皇大神宮の摂社です。

宇大の大宇祢奈に荒草を苅り掃ひさせ、宮を造ったとあれます。これが、現在の瀧原宮です。ここも満足できず、和比野に行かれたことになります。

No26において、瀧原宮のしおりに書かれている由緒を書きました。それと、此処に書きました倭姫命世記の記述は、ほぼ、同じものです。

【倭姫命世記】は、 「768年禰宜五月麻呂の撰録と伝えられる」と書きましたが、これは伝承とされ、正しいとは限りません。「鎌倉時代、伊勢外宮の度会氏が編纂したものとされています」

瀧原宮と多岐原神社は、両方とも式内社です。ということは、延喜式年間には、両社ともに、存在したことになります。全国に延喜式内社は3000を超えますが、式内社が、数年で決定したのではなく、長い年月をかけて、最終的には延喜式格に掲載されたことになります。
倭姫命(やまとひめのみこと)は、第11代垂仁天皇の第4皇女。母は皇后日葉酢媛命です。第10代崇神天皇の御代に、宮中でお祭りされていました天照大神は宮中でお祭りするわけにいかなくなり、皇女豊鍬入姫命にお世話をする役を任せますが、倭姫命が後を継ぐことになります。
倭姫命は天照大神が鎮座されるところを探されたことが、720年に完成した日本書紀に書かれています。
どのように探されたかは、宇陀の篠幡に行った。次は近江国に入り、美濃を巡って伊勢国に至ったとあります。
 天照大神が言われるには、「伊勢国はしきりに浪の打ち寄せる,傍国の美しい国である。この国に居りたいと思う」といわれました。そこで大神の言われるままに、その祠を伊勢国にたてられた。そして斎宮を五十鈴川のほとりに建てた。これを磯宮という。天照大神が始めて天より降られたところである。

天照大神を奉斎する地は、『倭姫命世紀』によると、次のような順番で変遷した。

1倭笠縫邑 2.丹波国吉佐宮 3.木の奈久佐浜 4.宮倭伊豆加志本宮 5.吉備名前浜宮 6.弥和の御室嶺上宮 7.宇太乃秋宮 8.佐々波多宮 9.伊賀隠市守宮 10.伊賀国穴穂宮 11.伊賀国敢都美恵宮 12.淡海甲可日雲宮 13.近江国坂田宮 14.美濃伊久良河宮 15.尾張国の中島宮 16.三河国渥美宮 17.遠江国浜名宮 18.伊勢国の桑名野代宮 19.鈴鹿国名具波志忍山 20.阿佐加藤方片樋宮 21飯野高宮 22.佐々牟江宮 23.伊蘓宮 24. 滝原宮 25. 久求小野宮 26. 矢田宮 27.家田田上宮 28. 奈尾之根宮 29. 伊勢渡会宮    
           
  「皇大神宮儀式帳」によれば
A..宇太乃阿貴宮 -宇太佐々波多宮 -B.伊吹穴穂宮 -C.伊吹阿閇柘植宮 -D.淡海坂田宮 -E.美濃伊久良賀宮 -F.伊勢桑名野代宮 -G.鈴鹿小山宮 -H.壱志藤方片樋宮 -I.飯野高宮 -J.多気佐々牟江宮 -K.玉岐波流磯宮 -L.宇治家田田上宮.
平成12年10月2日に、「天照大神の伊勢遷祀と元伊勢」
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page201.html
のタイトルで元伊勢のことを書いています。今読みますと、自分の文章が良く理解できません。
 『倭姫命世紀』に書いてある神社を、すべて周りますと、天照大神がどうして伊勢に祀られたのか判るだろうと訪れました。書いたものの良く判りませんでした。
その後、考えることは続けまして、タイトルを「元伊勢物語」
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page199.html

上に書かれている元伊勢以外にも、私たちのところも元伊勢だと言っているところがいっぱいあります。
前に書きましたように、日本書紀には、少し書いてありますが、古事記には書いてありません。
一か所に滞在した日数が、4年ぐらいが多いということは、4年で出来ることをしながら、天皇家の勢力を伸ばそうとしたのではないかと考えました。しかし、その証拠は見つかっていません。古事記の編纂者である太安万侶は書きたくなかったか、調べはしなかったのでしょうか?
知っていたが書きたくなかった。書いたけれども、誰かが末梢してしまった。

いろいろ考えることは可能ですが、その証拠となりますと用意できません。その時まで、待つことにします。

次回は 多岐原神社のことを書きます。 

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2007.11.15

No77 瀧原宮と瀧原竝宮と多岐原神社 3

No76からの続きです。
疑問その2  
「宮川下流の磯宮をお発ちになり、上流の方に御鎮座の地を求めてお進みになると」
とありますが、「宮川下流の磯宮」とは、どこでしょうか?

日本書記の垂仁天皇の25年の所に、「到伊勢国。時天照大神誨倭姫命曰。是神風伊勢国。則常世之浪重浪帰国也。傍国可怜国也。欲居是国。故随大神教。其祠立於伊勢国。因興斎宮于五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大神始自天降之処也。」と書かれています。アマテラスが言われるには、「・・・・傍国の美しい国だ。此の国に居りたい。・・・・伊勢国にその祠を立てられた。そして斎宮を五十鈴川のほとりに建てた。これを磯宮・・・・」と。
ということは、今の内宮を磯宮と読んだことになります。
 しかし、内宮は、五十鈴川の下流にありますが、宮川下流にはありません。もし、磯宮が内宮であれば、「上流の方に御鎮座の地を求めてお進みになる」必要はありません。
瀧原宮 参拝のしおりに書かれている磯宮は、倭姫命が御巡幸した中に、磯宮・伊蘓宮がありますから、これかも知れません。
三重県伊勢市磯町1069 に 、磯神社があります。ここも以前は、違うところにあったそうですが、この神社ですと、「宮川下流の磯宮」に一致します。しかし、磯神社は伊勢神宮の百二十五社に入っていません。

「宮川下流の磯宮」は、磯神社でもなく、日本書記に書かれているように、先ず、宮川の下流に、祠を建て、近くに斎宮を建てたのではないでしょうか? このことは、また、別の機会に書こうと思っています。

疑問 その3
「両宮とも皇大御神の御魂を奉斎しているのは、」とあります。御魂とは、どのようなものでしょうか? 又、広辞苑で調べることになります。ミタマで検索しますと、「御霊」はありますが、「御魂」はありません。他の方法で調べますと、
神の御魂(みたま)には「荒魂」(あらみたま)としての働きと「和魂」(にぎみたま)と言う
働きがあると考えられているとあります。

荒魂とは神の荒ぶる魂であり、天変地異を引き起こし、伝染病を流行らせ、人心を荒廃さ
せて戦争へと駆り立てるのです。これに対して、和魂とは優美で穏やかな魂を指し、人間
に自然の恵みをふんだんに与え、人類社会を平和に導くのです。
さらに和魂には「幸魂」(さきみたま)と「奇魂」(くしみたま)と言う二種類の作用がある
とされていますが、簡単に申し上げますと、幸魂は狩りや漁の収穫をもたらすものであり、
奇魂とは、人間に不思議な奇跡をもたらすものとされています。・・・・・と解説されています。これは、「御霊」とは確かに違うような気がしますが、一層理解困難になります。
ご由緒は、いい加減なことを書いてと思っていましたら、この文章の元になるものは、伊勢神宮に残されている【倭姫命世記】というものと、殆ど内容が同じであることが、判りました。
次回は、【倭姫命世記】のことを書いてみます。

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2007.11.11

No76瀧原宮と瀧原竝宮と多岐原神社 2

鎮座の由来 (瀧原宮 参拝のしおり より)
 第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が、御杖代(御使い)として天照坐皇大御神を奉戴して、宮川下流の磯宮をお発ちになり、上流の方に御鎮座の地を求めてお進みになると、砂をも流す急流の瀬があり困っておられたので、真奈胡神(まなこのかみ)がお出迎えをしてお渡し申し上げた。
そこで命はそのところに真奈胡神をまつる御瀬社(みせのやしろ)をお定めになったのが、今の皇大神宮摂社「多岐原神社」であるという。瀧原宮の下流約6Km
大宮町三瀬川の宮川に臨む断崖の上に鎮座されている。近年までここに熊野街道の「三瀬の渡し」がありました。
倭姫命はさらに真奈胡神の案内でお進みになると、「大河の瀧原の国」という美わしい土地があったので、この地に草木を刈り払って新宮を建てられたのが、瀧原宮の起源です。
 そののち皇大神宮の御神意によって、再び伊勢の方へ向かわれたので、瀧原に御滞留の期間はさほど長くなかったと思われます。この御由緒によって御遷幸後もかわることなく、皇大神宮を奉斎して今日に至っています。
なお、両宮とも皇大御神の御魂を奉斎しているのは、皇大神宮に皇大御神を奉祀し、同別宮荒祭宮に皇大御神の荒御魂を奉斎する姿の古い形と考えられます。

以上です。
 意地が悪いようですが、この由緒では納得いきません。納得いかない点を検討してみます。
その1 御杖代(御使い)
 御杖代の意味が判りません。神社の方は、解からない者のために、(御使い)と書いておられます。誰が使いに出したのかと言いますと、その時の天皇だと思われます。では、どのような使いをするのかが、理解できません。「御杖代(御使い)として天照坐皇大御神を奉戴して、宮川下流の磯宮をお発ちになり、上流の方に御鎮座の地を求めてお進みになると」と書かれていますが、「奉戴」するとは、具体的になにをするのでしょうか? 天照坐皇大御神は、亡くなられて遺骨もないと思うのですが・・・。
 そこで、カシオの広辞苑/マイペディアで調べますと、
大神・天皇などに、その杖代わりとなって奉仕する者。多く、伊勢神宮の斎宮(さいぐう)にいう。皇太神宮儀式庁「豊すき入婦命を以て御杖代として」と例を挙げています。
 使い方として、伊勢神宮のことが例として挙げられていますから、説明になりません。参拝しおりよりは、判り易いですが、杖代わりとは具体的になにを指すのか、馬を引いた人も入るのかと屁理屈をこねますと、広辞苑の説明は正しくないことが判ります。御杖代となった皇女倭姫命は、上流の方に御鎮座の地を求めることが、仕事であったと書いてあります。一人で、探すことはできませんから、仮に100人の集団で行っていたとしますと、皇女倭姫命は、その集団の責任者ということになるでしょうか?
そこで、インターネットで御杖代をキーワードにして検索しましたら、出雲の「火継式」のことを書いた文の中に、御杖代がありました。その一部を記します。

「火継式」とは國造代替わりの襲職儀礼で代々の國造が仕えてきました。「火継式」の「火」は「ヒ」すなわち「霊(ヒ)」であり、 始祖神天穂日命の御霊威(ごれいい)を継承する儀礼です。この火継式により、代々の國造に天穂日命が生き通し、
御杖代(みつえしろ:大國主大神様の御霊威が宿る存在)として大國主大神様に仕えます。
http://www.izumooyashiro.or.jp/kokuso/kokuso2.html

難しいですね。書いた人は判っておられるのでしょうが、また、意味が判りません。国造を交代するときに、「火継式」をすることによって、国造の始祖に当たる神天穂日命の霊がのりうつるのでしょうか? いや、霊ではなく、御霊威なのだ???
神天穂日命の神は、どうしてついているのでしょうか? 天之菩卑能命、天穂日命、天菩比神ならわかるのですが・・・。
 天穂日命は、アマテラスとスサノオが誓約をしたときに、アマテラスの右のみずらに巻いた勾玉から生まれた。物実の持ち主であるアマテラスの第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたのます。葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主を説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間高天原に戻らなかったと古事記に書かれていますが、その後ろの所に、天穂日命は漢人であるから気をつけるように書いています。
 出雲だけではなく、その他の国造も、同じ漢人ですよと書いています。
お解りですか? 先に紹介しましたページは、「第84代出雲國造千家尊祐(たかまさ)様火継式」のことが書かれています。
出雲は伊勢に次いで、式内社が多いです。出雲大社は、伊勢神宮と同様に、藤原氏の勢力が及んだ式内社に囲まれて、身動きが取れないようになっていました。
式内社分布 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html

祭神である大国主も出雲大社のことも、日本書記は書きませんでした。

又、話題がそれましたが、御杖代は、広辞苑にありました「大神・天皇などに、その杖代わりとなって奉仕する者。」は正しいことになります。ただ、出雲と伊勢において通用する言葉であるらしいです。
出雲のことから、考えますと、天皇が変わりますと、天皇が自ら、儀式をしてアマテラスの偉大なる力を頂くことになるのに、それはしないで、どうして、皇女倭姫命に任せることになったのでしょう。その後、天皇が、そのような儀式をすることもなく、伊勢神宮に参拝することは、持統天皇と明治天皇まではありませんでした。
 これをどのように理解するのか、皆さんで考えて頂きたく思います。
これで、私の御杖代の疑問は終わりにします。

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2007.11.08

No75 瀧原宮と瀧原竝宮と多岐原神社 1

No66から志摩国の式内社のことを調べて書きました。志摩国には、式内社が少なくて3座しかありません。インターネットで調べると、多くの人は、3座のうち、2座は、内宮別宮である伊雑宮と伊雑宮の所管の佐美長神社とされ、もう一つは、安楽島町の伊射波神社であるとされています。
 しかし、私は、これは間違いで、延喜式神名帳には、
粟嶋坐伊射波神社二座
粟嶋坐神乎多乃御子神社
 と書かれてあり、粟嶋は安楽島の古名です。従いまして、粟嶋は現在の安楽島町になりますから、伊雑宮と佐美長神社を志摩国の式内社に比定することは、間違っていますと書きました。

伊射波神社は、イザワジンジャです。伊雑宮もイザワノミヤというように、「イザワ」と読むことができないのに、無理やりに読ませています。これは、日本書記が、徹底的に古事記に書かれている漢字を書き換えた手法と同じことをしていると感じます。まだ、結論を出すことはできませんが、伊雑宮は、藤原氏によって造られた神社ではないかと想像しています。

今回は、タイトルに書きましたように、全部「タキハラ」と読む神社の名前になっています。「イザワ」のときと、同様に、瀧原宮と瀧原竝宮は、藤原氏が、後の世に別宮として造ったのではないかと。その証拠となるようなものがあるかどうか。そこで、今回も、11月3日、4日と現地に行ってきました。

私が、収穫してきたことを書きます。できれば、どなたかが、又、行かれまして、もっと他のデーターを収集して頂ければと思っています。

 瀧原宮と瀧原竝宮は、伊勢神宮の内宮に所属し、宮域外に八つある別宮の一社です。
http://www.isejingu.or.jp/naigu/naigu2.htm 
祭神は、天照坐大神皇大御神御魂
所在地は、三重県度会郡大紀町滝原872。
 伊勢神宮のホームページに書かれている瀧原宮を訪れますと、社務所とみられる建物(宿衛屋)の裏へ下る道があります。川幅5m ぐらいの川に出ます。御手洗場です。川の名前は、頓登川です。この川は、大内山川といい、延長約40kmの宮川第一の支流である大内山川に合流すると思います。(不確かです)
奥に正殿が二棟あり、左が瀧原竝宮、真ん中に瀧原宮があります。右に、やや小ぶりの若宮神社が南に向いて並んで鎮座しています。瀧原宮と瀧原竝宮の鰹木は、6本です。若宮神社(祭神—若宮神)も、6本ですから若宮神社は、瀧原宮と瀧原竝宮と同じ格であることになります。(若宮神社の左には御船倉があります)
東に位置するところには、もう一つの社があります。長由介神社です。この神社には、川島神社が一緒に祀られています。社の建て方は、他の社と同様ですから、古くからあるように思われますが、詳細は不明です。 
 ということで、瀧原宮には、5つの神社が祀られています。この敷地の東側に、同じ広さの空き地があります。ここは、古殿地と呼ばれ、20年毎に行われる式年遷宮の代替え地です。

瀧原宮の鎮座地は上に書きましたが、どこにあるかと言いますと、伊勢神宮の外宮の西側に宮川があります。この川を40Kmほどさかのぼったところにあります。別宮では、最も遠い所にあります。
伊勢神宮のなかには、多くの謎がありますが、瀧原宮の位置が遠すぎるのも、その一つになります。それに加えるに、瀧原宮の隣に瀧原竝宮があることも謎です。また、同じ敷地に、若宮神社と長由介神社と川島神社があることも謎です。

もう一つの謎を書きますと、瀧原宮と瀧原竝宮と、やはり別宮である伊雑宮は、「延喜式」には、「大神の遙宮」すなわち遠隔の宮という説明は付けられていますが、祭神名は記されていません。ところが、神社の由緒にも、目にした本にも、天照大御神の御魂を祀っていると書いてあります。

これ以上のことは、瀧原宮で頂いた「参拝のしおり」ぐらいです。
次回は、この謎に挑戦してみようと思います。

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2007.11.06

No74 志摩に見られる難読地名

前回、志摩に見られる難読地名をあげておきました。読むことができたでしょうか?

今浦、本浦、浦村町 生浦おうのうら、石鏡いじか、国崎くざき、麻生おおの、相差おうさつ、畔蛸あだこ、安乗あのり、阿瀬あせ 波切なきり
安久志、安楽島あらしま-、加布良崎かぶらさき、千賀せんが、安来、的矢、阿津麻利崎、畔名あぜな、甲賀こうか、和具わぐ、越賀こしか、大王だいおう、御座ござ、阿児あご、英虞あご、飛海、立神たてがみ、麻倉島、阿曽あそ

波切---平城京から出土した木簡より、同地地名がいくつか発見されている。年代がわかっているもっとも古い木簡は天平17年(745年)であり名錐の地名が、それ以前と思われる(年代不詳)ものからは魚切里がそれぞれ見られる。平安期に書かれた和名抄にも名錐、神鳳鈔では名切、吾妻鏡では菜切と書かれている。
畔名--神鳳鈔に安瀬名とある。
立神---三重県の立神は、どのようにして名が付けられたか調べていません。
   参考立神コレクション  http://uub.jp/nam/tategami.html
  上の立神を眺めますと、鹿児島が多いです。鹿児島市内の立神をクリックしますと、近くに地名「日置」が見えます。一志郡一志町,にも 日置があります。

自分が、前もって読んでいた地名が。全く違う地名が多かったというだけのことです。

ただ、読むことができない地名は、ユダヤ人と関係があると考えているだけです。

大王は、イザナギと関係? 、御座は、天皇がおられた所?
その他には、「あ」と「お」の字がつく地名が多い?
海岸に近いところが多い。
阿曽あそは、阿蘇と関係はないか?

このようなことから、
①神武天皇が東征のとき、一時おられたのでは?
②ユダヤ人も住んでいたのでは?
③測量の得意な日置さんが、おられたのではないか?
  今後の研究課題です。

日置地名 http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page179.html
随分、以前に調べようとして断念したページです。

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2007.10.22

No73 志摩国の地名 その2

まず、地名「大王」と「御座」が、どうして気になったかです。
「大王」の方の「大」は、天照大神な偉大な人にしか使われません。そこで、全国にどれだけあるか調べました。
青森  東経141度06分
栃木  東経139度38分
新潟  東経138度05分
三重  東経136度53分
岡山  東経133度45分   北緯34度52分
宮崎  東経131度06分   北緯31度57分
鹿児島 東経130度41分   北緯31度55分

 7ヶ所というように少ない地名は、特殊な地名になります。滋賀県の近江八幡市に「白王」という地名があります。 白王http://homepage1.nifty.com/o-mino/page157.html
イザナギはどこへ行ったか http://homepage1.nifty.com/o-mino/page669.html
 もっと沢山の理由から、近江八幡市の「白王」は、白狄人であったイザナギが住んでいたのではと推察しています。では、「大王」は誰が住んでいたのかとなりますが、判りません。

一方、 「御座」の方ですが、 
 福岡 東経130度56分 北緯33度48分  読み おざ                                        
 三重 東経130度56分 北緯33度48分  読み ござ
 福岡 東経130度53分 北緯33度48分  読み ござ
こちらも、少ないですから、特殊な地名です。京都府福知山に「天座」という地名があります。ここは、いろいろのことから判断しますと、アマテラスが、丹後にいる漢人の南下を防ぐために、出動したときの駐留地だと思われます。
『伊勢神宮は、元は大江町にあった』http://homepage1.nifty.com/o-mino/page704.html
に書いていますから、参考にしてください。
「天座」は、天皇家の皇祖神と考えられています。このことから考えますと、「御座」は、天皇が一時にせよ、住まわれたところではないかと思います。
伊勢神宮は、11代の垂仁天皇の御代に造られたことになっています。その後、天皇が伊勢志摩に来られたのは、古いところでは持統天皇だけですから、行幸すら反対されたのですから、
あると述べています。天皇を襲う恐れがあったからこそ、行幸しないように止めたとしますと、理屈が成り立ちます。大神神社の神官が、藤原氏の息がかかっていたことになります。当然です。大神神社は伯耆の国にあったのに、無理やりに奈良に移した形跡があります。「御座」に住んでいたとは考えにくいです。
では、誰だと言いますと、神武天皇しかないのではないかと思います。
神武天皇は、東征の折、和歌山の新宮から山中を行軍して、奈良盆地に到達したことになっています。
その時に、神武天皇自身が、この御座に駐留して、伊勢から奈良を攻撃したのではないでしょうか? その時に、通った道が、熊野街道(42号線)ではないかと推理しています。
この道の途中に、大宮町があります。大宮町には、伊勢神宮の別宮である滝原宮があります。神武天皇が休憩された所に、祠がたてられたのではないでしょうか? 垂仁天皇の御代に伊勢神宮が造られた時に、別宮にされたかどうかは、今後の調べによります。
滝原宮http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%A7%E5%8E%9F%E5%AE%AE の位置は、正宮から一番遠い所にあります。こんな遠くにどうして、造らなければならなかったか、理由が見つかりません。滝原宮は、奈良から伊勢へ、伊勢から奈良への天皇家の移動をチェックするために、式内社の名を借りた、藤原氏の布石ではないかと推理しています。

以上は、推理の連続ですが、神武東征は、伊勢からも攻撃の構えを見せた、又は伊勢への退路を断たれたために、ニギハヤヒは降参したのではないでしょうか?

付け加えますと、神武東征の折、高島宮で、8年間留まったということが、古事記に書かれています。岡山県に高島というところが、3ヶ所ありましたので、2ヶ所行ってきました。一つは笠岡市になりますが、神島(こうのしま)から、船に乗らないといけません。この島に、「王泊」という地名があります。神武天皇のころは、天皇とは言わないで、「王」といったのではないでしょうか? ここに8年間住んでいたのではなく、数日間泊まったのではと勝手に想像しながら、休日を楽しんできました。
http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/archive/20061106
さて、大王はどうでしょうか? +

神武東征は、ユダヤ人の協力がなければ、達成することはできなかったと考えています。
前回に紹介しました難読地名
安久志、安楽島、加布良崎、相差、千賀、安来、的矢、阿津麻利崎、畔名、甲賀、和具、越賀、大王、波切、御座、阿児、英虞、飛海、立神、麻倉島、阿曽

読むことができましたでしょうか?
岡山県の美作あたりの地図を広げてください。難読地名がいっぱいです。ユダヤ人を表す「神」の字がつく地名もいっぱいです。

次回も、この地名を眺めてみようと思います。 

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2007.10.19

No72 志摩国の地名

No66からNo71まで、志摩国の式内社のことを書いてきました。この国は、式内社が少なくて調べ易いので、手を出してみようと思いました。お隣の伊勢国は、式内社が253社もあります。その内の125社は、伊勢神宮の摂社です。
 何度も書きますが、式内社には、天皇家の皇祖神であるアマテラスは祀られていません。
式内社は、藤原氏が支配していた神社です。なぜ、伊勢国に式内社が多いのかと言いますと、内宮と外宮の正宮を253の式内社で封じこめたことになります。
 このように考えますと、歴代天皇が、伊勢神宮へ参らなかった理由が解けるような気がします。ある人によりますと、歴代天皇が参拝しないのは、アマテラスが皇祖神でないからだという方もあります。しかし、参拝された天皇もおられます。持統天皇と明治天皇のお二人だけです。持統天皇のときは、大神神社の神官が、二度にわたって、行幸しないように進言したことが、日本書紀に書かれています。反対した理由が農繁期で農民が多忙であると述べています。天皇を襲う恐れがあったからこそ、行幸しないように止めたとしますと、理屈が成り立ちます。大神神社の神官が、藤原氏の息がかかっていたことになります。当然です。大神神社は伯耆の国にあったのに、無理やりに奈良に移した形跡があります。
 私は、伊雑宮は式内社ではないと思うことを書いてきました。これを証明することは、至難のことだと思いますが、いつかは、挑戦しようと考えています。

正宮は253の式内社によって、保護されていたのではなく、正宮神宮へは、斎王しか参ることができなかったのではないかと思っています。ところが、英虞湾から伊勢神宮に侵入しようとするものは、志摩国の式内社でチェックしようとしましたが、僅か、3社しかなかったことになります。それだけ、天皇家の支配力が強かったことになります。
 なぜ、強かったのかも知りたかったのですが、そのようなことを書いたものはありません。ところが、地名から解決できるのではないかと思っています。

話が逆になりましたが、志摩国の式内社に行くときに、もう一つの目的がありました。それは、地名「大王」と「御座」を訪れて何かのヒントを掴みたいと思いました。どこにあるかと言いますと、英虞湾を形作っている南側の半島にあります。「大王」は半島の根元に当たるところにあり、大王埼のある所です。
 なぜ、このような名前が付いているのか知りたかったのです。

ところが、こちらの方は判りませんでしたが、ここへ行く道中に不思議な名前の地名を見つけました。
安久志、安楽島、加布良崎、相差、千賀、安来、的矢、阿津麻利崎、畔名、甲賀、和具、越賀、大王、波切、御座、阿児、英虞、飛海、立神、麻倉島

地名は多くは、見ただけで、どうして名前が付けられたか想像できるものですが、上記の地名は、意味は勿論のこと、読むこともできません。私は、このような地名を難読地名と読んでいます。
次回に地名に関連して、なにか書こうと思います。

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2007.10.15

No71伊勢神宮の別宮

志摩国の式内社を見るために行ってきました。 調べに行くと言いましても、現地に行っても、誰にも会うことはできません。仮に出会ってもお話もできません。
現地へ行って考えたことを、「楽しい人生」http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/
のNo66からNo70まで書きました。読んでいただきましたか?

重複しますが、
志摩国には、式内社が三座あります。延喜式神名帳には、
粟嶋坐伊射波神社二座
粟嶋坐神乎多乃御子神社
 と書いてあります。ところが、多くの人は、3座のうち、2座は、内宮別宮である伊雑宮と伊雑宮の所管の佐美長神社とされ、もう一つは、安楽島町の伊射波神社であるとされています。安楽島町の伊射波神社は、粟嶋坐伊射波神社で良いと思いますが、あとの二つは違うと思います。いろいろ考えましたが、良く分りません。このようなときは、無理をしないで置きますと、その内に解決すると思っています。

目的とするところではありませんでしたが、伊勢神宮の内宮にお参りしました。伊勢神宮には、何回も行っていますが、今回は、本殿の後ろにある荒魂宮、御稲御倉、御酒殿、外幣殿も回りました。 地図 http://www.isejingu.or.jp/shosai/naiku/naiku.htm
本殿の西側に空き地があります。次回の遷宮の時に、正殿が建てられるところです。この空地に、犬小屋のようなものがあります。これは、何であるかは説明がされていません。
説明があれば、読んですぐに忘れるのですが、書いてないとなりますと気になります。(判りません)
このより道が、今回の志摩国訪問の価値を高めました。
伊勢神宮は、正式には単に、神宮と呼び、他に神宮と呼ばれている神社と区別するために、「伊勢の神宮」と言うとあります。神宮が管理する宮社が125あり、125社の頂点は外宮・内宮の両正宮で、そのほかに、14の別宮、43の摂社、24の末社、42の所管社がある。一般に呼ばれる内宮は、皇大神宮と呼ばれ、外宮は 豊受大神宮と呼ばれています。
 このようなことを知ることになりました。
別宮は「わけみや」の意味で、神宮の社宮のうち正宮に次ぎ尊いとされると説明されています。この尊い神社という意味が判らないのですが、それよりも、私が伊勢神宮と書いている神社はないことになります。この辺りは、まだ我慢できるのですが、訳のわからないところがあります。
 内宮の後に、伊雑宮と佐美長神社にも行きましたが、別宮は荒魂宮と伊雑宮の2ヶ所に行ったことになります。
この別宮がまた、なんのことか判りません。もっとも、判らないのは、外宮・内宮の両正宮以外は、すべて、式内社であるとされています。

おかしいですね。こんなことを言われましたら、私が主張しています日本史は崩壊です。私の主張とは、
式内社は、天皇家の神社ではなく、藤原氏の支配が及んだ神社というのが、日本史解明の重要なポイントになるものです。藤原氏の支配が及んだ神社どころではありません。天皇の反対勢力の拠点となったところです。
 延喜式神名帳が完成したのが、延長5年(927年)です。延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社であり、そこに鎮座する神の数は3132座です。
藤原氏は、自分の支配力が及ぶところに、2861の事務所を置いたようなものです。

上に書いてあることが、正しいとして、又、私の理屈も正しいとしますと、おかしいことになります。正宮以外は、すべて、天皇の敵の神社に囲まれていたことになります。
 このように考えますと、次の事件の謎が解けるかも知れません。

皇大神宮の創建は垂仁天皇の時代(約2000年前)と言われています。この頃は、天皇家の皇祖神を祭る神社であったと思われますが、なぜか、天皇が参拝された記録があまりありません。持統天皇が伊勢神宮にお参りしたいと言ったことが、日本書紀の持統紀に書かれています。大反対に遭いました。反対の理由が、農繁期で多忙だからとかかれています。ということは、絶対参ってはいけないことではなかったはずですが、参拝するには、相当反対する人がいたことになります。その後、明治天皇まで参拝したという記録はなかったと思います。
 本当は、いくらでも参拝するひとはあったが、日本書紀では、掲載したくなかったのかも知れません。そうであれば、持統天皇の事件のことも日本書紀に書かなくても良かったと思われます。日本書紀は、天皇が伊勢神宮に参拝する記事は書きたくなかったのだと思います。
天武天皇と持統天皇は、広瀬・竜田の神を祭られたことが、日本書紀に書かれています。どれぐらい頻繁にお祭りされているかはも書きだして頂きますと、驚くほどです。
実際に神社まで行かれたかどうかは判りませんが、そのための行宮は、10年10月に完成し、
12年7月4日には、天皇が、直接に広瀬に出かけられたことが記されています。
「楽しい人生」のNo30に書いています。
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2006/10/index.html

このように、重要視されていたことは、日本書記も丁寧に書いています。では、伊勢神宮の参拝のことは、どうして書かれていないのでしょう。天皇は参拝はされたが、藤原氏が書きたくなかった。また、周りが藤原氏の勢力範囲ですから、危険で参拝できなかった。などが考えられます。
 それが、どうして、<別宮は「わけみや」の意味で、神宮の社宮のうち正宮に次ぎ尊いとされる>として、仲良く鎮座しているのでしょう。

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2007.10.11

No70 神乎多乃御子

この神の名前が気になります。神の名前の前に「神」が付くのは少ないです。人名も含めて「神」が付くものを列挙します。

①神産巣日神  この神は古事記の最初に登場する三柱のうちの一です。  
②神大市比売--大山津見神の娘  スサノオの一番目の妃  大年神と、うかの御魂を産む
③神阿多都比売---別名--木花之佐久夜毘売 (ニニギと笠沙の岬で出逢い求婚される)
       石長姫神(いわながひめのかみ)・木花知流姫神(このはなちるひめのかみ)・神大市姫神 (かむおおいちひめのかみ)の姉妹
③神活須毘神--大年神妃の一である伊怒比賣の親
④神屋楯比売- 事代主神の母  (大国主神の一番目の妃)
⑤神渟名川耳尊--イスケヨリ姫と神武天皇の間の子供(のちの綏靖天皇)
⑥神八井命  - イスケヨリ姫と神武天皇の間の子供
  参考・比売多多良伊須気余理比売=媛蹈鞴五十鈴媛命(紀)
⑦神倭伊波禮毘古命 (日本書紀では、神日本磐余彦火火出見天皇)

私が、凄いと思うのが、神産巣日神です。 なにが、凄いかと言いますと、日本の建国に最初に携わった人だからです。この神は、日本書紀には、取り上げられていません。ただ、第4番目の書に、神皇産霊尊の名前で登場します。皇産霊を「みむすひ」と読むと、日本書紀では断っているために、古事記の翻訳者は、「産巣日」に同じく、「みむすひ」とふりがなを打っておられます。
 本当は判らないので、読み方は入れない方がいいと思います。
古事記では、一番に天之御中主神をあげて、3番目が神産巣日神です。次の所に神産巣日神のことを書きましたので、読んでください。
http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/archive/c35373229

古事記が挙げたはじめの三人の神は、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神です。産巣日は、良く判りませんが、出身地の地名だと考えています。
②大市、③活須、④屋楯、⑤渟名川、⑥八井、⑥倭 も同様に考えていますが、どこだと聞かれますと返事ができません。
天之御中主神の「天」は、「滇」で、中国は雲南省の出であり、「神」はユダヤ人の出だと決めつけています。そうしますと、なぞの部分が解明されるからです。

日本書記の編纂した人は、古事記を参考にして書いたはずですのに、古事記の神産巣日神を神皇産霊尊と書き換えたのかを考える時に、私はへそ曲がりですから、日本書記の編纂者は、苗族とユダヤ人は、書きたくなかったのだと考えています。

神乎多乃御子は、ユダヤ人で、尾田に住んでいた人です。

このように書きますと、反対される方が殆どだと思います。どうして反対されるかを書いてみます。
神阿多都比売の神は神聖なることを意味しますと書いてある方がおられます。では、どのようなことをもって神聖というのか、説明されなければなりません。 神阿多都比売以外の人もどうして神聖なのか、なにか共通するものがあるはずです。

阿多は、地名と考えられたのは、私と同様ですが、阿多は、鹿児島に阿多郡がありましたから、此処だということになったと思います。勿論、海岸で出会ったことになりますから、野間海岸です。次のホームページに写真を掲載された方も、そのように思っておられることになります。
http://www2.dwc.doshisha.ac.jp/iwanohim/nomamisaki.htm 
ニニギ命が神阿多都比売に出会ったのは「笠沙御前」であると古事記に書いてあります。ここがどこであるとは書いてありませんが、古事記の翻訳をされた倉野という方は、ほんの中の注釈に、「薩摩りくに、阿多郡の阿多」と書いておられますから、全員此処だということになったと思います。
ニニギ命が高天原から降り立った所は、「ここは韓国に向かい、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の照る国なり」と古事記の少し手前に書いてあります。笠沙の御前とは、砂丘でしょう。小さな砂の丘が、笠のようにぽっかりとかさなるような光景のところで、そこは岬になっていて、海岸から眺めますと、韓国が見えるのだと。朝日も夕日もきれいなところですと書いてあります。この海岸で、ニニギ命は阿多姫にであったのです。

別のホームページでは、次のように書いておられる方もあります。
「阿多」は、今の鹿児島県加世田市から野間半島にわたる地域。神代紀下に「吾田長屋笠狭之碕」とある「吾田」で、阿多隼人族の本拠地であった。

 この方は、神阿多都比売は、阿多隼人族の先祖であると考えておられるのでしょう。神阿多都比売は富士山の周辺の神社で祀られています。ニニギ命は、高天原から降臨した時に、神阿多都比売と出会いました。ということは、高天原は野間半島にあることになります。少なくとも、高千穂に降臨しましたから、高千穂は野間半島にあります。

折角、野間半島に神阿多都比売がいたと書いて楽しんでおられるのに、意地悪く、嫌なことを書きました。歴史界では、文字に書かれた資料、特に外国の文献や考古学資料は重要視されますが、地名は無視されると言っていいと思います。
 
 地名は、考古学以上に歴史を語ってくれると思っています。考古学の遺跡からは多くのことが判りますが、古墳からは、死んだ人が持っていたものが入っているだけだからです。だから、神阿多都比売の阿多は、野間半島の阿多というのは、見つけた人は素晴らしいと思うのですが、ただ、阿多が一致しただけでは、断定するのは無理があるように思います。

話は中途になってしまいましたが、本日はここまでとして、次回は、神乎多乃御子の周辺の地名について書いてみます。 

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2007.10.07

No69 粟嶋坐神乎多乃御子神社

志摩国には、式内社が三座あります。延喜式神名帳には、

粟嶋坐伊射波神社二座
粟嶋坐神乎多乃御子神社

このように書かれています。
粟嶋坐神乎多乃御子神社は、現在の神社ではどの神社なるかととなりますが、玄松子という方のホームページには、伊雑宮所官社の 佐美長(さみなが)神社とされています。伊雑宮から500mほど離れた所にあります。鎮座地の住所は、三重県志摩市磯部町恵利原 です。
玄松子は、粟嶋坐伊射波神社二座のうちの一座は伊雑宮としておられますから、志摩国には、式内社が三座とも、粟嶋にあると書かれているのに、磯部にある二座を比定されています。
「神奈備にようこそ」http://kamnavi.jp/en/mie/saminaga.htm

ここには、佐美長神社は長く大歳社と呼ばれてきたが、明治以降佐美長神社と称されていると記し、『倭姫命世記』に、穂落とし伝承が記載されている。その伝承に、伊雑宮が出来た経緯と、そこに出てくる真名鶴を大歳神として祭ったのが佐美長神社であると書いておられます。その根拠は、どうやら、『式内社調査報告』を参考にされたようです。また、佐美長神社は穂落宮、大歳宮、飯井高宮、神織田御子社などと呼ばれていたとも書いておられます。このようなことから、佐美長神社は、悪雑な歴史を背負ってこられ現在も鎮座していることは確かのようです。

粟嶋坐神乎多乃御子神社は、現在は海の底になってしまいましたが、加布良古崎の前海当たる長藻地という島嶼にあったと安楽島町の伊射波神社に置いてありました由緒に書いてありました。戦国の世地震によって、そこにあった社は海底1.8mに水没してしまいました。幸いご神体(石体)は村人らによって見つけ出され、現在は伊射波神社に合祀されていますと書かれています。

なんだか 昔話のようで、信じられないような話ですが、一応調べてみるつもりになりました。
「長藻地」というところが、資料に残っているかどうかです。インターネットで検索しました。「長藻地」はありませんでしたが、「長藻瀬」はありました。
第四管区海上保安本部が 平成19年6月に作成した作成した、
環境脆弱性指標図 (三重県-15)
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN4/esi/ESI_mie15.pdfがあります。
これは、全国の脆弱性なところを調査したうちの三重県のうちの一つであるらしいです。
この地図の中に、下ノ長藻瀬と沖の長藻瀬と名前が見えます。ここは、答志島の南の海です。長藻とは何かと言いますと、三重県では、ホンダワラ類の藻のことを言うらし
http://www.biodic.go.jp/reports/4-12/r176.html

 これを読んでいましたら、このようなことを全国的に調べるとは、感心もし、どのように調査するのだと思いました。調査は、海に潜ってするのではなく、漁師さんからの聞き取りとありました。そりゃそうですね。藻場には、魚が住みますから、魚場です。いつの時代でも地元の漁師は、どこが崩れ易い海なのか、どこに、長藻がいっぱいあるのか知っていたことになります。
 
「長藻地」は、かつては、島であったが、今では長藻瀬になっているところに付けられた所だと思われます。
このように考えますと、由緒にかいてある「戦国の世地震によって、そこにあった社は海底1.8mに水没してしまいました。幸いご神体(石体)は村人らによって見つけ出され、現在は伊射波神社に合祀されています」は、嘘ではなさそうです。
嘘でないとしますと、神社は島の上に祀られていたことになります。
粟嶋坐神乎多乃御子神社に祭られていた神さんは、「神乎多乃御子」です。乎多は「オタ」です。昔は、この辺りを「尾田」(加布良古の古名)と言いました。
『神功紀』によれば、「尾田の吾田節(あごとうし・後の答志郡)の淡郡(粟嶋=安楽島)に居る神(稚日女尊)とあります」と由緒書きにあります。
となりますと、伊射波神社と同じ祭神になります。御子とは、誰の御子なのでしょうか?

少し、無理があるかも知れませんが、大物主命の子供ではないかと推理しています。
次回は、その辺に迫ってみます。

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2007.10.03

No68 志摩国の式内社 その3

志摩国の式内社の三座をもう一度書きます。

粟嶋坐伊射波神社二座
粟嶋坐神乎多乃御子神社

大二座のうちの一座、伊佐波登美尊を祀った本宮は、安楽島町字二地の贄にありましたと由緒に書かれています。
昭和47年から61年にかけて鳥羽市教育委員会が発掘調査をし、その全貌が『鳥羽贄遺跡発掘調査』に報告されています。その内容が、由緒には、簡単にまとめられています。
「遺跡は、縄文中期から平安中期に至るまでの連続した復々合遺跡で、おびただしい数の製塩、祭祀用土器、儀礼用銅鏃(矢じり)、神水を得るためケヤキの巨木を刳り抜いて造った豪勢な井戸、神殿と思われる建物跡が発掘され、皇族、貴族が往来した痕跡が見つかっています。こうしたことから、古代伊射波神社は国家にも崇敬された偉大な贄持つ神であったことの証と言えましょう」と記しています。
二地の贄--- http://www.kirari1000.com/base_data/base_data.php?kirari_cd=03975
又、次のようなことも書かれています。祭神の伊佐波登美尊は、後に大歳神と号され尊は
伊射波神社本宮の衰退と共に、加布良古崎の伊射波神社に遷座されました。

ということは、現在、安楽島町にある伊射波神社は、本宮から移されたことになります。

No66において、「伊雑宮と佐美長神社を志摩国の式内社に比定することは、間違っています」と書きましたが、こうなりますと、延喜式帳に「粟嶋坐伊射波神社二座」と書かれた二座が一つしかないことになります。
もう一度、検討のし直しになります。
由緒には、主祭神が四柱書かれており、それぞれの神がどのような神であるか説明してあります。
由緒書より
①稚日女尊 
  霊験あらたかな神様として知られる稚日女尊は、加布良古太明神とも称され、朝廷に捧げる贄物の一部を太明神にも奉納するという別格の扱いを受けていました。その証拠として、由緒では、次の事柄を述べています。
 「加布良古の外峰に立てる姫小松、沢立てる松は千世のためし。加布良古の沖の汐ひかば、宮古(都)へなびけ我もなびかん。加布良古の太明神に、遊びの上分参らする請玉の宝殿」

これは今から461年前書き写された「外宮摂末社神楽歌」の最後の方の一節です。古代、安楽島の前の海では、朝廷に捧げる貝(あわび)を採る神事が行われ、その様子をうたったものです。
加布良古太明神とも言われた女神、稚日女尊を姫小松に見立て、「この松は千年後も栄えるでしょう。加布良古の沖の汐がひいたら、神事で採れた貝を納めに都へ行きます。加布良古の太明神に分け前を奉納してから」というものです。

 由緒に書かれていることは、「外宮摂末社神楽歌」に書かれていたとありますから、信用していいことになりますが、いつ作られたが判ればいいのですが、無理のようです。
朝廷と加布良古太明神と贄は、結ばれることになります。
 続けて、由緒には、【『神功紀』によれば、「尾田(加布良古の古名)の吾田節(後の答志郡)の淡郡(粟嶋=安楽島)に居る神(稚日女尊)とあります。稚日女尊は天照大神の妹君、分身とも言われ、第十五代応神天皇の母君である神功皇后の崇敬厚く、皇后が筑紫国(九州)から倭国に凱旋した折にも、常に御許においてお祭りされていました】
 このように書いてあるのですが、ここに書いてあることが正しいかどうか、調べることは、大変なことです。
『神功紀』に、「吾田節(後の答志郡)の淡郡(粟嶋=安楽島)に居る神(稚日女尊)」と書いてあるというのですが、(稚日女尊)も書いてあるかどうかです。
稚日女尊は天照大神の妹君、分身と書いてありますが、分身ですと、天照大神のことになりますから、簡単に書いておられますが、判らないということになります。
稚日女尊は、他の神社では、どこで祀られているかと言いますと、神戸市の生田神社、和歌山県の玉津島神社です。このほかに、膨大なところで祀られています。

②伊佐波登美尊 ---第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が、伊勢国内宮に天照大神の御魂をご鎮座させた折、これを奉迎して鎮座に尽力し、また志摩国の新田開発におおきな功績を残したと伝えられています。

③玉柱屋姫命 ---『倭姫命世紀』によれば、天孫瓊々杵命の重臣で水の神として崇敬された天牟羅雲命の末裔(子孫)で、神武天皇の勅により伊勢国を平定した天日別命の娘と記されています。

④狭依姫命 ---宗像三女神の一柱である市杵島比売の別名。

これで祭神の話は終わりです。なにか発見できましたか?

次回は、これらを元にして、私が考えたことを書いてみようと思います。

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2007.10.01

No67 志摩国の式内社 その2

志摩国の式内社の三座は、次のように書かれていると、前回に記しました。
粟嶋坐伊射波神社二座
粟嶋坐神乎多乃御子神社

ここに書かれた神社のうち、安楽島町字加布良古にある伊射波神社を見てきました。この神社の一の鳥居は、海岸にあり南を向いています。普通は、その向いている方角に何か関係があるものがあるはずです。地図を眺めていても良く判りません。地元の方にお聞きしましたら、今浦、本浦がありました。これだけでは、本浦の方が古いぐらいしか判りません。しかし、いつかは調べる必要があるかも知れません。

前回、安楽島町のバス停の終点から、伊射波神社までの道のりを書きました。どこをどのように歩いたのか分りませんが、峠を超えますと、海水浴場のあるところへ出ました。ここはいきませんでしたが、写真をみますと、広い浜になっています。同じく、峠を超えますと又、海でした。もう一度、峠を超えますと又入江になっていて、ここに鳥居が建っていたことになります。
志摩国は、リヤス式海岸になっていて、海岸線が岩ばかりの複雑な形をしています。殆ど、海岸線は岩のため砂浜がありません。2000年来、海岸線の形は、同じだと思います。従いまして、現在でも、海岸線に沿っては人の足でも行く道はありません。
そこで例の私の推理になりますが、伊射波神社に行くには、船を利用したのではないかと思います。遷宮のときには、以前には船で運んで、鳥居のところからは担いで上がったとお聞きしました。
全部、確かめたわけではありませんが、海岸にある鳥居は、そこに神社があるという目印だったと思っています。神社が古いほど、そうだと考えています。たとえば、広島の厳島神社や島根の出雲大社がそうだと思います。現在では、同じような鳥居の形をしていますが、似た物の様であり、色も白かったと推察しています。後世になりますと、向いている方向に、なにかがあるように思っています。例えば、滋賀県の湖西にある白髪神社
http://www.pref.shiga.jp/minwa/50/50-01.html の鳥居の先には、琵琶湖で一番大きい沖島があります。ここには、奥津島神社があります。ここのことは、
http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/archive/20070726 に書いています。この近くには、イザナギに関係する「白王」という地名が残っています。すぐ近くに、天御中主尊神社
があります。(http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/archive/c35373229 )古事記に登場する古い神ばかりが祀られている地域です。
このように見てきますと、白髪神社が先か、奥津島神社が先か、判断は難しいですが、形から言いますと、湖岸に白髪神社建てた人が、古くからあった奥津島神社の神に敬意を表して鳥居を建てたと想像しています。後は、考古学的に、奥津島神社の方が古いという証拠が見つかれば良いと思います。

肝心のタイトルのことを書かないで、脱線しています。もう一度、はじめに戻りますと、

粟嶋坐伊射波神社二座 と書かれています。 二座とありますから、神社が二つあったはずです。神社にありました由緒書きに載っている地図に、一の鳥居の少し北の海岸線に、「加布良古神社跡地」と書かれたのが見えます。これは、あまりにも近いので、現在の伊射波神社ではないかと思いますが、確かめていません。       

この由緒書きには、別の所にあったことが書いてありますので、次回に紹介します。

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2007.09.28

No66 志摩国の式内社

伊勢国の南に位置する志摩国は、淡路島より狭いでしょうか? その所為もあって、式内社は3座しかありません。
3座のうち、2座は、内宮別宮である伊雑宮と伊雑宮の所管の佐美長神社とされ、もう一つは、安楽島町の伊射波神社であるとされています。

元は志摩国全域を郡域とする郡(しまのこおり)でありましたが、 養老3年(719年)、志摩郡を答志郡・佐芸郡(後に英虞郡に改称)に分割されました。719年は重要だと思います。712年に古事記が編纂され、714年に各国に国の様子をまとめて提出するように命令されています。良いように取りますと、どのような地名があり、そこでは何が取れるか。特に、金、銀、銅の報告。絹の生産地などが重要だったと思われます。これをもとに、日本書記の編纂も行われ、国の造り変えも行われたと思います。日本書紀は720年に完成しています。
志摩国の式内社のことは、延喜式神名帳には、志摩国三座/大二座/小一座∥. 答志郡三座/大二座/小一座∥粟嶋坐伊射波神社二座/並/大∥ 同嶋坐神乎多乃御子神社.とあります。

答志郡は、現在の鳥羽市、志摩市磯部町全域、浜島町全域、阿児町の北部がこの地域に当たります。伊雑宮と佐美長神社は、磯部町にありますから答志郡にあることになります。従いまして、式内社に否定しても良いようにも思えます。が、

もう一度書きますと、
粟嶋坐伊射波神社二座
粟嶋坐神乎多乃御子神社
 となります。粟嶋は安楽島の古名です。現在の安楽島町になりますから、伊雑宮と佐美長神社を志摩国の式内社に否定することは、間違っています。

安楽島町に伊射波神社(いさわじんじゃ)があります。所在地は、鳥羽市安楽島町字加布良古1210です。鳥羽駅よりバスで約25分、安楽島で下車、停留所の前に安楽島公民館があります。神社への道は、公民館に向いて、左手の道を選び、坂道を登って行きます。峠をこしますと、ホテル「かめや」があり、右に曲がりますと、鳥羽市唯一の海水浴場です。道は左へ曲がります。またもや、軽く峠を越しますと、打ち寄せる波の音が大きく耳に届きます。そして、海岸に出ます。
 この神社では、伊勢神宮と同様に、20年に一回遷宮が行われています。最近行われたのは、平成13年です。それまでは、狭い山道を、材木を担いで登ったそうですが、平成13年のときに、自動車で運べるように、道路が建設されました。従いまして、神社まで、車で行くことはできますが、すれ違うことはできません。道路は地元の方のための道路のようですから、歩かれた方が良いと思います。片道30分ぐらいの1.2kmの道のりです。
 少し、登ったところに右へ下る道があります。下ったところに海岸があり狭い浜辺に鳥居が建っています。
 少し、丁寧に書きました。こんな道を行って大丈夫かなと思えるほど、道が狭いところもあります。神社の位置は、加布良古岬とバス停の中間ぐらいでしょうか?
高さは良く判りませんが、50mぐいだと思います。
写真--http://www.hotel-wako.co.jp/toba/index-kabu.htm
http://www.isesima.net/kameya/arashima.html

伊射波神社に表記されていました祭神は、
 稚日女尊 (わかひめのみこと)
 伊佐波登美尊 (いさわとみのみこと)
 玉柱屋姫命 (たまはしらやひめのみこと)
 狭依姫命 (さよりひめのみこと)

拝殿に置かれてありました一枚の紙に、このように書かれていましたが、また、「当社は、古来より加布良古大明神、志摩大明神と呼ばれていました」とも書かれています。
内宮別宮である伊雑宮は、多くの所に、志摩国の一の宮であると書かれています。ところが、安楽島町にある伊射波神社も一の宮であると書かれています。
これは、どう言うことでしょう。備前に一の宮が、三か所あったのと似ています。

備前に一の宮のことは、http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/
のNo62撚り5までに書いています。   
続きは 次回に。

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2007.09.07

No65石上布都魂神社 参拝

これまでに、多くの一の宮を訪れましたが、どの一の宮も余りの大きさに圧倒されるほど、大きい神社ばかりでした。それだけに、行くときに難儀することはありませんでした。しかし、この石上布都魂神社に行くために、私のカーナビは役に立ちませんでした。カーナビの指示通り旭川に沿って進みますが、神社は川のそばではありません。地図には、石上は山の中に表示されていますので、山の方へ行かないといけないのに、川伝いに車は進みます。ところが、対向車がくればすれ違うことができないような道に入りました。やれやれ、やっと、山へ向かうと思っていましたら、大きい道に出ましたら、何のことはない、はじめに走っていた道に出ました。そのようなことを何度か繰り返して走行していますと、カーナビは、目的地の近くに到着しましたと言います。地図の上には、近くに「石上」と書かれていますが、山が見えるだけで、そこへ近づくことはできません。そこで、カーナビに頼ることはやめて、2kmほど後戻りをして、石上に向けて走りますと、何度か小さな集落を過ぎますと、カーナビの地図上の石上へ少しずつ近づきます。
 その内に、石上布都魂神社の表示が見つかり、やっと、安堵しながら運転をするようになりました。 
ある集落につきましたら、手書きで、矢印がありました。「石上の宮司の家」。やれやれ、これで神社到着と思いましたら、道はどんどん、坂を登って行きます。すると、ここが、「石上」という村であることを示す表示板がありました。しかし、家は逆に減っていきます。神社らしいものは見えません。やっと、山の中腹に家が見えました。なるほど、集落は、このようにぽつんと立っているのだと思い、自動車を止めてお家を写真に収めました。

 1

2

しばらく走りますと、石上布都魂神社の駐車場に着きました。

掲げてある由緒書きには、現在の祭神は素盞嗚尊とされているが、明治時代までは、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣である布都御魂と伝えられ、明治3年(1870年)の「神社明細帳」では神話の記述に従って十握剣と書かれていた。この剣を祀ったのが当社の創始と伝えられる。この剣は崇神天皇の時代に大和国の石上神宮へ移されたとされており、このことは石上神宮の社伝にも記されている。

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写真--駐車場と本殿

 延喜式神名帳では小社に列し、備前国総社神名帳では128社中2位に正二位布都魂神社と記載されている。寛文9年(1669年)、岡山藩主池田光政が山頂にあった小祠を復興した。

境内左手の山道を500mほど上ると本宮があります。
Photo

     
 下手な文章では、判って頂けませんので、写真を載せました。石上という地名は、日本書記が出来た時に、すでに、あったと思います。しかし、日本書記に書かれている石上がこことは限りません。私は、こんな人里離れた所に備前一の宮があったとは思えません。延喜式神名帳では小社であったということは、そうだったのでしょう。藤原氏は、石上布都魂神社を式内社にした後に、吉備にあった128社中2位になるまで、神格を正二位布都魂神社としたのではないでしょうか? 天皇家の安仁神社が一の宮であるのを消すために無理に式内社に指定したように思えます。こんなことを書けば神社から叱られるかもしれません。
 吉備津彦神社も備前の一の宮です。吉備津神社は式内社ですが、吉備津彦神社は式内社ではありません。安仁神社が一の宮であったのを、無理やり、石上布都魂神社を式内社にして、日本書紀の本文には書かないで、第の書のところに、「その大蛇を斬った剣を名づけて、蛇のアラ正という。これは、今、石上にある」と書いて、日本書紀に合わせたのではないかと推察しています。
 吉備津彦神社は、式内社でもないし、備前の一の宮でもありませんでしたが、現在見れば判るように、備中の吉備津神社よりも大きい燈籠をつくり、神社の巨大さを競ったのではないでしょうか? そして、いつの間にか、吉備津神社が一の宮と呼ばれるようになったのでしょう。
 推理ばかりですから、その内に訂正することになるかも知れませんが、吉備の一の宮について眺めるだけでも、支配者の交替の激しかったところだと見ています。

神社の写真はhttp://www.genbu.net/engi/index.htmの方が、綺麗です。

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2007.09.04

No64 備前国の一の宮・石上布都魂神社

スサノオが大蛇を切ったときに使った太刀は、十拳剣と言います。大蛇を切った時に欠けたと古事記には書かれています。しかし、現在(古事記を書いているとき)はどこにあるかは書いてありません。
日本書紀では、本文には、十握剣とあり、尾を切った時に、やはり欠けたと書いてあります。ところが、別書の2に、この刀の別名は、蛇の麁正(おろちのあらまさ) といい、今、石上にあると書いてあります。宇治谷孟の翻訳本では、( )をして、石上神宮と書いておられます。石上神宮は奈良県天理市にある神社のことを言いますから、宇治谷氏の間違いかも知れません。
天理市にある石上神宮は、石上振神宮・石上布都御魂神社・石上布都大神社。岩上大明神・布留大明神とも呼ばれます。
備前の石上神社の祭神は、布都御魂大神 
配祀 布留御魂大神 布都斯魂大神 宇麻志麻治命 五十瓊敷命 白河天皇 市川臣命

祭神は、神武天皇東征のときに、国土平定に偉功のあった天剣(平国之剣=くにむけしつるぎ)と、その霊威を「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」。鎮魂(たまふり)の主体である天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)と、その起死回生の霊力を「布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)」。素盞嗚尊が八岐大蛇を退治された天十握剣(あめのとつかのつるぎ)の霊威を「布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)」と称え、総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰ぎ、第十代崇神天皇7年に現地石上布留の高庭(たかにわ)に祀られました。古典には『石上神宮』『石上振神宮』『石上坐布都御魂神社』と記され、この他『石上社』『布留社』とも呼ばれていました。――同神宮パンフレットより

この神社は、今年、岡山へ8月12,13,14日と出かけようと思った時に、行く候補地に入っていませんでした。
 スサノオが退治した八岐大蛇は、神話と言われていますが、古事記には、一切神話は書かれていない。そのまま、書きますと古事記が没収されて燃やされてしまうので、理解困難な話に、太安万侶は書いたのだということが次第に解ってきました。
 資料集めに、稗田阿礼が、横田町を訪れた時は、素晴らしい製鉄所はなくなっていましたが、古老から、むかし昔に、山全体を製鉄にした工場があった話を聞いていました。
 このような話を 「新しい日本の歴史」の中で、2007年8月7日より、【No144須佐之男の大蛇退治】と書き始めました。http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/archive/20070807

 古事記と日本書紀が同じところを書いた記事に相違がある時は、どちらかが、嘘をかいていると考えることにしています。須佐之男の大蛇退治の話は、何度も読み返していると、大蛇を切ったときの剣が、石上にあると日本書紀には書いてあります。その石上に( )をして、石上神宮と書いてありました。石上神宮と書いた人は、日本書紀を翻訳した人です。これは違っているのではないかと思っていましたら、奈良の石上のほかに、備前に石上という所があるだけではなく、そこに、石上布都魂神社があると書いてあるのを見つけ、びっくりしました。

 そういえば、随分前に、私のブログの読者の方が、石上布都魂神社という神社が岡山にはあるのですよと、コメントに書いてくださったことを思い出しました。石上布都魂神社をキーワードにして検索しましたら、一の宮だと書いてあります。以前に牛窓へ行って帰りに立ち寄ったところが、安仁神社です。ここも一の宮であることを行ってみて初めて知りました。その前に、岡山を訪れた時に、吉備津彦神社に行きました。確か、ここも一の宮と確かめますと、一の宮でした。
 という次第で、石上布都魂神社を訪れることにし、コースを変更しました。

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2007.08.24

No63 備前の一の宮 その2

前回に書きましたように、備前の一の宮は、
① 石上布都魂神社
② 安仁神社
③ 吉備津彦神社
の三社になります。
 記紀に書かれている順序も、上に書いてある順です。石上布都魂神社は、スサノオが八岐大蛇を切った時に、自分の刀が欠けてたと日本書紀に書かれています。その刀が吉備の石上にあると書いています。どういう経緯で、石上に保管されることななったか判りませんが、その後、すぐであれば、紀元前180年ころのことになります。問題は、言い伝えがあると日本書紀は書いていますが、石上布都魂神社が紀元前180年にあったというのは、考え難いところがあります。

次の安仁神社ですが、現在は山の中にあります。神武天皇が、神武東征の折、此処に立ち寄り、とも綱を括ったという伝説の地もあります。祭神は神武天皇ではなく、神武天皇の兄の五瀬命になっているところが、なんだか、本当のように思わせるところがあります。
奈良の攻略(紀元元年1月1日 に即位)の前になりますから、紀元前20年ころではないかと思います。

次は吉備津彦神社です。この神社の祭神は、大吉備津彦命です。
大吉備津彦命を主祭神とし、相殿に以下の神を祀る。
吉備津彦命 -- 大吉備津彦命の子
孝霊天皇 -- 大吉備津彦命の父
孝元天皇 -- 大吉備津彦命の兄弟
開化天皇 -- 孝元天皇の子
崇神天皇 -- 開化天皇の子
彦刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと) -- 大吉備津彦命の実兄
天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと) -- 孝昭天皇の子
大倭迹々日百襲比売命(おおやまとととひももそひめのみこと) -- 大吉備津彦命の姉
大倭迹々日稚屋比売命(おおやまとととひわかやひめのみこと) -- 大吉備津彦命の妹
金山彦大神
大山咋大神

吉備津彦神社のことを調べようとしますと、相殿に祀られている神を見ただけで、うんざりします。調べないわけにはいきませんが、またの機会にすることにして、大吉備津彦命がどうして、この神社に収まったかということです。この神社は、元々、別の名であったかもしれません。それを大吉備津彦命に乗っ取られた可能性があるからです。この神社の山を中山と言いますが、山の反対側に、備後の一の宮である吉備津神社があります。元々、ここに吉備津神社があったのですが、大吉備津彦命に乗っ取られたという想像をしています。勿論、現在の吉備津神社はあり、別に吉備津彦神社が出来たのかも知れません。
 古事記には、孝霊天皇が吉備を平定したと書かれています。
日本書紀には、崇神天皇の10年9月に西海に吉備津彦を使わしたと書いてあるだけです。平定したかどうかは書いてありません。日本書紀の作者は、書きたくなかったのですね。
しかし、孝元天皇の皇子(武埴安彦)が反乱を起こした時に、その妻である吾田媛を討ったことを記しています。その時の名前は、吉備津彦ではなくて、五十狭芹彦命と書いています。
 この辺のことは、重要ですが、またの機会にしまして、今回は、吉備の一の宮がどのような経過をすぎて変わってきたかを見て頂こうと追っています。
記紀によって、吉備津彦のとらえ方が異なっていることが判ります。

崇神天皇のはじめのころに、人民の半分が死んでしまった記事があります。その時に、前の天皇である開化天皇(9代)も孝霊天皇(7代)も生きておられましたが、191年のその時のインフルエンザで亡くなったと推理しています。
 このようなことから、判断しますと、大吉備津彦命が吉備を平定したのは、150年頃ではないでしょうか?
このように考えてきますと、備前の一の宮は、はじめは、石上布都魂神社であり、次に 安仁神社、吉備津彦神社と変わっていったと言えそうです。しかし、石上布都魂神社は、後の世になってから、無理やりに備前の一の宮とされたのではないでしょうか?

次回は、そのようなことを書いてみようと思いますが、書けるでしょうか?

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2007.08.17

No62 備前国の一の宮

「一の宮」は、平安時代から鎌倉時代初期にかけて逐次整った一種の社格です。それは、朝廷や国司が特に指定したものでなく、諸国において由緒の深い神社、信仰の篤い神社が勢力を有するに至って、おのずから神社の序列が生じ、その最上位にあるものが「一の宮」とされ、以下二の宮・三の宮・四の宮と順位がつけられたのです。しかし、時代の変遷とともに変化もあったようで、一国内に二社以上の「一の宮」が存在するのはそのためです。
(全国一の宮会ホームページhttp://www.ichinomiya.gr.jp/rec.html)

一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。通常単に「一宮」といった場合は、令制国の一宮を指すことが多い。
一宮の起源は、国司が任国に赴任したときなどに巡拝する神社の順番とされる。ただし、何らかの文書によって定められていたのではなく、由諸や社勢などによって自然発生的に決まったものであった。(フリー百科事典『ウィキペディア より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%AE%AE)

タイトルのことを書こうと思いますが、「一の宮」とはどのようなものかを知っていないと理解できないことになります。と、自分のために、調べてみたのですが、上の二つぐらいが納得できる説明かなと思って掲載しました。
これまでに、多くの一の宮を訪れてきましたが、圧倒される神社が多かったように思います。どのよう圧倒されるかと言いますと、一番にやはり建物が立派なものが多いです。二番目は、神社へいくまでの参道や町の雰囲気が神社を中心にあるような感じがします。三番目、敷地が広大なような感じがします。
 全国の一の宮という捉え方で各神社を眺めたことはありませんが、上記の二つの説明では、説明しきれていない部分があるのではないかという気がしています。

H19.08.12 岡山の備前・美作を見てこようと企画しました。笑われるかもしれませんが、私は、ヒルゼン高原を高天原、備前を邪馬臺國とみています。高天原を建設したのは、イザナギとイザナミです。彼らは、日本海から高天原に行くときは、日野川をのぼり、溝口町で舟を降りて、白水川に入ります。イザナギが禊をした「大河原」を通過し、内海峠を越えてヒルゼン高原です。このルートは、紀元前180年ごろから、利用されていたルートだと思います。蒜山からは、旭川が、岡山市までつづきます。
岡山県には、大きい川が、このほかに、吉井川があります。古代は全国どこでも同じことですが、川に沿って海から山に向かって発展していきました。吉井川を遡りますと、備前から分かれた美作国があります。美作もよく判らない国ですが、私はユダヤ人が、美作を抑えていたのではないかと推理しています。
美作を中心に、日本海へ出るルートは二本です。一本は、津山市--久米--久世を通って旭川を使ってヒルゼンへ抜ける道です。旭川の河口は総社を通過です。ここは、漢人の本拠地ですから通らなかったと思っています。総社には漢人が、総攻撃を受けて立て籠もった鬼ノ城があります。もう一本は、そのまま北上して吉井川を登ります。奥津を天王--人形峠で山越えです。そして、天神川を下り、東郷池が、中国・ヨーロッパへの船の絹を運ぶ基地だったと考えています 
上に書きました事柄は、今までに、別に考えてきたことですが、この町を結ぶ道は、安全に通ることが出来たのかどうか調べるつもりになっていました。

高速は山陽ICでおり、以前に立ち寄らなかった牟佐大塚古墳・両宮山古墳・熊山遺跡・東大寺瓦窯跡に行く予定でいましたが、前日にスサノオの大蛇退治の原稿を書いていましたら、スサノオが大蛇を切った太刀が、石上にあるとあり、それも吉備にあると書いてありましたので、地図を眺めていましたら、赤磐市に石上という地名があり、そこに石上布都魂神社があることを見つけました。少し、検索をしてみましたら、備前の一の宮と書いてありましたので、吉井川をさかのぼることは中止とし、牟佐大塚古墳・両宮山古墳の後、旭川に沿って北上、石上布都魂神社に行きました。
随分、迷いながら、到着。その後、志呂神社に行きたかったのですが、時間が遅くなりましたので、諦めて湯郷温泉で一泊です。

現在は岡山市に併合されましたが、牟佐大塚古墳の少し南に「古都」がありました。この近くに浦間茶臼山古墳があります。この古墳の特徴は、前方後円墳で、方の部分が八の字に開いています。これと同じ形式の墓が、奈良の桜井市の大神神社と崇神天皇の御陵の間にある箸墓古墳です。同古墳は宮内庁が倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)墓として陵墓指定し、発掘ができないことになっています。全長が280m。一方、浦間茶臼山古墳は138mで、吉備にある古墳の最大のものです。資料が手元にありませんので、確かなことは判りませんが、全長だけで比較すると、ほぼ、半分の大きさです。外に、全方部が八の字に開く古墳には、中山大塚古墳・元稲荷古墳があります。相似形ということは、同じ設計者または関係者が作ったと考えられ、また、埋葬されている人も何らかの関係があると考えた方が、無理が無いと思います。
  私は、箸墓古墳が卑弥呼の墓で、浦間茶臼山古墳が倭迹迹日百襲姫の古墳だと思っています。ところが難儀なことに、宮内庁だけではなく、箸墓古墳の地元にある橿原考古学研究所も、すべて、この墓は、4世紀の後半ということにしています。ところが、卑弥呼が生きていたときに、魏の国に使いを出したと魏志倭人伝に書かれているため、卑弥呼は3世紀の人です。100年もずれていますから、卑弥呼の墓であるはずが無いことになっています。倭迹迹日百襲姫の表記は、日本書紀に書かれている表記で、これでは、名前がなにを意味しているのか判りません。だれでも名前をつたときには、意味があったはずです。古事記には、「夜麻登登母母曾姫」とかかれています。これは、「夜麻登 登母母曾姫」と切って読みます。姫と有りますが、女王です。
 夜麻登に住んでいた登母母曾姫です。  

というような論法で、此の地が倭であったと推察しています。

このように、備前は、紀元前から天皇家の支配力が強いところであったと推理していますが、今年は、湯郷温泉の後、津山市の中山神社・高野神社・国分寺・資料館2ヶ所・鏡野町、希望は久米・久世も行きたかったのですが、時間が足らず、総社まで一日が終了です。

H18.11に岡山県の牛窓へ行きました。この時もいくつもりはなかったのですが、近くに安仁神社がありましたので、立ち寄りました。その後、この神社について書いています。

興味がおありでしたら、読んでください。
安仁神社とは どのような神社か http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1088.html
 この記事を書くために、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1084.html などを書いています。「新しい日本の歴史」のNo357~366までです。

このページの5行目に「一国内に二社以上の「一の宮」が存在するのはそのためです」の文がありましたが、現在は、三社とも自分のところの神社が一の宮のように宣言しておられますが、私は理由があって、一の宮は変わっていったのではないかと考えています。
 以前に、安仁神社と吉備津彦神社について書いています。

今度は、安仁神社と吉備津彦神社と石上布都魂神社の関係に挑戦してみようと思っています。

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2007.08.08

No61 肥の河上と簸之川上

スサノオが高天原を追放になった後、やってきたところは、
古事記では、「故所避追而。降出雲國之肥(上)河上名鳥髮地」
日本書紀では、「素戔鳴尊自天而降到於出雲簸之川上」となっています。

タイトルと原文が異なっています。 肥の河上は肥(上)河上と書かれています。(上)の( )はなく、上の字は、小さく書かれています。

一番に気がつくことは、古事記では、肥と書かれている字が、日本書紀では簸と書かれています。日本書紀の編集者は、古事記を参考にして、と言うよりは、完成した古事記を見て驚いたと推察しています。なにに驚いたのかといいますと、古事記には、自分たちにとって都合の悪いことが多くありすぎました。そこで、古事記を処分しようとしました。その前に、自分たちが作ろうとしている歴史書を作るにあたって、古事記を手本にしたと考えられます。
一部書く順序が変わっている所はありますが、全体の流れは、日本書記と古事記とはほとんど変わりません。中には、書きたくなかったものもあります。「因幡の白うさぎ」は古事記には書かれていますが、日本書紀には書かれていません。この部分は、書きたくないというよりは、古事記に書かれていることの意味が理解できなかったのではないかと推察しています。

私は、日本書紀の作者が、「故所避追而。降出雲國之肥(上)河上名鳥髮地」を見て、「素戔鳴尊自天而降到於出雲簸之川上」と書きなおしたと思っています。日本書紀の「故所避追而」が古事記にないように見えますが、古事記のこの前のところに、「切鬚。及手足爪令拔而。神夜良比夜良比岐」と書かれていて、高天原を追い出されたことが判ります。

このようなことを考えた根拠は、いっぱいありますが、その中の一つが漢字の表記の仕方です。
日本書記が参考にした書物は、いっぱいあることを、いろいろのところで書いています。 第一書によるとというような書き方です。ところが、この別の一書には、古事記に一致するものは、皆目ありません。皆目ないということは、古事記の方が後から完成したからだとの証拠になるかもしれません。

「肥」を「簸」に書き換えたという証拠はありません。古事記に書かれている地名や人名が、すべて、異なるということは、古事記と日本書紀は、全く別の伝承を元にして作られたと考えるしかありません。しかし、少しぐらい同じであるところがあるのが、自然ですが、徹底して同じ漢字は使われていません。100パーセント異なるということは、日本書紀の作者が、古事記を見ながら、全部書き換えたと判断するしかないと思われます。見ないでこのように全部漢字を変えることは、不可能に近いと思われます。

 もし、逆に古事記の作者が、日本書記を見ながら古事記を作ったとします。
 「素戔鳴尊自天而降到於出雲簸之川上」をみて、「故所避追而。降出雲國之肥(上)河上名鳥髮地」と直したとします。「簸之川上」を「肥(上)河上」と直したとします。「簸」と言う漢字を、現在の人ですと、何人の人が、「ひ」と読むでしょうか? この部分だけではありません。他の物語のどの部分を比べてみても、日本書紀の漢字は読むことができません。 
「肥」ですと、読めない人はないでしょう。 「ひ」です。では、「ひ」と読む漢字を書いてくださいと言われましたら、日、比、火、被、非、費というように、いくらでも、誰でも書くことはできます。日本書紀の編集者は、「ひ」と読む漢字の中で、読むことが難しい漢字をわざわざ選んだことになります。
 他のところで、例をあげますと、オノゴロ島があります。淤能碁呂島、磤馭慮島、このように書きます。どちらが、日本書記の表記の仕方かすぐに、判ります。
試みに、100ほどご自分で確かめてください。日本書紀の編集者が、古事記をみて漢字を変えたことが直ぐに分かると思います。
 
このようなことも頭に入れて置いて、文章を翻訳する必要があります。
もう一度書きます。古事記には、「切鬚。及手足爪令拔而。神夜良比夜良比岐」と書かれていて、高天原を追い出されてやってきましたから、日本書紀の編集者は、「自天」の文字をいれました。従いまして、当然、ここの天は高天原のことになります。「自天」を入れますと、読んでいる方は、判り易くなります。ある本を参考にして、同じ内容のものを作りますと、理解しがたいところを書きくわえますと、判り易くなります。 
 このような見方をします、どの物語の部分を読んでも、日本書紀の方が、判り易く書かれています。
 
 ところが、日本書紀に書かれている「素戔鳴尊自天而降到於出雲簸之川上」の部分を、現在の歴史家が読まれても解釈が違います。
 宇治谷孟氏は、「さて、スサノオは、天から出雲の国の、簸の川のほとりにお降りになった」と。
井上光貞氏は、「さて、スサノオは高天原から出雲国の簸の川の川上に降り着かれた」
二ヶ所違います。 「自天」と「簸之川上」の部分です。
 「自天」の部分は、井上光貞氏が読者に親切です。宇治谷孟氏のは、正しいですが、読んだ素人には、なんのことか判りません。
「簸之川上」の部分は、お二人とも、「簸之川 上」と読まれました。
井上光貞氏は、「上」の部分を川上と読まれました。宇治谷孟氏は「上」をほとりと読まれました。
 お二人とも無理は承知で意味が通じるようにされたと思います。 それは、古事記の「故所避追而。降出雲國之肥(上)河上在鳥髮地」を参考にされて、このような翻訳になったと思います。
お二人とも、古事記の「肥(上)河上」の部分を「肥の河の河上」と読まれたのだと思います。
 しかし、簸の川のほとりは、おかしいですね。簸の川は斐伊川と考えておられますから、斐伊川はすごく長いですから、それのほとりではどこか判りません。井上光貞氏の「簸の川の川上」ですと、範囲は広いですが、どこであるかが判ります。
こんどは、古事記に書かれた部分の解釈です。
「故所避追而。降出雲國之肥(上)河上名鳥髮地」です。岩波書店の『古事記』では、
「故 避追(やら)はえて、出雲國の肥の河上、名は鳥髪といふ地に降りたまひき」と翻訳しておられます。
 この翻訳で意味は通りますが、これですと、(上)を翻訳しておられないのではないでしょうか?
では、(上)をなくします。「故所避追而。降出雲國之肥河上 名鳥髮地」このようにして、読まれたらしいです。でも、この翻訳ですと、「降出雲國之肥之河上」のように、「之」が必要なのではないでしょうか?
 ところが、原文には、(上)があります。もう一度、元に戻します。
「故所避追而。降出雲國之肥(上)河上名鳥髮地」。(上)は原文では、上の字が小さくて、( )はありません。「故所避追而。降出雲國之肥」  (上) 「河上名鳥髮地」と言うように、前と後を(上)が分けています。 だから、雲國之肥に降り立ち、そこは河上で、名は鳥髪といいます。
となるのではないでしょうか? 出雲国に紀元前に、肥というところがあったのではないでしょうか?
「故所避追而。降出雲國之肥(上)河上名鳥髮地」と古事記にかかれていたものを、日本書記の編集者が解釈を間違って、「素戔鳴尊自天而降到於出雲簸之川上」と書いたために、現在の歴史家は、一層訳が判らなくなったのではないでしょうか?

そんなことは、どうでも良いのではないかと思われた方がほとんどだと思います。
スサノオは、斐伊川を遡ったでも良いのですが、そうなりますと、スサノオは、高天原を追放されてから、出雲に行ったことになります。
スサノオは、出雲の須佐うまれであるとされている方には、都合の良いことになりますが、私は、スサノオは高句麗の人で、高句麗で指導者であったと考えています。そして、隠岐島へ亡命、鳥取県で活躍、そして、イザナギが禊をしているところへ行き、高天原の建設に参加したと考えています。

追放されてからの経過が不明ですが、日本書記の編集者に消されたのではないかと推察していますが、良く判りません。
 しかし、その後、京都はスサノオ一色です。奈良・大阪もスサノオの神社でいっぱいです。
追放されたとは言え、古事記でも記されている通り、三貴人の一人であり、追放されたとは言え、皇祖神のアマテラスの弟だと名乗っています。
 私は、須佐へ帰って、その後、斐伊川を遡って、八岐大蛇を退治して、それでおわりとはおかしな結末だと思います。
ボタンの掛け違いは、「肥の河上と簸之川上」にあるのではないかと思っています。

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2007.08.07

No60 日本書紀では、大物殺される

日本書紀の編集者は、自分たちにとって、都合の悪い人たちは、書かないでおこうと考えました。しかし、あまりにも大物は日本書記から外すわけにはいきません。どうしても書きたくない時は、引退した形をとっています。

 ① イザナギは、あの世に赴こうとしておられた。そこで幽宮を淡路の地に造って、静かに永く隠れられた。また別にいう。イザナギはお仕事をもう終られ、徳も大きかった。そこで天に帰られてご報告され、日の少宮に留まりお住みになったと。(訳・宇治谷孟)
 二つの言い伝えがあるように記述になっていますが、両方とも死んだとは書いてありません。共通することは、幽宮と日の少宮という宮を建てたり、死んだという代りに、死に関係がありそうなことを書いています。「、静かに永く隠れられた」とはどう言うことでしょう。「天に帰られてご報告され、日の少宮に留まりお住みになった」とあります。天とはどこでしょうか? 人間死ぬときは、そのようなところに報告にいくのでしょうか? 天国に行くときに、途中で閻魔さんがいて、自分のしてきたことを包み隠さず報告する。嘘を言ったら舌を抜かれる。その場所は三か所あって、合格した人は、天国へ、不合格の人は、地獄へ落ちる様子を大きな絵に描いたものを奈良で見たような気がするのですが、この場合も天国のことでしょうか?
② オオクニヌシノミコトは、アマテラスに国を譲り渡すように言われ、聞くことになります。その時の様子は、日本書紀には、次のように書かれています。
「あなたが行われる現世の政治のことは、皇孫が致しましょう。あなたは幽界の神事を受け持って下さい。またあなたが住むべき宮居は、今お造りいたしますが、千尋もある栲の縄でゆわえて、しっかり結び作りましょう。その宮を造るきまりは、柱は高く太く、板は広く厚く致しましょう。また、供田を作りましょう。・・・省略・・」以下、必ず、お読みください。
この宮は、出雲大社のことを述べています。最近まで、古事記や日本書紀に書かれているような宮殿は、大き過ぎて不可能と思われていましたが、大きな木を三本鉄の輪で結わえて、一本の柱にしたものが発掘されて、日本書紀に書いてあることは、確かであったということになりました。このように日本書紀の内容については、考古学的遺物によって、証明されていきます。しかし、これは、損得にかかわらない部分は、その通りですが、良く読みますと、「あなたは幽界の神事を受け持って下さい」とは、どう言うことだと思われますか?  ①のときと同様に、死んでくださいということと同じことだと思います。

この部分を古事記ではどのように書かれているかを読んでください。オオクニヌシノミコトは、明け渡すしかないと判断したと思われます。その代わり、途轍もない背の高い宮殿の建築を造ることを要求しています。大きな宮殿を要求すると認められなかったはずです。そこを城にして、反乱をおこすからです。
 古事記に書かれている高い建物は、本当に存在したことになります。オオクニヌシノミコトは、どうして、そのような高層建築物が必要だったのでしょう。
海流に乗って中国からやってきますと、一番に見えたのは、大山だったと思います。日本本土に接近するためには、目標が必要だったと思います。先日、北朝鮮から脱出した一家がありました。彼らは、新潟を目指しましたが、青森に流れ付きました。昔も同じだったと思われます。日本に接近した時に、青森の三内丸山遺跡にある6本の大きな柱が、発見されました。これも、目印だったと推察しています。これからも、北陸地方の海岸の近くには、巨木による建造物の遺跡が発見されるはずです。それは、中国からのわ貿易に書かせないものだったと思われます。諏訪神社での大きな柱は、信仰の対象のようですが、海岸線に設けられた高層建造物は、目印だと思います。
 丹後の海岸線を車で走ってください。二等辺三角形の山がいっぱいです。これも、成形して目印だったと思っています。これらは、成形された年代を特定できませんが、紀元前だと思います。青森の三内丸山遺跡の大きな柱は、勿論、紀元前のものです。
 これはどう言うことだと思われますか?
オオクニヌシノミコトをきいたのですが、聞かなかったのは、星の神香香背男だけとなった日本書記は書いています。星の神香香背男は、ユダヤ人で絹を運んでいた人です。この人たちは、紀元前200年ころには、すでに絹を中国に運んでいました。そのことを知っていた秦の始皇帝は、日本へ徐福を派遣しました。
③三番目は、スサノオです。スサノオが八岐大蛇を退治したあと、の本文のところに、【結婚によい所を探された。ついに出雲の須賀に着かれた。そこで言われるのに、「ああ、わたしの心はすかすがしい」と。・・・・・省略・・・・・そこに宮を建てた・・・】

スサノオのところでは、死の影はありません。しかし、日本書紀の編集者は、古事記に書かれている八岐大蛇の退治の話は、何のことか判りませんでした。このようなときは、必ず、別の一書が多くなります。この部分は、第五書まであります。この五書に書かれていることを少しずつ、合わせますと、古事記に書かれている内容に近づきますが、古事記と同じ内容が、別書にかかれていることはありません。
 本当は、古事記の完成が712年、日本書紀が720年ですから、日本書紀を編纂するときには、古事記を見たはずです。そうすれば、書くのは嫌でも、別書のどこかに、古事記と全く同じものが入っても良いはずですが、日本書紀の編集者はあえて、入れることをしませんでした。このようなことを考えると、古事記を作った太安万侶は、日本書紀を参考にしたのだとの説もうなずけるかもしれませんが、日本書紀の編集者は、古事記に書かれている地名や人名が、同じように読めそうなのに、難しい漢字でかかれているところを見るだけでも、古事記を参考にしたと思われたくなかったことが分かると思います。

所々で脱線しましたが、別書ではスサノオのことを書いてはいますが、書きたくなかったことが表れているように思います。
三人とも、宮を作ったところが、共通しています。
スサノオは、須賀で死ぬわけがありません。この後、この一族は、どのようになったかは、古事記は書きました。誓約のところで、漢人の人々をかき、その前にオオクニヌシが、大国に都を建てた所に書かれています。オオクニヌシの命令で、兄弟を追い払ったことが・・・。
そんなところあったかなと思われるでしょう。ご自分で、その場所を発見されますと、全体の流れがつかめると思います。

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2007.08.01

No57 古事記を読むには 

古事記を読むには、古事記だけを読んでいては、正しく読むことができないとは思っていました。最近は、富に日本書紀と一緒に読まなければ無理なのではないかと思えるようになっています。
 そのようなことは、当り前で、古事記を読むときは、どなたも日本書紀を参考にしておられます。が、参考にするどころか、日本書紀に書かれていることが、正しいものとして取り扱われているような気がしています。しかし、私は逆ではないのではと考えるようになっています。
 古事記に書かれていることが正しくて、日本書紀では、歴史がゆがめられて書かれているのではないかと考えています。

古事記と日本書紀は、一応、日本の歴史を書いたような形になっています。このようなある国の歴史書に限らず、世の中にある民間の社史などでも、会社の都合の悪いことは書かれていません。即ち、書いた人にとって都合の良いことは、書かれていますが、都合の悪いことは、書かれていないはずです。
このように考えますと、古事記は、天武天皇の発願によって作られ712年完成しています。しかし、天武天皇は古事記を見ることもなく亡くなっています。  一方、日本書紀には、古事記にみられるような序文がありませんから、どのようにして、作るようになったかは、他の資料から知るしかありません。作ったメンバーなども分かっていますが、それが、正しいと立証する力は私にはありません。日本書紀の完成は、720年とされています。
この年に、藤原不比等が亡くなっています。たった、これだけのことですが、私は、藤原不比等の臨終が近づいたときに、まだ、十分ではありませんが、日本書紀の完成を報告し、実際に見せたのではないかと想像しています。
これは、また、別の機会に書くこともあろうかと思いますが、藤原不比等が、行ってきたことの集大成と言えるものではなかったかと想像しています。

所謂、天皇家と言われている人よりも上に位する地位(見かけは下ですが)を得ただけではなく、実質的に、全国制覇を成し遂げ、藤原氏の先祖が、天孫族の仲間の一員であったことを歴史書に書き込んだ正史であったと思っています。
自分たちの国(中国)の元号を採用して、「大化」と呼ぶこともしました。
現在、学校では、これを大化の改新といって、日本が、一人前になったようなとらえ方をしていますが、私は中国人による傀儡政権の誕生ではなかったかと思っています。

ここまで読んで、殆どの方は、そんな馬鹿なと思われたと思います。傀儡政権と書きますと、恰も操り人形のように、自由自在に日本を運営していったように聞こえますが、彼らなしでは成り立たなかったのではないかと考えています。
 現在の日本は、独立国家です。どの国家からも干渉をされずに、民主的に選挙も行って、国家の運営がされていると思っています。しかし、現在の自民党による政治は、アメリカによる傀儡政権と思っています。悔しいことに、戦後の日本は、アメリカ抜きでは成り立ちません。私自身は、小学校の給食で、先を争って、ミルクのお変わりをして、育ってきました。嘘か本当か知りませんが、彼らが無償でくれたと思っているミルクは、実は家畜用であったと後で聞きましたが、本当であれ、あのミルクがなかったら、現在の私たちの仲間は、栄養失調で死んでいたと思われます。
 つい先日まで、殺し合ってきた日本人に、彼らは多くの援助をしてくれました。情けないことに、未だに彼らの下でのみ成り立つ国になっています。

7月31日の夕刊(読売)の一面に、米下院「慰安婦」決議 本会議で初採択
 公式謝罪を要求 
と掲載されています。
安倍首相のコメントが掲載されています。「この問題に関する私の考え、政府のこれまでの対応について、4月に訪米した際に説明した。決議は残念だ」とあります。安倍首相は、4月に訪米したときのメインがこのことだったのではないでしょうか?
慰安婦問題に限りません。北朝鮮問題、中国問題、すべて、日本はおいてきぼりにあっています。悲しいかな傀儡政権である自民党は、次々と口を滑らしました。
久間章生防衛相が、米国の原爆投下について「しょうがない」と発言したことは、少し問題であったでしょう。久間氏は、特に長崎出身とのことですから、普通に考えてもの考えられないことですが、私は、アメリカ向けのリップサービスであると考えています。
本当に失言であれば、すぐに謝れば良かったのですが、彼は誤りませんでした。長崎では、「しょうがない」という言葉は、よく使うのですよと、わけの判らないことを言いました。安倍首相も、久間氏の発言が間違っているとも言いませんでした。傀儡政権の担当者であるだけに、そのようなことは、誰一人、自民党で発言していません。
とみられる。
 おかしいですね。慰安婦のことで、もし、本当に、旧日本軍が、国の制度として、日本以外の国の女性を「性的奴隷」としていたのであれば、その女性に謝らなければなりません。どうして、アメリカが公式謝罪を要求するのか、理解できません。
 それこそ、逆に、アメリカ政府に、もう、ほうって置いても崩壊していく日本に原爆投下の実験をしたことは、今でも抗議すべきでしょう。

藤原不比等が、日本において、初めて傀儡政権を樹立した記念誌として、日本書紀を作り、同時に、自分たちにとって、邪魔になる古事記は、葬り去られたと思っています。
昭和20年8月15日以降、日本は、ずっと、アメリカの支配下に置かれているのと同様です。誰も、そのように気づいていないだけだと思います。

公式謝罪を要求 に対して、安倍首相はどのように対応されるのでしょうか? 自民党をつぶすのは、訳がありません。次の衆議院選挙でも、民主党が過半数を取ればいいのですから。
さて、民主党は、アメリカ政府と仲良くやっていけるのでしょうか?

話は古事記から、えらい方向に進んでしまいました。私は古事記や日本書記に書かれていることを正しく読んで、今後の日本はどうあるべきか、そろそろ、誤魔化さないでかんがえるべき時がきたように思います。

次回から、政治は抜きです。古事記と日本書紀です。できるだけ、難しくならないように、取り組もうと思っています。

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2007.04.25

No56 高倉下命は実在したか

高倉下命の名前は、古事記と日本書紀に書かれています。しかし、記紀には、高倉下と書かれ「命」はありません。
記紀のどこに書かれてあるかと言いますと、神武天皇が大和のニギハヤヒと長髄彦を征伐するために、日向を出発して、進軍します。安岐・高島を通り、浪速国の白肩津(現 東大阪市附近。当時はこの辺りまで入江があった)に停泊すると、ナガスネヒコが軍勢の攻撃を受けます。怪我をした五瀬命を連れて神武は、紀伊半島を迂回し、熊野村へ到る。(兄は和歌山市にて死亡) その後、進軍しますと、天皇をはじめ、全軍が意識不明の状態になります。
 その時に、高倉下が現れ、剣を差し出しますと、それだけで、全軍の兵士は目覚めます。また、敵は切り倒されたと記されています。以上のところに書かれているだけで、他のところには登場しません。
あまりにも、あり得ない内容のため、作り話であるとされています。それだけではなく、神武東征もあり得ないことで、九州にあった邪馬台国、または、これに準ずる豪族が東に移動したのであろうと言われています。
 他のところには登場しませんと書きましたが、古事記の序文に「化熊出川 天剣獲於高倉」という文があります。岩波文庫の訳文では、「化熊川出でて、天剣を高倉に獲」とあります。これでは意味がわかりませんので、注記に「タカクラジという人から手に入れ」とあります。ここは、「高倉」という地名のところで得たでいいのではないかと思います。
 このように序文に出てくる「高倉」と神武天皇のところの「高倉下」では、前者は地名で、後者は人の名前ですが、関係有るのでしょう。

記紀に書かれている内容は、似ていますが随分違いますので、書いてみます。
古事記では、①熊野村に着いたとき、大熊髪出で入りてすぐに居なくなる。②天皇ぐったりする。③軍隊もぐったりする。④高倉下、帯刀を持参 ⑤天皇目覚める。⑥長く眠ったと天皇が云う ⑦天皇、刀を受け取る ⑧熊野の山の荒ぶる神、皆切り倒される ⑨御軍全員目覚める。
大熊髪の意味が良く解りません。翻訳本では、「大熊髪(ほの)かに」と書いてあります。「出で入りて」の意味も良く解りません。出たり入ったりしたのでしょうか?
この帯刀はどうしたのかと訊ねますと、高倉下の申すには、「夢をみました。天照大神と高木神が建御雷神を呼んで葦原中国が騒々しいので、行って征伐してこいと言いますと、建御雷神は、私が行かなくても、その国を平らげることのできる横刀を降ろせばよろしいですと言いました。その刀の名は、佐士布都神(甕布都神またの名、布都御魂)といいます。そこで、高倉下が高倉の頂上に穴をあけて、そこから刀を落としました。翌朝、天つ神の御子に献れ」という夢を見ました。翌日、自分の倉を見たら、夢の通り刀がありました。

日本書紀には、①熊野の荒坂の津に到着。②天皇、丹敷戸畔を誅す。③神が毒気を吐いて、人々を萎えさせました。④高倉下という人が、夢を見ました。「天照大神が武甕雷神に言われるには、葦原の中つ国は騒々しいので、お前が行って平らげなさいと。すると武甕雷神は、私が行かなくても、私が国を平らげた剣がありますから、それを差し向ければ、国は平らげることができるでしょうと答えました。武甕雷神は、高倉下に、「今、あなたの庫に置きましたから、天孫に献上しなさい」と言いました。そこで目が覚めました。
翌朝、庫を見ますと、剣は庫の床に逆さまに刺さっていました。
 
以上ですが、皆さんはどのように読まれましたでしょうか?
古事記と日本書紀の編纂の仕方には、多くの違いがあります。古事記の序文によりますと、稗田阿礼に帝皇日継と先代旧辞を勉強させたとありますが、古事記に書かれていることを見ますと、実際に現地へ行かなければ表現できないような箇所が多数出てきます。例えば、もっとも、初めのところには、「国幼く浮きし脂の如くして、海月(くらげ)なす漂える時、葦牙の如く萌え騰る物によりて成れる神は、・・・」とあります。
季節は、葦原の群生に被さっている雪が、まだ残っており、太陽の日差しを受けて浮いている脂(あぶら)のように、光っています。そして、時折、風が吹くと海月が浮いているように動いています。その雪から、葦の芽が、牙のように、日に日に、伸びている、そんな季節です。さて、3月でしょうか? 4月でしょうか? 稗田阿礼は、紀元700年ころ、岡山県のヒルゼン高原を訪れました。そして、高原のあちこちにある神社を訪れ、祭神を調べたり、古老から村に残る言い伝えを記憶、暗証したと思われます。
 一方、日本書紀は、事象の発生した年月日が正確に書かれています。ということは、日記のようなものが、あちこちに存在したことになります。日本書紀では、できるだけ、多くの記録を掲載して、正確さが強調されています。
 記紀に限りません。社史などは、社史に書かれているころに働いていた人は、読まなくても知っています。しかし、少し読んでみますと、後は読みたくなくなるだろうと思います。調子のいいことばかり書いてあって、読むのが嫌になるはずです。潰れた会社の社史など誰も読まないと思います。記紀は、自分たちが読むために編纂されたのではなく、他の組織の人に読ませるためのものです。
さて、日本書紀に書かれていることは、正確ではないのでしょうか? 記事の内容ごとに、確かめないと何とも言えないと思います。少なくとも、両方に書いてあることは、実際にあったことで、どこかに記録が残っていたか、言い伝えが残っていたと思われます。

では、内容を見ていきます。大筋では、神武天皇の軍が、熊野の山にはいったところ、全員が眠ったように倒れてしまいました。ところが、高倉下という者が持ってきた刀を天皇のところに持っていっただけで、天皇も軍隊の全員が眠りから覚めたように回復した、そして、荒ぶる神は勝手に切り倒されたという話です。その刀はどうしたのだと高倉下に聞くと、天照大神から授かった夢を見たと高倉下は云うのですが、夢が現実のものとなったという作り話です。夢の中身は、どれほど、現実にあり得ない話であっても、夢なのですから構わないのですが、神武軍が全滅し、刀一本を差し出した途端に、すべて解決したという話は、だれも信用できないことです。そこで、この部分も作り話との結論になります。

一昨年の冬だったと思います。名前は忘れましたが、あるお正月を温泉町過ごそうとされていた泊り客が行方不明になりました。皆で探したところ、旅館のすぐそばに、雪がほら穴のようになっているところがあり、その中で死んでおられました。その穴は、温泉の川が流れて穴を形作っていたように思われました。中の硫黄の濃度を測定されて、この濃度であれば、入りますと、2分で気を失うだろうと報道していたように思います。

さて、硫黄含んだ空気は、普通の空気より、重いのでしょうか? 重ければ、硫黄のために、全軍が意識不明になった可能性はあります。序文の「化熊出川 天剣獲於高倉」に書かれている化熊は、神の御使いのように書かれています。この熊が天剣をもたらしたようにも取れますが、本文の方は、高倉下命が持ってきたように書かれています。「化熊出川」の化の字をどのように解釈するかです。飛ばすわけにもいきませんが、良く解りません。
古事記の記述に番号を付けました。天皇は、献上された刀を振り回したわけでもなんでもありません。それなのに、天皇は気がつかれました。そして、⑥長く眠ったと天皇が言われました。ということは、ガスの所為で、苦しんだのでもなく、短時間に意識がなくなったことが判ります。刀の威力で助かったのではなく、風向きが変わって、天皇の御軍は助かりましたが、ガスは敵の方へ流れ、刀を使わなくても、全滅したと思われます。

稗田阿礼は神武天皇が、歩かれたところを実際に歩いてみたのではないでしょうか? そして、全軍が倒れた言い伝えを聞いたのでしょう。 また、奈良の石上神社にも訪れ、佐士布都神と呼ばれている刀が残されているのを知ったのではないでしょうか?
古事記の作者である太安万侶は、偉大なる神武天皇の先祖である天照大神の二つの力を借りて、神武東征を成功させた話を織り込みました。一つは天剣のことであり、もう一つは、道なき道を案内した三本足の八咫烏のことを挿入させました。太安万侶は、天照大神と神武天皇とが関係有るところを伝えようとしました。

古事記が完成したときに、藤原不比等はびっくりしたと思います。古事記には、自分たちにとって、都合のわるいことばかり書かれています。そこで、都合の悪いところは削ることになりますが、この部分の高倉下は、別に都合は悪くなかったのでしょう。ほとんどのところでは、古事記から移したと思われたくなかったのか、漢字を書き換えています。しかしも高倉下に限っては、そのまま使用しています。
高倉下を同じにしたのであれば、刀が出てきたクラは、古事記と同じように、「倉」にしておけばよかったのに、「庫」に変えました。横刀は剣に。天つ神の御子は、天孫に。建御雷神は武甕雷神に。
もう一つ大切なことは、古事記は、意味のわからない部分が多いのですが、日本書紀は、古事記の記述を補うように、リアルに書いています。
例えば、朝になって倉を見ますと、夢見の通り、倉に刀があったのですが、日本書紀では、「翌朝、庫を見ますと、剣は庫の床に逆さまに刺さっていました」とあたかも、作者が見たような表現をしています。
 日本書紀の作者も、どうして神武天皇たちが気を失ったか分からなかったようですが、「神が毒気を吐いて、」と記していますから、なにか毒物だとは思ったようです。

丹敷戸畔のことは、古事記にありません。太安麻呂は書きたくなかったはずです。高木神は日本書紀にはありません。書きたくなかったとすれば、書きすぎでしょうか?

記紀の内容は、私が適当に書きました。できれば、両方とも原文で読んで確かめてください。

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2007.02.14

No55 建速須佐之男・速須佐之男・須佐之男

イザナギから生まれた三貴人のひとりであめスサノオは、イザナギが禊(ミソギ)をしているとき、鼻を洗うと生まれたことになっています。子供がイザナギ(男)一人から生まれるわけがありませんから、三人が、禊をしているときに、家来にしてくださいとやって来たことになります。この時の表記が建速須佐之男です。建はしっかりして堂々としている様子を表します。速は迅速などと使われ、速い様子を表す。
 イザナギがスサノオに、海原を治めなさいと命令します。その時も、建速須佐之男の表記が使われています。スサノオは、高天原から追放されますが、それまでは、建速須佐之男が使われています。その後は、速須佐之男と須佐之男が、混ざりながら使われています。
 どうやら、古事記の作者は、建と速をつけたりつけなかったり使い分けています。
建と速とも、一種の尊敬を表す言葉として使用しているようです。
スサノオは、日本書紀では、素戔鳴尊だけです。
倉野憲司氏の古事記の訳本では、建速須佐之男の説明に、「勇猛迅速に荒れすさぶる男神。嵐の神」と記しておられます。スサ之男ですから、スサはスサぶるから着ていると書いておられます。考えすぎではないかと思います。スサノオは、日本にやってくる前から、スサとよばれていたのではないでしょうか? スサノオを祭った神社は、鳥取県に一杯あります。他の県にもいっぱいです。行く先々、馬が関与してきます。最初に出てくるのは、高天原を追放になったときに、アマテラスに別れの挨拶だと称して、山川が動き、国土が皆震えるほどの勢いで高天原に上ってきます。馬で来たとは、書いてありませんが、人馬ともでなければ、それほどの音はしません。アマテラスは、戦う準備をします。
 スサノオは、田の畔を壊したり、溝を埋めたりの大あばれをします。アマテラスが機を織っていると、天井からブチの馬の皮をはいで、投げ込みました。その外に馬が出てきますから、高句麗あたりから渡来した日地であろうと推察しています。スサノオには、大蛇退治の神話があります。ここには、馬は出てきませんが、出雲の肥の河上というところが舞台になっています。出雲にもスサノオを祭る神社が多いので、出雲系氏族の祖神であると書いてあるものが多いですが、さて、いかがでしょうか? 
 まだ、調べは途中ですが、鳥取県神社に現われるスサノオは、須佐之男尊、素盞鳴命、素盞鳴尊、須佐之男神などです。http://homepage1.nifty.com/o-mino/page328.html
スサノオが鳥取に来たときには、確かに、スサ***と呼ばれていたのでしょうが、漢字表記が行われる頃になりますと、いろいろの当て字が使われるようになりました。素盞鳴尊と書かれている神社は、藤原氏が支配するようになった神社と思われます。
その後のスサノオは、どのような経路で、京都にやって来るのか判りませんが、祇園祭りで有名な八坂神社の祭神になっていますから、訳がわかりません。しかし、訳が判らないでは,日本史の解明は不可能ですから、いすせれは挑戦しなければなりません。

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2007.02.07

No53 天照大御神と天照大神

前者は古事記、後者は日本書紀に書かれているアマテラス神です。
私が持っている記紀の訳本は、両方とも(あまてらすおおみかみ)とフリガナを付けておられます。後者はどうして、天照大神を(あまてらすおおみかみ)と読むことができるのでしょうか? 
普通は、天照大神は、アマテラスオオカミでしょう。天照大御神でも、普通はテンテルオオオンカミか アマテルオオミカミでしょう。

次の文は、古事記の最初の部分(原文)です。天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神【訓高下天云阿麻下此】 
古事記は漢字ばかりで書かれています。たまに、どのように読むかを指定してあるときがあります。
【訓高下天云阿麻。下效此】 が、その部分です。どのように読むのか判りませんが、「高のしたの天は阿麻(アマ)と云って訓みます。以下は此れに習う」でしょうか? ということは、「於高天原成神名」の部分の「天」はアマと読みますから、タカアマガハラと読むのでしょう。天地初發之時の「天」は、アマとは読まないことになります。
「以下は此れに習う」となりますと、何処までが以下なのか分かりませんが、「天之御中主神」に書かれている「天」は直ぐ近くに書かれていますから、「アマノミナカヌシカミ」と読むのだと思われます。ところが古事記の訳本には、「アメノミナカヌシノカミ」と書かれています。
天照大御神をどのように読むのか、調べる気になったのですが、どうやら、「アマ」と読むようですが、「照」は、「テル」か「テラス」は分かりませんでした。
天照大御神にしても天照大神にしても、何故このような名前がついているのか知りたかったのです。記紀をつくるときに、それぞれの編集者は、出所が違うところから、この名前を持って来たにしては、貴人のうち、他の月読命(古事記)、月弓尊・月夜見尊(日本書紀)は表記が違いますが、どうにか同じように、ツキヨミノミコトと読むことができます。須佐之男命(古事記)と素戔鳴尊(日本書紀)は、古事記の方を読んでいますと、素戔鳴尊はどうにか読むことは出来ますが、はじめに素戔鳴尊と書いてありますと読むことは出来ません。
古事記は、712年、日本書紀は720年の完成ですから、古事記を見ながら、日本書紀をつくることは可能ですが、逆は、不可能ではありませんが、スサノオの表記はいっぱい作ることができます。
話が横道にそれますので、此れだけにします。月読命と月弓尊・須佐之男命と素戔鳴尊は単に、漢字の表記が異なるだけですが、天照大御神と天照大神は意味が全く違うところを見て頂こうと思いました。
「御」があるとないの違いだけです。御は尊敬を表すだけと思っていました。日本書紀の編集者は、天照大御神をあまり快く思っていませんので、削除したと考えていたのですが、天照大御神の漢字には、意味があるのではないかと考えました。天は宇宙・大空。それを照らす偉大な神であると。しかし、この意味であるならば、天照御大神と表記されるはずです。そこで、「御」に別の意味があるのではないかと、カシオの広辞苑をひきたました。私の思っていた尊敬を表す意味は、最後の方の6番目に掲載されています。1番はおさめる(家や国家を)2ばんは、馬を調教しておとなしくする。3番は、馬をならす役目。 4番は天子の近くにはべる。5番、天子の傍に仕える人 6番、皇帝の動作や所有物につけて尊敬を表す(御衣) 7番は、ふせぐ (防御 )
 古事記に書かれている天照大御神は、生まれたときから、次期に日本を治める人だと名付けられ、伝えられていたのだと思います。
これぐらいのことは、日本書紀の編集者も判っていたでしょうに、削除したと思われます。

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2007.01.13

No52 三貴子の分治

タイトルの「三貴子の分治」から説明が必要かと思います。このタイトルは、岩波文庫発行の『古事記』倉野憲司校注の30ページに付けられているタイトルです。
 短いですので、全文を記します。
この時伊邪那伎命、大く歓喜びて詔りたまひしく、「吾は子を生み生みて、生みの終に三はしらの貴き子を得つ。」とのりたまひて、すなはち御頚珠の玉の緒もゆらに取りゆらかして、天照大御神に賜ひて詔りたまひしく、「汝命は、高天の原を知らせ。」と事依さして賜ひき。故、その御頚珠の名を、御倉板擧之神ふ。次に月読命に詔りたまひしく、「汝命は、夜の食国を知らせ。」と事依さしき。次に建速須佐之男命に詔りたまひしく、「汝命は、海原を知らせ。」と事依さしき。

「三貴子」は古事記に書かれている「三はしらの貴き子を得つ。」から取られたことが判ります。「分治」は倉野憲司の造語でしょうか? 「分れて治める」か「分けて治めさす」かのどちらかの意味と思われます。三貴子も分治も造語のようですが、上手く名付けられたと思います。
No51までは、古事記と日本書紀は割合と比べることが簡単に思え、異なる点のみを指摘してきましたが、三貴子の分治のことは、両方に掲載されていますが、相当描き方が違っています。どのように書いたら良いか、考えていましたが、中断してしまいました。
 日本書紀では、どのように取り扱っているかといいますと、本文に当たる所では、左の眼を洗うと天照大神が生まれ、以下、月読尊と素戔鳴尊の生まれた様子と統治先が記されています。素戔鳴尊は青海原と書いてありますから、海を治めよとあります。これだけです。例によって、他の一書という形で、このような言い伝えもあると書かれています。全部で11書までありますが、三貴子の分治のことは、11書のみに書かれています。しかし、その大部分は、月夜見尊が、命を受けて保食神の様子を見に行き侮辱をうけて保食神を殺したことが記されています。
 このように書きましても、何のことか理解できないのではないかと思います。
この部分は、ご自分で確かめて頂き、ご自分で読み取って頂ければと思います。

私が気になったことだけを書いてみようと思います。
古事記は、この前の部分で、伊邪那伎命がどのようにして、神々を生んだかを書きました。
生んだといいますと、普通は男女の間で子供が生まれます。イザナギとイザナミの間に、神々が生まれたのかと言いますと、違います。イザナギがイザナミと別れて、禊ぎをしているときに生まれたと書いてあります。
 イザナギの元に、多くの神が集まってきた様子を、古事記は記しています。そして、特別に、三貴子のことを記し、この三人に、高天原を任せたことが書かれています。

もう一度、はじめに書きました古事記の文章を読んでください。

伊邪那伎命、大く歓喜びて詔りたまひしく、「吾は子を生み生みて、生みの終に三はしらの貴き子を得つ。」とのりたまひて
とあります。イザナギ命は、大いに喜んだと書かれています。何故かといいますと、三人は、貴き子であるということを知っていたからです。イザナギ命は、禊ぎのところで会う前に、三人とは、出合っていて、三人は素晴らしい人たちであることを知っていたから、新しい国を作るにあたって、すばらしい指導者に再会して、大いに喜んだのです。
 ではどこで出会ったのかといいますと、隠岐島にいるときに出会う機会があって、日本本土に渡って再開したことになります。その証拠をだせということになろうかと思いますが、出せという方は、ヒントを書きますから、ご自分で調べてください。隠岐島がどのような地形の島であるか? どれほど多くの神社があるか。その神社の名前と祭神はなにか。
 意地悪いことを書きましたが、机の上と誰かが書いた本だけをいくらひねくり回しても、本当のことは知ることは出来ません。
 
 次は、三人は、開発をまかされる場所を決められます。天照大神は高天の原を、が生まれ、以下、月読尊は夜の食国を、素戔鳴尊は海原をと書いてあります。倉野憲司氏の古事記の読み方が間違っているのではないでしょうか? 原文では、「夜之食國」となっていますから倉野憲司氏は、「夜を掌るの国」とされましたが、それは、日本書紀に、「日と並んで天のことを治めよ」と書いてあるから、天照大神が日の国、月読尊は夜の食国を治めよと解釈しておられます。「夜之食國」を「よるのをすくに」とフリガナをうたれますが、それでは判らないといけないので、欄外に注釈を入れて、夜おさめる国、即ち夜の世界。食すは治める意と説明しておられます。
私が補足しますと、地球は天と海とに別れており、天は、昼の世界と夜の世界があり、前者は月読尊が、後者は天照御大神が治め、海は素戔鳴尊が治めることになっています。この解釈は、日本書紀に、そのように書かれていますから、倉野憲司氏は、同じように解釈されたのだと思います。
ここに書かれている場所は、宇宙や地球のことが書かれているわけではありません。はじめに書かれて没収されたと思われる古事記には、「夜食之國」となっていたと思われます。これは、田村誠一氏の説ですが、意外に正しいかもしれません。古事記が発見されて「夜食之國」の部分を、「夜之食國」と書きかえられたのではないでしょうか? その方が日本書紀と合致するからです。照大神が治めるところは、高天の原です。高天の原がどこであるかを決めないと次の夜の食国と海原が決まりません。結論だけを言いますと、高天の原は、岡山県真庭郡の中蒜山のふもとです。(蒜山高原)
 イザナギ命は、蒜山高原の東と西を月読尊と素戔鳴尊に任せました。東は、「夜食之國」は、「夜久野国」です。丹波と但馬の国境にあります。西は海原を統治せよです。河原は、川のそばにできた原です。海のそばに出来れば、海原です。すなわち、海岸です。蒜山高原の北側にできた海原は、倉吉平野です。
 ヒルゼン高原の周囲を三人に任せたイザナギ命は、滋賀県の多賀へ移ります。そして、銅鐸文化が滋賀県で広がります。
 古事記は日本書紀をもとにして書かれたといっておられる方が殆どです。中には、古事記と日本書紀は殆ど内容が同じだと書いておられる方がおられますが、記紀を読んでおられない証拠です。全く、違うことが書いてあります。
 古事記に「汝命は、海原を知らせ。」と書いてある海原を日本書紀は、青海原と書いています。これですと、海の側の原(海岸)の意味ではなく、海のことになります。
 海のことを司る神は、「三貴子の分治」の前の部分に、
 水の底に滌ぐ時に、成れる神-底津綿津見神。底筒之男命
 水の中に滌ぐ時に、成れる神-中津綿津見神。中筒之男命
 水の上に滌ぐ時に、成れる神-上津綿津見神。上筒之男命。
     三柱の綿津見神は、阿曇連等の祖神なり
     底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、
     墨江の三前の大神なり。
と記されています。素戔鳴尊は海を支配してどうするのでしょう。
このように見てきますと、日本書紀は古事記に書かれていることが理解できなくて、古事記に書かれていることは、材料にして別の物語を作り上げましたことになります。

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2006.12.02

No51 ミソギをした時に生まれた神

( )の中は、日本書紀の表示
杖----  衝立船戸神       (杖神フナト)
帯----  道之長乳歯神      (長道磐神)
嚢----  時量師神         (なし)
衣----  和豆良比能宇斯能神 (煩神ワズライ)
褌----  道俣榊           (開囓神アキクイ)
冠----  飽咋之字斯能神     (なし)
履----  なし             (道敷神)
 手纏(左)-奥疎紳、奥津那褻佐毘古神、奥津甲斐辮羅神
 手纏(右)--邊疎神、邊津那塾佐出比古神、邊津甲斐辮羅神

次に、古事記では、中つ瀬に堕り潜きて、身を滌いでいるときにやって来た人の名前を14人挙げています。
  汚垢によりて成れる神------- 八十禍津日神、大禍津日神
  禍を直さむとして成れる神--- 神直毘神、大直毘神、伊豆能売神
  水の底に滌ぐ時に、成れる神-底津綿津見神。底筒之男命
  水の中に滌ぐ時に、成れる神-中津綿津見神。中筒之男命
  水の上に滌ぐ時に、成れる神-上津綿津見神。上筒之男命。
     三柱の綿津見神は、阿曇連等の祖神なり
     底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、
     墨江の三前の大神なり。
  左の御目を洗ひたまふ時に成れる神--天照大御神
  右の御目を洗ひたまふ時に成れる神--月読命
  御鼻を洗ひたまふ時に成れる神------建速須佐之男命

合計26名の部下ができたことになります。

日本書紀では
  中の瀬ですすぎをした時に、     八十枉津日神
  汚れを直そうとして,          神直日神
  水の底に潜ってすすいだとき、    底津少童命。底筒男命。
  潮の中に中に潜ってすすいだとき、 中津少童命。中筒男命。
  潮の上に浮いてすすいだとき、    表津少童命。表筒男命。
    底津少童命、中津少童命、表津少童命は阿曇連羅がお祀りする神である。
    底筒男命、中筒男命、表筒男命は住吉大神である。
  左の眼を洗ったときにお生まれになった神 --天照大神
   右の眼を洗ったときにお生まれになった神 --月読尊
   鼻を洗ったときにお生まれになった神 ------素戔鳴尊戔

並べることによって なにか見えてくるかなと思ったのですが、なにも見えてきません。
これでも手間をかけましたので、考えたことを記してみます。

この部分でも日本書紀の人たちは、意味が判らなかったようです。時量師神や飽咋之字斯能神は判りませんので、書きませんでした。奥疎紳、奥津那褻佐毘古神、奥津甲斐辮羅神も邊疎神、邊津那塾佐出比古神、邊津甲斐辮羅神も判らなかったようです。

イザナギは、ミソギをして、今までのものは、すべて洗い流して、新しく国造りをしようとしたのだと思われます。そこで、各省庁の代表を決めたのだと思います。
古事記の作者は三段階に分けています。
その1
杖----  衝立船戸神       衝立は意味不明。船戸は、船着場だと思います。港湾関係の長です。
帯----  道之長乳歯神      道路に携わる役人。
嚢----  時量師神         測量師です。ユダヤ人が担当したのではないでしょうか?
測量はお手の物でした。
衣----  和豆良比能宇斯能神 病気の担当者。厚生省でしょうか?
褌----  道俣榊           褌は、脚が分かれるところです。股そのものです。なにか困ったことがあったときに、どちらの道をとるかを決める占い師ではないでしょうか?
冠----  飽咋之宇斯能神   宇斯は雨師のことではないでしょうか? 天気予報や雨乞い担当です。   
            
 手纏(左)-奥疎紳、奥津那褻佐毘古神、奥津甲斐辮羅神
 手纏(右)--邊疎神、邊津那塾佐出比古神、邊津甲斐辮羅神
  上記二行が不明です。

その2 古事記には次の神が書かれていますが、この神たちは、これまでにも、働いてきた人たちです。吉原神社と大河原神社に祭られています。
吉原神社  日野郡日光村吉原  祭神 底筒男命、中筒男命、上筒男命
大河原神社 日野郡日光村大河原 祭神 底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命

汚垢によりて成れる神------- 八十禍津日神、大禍津日神
  禍を直さむとして成れる神--- 神直毘神、大直毘神、伊豆能売神
  水の底に滌ぐ時に、成れる神-底津綿津見神。底筒之男命
  水の中に滌ぐ時に、成れる神-中津綿津見神。中筒之男命
  水の上に滌ぐ時に、成れる神-上津綿津見神。上筒之男命。
     三柱の綿津見神は、阿曇連等の祖神なり
     底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、
     墨江の三前の大神なり。

古事記の作者は、「阿曇連等の祖神なり」と「墨江の三前の大神なり」を言いたかったのだと思われます。

その3 最後が
  左の眼を洗ったときにお生まれになった神 --天照大神
  右の眼を洗ったときにお生まれになった神 --月読尊
  鼻を洗ったときにお生まれになった神 ------素戔鳴尊戔

ここに書かれている神が、大臣級の特別の神です。この三人は、外国からやって来たのですが、外国でも、指導者の立場に居た人だと思われます。
そこで、高天原をこの三人に預けて、淡海の多賀へイザナミは行くことになります。

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2006.11.28

No50黄泉比良坂(泉平坂)はどこ その2

禊をした場所を考えてみます。古事記には、『竺紫の日向の橘小門の阿波岐原に到りまして』と書いてあります。
阿波岐原は、淡き原でしょうか? 少ししか草が生えていないところだと思われます。阿波岐原は地名ではありません。このように考えますと、橘小門も地名ではなく、状態を表現したものです。橘の木が小さな門のようになっていたのでしょう。日向も竺紫も同様です。禊と云うものの、身体をきれいに洗うことです。
海にせよ、川にせよ 行ってみますと、そのような所に地名があると考えるのが、間違いです。翻訳者は、古事記の「竺紫」を「筑紫」と読みました。頭は、いっぺんに九州です。
「日向」は宮崎の日向です。「筑紫」だったのに、どうして、宮崎に飛んでしまうのか。
「小門」は狭いところとみました。海ですと、「阿波の水門と速吸名門」の二ヶ所になりました。日本書紀の編纂者はきを使いました。若し、海とちがったら困りますから、別の書物によると、「川の落ち口」になりました。なかなか上手く考えましたが、両方とも違っていました。
『竺紫の日向の小門の阿波岐原に到りまして』とありますところへ、稗田阿礼も行ったのだと思います。大山の山麓のブナ林が尽きるところ、これが「竺紫 ツクシ」です。「日向」は日向かうところです。南向きや東向きのところに、「日向」の地名を見ることができます。
地図をごらんください。陸上自衛隊日光演習場、大山日光CCがあります。きっと、ここは、日光が一日中あたりますので、日光と呼ばれていたと思われます。現在は江府町にかわっています。カラーのついた地図で見て頂きますと、茶色の部分と緑色の部分が有ります。緑の部分は、樹木帯です。ここで、樹木は、尽きて草がわずかに生えたところにうつります。
 イザナギは、御墓原から黄泉比良坂を下り、坂本まで逃げますと、溝口のところから、白水川を遡ります。樹木が尽きたところが、大滝というところです。近くに「吉原」と「大河原」という地名があります。ここに、吉原神社と大河原神社があります。
旧名で記しますと、
 吉原神社  日野郡日光村吉原  祭神 底筒男命、中筒男命、上筒男命
 大河原神社 日野郡日光村大河原 祭神 底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命
とあるように、それぞれに、底筒男命、中筒男命、上筒男命と底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命が住んでいました。
この二ヶ所へ、稗田阿礼は行ったはずです。そして、いろいろのことを聞きました。彼らは、海に関係があったはずですが、この頃は、この辺り海抜500mのところに住んでいました。直ぐ近くにある笛吹山は997mです。この山は、前にも書きましたが、中蒜山の日留宮と御墓原と比婆山(御墓山)は直線で結ばれていました。
別に大きな滝でもないのに大滝と地名は残っています。イザナギに付けられた「大」です。
「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は弱し」とある上つ瀬は、大山三の沢で流れは急で禊は出来ません。下つ瀬はしろ白水川で流れは弱くて禊はできません。上つ瀬から下つ瀬に変わる滝壺でイザナギギは禊をしました。
では、吉原神社と大河原神社に祭られていた人たちは、こんな山の中でなにをしていたかと言いますと、三人は、笛吹山の狼煙の番人でした。島根半島の高尾山から狼煙が上がりますと、伝馬船で福浦に迎えに行くのが、綿津見神の任務でした。三交替で勤務していたのでしょうか? 底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命の三人です。
 このような言い伝えがあることを神主から稗田阿礼は聞いたのではないでしょうか? そして、総合して太安万侶が脚色して、誰にも判らない様に、登場人物だけをのこらずに、掲載したと思われます。この神たちは、なぜか、大阪の住吉神社の祭神になり、その後、全国に広がっています。

いかがでしたでしょうか? 黄泉比良坂は、ここであるというのは、古事記もぼかしました。
黄泉比良坂の後に、ストーリーは続きますから、前後をのべますと、自ずから黄泉比良坂の位置は判ることになります。

古事記と日本書紀を比べることによって、両方に書かれていることの意味が理解できるように思うのですが、いかがでしょうか?

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2006.11.23

No49 黄泉比良坂(泉平坂)はどこ

イザナギが、黄泉の国から逃げてきたときに、古事記には、黄泉比良坂の坂本に到ったとあります。日本書紀では、黄泉の国の境の平坂についたと書いてあります。
古事記に書かれている「黄泉比良坂」の「比良坂」を「平坂」と書き直しただけです。日本書紀の人は、比良坂を地名と判断して、漢字を書き換えました。古事記の方は、「坂本」という地名のところにやって来たとあります。
 大山の南に三平山があります。「みひらやま」と呼びます。いつの頃から、この名前が付いていたか判りませんが、大山から三平山にかけての山の上から夜によく見えた病院が、夜見国であったのではと推察しています。夜見国の一つである御墓原からは、1000mの三平山は見えるのではと思います。(確認していません) 
 山の麓にあるところは、「山本」です。坂の下にある集落は、「坂本」です。有名なところですと、比叡山の麓に坂本があります。「比良坂」は、あまり急でない坂を降りてきたのではないでしょうか? そこが坂本という地名でした。御墓原は標高150mぐらいのところですから、100mぐらいの標高差のところにある坂を下ってきたと思われます。あまり遠くでは、おかしなことになりますから、現在の溝口町のあたりでしょうか?

ところが、古事記には、「其所謂黄泉比良坂者 今謂出雲国之伊賦夜坂也」(その所謂黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂う)とあります。古事記のこの部分の前の方を読んでください。この部分は、誰かが、後の世になって、付け足した感じであることが判ると思います。古事記の作者は「黄泉比良坂の坂本」だと書いたのですから、もう一度、説明する必要などありません。太安万侶は、稗田阿礼から口述でデーターを受け取りました。この部分の文章の形態はそのようになっていません。
古事記の翻訳本(倉野憲司氏)の注書きには、所在は不明ですが、出雲風土記の出雲郡宇賀郷の条に、『北の海浜に窟戸があり、窟内に入れない穴がある。夢に窟の辺に行ったと見れば必ず死ぬ。世人はこれを黄泉の坂・黄泉の穴と言い伝えているとある』日本書紀は、出雲風土記のみならず、あらゆる風土記を参考にしたと思われますが、なぜか、出雲風土記だけが残っているところをみますと、このようなことも事情にあるのかもしれません。
 出雲風土記の報告書が本当のこととしますと、この黄泉の坂・黄泉の穴は、当時、人々に知られたくなかったところではないかと思われます。全国にあった隔離病院の一つではないかと推察します。
 古事記では、イザナミは、比婆山に葬られたとあります。日本書紀では、本文には書かれていませんが、第5書に、紀伊国の熊野の有馬村に葬ったとあります。ここも海岸の洞窟らしいです。ここも、隔離病院であったのではないかと推察しています。
 このように、隔離病院は、全国各地にあったと思われますが、日本書紀の編集者たちは、伯耆国にあることは書きたくなかったのではないてしょうか?
隔離病院が海岸にありますと、一般の人に知られることは少ないのですが、黄泉比良坂では、坂があることになり、海岸以下に下ることはできませんから、坂が合ったのではなく、平坂という地名だったことで、日本書紀だけ読んでいますと、それでいいことになります。
 ただ、物語は続きます。イザナギが穢れたイザナミを見たために、自分も穢れましたので、禊をします。
どこで禊をしたかと言いますと、古事記には、『竺紫の日向の小門の阿波岐原に到りまして』、日本書紀第10書には、禊をしようと、『阿波の水門と速吸名門をご覧になった。ところがこの二つの海峡は、潮流がはなはだ速かったので、橘の小門(日向)に帰られて払いすすぎなさった』とあります。
この二つの文章をどのように思われましたか? 古事記の方は、なんのことか、さっぱり解りません。竺紫というところにある日向という郡でしょうか? 日向の小門というところにある阿波岐原という原っぱに行ったのでしょうか?  紀元前の時代に、野原に名前があったのでしょうか? 日本書紀の編集者たちも、理解できなくて困ったようです。イザナミの墓を紀伊国の熊野の有馬村に葬ったと書いたぐらいですから、阿波の水門と速吸名門をご覧になったと書きました。鳴門のところでしたら、流れは速いでしょう。古事記に「阿波岐原」とありましたから、「阿波」に行ったことにしました。古事記に「小門」とありましたから、「水門」と書きました。ところが、流れが速いので、「橘の小門(日向)に帰られて」とありますから、イザナギとイザナミは橘の小門(日向)に住んでいて、イザナミの具合が悪くなったので、死んだので黄泉の国に行った。(モガリの最中にイザナギが訪れた。そのはずなのに、イザナミがイザナギを追いかけて来た) その後、紀伊国の熊野の有馬村に葬った。誰が葬ったのでしょうか? しかし、それより前に、イザナギは九州の日向に帰ったことになります。
日本書紀の本文では、「筑紫の日向の川の落ち口の、橘の檍原(あわきはら)に行かれた」とあります。古事記に書かれている「竺紫」と日本書紀の「筑紫」は同じでしょうか? 「筑紫の日向」とは、どこのことでしょうか? 普通は宮崎県の日向ということになっています。そこの川の落ち口とは、海に流れ込むところでしょうか? きっと、滝になって落ちているのでしょう。そこに地名がついていて、橘といったのですね。橘というところに、檍原(あきはら)という名前がついた原っぱがあって、そこで禊を行ったと書いてあることになります。
ついでに書きますと、檍原を本当に(あわきはら)と読むのでしょうか? 翻訳本では、(あわきはら)とふりがなが打ってあります。古事記の「阿波岐原」でしたら、だれでも(あわきはら)と読むことができます。
 古事記と日本書紀を比べますと、日本書紀の方は、殆ど、読むことができません。古事記に書いてあることを、忠実に漢字を書き換えると、どうしても、このような事になります。古事記にとらわれないで書きますと、このような事にはなりません。
長くなりましたので、途中ですが、ストップにして次回に繰越です。

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2006.11.20

No48 古代の隔離病院

No47において隔離病院という名前を使いました。問題は隔離という考え方が古代にあったかどうかです。なかったとしますと、No47までのことは、考えを改める必要があることになります。
記紀に登場する病気のことは、崇神天皇の御代に「役病多に起こりて、人民死にて尽きむとしき・・・」と古事記に書かれています。日本書紀にも「国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上におよぶほどであった」とあります。古事記の作者には、人民が死に尽きると思われるほど死者が多かったと思えたのでしょう。記紀のどちらの人も判らなかったらしいですが、日本書紀の作者は、半分を超えていたであろうと考えた事になります。
 これほど多数の人が、死亡する病気は、伝染病しかないと思われます。「役病」も「疫病」も伝染病のことらしいです。伝染病とは伝染していく病気です。この説明はわかったような分からない表現です。現在では、感染症と呼んでいると思います。(自信なし) どちらにしても、誰かから、どこかからうつる病気です。現在でこそ、細菌・原虫・ウィルスが原因で、その原因が、次々と動物や人間に乗りうつって発病することになります。
 崇神天皇は、どうしてこのようなことになるのか判らなかったようです。古事記では、神に聞かれたと記されています。すると、大物主大神が御夢に顕れて、「私がしている事です。意富多多泥古(オホタタネコ)に祭つらせなさい」と言いました。
 日本書紀は、その原因と思われることを書いています。一つは、天皇は朝夕天神地祇にお祈りしたが、上手くいかなかった。そこで、宮中で天照大神と倭大国魂の二神を祀ったが、これも上手くいかないので、宮中から追い出し、豊鍬入姫命と渟名城入姫命に神を預けて祀らしたが、これも上手くいかなかった。その次に、崇神天皇が、「朝廷に善政なく、神が咎を与えておられるのでないかと恐れる。占いによって災いが起こるわけを究めよう」と云われたと記している。天皇が言ったように書いてありますが、原因は天皇であると日本書紀は述べています。
 この続きは別のときに書くとして、記紀がつくられた700年の頃には、病気はうつるものであるという考え方は無かったようです。勿論、細菌などの原因でおこるとは思っていなかったことが判ります。
 解決策は、大物主大神を祀ることによって、見出されたようです。大物主は神武天皇の岳父です。神武天皇が、奈良の柏原に都を定めたのが、西暦元年ですから、大物主は紀元前の人です。崇神天皇は、西暦200年前後の人ですから、200年前の人が、崇神天皇の御夢に現われたとありますが、疫病に対する方法は大物主の関係者に教わったのでしょう。
兎に角、大物主大神については、記紀を読んでいてもおかしなことばかりが書かれていることが判ります。皆さんお好きなように判断してください。
 
 記紀からは、これぐらいのことしか判りませんが、推古天皇の20年(612)のところに、
「是歳、自百済国有化来者。其面身皆斑白。若有白癩者乎。悪其異於人、欲棄海中島。
 然其人曰、若悪臣之斑皮者、白 斑牛馬、不可畜於国中。亦臣有小才。能構山岳之形。
 其留臣而用、則為国有利。何空之棄海島耶。於是、聴其辞以不  棄。
 仍令構須弥山形及呉橋於南庭。時人号其人、曰路子工。」

意味は、「百済からの帰化人のうちの一人に、顔面に白斑のできた者があり、白癩と疑われて海中島へ島流しになろうとした。しかし、その人は庭造りの名人であったのでこれを許し、南庭に須弥山と呉橋をまねた庭を造らせた。この人は路子工あるいは「しこまろ」と呼ばれた」です。「白癩」はらい病のことと思われます。
又、「法華経義疏」(ほけきょうぎしょ)は聖徳太子が著わした「法華経」の注釈書で、日本最古の書物と言われています。「法華経」は中国で、鳩摩羅什(くまらじゅう―344~413年)によって訳された(サンスクリット語→漢文)「妙法蓮華経」がもっとも広く流布されています。その中の「妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八」に、「白癩」の症状が詳しく書かれています。興味のある方は、原文を読んでください。日本書紀の作者は、ここに書かれていることを参考にして、日本書紀を書いたことが推察できると思います。

イザナギがイザナミのところを訪問したのは、やはり、病院であったと考えていいと思われます。古事記には黄泉の国へ行ったと書かれているのに、どうして、日本書紀の人たちは、御墓野や夜見島のことを死の国と書いたのでしょうか。
考え方は、いろいろできます。自由に考えてください。

イザナギとイザナミは、紀元前180年ころの人ではないかと推察しています。記紀が書かれたときより、900年も前のことですから、判らないといえば、それまでですが、稗田阿礼が、病院を訪れたときに、昔話として聞いた話を、太安万侶が脚色したのだと思われます。日本書紀の編纂者たちは、詳しい内容を知っていただけに、詳細に書くことになったのでしょうか?

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2006.11.17

No47 墓の字がつく地名 御墓原

No46 推理はいかがでしたか?  〔御墓原〕というように、墓の字があるから、そこに墓があると考えるのは、無理だろうと思われた方が殆どだと思います。
以前に、滋賀県の小字を調べていたときに、墓地名が多いなと感じたことがありました。どうして、こんな縁起でもない名前が付いているのだろうと思いました。漢字は、「墓」ですが、お墓でない、他に意味があるのだろうと思いましたが、墓しか思い浮かびません。現在は、小字は消失してしまいましたので、当然、墓地名はなくなりました。もう一度、調べてみました。
 角川地名大辞典の巻末から書き出したものでは、滋賀県には、小字が44333件あります。その中に、墓の字がつく小字は、120件あります。小字の中の小地名には、82件あります。このように眺めますと、どの村にもお墓は必ずあり、そこには、「墓」の字を含んだ地名をつけたと思われます。極、自然なことだったようです。どのような地名があったか、並べて見ます。 
 横墓ヌキ(南富永村)、下墓ノ尾(広瀬村)、下墓原(鏡山村)、下墓丈(南富永村)、荒墓(草津村)、朱墓(北富永村)、相撲墓(大郷村)、墓ヶ谷(米原町)、墓ノ前(田根村)、墓ノ町(大郷村)、
墓原(野洲町)、墓田(大郷村)、墓立(芹谷村)・・・。
多い墓名は
墓ノ町は、38件あります。墓立は12件あります。御墓は6件。墓ノ前は6件。墓原は7件。
滋賀県の小字にも、「墓原」が7件ありました。伯耆の国の〔御墓原〕には、「御」が付いていました。
単に、お墓があった所には、「墓」という字を含んだのであれば、もっと、沢山あってもいいことになります。上に挙げましたところは、やはり特殊であったと思われます。現在ですと、まだ、小字のことを知っておられる方が居られると思います。90歳以上の方でないと無理かと思います。今のうちに、調査が必要だと思われます。

No46で書きましたように、120件の内、20件の隔離病院があったのではと仮定しますと、全国で、1000件ほどの隔離病院があったのではないかと推察できます。
これは、どのように考えたらいいのでしょうか? 二つです。
隔離病院など無かった。
隔離病院はあった。あったとなりますと、「20件の隔離病院」の仮定が間違っていたことにしないと、話は前へ進みません。
各国に一件あったことぐらいにして、推理を重ねてみようと思います。

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2006.11.15

No46 黄泉の国の第二病院

前回で予告しましたが、「御墓原」は見つかりましたか?  東経133度24分、北緯35度20分にあります。旧住所では、会見郡です。イザナギがイザナミ会いそして見るためにいったという伝承があったから、後の人が、会見郡と名づけたのでしょうか? それではできすぎています。しかし、東北の会津の地名の由来は、「「会津」の地名の起源は、崇神天皇(すじんてんのう)の御世(みよ)に遡ります。古事記や日本書紀の言い伝えによれば、大和朝廷の勢力拡大のため、四道将軍(しどうしょうぐん)が各地に派遣されましたが、うち大毘古命(おおひこのみこと)は北陸道方面へ、その子の武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)は東山道方面の経営に遣わされたとあり、その親子が出会った場所が、東北最果ての地「津の国(湖のある国)」であったことから「会津(相津)」という地名がついたといわれています。」
だから、会見郡は、そのようなことは無いと否定することもありません。
地名 御墓原について考察してみます。

地図に表示されている「墓」地名は、「地図で見る日本の地名索引」で検索しますと、427件検出できます。 この中には、東京の青山墓地とか、大阪の阿倍野墓地というようなもの。岡山の池田輝政墓や阿保親王墓というような個人名の付いた墓の表示もあります。
こうした実際の墓地名を覗きますと、純粋(?)の墓の字がつく地名は多くありません。

例えば 岐阜・青墓町、和歌山・犬の墓、岡山・犬墓山、香川・王墓、岡山・王墓山、島根・御墓山、鳥取・御墓山(おはかやま)、鳥取・御墓原(みはかはら)、福島・牛ヶ墓、福島・馬ノ墓、静岡・大墓瀬、滋賀・墓谷山、新潟・墓間、福島・墓料、新潟・三墓山。
 もう少し、あるかもしれませんが、僅か14件です。
そりゃ縁起でもない、自分達が住んでいる所に、墓の字をつかうなどと思われるかもしれませんが、昔は多く付けられていました。その事を書く前に、上の14件の地名を眺めて見ます。
① 香川・王墓、岡山・王墓山です。 これは、現地の人にお願いしたいですね。
② 鳥取・御墓山(おはかやま)、鳥取・御墓原(みはかはら) 両方とも鳥取にあるのが、気になります。同じ字を書いて、片方は(おはかやま)であり、(みはかはら)です。御という漢字を「お」とよみ、「み」と読んでいます。「み」の方は、高貴な人が葬られていたとの伝説があったのでしょう。そして、「原」ですから、広範囲にお墓があったのでしょう。
この地には、記紀に書かれている黄泉国があったのではないかと推察しています。理由は、別に記します。
③ 和歌山・犬の墓、岡山・犬墓山、福島・牛ヶ墓、福島・馬ノ墓 以上は動物の墓になっています。犬の墓は、イザナギとイザナミ又は徐福の一族と関係があったのではと推察しています。

すべての所へ、行く訳にも行きませんので、地元の人に、どのような所あるのか、例えば、島根・御墓山、鳥取・御墓山(この二つは両県の跨っています。東経133度24分・北緯35度20分)には、古墳があるかなど調べていただきたいなと思います。
問題は、御墓原です。イザナミの入院先ではないかと思っています。ここは、夜見島のように島でありませんから、伝染病から隔離するには、適当ではありません。しかし、
ヒルゼン高原(日留宮)—笛吹山(ノロシ台)—御墓原(入院先)—比婆山(お墓)と並んでいます。米子市の夜見町より古くからあったのではないかと考えています。病院があったのですが、死亡者が多かったために、どんどんお墓が増えたのではないかと想像します。古墳時代の大きなお墓ではなく、どんどん埋葬されただけでしたから、なにも出土しないですが、青山墓地というのが、その内に、地名として残るように、地名として「御墓原」として残っているのだと思います。死亡したイザナミは、比婆山(御墓)に葬られたことが、「出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬りき」と古事記に書かれています。日本書紀では、この部分は、6つの書物があることになっていますが、第5書に、「紀伊国の熊野の有馬村に葬った」とあります。
 笛吹山は、別の機会に書くこともあると思いますが、イザナギとイザナミが連絡用に利用した重要な山だったと思われます。御墓原は、笛吹山から夜になると、明りが見えたのだと思われます。稗田阿礼は、この山にも登って、夜見の国を眺めたでしょう。詳細は、「楽しい人生」の2005年1月18日に「イザナミの墓・比婆山」と題して、書いています。http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/01/post_8.html

日野郡阿毘縁村宮下に熊野神社があります。この神社の由緒にイザナミを葬った比婆山を別名御墓と称したという伝説があるということを記しています。又、比婆山の山頂には比婆山久米神社奥の宮の本殿があり、その横には「伊邪那美大神御神陵」と書かれた標柱がある。(http://www.city.yasugi.shimane.jp/p/public/ijiri-es/ijiritenbyou の中の比婆山神社に書かれています) 又、この比婆山神社の由緒にもイザナミは御墓山に葬られたと書いてあるそうです。
比婆山は、島根半島にある高尾山の真南に位置します。イザナギとイザナミの一族は、方位を測量することはお手の物だったと見え、ある基準地(淡路島の多賀)から、南・北・東・西にある山を基準にして、都やお墓の位置を決めたように思われます。
 イザナミは御墓原の病院に入院していましたが、亡くなり、すぐ近くの比婆山に葬られたことになります。
日本書紀は、この事実を隠すために、有馬村のことを書いたり、書くだけではなく、和歌山の有馬にお墓まであります。比婆山は、廣島県に持って行き、郡の名前まで作っています。    
資料---比婆山は4ヶ所あります。 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page325.html

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2006.11.13

No45 イザナミは、病院に入院していた

もう一度、古事記の黄泉について書かれた部分をあげます。
「ここにその妹伊邪那美命を相見むと欲ひて、黄泉國に追ひ往きき。ここに殿の縢戸より出で向かへし時、伊邪那岐命、語らひ詔りたまひしく、「愛しき我が汝妹の命、吾と汝と作れる国、未だ作り竟へず。故、還るべし」とのりたまひき。ここに伊邪那美命答えへ白ししく、「悔しきかも、速く来図手。吾は黄泉戸喫しつ。然れども愛しき我が汝夫の命、入り来ませる事恐し。故、還らむと欲を且く黄泉神と相論はむ。我をな視たまひそ。」とまをしき。
 イザナギはイザナミに合いたくなって黄泉国まで追いかけて行きましたと書いてあります。行き先を知っていたのです。行くことができる所であったことが判ります。イザナギは、まだ、国生みが完成していません。二人でもう一度国作りをしましょうと、イザナミは残念ですが、黄泉戸喫を食べてしまいましたので、この病院での規則では退院出来ません。しかし、黄泉神と相談してきます。しかし、病院の中の様子は決して見ないでください と云って病院の中にはいっていきました。 
 二人は、病院外で、このようにお話をしたことになります。

日本書紀には、どのように書いてあるかは、No41でみましたので、もう一度よんでください。日本書紀の本文にあたる部分には、黄泉の国のことは書いてありません。日本書紀の編纂者は書きたく無かったのですが、このような話が他の書物にのこっていますよと、第11書まで記しています。その内、黄泉の国のことは第6、第9、第10のみに書かれています。
日本書紀の本文にあたる部分には、黄泉の国のことは書いてありません。日本書紀の編纂者は書きたく無かったのですが、このような話が他の書物にのこっていますよと、第11書まで記しています。その内、黄泉の国のことは第6、第9、第10のみに書かれています。
 その内、
第6書には黄泉国に行っただけ書いてあります。
第9書は、はっきりと殯(モガリ)のところへ行ったとあります。
第10書は、黄泉国とは書いてなくて、イザナミのところへ行ったとあります。
 本当に、巧妙な編集だと思います。読んだ人の感性によって、受け取り方が違います。イザナギは死の国・黄泉の国へ行ったと記憶に残る人、殯(モガリ)のところへ行ったと覚えてしまう人、それぞれ。丁寧に読んでも、わけが判らなくなります。

では、何故、イザナミが行った先が、病院であると思ったかです。

日本書紀の編集者たちは、古事記を元にして日本書紀を書こうとしましたが、意味がよく判らなかったようです。
イザナミに覗かないでくださいと云われたのに、イザナギは覗いて見た様子を、第6書において、記しています。宇治谷孟氏の訳文よりかきますと、
第6書は 「膿が流れ、うじが涌いていた」
第9書には、「伊弉冊尊滿太く高く膨満していました。体の上に八種の雷公が有った。伊弉諾尊は驚いて走り逃げ還った。是の時、雷等は皆起きて追いかけて來た。」
第10書には、イザナミの状態は描写されていません。

これは重要なことです。第6書に書いてあることは正しくありません。うじ(蛆)はご存知ですか? 最近は見る機会がすくなくなりました。説明をしておきます。ハエ目(モク)・ハチ目などの昆虫の幼虫の総称です。例えば、ハエは、犬が便をしますと、数分以内に臭いを嗅ぎ付けてやってきて、卵を産みます。その後は、どうなるのか見たことがありません。勿論、数日で卵は孵って幼虫の蛆になります。そして、便を餌にするのだと思いますが、食べているのを見たことがありません。例えば、犬が下痢便をして、汚物が皮膚に付いたとします。犬はすぐに舐めて取り除きます。ところが、病気で鼻が悪くなって気がつかないのか、舐める元気も無いと、すかさず、ハエが飛んできます。そして、膨大な数の卵を産んでいきます。2日後には孵化すると思います。(少し、自信なし) 孵化したところは見たことはありません。私が知っているのは、孵化した蛆が生きている犬をどんどん食べている様です。その様子を古事記は、「蛆たかれころろきて」と書いてあります。「たかれ」は、ハエがたかるなどと言います。集まることです。「ころろきて」は「嘶咽く」と書きます。ころころと音を立てる。とか、声がかれて、のどが鳴る様を云うと辞書にあります。蛆はころころと音はしませんが、音がするよう雰囲気です。たっぷり栄養分を食べた蛆は、足もないくせに、逃げ足はやく移動をします。100匹にもなるかと思われる蛆が集まっている様は、「蛆たかれころろきて」の通りです。このように、音がするほどの勢いで生きた犬を食べるのですが、犬は舐めようともしません。そして、ひどくなりますと、血がでるようになります。蛆は皮膚の表面ではなく、どんどん身体の奥深く侵入します。それでも、犬は痛がりません。蛆がたくさん集まりますと、どうやら、ねばねばの液を出すようです。それは、局所麻酔の役割をするのではないかと思われます。
 すみません。生々しい様子を書きました。もうお判りになりましたか? 蛆は便には、卵を産みますが、死んだ動物には卵を産まないと思います。死んだ動物の処理をするのは、蛆ではなく、細菌の仕事だと思います。
日本書紀の第6書に書かれている「膿が流れ、うじが涌いていた」はまちがっていることになります。膿が流れて、うじが涌きません。 蛆が関与している間は、細菌は付いても生きていけないと推察します。(これは自信ありません) もし、イザナミの身体から、膿が流れていたのであれば、蛆とは関係なしに、化膿があったと思われます。
患部は、どのようになっていたかといいますと、古事記は、「頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并せて八はしらの雷神居りき」と記しています。
患部の数は8つあったことになります。大きさ、色、出血などの違いにより、雷にみたてて名前をつけたのだと思います。
古事記には「膿」が流れているとは書いていないのに、「蛆」がありましたので、日本書紀の編纂者たちは、分かりやすく「膿が流れて」いたことを書きました。私の考え方がよくないかも知れませんが、この事実は、現在でこそ、知らない人は多いと思いますが、当時ですと、細菌のせいだとか、癌だとか知らなくても、誰でも知っていたと思います。
 イザナミは性質の良くない病気だったのではないでしょうか?  もしかすると、伝染病と思われていたのかもしれません。このように考えますと、隔離をするには、島が最適となります。No44において、黄泉国は夜見島ではなかったかと推理をあげました。高尾山から、夜でも見える夜見島を訪れた稗田阿礼は、ここに入った人(黄泉戸喫しもつへぐいをした人)は、出して貰えなかったのではないでしょうか?  
 ところが、イザナギは病院に入所したのではありませんが、病棟に入りました。そして、見たことを外部に漏らされては困ります。又、病気がうつったかもしれません。そこで、イザナミと黄泉軍に追いかけられたのだと思います。ここらあたりのストーリーは、この病院のルールを稗田阿礼から聞いた太安万侶が物語りにしたのだと思います。作りばなしでありますから、日本書紀の編纂者は、理解できなくて困ったと思います。
 第9書に書いてある「伊弉冊尊滿太く高く膨満していました」は正しい記述です。はじめにモガリにいったとありますから、イザナミは死んでいました。当時の人は、勿論、近親者だけでしょうが、死体を見る機会は多かったと思います。お腹が腫れていました。人間は死にますと、心臓はとまり、筋肉も硬くなります。ところがお腹の中の細菌は、少し後まで生きていることになります。生きていますと、ガスが生産されて腸が膨らみます。
 第6書と違って、観察は鋭いですから、第6書と9書は書いた人が異なるかもしれません。

次回は、病院の第二の候補地を書いてみます。伯耆国の御墓原と呼ばれるところです。                                
どこにあるか、調べておいて貰いますと、いろいろ私の考えに惑わされないで、別の発想が閃くかも知れません。

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No44 黄泉国は入院先の病院があったところ

黄泉国は、候補地として二箇所考えています。一つは、夜見町であり、もう一つは御墓原(東経133度24分、北緯35度20分)です。
両方とも鳥取県です。昔の名前で言いますと、伯耆国です。伯耆国には、式内社が6社しかありません。この地は神武天皇から住んでおられたところで、天皇家の支配がもっとも強かった所です。そのため、多くあった神社を式内社にすることはできなかったと思われます。その理由は、簡単に書く事は出来ません。これを実証するためのように、別のブログに、一年以上書いています。ブログは「新しい日本の歴史」
http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/ ですが、膨大になりましたので、同じタイトルで、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page550.html に移しています。No14、15、16に簡単に書いていますから、読んでください。納得できない方は、No1から全部読んで頂きますと、少しだけ、「そうかいな」 という気になられるのではと思っています。

話を元に戻しまして。天皇家は、直接イザナギとイザナミとは、関係ありませんが、イザナギが黄泉国から逃げ帰ったときに、アマテラスとツキヨミとスサノオが生まれたと古事記に書いてありますが、この三人は家来になったのでしょう。アマテラスの系統が天皇家であるとなっていますから、伯耆はイザナギとイザナミとも大いに関係があります。
 夜見町は、米子市にあります。地図を開いてください。砂州が発達してできた弓ヶ浜を見つけることができます。(夜見ヶ浜) と書いてあるはずです。 半島が弓のように曲がっていますから、弓ヶ浜と呼ばれていますが、元は夜見ヶ浜であったことが判ります。しかし、半島どころか、島であったらしいです。「彦名」という地名が見えます。その近くに粟島神社があります。祭神は少名彦那命です。古事記に登場する神です。地名まで「彦名」とあります。この近くに住んでいたと考えていいと思います。
http://www.coara.or.jp/~tagi/ooita/kunisaki/kunisaki1.htm

「彦名」より北は、海抜が4m以下ですから、紀元前は海であったことが想像できます。
昨日の新聞に小さくですが(岡山県の古墳から銅鐸がでた)と書かれていたのを読んだような気がします。
出雲風土記の蜈蚣嶋の説明の中に、「即、自2此嶋1、達2 伯耆國郡内 夜見嶋1、磐石 2里許。廣60歩許。乗レ馬 猶 往来。盬満時、深2尺5寸許。盬乾時者、已 如2陸地1」と記されており、夜見町は、嶋であったように思われます。夜になるとどの島も真っ暗であるのに、この嶋は人が多く火が焚かれていて、夜でも見えたのでしょう。
 だれの目に見えたのかと言いますと、稗田阿礼が実際にどこからか見てそのように見えたのでしょう。稗田阿礼は天武天皇から古事記を編纂するために、資料を集め記憶しておくように命令されました。彼は、蒜山高原を中心にして、殆どの神社は訪れ、古老の話などを聞いたと思われます。
 夜見町からもう少し北へ行きますと、米子空港があります。この空港から北を望みますと、二等辺三角形の山ガ見えます。高尾山と言います。この高尾山へ稗田阿礼は登ったと推察します。と言いますのは、この高尾山の真北に隠岐島があり、そこにやはり高尾山があります。この隠岐島が、イザナギやイザナミが出発したところだと思います。高尾山は全国いたるところにあります。イザナギやイザナミのグループの人たちが目印にした山だと思っています。http://homepage1.nifty.com/o-mino/page421.html
 稗田阿礼は、高尾山から夜見町が明るく見えたこと、そして、夜見町も訪れました。その当時、700年代でも、ここに隔離病院があり、中を覗き見すると夜見嶋から出してもらえませんと注意をされたのではないでしょうか? 稗田阿礼は粟島神社を訪れ、少名彦那命が祭られていることも知ったと思われます。
少名毘古那神は古事記に載っている神ですが、どのように乗っているかは、次のアドレスをクリックしますと、読むことができます。もっとも、翻訳は素人の私がしましたから、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page409.html
プロの翻訳本で確かめてください。
 稗田阿礼が粟島神社を訪れ、調べてきた少名彦那命のこと、夜見嶋のこと、隔離病院のことなどを太安万侶に伝えて、古事記のストーリーを作ったと思われます。このような調子で調べて行きますと、古事記に出現する神は、隠岐島をはじめとして、島根半島、伯耆国、ヒルゼン高原にすべて、神社の祭神として見つけることができます。
 そりゃそうです。調べてあった神を材料にして古事記を作ったのですから。とはいうものの、正確にいいますと、その筈ですとなります。すべて調べていません。

黄泉国には病院があったと書きましたが、次回は、なぜ、そうなのかを書いてみようと思います。 

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2006.11.11

No43 黄泉国は地下にある死者の住むところか

黄泉醜女は黄泉の国にいることは判りましたが、黄泉とはどこかと言いますと良く判っていません。小学館の国語辞書には、「人の死後、その魂の行くという所。死者の住む国。あの世。よみの国。よみ路。よもつ国。こうせん」 と書いてあります。広辞苑は、これに付け加えて、闇(やみ)の転か。ヤマ(山)の転ともいうと書いています。判ったような判らない説明です。人の死後、魂だけが、どこかへ抜けていくのかどうか判っていないのに、行く所だとあり、死者が住む国があると書いたものの、見た人は居ないのですから、無理はありません。闇から転じたのであれば、暗闇は黄泉の元の言葉となります。どのような経過があったか分かりませんが、日本では、死んだ人が、「よみ」に行くと思っていたのでしょう。そして、そこは暗いところであるというイメージは持っていたので、太安万侶はイザナギが櫛に火をつけたと書いたのでしょう。日本書紀の作者は、それでも意味が判らなかったから、丁寧に説明をしています。第9書では、もがりのところへ行ったとあります。殯は死んだ人を保管しておくところですから、イザナミは喋ることはできないはずですが、生きていたときのように出てきて喋ったと書いています。このような馬鹿なことはありえませんから、本文では、死んだイザナミに会いにいったなどとは、書かないで、単に会いにいったと書き、別にこのように書いた第9書がありますよと、馬鹿げた話は、第9書に任せたことになっています。
 黄泉国という言葉、古事記が最初の出典らしいです。古事記の作者である太安万侶は、どうして黄泉という言葉を使ったのでしょう。「字通」によりますと、中国では、黄泉のことは地下の泉。冥土。 として使われていることが書いてあります。黄は、土の色を言うらしいですが、日本の土ではなく、中国の黄土のことらしいです。秦の始皇帝のお墓は、発掘されていませんから、判っていませんが、皇帝は黄泉(黄色の泉)ではなく、水銀の泉に囲まれているとの伝説があるそうです。
 このようなことから推察しますと、中国では死者のいくところを「黄泉」ということを、太安万侶は知っていたことになります。 中国では、「黄泉」は「こうせん」と読むようですが、「よみ」とは読まないのに、日本では、ずっと、「よみ」と読み習わされています。
 このように見てきますと、中国の黄泉には、地下の泉のいみがあるらしいですが、日本の黄泉には、地下という言葉はでてきません。 倉野憲司氏は黄泉国の注記に「地下にある死者の住む国で、穢れた所とされている」と書いておられます。

 黄泉国を考えてきましたが、古事記にも日本書紀にも「死者のいくところ」とは書いてありません。古事記では、次のように書かれています。ひつこいようですが、もう一度掲載します。
『「ここにその妹伊邪那美命を相見むと欲ひて、黄泉國に追ひ往きき。ここに殿の縢戸より出で向かへし時、伊邪那岐命、語らひ詔りたまひしく、「愛しき我が汝妹の命、吾と汝と作れる国、未だ作り竟へず。故、還るべし」とのりたまひき』
 
死の世界どころか、もう一度帰ってくださいと言っています。 では、イザナギはどこへいったのでしょうか? 次回、挑戦です。 

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2006.11.09

No42 黄泉醜女と醜男

「醜女」で広辞苑で引きますと、「容貌のみにくい女。醜婦(しゅぅふ)。また、黄泉(よみ)にいるという女の鬼」古事記(上)〔黄泉(よも)つ醜女を遣はしめき〕」とあります。
「容貌のみにくい女」は容貌を付け加えて醜の漢字をひらがなにしただけです。醜婦という言葉など使うことがあるのでしょうか? 「黄泉(よみ)にいるという女の鬼」という言葉は、日本書紀には書いてありますが、古事記には、ただ、黄泉醜女を使わしたとのみ書いてあります。
 では、例えば、源氏物語に「醜女」が使われているのかといいますと、調べていませんから、判りませんが、最初に出てくるのは古事記なのでしょう。だから、「醜女」の語源として古事記を挙げているのだと思います。日本書紀には、醜女は出現しますが、古事記には黄泉醜女は出てきますが、醜女は出てきません。黄泉醜女は古事記には出てきますが、日本書紀には出てきません。泉津醜女はでてきます。原文には泉津醜女とありますが、翻訳者は、なぜか、冥界の鬼女八人と書いています。原文には、泉津醜女は 一名は泉津日狭女と書いて、「よもつひさめ」とふりがながふられています。記紀には、鬼女とは書いてないのに、広辞苑では、「黄泉(よみ)にいるという女の鬼」と書かれたということは、広辞苑の作者は、古事記はよく読まれないで、日本書紀の原文も読まれないで、翻訳本を参考にされたことが判ります。
 別に、広辞苑も日本書紀も非難する気はありません。たかが、「醜女」はどういう意味があるのかを調べようとしますと、どうどう巡りをするだけであることを見て頂いただけです。黄泉醜女という言葉の意味を知ろうとしますと、一層大変になります。意味よりも、「黄泉醜女」が、「よみしゅうめ」ではなく、どうして「よもつしこめ」と読むのかです。古事記の翻訳の注記に「黄泉の国の醜い女。死の穢れの擬人化」とあります。どういう意味か理解できません。古事記の原文に「豫母都志許売」と書いてあるのに、倉野憲司氏が勝手に「黄泉醜女」と書き換えて、「よもつしこめ」と振り仮名を打たれたことになります。これであれば、「よもつしこめ」の振り仮名は理解できます。

随分長い文章を書いてきましたが、私は倉野憲司氏が古事記の解読を間違われたのではないかと思っています。そして、間違った注記「黄泉の国の醜い女。死の穢れの擬人化」をされたばかりに、この翻訳を信じた方が、その後、全員間違われたのではと考えます。
 どこが間違っているのかと言いますと、「死の穢れの擬人化」が間違っているのではないかと思います。古事記を読みますと、イザナギがイザナミの側にいた「豫母都志許売」が、逃げたときに追いかけてきたこと、イザナギが身が穢れたと思って、川で身を清めたことは書いてありますが、豫母都志許売が穢れていたとは書いてありません。
 
 これは、倉野憲司氏が間違われただけではなく、日本書紀の編纂者たちも理解できなかったのだと思います。 

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2006.11.07

No 41 日本書紀における黄泉の国

日本書紀では、黄泉の国に関する部分は、第11書まであります。イザナギが読みの国まで、イザナミを追いかけて行き、見ないように言われたのに、暗闇で火を点して見たイザナミには、八柱の神が纏わりついていました。
古事記では、次のように書いてありました。
「頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰(ほと)には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并せて八はしらの雷神居りき」
11書あるうち、八柱のことを書いている書は、第9書だけです。
「所謂八雷者。在首曰大雷。在胸曰火雷。在腹曰土雷。在背曰稚雷。在尻曰黒雷。在手曰山雷。在足上曰野雷。在陰上曰裂雷」。原文ですが、見比べてください。少し身体の部位と神の名前は異なりますが、八柱の数はあっています。

伊弉諾尊欲見其妹。乃到殯斂之處。是時伊弉冊尊猶如生平出迎共語。已而謂伊弉諾尊曰。吾夫君尊。請勿視吾矣。言訖忽然不見。于時闇也。伊弉諾尊乃擧一片之火而視之。時伊弉冊尊脹滿太高。上有八色雷公。伊弉諾尊驚而走還。是時雷等皆起追來。時道邊有大桃樹。故伊弉諾尊隠其樹下。因採其實以擲雷者。雷等皆退走矣。此用桃避鬼之縁也。時伊弉諾尊乃投其杖曰。自此以還雷不敢來。是謂岐神。此本號曰來名戸之祖神焉。所謂八雷者。在首曰大雷。在胸曰火雷。在腹曰土雷。在背曰稚雷。在尻曰黒雷。在手曰山雷。在足上曰野雷。在陰上曰裂雷。
 伊弉諾尊(イザナギ)は其妹を見たく欲して、殯斂(もがり)の所へ行かれた。この時伊弉冊尊(イザナミ)はなお生きて居たときの如く出で迎えられて共に語られました。伊弉諾尊が言われるのには、「吾が夫君尊よ。請勿視吾を請勿視ないでください」と言うと忽ち見えなくなりました。その時暗闇であったので、伊弉諾尊は一片之火を点して視られました。その時、伊弉冊尊滿太く高く膨満していました。体の上に八種の雷公が有った。伊弉諾尊は驚いて走り逃げ還った。是の時、雷等は皆起きて追いかけて來た。 以下省略。

日本書紀の本文にあたる部分には、黄泉の国のことは書いてありません。日本書紀の編纂者は書きたく無かったのですが、このような話が他の書物にのこっていますよと、第11書まで記しています。その内、黄泉の国のことは第6、第9、第10のみに書かれています。

第6では、「然後、伊弉諾尊追伊弉冊尊入於黄泉、而及之共語時」とあります。「しかる後、伊弉諾尊は伊弉冊尊を追って黄泉の国に入って、その時、共に語られました」とあります。
第9は、黄泉の国ではなく、殯(もがり・死体を墓に葬るまで安置しておくところ)に行ったと書いてあります。第6では、黄泉の国へ行ったとは書いてありますが、イザナギとイザナミは共に話をしたとあります。死の世界に行ったとは書いてありません。両書とも、イザナギとイザナミが一緒に話をしたところは共通です。また、イザナミが姿を見ないでくださいと言って、暗い奥へ入っていった。そして、イザナギは待てなくて、櫛に火を点してイザナミの姿を見てしまいます。そこで、イズナギは逃げ出します。
第6書では、イザナミは、怒って泉津醜女八人を追いかけるように命じます。第9書では、イザナミは、怒って八柱の雷に追いかけるように命令します。

ややこしいので、第6書の原文と訳文を省略しました。余計ややこしくなりましたでしょうか? まだ、第10書のことがありますが、複雑になりますので省略します。

私は、第6、第9、第10に書かれていることを合成すると、古事記に書かれていることになるのではないかと思っています。
古事記の完成は、712年。日本書紀の完成は、720年です。日本書紀の編纂のときに、古事記を参考にした筈です。そうであれば、第1書より第11書までに、古事記と同じ話があってもおかしくないのですが、古事記に書かれていることを第6、第9、第10に分解したように見えます。
このような事に注目しながら、古事記と日本書紀を読み比べてください。
  次回は、なぜ、このような事になったか解明して見たいと思います。

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2006.11.05

No40 黄泉の国はどこにあるか

少し、長いですが、次の文章は古事記に書かれている黄泉の国の部分です。
「ここにその妹伊邪那美命を相見むと欲ひて、黄泉國に追ひ往きき。ここに殿の縢戸より出で向かへし時、伊邪那岐命、語らひ詔りたまひしく、「愛しき我が汝妹の命、吾と汝と作れる国、未だ作り竟へず。故、還るべし」とのりたまひき。ここに伊邪那美命答えへ白ししく、「悔しきかも、速く来図手。吾は黄泉戸喫しつ。然れども愛しき我が汝夫の命、入り来ませる事恐し。故、還らむと欲を且く黄泉神と相論はむ。我をな視たまひそ。」とまをしき。
かく白してその殿の内に還り入りし間、甚久しくて待ち難たまひき。故、左の御角髪に刺せる湯津津間櫛の男柱一箇取り闕きて、一つ火燭して入り見たまひし時、蛆たかれころろきて、頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并せて八はしらの雷神居りき」

現在、私が利用している古事記の翻訳書は、岩波文庫のものです。著書には倉野憲司校注とあります。校注の意味が判りません。校合をした結果の注記とあります。今度は校合が解りません。辞書には写本や印刷物などで、本文などの異同を、基準とする本や原稿と照らし合わせることとあります。
どうやら、この本は、著者はだれか判りませんが、倉野憲司が、基準とする本や原稿と照らし合わせて「注記」の部分を書いたということらしいです。本の後の部分に「解説」があり、その最後に、〔附記〕とあり、倉野憲司氏が、40数年の間、古事記一筋の生活を送られてこの書物を完成させたとあります。
 どうして、このような事を書くのかと言いますと、〔黄泉國〕の注記に、「地下にある死者の住む国で、穢れた所とされている」と書いておられます。「穢れた所とされている」ということは、伝聞のように受け取れます。断定はしておられません。どこから基となるものがあって、それから考えたら注記のようになったはずですが、伝聞となりますと、基になるものはなかったのではないでしょうか? 多くの人がそのように言っているぐらいの感触でしょうか? 
 〔黄泉國〕という言葉は、古事記には、始め書かれていなかったが、誰かが書き換えたのではないかと考えました。しかし、この後、黄泉戸喫(よもつへぐい)と黄泉神(よもつかみ)と黄泉醜女(よもつしこめ)と黄泉比良坂が出現しますから、はじめから書き換えることなく、書かれていたと思われます。
ただ、日本書紀では、古事記の黄泉醜女に当たるものが、泉津日狭女(よもつひさめ)と書かれています。泉津日狭女は、どのように読んでも(よもつひさめ)とは読むことができません。
 倉野憲司氏が書かれた翻訳本に「黄泉醜女」があったので、どうして、この字が〔しもつしこめ〕と読むのかと思っていましたら、古事記の原文には、「黄泉醜女」ではなく、
「豫母都志許賣」と書いてありました。これで解決です。「豫母都志許賣」なら辛うじて、(よもつしこめ)と読むことが出来ます。日本書紀の翻訳者は、古事記を参考にして、泉津日狭女を(よもつひさめ)とふりがなされたことになります。
 日本書紀の作者も、古事記に書かれている「豫母都志許賣」から泉津日狭女(よもつひさめ)を編み出した可能性はあります。日本書紀では、豫母都志許賣のことを冥界の鬼女八人—あるいは泉津日狭女という女------と解説しています。
冥界の鬼女八人とは、古事記に書かれている「頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并せて八はしらの雷神居りき」の八人だと思われます。古事記では、八柱の雷神とありますが、日本書紀では、冥界の鬼女八人となっています。
日本書紀では、この冥界の鬼女八人がイザナギを追いかけたことになっています。
古事記では、この八柱の雷神にけらいを1500人の黄泉軍を加えてイザナギを追いかけたことになっています。

長々と書いてきましたが、これで「黄泉の国」は、古事記と日本書紀の両方ともとりあげていることが確認できました。
 では、黄泉の国がどこにあるのか 考えてみようと思います。古事記では、黄泉の国から逃げてきたイザナギが、「穢き国にいたりありけり」と云って禊(みそぎ)をしたという文章が、後のほうに見られますから、黄泉の国は穢い国だったのでしょう。
はじめに掲げました文章をもう一度見てください。黄泉の国について書かれていることは、
①「殿の縢戸」があった。殿とは、御殿のことでしょう。立派でなくても、屋根はあった
のでしょう。「縢戸」の意味がよく判りませんが、イザナミが、イザナギを出迎えたと
ありますから、塀のようなものがあって、そこに戸があったと思われます。
黄泉の国には、組織があり、ルールがあったと思われます。黄泉の国で、食事をすると出ることは出来ない。黄泉神が居て、黄泉の国を取り仕切っている。高天原にかえれるかどうか、黄泉神に相談するために、イザナミは黄泉国へ入ります。ということは、戸から少し出るぐらいはゆるされたのでしょうか? 戸越しに二人はしゃべったのでしょうか? 
イザナギは、待ちきれなくて黄泉の国へ入ります。自分の櫛の一部分を取って、火をつけて明り代わりにしました。ということは、黄泉の国は真っ暗であったことになります。
イザナギが何日待ったかは書いてありませんが、イザナミは、なぜか、蛆虫にたかられ、八人の雷神に囲まれて、見るも無残な姿をしていました。そのようなイザナミを見て、もう連れて帰るどころか、その場を逃げ出します。
  イザナミは穢い姿ではありましたが、黄泉の国が穢いとは書かれていません。さきほど、書きましたように、逃げおうせて穢れた身体をきれいにするときに、「穢き国にいたりありけり」と云って、禊をおこなっていますから、黄泉の国は穢い国だったのでしょう。
 さて、黄泉は、「よみ」とも読みますが、「こうせん」とも読むようです。 広辞苑には、「地下の泉」と記されています。中国で、地の色を黄に配するからというと書かれていますが、意味が判りません。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』.には、「一般に、この意味で黄泉というときは、こうせんと音読みする。
古代の中国人は、地下に死者の世界があると考え、そこを黄泉と呼んだ。黄は、五行思想で、土を表象しており、それゆえに、地下を指すために黄という文字を使ったのである」
 ここに書かれた事柄を誰が、なにを根拠に書かれたか判りませんが、古代中国とは、いつのころのことでしょうか? 私は死んだら行く所は、天国で、どこか判りませんが、漠然と上の方にあると思っていました。死体は確かに、地下に埋められますが、地下に死後の世界があるとは考えていませんでした。
 黄泉国をキーワードにして、グーグルで検索しますと、16100件あると表示されます。全部読んでいませんが、殆ど、古事記に書かれている国で、死んだ人が行く所とあります。誰が最初に言われたか判りませんが、古事記が出発点のように思われます。
 結局、私としては、「死んだ人が行く所」では、納得できません。いくら、神話といえども、死んだイザナミを追いかけて連れ戻そうとしたという話は、ついていけません。どこにも、黄泉国が死んだ人が行く世界とは書いてありません。

「字通」には、黄泉(こうせん)が書かれていませんと、上に書いていましたが、掲載されていました。コピーされた方は訂正しておいてください。

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2006.11.03

No39 神の比較

神生みはNo16~20までに書きましたが、自分で書いておきながら、訳が判りません。
殆どの方も判らないままに書いておられます。
判らないのに、日本書紀の作者は、古事記と殆ど同じような神の名前を挙げています。例の一書に書き分け、たとえば、古事記では、イザナギが迦具土神を切ったときに、血が飛散って八人の神が生まれたとあります。
日本書紀では、イザナミが、カグツチを生んだときに、なくなられました。死につつあるときに、土の神と水の神をイザナミが産みました。カグツチは、埴山比売と結婚して、稚
産霊を生んだ。
別の本では、カグツチを生んでいる最中に、イザナミが嘔吐した。その嘔吐物から金山神が生まれ、小便をしたら、小便が罔象女になった。大便が埴山姫になった。

同じところを、角度を変えて眺めてみようと思います。
イザナギとイザナミは、神をどんどん生みますが、①イザナミがお産の最中そして引き続き死んでいくときに生まれた神と ②イザナミが死んでから、イザナギがカグツチを斬ったときに生まれた神の部分だけに絞って眺めます。
①の部分です。
古事記では、火の迦具土神を生んだあと、イザナミは病気になって臥せます。
その時に吐いたものから、金山毘古神と金山毘売神が生まれます。
 その時にした大便から、波邇夜須毘古神と波邇夜須毘売神が生まれます。
 その時にした小便から、彌都波能売神と和久産巣日神(別名・豊宇気毘売神)

「日本書紀では、イザナミは火の神軻遇突智を生みますが、そのために焼けどをして、死んでいく最中に土の神である埴山姫と水の神である罔象女を生んだ。軻遇突智は埴山姫を娶って稚産霊を生んだ。この神の頭の上に蚕と桑が生じた。」(第2書より)

「イザナミが、火の神神軻遇突智を生もうとするときに、熱に苦しめられて嘔吐した。これが神となり、名を金山彦という。次に小便をされ、それが神となった。名は罔象女(みつはのめ)という。次に大便をされ、それが神となった。名は埴山姫という」(第4書より)

「・・・・・土の神たちを埴安神という」(第6書より)


カグツチに関連して生まれた神を取り出しました。日本書紀では、三つの書物に書かれています。(第2書より)の方は、カグツチを生んだ後に、イザナミが死にながら、神を生んだことになっています。(第4書より)の方は、カグツチを生んでいる最中に神が生まれたことになっています。(第6書より)は、カグツチが生まれる前に、他の神が生まれたことになっています。古事記は、カグツチを生んだ後に病気になっているときに、神が生まれたことになっています。
 大した違いはありませんが、
カグツチ--迦具土神---軻遇突智
カナヤマヒコ----金山毘古神—-金山彦
ハニヤス***----波邇夜須毘古神と波邇夜須毘売神----埴安神
ミツハノメ---彌都波能売神---罔象女
上の三行は、カタカナが読み方を書いています。次が古事記に書かれている表記。右端が日本書紀です。古事記の表記は一見難しそうですが、誰でも読むことができます。「迦」や「邇」は読めないかもしれませんが、辞書をひきますと、「か」や「に」を見つけることが出来ます。日本書紀の「軻遇突智」は、古事記の「-迦具土神」があれば読めますが、古事記がなければ、読むことは出来ません。
 金山毘古神と-金山彦は、どちらも読むことは可能です。「毘古」は元々、「彦」のことですから、他の漢字にすることは意味が難しくなります。「金山」は、カナヤマが訓読みですから、他の漢字にすることはむずかしかったのでしょう。
波邇夜須毘売神は、埴安姫神とすればいいのですが、両方あわせて、埴安神と掲載しています。
埴山姫は、どのように考えても「ハニヤマヒメ」としか読むことは出来ないと思いますが、日本書紀を翻訳された宇治谷孟氏は、「ハニススヒメ」とふりがなをしておられます。

なにが言いたいのかと言いますと、現代の翻訳者でも、日本書紀に書かれている神の名前は、読むことができません。古事記があるから読むことができます。

 ミツハノメ---彌都波能売神---罔象女 は最たるものでしょう。

日本書紀の作者は、古事記を参考にしたのに、他の一書に古事記と同じものは、どこを見てもありません。其の上に、古事記に書かれている神の名前は、殆ど書かれているのに、古事記に書かれている神の名前の漢字表記を変えています。古事記が作られてから、400年後に見つかりましたから、このような指摘が可能ですが、見つかっていなければ、完全に古事記の存在は想像すら出来ません。

このファイルでは、いかに、日本書紀の作者は、漢字表記に拘ったかを見て頂きました。

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2006.10.30

No38 古事記と天武天皇

No21より天武天皇がどうして、古事記を編纂して、そこに天皇家の正しい系統を記述しておかねばならなくなったかを見てきました。
天皇は八種の姓をを制定し、天下のすべての姓を一本化ししたり、二十二社の基礎をつくつたりして天皇制の基礎をつくったように思われていますが、天武8年5月5日には、皇后及び6人の皇子を吉野に集めて末永く仲良くするように言い渡しています。ということは、少しずつ、身内から綻びが見え始めたということでしょうか?
飛鳥から離れた竜田と河合の竜田神社に注意を要するようになったのは、5年04月04日 からです。以後、「竜田の風神・広瀬の大忌神を祭った」という記録が、元年07月16日まで毎年続けられます。
9年2月23日 菟田の吾城(壬申の乱のときの故地)に行幸された記録がありますが、思い出の土地を見に行く時は、人間気弱になった時の行動ではないでしょうか?
No29では天武天皇の罪人に対する大赦といろいろの人に与える褒美が、亡くなる真近かまで続けられました。身内を中心とする制度の確立など、着々と天皇の周りを固めたように見えていますが、No25 で見ましたように、 天武天皇は暗殺されたように思われます。

古事記の序文は、太安万侶が書いたのではなく、発刊された712年よりずっと後に、誰かがかいたのだというのが、最近の見解ということになっています。表現を変えますと、嘘が一杯書いてあって、信用できないという事です。
しかし、私は古事記に書かれている『そして天皇は、「私は聞いた。諸家にもたらされている帝紀及び本辞は、既に真実と違っている、多く虚偽が加えられていると。今この時期に、その誤りを改めねば、数年を持たずに、その本旨は滅びてしまうだろう。これは国家行政の根本であり、天皇家が存続するための基本である。ここに、帝紀を撰録し、旧辞を調べ、偽りを削り真実を見定めて、後世に伝えたいと思う。」と言われた』という部分は、正しいのではと思っています。
 それ故に、書いて処分されないように、大切な部分が改定されないように神話のように編集したのではないかと考えます。
 本日で、古事記が作られるに至った経緯を終了します。次回から、また、古事記の読解に戻ります。

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2006.10.26

No37竜田神社は風の神を祭る神社か

No31をもう一度、ごらんください。祭神は、風の神である天御柱命、国御柱命です。
龍田大社由緒略記には、御祭神について、
「天御柱命国御柱命の二座に座します。又の御名を志那都比古命、志那都比売命と申し 上げ伊邪那岐命、伊邪那美命の御子神におわしまして天地の大気即ち風力を主宰し給 う。よって風の神と称します」と記しています。
御神徳 として、
「御祭神は天地の大気、生気、即ち風力を主宰し給へば風神と申上げています。天御柱 命、国御柱命と申す御名は天と国とは彦神を天に姫神を国に比して称し奉り御柱とは 真柱の事にして天地万物の中心の柱の義で即ち空気或いは風の事で志那都比古命、志那都比売命と申す御名の志那は息長(シナガ)の義で気息(イキ)即ち風の長く遠く 吹き亘るを云う、斯くて天候、気象の変化旋転するは大神の御威霊なる風力を基本とし中心とする事なれば農業には暴風洪水の禍害なく五穀豊穣し、航空業を始め航海業 、漁業、建築業等に関係を持つ人々は除難多幸を願い現代の如く交通頻繁なる道路を 自動車が往来する時運転者には風神龍田大神の守護に依りて誤りなく安全に操縦して 無難幸福を祈念する参拝者も近年は著しく増加しております。殊に気息の神として延 命長寿を祈願する者は往昔より今に変わる事なく非常に多いのであります」と書かれています。長いけれど、全文を掲げました。
というのは、「御柱とは 真柱の事にして天地万物の中心の柱の義で即ち空気或いは風の事で志那都比古命、志那都比売命と申す御名の志那は息長(シナガ)の義で気息(イキ)即ち風の長く遠く 吹き亘るを云う、」とは、私には何のことか判りませんが、きっと、昔から言い伝えられて来たのであろうと読み続けていますと、「航空業を始め航海業 、漁業、建築業等に関係を持つ人々は除難多幸を願い現代の如く・・・・」と記し、極く最近に、時代に合うように、書き換えられたことが判ります。
 私の知っている「御柱」は、古事記に書かれている御柱と伊勢神宮・諏訪大社・出雲大社に存在する御柱です。伊勢神宮の御柱は、20年に一度の遷宮のときに、本殿の下に祭られる柱で、その真相は誰にも解らないものですが、遷宮は、この御柱の調達からはじめられるそうですから、最も、重要なものと思われます。諏訪大社の御柱は、各神社の境内に四本立てられる巨大な柱です。こちらは、7年目に一度取り替えられます。出雲大社の御柱は、本殿に実際に使われている中央の柱を呼びます。
 天御柱命をキーワードにして、インターネットで検索してみますと、殆どが竜田神社の記事のなかに見つかります。天御柱神社という名前の神社があったり、天御柱命を祭る神社はありますが、1500年台に創祀されたとか記されており、新しいものが多いようです。
 
中でも目立ったものは、京都の八坂神社です。こちらの神社の末社に天御柱命が祭られています。全部挙げますから、ご覧ください。
末社
北向蛭子社(事代主神)
大神宮(天照大神、豊受大神)
美御前社(多岐理毘売命、多岐理比売命、市杵島比売命)
大国主社(大国主神、事代主神、少彦名命)
玉光稲荷社(宇迦之御魂神)
日吉社(大山咋神、大物主神)
刃物神社(天目一箇神)
厳島社(市杵島比売命)
太田社(猿田彦命、宇受女命)
大年社(大年社、巷社神)
十社 -- 多賀社(伊邪那岐命)、熊野社(伊邪那美命)、白山社(白山比咩命)、愛宕社(伊邪那美命、火産霊命)、金峰社(金山彦命、磐長比売命)、春日社(天児屋根命、武甕槌神、斎主神、比売神)、香取社(経津主神)、諏訪社(健御名方神)、松尾社(大山咋命)、阿蘇社(健磐龍神、阿蘇都比咩命、速甕玉命)
五社 -- 八幡社(応神天皇)、竈神社(奥津日子神、奥津比売神)、風神社(天御柱命、国御柱命)、天神社(少彦名命)、水神社(高龗神、罔象女神)
ついでに本殿の方は、
中御座(素戔嗚尊)
東御座(櫛稲田姫命)
御同座 神大市比売命・佐美良比売命
西御座(八柱御子神 -- 八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)
傍御座 稲田宮主須賀之八耳神

これらのデーターを見られてなにを思われましたか?
八坂神社では、長い歴史の間に、多くの神さん同士の戦いがあったのだなと思いました。負かしたのであれば、その神さんは廃棄すればいいのに、できなかったのでしょうか? 中には、近くの村で、祭る人が居なくなって頼まれたものもあるでしょう。祭られている神さんを丁寧にみて、どのような歴史があったのかを想像するのも楽しいですが、していません。
ただ、風神社(天御柱命、国御柱命)、水神社(高龗神、罔象女神)が目につきました。
高龗神、罔象女神は、日本書紀にでてくる神です。ということは、天御柱命、国御柱命の神さんも、日本書紀には出てきませんが、日本書紀を編纂した人たちが、使った漢字表記だとおもいます。式内社で使われていることになります。
 このような事で、竜田神社の祭神も式内社に指定されてから、天御柱命、国御柱命に書き換えられるように強制されたのではないかと推察しています。

竜田神社には、摂社に龍田比古神、龍田比売神が祭られていますが、この神が、元々鎮座されていた神ではないでしょうか?
推論に推論を重ねることになりますが、では、結論は、竜田神社に祭られていた龍田比古神、龍田比売神が、元々からあった祭神で、この二人の神さんが、風の神ということになります。
 ところが、龍田比古神、龍田比売神が、風の神であることは、どこにも書かれていません。竜田神社の神が龍田比古神、龍田比売神であるにせよ、天御柱命、国御柱命せよ、どちらにしても、風の神の別名は、志那都比古命、志那都比売命であると神社ではせつめいしています。
 これが又、不思議なことです。志那都比古命、志那都比売命は、古事記に載っている神です。天御柱命、国御柱命は、日本書紀に古事記にも、現れません。しかし、先ほど、天御柱命、国御柱命は、日本書紀を編纂した人たちが、使ったと思われます。
いつのころか判りませんが、天御柱命、国御柱命は、風の神として扱われ、八坂神社に祭られていました。
 従いまして、竜田神社の「御神徳」を書いた人が、勘違いをされているのではないでしょうか?
では、どのように勘違いをしたかといいますと、志那都比古命、志那都比売命は風の神ですが、息長の彦命、息長の姫命のことです。息が長く続くように祈るとその願いを聞いてくれる神さんです。表現を変えますと、風がもっと吹くようにお祈りをする神さんです。製鉄をするときに、木または炭を燃やして鉄を含む砂や岩の温度を高め、鉄を溶かして鉄を取り出します。所謂製鉄をするときに、時代が下りますと、蹈鞴(たたら・ふいご)を使って風を送って製鉄するようになります。蹈鞴が使われる前は、自然界の風を利用したとおもわれます。その時の様子が、古事記において、須佐之男の「八俣の大蛇(おろち)」の神話として書かれています。
 ところが、竜田神社では、風鎮祭が行われていますから、志那都比古命、志那都比売命を鎮める神として扱われています。
 こうしたわけの分からない筋書きを無理やりに通すとすると、元々、現在の竜田神社の裏山で祭られていた風の神は、柏原市の金山媛神社、金山彦神社の上に合った風の神と同じ神であったが、天武天皇の御代に、柏原市の製鉄は、天武天皇が支配するようになり、その支配力の表れとして、風の神と水の風を4月と7月に朝廷から人を遣わし、お祭りをしていたのではないでしょうか?
しかし、竜田神社も広瀬神社も式内社になったということは、支配力は藤原氏に移ったことになります。これ以後、竜田神社の神は、書き換えられ、説明のつかないことになったと推察されます。
 
 相当、ここにあげました筋書きは、苦しい所があります。
というものの、祭神の天御柱命、国御柱命が風の神であることは、これも説明がつかないストーリーです。そのうえ、志那都比古命、志那都比売命は別名というもの納得いきません。

柏原市の製鉄は、なん度か、天皇家と中国人の間で、行き来したのではないかと考えています。

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2006.10.23

No 36竜田と広瀬の神と伊勢神宮の神

判りやすい方から話を進めようと思います。広瀬神社です。祭神、その他の資料をもう一度掲載します。
【主神】 若宇加能売命 ( わかうかのめのみこと )
 【相殿】 櫛玉命 (くしたまのみこと)  穂雷命 (ほのいかづちのみこと)
 由緒書では、若宇加能売命は伊勢神宮外宮の豊宇気比売大神、伏見稲荷大社の宇加之御魂神と同神であるとしている。広瀬大忌神(ひろせおおいみのかみ)ともいう。相殿の櫛玉命とは、神社の説明では饒速日命のことである。宮司の樋口氏は饒速日命を祖神とする物部氏の末裔であり、宮司の邸宅内には饒速日命を祀る境外末社・饒速日命社がある。

専門書を読んだわけではありませんが、WEBでは、若宇加能売命は、水の神であると書いています。宇加は食物のことで、「受」と同じことであるとも書かれています。若宇加能売命の「若」のことを説明してあるものはありません。

水の神には罔象女神 ( みずはめめかみ)があります。高龗神(たかおかみ)は、奈良の大和神社の摂社に祭られていますが、境内の案内板によりますと、「大和神社の摂社である。祭神は雨師大神即ち水神様で、崇神天皇のとき渟名城入姫命をして穂積長柄岬(現親泉星山)に創祀される。
古来六月一日、十年に一度の大祭には、和歌山・吉野・宇陀その他近在邑々から千人余りも参拝者の列が続いたとある。先頭に丹生川上神社、中・下社が金御幣を持ち後尾は末社の狭井神社が勤めた」とあります。現在では、大和神社で間借りをしているようなものですが、祈雨神祭について 全国総本社であったことになります。上に書かれている吉野には、吉野水分神社、宇陀には、上芳野の惣社水分神社、宇太水分神社上社、宇太水分神社上社があります。どれも立派な社殿です。そんなもの、江戸時代のものだから、当てにならないと言えばそれまでですが、此れだけのものを誰が作ったかという事です。現在ですと、村だけの人の財力では建てることができないと思います。誰が建てたにせよ、それだけ信仰心が高かったということになります。高龗神社 の龗という字は、 
です。36ポイントぐらいに大きくしませんと読むことがではません。雨の下に、口を3つ横にならべ、その下に龍を書きます。
もう少し、高龗神を調べてみますと、高おかみ神と闇オカミ神は、日本神話では、神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとしている。古事記及び日本書紀の一書では、剣の柄に溜つた血から闇御津羽神(くらみつは)とともに闇淤加美神(くらおかみ。日本書紀では闇龗神)が生まれ、日本書紀の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神としています。古事記で闇淤加美神と書いてものをどうして、誰も読むことができない「龗」を使うのか、理由があったはずです。
同様に、日本書紀では、伊邪那美神が軻遇突智(かぐつち・古事記では、加具土命)を産み、そのために死にそうになっていくときに、罔象女神が生まれた書かれています。「迦具土」なら読むことは出来ますが、「軻遇突智」は読むことは困難です。日本書紀における「罔象女神」は、古事記では「闇御津羽神」でしょうか? 私は、日本書紀の作者が、古事記を参考にしたと思われたくなかったのだと思っています。
 話は横道にそれましたが、カグツチとの関係から、どうして、水の神が出てくるのか理解できませんが、カグツチは熱くて、そのために伊邪那美神が死にましたので、熱いもの=火を消すという発想でしょうか?
火を消すための水が、どうして水の神さんになるのか、これ又、理解できませんが、水を分配する神になったと思われます。上手いこと分配してくださいよということでしょうか?
分配が多すぎると洪水、少なすぎると旱害ということでしょう。ただ、神社にお願いする時は、あまり雨が降らないようにしてくださいではなく、雨を降らせてくださいと祈願しているようです。
 このように見てきますと、広瀬神社で、水の神さんに五穀豊穣をお願いしたのではないのではないかという気がします。
由緒書では、若宇加能売命は伊勢神宮外宮の豊宇気比売大神、伏見稲荷大社の宇加之御魂神と同神であるとしている。広瀬大忌神(ひろせおおいみのかみ)ともいうとあるのですが、「広瀬大忌神」が判りません。広瀬は地名ですから、外しますと、大忌神が残ります。「大」を尊称としますと、「忌」のみとなります。
「忌」は辞書を引いてください。読み方は、キ、ゴ、いまわしい、いむ いみ などです。
意味は、心中に抵抗感じて忌みきらう。
大忌神は、今までのところ、広瀬神社にしか出現しません。それも日本書紀に書かれている神の名前です。ここの神さんは、天皇家を嫌っていた神さんを祭ってあるのですよと、日本書紀の作者は言いたかったのだと思います。
 ただ、「忌」という字は、「忌部氏」という氏族があります。大忌神はその氏族と関係があるのではと当たってみましたが、なにも見つかりませんでした。大和時代から奈良時代にかけての氏族的職業集団である。忌部氏は中臣氏とどうように神事に携わっていたようですが、よく調べていません。その子孫は後に斎部を名乗っていますから、「忌」の字は、嫌で、意味の良い「斎」に改めたようにおもえます。(延暦22年(803年)3月に「忌部」から「斎部」に改めた)  大忌神が忌部氏と関係があるかどうかは、お預けです。

祭神の若宇加能売命は、日本の神話にも出てきません。多くの人は、似ている神を引っ張ってきて、伊勢神宮の外宮の祭神である豊受大神だとしています。豊受大神といえば、天照大神に捧げる食物を司る神であり、若宇加能売命の名前の「ウカ」の語も、その意味は食物である。名前に「ウカ」のついた神といえば、日本の穀霊の代表格として知られる宇迦之御魂神、保食神と発想して、この説は決定しているように思われます。
 ここでは述べませんが、豊受大神は、丹波、丹後からやって来た神です。宇迦之御魂神は、スサノオの子供です。オオクニヌシ神がスサノオの娘の須世理毘売と結婚しようとしますが、スサノオも八十神が大反対をしてオオクニヌシ神を殺そうとします。それで、二人はスサノオから逃げ仰せます。仕方ナシニ、スサノオは二人の結婚を許します。その時の条件として、スサノオは大国村の主となるように命じます。そして、「其の汝がもてる生太刀・生弓を以って、汝の庶兄弟をば、坂の御尾に追い伏せ、河の瀬に追い撥ね、宇迦の山の山本に底津石根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりておれ」と命じます。そのときに、宇迦の山の山本に住んでいた人は、オオクニヌシ神に追われて、伏見に逃げて、その後、宇迦之御魂神は稲荷神社で祭らます。その他に、八坂神社、松尾神社に逃げた人もありました。他の人は、出雲に逃げたことになります。
 従いまして、豊受大神と宇迦之御魂神は別の神だと思います。

どうして、このような事を考えたかといいますと、
相殿に祭られている櫛玉命です。江戸前期の「和州広瀬郡広瀬大明神之図」では相殿の神名は櫛玉姫命と水穂雷命となっています。櫛玉姫命であれば御炊屋姫(長髄彦の妹、饒速日命の妻)となります。誰かが、櫛玉姫命から櫛玉命に書き変えたことになります。穂雷命は調べましたが、どこにもありませんでした。水穂雷命ならあるかもしれません。
 この神社は、もともと、饒速日命が祭られていたのでしょう。
相殿の櫛玉命とは、神社の説明では饒速日命のことであると宮司の樋口氏は延べるだけではなく、自分は饒速日命を祖神とする物部氏の末裔であり、樋口氏の邸宅内には饒速日命を祀る境外末社・饒速日命社を祭っておられます。
 このように考えてきますと、神武天皇に奈良で討たれた饒速日命の末裔の一部の人が、奈良盆地でもっとも条件の悪いところで生活していたことになります。
物部氏の一族を殺すことはしないで、天武天皇は、年に二回の祭祀という形で、部下を派遣して監視していたのではないでしょうか?

タイトルに、「竜田と広瀬の神と伊勢神宮の神」と記し、竜田と広瀬の神と伊勢神宮とは関係があるのではないかと、考えはじめましたが、考えているうちに、全く違う方向にいってしまいました。
次回は、元に戻って、竜田と広瀬の神の関係を書いてみるつもりです。

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2006.10.20

No35 竜田と広瀬の神はなぜ対か

No30において、天武天皇が、竜田と広瀬の神を毎年、4月と7月にお祭りをしていたことを日本書紀から抜粋し、眺めて頂きました。私の予想したことは、天武天皇がなにか心の弱みがあって、風と水の神を祭り、その行事は、持統天皇にも引継がれました。・・・・。
 私の予想するものは、なにも出てきませんでした。風と水の神を、対にして祭られていることは、なんだろうと考えましたが、判りません。無理をすることはありません。風水害から守ることが主体であると考えればいいことになります。4月は風水害が起こらないように、お願いして、7月は、ありがとうございましたとお礼の祭りでしょうか?
 このように考えても判らないのです。
なぜ、解らないかといいますと、広瀬神社の裏に行ってください。すぐ裏に川が流れています。それも、いくつもの川が合流しています。神社は、合流地点より低いところにありますが、それは堤防が築かれて天井川になっているからだと思われます。勿論、古代にも川が氾濫するたびに、堤防が築かれたでしょうが、毎年のように決壊したと思われます。
 そのようなところで、どうして、田を耕す必要があったかと考えますと、氾濫をする川ほど、肥えた土地であったことぐらいでしょうか? お粗末な知識ですが、今でも通用するでしょうか? 私は歴史を中学生で学んだのか、高校生で学んだのか忘れてしまいましたが、世界四大文明というものを学びました。教科書ですから、書かれていることは僅かであったと思われます。
復習しますと、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明です。これらの四大文明は、大きな河を中心にして文明が発達したと学びました。河の名前に置き換えますと、チグリス川とユーフラテス川、ナイル河、インダス河、黄河
となります。なるほどと地図を眺めて、感心し理解したものです。しかし、その後、いろいろのことが判るようになり、例えば、長江文明と云ってもいいよう遺跡が次々発掘されています。また、エジプト文明などは、ナイル河にそって、すべて大文明があったと思っていましたが、エジブトは古くから砂漠の状態であったこと、古代の遺跡が見つかるのは、日本の4倍ぐらいの面積であったことが判っています。従いまして、世界四大文明は、その内に、世界十大文明と書き換えられることになるかもしれません。
ただ、文明の発生した場所は増えても、大きな、しかも氾濫を繰り返したようなところに人間は住もうとしたことは確かのよう思えます。
もう一つ考えられることは、広瀬神社辺りしか住むところが無くなったのではないか?  どうやら、奈良は桜井市の巻向遺跡辺りが、はじめの頃に栄えたらしく、次第に北へ拡がっていったようです。奈良に限りますと、宮城は飛鳥から藤原京、藤原京から平城京と移りました。古墳でいいますと、ホケノ山古墳、箸墓古墳から、平城京の北の佐紀盾並古墳群。
奈良盆地は行き止まりになりました。奈良盆地で住むとなると河合町近辺しか住むところがなかったのでしょうか? そして、その結果が、馬見古墳群・大塚山古墳群なのでしょうか?
このような推理ができるには、それぞれの古墳が造られた年代が正確に判らなければなりません。残念ながら、殆ど、造られた年代が正確に判っていません。
現在は、いろいろのことを総合的に判断して、古墳がいつ造られたか決定されています。そのときに、比重が大きいのは、出土した土器です。次に大きいのが、年代が入った鏡です。何度も資料館に足を運んで、土器を眺めていますが、チンプカンプンです。鏡は年代が入っていますから、判りやすいですが、京都府の籠神社の鏡が一般に公開(写真だけですが)されたのは、最近のことです。このように見てきますと、作られてから500年後に、お墓の中に入れられる可能性もありますから、思考は堂々めぐりです。
竜田と広瀬の神が対になって祭られるようになり、それが、平安時代には、二十二社という特殊な地位を得るようになったところも見て頂きました。ところが、伊勢神宮は、飛び抜けて特殊な神社になっていきます。現在では、日本の神社の頂上に位置するように思えます。
このように眺めてきますと、少なくとも、伊勢神宮と二十二社は、人間の思惑のままに、形成されたように思われます。
竜田と広瀬の神と伊勢神宮の神は関連付けて考える必要があるのではないかと考え始めています。
次回は、この線で話を進めてみようと思います。

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2006.10.18

No34 二十二社と竜田神社と広瀬神社

又もや、急に、二十二社のことを書く気になっています。朝廷は国家の重要なことがらで困ったことが生じると、上手く解決するように、二十二社の神社に祈るように命令しています。どこにも自分も一緒に祈ったとは書いてありません。(これは私の勉強不足かもしれません。もし、天皇のどなたかが、一生懸命祈った記述がありましたら、紹介します)
 竜田神社と広瀬神社は、二十二社に入っています。それだけではなく、最初に、決められた神社ではないかと考えています。

 二十二社のことは、当時の人々の宗教に対する考え方を知る上において、重要なことと思われますが、インターネットには殆ど見受けられません。それだけ素人には難しい話だと思われます。これまでに私が知った事柄を以下に記します。

二十二社とは、平安中期以降、国家の重大事や天変地異など、大事件が発生した時に、
定例的に祈願の奉幣を受けるようになった二十二の神社を云います。
二十二社を列挙します。
上七社
 伊勢神宮          三重県伊勢市
 石清水八幡宮        京都府八幡市
賀茂別雷神社(上賀茂神社)  京都市北区
賀茂御祖神社(下賀茂神社)  京都市左京区
 松尾神社          京都市右京区
 平野神社          京都市北区
 稲荷神社          京都市伏見区
 春日神社          奈良県奈良市
中七社
 大原野神社         京都市西京区
 大神神社          奈良県桜井市
 石上神社          奈良県天理市
 大和神社          奈良県天理市
 広瀬神社          奈良県北葛城郡河合町
 龍田神社          奈良県生駒郡三郷町
 住吉神社          大阪市住吉区
下八社
 日吉神社          滋賀県大津市
 梅宮神社          京都市右京区
 吉田神社          京都市左京区
 廣田神社          兵庫県西宮市
 八坂神社          京都市東山区
 北野天満宮         京都市上京区
 丹生川上神社        奈良県吉野郡下市町 ・奈良県吉野郡東吉野村・奈良県吉野郡川上村
 貴船神社           京都市左京区

① 北野、吉田、八坂、大原野、石清水八幡宮 以外は式内社です。
② 神社の所在地に注目してください。殆どが、畿内にあります。
③ 十六社は九世紀末期頃から固定されていたようで、そのメンバーは、上七杜と中七杜に丹生と貴布禰を加えたもの。
その後、
正暦二年(991)六月以降、丹生の上に吉田・広田・北野を加えて十九社
正暦五年(994)二月以降、吉田の上に梅宮を加えて二十社
長徳元年(995)二月以降、北野の上に舐園を加えて二十一社
長暦三年(1039)八月以降、梅宮の上に日吉を加えて二十二社
栄保元年(1081)十一月、改めて日吉を加えて二十二杜
となっている。
十一世紀の間には二十二社は固定され、その後中世を通じてこの体制は護持され、天皇権力が著しく衰退する室町時代後期まで、つまり中世を通じて、二十二社は有力神社のほぼ同義語として使われるようになる。
④二十二社の中で、上社として重要視されたのは、平安京を守護する神々である。
二、大和の伝統的な神々は中社とされ、京周辺の神々
より下位に位置付けられている。
三、京周辺の新興神社を下杜の形で取り込む傾向があ
る。
四、伊勢は別格、日吉は延暦寺との関係で例外的に入ったもので、原則として対象は畿内の
有力社であった。
  以上 、「歴史読本」2003年10月号 44ページから、榎村寛之氏の執筆なるものから箇条書きにしました。
 もう少し詳しく書いたものは、〔二十二社〕に記しました。

春日大社は当然のこととして、式内社で二十二社を占めたということは、藤原氏が、全国の地域を掌握するとき、式内社の神社を中心に村・郡を掌握していったのではないかと推察しています。その中でも重要な神社として、二十二社が決定されたのではと思います。
二十二社は、どのようなことを基準にして決められたのか、それぞれの神社の祭神別に検討をくわえますと、面白い事実が分かるはずですが、本題を外れますから、別の機会にしたく思います。
 最後に、このファイルで言いたかったことは、二つです。
① いろいろの形にグループ分けしましても、伊勢神宮はどのグループにも入らない特殊な神社です。
② 中七社は、大原野・大神・石上・大和・広瀬・龍田・住吉です。山城の大原野と摂津の住吉を除くと、すべて大和の神社ばかりである。
古い大和の神社のなかに、竜田神社と広瀬神社は含まれています。
この二社は、天武天皇によって、大事にされたことになります。どうして、大事にされたのか、次回に探ってみようと思います。

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2006.10.16

No33 竜田と広瀬の神の関連

随分、話しが横道に逸れています。復習をしておきます。このシリーズは、古事記と日本書紀を読み比べることによって、日本書紀は、古事記を参考にして作られたことを知って頂こうと書き始めました。
 No20までは、ひたすら、比較をして、日本書紀は、古事記に書かれている神であれ、地名であれ、同じ部分は、すべて漢字を書き換えていることを指摘したりしました。ところが、日本書紀は、「一書」という言葉を使って、他の書物には、これこれと書いてありますと、多いときは、10冊ぐらいの書物に書いてあるという記事を記しています。その一書に古事記は含まれないと言う不思議な現象が見られます。
 そのくせ、現在残っているのは、古事記だけで、他の書物で残っているのは、出雲風土記ぐらいでしょうか? このようにおかしいことがNo20まで続きました。しかし、今後、続けてもやはり、同じことの繰り返しになります。
 私の文章は、自分で読んでみても訳のわからない部分が多く見られます。言葉で説明すれば簡単なことが、文章にすると複雑で意味不明なところが多いのだと思われます。

それにもめげずに、書いていましたが、利用しているブログが、私のブログを分析することを8月2日より開始しました。これはなかなかの優れもので、いろいろのことが判ります。
リピーターは、全体の5パーセントです。そのうち、大半は、3~5回読まれただけです。私にとって、ショックだったのは、ほぼ毎日読んでくださったのは、お一人だけでした。
残念ながら、誰も読んでくださっていないことが判りました。

そこで、違う角度から古事記とは、どのようなものであるかを書いてみようと考えを変えました。古事記を作ろうと考えたのは、天武天皇です。作ったのは、なぜか、天武天皇が亡くなってから、太安万侶が完成させました。
天武天皇は、どうして作ろうという気になられたかです。No21で、「古事記は何故作らなければならなかったか」と題して書きましたが、書ききれていません。一言で言いますと、分からなかったと言う事です。
No24の最後に、「天皇は、座敷牢のようなところに幽閉されていたのかもしれません」と書きました。その様子を書いてみようと、No25 を書きました。はじめのうちは、壬申の乱のときの部下が死んでいくだけでしたが、ほぼ 全員が殺されたのではないかと思えるほど、どんどん、死んでいく様を日本書紀の記述から見て頂きました。そして、最後に、天武天皇が亡くなられています。では、いつごろから幽閉されていたのか、愈々、自分も殺されるといつごろから考えたのか、それらのことから、天武天皇が古事記の編纂の重要さを意識し、古事記の編纂を命じられたのだと。
このように、推察し説明しようと試みています。
天皇がこのように考えられることになられたであろう理由を二つ考えました。天皇になる前のことが影響を与えていた。もう一つは、天皇になってから以後のことが影響した。前者は、壬申の乱は、天皇の継承を巡って行われたものではなく、天智天皇が朝鮮に出兵し、中国と新羅の連合軍に敗れたときから、関係したものである。そのような事はあり得ないと思われるでしょうが、 「壬申の乱は日中戦争」であるとのタイトルで書き始めました。No28まで書きましたが、まだ途中です。
あまり、「壬申の乱は日中戦争」に拘りますと、皇位継承の争いと決まっている問題を覆すには、まだまだ、紙面を要しますので、天武天皇は天皇になられてから、どのように政治を行われたのかを勉強する気になりました。
天武天皇は、在位中、律令制の基となることを、次々にされたことで有名ですが、私は、そうではなかったのではないか? 「壬申の乱は日中戦争」の日中戦争に勝ったものの、藤原不比等なしでは、何事も出来なかった人ではなかったか、その不比等に日本を乗っ取られたのでないか、それを知ることの出来るものが、日本書紀から見つけることが出来るのではないか。このように考えました。
読んだことがない天武天皇のところを丁寧に読みましたが、よく判りません。気になったところから、調べてみるつもりになりました。

天武紀は大きく分けて二つに分かれます。前半は壬申の乱のことです。後半は、天皇になられてからのことです。後半に書かれている人物は、鬼室福信が8回、大海人皇子(大皇弟・東宮・東宮大皇弟)が6回、郭務悰が6回、劉徳高が4回、劉仁願 鎮将などです。 天皇以外は中国、百済の人たちです。この人たちとの関係が重要であったことが判ります。郭務悰は、白村江の戦いで天智天皇が負けた後に、派遣された占領軍の司令官のような人です。では、司令官であれば、第二次世界大戦の後に、駐留してきたマッカーサーのようなものかと言いますと、マッカーサーのように、GHQのような組織を作った様子はありません。
 その辺のことは、「壬申の乱は日中戦争」(4) 以後に書くつもりになっています。
そこへ、突然、「No29天武天皇 サービス精神旺盛」という変なファイルが入ってきました。天武天皇は、異常なほどに、恩赦の乱発です。それから、褒美を与えています。そして、階位を制定して、次々に位を与えて喜ばせています。
これは、天武天皇が、自分の信頼おける部下をつくろうとしたのではないか? 恩赦は敵を減らしたかったのではないかと考えました。日本書紀から、記事だけを抜粋しただけで、考察は行っていません。
「No29天武天皇 サービス精神旺盛」の作業を行っているときに、気になったのが、No30 の「天武天皇と広瀬と竜田の神」です。
 壬申の乱以前から、幾多の困難をクリアーしてきた天武天皇にしたら、広瀬と竜田の神に祈るというのは、天武天皇らしくないと思いました。なぜ、広瀬と竜田の神が、対になっているのか、気になりだしたら止まりません。
No31とNo32は、二つの神社の資料だけですが、なにかおかしいなと思われませんでしたか? 私はおかしいなと思う所がいっぱいでした。そのあたりを脱線したついでに書いてみようかと思っています。 本日はタイトルと全く関係のないことを書きました。No20以後の私の頭の回転の悪さを書いてみました。

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2006.10.13

No32 広瀬神社のこと

鎮座地は奈良県北葛城郡河合町大字川合。西名阪自動車道の法隆寺I.Cから東へ1kmの場所。JR法隆寺駅から2kmでしょうか? 歩いても知れています。
(http://www.mapion.co.jp/c/f?el=135/44/22.150&scl=70000&uc=1&grp=all&nl=34/34/30.263 )

上のアドレスをクリックして頂きますと判りますが、大和川が蛇行しながら、東から西へ流れています。そこへ東から寺川、飛鳥川、そして、葛城川が曽我川に合流して、大和川に注いでいます。北から流れてきた佐保川と富雄川も大和川に合流しています。河合町は、読んで字の如く、川が合わさっている所です。しかも、奈良中のすべて(吉野川は除く)が合流している所になります。表現を変えますと、奈良盆地で最も海抜が低いところとなります。(海抜 ほぼ40m) 

さて、御祭神は、
 【主神】 若宇加能売命 ( わかうかのめのみこと )
 【相殿】 櫛玉命 ( くしたまのみこと )  穂雷命 ( ほのいかづちのみこと )

 由緒書では、若宇加能売命は伊勢神宮外宮の豊宇気比売大神、伏見稲荷大社の宇加之御魂神と同神であるとしている。広瀬大忌神(ひろせおおいみのかみ)ともいう。相殿の櫛玉命とは、神社の説明では饒速日命のことである。社家の樋口氏は饒速日命を祖神とする物部氏の末裔であり、社家の邸宅内には饒速日命を祀る境外末社・饒速日命社がある。

江戸前期の「和州広瀬郡広瀬大明神之図」では相殿の神名は櫛玉姫命と水穂雷命となっている。櫛玉姫命であれば御炊屋姫(長髄彦の妹、饒速日命の妻)となります。
 同じく、「和州広瀬郡広瀬大明神之図」に神社の南方に、定林寺が描かれています。定林寺は、廣瀬神社の3つの神宮寺のうちの一つで、金堂(本尊・弥勒)、講堂(本尊・釈迦)三重塔・太子堂、経堂、食堂、鐘楼、天神社、弁財天社、楼門などのある大伽藍で、聖徳太子が推古天皇の病気平癒祈願に建立したと注記。現在、字宮堂(縄文晩期の土器・石器が出土)に飛鳥時代以降の須恵器・古瓦が出土するが、寺の遺構はない。同図に神社西方に描かれていた神宮寺のところに、江戸中期に定林寺が移ったらしい。現在、そこに定林寺と称する護摩堂一宇が残るのみです。寺は荒れているが、河合町に残る最古の不動明王立像(木造・室町時代後期)、 地蔵菩薩立像(木造・平安時代前期)があります。

≪ 創建 ≫
崇神天皇九年、廣瀬の河合の里長に御神託があり、一夜で沼地が陸地に変化し、橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、この地社殿を建て祀られるようになる。(神社縁起)
日本書紀天武天皇四年四月十日(675年)には、小錦中間人連大蓋を遣わし、大山中曽根連韓犬を斎主として、大忌神を廣瀬の河曲に祭られたことが記されている。

広瀬神社にかんするデーターは、以上のようなものですが、神宮寺・定林寺から推察しても広瀬神社は古く、大きな神社であったことが判ります。
 ただ、解らないのは、最も海抜が低く、多くの川が集まっているところです。地図には載っていませんが、神社の北には、「ふげたかわ」があり、一の鳥居のところでは、結構の深さがありました。神社は、この川と曽我川に挟まれた細長い参道の長い神社でした。現在でこそ、高い堤防で守られて大和川が決壊することは無いかもしれませんが、雨が降る度に、洪水に見舞われながら稲作が行われたらしく、窪田、吐田、保田の地名が見ることができます。
 どうして、奈良一番の洪水の地で広瀬神社が生まれたのか判りません。

ただ、この地で細々と稲作が行われていたのではない証拠には、神社のすぐ、西には、前方後円墳の城山古墳と大塚山古墳があり、ほかにも五基の古墳があります。東には、島の山古墳があります。大塚山古墳と島の山古墳は、同じ方向を向いて造られていますから、同じ系統の人たちが、広瀬神社を挟んで勢力を有していたことが判ります。

広瀬神社から、南西の方角、2.5kmのあたりに、馬見丘陵古墳群があります。

次回は、前回の竜田神社と広瀬神社を絡めて、いくつかのことを検証して見たいと思います。

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2006.10.11

No31 竜田神社のこと

大和の国と河内の国の間には、南北に伸びる山が走っています。この山は北から、テレビ塔が林立する生駒山、そして南に信貴山があります。この南北に伸びる山に陥没が生じ、奈良盆地に貯えられていた水は、現在、大和川となって流れています。大和川で区切られた後、二上山、葛城山、金剛山と続いています。
平城京から河内や摂津に向かう道は、生駒山を越える道と、この大和川の北の竜田山を越える道がありました。万葉集には「竜田山」または「竜田の山」の歌は計15首残されていますが、現在は、竜田山という名の山はありません。現在は、信貴山の続きで、大和川に接するところに、小按の嶺と三室山という山があります。これらの山を総称して竜田山と呼ばれていたのではないでしょうか?
 この竜田山を越える道を竜田道と呼び、重要な幹線だったと思われます。この竜田道の奈良側の集落の真ん中に、竜田神社が鎮座しています。
 祭神は、風の神である天御柱命、国御柱命が祭られています。

『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によると、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたという。
その祝詞の原文の一部は、次の通りです。
「是以ココヲモテ皇御孫命大御夢爾オホミイメニ悟奉久サトシマツラク 天下乃公民乃作作物乎 悪風荒水爾
アシキカゼアラキミヅニ 相都都アハセツツ不成ナサズ傷波ソコナヘルハ 我御名者アガミナハ天乃御柱乃命アメノミハシラ
ノミコト 国乃御柱乃命止 御名者悟奉弖 吾前爾奉牟アガマヘニタテマツラム幣帛者 御曽者ミソハ明妙
アカルタヘ 照妙テルタヘ 和妙ニギタヘ 荒妙アラタヘ 五色乃物イツイロノモノ 楯タテ 戈ホコ 御馬爾ミウマニ
御鞍具弖ミクラソナヘテ 品品乃クサグサノ幣帛備弖ミテグラソナヘテ 吾宮者アガミヤハ朝日乃アサヒノ日向処
ヒムカフトコロ 夕日乃ユウヒノ日蔭処乃ヒカゲルトコロノ龍田能立野乃タチヌノ小野爾ヲヌニ吾宮波定奉弖 」
 全文を読みたい方は、http://nire.main.jp/rouman/sinwa/norito.htm#04 です。

以上から判ることは、龍田風神とは、天御柱命と国御柱命のことを言いますが、ある書物によりますと、天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のことと書いておられる方があります。日本書紀では、級長津彦命(しなつひこ)を級長戸辺命の別名と記しています。古事記では、風の神の志那都比古神が生まれたとありますから、日本書紀の級長津彦命と古事記の志那都比古神は同じ神でしょうか?

龍田の風神と志那都比古神は別の神ではないでしょうか?  その辺のことを探ってみます。

この外に、神社では次のような説明もしています。
「御座ケ峯は上古当社の御祭神が降臨せられたる霊地なりと伝承しており現在は三室山の山嶺より東南凡そ壱粁離れた頂上の畑地の中央にありて松樹林となっております。又龍田山は三室山に引き続きたる実に広大な山岳地帯を指したる地域の総称であり古来龍田越などの峠もあって起伏多く往来に相当難所の山道であります」
 
 どこの神社でも、その神社の神さんが降りられたところが記されています。神社内にある大きな岩がそうであったりします。大概は、その神社の裏山が多いです。竜田神社も裏山ですが、御座ケ峯は東南凡そ壱粁離れた頂上とあります。少し、遠すぎますが、峰上には「傅龍田本宮御座峰」の石碑があり、祭祀が行われ手いるそうです。又、小按の嶺と考えられる尾根上の平坦部分に「傅龍田神社本宮跡」と刻まれた石碑と、その背後の斜面に自然石の立石を祀る磐座が5ケ所存在しています。 毎年、ここで、龍田大社の神官が例祭の日に祭祀を行っているそうです。
 ここへは、行ったことがありませんが、御座峰と龍田神社本宮跡は、近いので、龍田神社本宮跡地である可能性は高いです。そして、天武天皇の御代に、現在の地に移されたのではないでしょうか? 勿論、磐座のところに祠があったとは限りません。
 御座ケ峯は、現在の竜田神社の東南1Kmと遠いのですが、地図の見方を変えますと、柏原市の雁多尾畑(かりんどおばた)から北の信貴山へ通じる車道の西に御座ケ峯があります。雁多尾畑に、金山比売を祭った金山媛神社があります。式内社です。由緒には、「もと嶽山の峰にあり中世に金山彦と同時期、現在の地に遷座と伝わる。古く八大金剛童子社と称し、俗に山王と呼んでいたと伝わる。明治8年現在の名に改められる。金山彦、金山毘売は伊耶那岐、伊耶那美の子供」とあります。
 こちらは、鉱山の神です。当時の鉱山は、鉱脈がある上に、風が重要であったように思われます。製鉄の方では、自然の風だけではなく、息の長続きする人が必要だったのではないかと想像しています。息の長いことが有利な職業は、製鉄や土師器の製作、潜水などもあります。
息長氏がいます。これをどのように考えたらいいか判りません。素直に、息が長かった人と考えますと、前期の職業が考えられます。
 滋賀県の伊吹山の麓は、息長氏がいましたので、製鉄が行われていたはずだと、滋賀県の米原市と高島町に、先月行って調べましたが、調べ方が悪かったのか、関連するものは見つかりませんでした。
風の神は、古事記に志那都比古神が書かれています。日本書紀では、級長戸辺命(しなとべのみこと)、別名を級長津彦命です。天御柱命と級長津彦命は関係ないと思うのですが、私が知らないだけで、どこかに書かれているのかも知れません。
このように見てきますと、天御柱命と金山彦神は、なんだか、出どころは、同じ御座ケ峯のように思えるのですが、・・・・・一度見に行ってきます。

ただ、志那都比古神をお祀りしている神社が、御所市大字鴨神、旧高野街道・風の森峠の頂上にあります。風の森峠の頂上にと書きましたが、神社は高さ2mほどの高さの丘の上にあります。それも小さな祠だけです。峠と言えば峠ですが、低い峠です。数年前に、一度訪れたことがありますが、なぜか、この神社にいる間は、風が強く吹いていたのが印象に残っています。あの場所は、製鉄には関係はなさそうですから、この風の神は、五穀のみのりを、風水害から護る農業神として祀られていたのかも知れません。 

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2006.10.07

No30 天武天皇と広瀬と竜田の神

天武天皇 4年4月10日に、「風神を竜田の立野に祭られ、大忌神を広瀬の河原に祭れた」との記述があります。以後、数多くの同様に記述があり、12年7月4日には、天皇が、直接に広瀬に出かけられたことが記されています。そのすべてを記します。

5年04月04日 竜田の風神・広瀬の大忌神を祭った。
5年07月16日 竜田の風神・広瀬の大忌神を祭った。
6年07月03日 竜田の風神・広瀬の大忌神をお祭りした。
7年04月07日 斎宮においでになろうとしていた十市皇女が急死。神々の祭りがなくなった。
8年04月09日 広瀬・竜田の神を祭った。
8年06月23日 雨乞いをした。
8年07月06日 雨乞いをした
8年07月14日 広瀬・竜田の神を祭った。
9年04月10日 広瀬・竜田の神を祭った。
9年07月05日 雨乞いをした。
9年07月08日 広瀬・竜田の神を祭った。
10年04月02日 広瀬・竜田の神を祭った。
10年06月17日 雨乞いをした。
10年07月10日 広瀬・竜田の神を祭った。
10年10月    天皇は広瀬野で百官の観閲を行おうとして、行宮をつくり終わり準備は整った。しかし、天皇は結局お出ましにならなかった。ただし、親王以下群卿はみな軽市で、よそおいをこらした飾り馬を検閲した。
11年04月09日 広瀬・竜田の神を祭った。
11年07月12日 広瀬・竜田の神を祭った。
12年04月21日 広瀬・竜田の神を祭った。
         この月から始まって八月まで旱(ひでり)が続いた。百済の僧道蔵が雨乞いをして、雨が降った。
13年04月05日 広瀬・竜田の神を祭った。
13年07月04日 広瀬にお出ましなになった。
13年07月09日 広瀬・竜田の神を祭った。
14年04月12日 広瀬・竜田の神を祭った。
14年07月21日 広瀬・竜田の神を祭った。
朱鳥
元年07月16日 広瀬・竜田の神を祭った。
元年09月09日  天武天皇 崩御

この後、持統天皇の御世になって、
朱鳥4年4月3日より11年7月12日まで、毎年、4月と7月に2回、「広瀬・竜田の神を祭った」の記録があります。朱鳥7年の4月と7月のみ、雨乞いをしたことが記録されています。

なにか気付かれましたか? 私が気になったことを書いてみます。
① 常に、広瀬・竜田の神がセットになっています。
② 祭る月は、毎年、4月と11月に定まっている。
③ 7年と朱鳥元年は、抜けています。前者は十市皇女が急死。後者は天皇の病気が原因でしょうか?
④ 9年07月05日 雨乞いをしたと記述があります。どこで雨乞いをしたか判りません。
3日後に、広瀬・竜田の神を祭ったとあります。5日の結果がまだ、出ないうちに、今度は、広瀬・竜田の神に雨乞いを頼んだのでしょうか? 関係ないように思います。
なぜかといいますと、「12年04月21日 広瀬・竜田の神を祭った。この月から始まって八月まで旱(ひでり)が続いた。百済の僧道蔵が雨乞いをして、雨が降った」という記述があります。広瀬の神が雨乞いに有効でしたら、広瀬・竜田の神に祈ることになります。
ということで、年中行事のようになった「広瀬・竜田の神を祭った」は、どうして、祭るようになったのか調べる必要があります。
⑤ 持統天皇の御世になっても続けられましたので、広瀬・竜田の神は、天皇家にとっては、重要な神であったと思われます。
⑥ 天武天皇 4年4月10日に、「風神を竜田の立野に祭られ、大忌神を広瀬の河原に祭れた」との記述があります。
神を祭るという行為は、天皇の心の問題ですから、天皇になられて、すぐに、心の迷いが生じたのではと考えますが、そうとは限らないのでしょうか?

次回は、「風神を竜田の立野に祭られ、大忌神を広瀬の河原」を調べてみようと思います。

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2006.10.05

No29 天武天皇 サービス精神旺盛

9年2月23日 菟田の吾城(壬申の乱のときの故地)に行幸された。
10年1月7日 親王・諸王を内安殿へお召しになった。諸臣はみな小安殿に侍り、酒を振舞われ舞楽を見せられた。
        大山上草香部吉士大形に、小錦下の位を授けられた。姓を賜って難波連といった。
10年1月11日 堺部連石積に勅して、六十戸の食封を与えられ、絁三十匹、綿百五十斤、布百五十端、钁(くわ) 一百口を賜った。
10年1月19日 畿内および諸国に詔して、諸の神社の社殿の修理をさせた。

10年3月17日 天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中連大嶋・大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し校定させられた。
10年4月12日 錦織造小分ら合わせて十四人に姓を賜って連といった。
10年4月17日 高麗の客卯文らに筑紫で饗応され、それぞれに物を賜った。
10年6月05日 新羅の客、若弼に筑紫で饗応され、それぞれに禄物を賜った。
10年12月10日 小錦下河部臣子首を筑紫に遣わして、新羅の客、忠平に饗を賜った。(10月18日来朝、調を奉る)
10年12月29日 田中臣鍛師ら合わせて十人に・小錦下の位を授けられた。
11年01月09日 大山上舎人連糠虫に小錦下の位を賜った。
11年01月11日 金忠平に筑紫で饗応された。
11年05月12日 倭漢直らに姓を賜って連といった。
11年05月25日 多禰の人・掖玖の人・阿麻弥の人に、それぞれ禄を賜った。
11年05月25日 隼人らに明日香寺の西で饗を賜った。さまざまの舞楽を奏し、それぞれに禄を賜った。
11年08月03日 高麗の客を筑紫でもてなされた。
11年08月28日 日高皇女の病のため、死罪以下の男女、合わせて百九十八人を赦した。
11年10月08日 盛大な酒宴を催された。
12年01月02日 「・・・・小建以上の者にそれぞれ禄物を賜い、死罪以下の者はみな赦免する。また百姓の課役はすべて免除する」と云われた。
12年09月23日 倭直、栗隈首、水取造、矢田部造 他 全部で38氏に姓(かばね)を賜って連(むらじ)とした。
12年10月05日 三宅吉士 他 全部で14氏に姓を賜って連といった。
13年01月17日 三野県主・内蔵衣縫造の2氏に姓を賜って連といった。
13年02月24日 金主山に筑紫で饗を賜った。
13年04月05日 徒罪以下( 徒・杖・笞の刑)のものはみな赦免された。
13年04月16日 宮中で斎会(さいえ)を設け、罪を犯した舎人を赦免した。
13年10月16日 多くの王卿に禄物を賜った。
13年11月01日 大三輪君 他 全部で52氏に姓を賜って朝臣といった。
13年12月02日 大伴連 他 50氏に姓を賜って宿禰といった。
13年12月13日 死刑以外の罪人は全部赦免された。
14年01月21日 爵位の名を改め階級を増加した。
14年02月04日 大唐の人・百済の人・高麗の人合わせて147人に爵位を賜った。
14年07月27日 「東山道は美濃以来、東海道は伊勢以東の諸国の有位の人たちには、課役を免除する」といわれた。
14年09月09日 皇太子以下忍壁皇子に至るまで、それぞれに布を賜った。
14年09月18日 宮処王・難波王・竹田王・三国真人友足・県犬養宿禰大侶・大伴宿禰御  
         行・境部宿禰石積・多朝臣品治・采女朝臣竹羅・藤原朝臣大嶋の合わせて10人に、ご自身の衣と袴を賜った。
14年09月19日 皇太子以下諸王卿合わせて48人に、ヒグマの皮・山羊(かもしか)の皮を賜った。
14年09月24日 天皇発病
14年09月27日 帰化してきた高麗人たちに禄物を賜った。
14年12月04日 筑紫に遣わした防人らが、難破漂流、皆衣服をなくした。防人の衣服にあてるため、布458端を筑紫に発送した。
14年12月16日  絁・綿・布を大官大寺の僧たちにお贈りになった。
14年12月19日  皇后の命で、王卿ら55人に、朝服各一揃いを賜った。

朱鳥元年01月02日 宴を諸王たちに賜った。なぞなぞに正解をだした高市皇子に、はたすりの御衣を三揃と錦の袴二揃いと絁24匹・糸50斤・綿100斤・布100端を賜った。
         伊勢王も当たり、黒色の御衣を三揃・紫の袴二揃い・絁7匹・糸20斤・綿40斤・布40端を賜った。
朱鳥元年01月09日 三綱(僧綱)の律師および大官大寺の僧を招いて、俗人の食物で供養し、絁・糸・綿を贈られた。
朱鳥元年01月10日 王卿たちにそれぞれ絹袴一揃い賜った。
朱鳥元年01月13日 種々の才芸のある人、博士、陰陽師、医師、合わせて20余人を召して、食事と禄物を賜った。
朱鳥元年01月16日 大安殿にお出ましになって、王卿を召して宴を催され、絁・糸・綿を賜った。天皇は群臣にクイズをだされ、正解者に、絁・糸・綿を賜った。
朱鳥元年01月17日 後宮で宴を催された。
朱鳥元年01月18日 朝廷で盛大な酒宴を催された。この日、御窟殿の前におでましになり、倡優(わざひと)たちにそれぞれ禄物を賜った。歌人たちにも絹袴を賜った。
朱鳥元年02月05日 大安殿にお出ましになって、侍臣6人に勤位を授けられた。
朱鳥元年02月05日 諸国の国司の中から、功績のある9人を選んで勤位を授けられた。
朱鳥元年02月14日 大官大寺に食封700戸を賜り、税()おおちから30万束を寺に納められた。
朱鳥元年02月24日 天皇病が重くなられたので、川原寺で薬師経を説かせ、宮中で安居させた。
朱鳥元年06月01日 槻本村主勝麻呂に姓を賜わり連といった。勤大壱の位加え、20戸の食封を賜った。
朱鳥元年06月02日 工匠・陰陽師・侍医・大唐の学生および一、二人の官人合わせて34人に爵位を授けられた。
朱鳥元年06月07日 諸司の人たちの功績のあるもの28人を選んで、爵位を加増された。
朱鳥元年06月16日 三綱の律師や四寺の和上・知事、それに現に師位を有する僧たちに、御衣御被各一揃いを賜った。
朱鳥元年06月28日 僧法忍・僧義照に老後のために、食封各30戸をそれぞれに賜った。
朱鳥元年07月03日 諸国に詔して、大祓を行った。
朱鳥元年06月04日 全国の調を半減し、徭役(労役)を全免した。
朱鳥元年06月05日 幣帛を紀伊国の国懸神・飛鳥の四社・住吉大社にたてまつられた。
朱鳥元年06月15日 大赦をした。
朱鳥元年06月19日 諸国の百姓で、貧しいために、稲と資材を貸し与えられたものは、14年12月30日以前の分は、公私を問わずすべて返済を免除せよ。
朱鳥元年08月13日 幣帛を土左大神にたてまつった。
朱鳥元年08月13日 皇太子・大津皇子・高市皇子に、それぞれ食封400戸を川嶋皇子・忍壁皇子にそれぞれ食封100戸を加えられた。
朱鳥元年08月15日 芝基皇子・磯城皇子にそれぞれ200戸を加えられた。
朱鳥元年08月21日 桧隅寺・軽寺・大窪寺に食封それぞれ100戸を30年間に限り賜った。
朱鳥元年08月23日 巨勢寺に200戸賜った。
朱鳥元年09月09日 天皇崩御。 (686年10月1日) 

疲れました。それぐらい、此れでもかというほど、喜んで貰えることをされたことが記録
されています。大きく分けますと、位を上げたこと。罪人に対して恩赦を行ったこと。褒
美を与えたことの三つになります。
天武天皇は、八色の姓と新位階制をたしかに、定められたのですが、例えば、
13年11月01日のところには、 大三輪君 他 全部で52氏に姓を賜って朝臣といった。
と書きましたが、52人の名前がすべて書かれています。私は、転記するのがしんどいので、
省略しましたが、単に、52人と書かれているのと、全員の名前が書かれているのとは、
随分印象が違います。どう違うのかと言いますと、笑われるかもしれませんが、誰を連に
し、誰を朝臣にするかで、揉めたでしょうね。いや、揉めないで天皇が全部決めた。

 決めるのは、簡単ですが、連と朝臣と宿禰など、どのような違いがあるのか、私には全
く判りませんが、なにかルールがあるのでしょう。例えば、新しい会社を二人ではじめた
とします。二人でしたら、別に社長を決めなくてもいいと思います。しかし、ひとりは、
技術的な部分を主にし、もう一人は、経営と言うか、金銭部門を受け持つということはあ
るかもしれませんが、実質は二人ですることになります。規模が大きくなりますと、一人、
二人と社員が増え、次第に多くなります。このようになりますと、役割を決めないと効率
よく事が運びません。
 天武天皇以前は、八色の姓と新位階制はなかったのでしょうか? 勉強していませんので、
全く判りませんが、新しく定めたということは、必要になったから定めたのだと思います。
何故、必要になったのか、これから調べることになります。
というものの、これは私の能力以上の部分のように考えます。
 
 私は、前述の記事を書きぬきしながら、〔天武天皇 サービス精神旺盛〕と考えました。
現在の会社や公務員の制度では、役職が重要らしいです。私は一人で仕事をしていますか
ら、そのように感じます。同窓会に出席しますと、話しは役職のことが殆どです。
それによって、勿論収入も変わってくるらしいです。また、名刺が大切です。自分の名前
の上に役職が書かれています。例えば、支店長補佐とか、支店長代理と書いてありますと、
支店長でないことは判りますが、どのように仕事が違うのか判りません。3年経ったら、
支店長になるはずが、支店長が辞めたり、移動しなかったために、支店長代理という名前
だけを貰ったのか、本当に代理の仕事をしているのか判りません。 支店長が付かない、
次長よりは気分がいいのではないでしょうか?
会社の役職のことをなぜ書いたかといいますと、さあ、役職を決めて、すっきりさせよう
として、役職が出来るものではないという事です。少しずつ、必要があって決められるも
のであるのに、急に決められています。これは、中国や朝鮮の人の勧めがあったからでし
ょう。
 それに、地位を与えるということは、与える者がつねに上にいることが、はっきりしま
す。その上に、喜んで貰えることが判ります。
11年5月12日 倭漢直らに姓を賜って、連といった。
11年5月27日 倭漢直の人々が、男も女もみな参上し、姓を賜ったことを喜んで天皇を配
した。
 という記事からも判ります。
天皇は、地位や称号だけではなく、幅広く、現物も与えています。それだけ、常にひきつ
けておく必要があったのではないでしょうか?

もう一つ、気になることがあります。
9年2月23日 菟田の吾城(壬申の乱のときの故地)に行幸された。

この記事は、誰かに与えた記事ではありませんが、書き加えました。人間、過去にいった所を訪問するときは、心のどこかに、弱い部分ができたときだと思っています。前向きに、どんどん仕事をしているときは、昔のことなど、懐かしくも何でもないものです。
天武天皇が、どんどん、此れでもかというほど、喜んで貰えることをされたのは、此れ以
後だろうと考えていいます。
 では、なぜ、そのような事をされたのか? 
① 次々に、壬申の乱のときの信頼していた部下が死んでいくうちに、おかしいと感じる
ようになられたと思います。恩赦をどんどんしたのは、単に悪い奴でも赦したのではないと思われます。
② 位階を上げたり、褒美を与えたときに、その人の態度で、信頼してよいかどうか,すぐに判ったとおもいます。
③ 死亡の記事が多すぎます。壬申の乱のときの部下の死だけ取り上げましたが、他の人は、何歳で死んだのか、天皇との関係はなどと調べないといけないと思います。こうした死亡のおおさも、不安に感じられたのだと思います。
  
「広瀬と竜田の神を祭った」という記事、多いので気になりました。次回は、広瀬と竜田
の神について書くつもりです。

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2006.10.03

No28壬申の乱は日中戦争(3)

天武天皇は10人の女性と結婚をし、16人の子供を授かっています。数字のついている人が妻になります。すべての名前を掲載します。

1.天武天皇の皇后----鸕野讃良(うののさらら)皇女(天智天皇の娘、持統天皇)
子供---草壁皇子(文武天皇、元正天皇の父)
2.妃-----大田皇女(天智天皇の娘)
子供---大来(おおく)皇女 ・大津皇子
3.妃-----大江皇女(天智天皇の娘)
子供-----長皇子 ・弓削皇子
4.妃-----新田部(にいたべ)皇女(天智天皇の娘)
子供-----舎人親王

5.夫人----氷上娘(ひかみのいらつめ) (中臣鎌足の娘)
子供----但馬皇女
6.夫人-----五百重娘(いおえのいらつめ)(中臣鎌足の娘)
子供----新田部親王

7.夫人---太蕤娘(おほぬのいらつめ) (蘇我赤兄の娘)
子供---穂積皇子 ・紀皇女 ・田形皇女
8.宮人----額田王
子供---十市(とおち)皇女
9.宮人----尼子娘(あまこのいらつめ)(胸形君徳善(むなかたのきみとくぜん)の娘)
子供---高市皇子
10.宮人----カヂ(木+穀)媛(宍人大麻呂の娘)
子供---忍壁(おさかべ)皇子 ・磯城(しき)皇子 ・泊瀬部(はつせべ)皇女
託基(たき)皇女

どうして、こんなに多くの人と結婚したのでしょうか? ただ単に好きになったからでは説明がつかないと思われます。日本書紀では、天武天皇は天智天皇の弟と書かれています。1~4の妻は、天智天皇の娘ですから、4人の姪と結婚したことになります。

鸕野讃良皇女(後の持統天皇)のことを少し、書いておきます。
657(13才) 大海人皇子と結婚
661(17才) 百済復興のための筑紫遠征に同行
662(18才) 筑紫の娜の大津宮にて、草壁皇子を生む
668(24才) 父・天智天皇(43才)即位
671(27才) 大海人皇子出家、ともに吉野に赴く、父・天智天皇没
672(28才) 壬申の乱
673(29才) 天武天皇即位、皇后に立つ(2月27日)
686(42才) 天武天皇没

上の表から、父・天智天皇が32歳で、鸕野讃良皇女が13歳で、叔父の大海人皇子と結婚しています。11年後に668年(24才) 父・天智天皇(43才)で即位しています。3年後に父は死んでいます。
一方、大海人皇子は、天智天皇の娘の大田皇女・大来皇女・大江皇女の三人の娘と結婚しています。
大田皇女は
661年  筑紫遠征に同行、備前の大伯海にて、大伯皇女を生む(1月)
663年  大津皇子を生む

新田部皇女、673年  天武天皇即位、妃となる
大江皇女は、673年 天武天皇即位、妃となる

大海人皇子は、中臣鎌足の娘である-氷上娘と五百重娘と結婚しています。太蕤娘は蘇我赤兄の娘です。蘇我赤兄は、658年に有間皇子から謀反に誘いを受けたときに、天智天皇に通報し、有間皇子を死に至らしめ、天皇から信頼を得ています。天智天皇が死亡した671年に左大臣になっていますから、天智天皇の信望が厚かったことがわかります。
-氷上娘と五百重娘と太蕤娘が、自分達から天皇の親戚になるために近づいたものか、天皇から近づいたものか、調べてみないとなんともいえませんが、少なくとも、一時期は、大海人皇子と天智天皇とは、兄弟以上の親密な関係があったと判断して良いと思います。
 
ただ、天智天皇の四人もの子供と結婚するには、大海人皇子と天智天皇の間を引き裂こうとする力があったから、そのような無理な形をとったとも考えられます。
 左大臣であった蘇我赤兄は、壬申の乱の時は、大友皇子側の重臣で、敗れて捕らえられ、子孫とともに流刑になっています。

このように見てきますと、大海人皇子と天智天皇が、対立して、皇位継承で争う材料はないように見受けられます。
どうして、そのような事になったのか、又、日本書紀からデーターを集めたく思います。

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2006.10.01

No27 壬申の乱は日中戦争(2)

日中戦争とは、日本と中国の戦争です。壬申の乱と呼ばれていますが、誰がこの名前を付けたのか分かりません。
整理の意味で、どのようなものであったか、一般にいわれていることを記します。
壬申の乱は、672年に起きた内乱です。天智天皇の太子大友皇子(1870年に弘文天皇の称号を与えられています)に対し、天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのみこ)が反乱を起こしたことになっています。反乱者である大海人皇子が勝利を収め、天武天皇となります。天武天皇の元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるためこれを壬申の乱と呼んでいます。
 壬申の乱が、どのように展開したかは、多くの方が推察を交えて書いておられます。資料は少ないですから、どうしても、推察をしないと内容に連続性がなくなります。その推察が正しいかどうか、調べるのが大変です。そこで、皇位継承に問題を絞って考えてみようと思います。本当に、皇位継承で、争いがあったのかどうか。私の推察のようにとんでもない推理---、中国人の関与があったのかどうかなどです。
 白村江の戦い(朝鮮へ出兵)で負けた天智天皇は660年代後半、都を近江宮へ移します。天智天皇は、同母弟の大海人皇子を皇太子にするつもりであったのではないでしょうか? 少なくとも、政治は一緒に行っていたと思われます。日本書紀では、「皇太弟」とありますから、皇太子に準じるものであったと思われます。しかし、天智10年1月5日皇子である大友皇子を太政大臣につけていますから、この記事を持って、この頃から、天智天皇は大友皇子を後継者にしようと考えていたとしておられる方もあります。太政大臣とは、律令制において、左大臣・右大臣の上に位置する、神祇官と並ぶ太政官における最高位の官職です。しかも、大友皇子はこの位を最初に授けられた人となりますから、皇位を継承すると見てもいいかもしれませんが、行政面でのトップですから、王家とは別と見るべきだと思います。
その後、天智天皇は病になり、病床に大海人皇子を呼んで、皇位を嗣ぐように依頼しますが、大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し自ら出家を申し出、直ぐに、吉野へ退散というか、天皇に逆らう意思の無いことを態度で表わします。
このあたりのことを、調べてみます。
私の知っているのは、日本書紀しかありませんので、天智天皇の記述に目を通してみました。先ず、日本書紀に書かれている大海人皇子の記事を抽出します。
664年 (天智3年)2月9日 皇太子(中大兄)は弟大海人皇子に詔して、冠位の階名を増加し変更することと、氏上・民部・家部などを設けることを告げられた。
668年 (天智7年)5月5日 天皇は蒲生野に狩りに行かれたときに、大皇弟(大海人皇子)・諸王・内臣および群臣みなことごとくお供をした。
669年 (天智7年)5月5日 天皇は山科野に薬狩りをされた。大皇弟(大海人皇子)・藤原内大臣(鎌足)及び群臣らことごとくお供をした。
670年 (天智8年)10月15日 天皇は東宮大皇弟(大海人皇子)を藤原内大臣(鎌足)の家に遣わし、大織の冠と大臣の位を授けられた。姓を賜って藤原氏とされた。これ以後、通称藤原内大臣といった。16日、藤原内大臣(鎌足)は死んだ。
672年 (天智10年)1月6日 大皇弟(大海人皇子)が詔して、冠位・法度のことを施行された。天下に大赦を行われた。
672年 (天智10年)9月、天皇が病気になられた。
672年 (天智10年)10月17日 天皇は病気が重くなり、東宮(大海人皇子)を呼ばれ、寝所に召され詔し、「私の病は重いので後事をお前に任せたい」云々と云われた。
東宮(大海人皇子)は病と称して、何度も固辞して受けられず、「どうか大業は大后(皇后)にお授けください。そして大友皇子に諸政を行わせてください。私は天皇の為に出家して、仏道修行をしたいと思います」と云われた。天皇はこれを許された。東宮は立って再拝した。内裏の仏殿の南においでになり、胡床(あぐら)に深く腰かけて、頭髪をおろされ、沙門の姿になられた。天皇は次田生磐を遣わして袈裟を送られた。
672年 (天智10年)10月19日 東宮は天皇にお目にかかり、「これから吉野に参り、仏道修行を致します」と云われた。天皇は許された。東宮は吉野へ入られ、大臣たちがお仕えし宇治までお送りした。
672年 (天智10年)12月3日  天智天皇崩御 

読んでいただけましたか? どのように思われましたか? 私が考えたことを記します。
① 大海人皇子のことを、どうして、弟大海人皇子・大皇弟・東宮大皇弟・東宮と使い分けたのだろう。弟大海人皇子・大皇弟・東宮大皇弟のには、すべて、弟の字がはいっています。天智天皇の弟であることが強調されています。はじめは、大海人皇子であったのが、大皇弟に「ひつぎのみこ」と宇治谷氏はふりがなを打っておられます。東宮大皇弟にも「ひつぎのみこ」とふりがなをうっておられます。現在では、東宮は皇太子のことを言っているようです。東宮御所などとして使われています。東宮大皇弟を(東宮)皇太子としますと、誤解されてはいけないので、東宮に大皇弟をつけたのでしょうか?
② 672年に天智天皇が亡くなられた後は、「東宮」を使ったことになります。単に皇太子ではなく、「ひつぎのみこ」として使われていることが判ります。
③ 蒲生野に狩りに行かれたときは、全員が参加しましたが、そのトップに大皇弟が書かれ、皇位争いの雰囲気は感じられません。
④ 山科野に薬狩りをされたときも、同様です。
⑤ 670年10月15日 天皇は東宮大皇弟(大海人皇子)を藤原内大臣(鎌足)の家に遣わしています。10月10日には天皇自ら見舞いにいったことが記されています。鎌足の死は悟られたのだと思います。鎌足は、天智天皇になる前に、二人で蘇我氏を滅ぼした間柄ですから、信頼もしておられたと思われます。せめて、鎌足の生前に喜んで貰おうとの心使いでしょうか? 5日後に東宮大皇弟を派遣し、大織の冠と大臣の位を授けられたことになります。鎌足は、現在でいえば、GHGの最高司令官である郭務悰の接待をしていますから、重要人物でもありました。
⑥ 今度は、天智天皇が病気になられます。そして、東宮(大海人皇子)を呼ばれ、寝所に召され詔し、「私の病は重いので後事をお前に任せたい」云々と云われた。皇位を継ぐように依頼されています。これはワナであるという人もあります。それは、天武天皇の所に、蘇我臣安麻呂が東宮に、「よく注意してお答えください」と言ったこと、東宮が用心されたことが書かれているからだと思われます。
⑦ 10月19日、どうして、これほど急がれたか判りませんが、天皇に寝所によばれてから、
二日後に、吉野へ出立していますが、その時、大臣たちがお仕えし宇治までお送りしていますから、最後まで、不穏な空気は無かったことになります。
⑧ 天智紀に書かれていることからは、天智天皇と大海人皇子の間で、皇位継承に関して、微塵にも、不穏な面は見つけることは出来ません。それでは、何故、天武紀に「よく注意してお答えください」というような記述があるのでしょうか?
この会話が交わされたのは、672年です。日本書紀が完成したのが、712年です。40年の隔たりがあります。日本書紀の編集者は、天智天皇と大海人皇子の間では争いが無かったと判断しました。しかし、それでは、その後直ぐに大友皇子と大海人皇子とが争いを起こした理由がないことになります。それをそれとなく、読んだ者に想像させようとしたのではないでしょうか?  
⑨ 40年も昔の事ですが、藤原不比等は、実情を知っていたのではないでしょうか? このことは、壬申の乱の記述から推察できます。

壬申の乱は、天皇家における皇位争いの最大のものと捉えられ、日本の歴史として確定しています。私は、タイトルに書きましたように、壬申の乱は日中戦争であり、大友皇子はおもちゃにされたと思っています。天皇家は、女帝の間、ずっと、醜い皇位獲得のために、争いをおこし続けたことになっています。確定していますから、天皇陛下が、自分達の先祖は、そんなに醜い人間ではなかったと言ってもだれも耳を貸してくれないと思われます。

次回は、もう一つ気になることがありますので、書いてみます。

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2006.09.29

No26 壬申の乱は日中戦争(1)

〔No25 天武天皇は暗殺された〕は如何でしたか? そんな馬鹿なと思われた方が、殆どであると思います。
 どうして、馬鹿だとおもわれますか? それは、ご自分がいままで知っていた歴史とあまりにも違うからです。暗殺されたとのであれば、誰に暗殺されたのか考えなければなりません。暗殺する人が見つかりません。私は恥ずかしいながら、日本書紀における天武天皇のところは、読んでいないのです。では、どうして、No25に書いてあるデーターを調べたかといいますと、天武天皇の業績を詳しく調べて一覧表にしてインターネットに公表されておられる方が一杯です。そのデーターを拝借して、コピーしました。そして、死亡以外の記事はすべて消去したら残った資料が、No25であり、結論が天武天皇は暗殺されたとなります。ただ、此れだけではありません。天武天皇のことについては、すばらしい天皇であると多くの人が書いておられます。中には、天智天皇の要請を断っておきながら、その皇子を殺しましたから、歴史上最大の権力争いを行った天皇ととらえている人もあります。
 日本書紀は、天武天皇にページを多く割いていますから、多くのことを成し遂げた天皇と見ることもできますが、多くのページを割いたときは、理由があるはずです。その理由を追求する必要があります。

古事記と日本書紀を比較することによって、日本書紀がどのような編集方針を持っていたかを知ろうとしています。その試みは、No1から始まって、No20で終わり、現在中断して、
【No21 古事記は何故作らなければならなかったか】に変えました。

どうして変えたかと云いますと、古事記と日本書紀を比較しながら、原稿を書き始めましたが、「楽しい人生」を書くために、無料で借りているブログを運営しているココログが、8月2日から、アクセス解析ということをはじめました。素晴らしいものと言いますか、この方式が世の中のシステムに使われますと、恐ろしいなと思えるものです。使われますとではなく、もう、既に、使われています。
 
 簡単に、一部を紹介します。今日は何人のアクセスがあったか?  1時間ごとに表示されます。アクセスした人が、キーワードを何に設定してアクセスしたか? アクセスして人が、何分、滞在したか? 例えば、4分32秒 1人。2分25秒の人、2秒の人、1秒の人というように、すべて判ります。最初は、どのページにいき、出るときは、どのページを最後に出たかなどです。リピーターは何人か? 最高アクセスされた方は、1人で、最高120回です。次に多い人は、23回1人。17回1人。 2回以上訪れた人は、5%です。詳細に検討を加えますと、私のホームページを継続して読まれた方は、ゼロということが判りました。
 誰一人として、古事記と日本書紀を比較することに興味を示される方は無いということが判りました。
 私の考え方が間違っているために、面白くないのだと思いますが、そうであれば、面白くない、止めろというコメントがあっても良いですが、非難はありません。あったが気分が悪いので消したわけではありません。一日当たり平均44件のアクセスがあります。
 これは、毎日、掲載するから、読んでいただけないのだと思って、最近は、一日置きに掲載していますが、結果は同じことです。
 古事記と日本書紀をキーワードにして、皆さんのページを拝見していますと、殆どの方が、古事記に書いてあることは、正しくないと捉えておられます。日本書紀に書かれていることは、正しいと捉えておられます。 No1~20は、日本書紀が間違っているのではなく、日本書紀は、古事記は歴史上、消してしまいたかったらしい。 そのくせ、古事記を最大に参考にして編纂を行ったことを見ていこうと考えています。まだ、始まったばかりですが、誰も読まれないのであれば、書いても仕方がありませんので、日本書紀に書いてあることを使って、それが正しいかどうかを検証するために、古事記を参考にしようという方針に変更しました。
 それが、No21以降の文章です。
えらい断り書きが長くなりすぎました。しばらくは、壬申の乱のことを書いて、そして、
天武天皇は暗殺されそうになり、せめて、古事記に、天皇家の系統を残したいと考えたことを書くつもりになっています。そんなことができるのか、自信はありませんが、挑戦です。
次の文章は、日本書紀の天武天皇の、天武4年の一部です。私は、死んだ月と名前と壬申のときの部下であることだけ、強調するために書き並べました。 しかし、日本書紀はもっと、詳しく書いています。
4年6月       大分君恵尺         死亡    壬申のときの部下
5年6月       四位栗隈王        死亡    壬申のときの部下
           物部雄君連 突然発病   死亡    壬申のときの部下
5年7月       村国連雄依          死亡    壬申のときの部下
5年8月       大三輪真上田子人君    死亡    壬申のときの部下

① 4年6月23日 大分君恵尺は病が重くなり、天皇は大いに驚かれて詔し、「恵尺よ、お前は滅私奉公して身命を惜しまず、雄々しい心で壬申の乱に勲功を立てた。自分はいつもお前の努力に報いたいと思っていた。お前がもし死んだとしても、子孫に手厚く賞を与えよう」といわれた。外小紫の位に昇進させられた。いくばくも無く自宅で甍じた。
《天皇は大いに驚かれて詔しと書いてありますから、病床のもとへ天皇が見舞いに行かれたことになります。よほど信頼されていた部下ということが推察できます》
② 5年6月  四位栗隈王は病になって甍じた。  物部雄君連は急病で卒した。天皇は驚かれ、壬申の年に車駕にお供して東国に入り、功績があったので、内大紫の位を賜り、物部の氏上(うじのこのかみ)の地位を与えられた。 《この二人は、天皇が知る機会も無いほどに、見舞いにもいくこともなく、急死したことになります》
③ 5年7月  この月、村国連雄依 が卒した。壬申の年の功により、外小紫の位を賜った。
④ 5年8月  この月、 大三輪真上田子人君が卒した。天皇は大いに悲しまれ、壬申の年の功で、内小紫の位を賜った。大三輪真上田迎君の諡号を賜った。
  《死後、位を貰うことは、普通のことであったのかどうか、また、この位が破格のくらいであるのか調べていません。子孫に手厚く賞を与えようという言葉がありましたから、遺族が困らないようにされたのではないでしょうか? 》

他の人も、ご自分で確かめてください。天皇は、部下の死に接し、驚き、悲しまれた様子が伝わってきます。 同じ月に二人も死ぬことは、そうあることではありません。 私は異常だと考えます。しかし、此れまでに天武天皇が暗殺されたといった人は、田村誠一といわれる方だけです。これだけ、壬申の乱の功労者が、次々に死亡したのに、誰も疑う人がいなかったのは、上に書いたように、死亡に対して、天皇が、手厚い思いやりをされたから、素晴らしい天皇であると受け取られたのだと思います。
仮に、私の推理が正しいとしますと、日本書紀の編集者たちは、見事にその後の人々を騙し続けたことになります。 天武天皇が亡くなられた後は、皇后が、41代の持統天皇になられています。
持統天皇は、異常なほどに、吉野へ行幸されています。 なぜ、頻繁に行幸されたか、つづいて考えてみる必要があります。 一度、吉野の行宮跡に行かれることをお勧めします。理由が自然と判るのではないかと思います。

歴史は、連続しています。〔No25 天武天皇は暗殺された〕という事件は、〔壬申の乱は日中戦争〕であると考えないと、天皇の皇位争いでは、謎がとけません。
どの本を読まれても、天皇の皇位争いしかありません。 天皇家は、延々と皇位争いを繰り返したとんでもない、恥ずかしい家柄であるというのが、日本史の主流です。(こんなどぎついことは書いてはありません。)そんなに、はずかしい歴史であるならば、この度の皇子誕生はそれほど、喜ぶほどのことではないし、天皇が滅ぼうが大したことではありません。
 なのに、殆どの日本人は、誕生を祝福し、天皇家が絶えないことに安堵しました。

私もわけの判らないことを書いていますが、次回から、【壬申の乱は日中戦争】であったのタイトルで、しばらく書いてみようと思います。
ご興味ありましたら、又、訪問してください。リピーターがあまり少ない時は、中止することになると思います。 

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2006.09.27

No25 天武天皇は暗殺された

No.265の内容は、H2004.12.12に、「楽しい人生」というブログに書いた記事です。その時のタイトルは、「天武天皇は暗殺されたか」でしたが、その後、いろいろ考えているうちに、「天武天皇は暗殺された」になってしまいました。
との書き出しで、「新しい日本の歴史」http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/2006-06-30
のNo265に書きました。 

天智天皇は暗殺されたのではないかと書いておられる方は居られましたが、天武天皇は暗殺されたと書いた書物はありません。このような結論に至ったのは、これまで書いてきました歴史の流れと日本書紀が元になっています。 
以下に採録します。

日本書紀より、天武天皇近辺の人々の病気・死亡の記事を抜粋しました。
3年2月27日    紀臣阿閉麻呂      死亡   壬申のときの部下
4年6月       大分君恵尺        死亡   壬申のときの部下
5年6月       四位栗隈王        死亡   壬申のときの部下
           物部雄君連 突然発病   死亡   壬申のときの部下
5年7月       村国連雄依        死亡    壬申のときの部下
5年8月       大三輪真上田子人君   死亡   壬申のときの部下
5年9月       坂田公雷          死亡    壬申のときの部下
7年4月       十市皇女   とつぜん発病  死亡
7年9月       三位若狭王
8年2月3日     紀臣堅摩呂        死亡    壬申のときの部下
8年3月6日     兵衛の大分君稚見    死亡    壬申のときの部下
8年3月9日     吉備大宰の石川王   死亡
8年5月5日  吉野の会盟
8年6月26日    大錦上大伴杜屋     死亡
8年7月17日    葛城王           死亡
8年8月25日    大宅王           死亡
9年5月21日    小錦下秦造網手     死亡
9年5月27日    小錦中 星川臣摩呂   死亡
9年7月05日      犬飼連大伴     見舞う 
9年7月20日    飛鳥寺の弘聡僧     死亡
9年7月23日    小錦下三宅連石床    死亡    壬申のときの部下
9年7月25日    納言兼宮内卿五位舎人王  発病 死にかける
9年7月26日    舎人王         死亡
9年9月27日    桑内王       自宅で死亡
9年11月10日    皇后  発病  平癒
9年11月16日    恵妙僧を 見舞う
9年11月17日    恵妙僧          死亡
9年11月26日    天皇 発病 平癒
10年2月29日    阿倍夫人(天智天皇の嬪)  死亡   681年
10年2月30日    小紫位当摩公豊浜      死亡
10年8月11日    大錦下上毛野君三千(ミチヂ)  死亡
11年1月18日    氷上夫人(天皇の夫人)  宮中で死亡
11年2月       小錦下舎人連糠虫     死亡  壬申のときの部下
11年3月       土師連真敷          死亡  壬申のときの部下
11年6月12日    殖栗王            死亡
11年7月9日     小錦中膳臣摩漏      病気
11年7月18日    小錦中膳臣摩漏       死亡 壬申のときの部下 
11年8月28日    日高皇女(草壁皇子の女)  病気
12年6月3日     大伴連望多           死亡 壬申のときの部下
12年6月6日     高坂王             死亡
12年7月4日     鏡姫王(藤原鎌足の室)    病気
12年7月5日     鏡姫王              死亡
12年8月2日     大伴連男吹負          死亡 壬申のときの部下
12年5月19日    直大参当麻人広麻呂      死亡
14年9月24日    天皇健康が優れない  大官大寺・川原寺・飛鳥寺で誦経させる685年
14年10月8日    オケラを煎じさせる
14年10月10日   束間温湯に行幸しようとする
朱鳥元年3月6日    直大参羽田真人八国   病気に    (686)
朱鳥元年3月25日                   死亡   壬申のときの部下
朱鳥元年5月9日   侍医の百済の人億仁  病気 死にそうになる
朱鳥元年5月16日  体の調子が悪いので、祈願を依頼する
朱鳥元年5月24日  天皇病気重くなる
朱鳥元年9月9日  天皇 死亡         116日で死亡   686年

〇 この表から考えたことを記しますと、
① 天皇が具合が悪くなりはじめたのは、14年9月24日。ほぼ 一年後に死亡
② 病気が重くなって死亡までの記事が全く無い。
③ 天武5年から急に死亡者が増える。
④ 殆ど、壬申のときの部下であり、この部下には、位を増やしている。大切な部下ばかり15名が死亡した。信頼於ける部下が殆ど(?) 死んだか?
⑤ 6月、7月、8月、9月の死亡が多い。
⑥ 突然死亡というのがあります。 人間なかなか突然には死にません。普通は、何か作為があると考えます。
以上のことから推察できることは、これらの内、多くの人は、毒殺されたと思えます。
しかも、毒物の種類は、6月~9月に効果を発揮する毒物(毒草)が想像されます。
天武天皇は、 8年5月5日の辺りで、変だと思われ、吉野における会見となります。
14年9月24日自分の身体の調子が悪くなり、古事記の編纂を稗田阿礼に命じたと思われますが、日本書紀には、勿論記されていません。
14年10月10日に束間温湯に行幸しようとする記事があります。なぜ 果たせなかったか理由は書いてありません。631年に舒明天皇が、647年に孝徳天皇が兵庫県の有馬温泉に行幸されていますが、其のときの人数は、少なくとも100人、多ければ400人になろうかと思われます。この際、行幸道が問題です。武庫川が使われたと推察できます。この川の両岸にある神社名は、天皇にとって安全な神社ばかりです。
このようなことを考慮すると、ちょいと温泉というわけには行きません。
行けなかった理由は不明ですが、私は部下が居なかったのが大きい理由ではと思います。
仮に、毒殺だとしますと、病気重くなってから、116日で崩御されています。飲む量によりますが、気づかれないようにするには、是ぐらい日数が必要な毒草となります。天智天皇も似たような日数で崩御されていますから、毒殺された可能性があります。
〇 川嶋皇子、忍壁皇子(オサカベ)、広瀬王、竹田王、桑田王、三野王、大錦下上毛野君三千(ミチ)、小錦中忌部連首(オビト)、小錦下安曇連稲敷、難波連大形、大山上中臣連大嶋、大山下平群臣小首以上は、日本書紀の編纂にかかわったと見られる名前ですが、誰も死んでいません。
8年5月5日  吉野の会盟とは、この日、吉野宮にお出ましになり、6日に草壁皇子尊、
大津皇子、高市(タケチ)皇子、河嶋皇子(天智天皇の皇子)、忍壁(オサカベ)皇子、芝基(シキノ)皇子(天智天皇の皇子)を集めて、千年後でも事がおこらないようにしたいと思うと述べ、皆に、事をおこさないように誓わした。
 千年どころか、直ぐに事が興りそうであったから、このような会合が持たれたことになります。
もっと 他のところから、可能性があるか調べる必要があります。
可能性があれば、日本書紀の編纂に携わった人は、天皇の反対勢力の人達であり、それ故に、天武天皇は、古事記の編纂を、字にしないで、頭の中に仕舞って置くように稗田阿礼に命じた意味が解明されることになります。
そのためには、天智天皇より前からの歴史を正しく知ることが必要になりますが、その最大の資料が日本書紀ですから、日本書紀は勿論のこと、手が加えられたであろう古事記も、書かれていることをそのまま、読んだのでは正しい歴史を知ることが出来ないと思います。

如何でしたか? このような事情があったからこそ、古事記の制作を急ぐ必要がありましたが、実際に出来たのは元明天皇の和銅五年になります。それまでは、作ることが出来なかったことになります。712年に完成しますが、直ぐに、世の中からは消滅し、400年後に写本が発見されることになります。

上のデーターは、日本書紀に書かれているだけのデーターですが、古事記の序文と一緒に読みますと、「天武天皇は暗殺された」は真実に思えてきます。
No24で述べましたように、日本書紀の天武天皇に関する記述は、丁寧に読む必要があります。
このように考えますと、天武天皇の後、皇后が持統天皇となられたときに、吉野へ31回も行幸されています。この回数の多さは謎とされていますが、謎でもなんでもないことが判ります。
興味ありましたら、
No261 第4代 女帝持統天皇(41代天皇)   よりNo269までを読んでください。

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2006.09.22

No24古事記の序文 その3

於是天皇詔之、朕聞、諸家之所■帝紀及本辞、既違正実、多加虚偽。当今之時不改其失、未経幾年其旨欲滅。斯乃邦家経緯、王化之鴻基焉。故惟撰録帝紀、討覈旧辞、削偽定実、欲流後葉。時有舍人、姓稗田、名阿礼、年是廿八。為人聡明、度目誦口、拂耳勒心。即勅語阿礼、令誦習帝皇日継及先代旧辞。然運移世異、未行其事矣。

倉野氏の翻訳
是(ここ)に天皇詔(の)りたまひけらく、「朕(われ)聞きたまへらく『諸家の賷(もた)る帝紀及び本辞、既に正実に違(たが)ひ、多く虚偽を加ふ』といへり。今の時に当りて、其の失(あやまり)を改めずば、未だ幾年をも経ずして其の旨(むね)滅びなむとす。これすなはち、邦家の経緯、王化の鴻基(こうき)なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実(まこと)を定めて、後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ。」とのりたまひき。時に舎人(とねり)有りき。姓(うぢ)は稗田(ひえだ)、名は阿礼(あれ)、年はこれ廿八。人と為(な)り聰明にして、目に度(わた)れば、口に誦(よ)み、耳に払(ふ)るれば心に勒(しる)しき。すなはち、阿礼に勅語して帝皇日継(すめらみことのひつぎ)及び先代旧辞(さきつのよのふること)を誦み習はしめたまひき。然れども、運(とき)移り世異(かは)りて、未だ其の事を行なひたまはざりき。

言葉の意味
1. 帝紀、皇統譜や天皇に関する重要事項を書いたもの。
2. 邦家の経緯、国家行政の根本組織。
3. 鴻基(こうき)、大本、基本。
4. 帝皇日継 、帝紀と同じ。
5. 旧辞、神話、伝説。歌謡などを書いたもの。
6. 先代旧辞、旧辞と同じ。
7.  舎人(とねり)、天皇や皇子等の側近にあって雑事に勤仕した者。

翻訳
 そして天皇は、「私は聞いた。諸家にもたらされている帝紀及び本辞は、既に真実と違っている、多く虚偽が加えられていると。今この時期に、その誤りを改めねば、数年を持たずに、その本旨は滅びてしまうだろう。これは国家行政の根本であり、天皇家が存続するための基本である。ここに、帝紀を撰録し、旧辞を調べ、偽りを削り真実を見定めて、後世に伝えたいと思う。」と言われた
 時に舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼、年は二十八。人となりは聰明で、一見しただけで、すぐ口ずさめ、聞いただけで、心に記し忘れない。そこで、阿礼に天皇の命令で帝皇日継(すめらみことのひつぎ)及び先代旧辞(さきつのよのふること)を暗誦させた。しかし天皇の御世が変っても、未だこの事は行なわれていない。

この部分は、割合理解し易かったのではないかと思います。本などでは、「令誦習帝皇日継及先代旧辞」が取り上げられ、この中の「誦習」が有名です。どこにも暗記をさせたとの字句はありませんが、読んで記録するのでは、写しただけになるし、読んで記憶させたのであれば、暗記させたことになります。文章と言うものは、元来もっている意味だけを忠実に表現しても書いた人の思いは伝わりません。話し言葉であれば、はじめに持ってきたか、強く言ったか、大声で威嚇するように言ったなど、書き言葉に書く時は、書いた人がかってに、書き加えないと喋った人の気持ちを正確に表現することは出来ません。文章の場合は、その言葉が書いてある前後の文章によっても意味が異なってきます。このような意味からいいますと、私が勝手に区切って翻訳をしていることは間違っています。

このフレーズにおいて、あまり重要視されていない言葉があります。「私は聞いた」です。
この言葉は、天皇が言われた言葉です。なにを聞いたのかと言いますと、『諸家にもたらされている帝紀及び本辞は、既に真実と違っている、多く虚偽が加えられている』という事実です。これは、天皇が自分で諸家にもたらされている帝紀及び本辞を自分で読んで、『真実と違っている、多く虚偽が加えられている』ことを知ったのではありません。知った人から聞いたことになります。それも『諸家にもたらされている帝紀及び本辞』とあります。一冊ぐらいであれば、このように考えなかったでしょう。諸家とは、だれだと書きたかったでしょうが、書いていません。例えば、試しに10冊だけを取り上げてどのように、天皇家に伝わっているものと違っているかを調べさせればいいことです。ところが、それどころではなかったようです。お前ところのは、間違っていると改めさせる力は天皇に無かったことになります。そこで、せめて、調べて正しい帝紀及び本辞を作って、これがただしいものですよと、後世に伝えたいと書いてあります。随分弱気です。
 では、消極的な天皇であったかどうかは、天武天皇のことについて書き残されているもので判断するしか方法はありません。最大のものは、日本書紀です。
どの書物でもそうですが、日本書紀の作者に都合の悪いことは一切書いてありません。特に、書いたことによって、その後、損になることは一切書かないはずです。例えば、自分達が焼き討ちにでもしなかったのであれば、法隆寺が焼けたと書きます。だから、これは信頼して良い内容です。このように、書いてあることを一つずつ吟味してから、信頼できるかどうかを決め、その上で利用しなくてはいけないと思います。
 大まかな考え方を述べますと、日本書紀には、記事が多い天皇と少ない天皇がおられます。少ない天皇は、業績がなかったから書くことがなかったと考えても良いのですが、いっぱい書きたかったから書いたと考えてもいいのです。
神功皇后は天皇でもないのに、記事が多いです。雄略天皇、欽明天皇、天武天皇などです。日本書紀は、古代しか丁寧に読んでいませんから、間違っていたら訂正してください。神功皇后、雄略天皇、欽明天皇、天武天皇のところに書かれている業績は、天皇がしたことにして、本当は、中国人が行ったのではないかと考えています。考えただけで、考察していません。そんなことして何になるかと言われるかもしれませんが、私は名や名誉より、実をとったのではと思っています。
 天武天皇は、用心深い人だったのではないかと思っています。実力のある者は、どんどん採用して自分の部下を増やします。姓を与え、氏を与え、皆の心を掌握するように努めています。一方、元々の高官には、下の者の面倒を良く見るように命じています。
 家族中心で国を治めてきた天皇は、七年の五月五日に、皇子を吉野に集めて、いつまでも仲良くするように命じています。皇子の間が上手くいっていないから、このような会合を持つ必要になったことになります。十年三月十七日に川嶋皇子、忍壁皇子、広瀬王他九人に帝紀および上古の諸事を記し校訂するように命じています。
 この時点では、天皇は、諸家がもっている帝紀などを自分の目でみて、命令したと思われます。安万侶が、古事記を編纂したときに、序に書いた「私は聞いた。諸家にもたらと書いたときが、いつになるのか判りませんが、天皇は、十年三月以降には、見ることができなくなっていたことになります。天皇は十四年九月に亡っていますから、この間のことになります。
 もう一度、「令誦習帝皇日継及先代旧辞」に戻ります。私は、稗田阿礼は暗誦させられたのだと思います。暗誦しないで、調べたことを書いておいて置きますと、没収されたり、盗まれたりして無くなってしまったと思われます。それほど、天皇の周囲は、誰も信用の置けない状態にあったと思われます。天皇は、座敷牢のようなところに幽閉されていたのかもしれません。

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2006.09.20

No23古事記の序文 その2

曁飛鳥清原大宮御大八州天皇御世、濳龍体元、洊雷應期、聞夢歌而相纂業、投夜水而知承基。然天時未臻、蝉蛻於南山、人事共給、虎歩於東国。皇輿忽駕、淩度山川、六師雷震、三軍電逝。杖矛擧威、猛士烟起、絳旗耀兵、凶徒瓦解。未移浹辰、気沴自清。乃放牛息馬、愷悌帰於華夏、卷旌戢戈、儛詠停於都邑。歳次大梁、月踵侠鍾、清原大宮昇即天位。道軼軒后、徳跨周王。握乾符而摠六合、得天統而包八荒。乘二気之正、斉五行之序、設神理以奬俗、敷英風以弘国。重加、智海浩汗、潭探上古、心鏡煒煌、明覩先代。

倉野氏の翻訳
飛鳥の清原の大宮に大八州(おほやしまぐに)御(しら)しめしし天皇(すめらみこと)の御世に曁(いた)りて、潜竜(せんりょう)元(げん)を体(たい)し、洊雷(せんらい)期(き)に応じき。夢の歌を開きて業(わざ)を纂(つ)がむことを相(あは)せ、夜の水(かは)に投(いた)りて基(もとゐ)を承(う)けむことを知りたまひき。然れども、天の時未だ臻(いた)らずして、南山に蝉蛻(せんぜい)し、人事共給(そな)はりて、東国に虎歩(こほ)したまひき。皇輿(くわうよ)忽ち賀(が)して、山川を淩(こ)え渡り、六師雷(りくしいかづち)のごとく震(ふる)ひ、三軍電(いなづま)のごとく逝きき。杖矛(ぢやうぼう)威(いきほひ)を挙げて、猛士烟(けぶり)のごとく起こり、絳旗(かうき)兵(つはもの)を耀(かがや)かして、凶徒瓦のごとく解けき。未だ浹辰(しょうしん)を移さずして、気沴(きれい)自ら清まりき。乃ち、牛を放ち馬を息(いこ)へ、愷悌(がいてい)して華夏に帰り、旌(はた)を巻き戈(ほこ)を戢(おさ)め、儛詠(ぶえい)して都邑(といふ)に停まりたまひき。歳大梁(ほしたいりやう)に次(やど)り、月夾鐘(けふしよう)に踵(あた)り、清原の大宮にして、昇りて天位(あまつくらゐ)に即(つ)きたまひき。道は軒后(けんこう)に軼(す)ぎ、徳は周王に跨(こ)えたまひき。乾符(けんぷ)を握(と)りて六合(りくがふ)を摠(す)べ、天統を得て八荒(はつくわう)を包(か)ねたまひき。二気の正しきに乗り、五行の序(ついで)を斉(ととの)へ、神理を設(ま)けて俗(ならはし)を奨(すす)め、英風を敷きて国を弘めたまひき。重加(しかのみにあらず)、智海は浩汗(かうかん)として、潭(ふか)く上古を探り、心鏡は煒煌(ゐくわう)として、明らかに先代を覩(み)たまひき。

言葉の意味
1. 潜竜元体、潜入していた竜が元の姿を表わした 
2. 洊雷應期、しきりに雷がなるように、(あちこちの竜が)、活動すべき時期が到来した。
3. 業、 生業、仕事
4. 天の時、即位する時。
5. 南山に蝉蛻(せんぜい)し、吉野から蝉のようにこっそり抜け出す。 
6. 人事共給(そな)はりて、味方の軍勢も多くなり。
7. 虎歩、虎が歩くように威風堂々を進む。
8. 皇輿(くわうよ)、天皇の乗り物。
9. 賀(が)して、行幸して。
10. 六師(りく)、天子の軍。
11. 三軍、諸候の軍。
12. 絳旗(こうき)、天子の赤い旗。
13. 浹辰(しょうしん)十二日間。十二支一巡。
14. 気沴(きれい)、悪気。妖気。
15. 愷悌(がいてい)、心たのしく安らかに。
16. 華夏、中国の帝都。
17. 都邑(といふ)、帝都。
18. 歳大梁(ほしたいりやう)、酉年。
19. 夾鐘(けふしよう)、二月のこと。
20. 軒后(けんこう)、中国の黄帝。
21. 軼、過ぎる、抜け出る
22. 乾符(けんぷ)、天皇であるしるし。神器。
23. 六合(りくごう)、天地四方。宇宙全体。
24. 天統、天使の系統。皇統
25. 八荒(はつくわう)、国の八方の果て。全世界。 
26. 二気、陰陽。
27. 煒煌(いこう)、明らかに輝く。


 飛鳥の清原(きよみはら)の大宮で大八州を治められている天皇(天武天皇)の御世に至り、潜入していた竜が元の姿(正体)を表わし、しきりになる雷のように、時期を同じくして、活動をはじめた。夢の中で聞いた歌を解釈して、帝業を受け継ぐべき事を相談し、夜に川の所へ行き、すべき根本になるものを悟った。しかし、即位する時は未だ来ず、吉野から蝉が殻から抜け出すように、出発した。味方の軍勢も多くなると、東国へ虎のように威風堂々を進まれた。天皇は御輿で行幸して、山川を越えて、天子の軍は雷のごとく振るまい、諸候の軍は稲妻のごとく進んだ。杖や矛は勢いを挙げ、猛士は土煙を挙げ、天子の赤い旗は兵を輝かし、凶徒は瓦のように砕け散った。短時間の間に、悪気は自然と清まった。(中国人の凶徒は)すぐに戦争を止め、心安らかに中国の都に帰った。(天武天皇も)旗を巻き矛を収めて、舞い歌い帝都に留まった。木星が昂の方角に宿る年(酉年)、月は夾鐘(きょうしよう、二月)になり、清原の大宮で、天皇に即位された。道は中国の黄帝より優れ、徳は周王を越えている。三種の神器を得て天地四方を統一し、天津日嗣を得て国の八方の果てまで行き渡った。陰陽の正しい気に乗り、五行の秩序を整え、神の道理を施し良い風俗を勧め、優れた教化を布いて国に広めた。それだけでなく、その智は海のごとき広く、深く上古を探求し、鏡のような御心は明らかに輝き、はっきりと先代を見ておられる。

① この部分は、前回に続くものです。前回は番仁岐から始まって、神武天皇、崇神天皇仁徳天皇、成務天皇、允恭天皇までの業績を称え、天皇家が続いていることを述べています。今回は、古事記編纂に関係のある天武天皇の事を述べていますが、殆ど、壬申の乱について書いているように思われます。壬申の乱は、天智天皇の死後、天智天皇の子供である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)との皇族争いということになっています。結果的には争ったことになっていますが、中国が、郭務そうという人を責任者とし、大友皇子を天皇にして、傀儡政権を作ろうとした、日中戦争であったと捉えています。こんな突拍子な話は聞かれたことは無いと思いますが、このように考えますと、「凶徒瓦解」と書かれている「凶徒」は、中国人のことになります。
② 原文の「濳龍体元、洊雷應期」を倉野氏は、「潜竜元を体し、洊雷期に応じき」と書
てられますが、何のことか意味が判りません。この部分は、日本書紀の編纂者にも判らなかったのではないか推察しています。私が翻訳したように、日本のあちこちに居た中国人が、あちこちから一斉に蜂起した様子を、「濳龍体元、洊雷應期」と書いたのだと思いました。
③  序文は、漢文で書かれていてと説明されていますが、古事記の本文と同様に、全部漢文で理解しようとすると読めないのではないでしょうか? というものの、悔しいことに漢文の読み方を知らないので、書かれている漢字を使って文意が通じるように、翻訳をしています。
「濳龍」がどうして、潜入していた中国人かといいますと、中国人は、龍が好きだったようで、自分達の住んでいたところに「龍」の字をつけたのではないかと推察しています。もっとも、多いのは、山の名前で龍王山です。どれぐらいあるか数えたことはありません。岡山県だけで、11ヶ所あります。岡山県でカーナビにスイッチを入れて走っていると、画面で龍王山が消えるとしばらくすると又、表示されている感じです。もっとも、同じ地域をグルグル走っていますと、画面に現われますが。大阪から、北へ向かって地図で眺めてください。京都も日本海へ抜ける道に沿って眺めてください。亀岡市にもあったと思います。中国人が、龍王山の麓に住みもし、日本海をめざして絹を持って、移動を繰り返していたと推察しています。
④  兵庫県の龍野市は調べてはいませんが、気になっています。高砂市の竜山石は、奈良のように遠いところで、石棺に使われています。同じ、凝灰岩であるなら、近くにある二上山の石を使えば良いのに、高砂市から取り寄せたということは、いつの時代からか分りませんが、竜山石は中国人が支配していた石切り場であったと思われます。二上山の石切り場は、中国人によるものではなかったことになります。
⑤  ただ、この翻訳では、困ることがあります。「飛鳥の清原(きよみはら)の大宮で大八   
州を治められている天皇(天武天皇)の御世に至り」とあります。天武天皇が大八州を治めた世の中になってから壬申の乱が起こったことになります。
「曁」という字を倉野氏は、「いたりて」と読んでおられますが、「飛鳥清原大宮御大八州を目指してこられた天皇の御世に」とすれば、後の文章に繋がります。
⑥ なんだか無理のようにも思えますが、このように解釈しませんと、大友皇子が凶徒になり  
ます。この部分は、安万侶が苦心して作文したところではないでしょうか? このように書かないと古事記が没収されることは、当然ですし、安万侶も暗殺されたと思います。
安万侶の墓誌には、「723年(養老7年)7月6日に死んだ」とありますから、これは、確かでしょう。日本書紀は720年に完成しています。日本書紀を作るときに、古事記を参考にしたと思われます。理解困難なところは、安万侶に手伝わせたと思われます。勿論、安万侶は本当のことを言うはずがありません。
日本書紀の完成後、安万侶は殺されたのではないでしょうか?  日本で発見された墓誌は、これまでに、30少々だったと思います。特異なことになります。中国人の手によって、墓誌を添えて丁寧に埋葬されたのではないでしょうか?
⑦  壬申の乱が日中戦争であった話は、別のところで書きます。

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2006.09.18

No22 古事記の序文 その1

古事記の序文は、3つの部分からなっています。最初の部分の原文を挙げます。
古事記は、書かれている漢字の意味が判れば、意味が通るように作文すればいいという荒っぽいのが私の読み方です。ところが、序文の漢字は意味が判らないのばかりです。

臣安万侶言。夫混元既凝、気象未效。無名無為。誰知其形。然乾坤初分、參神作造化之首、陰陽斯開、二霊為群品之祖。所以出入幽顕、日月彰於洗目、浮沈海水、神祇呈於滌身。故太素杳冥、因夲教而識孕土産島之時、元始綿邈、頼先聖而察生神立人之世。寔知、懸鏡吐珠、而百王相続、喫剣切蛇、以万神蕃息与。議安河而平天下、論小浜而清国土。是以番仁岐命初降于高千嶺、神倭天皇経歴于秋津島。化熊出川、天剣獲於高倉、生尾遮径、大烏導於吉野。列儛攘賊、聞歌伏仇。即覚夢而敬神祇。所以称賢后。望烟而撫黎元。於今伝聖帝。定境開邦、制于近淡海、正姓撰氏、勒于遠飛鳥。雖歩驟各異、文質不同、莫不稽古以繩風猷於既頽、照今以補典教於欲絶。

少し、倉野憲司氏の訳を書きます。他の方の訳本は読んでいません。偶々、最初に求めた本が、倉野憲司氏の本でした。倉野氏は本当に謙虚な方のようで、最後のページに、5行だけ御自分のことを書いておられます。〔附記〕私が古事記の研究に志したのは、大正十二年に東大に入学したときからであって、以来今日まで四十年の間、古事記一筋に歩いてきた。今年は古事記撰上千二百五十年の記念すべき年にあたり、且つは私も還暦を迎えるに至った。この記念すべき時に、岩波文庫の一つとして古事記をだす機会を与えられた・・・・。 この後、関係者に対する謝意が続きます。
 この当時は、人生60年とみんな心に描いていたと思える頃です。倉野氏は、そういう意味では、人生を古事記にすべてをかけられたことになります。古事記を読むためには、古事記に書かれていることだけでは、正しく読むことが出来ません。日本の歴史全般、和歌や地名など、そして、中国、朝鮮をはじめとして、全世界のことも視野に入れて解き明かす必要があります。
 この古事記が出来上がった時は、倉野氏の訳を理解できる人は、大勢おられたのだと思います。
ところが、普通の本すら読む力のないわたしですと、書かれている意味が判りません。

私は、書かれている文章が、国民の70パーセント以上の人が理解できないときは、日本語で無いと思っています。そこで、昨年から、私流に古事記を読む事にしました。その方法が、二行目に書きました「古事記は、書かれている漢字の意味が判れば、意味が通るように作文すればいいという荒っぽいのが私の読み方です」です。
 勿論、プロの人からみますと、お話にならないと思いますが、自分で読むことによって、古事記を書いた人がなにを云いたかったのか、そして、そこに書いてあることを元にして、日本の歴史を正しく知りたく思っています。経験一年の者の挑戦ですから、そのつもりでお読みください。

それでは、先ず、倉野氏の訳を書いてみます。
 倉野氏の翻訳
 臣安萬侶言(しんやすまろもう)す。それ、混元既に凝(こ)りて、気象未(いまだ) 效(あらわ)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰れかその形を知らむ。然れども、乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化の首となり、陰陽ここに開けて、二霊群品の祖(おや)となりき。所以(このゆえに)、幽顕に出入りして、日月目を洗うに彰(あらわ)れ、海水に浮沈して、神祇見を滌(すす)ぐに呈(あらわ)れき。故(かれ)、太素は杳冥(ようめい)なれども、本教によりて土(くに)を孕(はら)み島を産みし時を識(し)り、元始は綿邈なれども、先聖によりて神を生み人を立てし世を察(し)ぬ。寔(まこと)に知る。・・・・以下省略・・・・。

言葉の意味
1.「臣」、家臣。 臣下。
2.「夫」、文章のはじまりを表わす言葉。
3. 「混元」、渾沌たる元気 
4.「效」は「効」の旧字。しるし、かい、きく、いたす、ならう の意味。
5.「気」は、気体。ガス状のもの。
6.「象」は、かたち、かたどる。
7.「為」は、なす。あることに手を加えてうまくしあげる。つくる。おさめる。なる。変化する。
8.「乾坤」は、天地、陰陽、いぬいとひつじさる。
9.造化、天地の万物を創造し、化育すること。
10.「斯」は、きる、さく、この、すなわち、ここに、しろい 
11.「群品」は、群れ集まっているもの。万物
12.「霊」は、みたま、かしこい、不思議な力を持つ 
13. 所以(このゆえに)—倉野氏は(このゆえに)と読んでおられますが、(このゆえに)が何のことか判りません。以はもって、所はところ。もってするところの。理由を述べるときに使うらしい。普通は「しょい」と読む。〔陰陽ここに開けて、二霊群品の祖(おや)となりき。〕だから、というぐらいの意味でしょう。
14.「幽顕」は熟語は、幽玄、幽霊、幽界です。「幽」は死後の世界。くらい夜。人知れぬところ。かすかな。などの意味です。倉野氏は、黄泉国と葦原中国と注釈に書いておられますが、これは、この後を読めばそうかもしれませんが、無理だと思います。「顕」はあきらか、はっきり見える、身分が高い。
15. 日月を、倉野氏は、天照大御神と月読神と書いておられますが、そうあれば、天照大御神と月読神がその通りでしょうが、このように読みなさいというのは、無理でしょう。精々、日と月の神ぐらいでしょうか?
16.「太素」「太」はおおきい、はるかなる、「素」もとになるもの、元素、本
17. 「杳冥」(ようめい)--「杳」は、くらい、はるか、奥深い、遠くにかすむさま。「冥」は、くらい、使者の世界
18. 太素、物質のはじめ
19. 本教、大切な教え。
20. 綿邈(めんばく)、遥かに遠い。
21. 先聖、古の聖人
22. 蕃息 しげり増えること
23. 黎元、人民、万民
24. 化熊(くわいう)、神が化身した熊。
25. 歩驟格異(ほしり)、「歩」は馬の徐行、「驟」は馬の疾行。政治に緩急のあること。
26. 文質、文彩と質朴。
27. 風猷(ふういう)、風教、道徳

上の字句の意味や、倉野氏の訳を参考にして、私流に意訳します。

 家臣である安万侶が云い述べます。はじめに、交じり合っている元になるものは、既に、凝固している。しかし、ガス状のものと、形のあるものとの区別はつかない。それらのものには、名もなく、手は加わっていない。その形を誰が知っているだろうか。
しかし、天と地が初めて分かれると、三人の神があらわれて、造化の首(はじめ)の部分を作りました。二人の不思議な力を持つ方が、万物の祖となりました。
だから、陰と陽である幽と顕である世界に出入して、日と月の神が目を洗うときに彰(あらは)れました。海水に浮沈しながら、神祇(天の神と地の神)が、(二霊が)身を滌(すす)ぐときに呈(あらは)れました。
物質の素は、暗く霞んで見えますが、昔からの法則に因(よ)って、土を孕(はら)み島が産まれた時を識(し)り、元始(この世の始まり)は綿々と続くはるか遠くにあるが、古からの聖人に頼(よ)りて、神が生まれ、人が立てた世界を察(し)ることができます。
寔(まこと)のことが判ります。鏡を懸け、珠(たま)を吐きて、百王相続き、劒(つるぎ)を喫(く)ひ、蛇(をろち)を切りて、万神が蕃息(増えた)した。
安河(やすのかは)にて合議して天下を平定しようと、小浜(をばま)において論じあって、国土(くに)を清めました。是を以(も)って、番仁岐(ほのににぎの)命、初めて高千嶺(たかちほのたけ)に降(くだ)り、神倭天皇は、秋津島(あきづしま)に経歴されました。そのとき、神が化身した熊が川に出てきて、天の劒を高倉という人に与え、手に入れます。尾のある人が径を遮ぎる程現われ、大烏が(天皇を)吉野に導きました。儛(舞)を列(つら)ねながら、賊を攘(はら)い、歌を聞ききながら、相手を従わせました。
(崇神天皇は)夢で覚って、神々を敬った。それゆえ賢い天皇と言われる。
(仁徳天皇は)炊煙を立てさせ、人民を愛撫した。今に聖帝と伝えられる。
(成務天皇は)国境を定め、国造や県主を定め、近い近江で天下を治められた。
(允恭天皇は)姓(かばね)を正し、氏(うぢ)を撰び、遠い飛鳥で天下を治められた。代々の政治に緩急の差があり、文彩と質朴の違いはあるが、古のことを考えてそれを今のありさまに照らしてみて、風教、道徳の廃れたのを正し、そして今の世でも絶えようとしているのを補わないということはなかった。
  
 いかがでしたか? 僅か、7行の原文を読むのに、大変な労力と時間を費やしました。それで満足できるものが出来たのかと言いますと、自分で書いておきながら、訳が判らない所がいっぱいです。
訳しながら、何度も考えたことは、こんな文章は、当時の人は理解できたのだろうかと考えました。
① 古事記の序は、上の部分を見る限りは、古事記の中の要約のように思えます。青い字で記しました、天皇は本文のなかにありません。しかし、入れないと意味が通じません。安万侶はすべての天皇のことを書いたのではなく、自分がすばらしいと思った天皇のみを挙げて、天皇家の素晴らしさを称えたのでしょう。
② ただ、古事記の中に書かれていることと、序に書かれていることが、合わないところがあります。參神と二霊という言葉がありますが、參神は本文に出てくる五神のうちの天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神と倉野氏はしておられます。二霊は伊邪那岐神と伊邪那美神としておられます。前三人が、どうして神で、後二人が霊なのか判りません。
古事記の本文を読んでもらうと判りますが、三人の神さんは、高天原にやって来たとのみ書いてあります。伊邪那岐神と伊邪那美神は、その後、島を作ったり、神を作っていますから、なんとなくあっていますが、「神」と書かれています。
③ 序は、序文ではなく、天皇に申し上げる上奏文であると多くのところに書かれています。だから、倉野氏も、はじめに、【臣安萬侶言(しんやすまろもう)す】と書かれたのかも知れません。
しかし、「言」と書いてあるだけですから、単に、言っただけかもしれません。この頃は、「言」と書いて、「申し上げた」の意味になるのだときっと、断言されるでしょう。
本当に、当時の人は、難しい決まりがあって、その通りに書いていたのでしょうか?
誰にも断言など出来ません。私の文章など、なってないと言われるでしょうが、言いたい人は言っておけば良いのです。
④ 番仁岐(ほのににぎの)命は、本文の方に書かれていません。
⑤ ①~④まで書いてきましたが、意味が通じないということは、参神が間違っていたり、
  上奏文であるというのが間違っていることになります。間違っていないことにしますと、序文は、
   安万侶が書いたのではないことになります。
  では、書いてあることは全部間違いであるかといいますと、それは、別問題です。変で意味が通らない所だけが、元にあった文章に手を加えたことになります。
⑥ 例えば、熟語と思われる綿邈、先聖は、私が検索した日本の辞書には掲載されていません。
  邈という漢字にいたっては、漢字すら掲載されていません。すこし、大きい辞典で調べますとありました。こんな言葉は、当時の中国人でも判らない人がいっぱいだったのではないでしょうか?  とすれば、安万侶はわざと誰も読めないようなことを書いて、煙に巻くことを試みたのかもしれません。

書いていては切がありません。間違った-翻訳では意味がありませんが、プロの倉野氏よりは、
辻褄が合う文章にしました。 

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2006.09.16

No21 古事記は何故作らなければならなかったか

この理由を考えるとき、次の二つのことを解決する必要があると思われます。誰が作ろうとしたかは、作った太安万侶本人が,「古事記上巻 并序」に書いていますから、それで解決です。依頼者はその時の天皇である天武天皇です。では、天武天皇はどうして、作る気になられたか? 先に述べました二つのこととは、この二つのことです。
 
 私は、歴史に関しては全くの素人です。ただ、面白いから考えたことを書いて、ホームページに掲載していますが、古事記の序文に、次のように書いてありますと前書きを書きましたら、プロの方でしょうか? 古事記に序文などありませんと、注意を受けました。
 調べてみましたら、「古事記上巻 并序」は、古事記上巻に併せて序するぐらいの意味でしょうか。「序」は、のべる ついで はしがき と辞書には書かれており、やはり序文のように思えますが、序文のときは、「并」はつけないのだと書いてありました。なるほど、同じようなことがどこかにも書いてあったような気がします。
ということは、「古事記上巻 并序」は、太安万侶が書いたのではなく、誰かが、勝手に書いたのだということらしいです。それどころか、古い論文では、太安万侶という人は実在しなかった。その理由は、最後の署名の上に書かれた位です。「正五位上勲五等」ですが、このような言い方はしなかった。自分の位を間違えることは有り得ないから、これは、偽物である。ざっと、こんな調子です。
 自分が考えたことと違うことを考えた人を許すことは出来ないらしいようです。そこで、「古事記」と名前が付く本が、次から次に出版されることになります。「邪馬台国」の本も、100冊以上になるでしょう。はじめのうちは、購入して読んでいましたが、止めることにしました。
「太安万侶という人は実在しなかった」という説は、駄目になりました。奈良の山辺の道沿いで太安万侶の墓が見つかったからです。なぜ判ったかといいますと、墓誌が一緒に出土したからです。次が、その時の報道の一部です。「安間呂昭和五四年一月二二日、奈良市田原此瀬町四四四、農業、竹西英夫さん(六一)が、自宅の裏山の茶畑に埋もれていた、太安万侶の墓誌を発見した」
 その時の新聞のコメントがいろいろです。
①大阪教育大学教授(古代史)=鳥越憲三郎氏は「墓誌の中に古事記に関する記述がないのも問題だ。論争を呼ぶことになる。
②古事記の権威=倉野憲司の「偽書説は否定される」という小見出しのついた、氏の次のコメントは、当時の新聞報道の基調をなすものといえよう。
③作家=松本清張氏は、「安萬侶はもとから実在の人物であり、墓の存在は当然だが、文献だけの人物がその存在を実証された意味は大きい。 私は以前から阿礼の存在を疑問だと思っているが、今回の発見は阿礼の虚構性に関して直接の関係がなく参考にならない」
④古代史研究家=大和(おおわ)岩雄氏は、「、「編者説の証明でない」という小見出しで、古事記序文が安万侶の作でないと」の小見出しに続いて長いコメントを寄せています。

そのコメントは判り易いです。長年、古事記は当然実在したものとして、研究を重ね、古事記の翻訳本を書かれた倉野憲司としては、当然のコメントです。偽物であれば、偽物に人生を掛けられたことになります。
後の三人は、どのような本を書いてこられたか判りませんが、すべて検討を加えますと、きっと、古事記は偽物、または、古事記の序は本物では困ることになると思われます。偽物でないと、やはり、それまでの業績は飛んでしまうのかもしれません。
私は、別にどちらでも構いません。
なにを考えたかといいますと、現在でも、人それぞれ立場によって、そうであってもらわなければならない時は、あるという事です。四人ともプロですから、今更引き下がるわには行きません。
古事記が作られたときも、同じことで、日本書紀を書こうとする人たちは、相当、無理を承知で日本書紀を作ろうとしたのではないかと想像しています。
日本書紀にも、当然、序文は書かれるはずでした。ところが、トップの藤原不比等の病状が思わしくなく、急遽発刊を発表したのではないかと想像しています。日本書紀ができたのも、藤原不比等が亡くなったのも、720年です。少し、考えが浅いでしょうか? 藤原不比等は力を入れすぎたのではと推察しています。

 なんだかお茶の間の話になりましたが、古事記も日本書紀も、中心を流れる考え方ははじめから、最後まで一貫しているのではと思っています。

「古事記上巻 并序」は偽書であるとか、阿礼はいなかったとなりますと、古事記が成立した要因は、皆目分からなくなります。
私は、「古事記上巻 并序」をヒントにして、解き明かしていきたく思っています。
先ずは、次回から、「古事記上巻 并序」の解明からです。

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2006.09.14

No 20 神生み 日本書紀の場合 その3

日本書紀の神生みのところの別書をもう一度記します。
第1書 伊奘諾尊のいわれるのに、「私は天下を治めるべきすぐれた子を生もうと思う」とおっしゃって、そこで左の手で白銅鏡をおとりになったときに、お生まれになった神が大日孁尊である。また首を回して後をごらんになった丁度そのときに、お生まれになったのが素戔鳴尊である。このうち大日孁尊と月弓尊は、共にひととなりがうるわしいので天地を照らし治めさせられた。素戔鳴尊は、性質が物をそこないこわすのを好むところがあった。だから下にくだして根の国を治めさせた。

第2書 日と月が生まれられたあとに蛭児が生まれた。この児は年が三つになっても脚が立たなかった。はじめ伊奘諾尊と伊奘冉尊が、柱を回られたときに、女神が先に喜びの言葉をいわれた。それが陰陽の道理にかなっていなかった。そのため蛭児がうまれた。次に素戔鳴尊が生まれた。この神は性質が悪くて、常に泣いたり怒ったりすることが多かった。国民が、多く死に、青山を枯山にした。それで両親が「もしお前がこの国を治めたとしたら、きっとそこないやぶることが多いだろう。だから、お前は大へん遠い根の国を治めなさい」といわれた。次に鳥磐櫲樟船(丈夫な樟の船)を生み、この船に蛭児を乗せて放流した。次に、火の神の軻遇突智を生んだ。そのとき伊奘冉尊は、軻遇突智のためにやけどをして、お亡くなりになった。その亡くなろうとされるときに、横たわったまま土の神、埴山姫と水の神罔象女(みつはのめ)を生んだ。軻遇突智は埴山姫をめとって稚産霊を生んだ。この神の頭の上に蚕と桑が生じた。臍の中に、五穀が生まれた。

第3書  伊奘冉尊が、火産霊を生むとき、子のために焼かれて死んだ。その神の死なれようとするときに、水神罔象女と土神埴山姫を生み、また天吉葛を生んだ。

第4書 伊奘冉尊が、火の神軻遇突智を生もうとするとき、熱に苦しめられ嘔吐した。これが神となり、名を金山彦という。次に小便をされ、それが神となった。

第5書 伊奘冉尊が、火の神を生むときに、からだを焼かれてお亡くなりになった。それで紀伊国の熊野の有馬村に葬った。土地の人がこの神をお祭りするには、花のときに花をもってお祭りし、鼓・鼓・旗をもって歌舞してお祭りする。

第6書 伊奘諾尊と伊奘冉尊とは、協力して大八洲国を生み出された。そして、伊奘諾尊がいわれるのに、「われらの生んだ国は、朝霧がかかっているが、よい薫がいっぱいだ」といって、霧を吹き払らわれたら、その息が神になった。名づけて級長戸辺命(しなとべのみこと)という。別名を級長津彦命という。これは風の神である。また飢えて気力のないときに生んだ子を、倉稲魂命という。また生んだ海の神たちを、少童命(わたつみのみこと)という。山の神たちを山祇(やまつみ)という。海峡の神たちを速秋津日命という。木の神たちを句句廻馳という。土の神たちを埴安神(はにやすのかみ)という。そして後に万物が生まれた。火の神軻遇突智が生まれるとき、その母伊奘冉尊は、身を焼かれておかくれになった。そのとき、伊奘諾尊が恨んでいわれるのに、「ただこの一人の子のために、わが愛妻を犠牲にしてしまった」と。そして、頭のあたり脚のあたりを這いずって、泣き悲しみ涙を流された。その涙が落ちて神となった。これが丘の上の樹の下においでになる神で、啼沢女命という。
 今回は、古事記と別書に共通にある言葉を上げてみます。ただ、日本書紀は古事記と同じと思われる言葉であっても漢字をすべて変えていますから、古事記にかかれている言葉で書いて後に( )の中に、日本書紀に書かれている言葉を併記します。

古事記と日本書紀本文に共通にある言葉--伊邪那岐(伊奘諾尊)、久久能智(ククチ)神(句句廼馳)、

古事記と第1書に共通にある言葉---伊邪那岐(伊奘諾尊)、

古事記と第2書に共通にある言葉---伊邪那岐(伊奘諾尊)、伊邪那美神(伊奘冉尊)、鳥之石楠船神(鳥磐櫲樟船)、迦具土神(軻遇突智)、和久産巣日神(稚産霊)、彌都波能売神(水神罔象女)(ミツハノメ)
 
古事記と第3書に共通にある言葉---伊邪那美神(伊奘冉尊)、彌都波能売神(水神罔象女)(ミツハノメ)

古事記と第4書に共通にある言葉---伊邪那美神(伊奘冉尊)、迦具土神(軻遇突智)、多具理迩(タグリニ)(嘔吐)、金山毘古神(金山彦)、尿(小便)

古事記と第5書に共通にある言葉---伊邪那美神(伊奘冉尊)、

古事記と第6書に共通にある言葉---伊邪那美神(伊奘冉尊)、迦具土神(軻遇突智)、久久能智(ククチ)神(句句廼馳)、泣澤女神(啼沢女命)(ナキサワメ)、妹速秋津比売神(速秋津日命)

① 鳥之石楠船神(鳥磐櫲樟船)は、古事記では神として生まれていますが、日本書紀では神ではなく船として扱っています。
② 迦具土神(軻遇突智)のために、イザナミが死んだことは、共通していますが、熱に苦しめられて嘔吐した。焼かれて死んだ。身を焼かれておかくれになった。(以上、日本書紀)みほと焼かれて病み臥せり。(古事記)
③ 泣澤女神(啼沢女命)のこと。
   古事記では、「御涙に成れる神は、香山の畝尾の木の本にまして、泣澤女神と名づく」と書いています。
日本書紀・第6書では、「頭のあたり脚のあたりを這いずって、泣き悲しみ涙を流された。その涙が落ちて神となった。これが丘の上の樹の下においでになる神で、啼沢女命という」
それがどうしたと言われそうですが、稗田阿礼は、この神社へも実際に行ったのだと思います。だから、天の香具山の麓の畝尾の木之本という地名におられます神で、名前は泣澤女神と名づけましたと書きました。
おかしいですね。日本書紀の作者も神社の名前は知っていたはずです。
No18 において詳しく書きました。その神社の所在地と神社の名前は、奈良県橿原市木之本町114に、畝尾都多本神社という名前であります。
畝尾都多本神社の「都」は「津」と一緒で、「の」の意味です。畝尾の多本という神社を表わしています。
それを日本書紀では、「丘の上の樹の下においでになる神」と書きました。
香具山の丘の上にある樹(木)の下(本)においでになると書き換えました。
日本書紀に書かれている「丘の上の樹の下においでになる神」を「香山の畝尾の木の本にまして」と書き換えることは不可能です。このように、奈良県橿原市木之本町114に鎮座されている泣澤女神でも、書き換えたことが判ると思います。
このような事を書きますと、この古事記を読んでから、神社も無理やり作ったのだといわれる方が必ず出るはずです。しかし、この古事記が世の中に知られるようになったのは、江戸時代になってからです。No18に書きましたように、万葉集に残っているのも事実ですから、泣澤女神に関しては、日本書紀が古事記を見て書き換えたことが判ります。もっとも、日本書紀・日本書紀・第6書に書いてあるだけで、日本書紀の編集者が書き換えたことにはなりません。第6書を書いた人が、古事記を参考にして書いたことになります。
④  そうなりますと、第6書を追求したくなります。
「「われらの生んだ国は、朝霧がかかっているが、よい薫がいっぱいだ」といって、霧を吹き払らわれたら、その息が神になった。名づけて級長戸辺命(しなとべのみこと)という。別名を級長津彦命という。これは風の神である」
訳の判らないことが書いてあります。しかし、全く訳が判らないのではありません。
古事記に書かれていることで、霧のことが書いてあります。No16 をご覧ください。
「次に生れる風の神名は志那都比古(シナツヒコ)神」を見ることができます。第6書には、「霧を吹き払らわれたら、その息が神になった。名づけて級長戸辺命(しなとべのみこと)という」があります。「級長」をどうして「しな」と読むことができるのでしょうか?
翻訳者の宇治谷孟氏は、どこかで関連を見つけられたのだと思います。古事記には、天之狹霧神と國之狹霧神を生んだことが書かれています。ずっと、後のところで、アマテラスとスサノオが狹霧から子供を産んで、勝負に決着をつける場面があります。このような事も、後ほど関係してくるのかも知れません。
④ まだまだありますが、退屈ですので、これぐらいで終わりたいと思いますが、No16に書かれている神のうち、殆どは、日本書紀に登場しないことを確認して頂ければと思います。古事記は、日本書紀や他の書物を参考にして作られたのではなく、稗田阿礼と太安万侶が、古事記を作っても焼かれることの無いように、正しい帝紀を伝えたいために、完成させたものだと思います。
そんなことをされたのでは、今後、日本を支配していくことが出来ませんので、それに変わるものとして、日本書紀を編纂したと思われます。その目論見は成功して、現在でも、日本書紀は正式の日本の歴史書として使われており、古事記は、一時言われた偽書である汚名は、無くなりつつありますが、歴史書としては、信頼おけない書物とされています。

以上ですが、こんないい加減な話は、聞きたくないと思われたと思います。それでは、どうして、このような考え方になったか、今後は、しばらく、記紀の比較から離れて、天武天皇がどうして、古事記の編纂を決心されたかを書いてみようと思います。

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2006.09.12

No 19 神生み 日本書紀の場合 その2

No17において、日本書紀の本文にあたる「神生み」をみました。今回は、別書6までに検討を加えます。飛ばさないで、全部書きます。(宇治谷孟著 日本書紀より)

第1書 伊奘諾尊のいわれるのに、「私は天下を治めるべきすぐれた子を生もうと思う」とおっしゃって、そこで左の手で白銅鏡をおとりになったときに、お生まれになった神が大日孁尊である。また首を回して後をごらんになった丁度そのときに、お生まれになったのが素戔鳴尊である。このうち大日孁尊と月弓尊は、共にひととなりがうるわしいので天地を照らし治めさせられた。素戔鳴尊は、性質が物をそこないこわすのを好むところがあった。だから下にくだして根の国を治めさせた。

第2書 日と月が生まれられたあとに蛭児が生まれた。この児は年が三つになっても脚が立たなかった。はじめ伊奘諾尊と伊奘冉尊が、柱を回られたときに、女神が先に喜びの言葉をいわれた。それが陰陽の道理にかなっていなかった。そのため蛭児がうまれた。次に素戔鳴尊が生まれた。この神は性質が悪くて、常に泣いたり怒ったりすることが多かった。国民が、多く死に、青山を枯山にした。それで両親が「もしお前がこの国を治めたとしたら、きっとそこないやぶることが多いだろう。だから、お前は大へん遠い根の国を治めなさい」といわれた。次に鳥磐櫲樟船(丈夫な樟の船)を生み、この船に蛭児を乗せて放流した。次に、火の神の軻遇突智を生んだ。そのとき伊奘冉尊は、軻遇突智のためにやけどをして、お亡くなりになった。その亡くなろうとされるときに、横たわったまま土の神、埴山姫と水の神罔象女(みつはのめ)を生んだ。軻遇突智は埴山姫をめとって稚産霊を生んだ。この神の頭の上に蚕と桑が生じた。臍の中に、五穀が生まれた。

第3書  伊奘冉尊が、火産霊を生むとき、子のために焼かれて死んだ。その神の死なれようとするときに、水神罔象女と土神埴山姫を生み、また天吉葛を生んだ。

第4書 伊奘冉尊が、火の神軻遇突智を生もうとするとき、熱に苦しめられ嘔吐した。これが神となり、名を金山彦という。次に小便をされ、それが神となった。

第5書 伊奘冉尊が、火の神を生むときに、からだを焼かれてお亡くなりになった。それで紀伊国の熊野の有馬村に葬った。土地の人がこの神をお祭りするには、花のときに花をもってお祭りし、鼓・鼓・旗をもって歌舞してお祭りする。

第6書 伊奘諾尊と伊奘冉尊とは、協力して大八洲国を生み出された。そして、伊奘諾尊がいわれるのに、「われらの生んだ国は、朝霧がかかっているが、よい薫がいっぱいだ」といって、霧を吹き払らわれたら、その息が神になった。名づけて級長戸辺命(しなとべのみこと)という。別名を級長津彦命という。これは風の神である。また飢えて気力のないときに生んだ子を、倉稲魂命という。また生んだ海の神たちを、少童命(わたつみのみこと)という。山の神たちを山祇(やまつみ)という。海峡の神たちを速秋津日命という。木の神たちを句句廻馳という。土の神たちを埴安神(はにやすのかみ)という。そして後に万物が生まれた。火の神軻遇突智が生まれるとき、その母伊奘冉尊は、身を焼かれておかくれになった。そのとき、伊奘諾尊が恨んでいわれるのに、「ただこの一人の子のために、わが愛妻を犠牲にしてしまった」と。そして、頭のあたり脚のあたりを這いずって、泣き悲しみ涙を流された。その涙が落ちて神となった。これが丘の上の樹の下においでになる神で、啼沢女命という。

読んでいただけましたか? 宇治谷氏には、悪いですが、これを訳されるには、相当苦労されたと思います。私は書き移しただけですが、疲れました。しかし、移しながら、いっぱい考えました。日本書紀の人は、随分頭を使われただろうなと。
日本書紀をつくるときに、より正確にするために、制作している時点で、存在した資料(書物)を全部書いたとしますと、6冊あったことになります。日本書紀を仕上げるには、当然、この6冊に書かれていることを参考にして書いたと思われます。
日本書紀の本文に当たる部分は No17書きましたのでご覧ください。意味がよく判ります。
皆さんはどのように思われますか? 日本書紀の作者は、全体の流れが、判るように作ったのではないかと推察しています。
 今回は、違った手法で比較を試みようと思います。
日本書紀の本文と他の一書とどこが同じであるかを見ます。(違う所は多すぎますので省略)

本文と第1書に共通にある言葉、伊奘諾尊、大日孁尊、天地、素戔鳴尊、根の国
本文と第2書に共通にある言葉、伊奘諾尊、蛭児、素戔鳴尊、根の国
本文と第3書に共通にある言葉、伊奘冉尊
本文と第4書に共通にある言葉、伊奘冉尊
本文と第5書に共通にある言葉、伊奘冉尊
本文と第6書に共通にある言葉、伊奘諾尊、伊奘冉尊、大八洲国

 なにが判りましたか?  私が気になったことを書いて見ます。
① 確かではありませんが、3~5 までは、全く共通の言葉がありませんから、参考にしなかったことは確かです。1、2、6は参考にしたかも知れないし、参考にしなかったかも知れません。
② No17の本文のところに、「そこで、ともに日神を生んだ。大日孁貴と言う。一書では天照大神と言い、一書では天照大日孁尊と言う」という文章があります。6冊の本には、天照大神も天照大日孁尊もありませんから、6冊以外に、まだ2冊あったことになります。それならば、その2冊も書けば良いのに書いていません。
③ 第2書を入れたのは、陰陽の道理のことを知って貰おうとしたはずです。日神と月神です。そこで、日神は、大日孁貴、天照大神、天照大日孁尊を書きました。次は月神です。本文には書かないで、一書にあると断って、月弓尊、月夜見尊、月読尊を書きました。一書として書かれている6冊には、第1書に月弓尊があるのみです。月夜見尊、月読尊は、6冊以外の書物に書かれていることになります。
④ 蛭児のこと。これは、日本書紀の作者は気になったと見えます。本文では、日神、その次に月神が生まれます。三番目が蛭児だと書いています。三歳になっても脚が立たなかったので天磐櫲樟船に乗せたと書いてあります。三歳になっても脚が立たなかった話は、
  第2書にも書いてあります。ただ、第2書では、天磐櫲樟船ではなくて、鳥磐櫲樟船に乗せたとあります。
私の心が曲がっているのでしょうか?  三番目に重要な子どもでしたが、三歳になっても脚が立たなかったので 立派な天磐櫲樟船に乗せて追放したことを後押しするために、 第2書を書いたように思えてなりません。
蛭児は気になったが、なんのことか判らなかったと思われます。
No11をご覧ください。これは、古事記に書かれている事です。最後に、太文字にしておきました。「生子水蛭子。此子者入葦船而流去。次生淡嶋。是亦不入子之例」
この部分の前のところも読んで頂けましたか。この部分は、オノコロ島と水蛭子と淡島のことを述べています。明らかに、イザナギとイザナミにとって、もっとも重要な島について書いたものだと思われます。従いまして、水蛭子も島だと思います。私はヒルゼン高原のどこかに、皆が住む集落を作ったのだと思います。ところが、洪水で旭川に流されて全滅したのではないかと思います。しかし、この三つの島は、大八洲国には入れませんと断ったのです。この三つは、自分たちの力だけで、建設しました。
⑤ 根の国のこと。
本文では、根の国に追放したことになっています。第1書では、根の国を治めさせたとあります。第2書でも、根の国を治めさせたとあります。本当は、治めさせたが正しいのですが、第1書と第2書で補うことにして、本文では追放したことになっています。
日本書紀の作者は、スサノオは追放したことにしたかったのですが、スサノオが根の国を治めたことは、有名でしたので、「根の国を治めさせた」と書いた本は、他に2冊ありますと知らせようとしたのだと思います。
 

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2006.09.09

No 18 神生み 古事記の場合

No17において、次回は、続きを書きますとしましたが、日本書紀には、カグツチ(軻遇突智)のことが、書かれていますから、古事記の方もカグツチ(迦具土神)のことが書いてある部分を眺めます。
日本書紀の作者は、古事記の国生みには、困ったようです。No16に登場する神は、なんのことか判らなかったようです。「古事記」の翻訳者である倉野氏も判らなかったらしく、注釈にいっぱい書いておられます。
例えば、石土毘古は、石や土の神格化か。大屋毘古神は、家屋の神格化か。水戸神は、河口を掌る神。これは自信があって、(か)がついていません。 「河口を掌る神」とはなにを意味するのでしょう。この神は、河口のなにを守ったのでしょう。河口の安全といわれると思います。大綿津見神という海の神が生まれています。この神では、だめなのでしょうか? いや、川の神は別です。しかし、後を見ても、河口の神はおられても、川の神は生まれていません。イザナギとイザナミは、あらゆる神を作ったのではないと思います。
稗田阿礼が、天武天皇から古事記の編纂の手伝いを依頼されたときに、あちこちにある神社を探し巡りました。そのとき祀られていた神さんを順序よく並べて、島が生まれ、神が生まれたと構成して古事記を完成させたのだと思われます。
その神を何故祀っていたかは、祀っていた人にしか判らないのに、無理やり、何の神だと解釈をしようとするから間違うのだと思います。日本書紀の作者は、お手上げですから、これらの神を書くことを止めました。書くとすれば、精々、漢字を変えるしかないからだと思ったでしょう。ストーリを変えました。読み比べてください。全く違っています。既に、書きましたように、アマテラス、ツキヨミ、スサノオの登場の仕方は、全く違っています。古事記では、イザナギが、死んでしまったイザナミに会いに行って、逃げ帰る途中に、川で禊をしているときに、三人が生まれたことになっています。

前置きが長すぎました。では、古事記では、まだまだ、神が生まれます。
故ここに伊邪那岐命詔りたまひしく、「愛しき我が汝妹の命を、子の一つ木に易へつるかも」と詔りたまひて、すなはち御枕方に匍匐(はらば)ひ、御足方に匍匐ひて哭(な)きし時、御涙に成れる神は、香山の畝尾の木の本にまして、泣澤女神と名づく。故、その神避りし伊邪那美神は出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬りき。
 
泣澤女神を祀る神社は、奈良の奈良県橿原市木之本町114に、畝尾都多本神社という名前であります。
万葉集に、「原文: 哭澤之 神社尓三輪須恵 雖祷祈 我王者 高日所知奴」。意訳は「哭澤の神社に神酒すゑ祷祈れども わご王は高日知らしぬ『巻ニ-ニ〇ニ』
伝 桧隈女王 とあります。
 哭澤の社にお神酒を供え、回復を祈ったのに、高市皇子はお亡くなりになったと、桧隈女王が高市皇子を嘆いて詠ったことになっています。これは持統10年(696年)の事ですから、古事記が完成した712年には、勿論、泣澤女神は畝尾都多本神社に祀られていたことになります。このように有名であった泣澤女神を日本書紀の編纂者は知っていたはずですが、泣澤女神が涙から生まれたことを、日本書紀の本文に取り込むことはできなかったのだと思われます。別書では取り上げていますから、後ほど検討します。
泣女は喪主に代わって泣き悲しむ女で、朝鮮半島には現在もその風習が残っています。 それが、日本に伝わったと見え、その証拠として、日本書紀では、允恭天皇が亡くなると,新羅国の王が弔いの使いを大和に遣わしたことを記しています。又、欽明天皇の死にあたって,新羅が弔の使いを遣わして殯に「奉哀る」と書いています。又、天智天皇の死のときに、唐の郭務宗が、筑紫で3回「挙哀(みねたてまつる)」とあります。これは、すべて、中国や新羅の人が、現在で言うお悔やみをいう儀式のようだったと思われます。
 ところが、「石長比売神は寿命を司り、泣澤売神は命乞いの神なり」と 平田篤胤が言ったように、神社の伝えにあるそうですし、万葉集には、神酒を供えて、祈ったのに駄目だったと詠んでいますから、命を助けてくれる神であると信じられていたのだと思われます。

話が変なほうへいきましたが、元に戻します。
日本書紀の人たちは、「愛しき我が汝妹の命を、子の一つ木に易へつるかも」が判らなかっ
たのではないでしょうか? 原文は、「愛我那邇妹命乎 謂易子之一木乎」です。倉野憲司
氏は、「愛しいわが妻を、子ども一人にかえたことであることよ」と書いておられます。他
の方は、一木をカグツチとしておられます。カグツチと命を交換したようなものだと。
 カグツチは、イザナミが最後に生んだ神の名前です。この神の所為で、イザナミはその後、病気になって死亡します。

又、古事記に戻ります。
 ここに伊邪那岐命、御佩(はか)せる十拳剣(とつかのつるぎ)を抜きて、その子迦具土神の頚を斬りたまひき。ここにその御刀の前に着ける血、湯津石(ゆついわ)村に走り就きて、
成れる神の名は、石拆神。次に根拆神。次に石筒之男神。次に御刀の本に著ける血も亦、湯津石村に走り就きて、成れる神の名は、甕速日神。次に樋速日神。次に建御雷之男神。亦の名は、建布都神。亦の名は、豊布都神。次に御刀の手上に集まれる血、手俣より漏き出でて、成れる神の名は、闇淤加美神。次に闇御津羽神。
 上の件の石拆神以下、闇御津羽神以前、併せて八神は、御刀によりて生れる神なり。
この後にも生みます。横に並べますと、読むしりから忘れますので、縦に並び変えます。

 
石折神(いはさくのかみ)
根折神(ねさくのかみ)
石筒之男神(いはつつのをのかみ)
以上三柱の神は、十拳剣の先端からの血が岩石に落ちて生成された神々である。
甕速日神(みかはやひのかみ)
樋速日神(ひはやひのかみ)
建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)
別名は、建布都神(たけふつのかみ) 別名は、豊布都神(とよふつのかみ)
以上三柱の神は、十拳剣の刀身の根本からの血が岩石に落ちて生成された神々である。
闇淤加美神(くらおかみのかみ)
闇御津羽神(くらみつはのかみ)
以上二柱の神は、十拳剣の柄からの血より生成された神々である。

また、カグツチの死体から、以下の神々が生まれた。
正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ、迦具土神の頭から生まれる)
淤縢山津見神(おどやまつみのかみ、迦具土神の胸から生まれる)
奥山津見神(おくやまつみのかみ、迦具土神の腹から生まれる)
闇山津見神(くらやまつみのかみ、迦具土神の性器から生まれる)
志藝山津見神(しぎやまつみのかみ、迦具土神の左手から生まれる)
羽山津見神(はやまつみのかみ、迦具土神の右手から生まれる)
原山津見神(はらやまつみのかみ、迦具土神の左足から生まれる)
戸山津見神(とやまつみのかみ、迦具土神の右足から生まれる)

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2006.09.07

No 17 神生み 日本書紀の場合

日本書紀は、古事記と同様に、国が出来た様子を述べた次に、神が生まれた様子を述べています。長いので、その一部を検討します。
次の文は、読まれなくて結構です。原文をあげておきます。
次生海。次生川。次生山。次生木祖句句廼馳。次生草祖草野姫。亦名野槌。既而伊弉諾尊。伊弉冊尊共議曰。吾已生大八洲國及山川草木何不生天下之主者歟。於是共生日神。號大日孁貴。〈大日孁貴。此云於保比屡■能武智。■音力丁反。一書云。天照大神。一書云。天照大日孁尊。〉此子光華明彩。照徹於六合之内。故二神喜曰。吾息雖多。未有若此靈異之兒。不宜久留此國。自當早送于天而授以天上之事。是時天地相去未遠。故以天柱擧於天上也。次生月神。〈一書云。月弓尊。月夜見尊。月讀尊。〉其光彩亞日。可以配日而治。故亦送之于天。次生蛭兒。雖已三歳脚猶不立。故載之於天磐櫲樟船而順風放棄。次生素戔鳴尊。〈一書云。神素戔鳴尊。速素戔鳴尊。〉此神有勇悍以安忍。且常以哭泣爲行。故令國内人民。多以夭折。復使青山變枯。故其父母二神勅素戔鳴尊。汝甚無道不可以君臨宇宙。固當遠適之於根國矣。遂逐之。
■ の部分は、上手く表示できません。

次に海を生んだ。次に川を生んだ。次に山を生んだ。次に木の祖である句句廼馳を生んだ。次に草の祖である草野姫を生んだ。またの名は野鎚。そして伊弉諾尊と伊弉冊尊は相談して、「我々はすでに大八洲國や山川草木を生んだ。どうして天下の主たる者を生まないのか」と言った。そこで、ともに日神を生んだ。大日孁貴と言う。一書では天照大神と言い、一書では天照大日孁尊と言う。この子は華やかに光り輝いていて国中に照り渡った。そこで二神は喜んで、「我々の子は多いけれど、このように奇異な子は未だいなかった。長くこの国に留めおくのは良くない。此れから早く天に送って、天上の仕事を授けよう」と言った。この頃、天地は未だ遠く離れてはいなかった。そこで天柱を使って天上に送り上げた。
 次に月神を生んだ。一書では月弓尊、月夜見尊、月読尊と言う。その光り輝いているのは日に次いでいた。そこで日と並んで治めるべきであると、また天に送った。
 次に蛭児を生んだ。三歳になっても脚がまだ立たなかった。そこで天磐櫲樟船に載せて風のままに放ち棄てた。
 次に素戔鳴尊を生んだ。一書では神素戔鳴尊、速素戔鳴尊と言う。この神は勇敢であり残忍なこともあった。また常に泣きわめくような行動もあった。そのため国中の人々を多く若死させた。また青山を枯れさせた。
 そこで、その父母の二神は素戔鳴尊に、「おまえは全く手がつけられない。世界に君臨すべきではない。遠い根国に行け」と命じて、ついに追いやった。

以上が、上に書きました本文の訳のつもりですが、それほど間違っていないように思います。なぜかと言いますと、意味が比較的よく判るからです。
ただ、おかしいところはあります。始めに、海があったので、矛を突っこんでかき混ぜ、矛を持ち上げたときに、滴がこぼれて、その潮が固まって国が出来たことになっています。であるから、海ははじめからあったのに、次に海を生んだとあります。
白地図に絵を描くようなものです。川、山を書き込みます。その山に草木を植えます。
全部完成したから、この地を治める人を生もうと相談したことになっています。
 太陽のように輝く大日孁貴を生み、夜を照らす月のような月神を生みました。
あまりにも、素晴らしい神だったので、そこで天柱を使って天上に送り上げたとあります。天地は未だ遠く離れてはいなかったので、送り届けることが出来たと書いてあります。理屈はすべて合っています。
その二神に対して、役立たずの蛭児が生まれた。そこで、壊れて戻ってこないように、磐のように丈夫な船に乗せて流し去りました。私が勝手にこのように訳しました。原文には、「天磐櫲樟船」と書いてあります。古事記では、単に葦舟に乗せて流したとあります。日本書紀の編集者は、葦舟ではなく、「天」の字を付け加えたのでしょう。どうして磐のように硬い櫲樟船にしたのでしょう。イザナギとイザナミは、葦舟を使っていた人ということになります。(ベトナムでは使われていたと倉野氏は注釈に書いておられます。中国の南の方でも使われていたようです) 
No16をご覧ください。古事記は「次に、鳥之石楠船(イワクスブネ)神を生んだ。亦の名は、天鳥船と謂う」と書いています。これは神さんの名前ですが、日本書紀は、蛭児を乗せた船の種類を、ここに書かれた二つの船の名前を合体させたことが判ります。
もし、古事記が日本書紀に書かれている「天磐櫲樟船」から、鳥之石楠船神という名の神が生まれたとは書く事は出来ません。そして、その別名が天鳥船との考えも浮かんできません。
このことから、明らかに、日本書紀を作るときに、古事記を参考にしたことになります。
ただ、第二の別書に、「鳥磐櫲樟船」が書かれていますから、こちらを参考にしたのかもしれません。「天磐櫲樟船」の「天」は、天つ神や高天原の「天」だと思います。日本書紀の人たちは、嫌った言葉なのに使いました。「天柱」も自分達で作って使いました。「天柱」は天上へ通じる柱ということで、「天柱」ができたと思われますが、天鳥船は、天上で行くための舟ではありません。これは、天(滇)の人が乗る、舳先に鳥を飾った舟のことだと思います。
次に生まれた素戔鳴尊は、他の書物では、神素戔鳴尊、速素戔鳴尊というように、尊敬の「神」と「速」が名前に付けられていますが、「おまえは全く手がつけられない。世界に君臨すべきではない。遠い根国に行け」と命じたことになっています。
 古事記では、「吾は子を生み生みて、生みの終てに三柱の貴き子を得つ」と書いているのと、随分違います。
日本書紀では、日神と月神を生んだことがメインになっています。そして、この二神は、イザナギとイザナミが居たところではなく、天上に送ったことになっています。天柱を使うとは?。どういうことでしょうか? 日神と月神を天柱に乗せたら、エスカレーターのように自動的にのぼっていったということでしょうか? この前に御柱が、天上と地上を結ぶように書いてありましたから、御柱とも考えましたが、そうでもなさそうです。
折角、辻褄が合う文章でしたが、この辺りから、怪しくなってきました。

確かなことは、日本書紀の編集者は、日神が大日孁貴であることは書きましたが、天照大神と
月弓尊、月夜見尊、月読尊などの名前は、他の本には書いてあるがと断りを入れながら、本文に書くのは嫌であったことが判ります。
続きは、次回にします。

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2006.09.05

No 16 神を生みます

日本の島々を生み終えたイザナミとイザナギは、神を生みます。この部分は、比較検討するのはやめようかと思いましたが、やはり飛ばさないで置きます。何故、飛ばそうかと思ったかといいますと、延々と神さんの名前の羅列ばかりだからです。二人が生んだ島は、14島。生んだ神は、35神だと古事記のこの部分の最後に書いてあります。この35人の神を14島に派遣したのだと考えていましたが、どうやら、そうでもなさそうです。
先ず、古事記の方から、読んでみます。
原文を知りたい人は、こちらへ→ http://homepage1.nifty.com/o-mino/page255.html

既に国を生み竟(オ)えて、更に神を生んだ。 
その生まれた神の名は、  大事忍男神(オオコトオシヲノカミ)です。
次に生れたのは、     石土毘古神(イワツチヒコノカミ)。
次に生れたのは、     石巣比賣神(イワスヒメノカミ)。
次に生れたのは、     大戸日別神(オオトヒワケノカミ)。
次に生れたのは、     天之吹(上)男神(テンノフキオトコノカミ)。
次に生れたのは、     大屋毘古神(オオヤビコノカミ)。
次に生れたのは、     風木津別之忍男神(カゼキツワケノオシヲノカミ)。
次に生れたのは、     海の神。名は大綿津見神(オオワタツミノカミ)。
次に生れたのは、     水戸神(ミズトノカミ)。名は速秋津日子神(ハヤアキツヒコノカミ)。
次は妹速秋津比賣神(いもハヤアキツヒメノカミ) 。
【大事忍男神より秋津比賣神まで并せて十神】

此の速秋津日子と速秋津比賣の二神は、河海因り、持別(カ)けて、
生んだ神の名は、沫那藝(ナギ)神。
次は次沫那美(ナミ)神。
次が次頬(ホホ)那藝神。
次が頬那美神。
次は天之水分(ミズクマリ)神。
次は國(クニ)之水分神。
次は天之久比奢母智(クヒザモチ)神。
次は國之久比奢母智神。

次に生れる風の神名は志那都比古(シナツヒコ)神。
次に生れる木の神の名は、久久能智(ククチ)神。
次に生れる山の神の名は、大山(上)津見神。
次に生れる野の神の名は、鹿屋野(カヤノ)比賣神。亦の名は、野椎(ノヅチ)神と謂う
【志那都比古神より野椎まで、并せて四神】  
〔持別(カ)けて、〕の意味が解りません。

次は、天之狹士神
次は、國之狹土神。
次は、天之狹霧神。
次は、國之狹霧神。
次は、天之闇戸(クラド)神。
次は、國之闇戸神。
次は、大戸惑子(オオトヒコ)神。
次は、大戸惑女(オオトトヒヒメ)神 
【天之狹土神より大戸惑女神まで、并せて八神】

次に、鳥之石楠船(イワクスブネ)神を生んだ。亦の名は、天鳥船と謂う。
次に大宜都(オオゲツ)比賣神を生んだ。
次に火之夜藝速男(ヒノヤギハヤオ)神を生んだ。亦の名は、火之炫(ヒノカガ)毘古神と謂う。亦の名を火之迦具土(ヒノカグツチ)神と謂う。此の子を生んで因り、美蕃登(ミホト)見炙(ヤカヘ)而(テ)病み臥(フセ)り。多具理迩(タグリニ)(嘔吐)して
生れた神の名は、金山(カナヤマ)毘古神。
次は金山毘賣神。
次に屎して成った神の名は、波迩夜須(ハニヤス)毘古神。
次は波迩夜須毘賣神。次は、尿をして成った神の名は、彌都波能賣(ミツハノメ)神。
次は和久産巣日(ワクムスヒ)神。此の神の子は、豐宇氣毘賣(トユウケビメ)神と謂う。よって、伊邪那美神は、火の神を生むことに因り、遂に神避りされました。
【天鳥船より豐豐宇氣毘賣神まで、并せて八神。】
 
凡べて、伊邪那岐と伊邪那美の二神が、共に生んだ所は、島は一十四島、神は參拾伍神。
【是は伊邪那美神が未だ、神避する以前に生んだ所。 唯、意能碁呂嶋は、生んだ所に非ず。亦蛭子と淡嶋は子之例には入れず】

このページでは、作者は何を伝えたかったのでしょう。ここに挙げられた神は、例えば、水分神であり、野山の神であり、霧の神です。すべて、自然界にあるものに神が宿ると考えているのでしょう。
か思えば、鳥之石楠船神や豐宇氣毘賣のように。なんの神か判らないような神の名も見えます。
島は14島、神は35神の神に治めさせたのでしょう。又の名がない所には、元々、住んでいた者に、治めさせたのでしょう。
【是は伊邪那美神が未だ、神避する以前に生んだ所。 唯、意能碁呂嶋は、生んだ所に非ず。亦蛭子と淡嶋は子之例には入れず】は、前にもありました。 是非とも言いたかったのでしょう。

いろいろ書いてきましたが、なにも判らずです。気になる点は、
①【大事忍男神より秋津比賣神まで并せて十神】とか【天之狹土神より大戸惑女神まで、并せて八神】というように、区切って神の数を書いていますが、八神には、なにか共通の事柄があるのでしょう。両方とも共通なものがないとしますと、例えば、【大事忍男神より秋津比賣神まで并せて十神】に書かれている十神は、稗田阿礼が、あちこちの神社を調査しに訪れたときに、十神とも隠岐に祀られていたとか。八神とも岡山県に祀られていたというように、神社がまとまっていたのではないかと調べています。当時を調べることは不可能ですから、現在の神社で、それぞれの神を祀っている神社を調べていますが、多くは見つかりません。結果は又の機会に書くつもりです。
② 「持別(カ)けて」の意味がわかりませんと書きましたが、多くの方は、「此の速秋津日子と速秋津比賣の二神は、河海因り、持別(カ)けて、生んだ神の名は、沫那藝(ナギ)神・・・・」と読んで、どのような意味か判りませんが、速秋津日子と速秋津比賣が、以下の八神をうんだように書いておられます。それでもいいのですが、二人の神が、どうして、沫那美神、頬那藝神、頬那美神、天之水分神、國之水分神、天之久比奢母智神、國之久比奢母智神を生むのか、関連性が不明です。イザナギとイザナミが生んでいたはずです。「持別(カ)けて」の意味が間違っているのではないでしょうか? というものの、他の意味には取れそうにありません。
③ 【唯、意能碁呂嶋は、生んだ所に非ず。亦蛭子と淡嶋は子之例には入れず】は、島を生む前にも書いてあり、二度目ですから、作者はわけのわからないことを書いて、真相を隠しながらも、この部分は強調したかったことは確かと思われます。

日本書紀の同じような部分と比較すると、なにか他に発見できるかも知れません。
次回は、日本書紀です。                      H18.08.31

此れまでに調べた、古事記にでてくる神を祭った神社の一覧表(未完成)
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page134.html

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2006.09.02

No 15 国生み(くにうみ)—日本書紀の場合

No12において、日本書紀の本文に、「先以淡路洲爲胞」がありますと書きました。日本書紀が書かれた当時は、淡路島が、日本の中心を為す島であることは、知られていたからこのような表現になったと思われます。なぜ、そうなのかは知らなかったようです。それは、古事記に書いてあったのですが、理解できなかったと見えて、他に10冊もあることを記して読者に考えて貰うことにしました。
 日本書紀はこのように、いろいろの説があることをあげて、自分達の考えを書いていますから、より正しい歴史書になっていると書いておられる方があります。嘘が書いてある本が、100冊あるから、そちらが正しいという論法にはなりません。10冊に書かれている正しそうなことを集めますと、日本書紀に書かれていることになるかと云いますと、なりません。
前置きが長くなりました。それでは、日本書紀のその他の本の場合を見ていきます。

一書によると、(1)
その後、同居されて子を生まれた。大日本豊秋津洲と名づけた。次に淡路洲。次に伊予の二名洲。次に筑紫洲。次に億岐の三子洲。次に佐度洲。次に越洲。次に吉備子洲。これによってこれを大八洲国という。
一書によると、(2)
  島の名前はかかれていない。
一書によると、(3)
  島の名前はかかれていない。
一書によると、(4)
  島の名前はかかれていない。
一書によると、(5)
  島の名前はかかれていない。
一書によると、(6)
 淡路洲・淡洲をもって第一とし、大日本豊秋津洲を生んだ。次に伊予二名洲。次に筑紫洲。次に億岐洲と佐度洲とを双児に生んだ。次に越洲。次に大洲。次に子洲。
一書によると、(7)
  淡路洲を生んだ。次に大日本豊秋津洲。次に伊予二名洲。次に億岐洲。次に佐度洲。次に筑紫洲。次に壱岐洲。次に対馬州。
一書によると、(8)
オノコロ島をもって、第一とし、淡路洲を生んだ。次に大日本豊秋津洲。次に伊予二名洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に億岐洲と佐度洲を双児に生んだ。次に越洲。
一書によると、(9)
  淡路洲をもって第一とし、大日本豊秋津洲を生んだ。次は淡洲。次に伊予二名洲。次に億岐三子洲。次に佐度洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に大洲。
一書によると、(10)
  淡路洲を生んだ。次に蛭児を生んだ。

さあ、読まれましたか? 同じようなことばかり書いてあって、頭混乱です。これを一覧表にすると判り易いと思ってしました。別に判りやすくなりはしませんでした。
頭の整理で、気の付いたことを箇条書きです。
① 大日本豊秋津洲が最初に生まれたとした本は、1の本
② 淡路洲を第一とした本は、6,7,9,10の4冊
③ オノコロ島を第一としたのは、8の1冊。
④ 古事記では1はオノコロ島、2は水蛭子、3は淡島(淡路島) 4は、生子淡道之穗之狹別嶋であるが、日本書紀では、生子淡道之穗之狹別嶋は1冊もなしです。
⑤ 2位に登場する島で多いのは、大日本豊秋津洲で6,7,9の本に掲載。
⑥ 6番目の書に「 淡路洲・淡洲をもって第一とし」と記されていて、 淡路洲と淡洲は同じものとして扱っていますが、9番目の書には、「淡路洲をもって第一とし、大日本豊秋津洲を生んだ。次は淡洲」と書かれていて、淡路洲と淡洲は、別の島であるとしている。
⑦ 古事記では、島の漢字は「嶋」が使われていますが、日本書紀では、すべて、「洲」です。10冊とも「洲」が書かれていたのでしょうか? オーバーに言いますと、日本書紀は、古事記に書かれている漢字は、すべて別の漢字に書き換えているように思えます。しかも、必ず、難しい漢字で表わされています。現在でも、「洲」を島と読める人はどれほどおられるでしょう。川の真ん中に出来た中州のことを洲であらわすのではないでしょうか? 大きな島であれば、嶋、嶌でしょう。中国語の得意な日本書紀の編集者が、10冊とも「洲」を使ったということは、意図的であると考えるしかないでしょう。
⑧ 日本書紀の作者は、蛭子がよく理解されなかったらしく、10番目にのみ、「蛭児」を付け加えました。全く、掲載しないでおくのは、良くないと考えたと思われます。

⑨ 古事記に書いてある大倭豐秋津嶋は、「倭」と「嶋」を変えました。大日本豊秋津洲は1、6,7,9の4冊に載っていますが、すべて、「大日本豊秋津洲」です。1冊期ぐらい、「大倭豐秋津嶋」とあってもいい筈です。倉野憲司氏は、大倭豐秋津嶋を「大和を中心とした地域名」されましたが、具体的には、どこを考えておられるのでしょうか? 大和とは、奈良のことを考えておられるのでしょうか? 「本州の呼び名ではありません」と念を押しておられますから、余程自信があるのだと思いますが、日本書紀の編集者は、本州であることを知っていたから、一番目の書には、トップに、6,7,9の書には、二番目に載せています。
淡路島は、大日本豊秋津洲より、重要視していたことが、読み取れます。
なぜ、「倭」を「日本」に書き換えたかは、重要です。

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2006.08.31

No14 国生み その2

他の島のことも少し書いて見ます。
伊豫の二名嶋がどうして、二つの名と始めは呼ばれていたか判りません。しかし、丸い一つの島ですが、古事記は面を四つ持っていると書きました。剣山と石鎚山に登って、室戸岬と屋島が出っ張っていることを観察はずです。東が粟の国です。西側の今治半島と石摺岬の間が愛媛というように、4つの部分に分けることができると判断したことになります。 ただ、登山をして眺めただけではありません。どんどん、測量もして、その後、この地に部下が派遣されたはずです。だから、四国にも銅鐸が出土するはずですし、高天原が四国にあったという人もおられます。調べていくと、四国を中心に生活をしていた人が浮かびあがるはずです。
九州も同じことです。
古事記には、「筑紫島を生みき。この島も又、身一つにして、面4つあり」と記しています。測量したことが判ります。九州を海岸に沿って、走っていたら、元のところに到達したから、島であることが分かりました。そこで、九州北部の最高峰である英彦山(1200米)に登って測量をしました。測量するだけではありません。部下を派遣したはずです。英彦山には、天照大御紙の子の天忍穂耳命が祀られています。西の高天原になります。この一帯を丁寧に調べると、天孫族が生活していた後を発見することが出来ます。高天原から高千穂に遷都が行われたときは、漢の武帝が周辺の国々に版図を広げていた時代で、わが国へも大量の漢民族を潜入させて絹の収奪が激しくなった時代です。降臨したニニギ命と父の天忍穂耳命は九州に出動しました。
私は、ここの人たちの助けを借りて、神武天皇が吉野ヶ里を攻撃して、その後、ゆっくりと奈良を攻撃した話しを書いた「神武天皇は吉野ヶ里を攻撃した」を出版しましたが、あまりにも、荒唐無稽なストーリーであるため、誰一人として認める人は有りませんでした。勿論、本は売れませんでした。
英彦山の周辺一帯の地名、神社を丁寧に調べますと、ここでも高天原の存在を見つけれるはずです。このように、日本全国を回って調べたと思われます。最後に、青森までぐるりと回ったために、本州が島であることを発見したと思われます。
最後に、発見したから大八島となったはずです。 

本州を一周して見物しただけではありません。どこに入植したらいいか調べたはずです。
あちこちに、山の名前もつけました。例えば、伯耆大山と丹波の大江山と富士山が同じ緯度であることを知りました。相模にも大山があり、ここは伯耆大山と略同じ緯度です。銅鐸が39個出土した出雲の加茂岩倉遺跡の直ぐ北にも大山があります。こちらは伯耆大山と全く同じ緯度です。大山の「大」は大王の大です。イザナギ命を現しています。
 その後、丹波の大江山には、天照大御神を派遣しています。大江町に皇大神社があり、天照大御神と月読命が祀られています。ここを基点にして、丹後に上陸した中国人の南下を防ぎました。両方に大山があるだけではありません。ニニギ命と結婚した木之花佐久夜比売は、富士山に派遣されました。富士吉田市にある北口浅間神社の祭神として祭られています。従いまして、この辺りを調べていきますと、東の高天原と言ってもいいような事がいっぱい発見されるはずです。 
 上10行ほどは、少し脱線をしました。このようなことは、古事記のどこにも書いてありませんが、古事記に登場する神さん、そして、現在でも祀られている神社、地名、外国の文献を総合しますと、ストーリーは正しいのではないかと説明できると思います。

最後に、両児(ふたご)島について書いてみます。倉野憲司氏は、この島は長崎の男女群島であると書いておられます。島は日本にいっぱいありますから、ここだと断定されてもいいのですが、命をかけて古事記を編纂したのですから、天皇家にとって、両児(ふたご)島は重要でないと、二つ並んであるとか、男女と名前があるだけでは、古事記に書いた意味がありません。
 神武天皇が、奈良を攻めるときに、吉備の高島に行在所を置きました。戦争に必要なものは、食料と武器です。苗族の屯田兵を吉備に入植させるときに、苗続を受け入れる港が、現在では、島ではありませんが、神島(こうのしま)です。何故、そのような事が分かるのかといいますと、神島に福浦という地名があるからです。実際に云って見ましたが、それらしきものは、何一つ残っていません。神島には資料館がありましたが、ここでも発見することはできませんでした。それなら、証拠にならないと言われるかもしれませんが、全国に、青森まで、福浦という地名が分布しています。現在は海岸線でなくても、当時は海岸線であったはずです。 この神島は、神武天皇が奈良に進軍するときに、強力した人たちです。「神」の付いている地名、人物はユダヤ人の可能性が大いにあります。このことをかいていますと、本論と益々はなれますので、やめにします。神島があったから、高島が行在所に選ばれました。この二つの島を合わせて、両児島と呼び、古事記に収録しました。天皇家にとっては、重要な島ですが、本来の大八島とは別に、島を列挙しました。別名を天の両屋と記されていますが、なんとなく、意味が伝わってくると思われませんか?
他の島は、どのように重要なのか、調査に挑戦してください。

福浦の方、その一部を挙げておきます。
全国に「福浦・福良」と呼ぶ地名があります。田村誠一氏は、「福浦」の地名は、渡来の人たちが、船でやって来たときの港であり、その港を基点に、次々と移動するときの補給港だったと述べています。ただあるだけではなく、
程よい距離にあります。計画的につくったのではないかと思われます。

全国に存在する「福浦」は、次の通りです。
1.青森県青森市大字飛鳥字福浦
2.青森県五所川原市大字梅田字福浦
3.青森県むつ市川内町福浦山
4.青森県つがる市森田町中田福浦
5.青森県北津軽郡中泊町大字福浦
6.青森県下北郡佐井村大字長後字福浦
7.青森県下北郡佐井村大字長後字福浦川目
8.宮城県古川市福浦
9.宮城県宮城郡松島町松島字福浦島
10.神奈川県横浜市金沢区福浦1丁目
11.神奈川県足柄下郡湯河原町福浦
12.新潟県佐渡市福浦
13.石川県羽咋郡富来町福浦港
14.兵庫県赤穂市福浦
15.島根県松江市美保関町福浦
16.島根県隠岐郡隠岐の島町北方福浦
17.広島県呉市天応福浦町
18.山口県下関市彦島福浦町1丁目
19.愛媛県南宇和郡愛南町福浦

全部検討したわけではありませんが、古代には、潟であったところが多く、所謂葦原を求めて、入植し稲作をはじめたと想像できます。福浦に似た発音の地名に、「福良」があります。
①福島県 郡山市湖南町福良    猪苗代湖近く
②栃木県小山市大字福良      結城の北
③愛知県 蒲郡市清田町福良   
④兵庫県 南あわじ市福良乙     港
⑤山口県 山口市大字黒川      港から少し離れる
⑥徳島県海部郡海南町浅川字福良  港
⑦高知県須崎市浦ノ内福良      港
⑧高知県宿毛市小筑紫町福良    港
⑨大分県大分市大字福良      少し内陸
⑩大分県臼杵市大字福良      少し内陸
⑪宮崎県東臼杵郡椎葉村大字下福良  山の中・椎葉の近く
⑫鹿児島県指宿市東方中福良     港
⑬鹿児島県薩摩川内市中福良町   少し内陸

 もっと、詳しく知りたい方は、「福浦と福良」
http://www.hcn.zaq.ne.jp/caarc303/page363.htmlをクリックしてください。

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2006.08.29

No 13 国生み(くにうみ)—古事記の場合

記紀では、日本の国というか、八つの島がどうしてできたかを記しています。多くの人は、これを国生みと呼んでいますが、歴史学者による造語でしょう。国は、生まれるものではありませんが、記紀には、イサナギ神とイサナミ神が結婚して国が生まれたと書いてあります。誰が読んでも間違いがないように、セックスをして国を作ったと書いてあります。
 セックスの結果で、国が出来上がったのであれば、雌が持っていた元になるものと、雄が持っていた元になるものが、結合してできあがったとも書いてあるかといいますと、日本書紀には、陰と陽を使って書いてあります。古事記には書いてありません。国に限ぎらず、宇宙に存在するものは、すべて、陰と陽に分けることができる。言い方を変えますと、陰と陽があって、始めて物ができあがるということでしょうか? このような考え方は、中国にあって、当時の日本人は、取り入れたことになりますと、ご自分の著書に書いておられる方がおられますが、日本書紀を書いた人が、中国人であれば、取り入れたことにはなりません。
 
前置きが長くなりました。それでは、国がどのようにして生まれのかを見ていきます。
先ず、古事記です。
如此言竟而。御合。生子淡道之穗之狹別嶋【訓別云和氣下效此】次生伊豫之二名嶋。此嶋者身一而有面四。毎面有名。故伊豫國謂愛(上)比賣【此二字以音下效此】讚岐國謂飯依比古。粟國謂大宜都比賣【此四字以音】土左國謂建依別。次生隱伎之三子嶋。亦名天之忍許呂別【許呂二字以音】次生筑紫嶋。此嶋亦身一而有面四。毎面有名。故筑紫國謂白日別。豐國謂豐日別。肥國謂建日向日豐久士比泥別。【自久至泥以音】熊曾國謂建日別【曾字以音】次生伊岐嶋。亦名謂天比登都柱【自比至都以音訓天如云】次生津嶋。亦名謂天之狹手依比賣。次生佐度嶋。次生大倭豐秋津嶋。亦名謂天御虚空豐秋津根別。故因此八嶋先所生。謂大八嶋國。然後還坐之時。生吉備兒嶋。亦名謂建日方別。次生小豆嶋。亦名謂大野手(上)比賣。次生大嶋。亦名謂大多麻(上)流別【自多至流以音】次生女嶋。亦名謂天一根【訓天如天】次生知訶嶋。亦名謂天之忍男。次生兩兒嶋。亦名謂天兩屋。【自吉備兒嶋至天兩屋嶋并六嶋】

岩波文庫の倉野憲司氏の訳を拝借します。
 かく一言ひ竟へ御合して、生めるは、淡道の穂の挾別島。次に伊豫の二名島を生みき。この島は、身一つにして面四つあり。面毎に名あり。故、伊豫國は愛比売と謂ひ、讃岐國は飯依比古と謂ひ、粟國は大宜都比売と謂ひ、土左國は建依別と謂ふ。次に隠伎の三子島を生みき。亦の名は天之忍許呂別。次に筑紫島を生みき。この島もまた、身一つにして面四つあり。面毎に名あり。故、筑紫國は白日別と謂ひ、豊國は豊日別と謂ひ、肥國は建日向日豊久士比泥別と謂ひ、熊曾國は建口別と謂ふ。次に伊伎島を生みき。亦の名は天比登都桂と謂ふ。次に津島を生みき。亦の名は天之狭手依比売と謂ふ。次に佐度島を生みき。次に大倭豊秋津島を生みき。亦の名は天御虚空豊秋津根別と謂ふ。故、この八島を先に生めるによりて、大八島國と謂ふ。然ありて後、還ります時、吉備児島を生みき。亦の名は建日方別と謂ふ。次に小豆島を生みき。亦の名は大野手比売と謂ふ。次に大島を生みき。亦の名は大多麻流別と謂ふ。攻に女島を生みき。亦の名は天一根と謂ふ。次に知詞島を生みき。亦の名は天之忍男と謂ふ。次に兩児島を生みき。亦の名は天兩屋と謂ふ。
吉備児島より天兩屋島まで併せて六島。
No11において、「次に淡島を生みき。こも亦、子の例には入れざりき」とありますと書きました。訳本では、ここの「淡島」は、どこにあるのか不明と書かれています。
水蛭子と淡島は、特別で、〔こも亦、子の例には入れざりき〕と書いてあるということは、
淤能碁呂島に続いて、特別の島ですと念を入れているのです。
 淡路島は、二神にとって、特別の島だからこそ、最後に落ち着いたところでもあり、その後に、二神が作った神社なども緯度などで一致することが解ります。

淡島が現在の淡路島であるとなりますと、淡道の穂の挾別島はどこだと言うことになります。淡道の穂の挾別島は、淡道の穂と挾別島とにわけられるでしょうか?

どうやら 分けれそうですが、意味が通じません。
倉野憲司氏の訳が間違っているのではないでしょうか。 

倉野憲司氏の原文は、句読点と返り点がしるされています。
  〔於是此言竟而御合、生子、淡道之穗之狹別嶋〕
訳は、〔生める子は、淡道の穂の挾別島〕です。

以下の生まれた島の表記を縦に並べて見ます。
①生子淡道之穗之狹別嶋
②生 伊豫之二名嶋
     伊豫國---愛(上)比賣
     讚岐國---飯依比古
     粟國-----大宜都比賣
     土左國---建依別
③生 隱伎之三子嶋---天之忍許呂別
④生 筑紫嶋
     筑紫國---白日別
     豐國-----豐日別
     肥國-----建日向日豐久士比泥別
     熊曾國---建日別
⑤生 伊岐嶋-----天比登都柱
⑥生 津嶋-------天之狹手依比賣
⑦生 佐度嶋--------又の名なし
⑧生 大倭豐秋津嶋--天御虚空豐秋津根別
以上 大八島国
然後還坐之時
①生 吉備兒嶋---建日方別
②生 小豆嶋-----大野手(上)比賣
③生 大嶋-------大多麻(上)流別
④生 女嶋-------天一根
⑤生 知訶嶋-----天之忍男
⑥生 兩兒嶋-----天兩屋
「生」と島名との間に空を入れました。ここに、文字が入るのは、
①の生子淡道之穗之狹別嶋だけです。子淡道之穗之狹別嶋、全てが島の名前と言うことになります。
大八島の①は、他の島と違うことが一目瞭然です。①には又の名がありません。(佐度嶋もなし) 又の名前は、島の名前と言うことになっていますが、この名前は、この島を平定した人の名前だと思われます。①と④は、又の名がないということは、イザナギとイザナミが二人で平定したと考えれば良いことになります。

子淡道之穗之狹別嶋は、大八島に入っています。他の島を眺めれば、やはり、主要な島であることが解ります。島の大きさから考えると、淡路島しかないでしょう。 では、淡路島と書けばいいことになります。太安万侶が古事記を書いたときには、まだ、この島には名前がなかったのでしょうか?
もう一度、14の島を眺めて下さい。すべて、島の名前は短いです。子淡道之穗之狹別嶋だけが長いです。本当なら、狹別嶋だけでいいはずです。この島の名前は、各漢字には意味があるらしいです。 この島の後ろに、〔訓別云和気下效此〕と添え字があります。

島名には、淡道が含まれていて、淡路島に似ています。淡道は〔あわじ〕と読むことができるでしょうか? 少し、無理のように思えます。
狹別嶋は、狭いと別れている島です。狭いは解りますが、別れているとはどういう意味でしょうか。
淡道は淡い道---ふあふあの道? 砂州のように、出来たり、消えたりする道。
このように考えると、意味は解りますが、が分断されます。
子淡道之穗に分けますと、意味が通じません。子淡道之穗の部分は、狹別嶋を説明した部分だと思われます。日本書紀には、淡路洲という文字が、2冊の本に見られます。日本書紀が完成したときには、すでに淡路という島があったことは、確かです。そうであれば、古事記には、淡島などと書かないで、淡路島とか淡路州とかいたはずです。もし、古事記に書かれている子淡道之穗之狹別嶋が淡路島であれば、このように長い名前が使われるはずがありません。
 では、子淡道之穗之狹別嶋はどこだ ということになります。
田村誠一氏は、次のように述べています。
平成古事記18ページ」より
夫婦の営みをした後、根の淡道の穂の狭別島を生みました。当時斐伊川は日本海に直接注いていたので島根半島は島です。島根があることは陸根がないとおかしいことになります。【記】に子の淡道とかいたのは藤原朝臣在判の作為で根の淡道がもともとの文字て弓ヶ浜がまた道らしい道になってないから淡い道てす。この先端の南北が山脈て遮られた島が狭別島です。
「燦然と輝いていた古代  高天原は蒜山高原」 40ページより
最初に平定したのが「子淡道之穂之狭別島」でこれは島根半島でした.米子から北に伸びる夜見半島は、まだ洲の状態だから淡い道です.米子が「子」、境港は「穂」でした。島根半島は古代には斐伊川は直接日本海に注いでいたので島で、しかも山脈が南北に分けた狭い島の意味です.地名がないので苦心した表現法です。

いかがでしたか。
これは見事だと思います。古事記が出来た時は、本州と島根半島は、陸続きで、出雲大社もありました。古い言い伝えで、半島は島であると言われてたのではないでしょうか? その島の根の部分が米子の所に当たります。半島にある高尾山に登りますと、弓ヶ浜は、本土に根はありますが、境港の部分は、現在でも大きくなっています。ここが穂にあたります。当時は、真ん中はの部は、細く、日によって、時間によって、太くなったり細くなったりするのが、見えたと思われます。
 子淡道之穂 子と穂の間の淡道(大きくなったり、小さくなったりする道)が解決です。
同じく、高尾山の上で、身体を右に回転しますと、島を眺めることが出来ます。現在では、半島ですが、この島は、真ん中に、東西に山が走っていて、島を二つに別けています。そして、狭い島です。
   これで、狭別島の説明がなされています。
では、次は、大倭豐秋津嶋を除いたその他の島を一括して眺めます。島の別名がないもの、島の別名があるもの、その中には、「天」と「別」を含むものがあります。古事記にとっては、島の別名があるものは、その島を平定したので、その後、イザナギから任されたところだと思います。「天」のつくところは、天つ神であり、「別」のつく所は、No2にで見ましたように、 「上件五柱神者、別天神」のときと同様に、天つ神ではありませんという「別」だと思われます。外様大名のようなものです。別名の書いてないところは、イサナギとイサナミが二人で、征服したところだと思います。
 愈々、最後の大倭豐秋津嶋です。どの本を読んでも、「大和を中心とした地域名」とあります。倉野憲司氏は注釈に、「本州の呼び名ではありません」と念を押しておられます。
私は、本州だと思います。
何故かと言いますと、子淡道之穗之狹別嶋は、高尾山に登ったから、そのように見えたのであろうと書きました。他の島でも同じです。

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2006.08.27

No12 イザナギとイザナミの新婚生活‐‐日本書紀

二神於是降居彼嶋。因欲共爲夫婦産生洲國。便以磤馭慮嶋爲國中之柱。〈柱。此云美簸旨邏。〉而陽神左旋。陰神右旋。分巡國柱同會一面。時陰神先唱曰。憙哉。遇可美少男焉。〈少男。此云烏等孤。〉陽神不悦。曰。吾是男子。理當先唱。如何婦人反先言乎。事既不祥。宜以改旋。於是二神却更相遇。 是行也陽神先唱曰。憙哉。遇可美少女。焉〈少女。此云烏等■。〉
因問陰神曰。汝身有何成耶。對曰。吾身有一雌元之處。 陽神曰。吾身亦有雄元之處。思欲以吾身元處合汝身之元處。於是陰陽始遘合爲夫婦。
及至産時。先以淡路洲爲胞。意所不快。故名之曰淡路洲。廼生大日本〈日本。此云耶麻騰。下皆效此。〉豐秋津洲。
 読みを書いてみます。二人の神はそこでこの島に降りました。よって、夫婦となり島国を生み出そうと願いました。そこで磤馭慮嶋を国の中心のみ柱として、陽の神は左より廻り、陰の神は右より廻った。国の柱を分かれて巡り、一面で一同に会した。そのとき、陰の神が先に唱えていわれるには、「ああ、うれしい、美しい少男(おとこ)に会えて」。陽の神は悦(よろこ)ばずに云いました。「自分は男子である。だから先に唱えるべき理屈である。どうして婦人が先に言うのか。これは良くないことだ。改めて廻り直そう」と。そこで二人の神は、もう一度出会われた。今度は陽の神が先に唱えて、「ああ、嬉しい。美しい少女に会えて(少女はおとめと読みます)」。
そこで、陰の神に問うて言われるには、「あなたの身に出来上がったものがあるか」。それに対して、「私の体には一つの雌の元になる処があります」と。 (陽の神は)「私の体にも雄の元になる処があります。それでは、私の体の元の部分をあなたの元の部分に合わせよう」と云われた。それで、始めて陰陽が合わさって夫婦となった。
子が産まれるときがきて、まず、淡路洲を胞と為した。満足いくものでなかった。だからその名を淡路洲(吾恥の意味)という。次に大日本〈日本。此云耶麻騰(やまと)。下皆效此。〉豐秋津洲を生んだ。

古事記の書いた部分より、少し先の方も記しました。
それでは、本文について、考えて見ます。
① 日本書紀の本文に、「先以淡路洲爲胞」があります。宇治谷孟氏葉「まず淡路島が第一に生まれた」と書いておられますが、「胞と為す」とあります。胞という漢字は、肉月を包むと書いて作られている漢字です。皮で包まれた部分です。体の中心に当たる所だと思います。体の元になる部分です。細胞という熟語があります。この段階は、顕微鏡で見ないと確認できないのですが、当時の中国では、体の元になるものを細胞と捉えていたと思われます。従いまして、「まず淡路島が第一に生まれた」だけではなく、淡路島は八島の中で一番重要であったことを日本書紀の編集者は知っていたことになります。
② 「そこで磤馭慮嶋を国の中心のみ柱として」とあります。どういう意味でしょうか?原文が、「便以磤馭慮嶋爲國中之柱」しか仕方がありません。ここに書かれている柱を注意書きをいれて、「ミハシラ」と読みなさいと書いてあります。 どうして、このような事を書いたかといいますと、古事記に「天の御柱を見立てて」と書いてあるのですが、これを参考にしたが、理解できなかったのだと思います。No11 をご覧ください。「見立て」が訳せないから、誤魔化して、「見」をとって、「立」を勝手に、建てると読みました。本当は誤魔化してはいけませんが、プロの方も全員誤魔化しています。
ところが、日本書紀の編集者は誤魔化しませんでした。
伊勢神宮にある御柱はだれも見たことがないのですが、30センチぐらいの短い柱らしいです。諏訪大社の御柱でも、直径が1mぐらいです。こんな小さな柱の周りを二人で回っても、出逢う前から、二人の顔は見えています。こんな不合理なことは無いと考えて、磤馭慮嶋を御柱と見立てて、磤馭慮嶋の周りを回ったことにしたと思われます。
③次に書くことが、私は重要なことであると思います。「廼生大日本〈日本。此云耶麻騰。下皆效此。〉豐秋津洲」と書いてあります。「大日本豐秋津洲」の「日本」の部分は、「耶麻騰ヤマト」と読むのですよと注意書きを入れています。「ヤマト」と読まなかったから、読めと注意しました。大和または、倭のことを「日本」にすることを決めた人は、だれか判りませんが、藤原不比等は、使ったことになります。

次は他の本の記述を見ます。No9に他の本のことを書きました。その続きの部分を書きます。(原文は省略して、宇治谷孟氏の訳を書きます)
一書によると、(1)
二柱の神はその島にお降りになって、大きな御殿を造られた。また天に届く柱をたてられた。
男神が女神に尋ねて云われるのに、「あなたの体はどんなになっているのか」と。答えていわれる。「私の体がつくりあげられて、陽の元という一ヶ所があります。私の体の陽の元をもって、あなたの体の陰の元のところに合わせたいと思う」と。そこで天の柱を回ろうと約束して云われるのに、「あなたは左から回りなさい。私は右から回ろう」と。そこで分かれめぐって行きあった。女神が先に唱えていわれるのに、「おや、何とすばらしい男ね」と。男神が後から答えていわれ、「おや、なんとすばらしいおとめだろう」と。ついに夫婦の契りをして、まず蛭児(不具の子)が生まれた。そこで葦船にのせて流してやった。次に淡州を生んだ。これもまた、子の数に入れなかった。
 そこで天に帰り上って、詳しくその様子を申し上げた。そのとき天つ神は太占(鹿の肩の骨を焼いてできた裂目で占う)で占った。そして、天つ神は教え、「女性が先にことばをかけたからだろう。帰ってやり直してみなさい」と仰せられた。
 そしていつが良いか占って再び降りた。二柱の神は改めてまた柱のまわりを回った。男神は左から、女神はみぎから回って出会ったときに、男神がまず唱えていわれた。「おや、何とすばらしい少女だろう」と。女神が後から答えて「おや、何とすばらしい男の子ね」と。その後に同居されて子が生まれた。大日本豊秋津州と名づけた。次に淡路島・・・・。

本は10冊もありますので、まずは、この一番目の本について考えます。
① 本文以上の文字を使っていることになります。その分、本文より意味がよく判ります。
 10冊の本のなかで、一番古事記の表現に近いものです。古事記の通りにかいて、磤馭慮嶋と書かないで、淤能碁呂島と書いておきますと、古事記も参考にしたな。後、古事記のほかにも、9冊あるのだなと思うことが出来ますが、
② ところが、一番目の本は、最初に蛭子が生まれたと書いています。これは、古事記と一緒です。古事記は、次は淡島とあります。私は、古事記の方も淡路島と書いてあったのに、書き換えた人が居たのではないかと推察しています。その根拠は別の機会に書くことにします。後の9冊にも島の誕生が書かれていますが、生まれた順番は、大切なことですから。
③ どうして蛭子が生まれたかは、二人の神は知らなかったので、天つ神に教えて貰った事になっています。
④ 天まで届く御柱を建てたことになっています。本文を見てください。こちらは、「そこで磤馭慮嶋を国の中心のみ柱として」と書いてあり、柱を建てたとは書いてありません。
  天まで届く柱など立てれる訳がありません。本文は、常識的に通用するように書かれています。
一書によると、(2)、一書によると、(3)、一書によると、(4) には、御柱を回る記述はありません。
一書によると、(5)
女神が唱えていわれるのに、「ああうれしい。立派な若者に会えた」と。そのとき女神のことばが先だったので、不詳であるとして、また改めて回り直した。そして男神が先に歌って「ああうれしい、愛らしい少女に会えた」と。そして、交合しようとした。しかし、その方法を知らなかった。そのとき、鶺鴒が飛んできて、その頭と尻尾を振った。二柱はそれを見習われて、交合の方法を知られた。
 この書物が仮に、実在しなかったとし、古事記を参考にして作ったとします。このような事は、古事記に書かれていません。しかし、敢えて探すとしますと、No7の「」において、伊邪那岐神と妹伊邪那美神が蒜山高原にやってきます。 妹という字が、伊邪那美神についています。この二人は兄弟だったから知らなかったというぐらいになります。そうしますと、日本書紀の作者も私と同様に、「妹」の意味が判らなかったのだと思います。そうでなければ、このような本があったことになります。屁理屈をのべますと、鶺鴒は頭と尻尾を振って交尾するのでしょうか?
二人の神は頭は振れますが、尾は振れません。鶺鴒の交尾は秒単位の交尾ですが、この書物を書いた人は、そのようなことを知っていたのでしょうか? 二人の神にとって、参考にならなかったと思います。               

一書によると、(6)、一書によると、(7)、一書によると、(8)、一書によると、(9)には、御柱のまわりを回る記述はありません。

一書によると、(10)
 女神が唱えていわれるのに、「おや、何とすばらしい男の方ね」と。そして男神の手をとって、ついに夫婦の交りをして、淡路洲を生んだ。次に蛭児を生んだ。

以上です。
日本書紀の編集者は、やはり、古事記を参考にして、日本書紀を書いたと思われますが、特に、「ああうれしい。立派な若者に会えた」というような文句は、すべて、少しずつ違います。翻訳者が違うように書かれたのでしょうか? 私は、古事記とおなじものを書きたくないために、いっぱい違うものを並べたと考えます。
 丁寧に、ここに書かなかった本も、ご自分で見て確かめてください。

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2006.08.25

No11 イサナギ神とイサナミ神の新婚生活

タイトルは上のようにしましたが、どうも腑に落ちないことばかりが書かれたところです。
先ず、古事記にはどのようなことが書いてあるか眺めます。
其嶋天降坐而。見立天之御柱。見立八尋殿。於是問其妹伊邪那美命曰。汝身者如何成。答曰吾身者成成不成合處一處在。爾伊邪那岐命詔。我身者。成成而成餘處一處在。故以此吾身成餘處。刺塞汝身不成合處而。爲生成國土奈何【訓生云宇牟下效此】伊邪那美命答曰然善。爾伊邪那岐命。詔然者吾與汝行迴逢是天之御柱而。爲美斗能麻具波比【此七字以音】如此云期。乃詔汝者自右迴逢。我者自左迴逢。約竟以迴時。伊邪那美命先言阿那迩夜志愛(上)袁登古袁【此十字以音下效此】後伊邪那岐命言阿那迩夜志愛(上)袁登賣袁。各言竟之後。告其妹曰。女人先言不良。雖然久美度迩【此四字以音】興而。生子水蛭子。此子者入葦船而流去。次生淡嶋。是亦不入子之例。

無理を承知で、前から順番に、頑張って読んでみます。「其嶋天降坐而。見立天之御柱。見立八尋殿」
「其の島に天降りまして、天の御柱を定めて、八尋の御殿を見立てました」
訳としては、難しいところはありません。ただ、納得の行かないところがあります。天降(あまくだ)るということは、天(てん)から降りてくることを言います。其の島とは、オノコロ島のことで、天上にある高天原に出来た島のはずです。其の島に天降ったということは、おかしいことになります。
イザナギとイザナミは、高天原にオノコロ島を造成したはずです。「天降」の天は、天上の天ではなく、ありがたくもと言うぐらいの意味でしょう。同じアマクダルでも、天下るとかきますと、意味がまた異なってきますが、上から降りてくるのですから、語源は、天降るでしょうか。
次が解りません。天之御柱は、日本書紀では、「ミハシラ」と読むように書いてあります。
わざわざ 注釈をつけたということは、普通は、「ミハシラ」とは読まないのでしょう。
「御柱」は、一般には使用しませんが、伊勢神宮に心の御柱、諏訪神社には御柱、こちらは「おんばしら」と呼び、使われています。「見立」は、普通は品定めするとかに使いますが、柱ですから、「見」は抜いて、立てるだけにしたいところです。
以後、岩波文庫の翻訳を記し、全体の内容を把握して貰います。
  その島に天降りまして、天の御柱を見立てて、八尋殿を見立てたまひき。ここにその妹伊邪那美命に問ひたまはく、「汝が身は如何に成れる」とひたまへぱ、「吾が身は、成り成りて成り合はざる処一処あり。」と答へたまひき。ここに伊邪那岐命詔りたまはく、「我が身は、成り成りて成り余れる処一処あり。故、この吾が身の成り余れる処をもちて、汝が身の成り合はざる処にさし塞きて、國を生み成さむと以爲ふ。生むこと奈何。」とのりたまへぱ、伊邪那美命、「然善けむ。」と答へたまひき。
ここに伊邪那岐命詔りたまひしく、「然らぱ吾と汝とこの天の御柱を行き廻り逢ひて、みとのまぐはひ爲む。」とのりたまひき。かく期りて、すなはち「汝は右より廻り逢へ、我は左より廻り逢はむ。」と詔りたまひき。、約り竟へて廻る時、伊邪那美命、先に「あなにやし、えをとこを。」と言ひ、後に伊邪那岐命、「あなにやし、えをとめを。」と言ひ、各言ひ竟へし後、その妹に告げたまひしく、「女人先に言へるは良からず。」と告げたまひき。然れどもくみどに興して生める子は、水蛭子。この子は葦船に入れて流し去てき。次に淡島を生みき。こも亦、子の例には入れざりき。

解ったような解らないような訳ですが、御柱は、八尋の御殿を立てるために必要なのかと思ったら、その後、どうやら、セックスをはじめる時の儀式に必要らしいことが推察できます。そして、生まれたのが、水蛭子と淡島です。

それでは、私の解釈を続けます。
於是問其妹伊邪那美命曰。汝身者如何成。答曰吾身者成成不成合處一處在。
 是に於いて 其の妹伊邪那美命に問うて言うには、「汝の身(カラダ)は如何(ドノヨウニ)成っているか
答えて言うには、「成り合わせようと何度しても、成り合わない処が一ヶ処あります」
爾伊邪那岐命詔。我身者。成成而成餘處一處在
そこで伊邪那岐命が言われるのには、私の身は、成り合わせようと何度しても、成り余る処が一処あります。
故以此吾身成餘處。刺塞汝身不成合處而。爲生成國土奈何【訓生云宇牟下效此】伊邪那美命答曰然善
  それ故此の吾が身の成り余る処を以(モ)って、汝の成り合わない処を刺し塞ごう。国土を生む為に、どう思いますか。伊邪那美命が答えて言うには、「善(イイ)です」

爾伊邪那岐命。詔然者吾與汝行迴逢是天之御柱而。爲美斗能麻具波比【此七字以音】 
 ここに伊邪那岐命が詔りたまわれるには、然(シカ)らば吾と汝とで、是の天之御柱の周りを廻って逢い、美斗能麻具波比(ミトノマグワイ)をしましょう。

如此云期。乃詔汝者自右迴逢。我者自左迴逢。約竟以迴時。伊邪那美命先言阿那迩夜志愛(上)袁登古袁【此十字以音下效此】後伊邪那岐命言阿那迩夜志愛(上)袁登賣袁。各言竟之後。告其妹曰。女人先言不良。
かく期(?)りて すなはち「汝は右より廻り逢へ、我は左より廻り逢はむ。」と詔りたまひき。、約(チギ)り竟(オ)へて廻る時、伊邪那美命、先に「あなにやし、えをとこを。」と言ひ、後に伊邪那岐命、「あなにやし、えをとめを。」と言ひ、各言ひ竟へし後、その妹に告げた。「女人が先に言うのは良くない」
雖然久美度迩【此四字以音】興而。生子水蛭子。此子者入葦船而流去。次生淡嶋。是亦不入子之例。
然かし、くみど(?)に興して生める子は、水蛭子。この子は葦船に入れて流し去りました。次に淡島を生みました。これも亦、子の例には入れません。
これで訳は終わりですが、「あなたの身体はどのようになっていますか」「成り合わせることができないところがあります」
セックスに必要な道具と方法を具体的に述べています。
この部分は無くてもいいです。しかし、この部分は、日本書紀でも必要と見たか、古事記の真似をしたか判りませんがあります。男の元の部分と女の元の部分があると書かれています。必要も無いのに、なぜ詳しく書いてあるのでしょうか?
はじめ、日本書紀の書き方に比べて、古事記はうまいこと表現したなと感心しました。而成餘處一處在  「成成」は、成り成りては、どんどん大きくなってと解釈して感心したのですが、女性のほうにも書かれていまして、私の勇み足と言うことが判りました。
美斗能麻具波比とあります。美斗は御処(ミト)のことでしょうか? 麻具波比は、辞書を引きますと、「目交」とあります。元の意味は、好きで目と目が合うことですが、どうやらセックスのようです。「交」の含むセックスに関する熟語を辞書で求めますと、交合、性交、交接、媾交があります。当時、このような言葉はなかったのではないでしょうか? 行為自体はあり、麻具波比(マグワヒ)と言っていたが、詳しく説明をしたのだと思います。

古事記では、初めての所には、地名がありませんから、その場所の状況を詳しく書いています。そして、地名がわりにしています。(例、高天原) 
セックスは子供を作るための儀式のようなものですが、セックスのたびに、御柱の周りを廻るわけではありませんが、物を作るときは、御柱の周りを廻る儀式を行うのです。と言うことを述べているのでしょうか。そのルールを間違いますと、蛭子を産むような失敗をするという話を混ぜながら、水蛭子の誕生と淡島の誕生を語っています。水蛭子が子供で、淡島が島というところが理解できませんが、そのまま、前に進めることにします。
御柱は、避けて通ることは出来ませんので、項を改めて述べることにし、水蛭子と淡島です。

水蛭子(ヒルコ)
完成されていない赤ちゃんのことでしょうか? お寺に行きますと、よく水子供養という言葉を見ることが出来ます。水蛭子の蛭が抜けたように見えますが、同じことかどうか判りません。
葦船に乗せて流したとあります。無茶なことをするようにも思えますが、海軍などでは、水葬という儀式もありますから、無茶と言い切ることは出来ません。
もっとも、この時の水蛭子は、流れて海に出たことになっています。ある人に拾われて育てられます。そして、兵庫県の西宮の祭神になられたという伝説があります。西宮のえべっさんです。蛭子と書いてエビスと読みます。エビスはこの字のほかに、恵比寿、夷、戎、夷、恵比須、胡があります。
字の形から考えますと、なんだか外国から到来した雰囲気があります。
中国に苗族という人達がいます。其の中のトウ族という人達の国の始まりに、二人の夫婦が、水蛭子を生み、国土を作っていく神話が伝えられています。(諏訪春雄Webの記事)  苗族の人の風俗には、日本とよく似たところが多いので、日本に初めてやってきた人は、苗族の人の可能性が大きいとも言われています。

淡島
岩波文庫の説明では、所在不明となっています。なぜかと言いますと、二神は次々と島を生むことになります。そして、一番に生んだ島の名前が、淡道の穂の狭別島です。これを淡路島としているため、淡島が宙に浮いてしまいました。
古事記の作者は、他の島と切り離して、この部分で、水蛭子と淡島を示しました。そして、「これも亦、子の例には入れません」と断り書きを入れたのですから、所在不明で逃げては駄目だと思います。
淡島こそ、淡路島のことです。
いっぱい子供が生まれましたが、オノコロ島と水蛭子と淡島は子供に入れません。特別な子供ですと述べています。この部分が作者の一番に言いたかったところだと思います。

古事記には、なにが書かれていたか、もう一度復習しますと、
イサナギ神とイサナミ神は、天の沼矛を使ってオノコロ島を造ります。そこへ、天の御柱と八尋殿を建てて、新婚生活をはじめます。二人はどのように新婚生活を送ればいいか判らなくて、セックス問答をしながら、ようやく子供を産みますが、水蛭子であったので葦船に乗せて流しました。
次に産んだのが淡島です。「こも亦」とありますから、水蛭子も淡島も子の仲間に入れませんと書いてあります。
夫婦生活には、ルールがあります。見てください、間違ったから、水蛭子が産まれました。これから、後どんどん、産まれますが、オノコロ島も水蛭子(オノコロ島の麓の造成)も淡路島も特別の島ですよ。と注意を喚起したのだと思います。
 なんだか不思議な世界ですね。太安万侶は、現実の世界から、知らぬ間に半分は、水蛭子という人間の子供の誕生を述べ、気が付いたら日本列島の誕生に変化している世界を描きました。
こんな話は、いくら理解しようとしても無理だと思います。案の定、日本書紀の編集者は理解できず、大変なことになりました。10冊の本を登場させました。
 一方、古事記の方は、二人の神がセックスの知識がないことにして、滇(てん)からやって来た人たちの生活習慣の一部を織り込みました。雲南省には、御柱に関する伝承が伝わっているのではないかと推察しています。日本では、現在、4ヶ所で御柱が残っていますが、私は伊勢神宮にひっそりと伝えられていると思っています。
次回は、日本書紀では、どのように表現しているか調べて見ます。

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2006.08.23

No10 私が考えた【淤能碁呂島考】

タイトルに私が考えたと書きましたが、考えたのは、田村誠一という方です。そこで敬意を表しまして、著書に書いておられることを、そのまま、ご紹介します。

淤能碁呂島は、蒜山高原にあった
田村誠一著 「燦然と輝いていた古代・続」より

この古事記の書き出しは新天地を開発する時高天原に渡来した神は天御中主神、次に高御産巣日神、次に神御産巣日神でこの三人の神は独身で他所に立ち去りました。次に早春で雪が枝に残り、脂が浮いている様にくらげが漂っている様に見える頃、葦の新芽が牙の様に繭えあがる頃に渡来した神は宇摩志阿斯訶備比古遅神、天の常立神でこの二人も独身で他所に立ち去りました。この五人の神は天ツ神ではありません。次に渡来した神は国常立神、豊雲野神でこの神も独身で立ち去りました。次に渡来した神は、ウヒジニ神と妹背の神、次に角代神と妹背の神、次にオオトノジ神と妹背の神、オモダル神と妹背の神、次にイサナギ神と妹背のイサナミ神です。
国常立神からイザナミ神までは七世帯です。

立ち去った神は全員、鳥取県八頭郡智頭町の、那岐神社に祭られ、ここは津山盆地の北に聾える、那岐山の北麓です。この山の名前はイザナギに由来していて、更に新天地を探す目的で、立ち去った神は、鳥取市から千代川を溺って津山盆地を訪れていました、古事記で高天原は夕カアマハラと読む様に、注まで加えてあります。高天原に由来する天ノ原、天ノ石屋戸、天ノ浮橋、天ノ真名井、天ノ香山等の天は、アマと発音することです。
雲南の都は昆明で、古代の地名で(サンズイ+眞)、テンと発音するので、天神(テンジン)はここから渡来していました、雲南は苗族の勢力圏です.この地区以外から渡来した神が別天神でした。昆明からハノイと広州に、河を下って海に出られ、黒潮に乗れは渡来できます。
天ノ沼矛、天ノ詔琴、天ノ波土弓等は雲南から持参したので、頭字はテンと発音します。
越に南詔国があったので、『記』の天の沼琴は、詔琴が正しかったことになります天神は、アマツカミと発音したのでは間違いで、天神は苗族の首長でした。蒜山高原は東西二十粁、南北十粁の広大な高原で、周囲が千米級の山に囲まれた盆地で要害の土地で、二れも建国に必要条件です。なだらかな高原で、平均海抜は五百米です。
太古には湖水でしたが、周囲の山の一ケ所が決壌して、湖水の水は旭川となって流失しました。この結果湖底は平坦で広大な沼になって、蓑が茂っていたので董原の中ツ国です。この沼を開拓すれば、米が沢山収穫できる予想から、この土地が選ばれました。高原の部分はブナの原生林で、なだらかな高原は天ノ原と呼ばれ、高天原が相応しい地名です。

中蒜山にあった御所
御所は都の中央に南面して、作ることか常識です。蒜山高原で、これに該当するのは中蒜山の中腹です、ここの海抜六七九米の所か造成した台地になっています。
イサナギとイザナミは天ノ沼矛で、地均しして台地状を作りました巾、天ノ沼矛は越から持参した沼を開墾する矛、すなはちスコップのことでした、
国土地理院の2万5千分の一の蒜山の地図でも、ここは広大な台地だったことが分かります、この麓に塩釜があり、この塩釜は岡山市を流れる旭川の源流で、大量に水が沸いています。天照大御神とスサノオ命が「ウケヒ」の賭けをしたとき、剣等を水で清めた天ノ真名井はここでした.
日本百名水に選ばれた湧き水ですから、真名井の名前はもっとも相応しい地名で誰でも天の真名井なら、ここだと分かります。ここが『記』の地名の表現方法です、
蒜山高原は火山灰土のため、地均しした所は砂が舞い上がります。この為に硅酸塩が沢山に含まれた塩釜の水を撒いて砂ぼこりを防ぎました。『記』で塩を垂らしたと書いてあるのは・塩釜の水を使用して土を固めたので、塩釜の地名は古代史を解く鍵でした。
蒜山高原は毎朝雲海が立ち込め、これは六七九米の高所にあった御所より、低い所にできます。特に蒜山高原の雲海は、向こうの岸に渡れる様な印象を受けるのて天の浮橋(アマノウキハシ)と書かれています。これも御所が雲海より高いところにあった証拠です。
御所を作った台地はオノゴロ島と書いて、しかも島ではないと断ってあります。雲海に突出した出島だから、島がついていても誤解しない様に注意書がしてあります。 ( 著書そのままの文です。)

お見事と思われませんか、小説ではありません。
高天原が蒜山高原だった証拠は、高天原を訪れた七十数名の神々が、ここの七座の神社に
祭られていたことです、この事実は「美作神社資料」で分かります と書いておられます。私は確かめていません。ただ、蒜山高原に行き、その辺にある神社を片っ端からめぐってきました。
天皇から日本の歴史書を作れと命令された稗田阿礼も、私と同じように、蒜山や伯耆・出雲あたりを歩き廻ったのだと思います。そして、この七座の神社の近くに、伝説として伝えられているイザナギやイザナミが住んでいたところは、蒜山高原だと思ったのでしょう。稗田阿礼が訪れる千年前の事です。天つ神たちが住んでいた高原ですから、【高天原】と命名したのは、太安万侶ではないでしょうか? 
昔からあった【高天原】ではありませんから、日本書紀の編集者たちは、なんのことか判りません。No2で述べましたように、古事記の作者は、単に、五人の神は、天ツ神ではありませんよと書きたかっただけですのに、地球の生成というスケールの大きなものになりました。
そのように考えると、【高天原】は、天上のことでしかないことになりました。初めが間違ったために、日本書紀は、古事記とどんどん離れることになりました。
実際に、ヒルゼン高原を訪れてください。中蒜山の中腹に、日留宮が祭られています。緯度的にいいますと、重要な地点です。ここに、天の浮橋がかかっていたと思われます。その反対側の架橋部分は、茅部神社の裏山になります。ここに、天の岩戸があるというので、登ってきましたが、途中で心臓が破裂しそうでしたので、諦めて下山しました。勿論、天の真名井もあり、おまけに、岩戸を開けたときに落ちたという岩がいっぱい登山口にありました。 これらのものがいつの時代からあるのか、知りません。天照大神が隠れたという天の岩戸の神話は、太安万侶の創作ですから、落ちた岩などあるわけではありませんが、そのあたりを歩きまわりましたが、大きな岩また岩がゴロゴロしていました。
 茅部神社の祭神は、足名槌命 天児屋根命 大綿津美命 神直日神 菅原神 武内大臣 手名槌命です。
近くの神社の祭神も書いておきます。
福田神社-川上村
天照大御神 稲田姫 上筒之男命 宇賀之御魂 ウケモチ 大国主命 オオゲツ姫
大物主命 大山咋命 大山祇命 カグツチ 神倭磐余彦神(神式) ククノチ 
猿田彦命 志那津彦神 志那津姫  素盞鳴命 瀬織津姫 底筒之男命 玉依姫
豊玉彦命 豊玉姫 中筒之男命 品陀和気命 ミツハノメ ヤチマタヒコ 
ヤチマタ姫
長田神社---八束村
天津日子根命 天忍穂耳命 天菩卑能命活津日子根命 伊邪那岐命 伊邪那美命
市杵島姫命 息長帯姫命 熊野久須卑命 闇オガミ 事代主命 神功皇后 
高オガミ 多岐津姫命 武甕槌命 田心姫命 二二ギ命 経津主命

加茂神社--八束村
味スキ高日子根命 金山比古命 来名戸神 木花佐久夜姫 佐田比古下照姫 
速秋津比'古命 速秋津比売 別雷命

中和神社…中和村
大年神 久那止神 狭依比売 植山姫命 速玉男命 泉津事解男命 
徳山神社--川上村
手力男命 水分神
注---_福田神社、長田神社の順に重複した祭神は省略しました。

中和神社以外は、全部行ってきました。他にも、2日間で、いっぱい行ってきました。
蒜山高原に鎮座されている多くの神々は、いつからおられるのでしょう。  茅部神社の大きな石の鳥居は、日本で一番だそうです。神社の前は、きれいに整備されていましたので、のんびり一時間ほど過ごしました。 
古事記や日本書紀に書かれていることのみを、ああでもないこうでもないと考えていることが馬鹿らしくなってきます。
 こうして、田村氏と同様に、私は蒜山の神々に、高天原は蒜山高原にあったと洗脳されたことになります。
【蒜山高原の五座】に未完成ですが、詳細を書いています。興味ありましたら、ご覧ください。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page218.html

【蒜山高原】http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page457.htmlこちらは、ヒルゼン高原を訪れたときの旅行記みたいなものです。これも未完成です。写真がありますので、どうぞ。

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2006.08.21

No9 日本書紀に見られる国生み

伊弉諾尊。伊弉冊尊。立於天浮橋之上共計曰。底下豈無國歟。廼以天之瓊〈瓊。玉也。此曰努。〉矛、指下而探之。是獲滄溟。其矛鋒滴瀝之潮。凝成一嶋。名之曰磤馭慮嶋。

日本書紀の原文は僅かこれだけです。
伊弉諾尊と伊弉冊尊は、天の浮橋の上に立って、相談して言われました。「この底の一番下に国がないはずはない」と云って、玉で飾った矛で以てぐるぐる廻し、指し下して探した。そこに緑がかった海を見つけました。その矛の先から、滴るしずくの潮が凝固して一つの島と成った。これを名づけて磤馭慮嶋という。

前回に、10冊の本があると書きましたが、そのうち、オノコロ島のことが書いてあるのは、最初の4冊だけです。他の書物は、その後に続く、オノコロ島以外の島について書かれています。

一書によると、(1)
天つ神が、伊弉諾尊と伊弉冊尊に語っていわれるのに、「豊葦原の、豊かな稲穂の実のる国がある。お前たちが行って治めるべきである」とおっしゃって、天瓊矛を下さった。そこで二柱の神は、天の浮橋にお立ちになって、矛で探された。青海原をかき回して引き上げるときに、矛の先からしたたり落ちる潮がかたまって島となった。それを名づけて磤馭慮島といった。

一書によると、(2)
伊弉諾尊と伊弉冊尊の二柱の神が、霧の中に立っていわれるのに、「われらは国をつくろう」と。そして天瓊矛をもって下の方の海を探ったら磤馭慮島を得られた。それで矛をぬきあげて喜んでいわれた。「良かった。国ができた」と。

一書によると、(3)
伊弉諾尊と伊弉冊尊の二柱の神が、高天原においでになっていわれるのに、「国をつくろう」と。そして、玉飾りの矛で磤馭慮島を、海をかき混ぜて造った。

一書によると、(4)
伊弉諾尊と伊弉冊尊の二柱の神が、語り合って云われるのに、「何か脂のようなものが浮かんでいる。その中に国があるのだろう」といって、玉飾りの矛で、海中をかきさぐって一つの島をつくった。名づけて磤馭慮島という。

飛ばさずに読まれましたか?  日本書紀の本文はなんのことか判らないのに、参考書は意味がすっきりしています。本文の理解し難いところを補ったような形をとっています。私が気になった部分を箇条書きに記します。
① 古事記では、天つ神が伊邪那岐命と伊邪那美命に、国を作るように命令しています。日本書紀では、その1の書が、その形態をとっていますが、おかしいです。豊葦原の、豊かな稲穂の実のる国があることがわかっていて、その国を治めに行くのに、天瓊矛を受け取って、それで海をかき回して、島ができたことになっています。
② すべてに共通しているのは、矛で島が出来上がった事です。この矛が、古事記では、天沼矛となっているのですが、これがどのような矛なのか判らなかったようです。「沼」は、「ぬ」と読むことにしたようです。沼では何のことか判らないので、「ぬ」は、「瓊」に置き換えたことが本文から判ります。「瓊」では判ってもらえないと思い、〈瓊。玉也。此曰努。〉を付けました。〈瓊は玉のことです。此れは努(ぬ)と読みます〉と、読み方まで丁寧に書きました。
③ 「天の浮橋」も理解できませんでした。しかし、中には、雲海のことではないかと云う人もいたらしく、その2の書において、「霧の中に立って」と表現しました。
④ この出来事は、高天原の出来事だということになったのでしょう。その3の書に入れました。
⑤ 古事記に「この漂へる國を修め理り固せ成せ」との表現があります。この漂える国とは、No2ででてきました、「國稚如浮脂而」です。高天原の様子を古事記が書いた文章です。脂が浮いて漂っているとの意味です。

4つの書物に書かれていることをつなぎ合わせると古事記になります。逆に、古事記の理解できない部分をバラバラにして、判りやすく説明しますと、4つの書物プラス本文になります。
多くの方は、このように書きますと、そりゃ古事記が日本書紀をみて、書いたのだといわれると思います。
別に、それでもいいと思います。しかし、それでは、磤馭慮島はどうして出来たのだ。何故このような名前になったのだ。古事記の淤能碁呂島であれば、誰でも読めますが、太安万侶は磤馭慮島を淤能碁呂島と読むことができるのが、どうして判ったのでしょう。これから、記紀の表示が異なるのは、いっぱい出てきますが、全部、日本書紀の方が読むのが難しいです。古事記の序文で、表記に難儀したことを述べています。一方、多くの中国人を抱えていた日本書紀のグループのひとにとれば、難しい漢字を用いることは、なんでもなかったと思います。
 淤能碁呂島を音だけを採用するのであれば、磤馭慮島でなくてもいくらでも表記できますのに、敢えて、磤馭慮島を使ったということは、なにか意図があったと思われます。読んでほしくなかったことは、確かです。
脱線しました。天瓊矛とは、どのようなものか。孫悟空がもっているような伸び縮みのする棒のようなものでしょうか。矛ですから、普通に考えると武器です。天の浮橋はどのような橋か。
お前は、馬鹿だなという声が聞こえてきそうです。だから神話なのだ。そんな屁理屈など要らないのです。
そのような事はありません。神話といっているのは、現在の学者や歴史好きの人たちだけです。
古事記には、序文に、どうして古事記が編纂されることになったかが書かれています。
詳しくは別の機会に書きますが、「今の時に当たりて、其の失を改めずば、未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなむとす」という文があります。どうして、帝紀に偽りが多いだけで、数年で朝廷が滅びるでしょうか? 幾年も経ないのですから、もう滅びると天皇は言われたと太安万侶は書いています。現実に天武天皇は、死ぬことになります。天武天皇は、自分が殺されることを知っていたのだと思います。
太安万侶は、このように際せまった状態の中で、天武天皇が望まれるような正しい歴史を書くことを決心します。太安万侶は、おとぎばなしのようなことを書きながら、其の中に、是非とも伝えたいメッセージを忍び込ませたと思っています。

No2 で書きましたように、神の名前は、なぜつけられたかの考察は必要かもしれませんが、【上件五柱神者、別天神】だけは、残したかったのだと思います。五人の神は、天つ神ではありませんと書いたのに、日本書紀の編集者は、逆に五人が天つ神の中でも特別の神と受け取り、日本書紀では、外しました。何故、逆に受け取ったかといいますと、【高天原】のことが判らなかったからです。【高天原】が蒜山高原であるとわかってしまえば、藤原不比等は、徹底的に、蒜山の遺跡は壊して、証拠をなくしたと思います。
太安万侶は、訳の判らないように書きました。彼の勝利です。それでも、古事記は、姿を消してしまいました。

お判り願えましたか? 全然といわれると思います。
次回は、私が考えた【淤能碁呂島考】を読んでください。

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2006.08.20

No8 国生みと国土の修理固成

タイトルの言葉は意味がわかりますか? これは、宇治谷孟著の日本書紀と倉野憲司著の古事記の翻訳本につけられているサブタイトルです。「国生み」とは、何のことか判りません。国が生まれたことでしょうか。国土の修理固成になると一層判りません。修理は判るとして、固成という言葉は辞書に載っていません。古事記の本文に、「修理固成」と書いてあります。倉野氏は、この部分を「修(をさ)め理(つく)り固(かた)め成(な)せ」と翻訳されています。修理は修繕するのだと思っていたら、違うのです。「修(をさ)め理(つく)り」とは、意味が判りません。「固(かた)め成(な)せ」になると一層判りません。
プロの方を非難しているのではありません。倉野氏は翻訳されたものの、古事記に書かれていることは、何のことか理解できなかったのではないかと思います。宇治谷氏は、古事記も、日本書紀も読まれたようです。古事記の翻訳本よりは、判りやすいですが、やはり全体を通して読むと意味がよく判りません。タイトルは、それを見れば内容がある程度判るようにつけるものですが、内容が理解できないために、両氏とも、変なタイトルをつけられました。
日本書紀の編集者は、古事記を全く見ないで日本書紀を作れば、このような事になりませんでした。地球がどのようにしてできたかは、現在でも通用するぐらいのことを書いたのです。ところが、日本の各島がどのようにしてできたかは、古事記を参考にしました。
 きっと、何のことか判らなかったのだと思います。そこで、「神世七代」のときと同じ手法をとりました。全部で10冊の本がありますと挙げています。「神世七代」の時は、6冊でしたから、今回は、日本書紀の編集者は、一層書くことに困難を伴ったと思われます。
倉野氏と宇治谷氏が苦労されたのと同様に苦労しました。
 えらそうに書いている私も、変な古事記と日本書紀を料理しようというのですから、勿論、自信がありません。この回は、その2、その3と続けることになりそうです。

先ずは、オノゴロ島の誕生までを眺めてみます。
古事記を読んでみます。
国土の修理固成 (原文)
於是天神諸命以。詔伊邪那岐命伊邪那美命二柱神。修理固成是多陀用幣
流之國。賜天沼矛而。言依賜也。故二柱神立【訓立云多多志】天浮橋而。
指下其沼矛以畫者。鹽許袁呂許袁呂迩【此七字以音】畫鳴【訓鳴云那志】而。
引上時。自其矛末垂落之鹽。累積成嶋。是淤能碁呂嶋【自淤以下四字以音】
 以下、古事記翻訳本の訳です
ここに天つ神諸の命もちて、伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱の神に
「この漂へる國を修め理り固せ成せ。」と詔りて、天の沼矛を賜ひて、
言依(ことよ)さしたまひき。故、二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛を
指し下ろして畫きたまへぱ、塩こをろこをろに畫き鳴らして引き上げたまふ時、
その矛の末より垂り落つる塩、累なり積もりて島と成りき。これ淤能碁呂島なり。
 
英語の文章を翻訳するときは、あまり翻訳者の考えを入れては、全く、書いた人が云いたかったことと異なるものになる可能性があります。そこで、そのまま、訳す直訳がいいように思います。ところが、直訳をしたら、さっぱり意味が通らなくなった倉野氏は、欄外に、注意書きを入れられました。
① 天つ神諸々の命もちて----天つ神一同(別天つ神五柱)のお言葉で。
② 伊邪那岐命の命の部分----古事記では、神と命を区別し、神は宗教的、命は人格的意義において用いられている。
③ 天沼矛------------------------玉で飾った矛
④ 言依(ことよ)さし--------------御委任なさった
⑤ 天の浮橋---------------------神が下界に降る時に天空に浮いてかかる橋
⑥ 立たして------------------- お立ちになって
⑦ 塩こをろこをろに畫き鳴らして--海水をコロコロと攪き鳴らして
⑧ 淤能碁呂島-----------------自然に凝って出来た島の意。所在不明。

 この注意書きを入れることによって、読者に理解し易いようにと倉野氏は思われのでしょうが、No1とNo2で書きましたように、倉野氏は古事記に最初に書かれている五人が、天つ神の特別の神と捉えておられます。(私は天つ神ではありませんと古事記の作者は書いたと思っています)。この部分は、横に置くとして、倉野氏は五人の神が伊邪那岐命と伊邪那美命に国土の修理固成を命令したことにしておられます。この五人は身を隠しましたから、高天原に居ないはずです。
天の浮橋は「神が下界に降る時に天空に浮いてかかる橋」と解説しておられるということは、高天原は、天上にあることにしておられます。 天上から下界に降りてくる橋など、本当にあるのでしょうか?
「塩こをろこをろに畫き鳴らして」を「海水をコロコロと攪き鳴らして」としておられます。 私は、この短い文章の中に、3つの疑問点があります。
「塩」と書いてあるのに、どうして海水になるのでしょうか? 「こをろこをろ」がどうしてコロコロになるのでしょうか? 「攪き鳴らして」と書いてありますから、天沼矛でかき回したようです。そのときに、コロコロと音が鳴ったと解釈されたのだと思います。

原文は、「鹽許袁呂許袁呂迩【此七字以音】畫鳴【訓鳴云那志】而」と書きましたが、倉野氏が書かれた『古事記』の巻末には、「鹽許々袁々呂々迩【此七字以音】畫鳴【訓鳴云那志】而」と書いてあります。「許々袁々呂々」と書いてある時は、「許袁呂許袁呂」と読むという例がどこかにあるのであれば、それでも良いのですが、【此七字以音】の注釈がありますから、そのまま、書きますと、「ココヲヲロロ」となります。 オノゴロ島に似ていませんか?
「畫鳴【訓鳴云那志】而」の部分は、「画きなし而(て)」ではないでしょうか? 区画の画です。ある区画を決めてオノコロ島を作ったのでしょう。太安万侶は、「なし」という適当な字がみつからなかったので、「鳴」を書いて、【訓鳴云那志】という注意書きを入れました。だから、音が鳴るの意味はありません。従いまして、「ココヲヲロロ」もかき混ぜる音ではなく、何かのメッセージだと思います。オノゴロ島は、古事記では、「淤能碁呂島」と書きました。勿論、こんな島はありません。日本書紀の編集者は、負けないようにオノコロ島のことを書きました。磤馭慮島と書きました。本当に磤馭慮島と書いて、オノコロ島と読めるのでしょうか? 当時の人でも読めなかったと思います。宇治谷孟著の日本書紀では、「おのころしま」と振り仮名を打っておられます。
日本書紀では、このオノコロ島の意味がよく判らなかったようです。
古事記では、「塩」が使われていますが、「潮」の字が使われています。此の字ですと、海のことになります。このようなところから、倉野氏は海に天沼矛を突っ込んで、持ち上げたら塩が垂れたと書いておられます。此の部分は、これで辻褄が合ったのですが、倉野氏は、天沼矛を「神が下界に降る時に天空に浮いてかかる橋」の上から、海に突っ込んでかき回したとされています。 天の浮橋は天上から下界までかかる橋ですから、橋の上の方であれば、とてつもなく長い天沼矛が必要になります。下の方であれば、天沼矛は短くても良いですが、それでは、そこから垂れた塩が固まったぐらいでは、オノコロ島はできません。
倉野氏だけではありません。日本中の研究者のだれ一人として解明されている方はありません。
日本書紀の編集者もさっぱり判りませんでした。そこで、10冊の本があります。ここには、これこれの話が書いてありますから、よく読んでくださいと、読者に下駄を預けています。
預けられた読者は、一層、頭の混乱を招いてしまいました。次回は、日本書紀を眺めます。

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2006.08.17

神世七代

古事記では始めに、五人の神さんが高天原に登場します。この神さんは別天神と呼んでいます。この神は、それぞれ高天原から去って行きます。
次に登場するのが、七人の神です。この七人は、記紀に掲載されています。両方に掲載されているときは、有り難いです。比較することが出来るからです。

古事記では、
①國之常立神  ----------独神--隱身
②豊雲(上)野神 ----------独神--隱身
③宇比地迩(上)神 、 妹須比智迩(去)神
④次角杙神、次妹活杙神
⑤意富斗能地神、妹大斗乃辨神
⑥淤母陀流神、妹阿夜(上)訶志古泥神
⑦伊邪那岐神、妹伊邪那美神
 No5で書きました別天神と別に七人の神を書いたということは、この七人の神は、天つ神ですよと念を押したと見るべきです。其の点、日本書紀が理解できているかどうかです。①②は、高天原から去って行きましたから、残った五組の夫婦(?)神です。

次は、日本書紀に記された神を掲載します。
① 国常立尊
② 国狭槌尊
③ 豊斟渟尊
④ 泥土煮尊、沙土煮尊
⑤ 大戸之道尊、大苫邊尊
⑥ 面足尊、惶根尊
⑦ 伊弉諾尊、伊弉冊尊

日本書紀では、④から⑦までは、男女で一代と考え、上記の7組の神を神世七代と呼んでいます。
①から③までには、本によって異なっていると、次の6冊の場合を挙げています。

一書によると、(1)
国常立尊(別名・国底立尊)
国狭槌尊(別名・国狭立尊)
豊斟渟尊(別名・豊組野尊、または豊香節野尊、または浮経野豊買尊、または豊国野尊、または豊齧野尊、または葉木国野尊、または見野尊)

一書によると、(2)
昔、国がまだ若く、大地も若かった時には、例えて云えば、水に浮かんだ脂のように漂っていた。そんなとき、国の中にある物が生まれた。形は葦の芽がつき出したようであった。これから生まれた神があった。可美葦牙彦舅尊という。次に国常立尊。国狭槌尊。

一書によると、(3)
 天地がぐるぐる回転して、かたちがまだ定まらないときに、はじめて神のような人であった。可美葦牙彦舅尊という。次に国底立尊。舅尊をヒコジという。

一書によると、(4)
 天地がはじめて分かれるときに、始めて一緒に生まれ出た神があった。国常立尊という。次に国狭立尊。高天原においでになる神の名は、天御中主尊。高皇産霊尊。神皇産霊尊。皇産霊---これをミムスヒという。

一書によると、(5)
 天地がまだ固まらないとき、たとえば海上に浮かんだ雲の根がないように、漂っていた中に、一つの物が生まれた。葦の芽がはじめて泥のなかから生えだしたようである。それが人となった。国常立尊である。

一書によると、(6)
天地がはじめて分かれたとき、ある物があり、葦の芽のようで空の中に生まれた。これから出られる神を国常立尊という。次に可美葦牙彦舅尊。またある物があり、浮かんだ脂のようで空の中にできた。これから生まれた神を国常立尊という。

さて、6冊の中身を読んでいただけましたか? 宇治谷孟氏の翻訳を写したようなものですが、写すだけでも大変でした。読むだけでも大変ですが、その大変さを実感していただきたいのです。

私が考えたことを記します。
(イ) (2)より(6)までは、表現の違いはありますが、【天地がはじめて分かれたとき】とか、
   【天地がまだ固まらないとき】というように、地球の成り立ちを述べています。

(ロ) 葦のことを書いた本は、(2)(3)(5)(6)です。地球の生成と葦はまったく関係が無いのに、4冊の本には、書かれていることになります。

(ハ) (1)に書かれていることは、日本書紀の本文に当たる部分に書かれた三人の神の別名が
書いてあるだけです。このような本は、実際にあった可能性はありますが、別名の神を祭った神社は、すべて調べたわけではありませんが、発見していません。適当に書いた可能性があります。では、何故、そのような事をする必要があったかです。別名がいっぱいあると書いてなんら利点はありません。嘘をかいたとすると、なにか書いたことにより、得をすることがあるはずですが、理由を思いつきません。ということは、正しいことが書いてあるのかもしれません。
(ニ) (4)の本がもっとも、不思議な本です。日本書紀の編集者が思ったことと同じように、もっとも、神世七代の中で、大切な神で最初に生まれたのは、国常立尊です。次が国狭立尊ですと書いてあります。次が、豊斟渟尊ではなく、天御中主尊。高皇産霊尊。神皇産霊尊の三人の神だと書いてあります。書いたものの、皇産霊尊は読めないであろうからと、日本書紀の人が【皇産霊---これをミムスヒという】と解説したように思われます。
   天御中主尊。高皇産霊尊。神皇産霊尊の三人の神は、どこかで見たような神です。
 古事記に最初に登場する天之御中主神、高御産巣日神、 神産巣日神です。
 「御産巣日」の部分を「ミムスヒ」と無理やりに読めば読むことが出来そうです。
 古事記に書かれている「御産巣日」を日本書紀の編集者は、読むことができなかったのですが、きっと、 「ミムスヒ」と読んだと思われます。日本書紀の編集者は、古事記に書かれている神の名前や地名は、悉く、 異なる 漢字を使っています。
   (4)の本の天御中主尊。高皇産霊尊。神皇産霊尊の部分が、古事記の天之御中主神、高御産巣日神、 神
産巣日神と、偶々、一致することは有り得ます。古事記の編集者が、(4)の本に書いてあったことを真似したこと
も起こりえます。
   しかし、大物主の名前ぐらいが同じですと、日本書紀の編集者が古事記を参考にし、一部をかえたのであれ
ば、その行為の良し悪しを別にすれば、現在でもよく行われる事です。ところが、100パーセント近く、漢字の表記を変更してあるとすれば、日本書紀の編集者が古事記を参考にして、その上で、古事記を消し去ろうと考えたと見るほか、説明がつきません。    (4)の本の紹介は、古事記と似たようにな本も有るのですよと読者に思わせるには、6冊の中で最も、重要な役割をしています。

(ホ) 古事記に4番目に登場した神の名前として、「宇摩志阿斯訶備比古遲神」が書かれています。本当にいたかどうか不明です。私はいたのだと考えています。「宇摩志」は「美し」で、美しいとか立派なという尊称でしょう。日本語では、様とか殿は名前の後に来ますが、名前の前に付ける国からやって来た人ではと思います。「阿斯訶備」は、「アシカビ」という名前だったのでしょう。日本書紀の編集者には、「比古遲」の「遲」の意味が判らなかったのでしょう。遅れて高天原にやって来た人です。書紀では、「舅」にしました。
   「宇摩志阿斯訶備比古遲神」の神一つを取り上げても、日本書紀の編集者は、相当苦労したことが判ります。

此れぐらいにしたく思います。このように眺めてきますと、日本書紀の編集者は、この6冊の本の内容をなぜ、挿入したかお判りになられると思います。高天原にやって来た人は、7人であり、その中で一番は重要な人物は、本文に書かれている「国常立尊」であることを強調するために書いてあるように思います。

なにが、日本書紀の編集者にとって、困ったかといいますと、古事記の次の部分です。
次、國稚如浮脂而、久羅下那洲多陀用幣流之時【流字以上十字以音】如葦牙因萌騰之物而、成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神。 たつた此れだけの意味が判らなかったのと、古事記の最初の部分の「天地初發之時、於高天原、成神名」これを、地球の生成のことだと勘違いしたために、判らないとはいえないために、6冊の本に書かれていることも読んでくださいと、書き並べてました。

以後、このように他の伝説もありますというような部分は、同じ手法で読み解くことができると考えています。私しより、先に、調べて楽しんでください。

それから忘れていました。記紀の神世七代の名前をどのように読むのか、原書ではどちらにも振り仮名はありません。翻訳本では、どちらにも読み方が書いてあります。
面足尊淤母陀流神などは、最高の傑作と思われませんか?  他の神も、並べて読んで見てください。日本書紀の編集者がいかに、苦労して古事記と違う漢字で表現したかったかが理解できると思います。

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2006.08.16

No 6 高天原は、クラゲが漂うようなところでした

古事記は、新天地を切り開くために、高天原にやって来た三人が到着したときの様子を「國は稚(ワカ)く、脂(アブラ)が浮く如くして、久羅下那洲多陀用幣流(クラゲナスタダヨヘル)之時【流字以上十字以音】葦の芽が牙の如くに、因(ヨ)りて、萌え騰(アガ)る物のようなときに、成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遲神(ウマシカシカビヒコチカミ)」と表現しました。これがどうして、蒜山高原になるのか、私には説明ができません。
高天原は、蒜山高原だと提唱された田村誠一氏は、著書『平成古事記』の中で、次のように、蒜山高原を紹介しています。

新天地を開発しようとして三人の独身の神が高天原にやって来ました。大山・蒜山国立公園の蒜山高原は広い諏訪湖の半分位の面積の水田が広がっていて、この水田は海抜500米です。周囲を1000米級の山が囲んでいて要害の土地です。水田の周囲はなだらかな高原で東西20km、南北10kmの広大な盆地です。
太古の時代には盆地は湖水で一ケ所が切れて旭川となって流れだしました。湖水の湖底が平坦で古代には葦が茂っていました。これが豊葦原の国です。高原地帯は全部ブナの原生林におおわれていました。この林は近くの大山の南壁の原生林から想像できる様に一日中薄日が刺していました。
水田の面積に応じて津山藩が年貢米を割り当てていました。日照時間が少なくて高冷地
のため米の収穫が少ないと事情を訴えても役人が聞いてくれません。最後には百姓一揆まで起きて沢山の人が打ち首になった悲しい歴史があります。
米の収穫が少ないのは水田に絶えず冷たい水が流れ込むためと分かって、古老に聞いた
所では四年かかってブナの原生林を全部焼き払いました。
現在の高原にはブナは全く見られないのはこのためです。
この蒜山高原は天つ神が開国した高原だから高天原と呼ばれました。高天原に関係があ
と地名や物などはすべてアマと発音します。例えば高天原の雲海は天の浮橋、旭川の源
流の塩釜の泉は天の真名井、鉄は天の鉄山と書いて天の文字をアマと読みます。
開国したのは紀元前三世紀でこの時すでにユダヤ人は吉備で倭人が生産した絹を陸のシルクロードと海のシルクロードを通ってパルティアやローマ帝国に運んでいました。
漢民族は筑紫の吉野ケ里に橋頭堡を作りて関東の秩父の絹を中国本土に運んでいました。
この中国の秦の始皇帝が紀元前220年に徐福が子供や男女合わせて数千人が最初佐賀に来て、ここに漢人が既に来ている事が分かり、紀州の南の新宮に渡来して来ました。同じ頃伊耶那岐命と伊耶那美命も隠岐に渡来しました。

大した文章ではないと思われましたか。現在では、ブナ林はありませんので、住んでいても気がつきません。しかし、住んでいると、長い冬が過ぎて、春になると雪を少しずつ撥ね退けていく葦はやはりあります。実は、田村氏は蒜山高原に住んでおられたことがありますが、高天原が蒜山高原にあるという発想は、勝山中学校の英語の先生をしておられた佐竹先生が『神代遺蹟考』を出版され、それに触れられてからと書いておられます。
実際に住んでみるのは大変ですが、一週間ほど、ゆっくり滞在していると、この文章の意味が少しぐらい理解できるのではないかと思っています。

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2006.08.13

No 5 日本書紀の始めの部分 その2

もう一度、翻訳を記します。
昔、天と地がまだ分かれてなくて、陰陽の区別も無かった頃、混沌として鶏の卵の中身のようであった。ほの暗くぼんやりした中に、牙(?)を含んでいた。其れは清くなり陽となって、薄くたなびきながら、天となった。重くて濁ったものは、下のものを覆い滞って、大地となった。精妙(せいみょう)なものは、搏(う)ち合わせ易かったが、重く濁ったものは、凝固し難かった。だから、天が先に形成し、地が後から定まりました。然る後に、其の中に神が生まれました。
それで次のように言われる。天地の開闢のはじめは、洲は壊れて浮き漂っていました。例えるならば、泳いでいる魚が水の上の方で、浮いているようなものでした。
そのような時、天地の中に、一つの物が生まれた。それは葦牙のようなものでした。便(やわらかく)化して神となりました。 名づけて國常立尊。(大変貴い方は、「尊」といい、それ以外の方は「命」といい、ともに、ミコトと訓(よ)む。以下すべてこれに従う)
次に國狹槌尊、次に豐斟渟尊と全部で三柱の神が生まれた。乾いた道を獨りで生まれ変わられました。だから、純粋の男性に成られました。

他の方の翻訳文を参考にして、自分なりの翻訳を試みました。とはいうものの、No4において、不満をいっぱい書きました。あまり文句を云わないで、少し前向きに解釈をしますと、えらいことが書いてあるような気もします。

もう一度翻訳をやり直します。
【昔、天と地がまだ分かれて】いないときの事です。大概の現象は陰と陽を持ってすれば説明がつくのですが、【陰陽の区別も無かった頃】の事です。宇宙はドロドロしたような状態でした。しかし、【ほの暗くぼんやりした中に、牙が芽生えました】卵のそれは新しい生命を誕生させますが、それと同じように、ドロドロしたものは、【其れは清くなり陽となって、薄くたなびきながら、天となった】。
【重くて濁ったものは、下のものを覆い滞って、大地となった】清い部分が、つぎつぎ内ち合わさっていくのは簡単でしたが、【重く濁ったものは、凝固し難かった。だから、天が先に形成され、地が後から定まりました】
さて、このようにして天と地ができました。天地の間に、何かがあることは判りましたが、形がみえるわけでもありません。色が見えるわけでもありません。そこに神の存在を見たのだと思います。それは雷神であり風神でもあったのですが、その神はなにかを創造するに違いないと思ったようです。
その神の名前を國常立尊と呼びました。最大の尊敬の気持ちを込めて、「尊」という字をつけて「ミコト」と呼びました。次の神は、國狹槌尊、次に豐斟渟尊です。固まり始めた大地は、もう乾き始めていました。その道を、地球を創造した三人の神は、新しく生まれ変わられた神・独り神でした。純粋の男神でした。
始めの翻訳より、少し理解し易いものとなりました。ところが、驚いたことに、全体の流れは、現在、私たちが知っている宇宙の創造と同じようなことを書いています。
宇宙がどのように生まれたか。詳しいことは知りませんが、以前テレビでみた映像を思いだしますと、
宇宙には、重いものやら、軽いものがいっぱい浮いています。どの物質もそれなりに重さを持っています。重さに応じて、それぞれは他のものを引きつける引力をもっています。接近した二つの物体はお互いに引き合って合体します。次第に大きくなり自分の体を維持しきれなくなりますと、爆発をして分裂を繰り返します。これらの物質は、ドロドロしたもので、大きな回転運動を繰り返している画像を見たような気がします。間違っているでしょうか?
アメリカの宇宙飛行士が、宇宙に飛び出し、地球を眺めていたときに、殆どの宇宙飛行士が、神の存在を確信したと述べていました。日本書紀を編纂した人たちは、議論をしただと思います。
日本の歴史を正確に書くために、どうして始めに、地球ができたのか、どうして三人の神が出現したのか知りたいところです。
ところが、簡単です。彼らは、此れが間違いないであろうと言うものを、上のように書きました。ところが、他の本によると違う話も書かれていますと、ある書では、これこれと違う部分を書いています。それは、全部で6冊の本になります。詳細は日本書紀で確かめてください。以下に、簡単に記します。
① 天地の間に、一つの物が空中にあった。そのありさまは形容しがたい。其の中に神が生まれました。以下、神の名前が別名も含めて書かれています。
② 国も若く、大地も若かった時には、例えば水に浮かんだ脂のように漂っていた。其の中に、形が葦の芽のようなものが生まれて、それが神になった。
③ 天地がぐるぐる回転して、形がまだ定まらないときに、はじめに神のような人があった。
④ 天地がはじめて分かれるときに、始めて一緒に生まれ出た神があった。國常立尊次の神は、國狹槌尊。高天原においでになる神の名前は、天御中主尊、高皇産霊尊、、神皇産霊尊。 皇産霊を「ミムスヒ」と読みますと注がついています。
⑤ 天地が固まらないときに、海上に浮かんだ雲の根がないように、漂っている中に、一つの物が生まれた。葦の芽がはじめて泥の中から生えだしたようである。それが人となった。
⑥ 天地がはじめて分かれるときに、ある物があり、葦の芽のようで空の中に生まれた。これから出られる神を天常立尊という。次に可美葦牙彦舅尊という。

こんなに参考書があったのに、現在は一冊も残っていません。

No2 において、古事記の最初の部分に検討を加えました。もう一度、読んでください。もう一度、次に掲載します。

天地(てんち)を初めて開發する時、高天原(タカアマガハラ)に於いて、お成りになった神の名は、
天(アマ)之御中主神(テンノミナカヌシノカミ) 【訓、高下天云、阿麻。下效此。】
次に、高御産巣日神(タカオサンスビノカミ)。
次に、神産巣日神。 (カミサンスビノカミ)。
此ノ三柱(ミハシラ)ノ神は、並んで獨り身の神と成り坐して、身を隱されました。
次に、國は稚(ワカ)く、脂(アブラ)が浮く如くして、久羅下那洲多陀用幣流(クラゲナスタダヨヘル)之時【流字以上十字以音】葦の芽が牙の如くに、因(ヨ)りて、萌え騰(アガ)る物のようなときに、成れる神の名は、
宇摩志阿斯訶備比古遲神(ウマシカシカビヒコチカミ)。【此神名以音(此の神の名は、漢字の意味は無く、音だけです)。】
次に、天之常立神(アマノトコタチカミ)。【訓ずる 常と云う字は、登許(トコ)、訓ずる、立と云う字は多知(タチ)。】
此(この)二柱の神も亦、獨り神と成りまして、身を隱されました。
 
 上の件の五柱の神は、天神(アマのカミ)とは別の神です。

なにか気付かれましたか? 私が気づいたことを列挙します。
古事記に書かれていることを7つの説に分散したことになっています。
① 古事記では高御産巣日神と書かれているのが、日本書紀では高皇産霊尊。
  古事記では神産巣日神と書かれているのが、 日本書紀では神皇産霊尊。
古事記では天之御中主神と書かれているのが、日本書紀では天御中主尊。
古事記では宇摩志阿斯訶備比古遲神と書かれているのが、日本書紀では可美葦牙彦舅尊。
古事記では天之常立神と書かれているのが、日本書紀では國常立尊。
② 日本書紀には皇産霊を「ミムスヒ」と読むと断っています。断らないと読むことができないから、「ミムスヒ」と指定しました。古事記の方は、御産巣日となっています。 「ミムスヒ」と読めないことはありません。
③ 古事記では「神」となっている所は、すべて、「尊」になっています。これも「ミコト」と説明があります。説明をしないと判らないが、尊という字を使ったことがわかります。
④ 古事記に最初に現われた神は、天之御中主神、高御産巣日神、 神産巣日神の三人です。
  日本書紀では、三人とも出てきません。第4書にのみ、書かれています。
⑤ 古事記には、 「葦の芽が牙の如くに」と葦があります。日本書紀にも、 「牙(?)を含んでいた」とあり、葦を含んでいます。

一番のポイントは、⑤の葦のことです。古事記をもう一度読んでください。天地創造の話など、書かれていません。古事記が作られた712年に、これらの神は、各地の神社で祭られていました。その神社を訪れた稗田阿礼は、古老の話や神社の神の名前を入れて、物語を作成しました。そのように考えないと、蒜山高原や伯耆国には、古事記に登場する神が揃いすぎます。
三人の神は、新天地の開発をめざして、派遣された斥候のようなものです。目指して来た土地には、地名も何もありませんでした。(本当は縄文遺跡がありますから、住んでいましたが言葉は通じなかったと思います) そこで、どのような所か、状態を説明しています。
次回に詳しく書きますが、早春でしたので、ブナ林の上には、残雪がみられ、クラゲが浮いているように見えました。蒜山高原は、このとき、葦がいっぱい茂っている湿地帯でしたが、その葦は芽がぐいぐいと伸び、恰もその芽は牙のように見えました。
日本書紀の編集者は、古事記を見て、これに変わる日本書紀を作ろうと思いました。何故、作ろうとしたかは、後日、書いてみるつもりです。
イザナギたちが、蒜山高原に高天原を決めたころから、710年ころまでには、900年は経っていましたから、900年前がどのようであったかは、知らなかったはずです。代々言い伝えて来た天皇家でも判からなかったのではないでしょうか? 各地に残っている伝承や書物を参考にしても判からなかったのではないでしょうか?
ただ、作るのであれば、もっと簡単につくることができたと思われますが、天皇家に都合がよくても、日本書紀を書く人には、都合が悪かったことが、沢山あったようです。そのときには、古事記と日本書紀が一致しない現象が起きます。
今回の部分では④が代表です。日本書紀は、天之御中主神、高御産巣日神、 神産巣日神を書きたく無かったことになります。しかし、全く失くすと変に思われたらいけないので、④の書物を挿入しました。古事記が712年に完成してから、8年後に日本書紀が作られたのですから、古事記を参考にしたはずですが、古事記に書かれている内容の書物は、6冊のなかにありません。古事記のことは書きたく無かったことが判ります。

古事記の宇摩志阿斯訶備比古遲神と日本書紀の可美葦牙彦舅尊を見比べてください。
古事記のほうは、神以外は、音だけをあらわします。「ウマシアシカビヒコヂ」と読むことが可能です。可美葦牙彦舅尊の読み方は、原文では書いてありません。ただ、日本書紀には「可美」と読むと注釈が入っています。普通は読めないから、無理に読ませたことになります。翻訳者の宇治谷孟氏は、「ウマシアシカビヒコジ」と仮名をふっておられます。「アシ」と「ヒコ」以外は、読むことが出来ません。読み方が判らないので、宇治谷孟氏は、古事記の訳本を参考にされたと思います。この神も日本書紀の本文には掲載されていません。
日本書紀の編纂者たちは、葦と牙が気になりましたが、本文に入れるのに、苦労しました。
⑥ に書きましたように、「牙(?)を含んでいた」と挿入しましたが、意味が判らなくなっています。

この外に 日本書紀には「天地の開闢のはじめは」の言葉がありますが、古事記にはありません。「開闢」という言葉は、古事記の序文の後の方に使われています。
一番、おかしいのは、日本書紀の編集者は、神の名前を徹底して、古事記と別の表記をするようしています。これだけのことであれば、どういうことはありません。偶々、日本書紀の人たちが調べた部分と古事記を書いた人が、同じ神の名前であっただけですが。そうであれば、いくつかは同じ表記の神が存在してもいいのですが、100パーセント、今後も同じ表記はありません。しかし、同じ神と思えます。
 
もう一つ、大切なことは、「命」と「尊」です。古事記では、もう少し経ちますと、天神命とか伊邪那岐命が登場しますが「ミコト」と読むとは書いてありません。日本書紀は、両方とも「ミコト」と読むが、「尊」の方は、高貴なひとに使うと、これ又、注釈を入れています。入れないと誰にも判らなかったからだと思います。「命」は、注釈を入れなくても、「ミコト」と読んでいましたが、日本書紀の人は、「尊」の採用を始めて行いました。古事記に書かれている天神命とか伊邪那岐命よりも、日本書紀に出てくる國常立尊、國狹槌尊、、豐斟渟尊の三人の神のほうが偉いのだと表現したのだと思います。

このように分析してきますと、日本書紀では、古事記の書き換えをもくろみましたが、高天原の造語の意味が判らないという失敗をします。そのため、現在にでも通用する、天と地の創造を見事に解説したのは見事でしたが、古事記に書かれた葦と牙に惑わされて、この言葉を使うことによって、意味不明の箇所が生じることになります。さらに、古事記に書かれている「 上件五柱神者、別天神」をこの五柱は、天津神のなかの特別に重要な神と解釈したために、日本書紀では書かないで置くことになりました。
日本書紀の編集者が犯したミスと同様のミスを、現在の歴史家が行って、翻訳本が制作されています。
高天原は、単に「天族」の暮らす高原の意味であったのに、地球の創造として捉えることによって、天上界の物語という訳のわからない事になります。もっと、早く古事記が発見されておれば、誤解は解けたでしょうが、消し去られた古事記が発見されるには、その後、400年を要しました。
このホダンの掛け違いは、ここだけに留まらず、現代まで尾を引くことになります。

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2006.08.11

No 4 日本書紀の始めの部分

古天地未剖。陰陽不分。渾沌如鶏子。溟?而含牙。及其清陽者薄靡而爲天。重濁者淹滯而爲地。精妙之合搏易。重濁之凝場難。故天先成而地後定。然後神聖生其中焉。故曰。開闢之初。
洲壞浮漂。譬猶游魚之浮水上也。
于時天地之中生一物。状如葦牙。便化爲神。號國常立尊。〈至貴曰尊。自餘曰命。並訓美擧等也。下皆倣此。〉
次國狹槌尊。次豐斟渟尊。凡三神矣。乾道獨化。所以成此純男。

昔、天と地がまだ分かれてなくて、陰陽の区別も無かった頃、混沌として鶏の卵の中身のようであった。ほの暗くぼんやりした中に、牙(?)を含んでいた。其れは清くなり陽となって、薄くたなびきながら、天となった。重くて濁ったものは、下のものを覆い滞って、大地となった。精妙(せいみょう)なものは、搏(う)ち合わせ易かったが、重く濁ったものは、凝固し難かった。だから、天が先に形成し、地が後から定まりました。然る後に、其の中に神が生まれました。
それで次のように言われる。天地の開闢のはじめは、洲は壊れて浮き漂っていました。例えるならば、泳いでいる魚が水の上の方で、浮いているようなものでした。
そのような時、天地の中に、一つの物が生まれた。それは葦牙のようなものでした。便(やわらかく)化して神となりました。 名づけて國常立尊。(大変貴い方は、「尊」といい、それ以外の方は「命」といい、ともに、ミコトと訓(よ)む。以下すべてこれに従う)
次に國狹槌尊、次に豐斟渟尊と全部で三柱の神が生まれた。乾いた道を獨りで生まれ変わられました。だから、純粋の男性に成られました。

日本書紀は漢文で書かれているそうです。それを無視して、私なりに意味が通るように、解読して見ました。書いたものの自分でも意味が判らない部分を挙げてみます。
① 「陰陽の区別も無かった頃」陰の部分と陽の部分とは、日の当たらない所と陽の当たる所ですから、区別がはっきりしているということでしょうか? お前は馬鹿だな、陰陽とは、中国で有名な考え方だ? ? ? という声、陰陽五行からきているのだよ とか聞こえてきそうです。追い討ち掛けても「そんなこと知らないのであれば、日本書紀を読むな!!」とも。
以前に「陰陽五行」のことを書いた本を買って読んだことがありますが、チンプンカンプン。書いた人もよく理解していないのだなと思ったことがありますので、考えないことにします。
② 「混沌として鶏の卵の中身のようであった」この部分は、主語がありません。ということは、翻訳が間違っているのかも知れません。敢えて、主語を探すと、天と地でしょうか? 天と地とまだ分かれていないと書いてあるのですら、天と地ではありません。天と地が出来上がる前段階のものとなります。書いてありませんが、宇宙ということになるでしょうか?
③ 「然る後に、其の中に神が生まれました」其の中とは、どこでしょうか 。天が上の方に出来て、下の方に地が出来ました。其の中とは、天と地の中間のことでしょうか。昔は、其の中間に何があるか判りませんでした。しかし、なにかはあると思ったのでしょう。見えないけれども、ここに神がいるのだと。
④ 「開闢之初」とは、どういうことでしょう。「開」も「闢」も開くという意味ですから、開くという意味であることは間違いないのでしょう。なにを開くのかといいますと、どうやら「天地開闢」らしいです。講談社の『日本書紀・全現代語訳』の著者である宇治谷孟氏は、「開闢之初」の翻訳に、「天地が開けたはじめに」と翻訳しておられます。「開闢之初」だけでは、「天地が開けたはじめに」にはなりません。宇治谷孟氏は、「開闢」をどこかで、見つけられたと思います。古事記に、「自天地開闢始」の語句が見ることができます。「天地は分かれる」とは書いてありますが、「天地が開けた」とは書いてありません。
⑤ 「例えるならば、泳いでいる魚が水の上の方で、浮いているようなものでした」全く例えになっていません。前者は、「洲は壊れて浮き漂っていました」とあります。洲が壊れて浮くのをどうしたら見ることができるでしょうか? おかしいので、宇治谷孟氏は「国土が浮きただよっていることは」と書いておられます。ご自分が書きながら、どのような状態なのか、判っておられないと推察しています。本当は、宇治谷孟氏が悪いのではありません。日本書紀を書いた人が、古事記を見たときに、チンプンカンプンなので、自分なりに、古事記に書いてあることを取り入れて、新しい物語を書きました。その時に、古事記に書かれていた「上件五柱神者、別天神、」を翻訳をした倉野憲司氏と同様に、天つ神の中の特別の天つ神と解釈したのでしょう。古事記の作者は、是非とも書きたかったのですが、「天つ神」のことは、出来るだけ書きたくなかったので、五柱の神は、外して日本書紀を書いたと考えます。
⑥ 「乾いた道を」とはどういうことでしょうか? 理解できません。

まだまだ、ありますが、ひつこいですので、これぐらいにします。これだけ意味が判らないことがあるということは、翻訳の仕方が間違っているのかも知れません。翻訳が間違っていないということにしますと、何故、このような文になるのか 考えてみます。
それは、次回にします。

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2006.08.08

No3古事記の神はどのような神か

古事記のはじめに登場する神は、
① 天之御中主神
② 高御産巣日神
③ 神産巣日神
次に季節が変わって高天原にやって来た神は
④ 宇摩志阿斯訶備比古遲神
⑤ 天之常立神
 
 上件五柱神者、別天神、

この五人の神はどのような神か、判らないのが、私の最大の欠点です。欠点と云うものの、この後に、出現する神は、高御産巣日神ぐらいでしょうか? 別名は高木神と書かれています。アマテラスの代理をしています。
 岩波文庫の『古事記』では、明快に解いておられます。
① 天之御中主神は、高天の原の中心の主宰神。
② 高御産巣日神は生成力の神格化
③ 神産巣日神も生成力の神格化
④ 宇摩志阿斯訶備比古遲神は、葦の芽を神格化して成長力を現したもの。男性。
⑤ 天之常立神は天の根元神。

最初の三人の神は、原文をもう一度、読んでみます。「此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也」。「並」と「坐」の意味が判らないのですが、「獨神」は独身か独りの神の解釈しか無いと思います。三人一緒に隠れたのではなく、それぞれ、独りになって去っていったのでしょう。どちらにしても、どこかへ行ってしまいました。
その後、高御産巣日神は登場して、アマテラスと協同で、高天原を取り仕切っているようですが、はじめの段階では判りません。「天之御中主神」の「天」を高天原と解釈したか、「天上界」の天とされたか、どちらかでしょう。高天原の天の漢字を「阿麻アマ」と読むと指示はありましたが、「天之御中主神」の「天」を高天原と解釈するのは、無理でしょう。
②③は、産巣日から、巣を産むと考えられたのでしょうか? これは許されるとしても、産まれることが、生成力に繋がる点が理解できません。成長力がどうして、神がおこなっていることになるのでしょうか? 産巣日を「ムスビ」と読ませておられますから、辞書をひきますと、「産霊」と書いて、「ムスヒ」と読むそうです。一度、ご自分で調べてください。一層、難しくて訳の判らないことが書いてあります。
これは、「宇宙を作ったのは、すべて、神である」という考え方があるのでしょうか?
そのような神を英語では、GOD(ゴッド)、他の言葉では、なんというのでしょうか?
英語のGODを、最初に日本語に訳したときに、「神」と翻訳されたのでしょうか?
そのような問題ではなく、『古事記』を翻訳されて、岩波文庫で書物化された倉野憲司氏は、『日本書紀』も読まれたのではないでしょうか? 『古事記』を読むために、『日本書紀』を参考にされてはいけないと思います。『日本書紀』を読むために、『古事記』を参考にするのであれば良いですが。
 いや、それは反対であろうという方もおられます。なぜならば、『古事記』を書いた人は、『日本書紀』を参考にしたのだから。この点は、両書を比べながら読めば明らかになるからです。そのために、このシリーズをはじめました。
今は、どのような神であるか判らなくても良いように思います。

そのことよりも、【上件五柱神者、別天神】が重要だと思います。倉野憲司氏は、著書の中で、「天つ神の中の特別な天つ神」であると書いておられます。
古事記は、天武天皇の発願によって、制作されることになりましたが、制作は急がなくてはならないことが序文に記されています。そうしませんと、天皇家の歴史が蔑ろにされて、国が成り立たないと憂いておられます。それなのに、なぜか 直ぐには完成せずに、元明天皇の時(712年)に、完成しています。
何故 古事記を作ることになったかは序文に書かれているのに、問題にしておられる方は、素人ではおられません。序文は難解であるから、飛ばして、「 天地初發之時、於高天原」からはじめておられます。プロの方は、流石に、書いておられますが、序文の字句だけから書いておられます。壬申の乱のことが絡んでいますから、壬申の乱を間違って解釈しますと、古事記も間違ってしまいます。
と えらそうなことを書きましたが、古事記と日本書紀を比べながら、読むことを決心しましたが、序文は抜いて、「 天地初發之時、於高天原」から始めました。

天武天皇の希望は、天皇家の歴史を正しくする事です。別の言い方をしますと、誰が天皇家に属する者で、誰が天皇家と関係ないかを篩い分けることに主眼が置かれています。
書く事は簡単です。天皇家に入った人は、文句を云いませんが、自分が天皇家と関係があると思っているのに、外された人は、そのような本は、現在風に言えば、本人は買わないか、買占めして世の中から無くすことになります。

【上件五柱神者、別天神】は、五人の神は、はじめに登場したという記録はありますが、天つ神の中の特別の神では、古事記を書いた意味がありません。太安万侶は、五人の神さんは、天つ神とは、別の神ですよと、最初から、注意を促したことになります。
以上が、五人の神さんがどのような神であるか、判らないという私の言い訳です。

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2006.08.06

No 2 「 天地初發之時、於高天原」を読む

天地初發之時、於高天原、成神名、天之御中主神【訓、高下天云、阿麻。下效此。】
次高御産巣日神。
次神産巣日神。
此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。
 
 次、國稚如浮脂而、久羅下那洲多陀用幣流之時【流字以上十字以音】如葦牙因萌騰之物而、成神名、
宇摩志阿斯訶備比古遲神。【此神名以音。】
次、天之常立神。【訓常云登許、訓立云多知。】
此二柱神亦獨神成坐而、隱身也。
 
 上件五柱神者、別天神、

以上は『古事記』の本文の最初の部分です。一度、このまま、なんと書いてあるのか、読んでください。ヒントは6つです。
① 【 】で囲まれた部分が、三ヶ所あります。この中の文は、古事記を書いた人の注意書きです。
② 漢字ばかりですが、漢文ではありません。
③ 注意書きのない部分は、それぞれの漢字がもつ意味を含みます。
④ 横書きですが、原文は縦書きになっています。
  【流字以上十字以音】は、「流の字」より上の十字は、音(おん)を以って読む となります。
本当は、もっと他にルールがあるかもしれません。
⑤【訓、高下天云、阿麻。下效此。】は、「訓ずる 高の下の天は アマ。以下 此れに倣う」
⑥ 「天」という字は、4回出てきますが、⑤の注意書きのように、高天原とあれば、「タカアマハラ」というように、「テン」とは読まないで、「アマ」と読みます。以下に出てくる天は、「アマ」と読みます。

読めましたか? 私は次のように読みます。
天地(てんち)を初めて開發する時、高天原(タカアマガハラ)に於いて、お成りになった神の名は、
天(アマ)之御中主神(テンノミナカヌシノカミ) 【訓、高下天云、阿麻。下效此。】
次に、高御産巣日神(タカオサンスビノカミ)。
次に、神産巣日神。 (カミサンスビノカミ)
此ノ三柱(ミハシラ)ノ神は、並んで獨り身の神と成り坐して、身を隱されました。

次に、國は稚(ワカ)く、脂(アブラ)が浮く如くして、久羅下那洲多陀用幣流(クラゲナスタダヨヘル)之時【流字以上十字以音】葦の芽が牙の如くに、因(ヨ)りて、萌え騰(アガ)る物のようなときに、成れる神の名は、
宇摩志阿斯訶備比古遲神(ウマシカシカビヒコチカミ)。【此神名以音(此の神の名は、漢字の意味は無く、音だけです)。】
次に、天之常立神(アマノトコタチカミ)。【訓ずる 常と云う字は、登許(トコ)、訓ずる、立と云う字は多知(タチ)。】
此(この)二柱の神も亦、獨り神と成りまして、身を隱されました。
 
 上の件の五柱の神は、天神(アマのカミ)とは別の神です。

どうにか読んでみました。意味はお判りになりましたか? 意味を書いてみます。

新天地を始めて開発しようと、高天原にお出でになった神の名は天之御中主神です。次に、
高御産巣日神、次に、神産巣日神です。
次に、國はまだ早春の頃、脂(アブラ)が浮いているように見え、クラゲが漂っているように見える時、葦の芽が牙のように勢いよく、又、萌え騰(アガ)るように芽を伸ばしだした頃に、成れる神の名は、
宇摩志阿斯訶備比古遲神。
次に、天之常立神
この二柱の神も亦、獨り神と成りまして、身を隱されました。
 
 上の件の五柱の神は、天神(テンジン)とは別の神です。

さて、これで意味が判りましたか? きっと、お判りにならないと思います。10人の人が読まれますと、10人とも違った読み方をされるのではないかと思います。私の読み方は、6つのヒントを参考にして、又、漢和辞典も参考にして、最後まで、意味が通じるように無理やりに読んだものです。

無理やり読んだものと書きましたが、私が読んだどの古事記の解釈よりは、無理が無いように自負しています。
ただ、欠点があります。その点を次回に書こうと思っています。

以前に書いた五柱の部分の解釈 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page196.html

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2006.08.05

No1 最初が間違った

このタイトルは、いっぱい省略されています。主語は日本書紀を作った人です。
どこが間違ったのか----古事記が完成したのが、712年です。その古事記を見て、びっくりした人たちがいました。その時の天皇より実力があったと思われる藤原不比等をトップにするグループの人たちです。
 藤原不比等は藤原鎌足の次男であることは判っています。神代の時代から、神祇を司っていた中臣氏の末裔ということになっていますが、本当かどうかは判りません。
 世間に流布されている天皇に関する歴史は、間違いだらけなので、正確に正して書き改めたいと、天武天皇が言われ、命令を受けた稗田阿礼と太安万侶が古事記に著したと古事記の序文にあたるところに書かれています。

世間に流布されている天皇に関する歴史は、間違いだというのは、天武天皇の見解であって、天皇家には都合の良いところだけ書かれ、都合の悪い所は書かれていなかった可能性は充分にあったと思われます。右大臣であった最高権力者の藤原不比等にとっては、都合の悪いことが書かれていたのかも知れません。
そこで、藤原不比等は、古事記に代わるものを書き、古事記は無かったことにしようとした形跡があります。
古事記には、帝紀と本辞は虚偽が多いと書いています。この帝紀と本辞は参考にしたでしょう。もっと、他にも記録されたものはあったと推察されます。しかし、これでは足らなかったと見えて、各国に風土記なるものを提出するように命令を出しました。
これらの内で現在残っているものは、完全なものは、出雲風土記だけです。日本書紀やその後に、出された続日本紀なども、いっぱい残っていますが、日本書紀以前のものは、完全なものと思われるのは、出雲風土記だけです。日本書紀を除いてすべて、無くなってしまいました。
ところが、400年後に、古事記は発見されますが、世の中に現われたのは、本居宣長の研究を通してということになります。
本当ですと、他の書物と同様に、消えてしまうはずの古事記は、間違って、世の中に出現することになりました。
タイトルの「最初が間違った」はこのことではありません。

古事記と日本書紀は、少し、スタイルが違います。日本書紀の方は、書かれていることが、何年、何月、何日まで詳細に書かれています。 それだけではなく、どれほど、正確さを重要視したかを読者に印象付けるために、ある書物によると、このようにも書いてあったと、多いときは、10ほど違った説を掲載しています。
それに対して、古事記の方は、いい加減なところがあります。
ところが、日本書紀を作るときには、作者は、もっとも重要視して参考書は古事記であったはずなのに、全く見もしなかったように書かれています。そのことが一層不自然さを感じさせます。古事記によればという但し書きがあれば、もっと、真実らしく表現できましたのに、最後まで、古事記に書かれていることは全く書かれていません。
古事記というような書物は全く無かったことを書きたかったのだと思います。後世に、古事記が見つかることはありえなかったことになります。

古事記の本文は、「天地初めて発けし時、高天の原に成れる神の名は」から始まりますが、日本書紀の作成に携わった人は、この最初の文章の解釈を間違ったと思われます。所謂、ボタンの掛け違いという言葉がありますが、掛け違いは最後まで続くことになります。自分達に都合の良い日本書紀を書くだけではなく、古事記に書かれていることを消し去ることに力を入れることになります。
どのように掛け違ったかを次回に書いて見ます。

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