2008.06.25

No90 日本書紀と美濃王、御野王、三野王、弥努王、美務王

美濃王は、どのように読むのかは、正確には分かりません。仮に、全部、同じ王であれば、可能性としては、「みのおう」でしょうか?
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、(みののおおきみ)と「みののおほきみ」を記しています。
 (みののおおきみ)が正しいのかも知れませんが、私に限りますと、自分で(みののおおきみ)と読みますと、一瞬、思考が途切れます。
 難しいところですが、無理に、(みののおおきみ)と読まないで、「みのおう」が自然の様に思います。この読み方は、歴史を学ぼうかとおもう人を委縮させるように思います。
 
 さて、本題です。美濃王、御野王、三野王、弥努王、美務王と並べました理由は、全部、「みのおう」と読んだのではないかということを言う為です。
美濃王、御野王、三野王は、「みのおう」と読めますが、弥努王、美務王は読めません。
弥努王と書いてあるところでは、同じ人物を「みぬおう」と発音していたため、書くときには、弥努王、美務王と書いたのではないでしょうか?

 このことを考える資料として、次に、日本書紀に書かれた「みのおう」を記して置きます。

(1) 天武天皇2年(673年)12月17日に、小紫(従三位)・美濃王は、小錦下・紀訶多麻呂 とともに造高市大寺司に任じられた。高市大寺は大安寺の前身。
「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」では御野王と記される。
(2) 天武天皇4年(675年)4月10日に、小紫(従三位)・美濃王は小錦下・佐伯広足とともに遣わされて竜田の立野(奈良県三郷町立野)で風神を祀った。奈良県三郷町立野にあたる。天武朝では、竜田風神と広瀬大忌神の祭りは『日本書紀』に連年記録された重要な祭祀で、その初見がこの年のものである。
(3) 天武天皇10年(681年)3月17日に、天皇は帝紀と上古の諸事を記し、確定させた。その詔を受けたのは、川島皇子、忍壁皇子、広瀬王、竹田王、桑田王、三野王、上毛野三千、忌部首、安曇稲敷、難波大形、中臣大島、平群子首であった。
(4)天武天皇11年(682年)3月1日に、小紫・美濃王及び宮内官大夫等に命じて新城(平城)に遣いして、其の地形をみるように命令する。新しい都を作ろうとされた。
(5) 天武天皇13年(684年)の2月28日には、三野王は采女筑羅とともに信濃国に遣わされ、地形を見るよう命じられた。
(6)  天武天皇閏4月11日に、三野王は信濃国の図を提出した。
(7) 天武天皇14年(683年)9月11日に、天皇は宮処王、広瀬王、難波王、竹田王、弥努王を京と畿内に遣わして、人々の武器を検査した。
(8)持統天皇8年(694年)9月22日に、浄広肆(従五位下)三野王は筑紫大宰率に任命された。

タイトルにどうして、日本書紀を入れたかと云いますと、同じ人物なのに、日本書紀の作者は、どうして漢字を変えたのかを知りたいからです。

日本書紀は、いろいろ不思議な部分があります。神武天皇は沢山書いたのですが、神武天皇のことは書きたくなかったのではないかと思っています。普通は、書きたくなかったら、書かなければいいのです。このように考えますと、その後の天皇で、書いてある事柄が少ない天皇があります。書きたくなかったのだと思います。
 では、神武天皇は、何故書きたくないのに、いっぱい書いたのでしょう。
このことは、又、判りかけたら書くこととして、美濃王のことは、ある程度、真相に迫れるのではないかと思っています。

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2008.01.17

No89引佐郡細江町の銅鐸

引佐郡細江町は、引佐郡引佐町の南に位置します。都田川を東の方から、下ってきて水は、細江町を通過して浜名湖に流れ込んでいます。
Photo


この地図は、季刊「自然と文化」の小集落の地名 P33の地図に手を加えました。
下部の黒い○は、銅鐸出土地です。細江町からは、9個出土しているのと、東からでは、最も東の地区から出土しています。静岡県では20個出土しています。ということは、静岡県は、銅鐸に関しては、特殊な地域とみられますが、なぜ、静岡県に銅鐸が多いかは、どなたも説明しておられません。
西に斜めに3つ並んでいますが、ここの地名は、「七曲り」です。西から、「悪ヶ谷」「大谷」「小砂川谷」「穴ノ谷」「才四郎谷」と谷があったことが判ります。(p36に拡大地図より)
少し、汚いですが、銅鐸が埋められた時は、赤く色を塗ったところは、水があったことになりのす。この上の直線で区画された部分も海水があり、葦原だったと思われます。
一番西の3つのうちの、西側は「悪ヶ谷」です。谷を渡ったところに「銅山」という小字名になっています。その東にある銅鐸出土地は、「小砂川谷」です。

従いまして、「銅山」で採掘された銅で、銅鐸が作られていた可能性はあります。ただ、銅鐸を使っていた人たちは、引佐町の方に住んでいたのではないかと推察しています。
 もう少し、東へ行きますと、天竜川があります。この辺りに入植した人を指導したのは、引佐町にいた人たちではないかと考えています。即ち、イザナギに由来する人たちが引佐町・細江町に住んでいたのではないか?
静岡県の銅鐸出土地の一覧表を作って置きましたので、眺めてください。なにか連想できるかも知れません。(全部作ったつもりですが、掲載されていません)

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2008.01.14

No88風土記の編纂と逸文と残欠

奈良時代の初め、713年(和銅6)5月、元明天皇は諸国に風土記(ふどき)の編纂を命じた(この時点では風土記という名称は用いられていない)とされています。
されていますと、書いた理由は、この文章はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
から拝借したもので、自分で確かめていないからです。

私が問題にしたいのは、713年(和銅6)という年代です。5月という月まで、書かれてあるということは、確かな証拠が残っているということです。713年という年は、どのような年かと言いますと、712年に古事記が編纂された年です。

現在の歴史家は、日本書記が正しくて、古事記はそうでないようなとらえ方をされているようです。一言では言えませんが、私は、逆ではないかと思うようになっています。

そのことと、タイトルの「風土記の編纂と逸文と残欠」とどのように関係があるのかです。
そのことを知って頂くためには、私が現在書いているブログ「新しい日本の歴史」を読んで頂くしか、簡単な説明の方法はありません。
 結論だけを書きますと、712年に完成した古事記を見た藤原不比等は、古事記に書かれていることを見て、驚いたと推察しています。しかし、不比等の行動は、素早かったようで、風土記の編纂と日本書記の編纂を命じたと推察しています。
一行目に、風土記の編纂を命じたのは、元明天皇と書きましたが、これは間違いで、藤原不比等でしょう。
 
日本書記の編纂を命じられた人たちは、一から調査するには、膨大な時間がかかりますから、早速、古事記を参考にしながら、日本書記の編纂をおこないました。少しでも、両方の本を読まれた方は、歴史の資料としては、日本書紀の方が優れていることを知ることが出来ると思います。
 日本書紀は、歴史を時間的に、古い方から並べて書く編年体という書き方で書かれています。一方、古事記のほうは、天皇家のことが中心で、しかも、登場する人物(神の名も含む)の血縁関係を重要視した記述で正しいという証拠はなに一つありません。
 ところが、日本書記の方は、古事記のことは、一切触れずに、内容に辻褄が合わないようなときには、日本書記の編集者は、このように思いますがと前に書いておいて、後ろに、ある書物では、これこれのことが書いてありました。多い時には、10例ほど、書かれてあります。この部分が、現在の人に人気があるところらしく、歴史家は、この「ある書」の部分から、自分の説に都合のよいものを採用して、論説を展開されますから、いろいろの部分の組み合わせによって、なん百という仮説が生じることになります。
その時には、人文科学ではいろいろの説があっていいのだという捉え方があるようで、歴史はてんでバラバラの感があります。おかしいでする。歴史、特に古代史では、判らないことが多いことは、事実ですが、本当の日本史は、一つしかありません。
 このような意味では、自然科学を学校で学び、その考え方を使って、50年も生きてきましたから、人文科学もサイエンスである以上、自然科学と同様な手法で説明をしようと思っています。自然科学の様に、説明をしまして、その後、同じような手法で、他の人が違った角度から調べ直します。同じ結果が出ます、その結果は、正しいと認めることになります。

人々は、自分に生きていた証しとして、後世に残しておきたいと思うらしく、誰かが、いてくれるのを待っていますと、待ちきれませんので、自分で書くことが流行しています。所謂、自分史です。自分は、どれほど、苦労をしたかを書く人もおられます。自分は、こんな成功をおさめましたを強調する人もおられるでしょう。しかし、自分は、こんな恥ずかしいことをいっぱいしましたと書く人は、100パーセントいないでしょう。社史、府県史、市町村市、警察史、いくらでもありますが、プラスの面ばかりです。

このように考えますと、古事記も日本書記も書いた人の都合の良いことばかりが書かれています。
日本書記を編纂した人は、100パーセント古事記を参考にしたはずですが、それは、知られたくなかったと見え、古事記に書かれていて、日本書紀にも書かれている地名や人物名は、尽く、漢字の書き方を変えました。
これほど見事に書きなおすことは、古事記を見ながら書き改めませんと、他の本からの参考だけでは、不可能です。なぜか、その後、古事記は世の中から、姿を消します。しかし、400年後に、姿を表したことが知られています。
 消し去ったはずですが、代々、消されないように残した人がいたことになります。

随分、前置きが長くなりましたが、古事記を参考にして、日本書紀を書くだけでしたら、風土記は、必要ありませんでしたが、完全に残っている出雲風土記を見ますと、わたしには、軍事資料に見えます。
 自分の国のことを洗いざらい書いて提出した国と、提出しなかった国で、その後の政府(藤原不比等)の対応は変わったと思われます。
現在、残っている風土記は、出雲国風土記がほぼ完本で残り、播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記が一部欠損して残っているそうです。

その残り方はいろいろと思われますが、播磨風土記逸文と丹後風土記残欠などと、研究者によって、使い分けておられます。私は、逸文のほうが、沢山残っているのではないかと想像しています。残欠となりますと、残っている者が、少ない。考えようによりますと、残欠の形でも残しておきたかったから、残ったということではないかと思っています。具体的に、言いますと、丹後風土記残欠は、藤原氏の人にとっては残ってほしくなかったのではないかと思っています。全く残っていない風土記の地方は、残欠すら残らないように末梢されたと考えています。
 では、残った出雲国、播磨国、肥前国、常陸国、豊後国は、藤原氏にとっては、優等生だったことになります。このことは、今後の私の課題ですが、出雲国と常陸国は、解決済です。 

いろいろの苦労を重ね、日本書記は、古事記の完成12年から 8年後の720年に完成しました。
中国人が、自分たちの社会を築き、記念に、「大化」という元号を作用したのが、645年です。それから、75年後に、天皇制という仕組みは、残しながら、むずかしい傀儡政権を獲得した記念誌として、日本書紀は完成したと考えています。
しかし、それと同時に、力を使い果たしたように、同じ720年に死ぬことになったとみています。    
その後の藤原氏は、順風満帆とは参りませんでしたが、全国に根を下ろし、その拠点と思われる所の神社には、式内社という名前をあたえたと考えています。
「式内社と祭神」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html                   H20.01.14

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2008.01.06

No 85 元伊勢 「遠江国浜名宮」

元伊勢と呼ばれる神社は、あちこちにありますが、「遠江国浜名宮」は、伊勢から近いと言えば近いのですが、丹後の国から、どこか良い所はないかと、順番にやって来たにしますと、離れていると思いながらも、気になるので行ってきました。
 随分、古い話です。記録を探し求めるだけでも、随分掛りました。平成13年2月11日・12日と一泊で行ってます。

どこかに、この時のことが書いてあると思って探しましたが、見つかりませんでした。あの時は、カーナビもなく、旅行は大変であった記憶が残っているだけです。行った割には、殆ど、歴史的な成果がなかったらしく、旅行記のように書いたものが残っていました。これはこれで、記録ですので、そのまま、以下に記します。


日本は広いな!日本は古い国やな!

久し振りに 一泊の旅行をしてきました
    雪の心配をしながら、 満開の菜の花を眺めてきました。

2月11,12日の連休に一泊で、山陰地方の蹈鞴(製鉄)のあとを数箇所見学に行くつもりをしていました。
急に、今が冬である事に気づきました。私は大阪に住んでいますので、 中国自動車を利用する事になりますが、時によると、お隣の兵庫県からは、雪のためチェーンが必要になります。チェーンを持っていない、雪の上を走った事の無い私ですから、何も無理をすることはないと考え、中止にしました。暖かいところでは、和歌山、淡路島、四国がありますが、すべて、最近訪れています。
調べものをしたいところとしては、伊勢市・上野市・岐阜県本巣郡・静岡県引佐郡です。
上記の4箇所は、天候が悪ければ、どこも、雪に遭いそうなところを通過しなければなりません。鈴鹿・関ケ原が問題です。冬に走った事の無い私ですが、 やはり、チェーン無しでは、えらい目に遭うと想像し、買う事にしました。 チェーンを購入したのは、20年ぶりです。自動車部品の店に入ったことの無い私は、ただ、製品の多いことに驚き どれを選択したらよいかに困惑し、又、20年前の金額より随分高いことに、又もや驚きながら、購入。 帰宅後、実際に装着しますと、不器用な私でも、一分で装着。20年前、雪が降りしきる、真っ暗の中で、ジャッキーで車を持ち上げながら、 凍える手でチェーンを装着した事を思い出すと、これなら、値段の高いのも納得と言い聞かせながら、トランクに収めました。
名神を走行するうち、米原に近づくと雪に覆われた伊吹山(滋賀県ではもっとも高い山だと思いましたが)が気持ちの良いほどに美しく眺められます。 チェーンを持ってきて良かったと思いながら、走りますが、醒ケ井を過ぎるところから、道路が少し、融解剤?で白くなっているぐらいで、 雪は皆目無しでした。
三ケ日のインターで高速を降り、目指すは、「英多神社」という神社ですが、食事をとったお店で尋ねると、誰も知らないとのことでした。「御園」という地名があるので、その方向へ車を走らせる。途中。電話ボックスがあるので、電話帳で確認、記載されていない。 ということは、神主さんが居られない神社と判断する。 それなら、図書館に行って、本で調べようと図書館の電話番号を見ましたが、やはり、記載されていませんでした。(図書館は立派なものが出来たばかりのようで、電話帳にも掲載されていないようでした。休館日。)
次は、町役場へ行きましたが、日曜日で閉鎖。お隣消防所をたずねました。我ながらいいところへ来たと思っていました。火事の知らせがあれば、町内どこへでも行ける人です。5~6人居られた署員の方は、誰もご存知ありませんでした。 三人寄れば、文殊の知恵とはよく言ったもので、 次々アイデアが出まして、どうやら、「浜名総社神明宮」の中にあるのではないかということになりました。 と同時に、ある署員の方は、「初生衣神社」の神主さんに、電話をしてくださいました。話がややこしいので、直接私が受話器を取り、お話をお聞きすると解決でした。 
私が、目指していた神社以外に、「初生衣神社」も、「岡本八幡宮」という神社も関係あることを教わりました。「暫く、居ますから、来られたらいいですよ」と言ってもらって、いく事になりました。
この目指す、神社がどのようなものかを簡単に書いてみます。
私も詳しいことは、よく判りませんが、日本の初代天皇(ハツクニシラス天皇)は、二人おられて、はじめの天皇が、神武天皇です。今から、2660年前に奈良の橿原の地に、都を定め、「ヤマト建国」の第一歩を築いた事になっています。その後、天皇は綏靖・安寧と続き、 第10代は 崇神天皇ですが、やはり、「ハツクニシラス天皇」と言われています。
崇神天皇は紀元前30年頃の天皇と言う事になっていますが、 諸々のことから考えると、3世紀ごろではないかと言われています。 どちらにせよ、随分むかしのことになります。 崇神天皇のときに、宮中で祀られていた 皇祖神である「天照大神」を、奈良の笠縫村に祀ったと『日本書紀』という書物に書かれています。そのときの世話役として、「豊鍬入姫命」という人が選ばれています。 どうやら、笠縫村は、居心地が良くなかったと見え、3年後には、丹波国の吉佐宮に宮を移しています。 その後、「倭姫命ヤマトヒメノミコト」という人が、御守役として仕えながら、適当な場所を捜し求め、50数年後、今の伊勢神宮に宮を定めた事になっています。
伝説をも含め、29ケ所の地を訪れた事になっています。 その内の、一つが、「遠江国浜名宮」であり、「尾張国中島宮」です。 
前者が「英多神社」であり、一宮市の「酒見神社」であろうと言う事で、 実感を得るために、訪問する気になりました。
神社の話は、これぐらいにして、「初生衣神社」におよりして、神主さんのお話を少しだけ、お聞きしました。名刺を頂戴して、びっくりです。 「神」「上」さんというお名前の人は、どこでみたような気がしましたが、「神服部 博喜」 のお名前は、初めてでした。 ご本人も、日本で一人ですと言われ、 〔かんはとり〕とふり仮名が振られてありました。 神社のある辺りは、現在は〔岡本〕と言われていますが、ずっと、「ごんど」 (ごうどだったかな?)
漢字で書くと 「神戸」と書きます。 全国に一杯あります。 神社の租・庸・調を受け持つ人たちの事でもあり、その人たちが住んでいた土地に名前が残っています。前に書きました「御園」は、その人たちが作っていた野菜園のようなものでしょうか? 伊勢神宮を支えていたところは間違いありません。 
この日の宿は、渥美半島の先端の伊良湖に定め、車を走らせますと、田原という町の近くで、「神戸」という地名を見ました。また、宿の直ぐ近くに、東大寺の瓦を焼いたという窯跡を見てきました。伊勢ではなく、東大寺となると随分遠いですが、 瓦を焼いては、運んでいたのを想像すると 日本と言う国は、「古いなあ」と思えました。
伊良湖の風は、まだ冷たかったですが、菜の花の絨毯が、私を歓迎してくれました。
この一日で、 日頃、50キロも走らない私は、300キロを走り、それも、雪の心配をしながら、春の訪れを感じました。「日本は広いな」と感じた次第です。
翌日は、フェリーで知多半島の師崎(モロサキ)へ渡り、一宮へ。 目指す「酒見神社」は今伊勢という町にありました。ここにも、どう読むのか知りませんが、「神戸」という地名を認めました。
倭姫命が滞在されたところは 「元伊勢」と呼ばれています。伊勢神宮が定まるまで、伊勢のできるまでの元になったところと言う意味でしょうか? 「笠縫村」 以外は、作り話であるように書かれた書物もありますが、 「神戸」「御園」などの地名まで、創作する事は大変です。 これらの地名が記載されている書物まで、偽物を作るとなると膨大なものになります。 やはり、素直に、伝承されたものを受け入れればいいとおもいました。
帰宅後、 電子電話帳で調べました。
神服部というお名前は、一件だけでした。
服部さんは 35585人 。神さんは 3795人 。上さんは 1056人。 上見さんは 241人。
加美さんは 156人。 加美さんは 156人。 紙さんは 95人。 賀美さんは 27人。 香味さんは 26人。
嘉美さんは 15人。 嘉見さんは 49人。
このような数字を見ると、いかに、「神服部」というお名前が特別であるかと言う事がわかります。
長い事、お付き合い有難うございました。
最後に 伊良湖の海の幸は 美味しかったです。 一度、訪れられる事をお奨めします。
以上です。
歴史的な成果が無かったので、下手な旅行記を書いたようです。
下手でもなんでもいいですね。

久しぶりに、思い出しました。

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2008.01.02

No84 三重県の神島

又かと、思われるかもしれませんが、地図を出してください、愛知県の渥美半島の先に伊良湖岬があります。三重県と伊良湖岬の間に、神島があります。
 伊良湖岬には、泊まったことがあるのですが、伊良湖という湖はあったでしょうか?
ここは、元々、伊良古ではなかったかと思っています。伊良湖岬と神島を結んで、南西に行きますと、加布良古岬があります。
 ここは、安楽島というところの岬になります。安楽島町字加布良古に伊射波神社があります。
志摩国の式内社の三座は三座あると延喜式に書かれています。
粟嶋坐伊射波神社二座
粟嶋坐神乎多乃御子神社
両方とも、粟嶋と書いてありますが、今は安楽島です。

このことは、「楽しい人生」の中の「古事記と日本書紀」のカテゴリーの中の、No66、67
に書いています。http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2007/09/no37_12a4.html

その加布良古と伊良古が、関係があったのではないかと思っています。

もう一つは、岡山県笠岡市に高島という島があります。この島へ行くときは、「神島」から船に乗ります。
カミジマではなくコウノシマと読みます。この読み方はユダヤ人がつけた名前です。この土地は特別な所です。

突拍子も無い話と思われるかもしれませんが、古事記に書かれていることが本当のことであると考えます。高天原は蒜山高原にありました。ここに最高峰の1218mの毛無山があります。この毛無山の真北に宮内(神武の御所)があり、真南に高島と神島があり高島神社と神島神社に神武が祀られています。
又、神島は淡路島の伊弉諾(イザナギ)神社と御所市の本馬丘と同一緯度にあります。このような位置関係にある場所を設定するということは、緯度の測定ができ、地図を持たなかった古代人の知恵だと思います。
神島の北に福浦という地名があります。福浦は、神武天皇が、中国の雲南省から苗族を入植させたところだと思われます。

もう一度書きます。笠岡市の神島は、鳥取県の宮内と南北に並び、同緯度ということは、淡路島の伊弉諾神社と奈良県の御所市の本馬丘と横に並んでいることになります。これだけ、重要な位置が、偶然に並ぶことがあるでしょうか?

今度は、三重県の神島です。
12月2日、紅葉の俳句を作りに行こうと、妻と出かけました京都府福知山に大江町があります。ここには、元伊勢と呼ばれる内宮の皇大神社と外宮・豊受大神社があります。
ここは、以前に行き、荒廃していますから、もう駄目になっているのではないかと心配して行きました。そうしましたら、修理中でした。

そこで、「今年一番嬉しかったこと」に書きました。
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/432029/ 5回に分けて書いています。
 
外宮を先に行き、次は内宮に行きました。ここの壁に、次のような写真にあるように、壁に絵が貼ってありました。(写真をクリックしますと、大きくなります)
Photo


字が小さいですが、冬至のときに、伊勢の海に出た太陽は伊勢の内宮・外宮を通り、大江町の内宮を通り、日室山の頂上を通過していることを表しています。

日室山の写真 を掲載します。
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日室山は、麓からみても、綺麗な二等辺三角形の山です。写真の位置は、内宮から天岩戸大神宮へ行く途中にある遙拝所からのものです。

私はこのようにきれいな二等辺三角形の山は、人間が整形し、目印にしたり、ノロシをあげたりしたところだと思っています。

 今度はもう一度、伊勢です。外宮を通過した太陽は、一志町美杉村を通過します。
インターネットで、「日置 美杉村」を入力しますと、日置という方の会社などがいっぱいでています。電話帳で調べますと、半分ぐらいの方が、日置さんです。
わたしは、日置さんは、この通信網を構築した人たちの子孫ではないかと思います。日置流という弓の流儀がありますから、同時に、軍事面にも携わっていたのかも知れません。
 以前に日置で調べたことがあります。

http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page180.html
に掲載しています。この中の「現在の日置姓の府県別数」が自分で褒めるのも、変ですが抜群です。 鹿児島を除きますと、現在の絹の生産地に集中します。
鹿児島は、神武天皇と関係があるのではないかと考えています。吉野ヶ里を攻撃するときに準備をしたのではと思っていますが、証拠はありません。
前回に、No83水に見舞われた伊勢神宮内宮
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2007/12/no83_2f79.html
最後に、内宮ははじめに、どこに造られたかですが、私は斎宮の近くであったのでは無いかと推察しています。即ち、斉宮から離宮院までの間にあったと考えています。

続けて書きますと、長くなりますので、次回にその理由を書こうと思います。
と書いています。神島と大江町の内宮とを結ぶ、線上に造られていたのではないかの推理の根拠を今回述べました。それは、斉宮の近くにあるのではないかと思っています。

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2007.12.23

No83 度々洪水に見舞われた伊勢神宮内宮

斉宮の研究は進んでいまして、いろいろのことが判ってきたようです。制度が確立したのは、天武天皇の御代になってからとされています。そうなりますと、現在斎宮跡とされているところは、あまりにも、内宮から遠すぎるように思われます。制度は、天武の御代ですから、680年頃ですが、内宮が出来たのは、宮中に祀られていたアマテラスが、追い出されたのは、崇神天皇の御代ですから、西暦180年頃になります。それから、元伊勢と称せられるところで、4年ぐらい滞在しながら、巡行を繰り返しながら、伊勢に落ち着かれましたから、100年はたっているでしょう。280年の頃でしょうか?
 この時に、斉宮も神社も近くに建てたと思われます。
ということは、400年ほどたってから、斎宮は、立派なものになったと思われます。最も、その前に、外宮が丹後のほうから、豊受の神を呼び外宮に祀られました。
伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている。450年ころのことです。
 この頃は、倭の五王と言われている中国人が、勢力をもっていた時代で、丹後も大きな古墳からは、漢鏡が出土していますから、中国人の圧力で、外宮が作られたのではないかと、推察はしていますが、証拠はなしです。
 少し、調べたところでは、内宮と外宮は、アマテラスの食事の世話どころか、仲が悪かったようですし、江戸時代までは、外宮の方が、力が強かったようです。この辺りのことを調べるとしますと、新しい課題となります。
 
 現在の外宮である豊受皇大神宮の所は、海抜4mですから、海岸の近くに建てられたと思われます。一方、斎宮跡は13m、勝見 10m、明星 10m、新茶屋 10m、明野9m、新出 8m あげました地名は、道路に沿ってある地名を見ました。海抜が殆ど一緒ということは、この道は、昔から使われていた道だと思います。
 地図をご覧下さい、。この道路の名前は判りませんが、この道だけ曲がっています。その田はまっすぐですから、古いことが判ります。この道は、明野にきますと、集落が途切れています。きっと、この辺りは、洪水があったと思われます。JR宮川駅のところに、離宮院跡があります。ということで、現在の内宮、外宮に行くときは、この道を通った可能性が大きいです。宮川橋を渡りますと、外宮です。
離宮院は、斉王が伊勢神宮に、年3回訪れるときに、宿泊したところです。離宮院から外宮までの地図ありますから、
http://www.yokoyama-vc.jp/marugoto/walking60/12.pdf 
クリックして、拡大してから見てください。

内宮ははじめに、どこに造られたかですが、私は斎宮の近くであったのでは無いかと推察しています。即ち、斉宮から離宮院までの間にあったと考えています。
続けてかきますと、長くなりますので、次回にその理由を書こうと思います。

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2007.12.17

No82 滝原神社と洪水

No78 において、天照大神を奉斎する地は、『倭姫命世紀』によると、次のような順番で変遷したと記しました。その26番目に、矢田宮と書きました。ここは、三重県伊勢市
楠部町字口矢田とされています。楠部町は範囲が広いので、一概には言えませんが、海抜4m~7mの地帯のようです。
 伊勢は、地盤が固いのか、川から離れますと、意外に海抜が高く洪水になっても内陸部まで浸水しなかったのではないかと考えますが、紀元前後ですと、海抜4mぐらいの所は、海だったのではないかと想像しています。

現在の滝原神社のところで、地図を見ますと、ダムが造られていて、これは農業より治水のためではないかと思っています。支流の大内川のほうへ、ダムが伸びていますから、きっと、大内川の方が水量がおおいのかも知れませんが、宮川の方が、渓流が深いのかも知れません。
治水のためにダムが造られているにも関わらず、滝原神社が沈むほどの洪水が3年前にあったということは、下流では昔から3年に一度ぐらいの洪水はあったはずです。

そこで、滝原神社の所から、地名を適当に取り、その場所の海抜を書いてみました。
滝原神社(三瀬川) 61m、--瀬戸 50m、神原(このはら) 48m、黒坂 29m、大久保 18m
岩出 4m、鹿海町 3m、楠部4m~7m、 宇治山田3m、神宮神田 5m

伊勢内宮 9m
如何ですか? 滝原神社(三瀬川)から-瀬戸で10mの落差です。黒坂から大久保までも、同じく10mの落差です。大久保から岩出までは、14mの落差です。岩出以降は、海水が来ていたか、逆流していたはずです。

そこで、私は内宮が作られた時は、現在のところではなく、別のところであったのではないかと考えました。その一つの根拠が、現在のところですと、洪水には遭いませんが、現在の所は、斎宮から遠すぎるのが気に入りません。では、どこに造られたかを検討します。

伊勢神宮を建立したときに天照大神から倭姫命への神託があったことが、記録にあります。『日本書紀』垂仁天皇25年春3月丁亥朔丙申条では「是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國」、『倭姫命世記』では「是神風伊勢國 即常世之浪重浪皈國也 傍國可怜國也 欲居是國」であります。意味は、神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の波の敷浪の帰(よ)する国、傍国(かたくに)の美まし国なり。この国におらんと欲(おも)ふ。と書いてあるのをここに借用しました。傍国を方国、すなわち、大和にくらべて、地方の国ということにしておられる方もおられました。
『倭姫命世紀』は768年禰宜五月麻呂の撰録と伝えられますが、鎌倉時代、伊勢外宮の度会氏が編纂したものとされています。詳しくは良く判っていないようです。
神託の内容は、日本書記と全く同じですから、神社関係の人が、日本書紀を移したことになります。問題は、この文章を神社の人は、信頼したというか、あまり考えずに移したかで、対応が全く異なることになります。
斎宮歴史博物館 http://www.pref.mie.jp/saiku/HP/ のホームページを読んでいますと、プロの研究員の方は、あまり、『倭姫命世紀』に書かれていることを信用されていないようですが、なにもないのに、このようなことも書かないでしょうから、神社の人が、このように考えたでも良いのではないかと思います。

神託は、僅か、これだけです。「是神風伊勢國 即常世之浪重浪皈國也 傍國可怜國也 欲居是國」 なのに、誰も正確に現代文にしておられません。 
意味の理解できない言葉が、4つもあるからです。
(「皈」の漢字は、「帰」と「歸」と同じです)
 神風、常世、傍國、可怜
①神風 は辞書を引きますと、枕詞と書かれています。日本書紀はそれ以前のものですから、昔から、神風という言葉は使われていたのだと思います。
 風神といったかどうか分かりませんが、古事記には、イザナギとイザナミが、志那都比古神(しなつひこのかみ)を生んだと記しています。日本書紀では級長津彦命(しなつひこのみこと)と表記されています。余談ですが、日本書紀は古事記を参考にして作りました。しかし、古事記と同じ漢字は一切使っていないため、どうしても無理があり、級長津彦命は、シナツヒコと読むことはできません。しかし、日本書記は、「長」の漢字を使っていますから、志那都には、息が長い意味があると書いておられる方がおられます。
息が長いと良いことは、海に潜るのにいいのですが、風の神ですから、息吹が長いと製鉄や土器を焼くときに上手くいきます。
 風には、雷神と風神が対になって、害を与えることもありますが、神に祈ることによって、自分たちの都合の良い風を神風と言ったのだと思います。
 
 その実際に神が出てくるのは、奈良の龍田神社に見られます。龍田神社の祭神は、
天御柱命(あめのみはしらのみこと)・国御柱命(くにのみはしらのみことです。同社の祝詞などでは、天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされていています。
『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたとい言います。
天武天皇の所に、「竜田の風神・広瀬の大忌神を祭った」という記録が、元年07月16日まで毎年続けられます。そのことが、気になって、調べたことがあります。私の推理は、奈良の法隆寺の西にある竜田神社の所は、鉄の生産をしていたのではないかと考えて、探りました。この時に、広瀬神社の方は、奈良県の水をすべて集まってくる所にありましたので、天武天皇は、風の神さんに、適当に風を吹かせるように、祈らせたのではないかと思いました。しかし、龍田の鉄の生産は、はっきりしませんでしたが、今でも裏山は、大阪府の柏原市の製鉄が行われたところですから、龍田も関係があったと考えています。その時に考えたことを
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2006/10/index.html 
のNo30~38に書いていますので、読んでください。
 
 長くなりましたが、ここの神風は、神さんが、人間にやさしい風を送ってくれるところだと解したく思います。伊勢の地で、祈りますと、きっと願を叶えてくれるでしょうと。

②常世。 この言葉が難儀です。 そのまま読めば、常に変わらない。永久に変わらない。常世の長鳴鳥、常世の木の実(橘の果実) 、常世の国 (不老不死の国、海の彼方にある国、死人の国) 常世の虫、常世物、常世辺、などとして使われています。すべて、古事記や万葉集などで使われています。
ここでは、いつまでも居たいような国でしょうか? 「浪重浪皈國」波が何度も押し寄せ、返す国とありますかすら、海岸縁にあることになります。楠部4m~7mの矢田は、作ろうと試みたのではないでしょうか? 葦が生えていたように思われます。洪水もやって来たと推察されます。
私は、楠部4m~7mの矢田ではなく、現在、斎宮跡とされている近くの海岸に近い所ではなかったかと思っています。げぐうは、確か、50年ご位に建てられたと思いますが、現在の内宮のほぼ、西の高台の麓に造られています。現在の内宮の海抜は9mぐらいです。
このように見てきますと、
『倭姫命世紀』に書かれていることは、充てにならないと思われていますが、元伊勢の話は、案外、実際にあったことなのかもしれません。

③傍國--傍國の字は、他では、夜傍(夜に近い)とか道傍(みちばた)などと使われています。傍國を「方国」とかいて、地方の国と捉えておられる方もおられましたが、やはり、天皇や皇族が傍におられる国でしょう。
④可怜—これも困ります。可怜をカレイと読まないで、美しい国(うましくに)と書いてあります。美は(うまし)と読むのでしょうか? 殆どの人が、このように書いておられますから、従っても良いのですが、私は、なんども洪水に見舞われた荒れた土地だったと思うのですが、如何とおもわれますか? 「怜」の字は、見慣れない字ですが、辞書をひきますと、憐れむの俗字とあります。憐れむべき土地だけれども、ずっと、住んでみようとなったのではないでしょうか? 紀元250年ころのことだと思います。

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2007.12.10

No81 多岐原神社 その3

No66からNo80で書きましたように、これらのことから、考えますと、伊雑宮と瀧原宮は、藤原氏にとっては、自分たちが天皇家の封じ込めるために、どうしても必要であった拠点であるような結論になりそうです。
それだけではなく、20年に一度の遷宮も、天皇家に財産上の負担を強いるものではなかったかと、意地の悪い想像しています。
しかし、時間というものは、素晴らしいものだと思います。そのようなことが、例え、あったとしても、藤原氏がいなかったら、現在の日本の繁栄はなかったと思えますし、そのような見難い戦いなど、無かったかのように、伊勢神宮の人たちは、日本の平和を願って毎日、祈りを続けておられます。

伊雑宮と瀧原宮も、一度訪れてください。どうして、仕事だと言っても、このような寂しいところで、毎日、昔から行われていることを、ただ、ひたすら守って生活しておられるのだろうと思ってはいけないのだろうか? と思ってしまいました。 
 神社では、ひたすら、神に対して感謝と祈りを続けてこられました。 神社にお参りしていた日本人も、そうだったように思うのですが、神にはお願いをして、感謝はしなかったのではないでしょうか?
現在の社会を眺めていますと、何事に対しても、感謝と祈りが大切なのに、忘れられようとしてい.気がしています。

No80までだけですと、あまりにも、伊勢神宮がかわいそうですので、他に、なにか役割があったのではないかと考えました。

お聞きしたことで、他に、二つあります。
多岐原神社の鳥居の上から1.2mのところまで、川の水が浸かったことです。私が神社まで降りてきたときに、そこに田がありましたが、その田も水に浸かったそうです。河原からどれぐらいの高さの所にあるのか調べませんでしたが、相当高いところにあると思います。このような洪水が頻繁に起こったから、すぐ上流にダムが治水目的で造られたとおもいます。それでも、これほどの浸水があったことになります。
 それだけ、多岐原神社の周囲というか、上流は広大な面積であり、降雨量が多いのだと思います。その水は、大きい川で言います、宮川と大内山川に流れ込み、多岐原神社で合流しています。
 この厖大な降水量で育った杉やヒノキが、大木になって育っています。確か、江戸時代まで、多岐原神社のところは、貯木場があったとお聞きしました。全国に、貯木場は、木場・木代・木部などの地名で残っています。
 話は飛びますが、奈良の吉野に、下市と上市というところがあります。今でこそ、吉野は吉野山の桜で有名ですが、元は吉野の貯蓄場があって栄えたところだと思います。現在も現役です。この吉野山へ行く電車は、下市で右に90度カーブして吉野川を渡りますが、川沿いの国道を東へ進みますと、円錐形の妹山という山が見えてきます。(重要な地点では、目印になるように、円錐形にしたと思っています) この山の麓に、大名持神社があります。祭神は、大名持命・須勢理比咩命・少彦名命です。創祀不明の小さな神社ですが、貞観元年(859)に正一位を奉られていましたが、その値打ちはどれほどのものか知りません。当時としては、大和でこの位は、春日大社と二社のみという格式ですから、その力は相当であったと思われます。
この祭神の大名持命は、延長五年(927に完成した延喜式神名帳 によると、大和国吉野郡十座の一つとして金峰神社とともに名神大社に列せられており、月次(つきなみ)・新嘗(にいなめ)に官弊がささげられています。
 菅原道真らの撰進した史書『三代実録』(901)に貞観元年1月27日、大和国従一位大己貴神正一位とあります。この大己貴神という名前は、大国主神の別名です。しかし、日本書紀では、大己貴神と書き、古事記では、大穴牟遅神と書かれています。

創紀の年代は詳らかではありません。 延喜式には『大名持神社』、同式臨時祭を受ける名神二八五座の中に『大名持御魂 神社一座』とあり、大神分身類社鈔によると、中世には『妹背神社』とも称されまし た。近時は、俗に『大汝言』(おなんじのみや)、音転倒によって『おんなじの宮』 とも云われています。
この由来は、神社の前の吉野川の潮生渕に、毎年、6月30日に潮水が湧出するという伝承があり、吉野川の清水を汲みに、磯城・桜井地方の宮座の当屋がここに来て、六根清浄の禊をし、吉野川の清水を汲み、河原の白石を拾って帰り、地元で祭祀を行う。これを「大汝詣で」と言います。
どうして、どうでもいいことを長々と書いたかと言いますと、延喜式内社は、朝廷から授かった神社ではありません。朝廷が作ったことになってはいますが、藤原氏が構築した法律書(延喜式)に掲載された神社です。式内社は、藤原氏の言うことを聞く神社のみに与えられた称号と言っていいと思います。
ところが、祭神の大穴牟遅神を大己貴神に書き換えることは、断ることが出来なかったのだと思います。そこで、祭神の名前は譲って、神社の名前には、「大穴牟遅神社」ではなく、「大名持神社」と書いて許して貰ったのだと思います。この大名持も藤原氏からは、嫌われたらしく、中世には『妹背神社』と名乗ったり、古くから行われていた行事も、「大汝詣で」と言って、苦しい変え字でごまかしていたのだと思います。
神社をもう少し進みますと、「清滝」という地名があります。持統天皇が、30数回も訪れたという行宮のあったところです。
この「清滝」も重要な拠点であったと考えています。このまま、進みますと、東吉野を通って、伊勢と和歌山へ街道になります。「清滝」は天皇が、奈良から逃げるときの大切なところであっただけではなく、逆に明日香が攻められるときに最初に防御し易いところでもあったことになります。
大名持神社に戻ります。ここで、道は二手に分かれます。左に道を取りますと、旧伊勢街道になり、宇陀を通って、多岐原神社に行くことができます。右を取りますと、清滝です。清滝に一度行ってください。ここは流れの激しい瀬になっています。多岐原神社のところも、三つの瀬がありましたから、三瀬の地名が残っています。瀧原の地名は、滝が多いからではなく、大きな滝がある所は、攻防に都合の良いところであったことが判ります。
伯耆の国では、6ヶ所しか、式内社が獲得できなかった藤原氏ですが、天武天皇・持統天皇の大切なところも、藤原氏に取られたことが判りますが、

 
須勢理比咩命は大国主神の后です。
大名持神社 http://kamnavi.jp/as/yosino/oonamuti.htm

瀧原宮は、伊勢を守るための拠点であっただけでなく、ここに貯木場があったということは、伊勢国の材木の多くは、ここで調整されていたのではないでしょうか?
次回は、しばらく、別宮のことを離れて、内宮がどうして、現在の所に造られた書いてみます。

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2007.11.26

No80多岐原神社 その2

多岐原神社の境内で、教えて貰ったことの中で、心に残ったものは、
①神社には、瀧原宮から毎日、お祈りにこられる。 
と、④3年前のときに、この鳥居の上から1.2mのところまで、川の水が浸かったこと。私
神社まで降りてきたときに、そこに田がありましたが、その田も水に浸かったことです。

瀧原宮と多岐原神社は、6キロぐらいの距離でしょうか? それにしても、毎日とは大変なことです。ただ、仕事だからでは説明がつかないなと思いました。

 瀧原宮から多岐原神社へ来るときに、42号線から、ある交差点を右折しましたが、この交差点を左折しますと、橋を渡ります。この橋から一瞬見た景色は、両側とも深い渓谷でした。
渓谷になっているということは、両岸は岩であるということです。(もう一度確認に行くつもりです) その岩がどうして、深く削られて渓谷になっているかということです。考え方は、二つです。一つは、その部分だけ、軟弱な層があった。もう一つは、水量が多かったです。たとえば、四国や和歌山の吉野川や紀の川は、断層が生じた所に水が集中したのでしょうか?  宮川のところに断層が走っているのかどうかは、調べていません。地図でこの部分をみますと、カーブしていますから、断層ではなさそうです。
 42号線からある交差点を右折と書きましたが、その交差点から、しばらくの集落の名前が、「船木」です。この地名は、10年前から気になっているところです。重要な地名ではないかと思っています。ここは、川が流れていますが、川がなくて船に関係ないようなところでもあります。(どなたか調べてください)交差点を曲がる西には、「川合」の地名があります。このように眺めて行きますと、川が合流するところに付けられた川合のように、その土地の様子から付けられた地名があることが判ります。
「瀧原」はインターネットを見ていますと、この辺りは、滝が多いから名前がついたと書いておられますが、本当でしょうか? 私は、「多岐原」は道が、沢山分かれている所、分岐するところではなかったかと想像しています。
 古事記で、「高志之八俣遠呂智」と記述があります。スサノオが大蛇を退治に行ったところです。「高志」は地名ですが、「八俣」は、八つの俣になったところです。現在の横田というところだと思います。地図でみますと、八つあるようには見えませんが、「八」は多いという意味かも知れません。そのすぐ後ろに「谿八谷峡八尾」があります。これは実際に八あるのではなく、沢山あるの八だと思います。大蛇の身が、八頭八尾をもっていると書いてありますが、こちらは、お酒の樽を用意しましたから、数字の八だと思います。
太安万侶は、「谿八谷峡八尾」全体が製鉄所になっている山の人々をやっつけた話を古老から聞いて、このような話にしたと思います。
「須佐之男の大蛇退治」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page355.html 
数字が多い意味では、このように「八」が使われます。「多」が使われた例を見つけていませんが、間違いいのではないかと推察しています。
というのは、伊勢からみますと、宮川の左岸を西へ行きますと、奈良盆地へ通じます。「三瀬川」で、宮川の右岸に渡り、三瀬坂峠を超えますと、瀧原宮です。この道は、熊野街道だと思います。

ここは、天皇家にとって重要な地点でしたから、多岐原神社が作られましたが、8世紀になってから、藤原氏にとって、重要な所になったので、三瀬川よりも広いところに滝原宮を建て、その地を瀧原とよぶようになったのではないかと推理しています。

伊雑宮は、海から侵入する者を監視し、滝原宮は奈良と和歌山からの侵入をチェックしたのではないかと推理しています。 
このような見方で、この辺りの地名を地図で眺めてください。多岐原という地名が、古くからあったのではないでしょうか?

 次回、もう一度、多岐原神社について書こうと思います。

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2007.11.21

No79 多岐原神社

No79 多岐原神社

Tanosimu_2

この写真を見て、何か思われましたか? 車の横の道を20mほど、進みますと、右に下りていく細い道があります。下ったところに、小さな社があります。 (写真をクリックしますと、少し大きくなります)
私は、多岐原神社に行こうと思って車を走らせてきました。ここへ来る前は、伊勢神宮の別宮である瀧原宮に行ってきました。インターネットで、行く方法が丁寧に書かれていました。その通りに、42号線にある信号を右折し、2キロほど走りますと、多岐原神社のある集落にたどり着くが、気をつけないと通り過ぎてしまうと書いてありました。カーナビは、目的地に到達しましたと教えてくれましたが、どこか判りません。ゆっくり、注意しながら、走っていますと、生垣にうずもれて、消えかかった「多岐原神社」の字を見つけました。左折してすぐに、写真の山が眼前に広がりました。
この山を見て、ここに多岐原神社があると確信しました。歴史に興味を持つようになって、10年ほどですが、目的地に行くたびに眼前に現れる山が、この二等辺三角形の山です。このきれいな形の山は、古代の人が、目印にした山ではないかと考えています。たとえば、伊勢の外宮から、宮川を遡り、一日歩きますと、この山が見えるのではないかと思っています。
多岐原神社の裏の山が、この山で、ご神体かと思いましたが、神社と山の間に宮川が流れていますから、そうではないようです。

私は、思わず車を止めて、カメラに収めることにしました。車に戻ろうとしますと、電柱の向こうに人影が見えましたので、声をかけてみました。「あの山の名前はなんといいまいか」。しばらく、間があって、「別に名前はないな」。 これをきっかけに、多岐原神社はどこですかとお聞きし、車の止めるところなどもお聞きしました。
車を止めて坂道を下って行きますと、道の端に並べてある川石を並べ直しておられるご婦人に出会いましたので、同じ質問をしました。3回ほど教えてくださいましたが、よく聞き取れません。もう、80歳ぐらいにはなろうかと思われる方でした。言葉がうまく喋れないのですと言われましたので、それだけで失礼しました。

5mも歩きますと、左折した所に伊勢神宮独特の白木で造られた社がありました。

Takihara1_2

Takihara2_2
 
 写真を撮るのが楽しみでしたのに、全部、ぶれていたり、見るに堪えないものばかりでした。辛うじて、この2枚が助かりました。
 左の写真の真後ろに先ほどの山があることになります。

ここで、ゆっくりしていましたら、先ほどのご主人がやってこられました。歴史のことがお好きらしくて、質問する度に教えてくださいました。この多岐原神社は、手持ちの知識では、伊勢神宮の摂社であることと式内社であることぐらいで、他には何も知りません。

教えていただいたことを書きます。
①神社には、瀧原宮から毎日、お祈りにこられる。
②伊勢神宮と同様に、遷宮が行われること。
③遷宮のときは、白装束の人が、来られて夜間に行われること。建物は、釘は使わないで立てられる。
④写真には写っていませんが、社の前に鳥居があります。3年前のときに、この鳥居の上から1.2mのところまで、川の水が使ったこと。降りてきたときに、そこに田がありましたが、その田も水に浸かったこと。
⑤左の写真の前に道があります。氾濫した川は、その道の下にあり、宮川という川であること。
⑥ この集落は三重県度会郡大紀町三瀬川です。どうして、三瀬というかと言いますと、上流から流れてきた川は、集落のところで狭くなっているそうです。三つの瀬があり、この瀬の所しか、川を渡ることはできないそうです。その内の一つが最近まで利用されて、渡しが残っていたそうです。
⑦ 伊勢から熊野へ行く街道筋であったらしく、この渡しでは、江戸時代には、宿が5,6軒あったことが記録に残っているそうです。
⑧はじめに、お尋ずねしました山の名前は、「ゴウド」でした。   

反対から見た多岐原神社の写真があります。
http://www.genbu.net/data/ise/takihara2_title.htm

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