2009.12.25

悪書「日本書紀」(3)

日本書紀は一度、本の書き方を見られることである。本文のあとに、一書にいわく、一書にいわく、と書かれている。
 この書き方は、他の書物には、この様に書かれているが、日本書紀の編集者は、その意見には反対だと意志を強調したことだ。
 天孫降臨で天ツ久米命が、ニニギの命を護衛して高千穂に降りた。この天ツ久米命は、古事記では、久米の直の祖になっている。日本書紀は、一書にいわく「久米部の祖云々」とあって本文には、天ツ久米命の名前も見当たらない。天ツ久米命を頭から黙殺である。
 第七代孝霊天皇の御世の、吉備二ヶ国の和睦は、日本書紀では完全無視で、一書にいわくもない。
 第十代崇神天皇が丹波のクガミミの御笠を殺したことも、完全無視である。
 神武東征では、ニギハヤヒの命は天ツ瑞を持って現れたとだけ書かれた。
 しかし日本書紀では、ニギハヤヒの命が地上に天降った神話的表現から始まって、記載は詳細を極めている。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 18ページ
発行日 昭和56年6月10日

私から一言----〔この書き方は、他の書物には、この様に書かれているが、日本書紀の編集者は、その意見には反対だと意志を強調したことだ。〕
 この部分は、正しいかどうか分りませんが、少なくとも、一書にいわく、一書にいわく、に書かれていることは、歴史的事実として、利用することは、駄目だと思います。

しかし、自分の都合のよい時だけ、日本書紀にかいてあると引用して居られる方のなんと多いことか。
 一書にいわくの〔一書〕に古事記も入っていて良い筈ですが、どこにもありません。

このように考えますと、田村氏が云われるように、一書にいわくの部分は、正しくありません。本文のところが正しいですという解釈は、正解かもしれません。検討は必要です。

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2009.12.24

悪書「日本書紀」(2)

卑弥呼が自殺を、たまわった年は、魏志倭人伝から248年があきらかにされている。実際には景初二年十二月に、難升米が伊都国軍司令官として帰着した時に、卑弥呼を殺して、替玉にしていた筈である。
 取敢えず卑弥呼と云うことで話を進めたい。崇神天皇までが実在で認められるならば、崇神天皇が亡くなられた年は258年である。
 従って卑弥呼が死んだのも、台代が20人を魏の都に、遣わしたのも崇神天皇の御世である。
 古事記では崇神天皇の御世の、クガノミミの御笠を殺したと書かれている。
人名が古事記で明示される以上、丹波の国を征伐したのではなくて、丹波に居った、特定の個人クガノミミの御笠を殺したのである。
 魏の使者政等が引揚げた中に、軍司令官難升米の名前が見当たらないから、難升米の日本名はクガノミミの御笠だったことになる。
 日本書紀はなぜこれだけ重大な事件が古事記に載せてあるのを知りながら、黙殺したかを読者は考えて見て欲しい。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 17ページ
発行日 昭和56年6月10日

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2009.12.23

悪書「日本書紀」(1)

日本書紀には古事記にないことが、多く書かれている。しかし伊都国かせ何所にあったにしても、248年頃の、一国が滅びる位の大事件が全く見あたらないのは、如何に記録があてにならないかの証拠である。
 結論を先に出してはおかしいが、日本書紀は中国の方向に偏向した書である。従って中国に不利なことを書く筈がない。
 古事記のあとになぜ日本書紀をあわてて、出さなければならなかったか。これに納得のゆく説明が残念ながら見当らない。
 進歩的な学者は、記紀を否認することに、これつとめて来た。応神天皇以前の記録は全く黙殺した来た。
 しかし稲荷山の鉄剣の銘が判読出来た以上 崇神天皇の実在は認める外なくなった。今や一つの本で崇神天皇以降は事実だが、それ以前は偽作だと、云わざるを得ない、不思議な現象が発生したことになる。
 すでに述べたが、物部、蘇我に都合の悪い記録は古事記にはあっても、日本書紀には載せて居らない。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 16ページ
発行日 昭和56年6月10日

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2009.12.21

屈辱の書「魏志倭人伝」(3)

卑弥呼以て死す、とは死を賜ったのである。卑弥呼は天照大神と月読命の墓守りだった筈である。墓守りだから女性だった。結婚しないのがならわしである。
 表向きは、卑弥呼が衆を惑わしたために、始った戦争と云わんばかりである。そのために卑弥呼が責任を取って死ねば、戦争は終結すると考えた。
 しかし予想に反し戦争は激化したと書いてある。注意すべきは、戦争は卑弥呼が死んでも中断しなかった。
 卑弥呼が責任取って死んだとは、中国向けの記録である。従って信用に値する記録かどうかはあやしい。
 卑弥呼のために、大きい塚を構築したと書いてあるから信用できないのである。
 戦争が継続している最中にしかも先方が負け戦さの時に、大きな塚を一体何日で作ることが出来たか。
 この様に考えると作ったとあるのは「ウソ」だ。しかも別冊で述べたが、卑弥呼は替玉だったと考えられる。


私より一言----------卑弥呼のために、大きい塚を構築したと書いてあるから信用できないのである。戦争が継続している最中にしかも先方が負け戦さの時に、大きな塚を一体何日で作ることが出来たか。

この部分は、学者は、学問的でないと無視されるでしょう。確かに、これは学問的ではありませんが、その後、立証されれば、学問です。大切なことは、このような柔軟的な考え方が大切です。
 田村氏は、「この様に考えると作ったとあるのは「ウソ」だ。しかも別冊で述べたが」と書いて居られます。別冊を読んで見たくなりませんか。これは、田村氏の、次の本をかわすための作戦だと思われる方は大勢でしょう。
 しかし、其の後に、直ぐに、次なる仮説を書いておられます。
「卑弥呼は替玉だったと考えられる」
このように書いてあると云うことは、既に、その証拠を見付けられたことになります。
 しかし、必ず、見つかったとは限りません。

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2009.12.19

魏志倭人伝の資料

「魏志倭人伝の資料 」が、抜けていました。是がありませんと、前回の屈辱の書が理解しにくいです。
 これを読んでから、もう一度、戻って読んでください。 10、11ページです。

「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わして郡にいたらしめ、天子にいたりて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わしてもって送りて京都にいたらしむ。
 その年の十二月、詔書して倭の女王に報じていわく〔親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方太守劉夏、使を遣わして汝が大夫難升米、次使都市牛利を送り、汝が献ずる所の男生口・女生口六人・班布二匹二丈を奉じて、以ていたらしむ。汝が在る所、はるかに遠きも、すなはち使を遣わして貢献す。こり汝の忠孝、我、親魏倭王となし、金印紫綬を仮えん。荘封して、帯方太守に付して仮綬せしむ。それ種人を綵撫し、勉めて孝順をなせ。汝が来使難升米・牛利遠きを渉り、道路を勤労せり。今難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮え、引見労賜して還らしめん〕」

魏志倭人伝の資料
 邪馬台国を九州に想定した人は、魏志倭人伝の里程や方向を先づ間違っていると指摘している。魏志倭人伝を書いた陳寿にとんだ汚名をかぶせている。
 魏志倭人伝は中国の正史だから、間違いだらけと云えるだろうか。中国に取って、好ましくない事柄は、ゆがめて書いてある。しかし利害のない記録は正確であった。
 魏志倭人伝の謎は、魏志倭人伝に語らせることだ。謎解きは至って簡単である。
 難升米は魏の都に半年も居ったのである。この人は率善中郎将に任ぜられた。日本攻略のための魏国植民地軍司令官ではないか。
 半年も魏の国に、とどまって倭国の詳細を報告したのである。従って里程や方向は、古代に如何にして測量したのか、疑問を感じる位正確であった。
 しかも難升米と牛利の二人がかりで、道路を構築した。道路とは日本に派遣する軍隊を中国の港まで運ぶ軍用道路ではないか。この作業に半年を要したのである。道路測量は、この二人に取っては、お手のものだ。


田村誠一著 第六話 正史だった古事記 11、12ページ
発行日 昭和56年6月10日

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屈辱の書「魏志倭人伝」(2)

中国との国交はこのあと、425年まで途絶えた。180年近く国交が断絶する様な大事件だったことに気付くべきである。
 倭の国が難升米を軍司令官にして、崇神天皇の軍隊の根拠地狗奴国すなはち、美作の久米国を攻撃したのである。
 大和の軍隊があることを忘れていた。倭人伝には、邪馬台国の東に海る渡ること千余里に国あり、と書かれている。この国が崇神天皇が居った国だった。
 大和の軍隊が出動して来たので、軍司令官を今一人増やした。率善中郎掖邪狗がこの名前である。この将軍だけは逃げ帰った。しかし難升米は殺されていたが、こんなことを正史には恥しくて書ける筈がない。
 この時には千余人が殺されたとある。これは日本側の損害である。伊都国側は物部連が主力で戦って全滅したと考えられる。
 この時死んだ中に敵将難升米が、含まれていたから、逃げ帰ったリストに書かないことで難升米の戦死を倭人伝に知らした。記録はうしろから、うらを読むべきた。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 14ページ
発行日 昭和56年6月10日

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2009.12.17

屈辱の書「魏志倭人伝」(1)

「卑弥呼、以って死し、大いに塚を作る。径、百余歩、殉葬するもの、奴婢百余人。更に男王を立つるも、国中、服せず、こもごも相い誅し、時にあたりて千余人を殺す。 また卑弥呼の宗女壱与、年十三なるを立てて王となし国中、ついに定る。 政等、檄をもって壱与に告諭す。壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。 因って台にいたり、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大区勾珠二枚・異文雑錦二十匹を貢ぐ。」


屈辱の書「魏志倭人伝」(1)
 書物は、うしろから読むものだ、教えられたことがある。「魏志倭人伝」に関する限り、これは明言である。
 先づ倭人伝の末尾を見て欲しい。僅か13才の台代が、親切に魏の使者政等と、外に20人の魏の都まで遣らせたとは何事か。
 この報告は政等が行ったのである。敗けたとは知られたくない「ウソ」の記録で、これ以後、約180年間国交がなかったことは、逃げ帰ったことを教えてくれた。
 卑弥呼、以って死すとは、敗戦の責任者は、卑弥呼だから、卑弥呼に死を命じたのだ。
 卑弥呼は能く衆を惑わすと、卑弥呼に責任をおわせる、理由まで作文したのである。
 衆を惑わしたのは、難升米と、魏志倭人伝を書いた陳寿自身ではないか。
 倭人伝は、1200年間も、魏国と日本との交戦を、さとられない様に、カムフラージュしてあった。難升米位悪い敵将はなかった。
 国名や人名は難升米が正確に、書き残し来た。これを陳寿は卑劣な漢字に改めたまでである。今更正確に書く必要はなかった。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 12、13ページ
発行日 昭和56年6月10日

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2009.12.16

紀元250年の日本

第十代崇神天皇は258年に亡くなられた。卑弥呼が死んだのが、248年である。このあと千余人が死ぬ様な戦争があった。
 崇神天皇が丹波のクガミミの御笠を殺したと古事記に書かれた。魏志倭人伝にでて来る率善中郎将難升米とは、クガミミの御笠だったのである。
 この時魏の使者政等と20人が逃げ帰ったが、難升米の名は消えていた。日本と中国の文献が一致していたのである。
 日本から、魏の占領地域がなくなった。同時に国交は425年まで177年も断絶した。
 真の独立国になったから、崇神天皇は、「初国知らす所の御真木の天皇」と呼ばれることになった。
 神武天皇は大和を先に占領していた、ニギハヤヒの命を征伐した。初めて全国統一をなしとげたのである。同時に始めて天皇の称号を採用した。従って初代天皇である。
 初代天皇が、二人もあっては、おかしいと神武天皇を無視したのは間違いだった。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 9ページ
発行日 昭和56年6月10日

私から一言----「このあと千余人が死ぬ様な戦争があった」崇神天皇の側の兵隊が死んだのか、魏の国側の兵士が死んだのか、どちらだと思われますか。
 古事記には、崇神天皇が「丹波のクガミミの御笠を殺した」とあります。魏志倭人伝にでて来る率善中郎将難升米は、魏の国の最高責任者です。田村氏は、だから、クガミミの御笠と難升米は同じ人物だと述べておられます。
 「この時魏の使者政等と20人が逃げ帰った」と記録されていますが、トップの率善中郎将難升米の名前がないというとは、死んだのでしょう。そのような不名誉なことは記録しなかったのでしょう。

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2009.12.13

紀元240年の日本

240年は、中国の魏の時代である。日本はカツラギ王朝時代で、崇神天皇の御世だった。 この年には朝鮮の帯方郡は、魏の占領下にあった。ここには太守すなはち、朝鮮総督が居った。
 日本には京都府綾部市の物部町に、魏志倭人伝にでてくる伊都国の都があった。240年は正始元年である。
 「正始元年、太守弓遵、建中校尉遵綬を遣わして、詔書・印綬を奉じて倭国にいたらしめ、倭王に拝仮し、あわせて詔をもたらし、云々」
と倭人伝に書かれている。太守すなはち、朝鮮総督までが日本にやって来た。建中校尉とは、魏の近衛の将校である。何の目的で、これだけの、大物がやって来たか。
 この人達は奴国、狗奴国、邪馬台国等を視察して回ったのである。この時には、これらの国の人達は、よもやこの慰問団は、戦争準備のため偵察目的でやって来たとは、感じなかった。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 8ページ
発行日 昭和56年6月10日


私から一言----紀元240年の日本が簡単に書いてあります。全部、お分かりですか。邪馬台国は、九州にあったと思っておられる方には、なんのことか判らないと思います。
特に、「京都府綾部市の物部町に、魏志倭人伝にでてくる伊都国の都があった」の部分は、意味がわからないと思います。

「奴国、狗奴国、邪馬台国等を視察して回ったのである。この時には、これらの国の人達は、よもやこの慰問団は、戦争準備のため偵察目的でやって来たとは、感じなかった」

 この様なことは、どこにも書いてありません。しかし、その後、卑弥呼が殺されるまでの歴史の流れを知りますと、魏の近衛の将校が物見遊山にやって来たのではないと考えませんと、歴史を理解できないと思います。

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2009.12.12

古事記神話の誕生(4)

大国主命とタケミカヅチの神との、国譲りの交渉は、大和村(ヤマト、現在淀江町に合併)の小波浜で行われた。
 大和とは「天子の講和」のことである。この時に「葦原の中ツ国」を譲れと交渉した。
出雲を譲れでも、日本を譲れでもない。葦の繁った中州の地域を譲れと申出たのである。
 大国主命は、大国村(現在西伯町に合併) のボスに過ぎなかったのである。天照大神が稲作を日本に計画的に大仕掛に導入したので米の出来ない、出雲に魅力はなかった。
 「葦原の中ツ国」とは、デルタ地帯で、先住民が居らない無人地帯のことである。
 「天の岩戸」の舞台は蒜山高原で、この事件の前後関係は別冊に述べておいた。
 「黄泉の国」は溝口町の「御墓原」のことだったし、「常世の国」とは外国のことで、中国や新羅を指していた。
 古事記は、日本の正史として書かれたのだ。

田村誠一著 第六話 正史だった古事記 7ページ
発行日 昭和56年6月10日

お詫び---古事記神話の誕生(2)のはじめに、古事記の原文をいれるのをわすれていました。もう一度、もどってご覧ください。

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