No90 日本書紀と美濃王、御野王、三野王、弥努王、美務王
美濃王は、どのように読むのかは、正確には分かりません。仮に、全部、同じ王であれば、可能性としては、「みのおう」でしょうか?
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、(みののおおきみ)と「みののおほきみ」を記しています。
(みののおおきみ)が正しいのかも知れませんが、私に限りますと、自分で(みののおおきみ)と読みますと、一瞬、思考が途切れます。
難しいところですが、無理に、(みののおおきみ)と読まないで、「みのおう」が自然の様に思います。この読み方は、歴史を学ぼうかとおもう人を委縮させるように思います。
さて、本題です。美濃王、御野王、三野王、弥努王、美務王と並べました理由は、全部、「みのおう」と読んだのではないかということを言う為です。
美濃王、御野王、三野王は、「みのおう」と読めますが、弥努王、美務王は読めません。
弥努王と書いてあるところでは、同じ人物を「みぬおう」と発音していたため、書くときには、弥努王、美務王と書いたのではないでしょうか?
このことを考える資料として、次に、日本書紀に書かれた「みのおう」を記して置きます。
(1) 天武天皇2年(673年)12月17日に、小紫(従三位)・美濃王は、小錦下・紀訶多麻呂 とともに造高市大寺司に任じられた。高市大寺は大安寺の前身。
「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」では御野王と記される。
(2) 天武天皇4年(675年)4月10日に、小紫(従三位)・美濃王は小錦下・佐伯広足とともに遣わされて竜田の立野(奈良県三郷町立野)で風神を祀った。奈良県三郷町立野にあたる。天武朝では、竜田風神と広瀬大忌神の祭りは『日本書紀』に連年記録された重要な祭祀で、その初見がこの年のものである。
(3) 天武天皇10年(681年)3月17日に、天皇は帝紀と上古の諸事を記し、確定させた。その詔を受けたのは、川島皇子、忍壁皇子、広瀬王、竹田王、桑田王、三野王、上毛野三千、忌部首、安曇稲敷、難波大形、中臣大島、平群子首であった。
(4)天武天皇11年(682年)3月1日に、小紫・美濃王及び宮内官大夫等に命じて新城(平城)に遣いして、其の地形をみるように命令する。新しい都を作ろうとされた。
(5) 天武天皇13年(684年)の2月28日には、三野王は采女筑羅とともに信濃国に遣わされ、地形を見るよう命じられた。
(6) 天武天皇閏4月11日に、三野王は信濃国の図を提出した。
(7) 天武天皇14年(683年)9月11日に、天皇は宮処王、広瀬王、難波王、竹田王、弥努王を京と畿内に遣わして、人々の武器を検査した。
(8)持統天皇8年(694年)9月22日に、浄広肆(従五位下)三野王は筑紫大宰率に任命された。
タイトルにどうして、日本書紀を入れたかと云いますと、同じ人物なのに、日本書紀の作者は、どうして漢字を変えたのかを知りたいからです。
日本書紀は、いろいろ不思議な部分があります。神武天皇は沢山書いたのですが、神武天皇のことは書きたくなかったのではないかと思っています。普通は、書きたくなかったら、書かなければいいのです。このように考えますと、その後の天皇で、書いてある事柄が少ない天皇があります。書きたくなかったのだと思います。
では、神武天皇は、何故書きたくないのに、いっぱい書いたのでしょう。
このことは、又、判りかけたら書くこととして、美濃王のことは、ある程度、真相に迫れるのではないかと思っています。








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