2009.11.13
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第5話 古代史と大江山
久米国
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天孫降臨の時ニニギの命を護衛した一人が天津久米命である。美作の国の久米郡の地名はここから出た筈である。
四天王の所で述べたが、住居は現在の湯原町の社の天王の地名の所だった。久米国への交通の要衝である。古代には流れの緩い、川原が道である。社川をさかのぼって、目木川を下れば久米国だった。
神武東征には久米歌として、久米のつわものが活躍している。しかし解説は全て久米国の存在をしらないから誤りを犯している。
みつみつし久米を地名としないで個人名にすることは、和歌として、おかしくないか。
久米国は魏志倭人伝でも、狗奴国として、認めている。しかも伊都国が戦争をしかけて敗けた、つわものの国である。
男王が居ったことも中国の記録には書かれた。この男王とは神武東征に活躍した大久米の命の子孫だった。前稿の久米国は古事記で認知されたことになる。

私の疑問---私の持っている1:170000の地図では、社川をさかのぼっていきますと、山の中に入ってしまいます。そして、800,mを超える山を越えますと、目木川に到達しますが、これでは、久米国への交通の要衝であるとは言えません。
現地へ行くとよくわかるかもしれません。
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2009.11.11
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第5話 古代史と大江山
蒜山か日留山か
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ヒルゼンは三方を大山・蒜山国立公園に囲まれている。
次の図は津山市史の縄文時代の古墳分布である。

東北に著しく古墳が密集した所が、ヒルゼンである。
ヒルゼンは岡山県のチベットと現在も云はれている所だ。3月は雪に埋れ、火山灰のため農作物育たない所だ。
この様な環境に、美作の国の縄文時代の古墳の大部分が集中している。縄文後期に高天原があった証拠の一つである。
このヒルゼンの北に座っている(そびえていない)1200米の山が蒜山である。前稿で蛭山とした。これも間違いではない。
しかし佐竹先生の〝神代遺跡考〟の副題「日留山が高天原」の日留山が、大和言葉であって正しい。
先日も朝日テレビが朝日で黄金色に映える蒜山を放映した。盆地だから先づ蒜山に朝日があたる。
夕日が最後まで照らす文字通りの日留山だ。
古代に蒜山の漢字位不釣合はない。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 45ページ
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2009.11.09
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第5話 古代史と大江山
ヒルゼンの地形(2)
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ヒルゼンは東西20キロ、南北10キロの高原とPRされている。ここに現在でも8000人のしか住んでいない。過疎地帯だから2000年昔がまだ残っていると申上げたい。
宮廷雅楽はシルクロードの天山山脈のクチャから来たが、ヒルゼンにはクチャの踊りが大宮踊りとして、2000年伝えられた。
ここは近世までブナの原生林だった。ブナ林の林相は近くの大山で見当がつく。
縄文時代に天照大神が、この広大なヒルゼンの太古湖底だった、葦が繁った沼地に稲作を始めて導入した。
日本中に稲作が普及したのは、思金の神が、57年に漢に使いを出して、稲作移民を、大量に全土に導入したからである。
ヒルゼンでは稲作が出来なかったので倉吉の高千穂に降りた。ヒルゼンは3月雪に埋もれ、しかも火山灰で作物が全く育たなかったのである。
地形は理想的だった。見てくれはよかったが地味までは考えなかったのである。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 43ページ
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2009.11.07
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第5話 古代史と大江山
ヒルゼンの地形(1)
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2000年以上昔になぜヒルゼンを選んだかの認識が先づ必要である。小生は何回か都として立地条件が最高の所を選定したと述べた。
鎌倉幕府と同様に要害の条件を充している。実際に大山・蒜山高原を、つぶさにご覧いただくに限る。東京からはいささか遠い。しかし考え様によっては、東京からは、最も安楽に行ける所だ。
夜行寝台で倉吉か米子で降りて、たっぷり一日遊んで、又寝台で帰ればいかがか。
余談はさておいて九州の阿蘇ならご存じの人が多いからこれと比べて見たい。
別府から来れば緩やかなスロープを登り切って阿蘇谷(地図では谷です) に急降下だ。
ヒルゼンはこれと全く反対で、例えば海近くの倉吉から急坂を550米近く登ったら、緩やかなスロープを下ることになる。
蒜山は1200米だが周囲はこれよりは、はるかに低い山が囲んでいる。阿蘇谷と同じ位の高度でしかも耕作出来る面積は2倍位あるだろう。高度は約500米である。
私からのひとこと
このページの文章は、自信に満ちた文章だなと思いました。高天原はヒルゼン高原だったと云う仮説の証拠となるものを外の部分で発見されたのだと思います。
「余談はさておいて」と書きながら、田村氏の日本の旅が始まります。実際に行かれたのではなく、地図の上で、ヒルゼン高原に、阿蘇に、鎌倉にと、旅をされたと思います。
案の定、ヒルゼンの地形は、都としての条件を満たしていると再発見され、その喜びが文章に現れているように思います。
では、実際に、ヒルゼンを車で走ってください。山また山で、クタクタになります。
それは、走り回っても見えてきません。
ヒルゼンに行きますと、一番高いところに登ってみますと、いろいろのことが直ぐに解ります。
古事記の最初の部分を読んで、次はイザナギとイザナミが中蒜山の5合目に造ったオノコロ島に登ってください。
今は、紅葉は終わっているかもしれません。昨日は大山の雪景色が報道されていましたから・・・・。
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2009.11.05
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第5話 古代史と大江山
遣漢使(4)
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次に中国に使いを送ったのは、239年である。卑弥呼の使いと称して、難升米が行った。この時は魏の時代になっていた。
これは別稿で述べたが崇神天皇を倒すためだった。246年狗奴国(久米国)に戦いをいどんだ。
結局崇神天皇のヒコイマスの命に逆に滅ぼされて、古事記から難升米はクガノミミの御笠だったと足がついた。
1007年の遣漢使の結果はゲリラが投馬国に大量に送りこまれて、倭国大乱に発展し、邪馬台国(西大寺ヤマトとの、高梁川を挟んでの紛争になった。
これは孝霊天皇の御世に吉備国平定として報ぜられた。難升米は卑弥呼共立と出たらめの報告を、魏の皇室に行った。
卑弥呼共立は190年頃となっている。難升米のの創作だからウヤムヤだが大差はないらしい。
中国の史書によって、はなくも日本の古事記の年代考証の役にたったのである。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 41ページ
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2009.11.02
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第5話 古代史と大江山
遣漢使(3)
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57年の次の遣漢使葉107年である。売国奴ニギハヤヒの命が捕リョを160人も、献上したのである。
ナガスミヒコから、神武に寝返りすること事態からしてケシカラン。しかも天照大神の墓の埋葬品を盗んだとしか考えられない。
この天つ瑞をもって神武の勝チ目がはっきりしてから寝返ったのである。
ニギハヤヒの命は何としても神武を滅ぼしたい立場の人間だ。漢の応援をたのみに使いを出したと考えたい。捕リョ160人とはナガスネヒコの兵隊ではないか。
何を頼んだかは別の所で述べたが、ゲリラの導入である。高地性集落の発生と、投馬国が遣漢使を送ったあとの現象だ。
従って107年は神武東征から、ほどなくの期間と考えたい。
天孫降臨から50年かかって東征完了ならば不合理のない年月である。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 40ページ
参考に
高地性集落 (未完成です)
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page299.html
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2009.11.01
漢倭奴国王の金印がある以上この印を押す紙があった筈だ。一般にはまだ漢字は導入されてない。
従ってこんなハンコの紙切れを見て感激する日本人は居らない。これは移民を集めるために使用して始めて威力は発生する。要するに中国向けに使用する筈だった。
しかし不幸にして、これを運んでいた船は難破し、金印は志賀島に漂着した。
日本国内の変化は、縄文から弥生にかけての古墳が何所に多く発生したかを見ればよい。
全て米が取れるデルタ地帯か盆地である。
そしてその近くの村には福や神、宮、田等のつく地名が、かたまっている。
この種の古墳に天神山、稲荷山、銚子山、蛭子山等同名の地名が付いたものが多い。
鹿児島から日本海岸の能登半島にまで、略等間隔に福浦や福江の名のつく補給港が点在している。
目じるしに三角形の山が城山として、各地にあることも計画性の証拠である。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 39ページ
私から一言----この文を読んでどのように思われましたか。
[漢倭奴国王の金印がある以上この印を押す紙があった筈だ。]当たり前のことですが、重要なことだと思います。こんな簡単なことを頭にいれておいて、漢倭奴国王の金印を見に行ってください。もちろん、本物は見ることはできませんが、偽物は見ることができます。
偽物は、いくら見ても感動しません。 ということは、そのものの、値打ちを知っている人にしか、値打ちがありません。 それが解かりますと、ここに書いてある文章の意味が解かります。田村氏は、[この種の古墳に天神山、稲荷山、銚子山、蛭子山等同名の地名が付いたものが多い。
鹿児島から日本海岸の能登半島にまで、略等間隔に福浦や福江の名のつく補給港が点在している。
目じるしに三角形の山が城山として、各地にあることも計画性の証拠である。]の文章を書くまでに、どれほど、毎日、毎日、ルーペを手に地図を眺められたことでしょう。
今、本物のものが、陳列されています。奈良の正倉院展です。もし、感動しなかったときは、そのものは、いくら国宝と言っても国宝に値しないものです。 絹製品があるそうです。 前に陣取って、眺めてきてください。この絹を求めて、漢倭奴国王の金印がやってきたと考えます。
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2009.10.31
こんな言葉もあってよいだろう。漢の時代には先方の記録では57年と107年に二回日本から使いが行った。
万里の波とうを超えて行くからには、特別の理由が必要である。何かのたのみ事があるから行った筈である。
何を頼みに行ったかは、それ以後の国内変化を見出すことだ。誰が使いを出したかは、国内で利益を得た人を探すことだ。
57年の遣唐使は思金命が出したと考えたい。天照大神は隠とんしたのだから、使いを出す理由も利益も考えられない。
ニニギの命は幼少だから思金命は摂政だったのである。天照大神の、葦原の中州国を開拓するには、漢の移民の導入を思付いた。
中州国すなはちデルタ地帯は無人地帯だったので、計画移民である。占領ではない。
この申出に際しては自己紹介に天照大神は呉野太伯の後衛だと述べたから、漢の皇室は感激して漢倭奴国王印をくれたのである。
従って57年は天孫降臨直後であり、奴国誕生の年と考えたい。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 38ページ
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2009.10.29
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第5話 古代史と大江山
八岐の大蛇 八俣之遠呂智 八岐の大呂地
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スサオの命は蒜山を追はれて、俣野川から日野川をさかのぼった。
古事記に出てくる肥之河を、出雲の中央を流れる斐伊川とするのはおかしい。
タイトルの中央が、原文で右は小生の意見である。古事記で、オロチは蛇が使用されている。
沢山道が集った横田に、大呂は現存している。八岐の大呂地でよい筈だ。
日野川から、さかのぼるのが最も楽なルートである。
ここには現在も日達金属の日本刀用玉鋼の工場が動いている。ただしタタラ方式だ。
しかしスサノオの命の時代には山の斜面に沢山の煙道を山の頂上まで導いて、煙突の作用をさせていた。
古事記が胴が赤くただれ、胴にスギ等が生えていた。目が赤く輝いていたと書いている。
現在の日本鉱業の日立鉱山は全く同じやり方だから、2000年昔にすでに省力の最新製鋼所があったことになる。タタラは労力の多く必要な後世のやり方である。
私からの一言----ここの文は、歴史学会で表彰に値する文章だと思います。八俣之遠呂智に行きたいですが、体力と金力がなくなって行けません。 京都の大呂は行ってきました。
八岐の大呂地にかかれてある記事は、大蛇を退治した話になっていて、その結果、スサノオが助けた翁のむすめと結婚したことになっていますが、本当は、イザナギが蹈鞴による製鉄より素晴らしい方法で、製鉄していたことを太安万侶が、800年後に古事記に書いたことになります。大蛇の尾の中から出てきたことになっていますが、すばらしい太刀であったことは、草薙の太刀の名前で、天照大御神に報告したと記しています。
ここの話は、日本書紀の作者も、現在の歴史家も理解できなかったために、神話にされてしまいましたが、天皇家が、強かったことの証の一つだと思います。
[天皇家の軍隊]http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/1294830/
にスサノオのことを書きますので、合わせて読んでください。
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2009.10.28
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第5話 古代史と大江山
天の岩戸(2)
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天の岩戸の詳細は沢山の本で、取り扱われている。しかしなぜ発生したのかの、理由は明らかにされていない。
スサノオの命は、倉敷平野よりも、現在の境港のある古代の夜見島で、稲作をやりたかったのである。
この頃に渡来した人々は、稲作で楽土を築きたかった。先住民が稲作に安易に転向しないことは、土地に対する異常な執着力が古代にもあった所為だと考えたい。
渡来民族はこの点が反対で、何れ長い年月の内に島国根性に変って行ったのではないか。
スサノオの命は神々の座から降ろされた。住んだ所も須賀とか須佐等では宮は使えなかった。臣籍降下一号である。
大呂の最新の製鋼所を手に入れて、仲直りのしるしに、草なぎの剣を天照大神に献上した。
各地に鍛冶屋と金屋を置いて、稲作用、スキと剣を作ったので、士農工商の、工商の、はしりだった。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 36ページ
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2009.10.27
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第5話 古代史と大江山
天の岩戸(1)
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イザナギの命がヒルゼンを立ち去ったら、スサノオの命は天照大神の不意を襲って殺そうとした。しかしこれを天照大神に察知されて不成功におわった。
スサノオの命はこの時襲う積りではない、島根に行くので、いとまごいに来たと申し立てた。
このあげく何れがまこさかを、近く生まれる子供の女の子が多い方が勝チにする、カケヒで決めることにした。
稲作の時代には生めよふやせよで、これには女の方が優遇されたのである。
カケでアマテラス(男神)には5人の男の子が生まれ、スサノオの命には女の子が生まれたので、スサノオの命が勝った。
スサノオの命が勝ちほこって、早速アマテラスの田んぼのあぜを壊し、住居にクソをまき散らした。機織りの小屋に、馬の皮をはいで屋根に穴をあけて、ほりこみ、織女が死んだのである。要するに即時退去する様、追いたてた。天照大神は恐ろしくなって、天の岩戸に逃げこんだ。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 35ページ
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2009.10.26
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第5話 古代史と大江山
イザナギの命
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イザナギ、イザナミの命は連立って、楽土を求めて隠岐から倉吉を経て、ヒルゼンにやって来た。
しかし不幸にしてイザナミの命に先立たれた。大山の西の現地名、御墓原に風葬されたのである。
ヒルゼンは未開地だから、三人の世継に開拓のバトンを渡して、暖かい近江の多賀に移って隠とん生活をされた。
この時の世継が、天照大神と月読命とスサノオである。この三人は名前から、出身地はべつだ。
日本民族は元来混成民族だったのである。
天照大神はヒルゼン高天原、月読命は丹波と但馬に挟まれた夜久野をあてがわれた。
スサノオの命は倉吉平野をを割り当てられた。
しかしスサノオの命は島根半島(当時は島)に行きたいと鳴いてイザナギの命に頼んだ。
ここでスサノオの命はヒルゼンから退去命令を受けたのである。古事記で海原を治めよとあるのは海岸の原っぱと解すべきだ。
これで古事記は実話と云える筈だ。
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2009.10.24
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第5話 古代史と大江山
天孫族(2)
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天孫族が呼寄せた人達が、魏志倭人伝の、投馬五万戸を除いた人達である、伯耆、美作、備前の一部西大寺の人達で、倭人伝で約十万戸に達していた。
この天孫族は華南から、海の正倉院、沖ノ島を目指して、黒潮の海流を利用して、日本沿岸にやって来たか。
日本海岸は山形県の酒田平野にまで、足跡がある。ポートピプルではなくて、一つの村に、福や田、宮のつく地名が、デルタ地帯に、かたまって発生する。すなはち集団移民であった。
津山の久米国や吉井川下流の邪馬台国のひとも、日本海側から、陸地と川を中国地方を縦断して南下したのである。
倭朝廷の重要な人達は、これらの地域から移動して行った。
これに反し投馬国の人々は、豊後水道から瀬戸内海へと進んだのである。この人達も恐らく華南の港から船出して来た筈だ。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 33ページ
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2009.10.23
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第5話 古代史と大江山
天孫族(1)
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稲作技術を持って来た渡来民族に福ノ神族と仮に名前をつけた。焼畑農業と稲作とは耕作地が全く異なる。
従って稲作技術を持った渡来民族が住みついた所は川の流域やデルタ地帯と盆地の低い平地に住みついた。ここには先住民が居らないから地名が、渡来人によって名付けられた。
倭言葉の地名と中国臭の地名と、福、神宮のつく地名と稲作に関係ある地名が、せまい村単位にかたまって発生している。
福と神のつく地名が特にかたまって発生することが多いので渡来民族を福ノ神族と仮に名付けた。しかも華南の福州と縁のある名前だった。
この福ノ神族には渡来の理由の異なるサングループがあった。
第一のグループは天孫族である。イザナギイザナミの命や天照大神は楽土を求めて、自らの危険でやってきた。
次に国譲り、天孫降臨以後に、天孫族が呼寄せた人達だ。前稿ではこれらの人を占領軍と呼んだのは間違いだった。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 32ページ
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2009.10.22
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第5話 古代史と大江山
雄略天皇の英断
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日本書紀の記事は吟味して採用しないと間違いをおこしやすい。
雄略天皇は暴君としての悪名が高い。その一例が吉備下道臣の前津屋一族の皆殺し事件である。
都からの使いオオゾラ氏を前津臣は人質にしてなかなか返さないので、別の使いを出して連れもどした。
オオゾラ氏は前津臣が、小女を天皇の、代表に、大女を自分の代表にして闘はせた。そして小女が負けると、刀で切殺したことを密告した。天皇は怒って征伐した。
恐らくこのことは例にして雄略帝を暴君にしたのではないか。
吉備下道国はもとの投馬国である。朝廷を討伐するために、華南から、駆り出された人々だった。中にはうらみ続けている人があっても不思議ではない。
遠因を調べないで、表面事実を判断するなら歴史学者は無用である。
雄略帝の大英断にはむしろ賛成したい。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 31ページ
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2009.10.21
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第5話 古代史と大江山
日本書紀
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日本書紀では、ニギハヤヒの命の、天ツ瑞は極めて詳細な記述になっている。古事記ではさりげなく書かれている。
ニギハヤヒが企んだゲリラの導入で起きた結果の倭国大乱で、孝霊天皇の御世に、吉備二ヶ国の和解があったことは、古事記には、記述があるが日本書紀にはない。
崇神天皇の御世に丹波のクガノミミの御笠を征伐したことは、古事記にあって、日本書紀にはない。クガノミミの御笠が司令官で、物部の兵隊が久米国を攻撃したのだ。
物部は天ツ瑞を持っているから、天皇を追出して、自分が天皇の位につきたかった。このために古事記が出るとあわてて、物部に都合のよい日本書紀をつくらせた筈だ。
日本人は売国奴ニギハヤヒの命を忘れないで欲しい。同時に古事記が書かれたあと、あわてて日本書紀が現れたことも注意してもらいたいのである。
日本書紀は悪書と申上げて来た。年代が出たら目な外にも、謎があったのである。記紀とはミソとクソだった。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 30ページ
私から一言---私は田村誠一氏ほど、日本書紀を悪書とは思っていません。しかし、よくもこれほど、一生懸命、歴史を書き換えたものだと感心しています。
この話は、1300年ほど前のことです。
現在、調査が進行中ですから、真実かどうか分かりませんが、鳩山首相の会計担当者が、40年前に一度だけ、年賀状の交換があったと思もわれる人の名前と住所を使って、政治献金したことにして、どこから持ってきたお金か分かりませんが、入金処理をしていたと報じられています。首相は知らない筈がありません。
悪いことをするには、このようにコツコツしませんと、バレテしまうものだなと感心しています。
現在、〔新しい日本の歴史〕http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/
のタイトルで、調べたことを書いていますが、解き明かせない程に、藤原氏は日本書紀を書くために、命を削って書いています。だから、殆どの人が、日本書紀に書かれていることを真実だと思っておられるのですが、私は少しずつ、真実が見えてくるような気がしています。
しかし、藤原氏は日本文化の基礎を作りました。鳩山首相も、第二の日本の繁栄を築かれるかも知れません。それにしては、スケールが少々小さい気がしますが・・・・。
ニギハヤヒの事を説明できる人はプロでも居られないと思います。
京都の大江山へ一度行かれたら面白いと思います。何故かと云いますと、鬼の博物館があります。私は何も言いません。ご自分の目で確かめてください。
近くに、皇大神社があります。元伊勢と云われている神社です。ここは内宮ですが、外宮もあります。 地図を眺めてから行ってください。「天」のつく地名がいっぱいあります。
この田村氏の文章は、ニギハヤヒの命と物部氏の解明の糸口になるかも知れません。
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2009.10.20
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第5話 古代史と大江山
売国奴 ニギハヤヒの命(2)
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神武勢や後のカサラギ王朝を倒すにはこの人達にさとられない様に兵力を養う必要がある。
神武勢の兵隊は久米国が基地だった。又津山から吉井川を西大寺に送るルートがある。西大寺には、これも境港(日向浦)から、沢山の稲作移民を送り込んでいた。
要するに華南から日本海が古代の通商ルートであった。
従って久米と西大寺の周辺にゲリラ部隊を瀬戸内海ルートで送り込んだのである。この作戦は当然ニギハヤヒの子に引き継がれた。
中国では倭国が乱れた期間がまちまちなのは、自国が仕組んだゲリラ活動で、客観的に物を見る立場ではなかったためだ。
このゲリラを防ぐために瀬戸内沿岸には高地性集落が出来た。そして高地性集落のなかったのは投馬国の沿岸だけだ。これ位明らかに西大寺ヤマトと久米国の出口を攻撃目標にした証拠があるだろうか。
ニギハヤヒの命以上の売国奴は日本書紀の歴史には見当たらないのである。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 29ページ
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2009.10.18

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第5話 古代史と大江山
[二人の天ツ神]
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古事記の一字一句は愉しみながら、しかも注意深く読むことを繰返しお奨めする。
神武東征は16年かかった。その終り頃に今一人の天ツ神が現はれたのである。すなはちニギハヤヒの命が天ツ神
のシルシを持って援軍をつれてやって来た。
狭い日本で神武天皇が全く知らない所から突然論功行賞に、あずかる積りでニギハヤヒの命が現れた。
古事記でニニギの命の子が、物部連の祖となっている。ここで又国土地理院の大江山の地図を歩いて欲しい。大江山の東南は物部町である。
ニギハヤヒの命は丹波の大江山からやって来た鬼だったのである。
天照大神は世継ぎはつれないで大江山に来た。従って亡くなった時に見回り品は一緒に埋葬された筈だ。
ニキハヤヒの命は血統も分からないから、副葬品で天ツ神になりすましたのである。正しく大江山の鬼ではないか。
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2009.10.16
昔丹波の大江山、鬼ども多くこもりいて、これは子供の時代によく歌った唱歌である。古事記に出て来てくる黄泉の国とは、米子市の南の溝口町のすぐ西隣りの、現地名御墓原だと申し上げた。
古事記でヒコホホデミの命は、高千穂の山の西に葬られたと書かれている。申すまでもなく高千穂の山とは、大山である。
イザナミの命を先づ風葬した所がこの御墓原であり、ヒコホホデミの命を葬った所も、この場所でよかった。
この御墓原の西隣りの山の現地名、鬼住山である。鬼とは副葬品をねらう人だったのである。イザナギの命が、亡くなったイザナミの命に会いに出かけて、亡霊と鬼に追いかけられた場面がある。
この時追い払った所が大山・蒜山料道路の鬼女台(キメンタイ)展望台である。
大江山の南の山が鬼ガ城である。ここに鬼道を持ちこんだ人と、天照大神の副葬品を盗んだ、二人の大悪人が居ったのである。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 25ページ
私のひとこと----地図を眺めていると、[鬼]という名前の付くところがいっぱいあります。これは、研究する価値があります。鬼女台(キメンタイ)は、最近つけられた地名らしいですが、本当は、もっと、昔からあったのかもしれません。
それにしても、人間の記憶とは、面白いですね。田村さんが、唱歌で歌われたのは、80年ほど前のことなのに、こんなところで、記憶が引っ張り出されたのです。最近は、縁起悪いと思われるのか、[墓]という地名はなくなってしまいました。が、小字にははいっぱいありました。
ここのお墓地名は、[御]がついていますから、高貴な人のお墓もあったのでしょう。[原]も付いていますが、今は、人家がいっぱいかもしれません。
お墓の近くにすんでいた鬼は、お墓の中のものを盗んだという発想は、田村さんの幼少のころは、実際にあったのでしょう。 今は、お供えをそのまま、置いておきますと、カラスがきますので、持って帰ってくださいと看板があがっています。一年に一回ぐらい、カラスにやればいいのにと思います。
私の記憶では、田舎にお墓参りに帰省した時に、お墓は、大勢の人で賑やかでした。鬼はいませんでしたが、お供えをお墓においた途端、その大勢の人の手が一斉に伸び、お供えはなくなってしまいました。大勢の人は、お供えを待っておられたのです。 終戦後で、貧しかったのですね。 せめて、5分ぐらいは待ってほしいと思いましたが、皆、怒る人はいませんでした。
今は、カラスが増えるからとか、お墓が汚れるからとか言って、カラスのことを考える心の余裕がなくなりました。
この先の歴史の展開にご期待ください。
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2009.10.15
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第5話 古代史と大江山
[殺されていた卑弥呼(11)]
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魏志倭人伝は中国の国益になる様書いた本である。魏の使いがなぜ伊都国に、常駐したか。戦略の専門家が240年以降居ったと考えたい。外の目的があるだろうか。
246年には狗奴国に攻撃を始めた。「狗奴国の男王と、もとより和せず」とは、敵の記録だから、だまされないことである。
日本から先に攻撃したのであれば、、攻撃して来たと書く筈だ。
戦いは難升米から、おっぱじめた。しかし勝ち目がないと分かると魏に使いを出した。卑弥呼が攻撃せよと、云ったからやむを得ず、戦争を始めたと、伝えさせた。
この上は戦争責任の卑弥呼に死んでもらえば、和ぼく出来るだろうと述べた筈だ。
いずれにしても、卑弥呼の年が年だから、死んでもらわないと、難升米のウソがバレル時期たったのである。
難升米は悪人中の悪人だ。渡来すると間もなしに、日本占領を考え、魏の援助で事を運ばんとした。これにとことん卑弥呼を利用したのである。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 24ページ
私の感想----卑弥呼シリーズは、本日で終了です。皆さんはどのように思われましたか。
内容の真偽や善し悪しの問題ではありません。
田村さんは、どれほど、これを書いておられる時は、生き生きとしておられたかが、伝わってきます。
内容をご存じない方は、チンプンカンプンだったと思います。卑弥呼の名前は知って居られるでしょうが、卑弥呼のことで、1時間誰かにおしゃべりが出来ますか。田村さんなら、1時間でも2時間でもしゃべられたと御思います。そうでないと、たとえ、想像であっても、小説家でも掛けない歴史の流れです。
魏志倭人伝を読んで、おかしいところが一杯と思われたのでしょう。卑弥呼のことは、日本の歴史書には登場しません。
魏志倭人伝にかかれていることを、全て正しいとして日本史を考えて居られる方ばかりです。 本当に、日本人はお人好しと云うしかありません。
難升米のことは、古事記には出てきません。日本書紀のみに出てきます。どれほど沢山でてくるか、自分で日本書紀を読んでください。読むことができなくても、多いだけでびっくりされる筈です。
日本書紀の作者は、書く必要があったから書きました。
こんなことを考えながら、もう一度、(1)から読んでいただきますと、田村さんは喜ばれると思います。 H211014
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2009.10.14
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第5話 古代史と大江山
[殺されていた卑弥呼(10)]
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歴史はくりかえすとはよく云ったものだ。皇帝を見付け出して、満州国をつくり、二次大戦を始めた。
天皇の名で召集令状は勝手に発行した。軍部に邪魔な人間は誰でも、一銭五厘の葉書で召集した。反対すれば憲兵がピストル一発で片付けたのである。
これと同じことを、1700年昔に、替玉の卑弥呼を利用して、鬼道の名のもとに全く同じことをやったと考えたい。
鬼道とは難升米の創作だと考えれば、古代史の謎は一挙に解ける。
日本人は舶来品なら、無批判に珍重する。
魏志倭人伝に難升米が、魏の軍司令官だと、明記したあっても、記事を中国有利な様に書かれているとは考えないのである。
小生もGHQが丹波にあったと書いた。しかし天照大神の祖先にふさわしい、りっぱな余生をここで送られた。これは二次大戦の軍部同様利用したので一時は、天照大神までGHQだと感違いさせられた。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 23ページ
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2009.10.13
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第5話 古代史と大江山
[殺されていた卑弥呼(9)]
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難升米はこの平和な日本に戦争を持込みたかった。崇神天皇を倒して、自分が日本国皇帝になりたかった。
卑弥呼は無用の存在である。しかし大衆を戦争に狩出すには、何か大義名文が必要だ。今まで平和な伊都国の大衆を、同一民族の崇神勢すなはち奴国、狗奴国、邪馬台国、投国討伐に動員するのだ。
大衆はそれまで尊敬している、卑弥呼の、神のお告げだからとすれば、大衆の徴用にはあつらえ向きではないか。
しかし卑弥呼が表にでては困る。しかも自分が皇帝になりたいのだ。従って239年末に帰国すると、大江山の南の鬼ガ城に、城すなはち要塞を構築した。
完成すると今まで、大江山のふもとの、天座に居った卑弥呼を、鬼ガ城に連れこんで、殺してしまったのである。
この日以後は替玉でよい。この積りで今一度倭人伝を読んで愉しんで欲しい。矛盾する点があったら教示願いたいのである。鬼道をよくし、しかも衆を惑わせばよいのだ。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 22ページ
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2009.10.12
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第5話 古代史と大江山
[殺されていた卑弥呼(8)]
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仮に一歩譲って鬼道が、神道や仏道の先輩で存在していたと仮定しょう。
魏志倭人伝を書いた、陳寿は、卑弥呼が鬼道につかえて、しかも人をよく惑はすことをどこから聞いたか。
これを伝えられる立場にあったのは、魏の都に半年も滞在し、しかも魏の上層部と、つきあっていた難升米が第一候補である。
難升米はカツラギ王朝すなはち、崇神天皇を討伐する軍司令官であった。当然滞在中の毎日の仕事は売名行為で、日本討伐の援助を取り付けることだった。
何故半年も滞在する必要があったかこそ究明しなければならない問題だ。
これからは想像である。倭国大乱の時に卑弥呼を共立して、国内が収ったと、ついウソをしゃべってしまった。日本の国情を239年に先方に説明する時には日本は平和だった。
これを先づ伊都国の手柄にする必要が大ありだった。卑弥呼は鬼道をよくしたから、50年近く平和が続いたと説明した。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 21ページ
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2009.10.10
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第5話 古代史と大江山
[殺されていた卑弥呼(7)]
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よく頭を冷して考えて欲しい。卑弥呼は日本人だったと思う。この日本人がやった行為に相当する日本語がなくて、英語のシャーマニズムなる、一般日本人に分からない、言葉を使用しなければならない。
これこそ謎ではないか。頭を冷して、一般読者は日本の学者が、何を考えているかを、検討して見ることだ。
ふさわしい日本語がなければ、日本に鬼道は存在しなかったのである。
鬼道につかえ、衆を惑わすとは、難升米がニュース源だ。
鬼道と中国の本に書かれ、しかも魔法使いに卑弥呼がされてしまった。アラビヤ以外に日本に魔法使いが居ったことになる。
更に面白いのは衆を惑わすとなっている点だ。よく注意して考えて欲しい。
日本人を惑わしてやったと、三国史に書かれたことになる。
立腹せざるを得ない、敵の交戦記録ではないか。今まで邪馬台国九州説の人達はお人好しに見えてならないのである。
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2009.10.09
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第5話 古代史と大江山
[殺されていた卑弥呼(6)]
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倭人伝に生口なる言葉が出てくる。これは中国の文献だから、中国の解釈に従うべきだ。漢和辞典では中国では、捕リヨのことなりとかいてある。
捕リヨなら、奴れいとは全く別物ではないか。戦争があれば奴例制度はなくても、捕リヨはあり得る。
読者は本屋をのぞいて見ることだ。古代の日本に奴れい制度があったと書いた本の多いことか。
卑弥呼は鬼道をよくしたから、特に一般の関心を持たれた。鬼道とは何かよく判らないの漢和辞典をしらべたが、全く載せてないのが多い。
やっとも一書で、しかも後漢書に引用例があることが解った。鬼道とは中国では魔法のことである。卑弥呼は魔法使いにされていたのである。
日本ではなぜか卑弥呼はシャーマニズムをよくしたと、難しい英語しか、鬼道にあてはまる言葉ない様である。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 19ページ
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2009.10.07
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第5話 古代史と大江山
[殺されていた卑弥呼(5)]
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読者は倭人伝で、魏からの文書と贈物の届き先が入れ違ってはいけない、と書いてあるのをご存じだろう。
当然のことが、わざわざ、国史にとりあげなければならない、重要事項だったのである。
文書とは元来、倭国王あてなら、卑弥呼が受取るべきものだ。これに対し、別の取扱い規程を作ったのは、敵将難升米としか考えられない。
239年に沢山の土産物を魏から、もらった。この時の贈物は卑弥呼あてと、一般用に分けられていた。
一般用は国中の人に見せて、魏の皇帝が如何に日本の人の為を思っているかを、PRせよと、意図が示してある。
敵将難升米はこの翌年、魏の使いと、これから攻略する、奴国、狗奴国、邪馬台国の敵状を正々堂々と視察して回った。
この根回しだったのである。239年に軍司令官に任命されたことを、日本人は忘れては困る。倭人伝は一字一句、興味本位で眺めることは許されない。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 18ページ
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2009.10.06
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第5話 古代史と大江山
[殺されていた卑弥呼(4)]
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敵難升米は魏にまでウソを云っていたことは、これだけで充分だろう。
卑弥呼が生きていた証拠は倭人伝では全く見当たらない。倭人伝を注意深く読むと、卑弥呼には金印が授けられた。親魏倭国王印だから、魏としては国王卑弥呼に直接手渡しするのが国際感覚だ。
しかしこの金印は朝鮮の帯方軍まで来て、宙ぶらりんになった。卑弥呼に手渡し出来なかったためと考えたい。替玉を会はすわけには行かなかったためだ。食事を運ぶ人だけが男一人だけだ。伊都国は千余戸なのに、卑弥呼に下女千人はおかしくないか。少いと替玉か否かの、ウワサがすぐ伝はるではないか。誰に聞いても分からないために、下女を沢山にしたまでだ。
重要な国史に、ノックしないと、入室できないと書いた。如何に異常か、替玉をしいてたことは、魏の一部でも承知していたと考える外ないのである。
親魏倭国王印が日本まで届けられなかったことは替玉だった、ためと考えたい。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 17ページ
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2009.10.05
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第5話 古代史と大江山
[殺されていた卑弥呼(3)]
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卑弥呼を共立したと難升米は、先づウソを魏に伝えたのである。
卑弥呼は共立17年前に倭国王と名のっていた。従って共立前から女王だった。
邪馬台国には、女王が居ったと、倭人伝に書かれている。邪馬台国とは吉備上道国である大吉備津日子の命の一族が支配していたから女王は居る筈もなかった。これも難升米以外にニュース源がない。
伊都国の国名で小生も振回された。恐らく大江山の西隣りが伊都支(出石)だから、伊都国とつけただろう。占領軍は自分に都合よい名前を付ける。
日本に実在の名前では魏の国にカッコ悪いではないか。
倭国の大率が居った国も出たら目でもよいし、大率もなかったと考えたい。
邪馬台国自体、伊都国の敵国であった。
魏からの督戦の常駐員が伊都国に居ったからこの人に気付かれない点はウソでも良かったのである。倭人伝に刺史如きものあり、とある。このニュース源は常駐員だろう。
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2009.10.03
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第5話 古代史と大江山
[殺されていた卑弥呼(2)]
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卑弥呼が実在していた証拠は、朝鮮の史書三国史記だけである。173年の新羅の記録には二度と登場しない。 友交のための訪問だった。
従ってこれ以後75年間訪問がないこともおかしい。
話を転じて190年頃の古事記の記録を探した所、崇神天皇より4代前の孝霊天皇の御世に、二人の将軍を吉備国に派遣している。
「言向け和したまひき」と書かれているから、話合いで解決した。
一人の将軍は大吉備津日子の命で吉備下道国の祖である。高梁川の西岸で、福山の芦田川の流域に含まれている。
取りも直さず邪馬台国と投馬国である。この投馬国はニギハヤヒの命が、漢国と手を結んでゲリラ部隊を送り込んだ所だ。
孝霊天皇の指図でこの二国は、平和休戦した。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 15ページ
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2009.10.02
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第5話 古代史と大江山
[殺されていた卑弥呼(1)]
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難升米は卑弥呼に使いだとして、魏の都に239年に行った。そして卑弥呼は倭国大乱の時に両者が相談して選んだ女王だと述べたのである。
難升米がいくら何でも自分は倭国王と名のる心臓の持ち合わせはなかった。やはり誰かの王サンの指図で行動している方が何かにつけて好都合だったのである。しかし実在されてはやりにくい。
卑弥呼を共立したとニュースを提供したのは難升米である。攻略目標はカツラギ王朝の、つわもの達の出身国久米国として倭人伝を読むことである。
朝鮮に三国史書がある。これは毎年の記録が残っている。左記(下記)は新羅の記録だ。173年に卑弥呼は友交のため新羅に使いをだしている。
難升米が魏の都に行ったのは、これから66年後である。卑弥呼は生きて居れば、この時には百才位だろう。248年に死ぬまで、更に9年生きていたことになる。殺されていた証拠の一つである。

田村誠一著 昭和56年4月3日発行 13ページ
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2009.10.01
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第5話 古代史と大江山
[敵将 難升米]
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難升米は239年に、魏の皇帝から軍司令官の肩書をもらった。倭国との親善大使ではないのである。日本に取っては敵将だ。
倭人伝とは中国の正史である。舶来品なら敵国の記録まで、そのまま信用する態度では古代史の謎は解ける筈がない。
先づ倭人伝の最後の一行を、読んで欲しい。壱与が実在したか否かも疑問だ。壱与が20人を遣わし、政等の還るを送らしむとある。
真赤なウソで負けて逃げ帰ったのではないか。男女生口とは捕リヨだ。これに船をこがした。文献はウラを読むことだ。
白珠五千孔等を貢いだとあるが、略奪物資はこれだけしかなかった。
こり以後は約180年間国交断絶のである。この周辺の記事だけはニュース源は逃げ帰った人達からだ。
難升米は半年も魏の都に滞在して、道路工事までやって売名した。大部分のニュース源は敵将難升米だったのである。
先づ、倭人伝のウソとホンマを吟味することが先決である。
田村誠一著 昭和56年4月3日発行 11ページ
ひとこと---この文章を読んで、よし、私も魏志倭人伝を読もうとして、読んだことを書いたものが、【魏志倭人伝を読む】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page450.html
に掲載しています。
時間がありましたら、覗いてください。
日本人は、古事記は信用できないが、外国の資料は信用する人が多いようです。このページに書いてあることは、短いので、理解しにくい点はあるでしょうが、これは、現在でも当てはまることだと思います。
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2009.09.29
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第5話 古代史と大江山
[ハツクニシラス天皇]
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古事記では崇神天皇の御世に丹波の国に兵を出して、クガミミの御笠を殺したとある。
クガミミの御笠は正しく難升米ではないか。
千余人の戦死者の中の一人だった。
殺された今一つの証拠は後任の軍司令官は倭人伝で別人である。そして魏の使い政等と一緒に幹部20人は魏に引揚げた。
248年に魏との国交断絶である。国交断絶は425年まで180年近く続いたのである。
国交断絶の言葉はむしろ当を得ていない。日本に設けて居った中国の基地がなくなったのである。
倭国とは中国の属国で、ここに卑弥呼女王が居ったことを明白にしてくれた。
崇神天皇は古事記でハツクニシラス天皇と書かれたのは、正確な表言であった。
卑弥呼は敵国の女王であった。今更ちやほやするのはやめることだ。同時にホントの卑弥呼は難升米に殺されていたのだ。
倭人伝は敵国の記録であり、敵国に都合よい様にカムフラージュされていたとみるべきだ。
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2009.09.28
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第5話 古代史と大江山 田村誠一著
[古事記と倭人伝の交点は崇神天皇] 5ページ
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今まではストーリーは年代順だった。今度は年代がはっきり、した時からバックして、過去にさかのぼることにしたい。
古事記で年代がハッキリするのは、崇神天皇が亡くなられた年である。これは戌寅と書かれている。
歴史年表は沢山出版されている。この中で古事記に準拠した年表すなはち、菅氏説と田の学者の説を併記してあるのが、平田氏の歴史年表である。
引用させていただいたので注意して見ていただきたい。
この年表から崇神天皇が亡くなられたのは258年である。卑弥呼が死んだのは248年だから、この天皇の御世の出来事だったことになる。
昭和56年4月3日発行
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2009.09.26
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第5話 古代史と大江山 田村誠一著
[神話でなかった古事記]
********************* 昭和56年4月3日発行
小生もスタートは、高天原はヒルゼンにあったと実話説である。
先づ古事記で神武東征までの地名が全て、、九州以外で国土地理院の地図に実在していると申し上げた。
この点樋口名誉教授と考え方が偶然一致していた。
次はこの地名を使用して古代史のストーリを展開した。云幅仮設である。
第三に魏志倭人伝に出て来る国名を解明したこれは、古墳、寺院等で裏付けした。同時に邪馬台国すなはちヤマトはは、西大寺で、九州では不都合な点を述べた。
残る問題は魏志倭人伝には年号がはっきりさせて、いくつかの、大事件がかかれている。この外に日本の古代史は、漢書と朝鮮の三国史書がある。
古代では数百人が往復すれば、何れかの国に記録が残る筈だが、騎馬民族説は何れにも、その様な記録がなくてもよいらしい。
古事記を学問的に実話だと述べたいのだ。
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2009.09.25
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第5話 古代史と大江山 田村誠一著
[大和の海原] 昭和56年4月3日発行
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前稿の〔西大寺ヤマト〕で国学院大学の樋口名誉教授の、古希の記念出版の[大和の海原]の一部を引用させていただいた。
この時は実は坂田井著〝稲荷山古墳、鉄剣銘百十五文字のなぞ〟の中から採用した。
[大和の海原]がやっと、入手できたので早速面白く読ませていただいた。樋口名誉教授がひっぱたかれてもよい、死んでしまえば自分の勝だとおっしゃったのは、大和に神武天皇の頃に海が入りくんで来ていたとの説だった、 海抜65米までが、海だったと考えられる由である。
次に神武天皇にゆかりの地名が、33カ所がすべて見付かって、しかも65米以上の海抜の所にあったとのことだ。
小生も大国主命や神武天皇の地名が,ほとんど、全て現存していると述べて来たのである。失礼だが樋口名誉教授の説に、我が意を得たりと思っている。
ひとこと—田村誠一氏の著作が、第一集から発行されていたのに、-第四集から第八集まで飛ばして、紹介しました。
指一本で入力している矢田氏としましては、第一集から、-第四集までは、余り読んでいただけませんでした。初めは、内容があまりにも現在一般に通用している歴史とかけ離れているからだと思い、皆さんの興味のある[倭国大乱]や崇神天皇と卑弥呼の関係が書いてある第八集を選択しました。
卑弥呼のことなどは、多くの専門家が書いておられて、それぞれの主張をしておられますが、田村氏の著作は、物を考えるとはどういうことかを教えて頂ける様に思います。
このページは、樋口名誉教授の[大和の海原]に出会った時の喜びをさりげなく書いておられます。明治生まれの人は、目上の人に対する礼儀とは、どのようなものかを教えてくれます。
私は樋口名誉教授の[大和の海原]は、読んでいませんが、その理由は、海抜65メートルまでが海だったという説は、田村誠一氏の、その後の研究によって、神武天皇が神武東征を奈良で終わらせ、橿原市の〔柏原〕で宮城を築かれ、紀元元年1月1日に天皇になられた説を正しいと思うからです。
日本書紀に書いてあるデーターに拠れば、神武天皇が、生まれられたのが、紀元前660年という数字を採用しますと、可能性はありますが、紀元元年の頃ですと、4メートルのあたりが海岸線だったと思っています。
ただ、奈良盆地は、65メートルではなく、75メートルのあたりまで、水がたまっていたのではないでしょうか。 東の方で云いますと、山の辺の道は、その湖岸であり、水が大和川に流れるようになった時は、一番低い法隆寺のある斑鳩の里に向かって流れ込んだと推理しています。
全部63ページの冊子です。入力間違いがあるかもしれませんが、修正しながら読んでいただければと思います。
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2009.09.21
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第8話 吉備にあった漢の古墳
崇神天皇三兄妹 結言
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日本のマルコポーロまでが、遠方の人々があこがれる位住みよい国だつた。これを伝え聞いた少数民族が、こぞって、一民族単位で紀元セロ世紀に移住して来たのである。
祖国のある大民族が一部だけ日本に来ることは考えられない。
揚子江は国際河川でシルクロードのかなたから、チベットと雲南の省境をも流れていた。
駐留、下流の住民は上流から降って来る人を阻止出来なかったのである。
大部分の人達はチベットや雲南から、越に下って、海南島を経て台湾海峡から日本海に対馬海流を利用して皮船で来たことだろう。
中国の中山王国の人々は白狄人で大半は日本以外には亡命する国は無かったのだ。
この中国の漢民族等に圧迫された、少数民族が集ったのが日本民族だつた。
中国はこの民族集団を、日本に何回か基地を築いてまで征服を企てた。しかし全部失敗に終ったのである。
今こそ建国の由来を認識して、建国当初の苦労した人々に感謝をささげるべきだ。
ひとこと----本日で、[第8話 吉備にあった漢の古墳 崇神天皇三兄妹]は終了しました。今回のシリーズは、全体を読んでいただきますと、解かると思いますが、田村誠一氏は、自信あふれる文章だったと思います。書いてあることが正しいとか間違っているとかのお話ではありません。
人間、自信あふれているときは、頭の回転は、脅威的に働くと思っています。何分、古代史は、資料が少ないので、真実の解明は大変ですが、京大の理系で勉強されただけありまして、仮説から始まっているのですが、その仮説がをこのように考えたら、見事に仮説でなくなっているところが読み取れます。
私のブログでは、いろいろ解析をしてくれますが。平均、一日に100件くらいのアクセスがありました。 最高は、9月15日の166件でした。 この数値は、アクセスがあっただけで、読まれた証拠にはなりませんが、私は今回は、200件数にはなると思いましたが、なりませんでした。
田村氏は、仕事はされたのでしょうか。 書くだけなら、小説家ですともっと書きますが、調査をするために、ほとんど、現地へ行っておられます。この様な60ページほどの冊子をどんどん出されました。 この自信あふれる文章から感じることは、仕事のほうも、同じようにバリバリされていたのだと思います。
市ことのほうは、息子さんの田村氏が、引き継いでおられますので、一度お会いして、確かめたいなと思っています。
[崇神天皇三兄妹]に書かれたように、卑弥呼は、崇神天皇の妹だと書いておられます。
そんなバカなと思われた方は、いっぱいだったと思います。日本の歴史資料にまったく登場しない卑弥呼と日本の資料にある日子坐王とが、ドッキングして歴史の謎が解明されたと思います。
これは、みなさんに早く知っていただこうと思って、シリーズは、5,6,7回は飛ばして、8回の[第8話 吉備にあった漢の古墳 崇神天皇三兄妹]を掲載しました。それだけに、9月18日の64件のアクセスには、がっかりしました。
次回からは、[第5話 古代史と大江山]を紹介します。
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2009.09.20
魏志倭人伝は卑弥呼のために大きな墓を作ったと書いた。人質を殺したと、さとられないために全くのウソを書いたのである。
戦争を中断してまで墓を作ることがあるだろうか。後味が悪いから作文したまでだ。
日本にやっと完全平和が訪れたのである。これまで日本には大型古墳の経験も職人もゼロだった。
吉備には漢が立派な前方後円墓を遺した。これよりお粗末な古墳が三兄妹に作れるだろうか。
外形の前方後円はまねすればよかった。しかし、内部構造は知る由もなかったし石工の職人も居らなかった。
ミマツヒメのために 墓が作られた。これが国産の大型古墳一号である。次いで10年後に亡くなった崇神天皇の墓が、墓にくつっいて作られたのである。
日子坐王の墓を恐らく吉備の漢の古墳より大きいのが残されている筈だ。
やっと古代史は崇神天皇まで追求出来た。全てがあまりにも思いもよらないことだった。
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2009.09.19
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第8話 吉備にあった漢の古墳
崇神天皇三兄妹(13)
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漢の軍隊が九州と吉備を占領していたのは190年までである。
この時崇神天皇は40才、妹のミマツヒメ(卑弥呼)は38才位だった。
義弟の日子坐王は35才で直接漢軍と対じしていのである。戦線こう着が続いていた。
ミマツヒメは丹波で天照大神と月読命の墓守をしていた。
これから50年後にミマツヒメは、魏の人質に取られ殺された。この妹をとりかえすべく戦ったのが崇神天皇であり、義弟の日子坐王だった。
この三兄妹は漢軍と戦って勝ち、魏の無理難題に一歩も退かなかったのである。
中国はこの二つの戦を歴史にカムフラージしても載せないわけには行かなかった。あまり大きな犠牲で人民にかくすことが出来なかったのである。
日本国内の争なら倭国大乱を取上げる筈もないし、魏の軍使が飛んで来るのもおかしい。
しかしこの謎は解けたと考えたい。
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2009.09.18
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第8話 吉備にあった漢の古墳
崇神天皇三兄妹(12)
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魏は三国志の時代の北の国でここの船は湖水とクルーク用だから、カイでこぐ船の構造である。海洋に出れば、一たまりもなく、難破するだろう。
呉や蜀の船は揚子江の三峡の険を190キロも遡航出来る軽い帆船だった。
シルクロードの奥地やチベットから日本海沿岸に直行出来る皮船があった。
丸木をくって作った船は、あくまでも近距離用であった筈だ。
古代史の謎は、古代の船を使い分けることで解ける様だ。
難升米は魏の都に半年滞在中に軍用道路を建設したのは、魏の軍隊を港まで運ぶ専用道路だと述べておいた。
この道路を必要とする位の大軍が、日本に派遣されて恐らく全船沈没した筈だ。卑弥呼を殺したあとの戦死者千余人と魏に逃げ帰ったのが20人に過ぎなかったことからの推察である。上陸に成功した人はなかったのである。
三国志等を眺めると西域等でも大作戦には20万人以上の動員が多いことがヒントだ。
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2009.09.17
女王卑弥呼、男卑弥弓呼とわざわざ男王を頭に付ける必要があったのか。
兄妹であることを意識してこんな名前をつけたのである。狗奴国王日子坐王では兄妹関係がハッキリしないので、わざとこんな名前をつけた筈だ。
発音を手がかりに該当者を探しても無駄な努力である。
卑弥呼と卑弥弓呼がもとより和せずとは何事か。衆を惑わしているのは、難升米ではないか。罪を日本人同志に背負わせた卑劣な書き方である。
しかもうまく呼寄せ二人共毒殺する意図がありありと分かる。
二人を殺せば兄の崇神天皇の軍隊は孤立し崇神天皇が殺される筋書きではないか。
正始八年にも軍旗が交付された。これは魏の本軍の軍旗である。何万か何十万かの水軍が派遣された。
同時に魏から軍使が丹波にやって来て、人質の卑弥呼を殺してしまったのである。敗戦と魏志は書けないから原文を読んで欲しい。
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2009.09.16
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第8話 吉備にあった漢の古墳
崇神天皇三兄妹(10)
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卑弥呼を人質にして義弟の狗奴国王に降伏をせまったのである。
こんな卑劣なやり方を日本人が行ったことはない。魏国や三国志の時代の戦略家に取っては日常茶飯事である。
瀬戸内海沿岸には崇神天皇すなはち兄の軍隊が配備されている。この軍隊を久米国に北上させないために、瀬戸内海に魏の水軍を一部配備するために、率善中郎将が2人必要だった。
狗奴国が卑弥呼奪回に出動する場合の両面作戦のため必要だった。
正史八年(247年)に太守即ち朝鮮総督がわざわざ1500キロ離れた魏の都に、狗奴国との交戦状況を報告に行った。
如何に重大な戦争が起きたか、しかも朝鮮軍だけでは始末に負えない魏国の水軍が出動しなければならない事態になったのである。
倭人伝では狗奴国の男王卑弥弓呼もとより和せずとある。和せずとは口説きに乗らなかったことである。倭人伝は魏の作戦をバラシテ呉れたのである。
ひとこと---タイトルが、崇神天皇三兄妹となっていた理由が、少しずつ、おわかりになられたでしょうか。
このころ、崇神天皇は、どこに、兄は、妹は どこにおられたか、おわかりですか?
全部わかりますと、崇神天皇の偉大さが解かると思います。 巨大な魏の国に負けなかったのです。
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2009.09.15
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第8話 吉備にあった漢の古墳
崇神天皇三兄妹(9)
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日本の敵状を調査するために、お土産を又沢山持って来て人民をだましたのである。少なく共日本国内を敵の将軍が見回っても、不思議に思わない様では魏志倭人伝を解説はできない。
正始四年(243年)には使者を魏の都に出しこの時率善中郎将を1名増加した。魏国は益々戦争準備を充実させたのである。
恐らく日本海側と瀬戸内海から、全く離れた所から侵略するために難升米と邪狗二人に増加した筈だ。
正始六年(245年)に難升米に軍旗が渡された。これこそ戦争開始、宣戦ふ告である。
これまでは卑弥呼の義弟卑弥弓呼(ヒコイマス、日子坐王)を口説いて、ワイロで卑弥呼のもとに呼び寄せる様工作しただろう。
しかし日子坐王は誘いに乗らなかった。難升米がこの時もらった軍旗は魏の朝鮮駐留軍が日本攻撃に正式に出動命令が出たことである。倭人伝の解釈を中国人に聞く位おかしなことはない。
人質にして魏の軍隊が守備をかためた。
ひとこと------<日本の敵状を調査するために、お土産を又沢山持って来て人民をだましたのである。>
このほか、田村氏の推察された文章がいっぱい書かれていますが、魏の国の人は、チヨロコイものです。今の大国といわれるアメリカ、イギリス、ロシア、中国のすることは、こんなもものではありません。
昨日、ニュースで、新型インフルエンザの患者が増えたときには、呼吸器装置が間に合わないと報道していました。大阪府の子供たちが、カナダに旅行していたら、感染したと大騒ぎになりました。あれから、新型インフルエンザでなくなられた方は、12人です。いつだったか忘れましたが、あれから、殺された人が何人おられたか、新聞を繰って調べてください。政府は、殺人・自殺者のことは、何もしないで、大騒ぎしています。普通に考えますと、おかしいですね。
それだけ、新型インフルエンザのウイルスが危険であることを知っているからです。危険なウイルスを使って危ないことをしていたのでしょう。これこそ、私の想像ですが、その研究所の大半の人が亡くなられたのでしょう。
そのことを世界に公表すべきです。 私ははじめ、アメリカがやっていたと想像していましたが、これほど、徹底的に対応しているということは、犯人は、日本人だということになります。
国民に、実際に謝るべきでしょうね。そして、徹底的に、抑え込んでしまう。方法は、全員、新型インフルエンザにかかるしか方法はありません。
話がまったく、別な方向になりましたが、魏志倭人伝の解説書は間違っていると思います。 それよりも、古事記も日本書紀も解釈の仕方が間違っていると思います。
田村氏のきょうの文は、魏志倭人伝に難升米が、中国に帰ったときに、道路つくりをしたという、わずかな文が出発点になっています。
魏の国にとって、日本がどれほど大切な国であったかがわかります。大切なら、他の国をやっつけたのと同じように、10万の軍隊をもって行って、皆殺しにすればよかったのですが、日本では、それをしていません。
何分、古い話ですから、ここに書いてあることが正しいとは限りませんが、考え方は、正しいと思っています。
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2009.09.14
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第8話 吉備にあった漢の古墳
崇神天皇三兄妹(8)
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難升米が魏の都に行く時男生口四人、女生口六人を連行した。生口とは中国語で捕虜であることは何回か述べて来た。
日本人が日本人を捕えて、ハイ捕虜ですと差し出すことがあるだろうか。
難升米が魏国のスパイだから、連行した日本人は捕虜と言えるのである。生口はもともと奴れいではない。捕えて奴れいに使用したので、前後関係をハッキリさせるべきである。
107年の師升の事件でものべたが、日本人捕虜は通訳に使ったのである。
魏志倭人伝で正始元年は240年である。この時朝鮮総督と一緒に将校がやって来た。歴史に載せなければならない位偉い将校がついて来たのである。表敬訪問なら都だけで帰るべきだし、偉い将軍を連れて来るのは疑問を持つべきだ。
日本国内の軍備を調べるのが本来の目的ではないか。日本各国の地理から、人口を調べる目的だから間違って居る筈がない。
魏志倭人伝を陳寿は日本を知らずに書いたと難ぐせつけた日本人がいる。
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2009.09.13
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*第8話 吉備にあった漢の古墳*
* 崇神天皇三兄妹(7) *
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スパイの難升米は魏の都からの、お土産を卑弥呼用とそれ以外の目的に分けてもらって来た。なぜ分けるべきか。おかしくないか。
一部は卑弥呼用であり、残りは人民にあまねく展示して魏の皇帝が日本人を如何に、いとおしく考えているかを伝える目的までかかれている。要するにスパイ工作用ではないか。
日本人を犬扱いで、チンチンシロ、チンチンしたらあげると見えすいたやり方である。
日本人の代表として日子坐王が姉の卑弥呼の所に取りにこいではないか。
おびき寄せて二人共毒殺である。三国志の時代である。この時代の最も常識的な戦略が日本で取られなかったら、それこそ不思議であり謎と云うべきだろう。
中国人式に倭人伝を解釈すべきだったのである。日本人のお人よしには魏志倭人伝は手に負えなかった様だ。
難升米が日本に帰ると、すぐ魏の都から使者が来た。表敬なら、都だけで帰るべきなのに邪馬台国まで来たのは敵状視察である。このために魏のお土産を先づ見せたのである。
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2009.09.12
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第8話 吉備にあった漢の古墳
崇神天皇三兄妹(6)のコメント
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以下、すべて、ぶろぐ解説者の私のものです。
崇神天皇三兄妹(5)と崇神天皇三兄妹(6) のページの意味はお分かりになりましたか。
ここに書かれてあることの解釈の仕方が間違っているとか、正しいとかの問題ではないのです。
古文書を読むときには、この様に読むのだという法則が出来上がっているようで、それに従わない文章の読み方は、間違いとされています。
それは、全くナンセンスなことであることが、(5)と(6)で主張されています。
田村氏が、「一般道路では運びきれない位の、大部隊を港まで運ぶための道路ではないか」とかかれた元になっている文章は、「汝が来使難升米・牛利、遠きを渡り、道路に勤労せり」
の部分になりますが、その後ろに書いてある「今、難升米を以て卒善中郎将と為し、牛利を卒善校尉と為し、・・・・・・」が重要なのです。
いや、それよりももっと前の部分があっての、「汝が来使難升米・牛利、遠きを渡り、道路に勤労せり」
なのだと、田村氏は、崇神天皇三兄妹(5)と崇神天皇三兄妹(6) の間のページ p52、p53に、魏志倭人伝の一部をそのまま、入れて居られます。
読みにくいでしょうから、ご自分の魏志倭人伝で確かめてください。
「卑弥呼、以死」等は、たったこれだけの漢字ですが、読み方は色々です。田村氏は、「卑弥呼以って死し」とすべきだと書いておられます。
その2ページを掲載しておられますから、次に、掲載しておきます。


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2009.09.11
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第8話 吉備にあった漢の古墳
崇神天皇三兄妹(6)
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一般道路では運びきれない位の、大部隊を港まで運ぶための道路ではないか。
239年にすでに魏の水軍を日本に送る準備を完了していたのである。
卑弥呼に親魏倭国王の印を渡すのが、本心なら水の準備なんかあり得る筈がない。親善ではなくて完全なスパイのやることではないか。
卑弥呼を共立して倭国大乱が収拾されたと書いたのは真っ赤なウソで、漢軍が全滅したので日本は一時的に平和になったのである。
敵の記録はすべて自国に都合よく書かれた、国民をだます作文となぜ考えないのだろうか。中国の文献なら一にも二もなく信用するのか。
卑弥呼は衆を惑わすと書かれている。敵国の記録にこの様に書かれたことを、なぜ疑いを持たないで、卑弥呼、すなはち日本人に不なことわ、日本人は信じるのだろうか。
卑弥呼は丹波の伊勢神宮の巫女の頭にすぎない。従って難升米を太夫に任命する筈がない。難升米は魏のスパイだと知られたくないために三国志の著者がやった作文だろう。
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2009.09.09
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第8話 吉備にあった漢の古墳
崇神天皇三兄妹(5)
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スパイ難升米は卑弥呼をうまくだまして、恐らくは親善のために、魏の都に出張する許可を取った。
卑弥呼は此の時すなはち238年には86才で伊勢神宮の巫女の頭だった。千人位の巫女が神宮には居ったのである。
難升米は魏の都で色々と戦略を半年もかけて考えた。先づ久米国王の卑弥呼の義弟を殺すことである。
日子坐王をうまく義姉の卑弥呼の所に寄こさせて毒殺すればよい。中国の一般的やり方である。もちろん二人とも殺すのである。
このあと一挙に久米国を攻略すればよい。久米国の軍隊は瀬戸内海の沿岸を守って居るから、日本海側から久米国の軍隊の本部も食糧の貯蔵庫も被服しようも手中に収めることは簡単でないか。
又これ以上の作戦が考えられるだろうか。
難升米は倭人伝では道路に従事せりと書かれている。
半年後に率善中郎将の肩書をもらう様な人が道路に従事すとは、一体何事か。
ひとこと---〔難升米は倭人伝では道路に従事せりと書かれている〕此の事は、魏志倭人伝で確かめてください。
この様な部部を翻訳された方が居られるでしょうか。
田村氏は、この部分が気になられたのですね。この記事につしつまが合うように、小説まがいのことを書いておられます。
〔難升米は魏の都で色々と戦略を半年もかけて考えた。先づ久米国王の卑弥呼の義弟を殺すことである。
日子坐王をうまく義姉の卑弥呼の所に寄こさせて毒殺すればよい。中国の一般的やり方である。もちろん二人とも殺すのである。
このあと一挙に久米国を攻略すればよい。久米国の軍隊は瀬戸内海の沿岸を守って居るから、日本海側から久米国の軍隊の本部も食糧の貯蔵庫も被服しようも手中に収めることは簡単でないか。
又これ以上の作戦が考えられるだろうか〕
こんなものは、学問でない、小説であれば、どのようにでも書くことが出来ると云ってはおしまいです。魏志倭人伝には、どうしてこのようなことを書いたのか。
以後、田村氏のガンバリが続けられ、次のページへと続きます。みなさんも、読まれる前に、ご自分でかんがえられることをお勧めします。
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2009.09.05
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第8話 吉備にあった漢の古墳
崇神天皇三兄妹(4)
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倭国大乱を崇神天皇三兄妹は壮年期に生き抜いて50年経過した。
この間に漢軍の来襲に備えて吉備には12万戸の屯田兵を配備した。食糧は敵に略奪されないため別の国(邸閣国)においてあったことを魏志倭人伝は書いている。これが津山だったのである。この隣りが久米国であり、日本軍の本部があった所である。
瀬戸内海から紀州に至るまで、海岸に高地性集落を置いた。
漢国が滅んで魏の国になるや今度は丹波国にスパイの難升米を潜入させた。古事記に、タガミミノ御笠と称する高句麗人である。
難升米が魏のスパイだと分かれば、読者でもその積りで魏氏倭人伝をよまれれば、卑弥呼の謎は簡単に氷解するだろう。
へたな小生の説明がない方がよいかも知れない。蛇足として書かしていただく。
漢は水軍で強硬策を取ったので、食糧補給が続かないで敗れた。
三国志の時代で戦略家がうようよと居った時代ではないか。
一言---もう卑弥呼のことは飽きられてしまったのでしょうか。田村氏は、<難升米が魏のスパイだと分かれば、読者でもその積りで魏氏倭人伝をよまれれば、卑弥呼の謎は簡単に氷解するだろう>
といとも簡単に書いておられます。
しかし、アクセス数はどんどんへっていくところを見ますと、もう卑弥呼は面白くないのかも知れせん。
卑弥呼より、私は崇神天皇のところがすばらしいと思っています。ここに書かれたことは、学問でもなんでもありません。
日本の日本書紀と古事記に書かれてある崇神天皇5年に、死に絶えるほどの人民が死んだという、記事。中国で1年の間に、元号が4回もかわって、皇帝が二人死んだという記事。朝鮮では、これまた、三国史記という書物に、日本から、3000人ほどのひ人が避難してきたという記事。
どれも、一行ほどの記事であるだけなのに、どれほど詳しく書いたものより、真実であることがわかります。
この三つを合わせて、スペイン風のようなものがあったのだろうという推察はすばらしいものです。
このようなものは、学問とは呼びませんが、どんなりっぱな学術論文より素晴らしいものだと思います。
この発想のおかげで、崇神天皇5年が、190年~192年のころのことであることはハッキリします。
どんどん、崇神天皇のことを書かれた書物を読んでください。崇神天皇は、いつ頃の人か、説はいっぱいありますが、ほとんと゛わかっていません。神武天皇になると、平気で、期限660年前とと書いておられる方がおられます。
こんなことでは歴史になりません。
この冊子では、崇神天皇だけではなく、<倭国大乱>のことも書いておられます。 日本の歴史書に、お隣の韓国や台湾や、ベトナムのことを書きますか。 日本人が、30国も乱れて戦争をしていたなどと、平気で書くほどこそ、おかしな話はありません。
中国は、日本が生意気にも、戦を仕掛けてきたから、<倭国大乱>のことを書いたのでしょう。 どうして、大きな中国が、ちっぽけな日本が気になったのでしょう。
気になったのではなく、重要な国であったのです。
このような考え方は、学問ではありません。普通に考えることです。
しかし、学問的でないと認めてもらえないようです。
所が、たくさん出された田村氏の小冊子は、インターネットで検索しますと、ある冊子は10000円の値段が付いていました。買われた方があるのですね。私は、< 第8話 吉備にあった漢の古墳>は、それに匹敵する内容だと思っています。
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2009.09.03
この173年頃には崇神天皇の義弟日子坐王は20才位で久米国で、漢国軍と戦っていただろう。
韓国軍は日本で食糧の現地調達が出来なかった時代である。その日暮らしの日本に来て、日本人が奥地に入られては、中国からの食糧が届かないことには、戦争は出来ない。
従ってゲリラ戦になったのである。戦争が何十年と続いた理由である。最初には漢軍のことだから10万から20万の水軍が一度に来ただろう。
中国から日本には偏西風を利用出来るから十数日もかからなかったろう。しかしこぐ船では中国には帰れないとなれば、これも長期戦になった理由である。
倭国大乱が何十年も続いた謎は解けたことになる。
このあと神風邪が中国から吉備に伝染したのである。補給の船がバイ菌を運搬して来たので漢国駐留軍は全滅する外なかった。
ガダルカナル戦記古代版である。
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2009.09.01
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第8話 吉備にあった漢の古墳
崇神天皇三兄妹(2)
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前に推定年表を載せておいたが、7代孝霊天皇と9代開化天皇が相ついで亡くなったときに、崇神天皇は40才だった。
日本書紀には代々の天皇が即位された様に書かれているからインチキだと述べた。
7代8代9代と順に即位出来る筈が無かったのである。現に8代の天皇は即位できただろうか。
中国では肉食で皇帝は30才前後で死に、数才の赤んぼが即位することが、この時代は多かった。
天皇の平均在位で日本書紀のインチキ年代を修正する位バカゲタことがあるだろうか。
話は横にそれたが卑弥呼は丹波の天照大神をまつった、伊勢神宮に巫女として行かされた。
崇神天皇が生まれた頃の吉備の吉井川の川口附近はすでに、韓国軍の基地が出来ていたのである。倭国大乱の最中である。 卑弥呼は173年に新羅に親善使節をだしたことは述べた。韓国軍に攻められている以上、新羅と交友を結びたかったのだ。
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2009.08.29

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第8話 吉備にあった漢の古墳
スペイン風邪年代考証(4)
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〝崇神天皇の妹だった卑弥呼〟に神武天皇から崇神天皇までの世継は平均22才で生まれたと仮定した時の年代表を示した。
7代孝霊天皇は190年に亡くなられ、9代開化天皇も191年に亡くなられたことになる。仮定のしかたのため1年の誤差だ。
両天皇共に191年に亡くなられたことだろう。中国から漢の軍隊によって吉備
病菌が運ばれたとしたら話はうますぎる位だ。
スペイン風邪が流行しただろうことは、中国の文献になくても、漢の年号の特殊な現象の裏を読むことでよかった様だ。
4種類の全く別の立場で書かれた資料でスペイン風邪が流行したことは間違いない様である。
107年に160人の捕虜を師升は漢の都に連行したので、朝貢とはあべこべだつた。
敵国の記録を信用するとアブナイと申し上げたいのである。
魏志倭人伝は自国民をだますために卑弥呼を共立して収拾したと書いたのである。共立の二字に日本の学者はおどらされたのだ。
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2009.08.28
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第8話 吉備にあった漢の古墳
スペイン風邪年代考証(3)
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古事記の崇神天皇に関する日本古典文学全集の一部を先に示した。御真木入日子印恵命とは崇神天皇のことである。
天皇とは後世の人が勝手につけたことで、古事記には即位のことなど全く書いていない。 天皇家の家系を主にしたものにすぎない。自分の家系をインチキを子孫に伝える人があるだろうか。
家系だから語り継がれて来たことは、子孫に正確にうけつがれることが一般である。なぜ古事記は偽書としなければ、気がすまないのだろう。人の家系なら第三者がケチを付けたくなるのは日本の進歩的学者の本性だろう。
崇神天皇の御世に流行病があったことは、明記されていたのである。人民が無くなってしまう位猛威をふるったのである。
中国から吉備に侵略していたから伝染したと考えてはいけないだろうか。

上の古事記で日子坐王がクガミミノノ御笠を殺したとかいてある。この続きに小さくこれ人の名なりとかいてあることに注意してほしい。鬼畜に劣る人間だと書いたのである。
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2009.08.27

朝鮮には新羅と百済の正史がある。これは三国史記と呼ばれている。紀元前頃から700年頃までの出来事が詳しく書かれている。
左記は鈴木編訳の三国史記で倭国関係の事象に重点を置いたものだ。新羅の180年代を示しておいた。
193年6月に倭人が食がなくて、千余人がやってきたとかかれている。191年に作付けが出来なかったと考えられる。
新羅や百済の記事を500年頃までながめても、文化が挑戦経由日本に流れた形跡はない。
まして騎馬民族が、日本まで攻めこんで来たことも書かれて居らない。
191年が世界的例外なら新羅や百済にそれらしい記述が無ければならない。
191年には、朝鮮には多数人が死んだ記録がなかったのである。
スペイン風邪は朝鮮には流行せず、中国と交流がなかったと考えて良いだろう。三国史記も意外なことまで教えてくれたことになる。
一言----ここの文章を読まれて、皆さんはどのように考えられましたか。
私は、すごい内容だと思いました。
191年にスペイン風邪という病気がなかったことは、確かですが、人から人へ伝染する病気が発生したことは確かなのでしょう。188年に漢の霊帝が死んだのは、不思議ではありません。しかし、34歳で亡くなっています。ところが、この子が病気で次々と死にました。そりゃ、皆同じ屋敷で住んでいたから、ありうる話でしょう。
190年までに、年号が4回も変っています。皇帝ばかりではなく、国全体で、良くないことが次々おこり、年号を変えることによって、世の中が変わることを願ったのでしょう。
この病気が、スペイン風邪かどうかは別にして、中国と近いしかも、従属関係にあった新羅や百済にそれらしい記述が無ければならないのに、無かったと云うことは、中国との交流は、それほど、激しくなかったことになります。その国へ、日本から千人といえ、逃げて行った人がいたと云うことです。
同じように、伝染する病気は、ウイルスでなくて、普通の細菌の様な、コレラや赤痢もあります。どうして、スペイン風邪のように爆発的に伝染しないか、医学を勉強したら直ぐに、わかります。ウイルスは、生き物についていませんと、生きていくことができないからです。
現在、新型インフルエンザで騒いでいる人は、医学の基本を間違っています。ウイルスが変異といって、自分の環境にあった形に変化することは確かですが、むやみやたらに変異は起こりません。今度の新型インフルエンザは、豚のインフルエンザが変異して人間にうつったと云われています。その数年前は、鳥のウイルスが、変異をして人間に伝染したと騒がれました。日本政府は、生きている鶏を袋に詰めて、埋めたり焼き殺しただけでした。本当に、変異をしたのであれば、今頃、日本人は、半分ぐらい死んでいた筈です。
先日、新聞を読んでいましたら、ウイルスは、最近になって発生したものであることが分かったそうです。どうして、こんなにいい加減なことを新聞に書くのでしょう。事実、そうかもしれませんが、本当であることを立証しようしようとしますと、厖大な研究が必要だと思います。
ワクチンが全世界に足らないから、世界の人に分けてあげてくださいと云う報道もありました。東京とか、大阪は半分ぐらいの人は死ぬかもしれませんが、だれもいない、アフリカの山奥で、こんな病気が発生するでしょうか。
話が変なほうへ行きましたが、ここに書かれてあることは、中国と日本と朝鮮の歴史の記事に、数行かかれてあることですが、三つを合わせますと、ここにかれてあることは事実と言えるでしょう。
ということは、崇神天皇5年は、190年頃は正しいとなります。
たったこれだけのことで、日本の歴史家は、ご自分の歴史を相当。訂正しなければならないと思います。
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2009.08.26
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第8話 吉備にあった漢の古墳
スペイン風邪年代考証(1)
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日本の学者は自国の本は全く信用しない。そのよい例が古事記と日本書紀である。本には思い違いが少し位あったからととて、全部をなぜ偽作とするのだろうか。
中国の文献の場合は日中関係になると、お互いに自国に都合よい様に特に作文されているとをなぜ念頭に入れて考えないのか。
左表(は下に掲載)は平田俊春著最新歴史年表の180年代である。190年は卑弥呼を共立したといわれる年である。
188年には漢の霊帝が僅か34歳でしんでいる。この子は病気で次々としんだ。
190年までに実に年号が4回も変っている。おかしいと感じるべきではないか。
卑弥呼共立と何かあるなと考えるべきだろう。
スペイン風邪のための子供が次々と死んだと仮定して不都合がしょうじた時に仮定が間違っていたと改めればよいのである。
この年表には日本書紀の年号が入れてある。190年は成務天皇の60年に当たっている。日本書紀のデタラメサ加減が分るだろう。

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2009.08.24
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第8話 吉備にあった漢の古墳
倭国大乱(9)
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九州から阿蘇の石で石棺を作って運ばざるを得ない人が漢国人と分かればしめたものである。
吉備で漢の銅鏡が一つの古墳から多数出土すれば大量死だから、スペイン風邪で新だのであり、190年の古墳だ。
九州の糸島の周辺には銅鏡が一つの古墳から多数出土することがある。ここは吉備との中継地だったことになる。
航海中にスペイン風邪で死んだり、110年頃でも船が難破した時には水葬して、銅鏡だけは人数分納めればよかった。
佐賀には銅鏡が1枚づつ埋葬した古墳が沢山見つかった。これは漢軍の食糧生産を佐賀平野で開始したと考えられる。
九州基地は本渡か宇土なら好都合だった。熊本から松浦、糸島半島は漢軍に107年から190年まで占領されていたのである。
倭国大乱が日本国内の争いならば、中国の文献がこぞって取上げる筈がない。取上げざるを得なかった理由が解けたのである。同時に日本で死んだのは20万でもよかったのだ
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2009.08.22
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第8話 吉備にあった漢の古墳
倭国大乱(8)
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九州や吉備には漢国の将軍の最新式の前方後円墳がある筈である。
箸墓や崇神天皇の古墳は漢国の将軍の古墳より大きくないことにはおかしい。外形の前方後円は漢国の墓をまねすればよい。
しかし墓の内部構造は知る由もなかったのである。漢国の古墳より旧式の石棺が出土して当然である。
倉敷考古館間壁夫妻の最新版‘古代吉備史の未知を解く’には意外なことが書かれていた。吉備で一、二の古墳の石棺の石に、九州の阿蘇の石が使用されていたのである。
他の石棺の石は姫路の近くの石の宝殿等の石が使われていた。地元の石でなくて、九州から石棺を運ばざるを得なかった古墳のぬしこそ、漢の将軍だと考えたいのである。
漢国の古墳が吉備にあって当然である。しかも、阿蘇の石を使った古墳が吉井川の川口近くの山陽町にまであった。
漢国は吉井川の川口付近を占領して長期戦をやったのである。作戦までが戦術にかなっていた。
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2009.08.21
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第8話 吉備にあった漢の古墳
倭国大乱(7)
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倭国大乱が収拾したのが190年頃である。107年から190年の間に日本で死んだ将校は手厚く葬られたことであろう。 これには漢の習慣に従って、1人に1枚の割で銅鏡と一緒に埋葬された。
師升も190年までは長生きする筈がない。従って大和以外の最大の古墳は師升でよいのではないか。
前方後円墓は崇神天皇の時突然大和に発生した。しかし日本人が新しい形式の古墳を突然考え出す筈はないのである。
漢の将軍かが107年から190年の間に亡くなれば前方後円墓をつくった。これこそ最新のデザインだった筈である。
崇神天皇の御世になってやっと平和が訪れたのである。これまでは戦争最中で古墳を作れるどころではなかった。
古墳が大和で始めて作れる状態になったのは、卑弥呼が殺され、魏の軍使等が20人だけ逃げ帰った248年頃である。
従って、卑弥呼の墓が和製第一号の前方後円墓である。
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2009.08.20
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第8話 吉備にあった漢の古墳
倭国大乱(6)
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この様な状況におかれては、どうしようもないであろう。はしごを外された漢軍である。長期戦にならざるを得ない。
しかも大軍を出兵させた以上、正史で無視して書かないわけにも行かない位大事件だったのである。
中国からの補給部隊に頼る外なかったのである。しかもこの補給部隊が188年にスペイン風邪を日本に伝染させた。
これこそ神風邪で中国軍は全滅にひんしたのである。
漢の侵攻は自然消滅した。中国の文献が日本国内の二国間の争いならば。正史に取り上げる筈がない。
中国の正史が全て倭国大乱を取上げてしかも何時片付いたかの時期を明記できなかった事情は自然消滅のため確か様がなかったのだ。
これを魏志倭人伝では、卑弥呼を共立して内乱が収った様に、ウソを書いたのである。
スペイン風邪については後稿を参照していただきたい。このスペイン風邪は大和で流行し、開化天皇は相ついで亡くなられた。
一言----倭国大乱も今日で6回目になりました。なんだ、倭国大乱かと思われる方が多いと思います。ご自分で考えて居られる倭国大乱と話が全く異なるために、アクセス数が日ごとに減っていきます。
どこの世界に、自分の国の正史に、御隣のしかも海を隔てた日本の人が、大乱を起こしている歴史を書くでしょうか。
生意気にも、ロクロク文化らしきない日本が、中国に楯ついたから中国は大乱と呼び、正史に書かないわけにはいかなかったのです。
日本の歴史家は、日本中の豪族が、入れ乱れて戦争をしたように書いていますが、魏氏倭人伝を読みますと、碌な武器を持っていません。
最後の二行に書いてある「スペイン風邪」も、人気がありません。そんな馬鹿なと思われる方があるでしょうが、崇神天皇5年のところを読んでください。僅か2行ですが、日本国民が死に絶えるほど死んだと書いてあります。これは事実でしょう。
スペイン風邪であったかどうかわかりませんが、伝染病しか考えられません。
コレラ・赤痢・ペストの歴史も、調べてください。九州から始まりますと、現在のように、一気に北海道まで伝染することはありませんから、順に伝染していきます。精々、福井のあたりで病気は無くなってしまいます。
伝染病の歴史を勉強しますと、医学のことは知らなくても、現在のように、バカげた新型インフルエンザのような騒ぎはあり得ません。なにか、意図があっての騒ぎだと思います。
このような騒ぎは、崇神天皇5年(190年~192年ぐらい)以後、1800年も日本であっても、世界であっても発生していません。人類が半分以上死ぬ話です。
こんなことを考えながら、倭国大乱を読んでいただきますと、新しい歴史を発見できると思います。
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2009.08.19
不思議に思ったこと①
所在地は、大殿とあったので、迷わずに大殿には、直ぐに着きましたが、結構範囲が広く神社が見当たりません。それと祭日のため、殆どの建物は閉まっていて、尋ねる方もおられません。集落から少し離れていましたが、全体が木で覆われている集落が見える所の大きな施設で尋ねようと思いましたが、閉っていました。その近くの建物の戸を無理に開けて大声で呼びましたら、60代ぐらいの方が、出てこられて、神社は知らないが、前に見えている森が大殿ですよと教えて頂きました。
2回目の挑戦で、一方通行なのは知っていますから、間違わないで小道を侵入しましたが、二手に分かれました。今度は、前回と違う右手の小道を取りますと、車は集落をはなれる一方です。とうとう、集落の反対の方に出ました。
そこに一軒の御家があり、車の掃除をしておられる30歳ぐらいの男性にお尋ねしましたら、知らないとのことでした。
今、お聞きした方は、知らないが、お寺の横にあったように思いますと云われたのですが、お寺はありますかとお尋ねしますと、御寺はこれですと言われましたが、建物は見えないで、うっそうと茂る木だけが見えました。
このお寺はどうしていきますかとお尋ねしますと、国道に出たところです。今そこに云って、集落を一周して来た所なのですがと云いますと、国道にでて、曲がって初めての道 酒屋さんのある角を入ります。道はありましたが車は無理です。あっという間に、行きすぎました。 Uターン。人が通ることの出来る道はあるものの、車は入れ
ません。
酒屋さんがお休みであるのをいい事に、お店の前に車を突っ込みました。悪いなと思いながら、駐車・下車。暫く歩きますと、確かにお寺がありました。福樹寺?だったと思います。境内には、大寺廃寺の石製鴟尾があるだけで、神社は見当たりません。二十段ほど階段を登ったところに、建物がありました。その前に、むき出しの箱型石棺がありましたが、無関係でした。
諦めて階段を下りましたが、やはり、悔しいのでもう少し村中を歩いてみることにしましたら、急に目の前に鳥居が出現。
写真はhttp://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page513.html 掲載しておきました。
不思議に思ったこと②
神社は山の上にありましたが、石段が見えないほど、木の葉が積もっていました。せっかく、苦労して行きましたが、廃社だと思いながら、上りましたら、新しい本殿が姿を見せてくれました。その嬉しかったことはいまだに忘れられません。
でも、神さんは不在かなと思いました。
なにが不思議化と云いますと、参道に、歩けないほど木の葉が積もっている神社は初めてでした。
不思議に思ったこと③
廃社と思ったのは勝手ですが、ピカピカの本殿が完成していました。
帰りは、足を滑らせないように注意しながら、居りました。
だけど、なんだか感動が湧いてくるようで、うれしくなりました。
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2009.08.18
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第8話 吉備にあった漢の古墳
倭国大乱(5)
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倭国大乱は107年から190年の間の出来事である。これは7代孝霊天皇から10代崇神天皇の御世である。
この年代の天皇の軍隊の本部は美作の久米国にあった。
こじきでは景行天皇の時に始めて、大和に屯倉を作ったとなっている。これまでは政府機関は吉井川川口と久米にあった筈である。
漢軍はこの吉備に侵攻して来たのである。久米国から吉井川経由大和のルートを中断して久米国を攻撃した。
しかし漢国軍は食糧を調達出来ず、作戦が狂ったのである。
中国から食糧をはるばる運ぶ外なかった。
これが長期戦になった一つの理由である。
第二に久米国は吉井川の上流にあった。揚子江や黄河の様に大河に使用する船は使用できなかった。
この川すじを歩いて進軍することは至難である。さりとて、今更引揚げるわけには行かない。偏西風に逆らっては、手でこぐ船は進めないのである。
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2009.08.17
日本に2、30万の水軍を出すことは難作業ではなかったのである。
チベット、雲南からは神武天皇の御世に百万万かの秦や漢に圧迫された少数民族が神武天皇の御世に脱出して来た。
これらの民族は漢国の目の敵である。漢国が攻撃する理由もあったのである。反対に日本には漢の亡命者は居らなかったのである。
話は変るが漢の銅鏡がおびただしい数、出土した。日本人はホントに銅鏡にあこがれる様なったのだろうか。
漢に渡ることは逆コースで危険を伴なうのである。こんなにまでして日本人は銅鏡を渇望したろうか。
日本から出かける理由は何一つ明らかにされていないのである。
漢の銅鏡は漢の占領軍が日本に運んだのである。戦死した人間に1枚づつ埋葬したとかんがえれば、最も自然ではないか。
漢の祖国を遠く離れた異国で死んだ人を手厚く葬らないと士気に影響するだろう。銅鏡が多いことが漢軍が居った証拠である。
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2009.08.15
中国の文献では自国がやぶれた時には、日本の国名を殊更にあいまいに書いたのであった。
何所に敗れたか分からない様にカムフラージしたのである。
勝った戦争なら地名を正確に書く方がPRになる。従って倭面土国はソツクリの地名は日本にない筈である。
しかし戦争経験者なら、中国と日本の地図をひろげて日本の基地を考えて見て欲しい。天草の本渡、熊本の宇土半島、伊都国の候補地糸島が適地である。
面土国とはこの何れかだったことだろう。
魏志倭人伝では難升米は正確な国名を知って居り、魏の都に半年も居って日本攻略法を研究したのに国名は誤魔化してあった。
人の名前までデタラメを書いたのである。中国人の倭国に関する記事には特に注意が必要である。
面土国は漢軍が日本攻略目的なら、九州にないと戦略的に不利である。何れにしても九州に漢国の前進基地があったのだ。
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2009.08.14
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第8話 吉備にあった漢の古墳
倭国大乱(2)
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生口とは大工とか石工の様な職名ではない。漢の都に日本人捕虜を連行したのである。
クツチャの時の捕虜が15000人なのに、日本人の捕虜が僅か1%にすぎないのに、中国の正史に載せられたのであった。
如何に重要な事件だったかに頭をめぐらすべきだった。
日本人を日本人が捕虜にして、漢の都まで連行しても後漢書ははたして捕虜とかくだろうか。
師升が漢人であって日本人を連行すれば、捕虜であり生口で奴れいに使うことは先方の勝手である。
後漢書で師升が生口を160人連行したと書いたので師升は漢のスパイ兼将軍と考える外ない。
師升は漢が日本を占領するために放ったスパイである。
日本の敵状を視察すると共に、日本人を捕虜として連行した。日本語の通訳として使用する目的だったのである。
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2009.08.13
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第8話 吉備にあった漢の古墳
倭国大乱(1)
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神武天皇は推古天皇年代表では、80年代まで長生きされた。この時までニギハヤヒは生きていたのか、否か不明である。 後漢書で漢倭面土師升が生口160人を献じたと書かれている。これはニギハヤヒだろうと述べて来たが、年表が明らかになった以上間違いで取り消したい。
前漢も後漢も西域はもちろん北朝鮮、南の現在ベトナムに植民地を拡大していた時代である。
例えばNHKシルクロードの音楽の旅の放映に出てくる天山山脈の麓のクツチャは、漢の都から3000キロ以上離れている。
ここに84年には漢の軍隊が出動して、5000人の首をきった。
生口は15000人だったのである。生口とは中国では捕虜のことだった。
後漢書は中国の正史である。中国本位で読むべきだ。
九州国が大和国を攻めて捕虜を160人捕えて漢の都に連行しても、中国の正史が生口と書けるだろうか。
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2009.08.12
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本語のふるさと(14)
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イザナギの命がヒルゼンから近江の多賀に移られた時、三方五湖から耳川をさかのぼって、八王子川を下った筈である。
八王子川は地名をつけたのが何日頃だろうか。少なく共政府の命令でハチオウジと読ませることにしただろうか。
数え方だって日本人はチベット式も大和式も昔からミックスして使われていたと解すべきだろう。
神武天皇もスサノオの命も名調子の歌が読め、常用漢字より沢山の漢字も知っていた。
千文字の時百済から漢字が渡来したと教えることは間違いである。
千文字と書いて、なんと読めば東大に合格できるだろうか。
教え方がチベットから伝わったと話して早速しかられた。チベットに何所からか伝わったのである。
チベットを通ったと言えばよかったのだろうか。
少なく共チベット式数え方は隠岐から全国に拡がったと考えることが最も自然に思えてならないのである。
H210811
一言---前回に続き、田村氏は、ご立腹です。きっと、東大出の人に、ケチを付けられたのでしょう。しかし、京大出の田村氏ですから、東大の悪口を書くことができます。
私などは、東大も京大も入学できませんから、はじめから腹も立ちません。
こんな、とてつもない仮説を述べれば、東大出でなくても、ケチをつけるでしょう。
しかし、この腹を立てるエネルギーがあればこそ、新発見につながるのではないかと思います。
この仮説が正しい可能性は、十分あります。
千文字の時百済から漢字が渡来したことは確かでしょう。しかし、紀元前から、仏教は伝わっていましたから、中国に仏教が伝わったより早いことになります。
となりますと、漢字は百済からのみ、伝えられたことになりません。では、千文字以前に入って来た漢字は、どこへ行ってしまったのでしょう。
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2009.08.11
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本語のふるさと(13)
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数え方には、成程イチ、ニー、サンとヒ、フー、ミーの2種類がある。仮に後者を大和言葉を略して大和式としょう。
先づ日本書紀は明らかに漢文調である。この漢文を数字に限って、現在ならチベット式に読むべきものを、大和式に読まなければならないのはおかしい。
一書曰と書いて日本書紀を読む時に限り、アルフミニイワク、と読まなければならないのか。十有二と書いてトウアマリフタと読まないと東大の入試に合格しない。
日本の地名で最も古いのは隠岐の島後である。天孫族が基地にした所の福浦に一宮がある。これはチベット式に読む必要がある。
高天原のあったヒルゼンの2000年昔と思われる、一白頭と称する山がある。
大和に二上山がある。昔はどんな呼び方をしていたのだろうか。
日本書紀は漢文調だが、二弟と書いてフタハシラノイロト読まなければいけないのか。日本書紀には数え方は至る所で大和調が採用されたのは、学者の勝手である。
一言----日本語のふるさとシリーズでは、もっとも、素晴らしいページだと思います。
二弟と書いてフタハシラノイロト読む根拠は何でしょう。この調子のよみかたは、記紀に沢山出てきます。読むことが出来ない方が居られると思います。
私も読むことが出来ませんでしたが、読めないと自信喪失していましたが、最近は、無視しています。歴史に興味を持った人がなくなっていく原因の一つになっています。
素晴らしい点は、二弟と書いてフタハシラノイロト読むことではありません。
〔日本の地名で最も古いのは隠岐の島後である〕です。これは少し、無理なような気もしますが、隠岐とヒルゼンの地名・郷名・村名を全部、ピックアップしますと、いろいろのことが見つかるかもしれません。誰も試みていないと思います。
ヒ、フー、ミーの読み方は、大和式と云うより、ユダヤの人たちが使っていた言葉にあるそうです。
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2009.08.10
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本語のふるさと(12)
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タイトルは日本語のふるさとである。しかし日本人の原郷と全く無縁と云えるだろうか。
僅か一隻の皮船が隠岐に漂着だけでも、数え方はチベット式に統一出来る可能性があったのである。
魏志倭人伝では日本人の風俗習慣が書かれている。中国の人が中国に地続きの海南島の人に似ていると書いている。
第一印象で海南島の人を連想した位確実なことがあるだろうか。
海南島はチベットや雲南から、日本海えの航路上にあったのである。ここから台湾海峡を通ってくるので、福建省には福のつく地名を足跡として残した。
日本人位かつては単一民族と思われながら、多数の民族の混合だった国民があるだろうか。
テレビでチベットや雲南、シルクロードの中にまったく日本人と同じ人を見出すことがある。しかしお隣にありながら、韓国や中国人の顔を見た時、理屈ぬきにして、日本人でないことの判定がつく。母親が自分の子供を見分ける様な第六感が働くのである。
一言----日本語のふるさとというタイトルで12回目です。日本語の起源のことを書いておられますが、少し違うのです。 日本語のふるさとは隠岐だったのです。そこで話された言葉、あっという間に、日本をかけめくりました。言葉だけが駆け巡りません。人が、凄い勢いで、先ず、日本海沿いに青森まで・・・・。
言葉と云うものは、必要になりますと、二人の人間がいますと、通じ合う言葉が生まれます。
しかし、ものをやり取りする時は、1,2,3 などは、すぐにお互いに通じるように、話し合いました。それが、イチ、ニー、サンとヒ、フー、ミーの2種類です、前者は、チベットからもたらされました。後者は、ユダヤ人系のひとからもたらされました。しばらくは、まじりあわなかったと思います。
日本語の起源は、多くの研究があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90#.E3.82.A2.E3.83.AB.E3.82.BF.E3.82.A4.E8.B5.B7.E6.BA.90.E8.AA.AC
読まれますと、分かります。訳が分かりません。今後いくら研究しても同じだと思います。
日本語の起源など無かったのです。
日本には、日本人が居て日本語を喋っていた。これは間違いないのですが、日本の歴史と離れて日本語の起源は、ここに書いてあるようなことになるでしょう。
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2009.08.08
ヒルゼンは岡山県のチベット式数え方が始めて来たのも何かの因縁だろう。
しかし、これだけでは日本中に普及することにはならない。
天照大神が豊葦原の中ツ国を治めよと命令された。この命令に従って百万か二百万かの計画移民を神武天皇が全ての
日本海側のデルタ地帯に入植させた。
津軽海峡を越えて太平洋岸にも入植させて行った。
中国山地を越え吉井川を下って瀬戸内海沿岸にも入植させた。全て1世紀の出来事だ。
しかもこれらの人は秦や漢に迫害された、チベットや雲南の少数民族のしかも進取の気性に富んだ知識階級が皮船でやって来たのである。
漢字まじりの大和言葉の日本語が一瞬にして全国に拡がった。九州の一かくから、日本人も日本語も拡がった説位矛盾に充ちたものがあるだろうか。
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2009.08.07
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本語のふるさと(10)
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日本語は日本海の隠岐が孤島だから生れることが出来たのである。漢字交りの大和言葉でしかも数え方はチベット式の日本語が構成出来る日本で唯一の場所である。
ここで育ってヒルゼンにももたらされたのでヒルゼンが日本語の本土の基地であり、ここの発音こそが標準語である。
ヒルゼンの現地から古老の昔話が生放送されたことがある。大和言葉の全く方言的アクセントが交らないなつかしい昔話が流れて来た。なぜ山奥に標準後残っているかが、日本語のルーツ解明に役立ってくれる。
九州の各地の民謡を聞いて、ここに日本語のふるさとがあったり、古事記に出てくる倭言葉の歌が昔あったと感じられるだろうか。
言葉は生き物である。しかし五ツ木の子守歌やおてもやん、島原子守歌等はあまりにも標準語? からかけはなれている様に思われてならないのである。
日本語のふるさとにふさわしいかどうかは直接耳で聞いて、各自で考えてもらいたい。
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2009.08.06
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本語のふるさと(9)
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古代にどんな船が使用されていたかを知るには先づ古事記や日本書紀を見ることである。古代の道については、すでに述べたが流の緩い川で、しかも川幅がせまくて、木を切り倒すだけで渡れる所だった。
馬に乗って歩ける所は日本中皆無だから、騎馬民族なんかあり得ない。又馬が川を渡れる所があっただろうか。
話が横道にそれたが古事記の船はスサノオの命が使った磐船としょうするコンクリート船と鳥船すなはち揚子江の帆船の外に左に示す(省略――少名毘古那神が乗って来た船)、天之羅摩船があった。
天之羅摩船とはラマの国の船である。ラマの国とはタベットのことだ。
チベットの皮船は古事記にも書かれていたのである。
この時の衣服は「ガ」の皮を裏向けにしたと書かれ、カイコのまゆを開いてつなぎ合わせていた。みの虫のハンドバッグと同じである。
チベット式船に雲南式衣服を着てしかも、帰って来たのである。隠岐と東南アジアの外交があったことを証明してくれた。
一言---古代にどんな船が使用されていたかは、古事記には、次のように書いてあります。
故、大国主神、坐出雲之御大前時、自波穂、乗天之羅摩船而、内剥鵝皮剥、為衣服有帰来神
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2009.08.04
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本語のふるさと(8)
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ヤクの牛皮で作った皮船は、ゴムボートと同じである。激流で岩にぶつかっても大丈夫でしかも、かついで山を越えられる位軽い。
上の写真に示す、この船はチベットで今も一般的である。3、4000年昔も同じだったはずである。世界最高の文明を当時誇っていたチベット人が、ノアの洪水で皮船で脱出したと仮定したら如何だろうか。
対馬海流と偏西風を利用し、しかも手でこげば、日本海に来ることが一番容易だった。
無人島の隠岐にコロニーを築けばよい。この時に日本に初めて米が伝来した。
イザナギの命はや天照大神でも、いきなり本土に来たのでは先住民に滅ぼされるだけだ。
やはり人が居らない所に基地を築くには、チベット人の基地、西郷の反対側福浦だ。
ここで漢字を知っていたイザナギの命、天照大神とチベット人が交流をはじめれば、日本語が誕生する。
隠岐を基地にして大量の人がヒルゼンにやって来たことは既に何回か述べた通りである。隠岐にチベット人が最初に来ればよかった。
一言-----田村誠一氏の冊子は、いっぱいあります。今、紹介しているのは、8冊目のものですが、日本語がどのようにして生まれたかを書いておられます。
学者の方から見ますと、お話にならないと思われるでしょう。
しかし、田村氏の発行された本の中では、絶好調の文章だと思われます。
どうして、このような文になったかと言いますと、全部頭で考えられたわけではありません。ある程度、調べておられる内に、隠岐では、住む面積が少ない割には、神社が多いという事実を発見されましたhttp://homepage1.nifty.com/o-mino/page211.html ゆっくりご覧ください。
他の地域ではあまり祀られていない 神が祭神になっています。そうかと思いますと、古事記に登場する神もちゃんと祀られています。
誰一人として、ヒルゼン高原のことを口にされたことがないのに、ヒルゼン高原にも、古事記に登場する神が祀られていることも発見されました。
この辺りで、隠岐は、最初に日本人がやって来たところだ-------日本語が生まれたところだ---との発想が生まれたのだと思います。このことを立証するには、とてつもない調査が必要になったのですが、そんなことはご存じない田村氏は、るんるん気分で書いておられます。 そうかと思えば、当たり散らしておられる文章もありました。
この辺りは、「隠岐を基地にして大量の人がヒルゼンにやって来たことは既に何回か述べた通りである。隠岐にチベット人が最初に来ればよかった」
と自信満々で書いておられます。
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2009.08.03
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本語のふるさと(7)
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日本語のルーツを考える時に一番大切なことは、数え方がイチ、ニー、サンになったことである。
言語学で学者は難しく云わないことには、権威にかかわるとお考えだろう。しかし日本語に限定して数え方がチベットと、何故同じかは第一歩に片付けなければならない問題だと考えるが如何だろうか。
仮に政府命令で物品の計数を、イチ、ニー、サンと決めても、年令はどうすればよいのだろうか。
一宮、二上山、三条、四書五経、五島列島、八王子等は、何と読んでいたことだろう。
九州のかくにチベット人が来ても、日本中チベット式数え方に統一できないのである。
しかし日本には或る特定の地点に、チベット人が乗った船が一隻だけ漂着しても、日本中の数え方がチベット式になる所があった。
前稿で天孫族の日本の第一の基地は隠岐の島後の福浦の反対側の西郷が日本語のふるさとである。ここに一隻の船が漂着すればよかった。
一言---こここの福浦-から、全国の福浦にどんどん、人は移動して行きました。
参考に
ヒルゼン古事記 福浦と福江(田村誠一氏の文)
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/07/page16_d4f7.html
地名 福良 (ふくら)―-辻保治氏のお話です。
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/07/post_1006.html
No178 渡来人がやってきた証拠 福浦
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-10-05
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2009.08.02
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本語のふるさと(6)
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漢字は百済から千文字と一緒に伝わって来たと教えられ先入主になっていた。しかし、古事記を口述したヒエダノアレイは漢文も漢字も知って居らないとおかしいことになる。
天照大神が漢字を知って居らないことには千文字の時、いきなり地名に置きかえらる筈はないことに気付いた。
戦前の教育はこんなことまでなぜ、ウソを教えたのだろう。改めて日本語を考えて見たのである。
なぜ文化は全て古代には朝鮮を経由して九州に伝わったと学者は云わなければならないのだろう。発想は極めて幼稚である。
日本にはアイヌ人が全土に居ったと仮定しよう。この時に九州の一部にアイヌ後以外を話す民族がやって来てを、この民族が東北まで、人口が増加して拡がらないことには、この民族の言葉で、日本中統一されることは起こらない。チベット人が先づ九州に基地を作っただけではだめである。
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2009.08.01
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本語のふるさと(5)
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NHKのテレビがチベットの放映を行った。この時小学校位のこどもが、1,2,3の数え方がイチ、ニ-、サンと日本と全く同じだったことに驚かされた。
雲南の正月の松飾り等が日本と全く同じだった。京都祇園でばらなく、ちまきは忘れられかけた夏祭の一風物詩である。
このちまきが全く古来そのままの姿で雲南では今も台の上に乗せて売られている。
祇園祭は1200年の歴史である。恐らく当初からちまきが配られていたとしたら、この時間と空間の距りをどう考えたらよいだろうか。
日本はどこから来たかは、学者にまかせないで国民が考え共感を得られさえすれば、それでよいのではないか。
なぜ騎馬民族説を、これでもかと云わんばかりの、こじつけには不賛成だ。
毎週のテレビからは何が飛び出すかわからないが、日本中全員が古代史に参加できることは有難いことである。学者も象げの塔にばかり閉じこんで居られないことだろう。
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2009.07.31
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本語のふるさと(4)
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遣隋使や遣唐使の成功の確率が非常に低かったことは、この時代には、中国も海を行く航海術を忘れてしまっていた。
三国志の時代の様に揚子江を挟んで戦争をした時代の方が航海術にたけていた。この時点で正倉院の五弦の楽器をふりかえって見てほしい。最早危険を犯しても、楽器の演奏者もましてクッチャの踊り子も日本に来る筈はなかったのである。
少くともヒルゼンの大宮踊りは、天子の子が踊るのに文句通り、天照大神がヒルゼンに居る時に歌われたものである。
いかも月氏族である月読命が直接クッチャから踊りを伝えたとすれば納得のいく問題である。
残る問題はクッチャからはたして、シルクロードを通って西安まで来て、中国を素通りして日本になぜ来たかである。
西安にまで日本が如何に素晴らしい国だと伝わっていただろうか。
全てノーと返事する外ない。
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2009.07.30
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本語のふるさと(3)
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日本の中国との交通に関しては、魏志倭人伝を注意して読むことである。魏の都とは、3500キロ位離れている。
久米国から攻撃を受けると早速、指図を仰ぎに、朝鮮まで行きそれから使者が魏の都に行った。すぐ軍使が日本まで飛んで来たのである。
書かれているだけでも公式訪問は2年に一度位、お互いにやっているではないか。
明治時代までの京と江戸位の旅行感覚だったのである。水さかづきして行き来したから日本国内の方が危険度が高かったかも知れない。
魏の軍使が248年頃命からがら逃げ帰ってから425年まで国交が断絶した。この間に日本人は航海術を忘れてしまった。
船が壊れるとますます丈夫にして重くしたのが間違いだった。これでは手でこいでも進む筈はなかったのである。
皮船に一人乗って居れば、これ位安全なことはない。しかも手でこげば船は進し風も利用出来たのである。
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2009.07.29
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本語のふるさと(2)
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五弦の楽器にはラクダの背に楽人が乗って演奏している姿が象がんされている。
これだけ素晴らしい楽器を演奏者をつれないで日本にもって来ただろうか。立派だから、貴重品だから益々演奏方法を知らないで日本に持ってくることはあり得ないことである。
まして 朝鮮経由で、朝鮮にさとられない様に楽器だけを日本に持ってくる位おかしな話があるだろうか。
五弦の楽器は演奏者はもちろんのこと、踊りのチームも日本に、しかも朝鮮経由でなしに直接来たとしか考えられない。
シルクロードから西安なら、これだけ素晴らしい楽器は中国の王墳から多数出土しないことにはおかしいと考えられるが如何だろうか。
クッチャの踊りに至っては、踊りが中国に伝わって先づ中国で普及してから、日本に伝来しただろうか。踊る人が直接西安を通らずに、揚子江を皮船で下れば、日本海には対馬海流と偏西風で安全に来られたのである。
これこそ古代史を解く鍵である。
一言----古墳が発見されますと、中から、何が出土したかで大騒ぎになりますが、其の古墳の周りの状況から、ある者が、出土しないとおかしいことが判りますと、出土しなかったことが重要になります。
田村氏の発想「シルクロードから西安なら、これだけ素晴らしい楽器は中国の王墳から多数出土しないことにはおかしい」の疑問が生まれます。
では、他にルートはあるだろうか・・・・。
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2009.07.28
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本語のふるさと(1)
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NHKのシルクロードの放映は、日本人のふるさとは意外な所にありそうだと教えてくれた。
ヒルゼンには天山山脈の南のクッチャの踊りと同じ踊りが大宮踊りとして残っていた。
歌の文句には天子(テンコ)の子が踊るとなっている。
大和や京都に都があった時に、こんな、うちとけた文句が歌に入れられるだろうか。
これ一ツ考えてもヒルゼンに天照大神が居られたと云えるのではないか。
このヒルゼンの踊りは大宮踊りと呼ばれ、無形文化財である。大宮と勝手に後世の人が名前をつけられただろうか。
大宮とは大和や京都の様に日本の都でないことには、自由に使える言葉ではない。
天山山脈のクッチャからは、宮中の雅楽が伝わって来た。又正倉院の五弦の楽器が伝わって来た。
五弦の楽器は何度写真を眺めても、古代にこれだけの宝石をちりばめたものが、どうして、出来たものかと目を見はるものである。
一言、NHKのシルクロードの放映は是非もう一度、見て欲しいものです。お金のある人は、CDを買いますと、何度でも見ることができます。お金のない人は、図書館で見ることができます。図書館に行く時間のない人は、NHKで、もう一度放映するように、ハガキを出します。こちらは当てになりませんが、NHKのシルクロードは、文化財だと思います。
ヒルゼンの大宮踊りは、今年は訪れて、一緒に踊ってください。文化は、みるものではなく、一緒に楽しむものです。
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2009.07.26
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本のあけぼの(10)
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中国と日本が1枚の地図で、シルクロードやチベット、雲南の放映を眺めて欲しい。
三国志の戦略家の行動半径を考えて欲しい。孔明は揚子江を2500キロ遡った蜀で兵力を養った。
魏国が使用する手でこぐ船では揚子江は遡れないのである。
秦の始皇帝や中山王国が如何に高度の文化を保有していたことか。しかし何れも突然滅ぼされたのである。
この時期がイザナギの命や天照大神と同じ頃だったのである。
しかも日本と支那大陸は当時のセンスでは揚子江の両岸位の距離である。日本が中国と無縁と考えられる根拠すら見当たらない。
チベットの皮船なら風速10米の偏西風なら、揚子江から日本まで1日で来られる。
対馬海流を利用すれば1ノットでも雲南から日本海岸まで50日はかからない。
こんなチベットや雲南、シルクロードから簡単安全に来られる所に、中国の圧迫を受けないですむ天国があった。
一言----毎日、田村誠一氏の『 第8話 吉備にあった漢の古墳』の冊子を1ページずつ、書き写して紹介しています。田村氏は、驚くほど、あちこちに行かれました。しかし、上に書いてあることは、日本国内をいくら歩いても、かける文章ではありません。 では、ここに書かれた所にはいかれたのかと言いますと、きっと、行っておられないと思います。
テレビはよく観られたようです。 [シルクロードやチベット、雲南の放映]
本はよく読まれたようです。 [三国志・秦の始皇帝や中山王国の書物・偏西風関連の本・揚子江は写真集か・対馬海流・最大の能への刺激は地図のようです]
これほどに、多岐にわたる知識が増えますと、勝手に想像力が湧いてくるのですね。
想像と言っても、この文章に書かれたことは、正しいように思われます。
後は、実際に行って、確かめるだけです。
そのためには、時間とお金と体力です。
田村誠一氏は 明治のお生まれだったと思います。
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2009.07.25
お粗末な国産の銅鏡が作られた背景にはこんな事情があったのである。
その内に銅が足りなくなって小形の銅鏡にせざるを得なかった。180年頃には本国の漢が衰亡しつつあったので銅の補給まで絶えたのである。
188年に漢国でスペイン風邪が猛威をふるい日本には漢の補給船で伝染した。大和にまでも流行し人民の大半が死んだのである。 漢の占領軍はスペイン風邪で全滅にひんし190年孝霊天皇の御世に降伏した。卑弥呼を共立して倭国大乱が収まったと誤魔化した。
崇神天皇の御世に漢の再来週に備えて、瀬戸内海から紀州の海岸に高地性集落を築いたのである。同時に吉備上道国に7万戸、下道国に5万戸の屯田兵を配備した。
これ以後は魏志倭人伝によって別稿で説明を加えておいた。
朝鮮総督と魏の将軍が240年に詳さに倭国の軍備を視察した報告が魏志倭人伝である。
日本は絶えず中国から占領目標にされる位恵まれた環境だったのである。
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2009.07.24
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本のあけぼの(8)
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漢は20万程度の水軍を日本攻撃に使用しただろう。しかし瀬戸内海沿岸はまだ稲作が始って居らなかった。
食糧を占領地で略奪する中国の戦術が日本では通用しなかった。さりとて支那海を手こぎの船で本国に引揚げられなかったのである。
中国から僅かづつ食糧の補給を受ける外なかったのが長期戦が何十年も続いた理由である。同時に佐賀平野で自給するための稲作まで始めたのである。
おひただしい漢の銅鏡は日本人が欲しくて入手したものではない。漢の兵隊が死ねば、1人1枚づつ墓に入れてやった。
師升等の漢の将軍は吉備で死んだので、漢の最新式の前方後円墓が吉備に残った。
九州の北部は漢軍の中継基地であり、食糧の補給基地だった。一つの古墳に漢の銅鏡が20枚、30枚と入りられたり、佐賀平野の古墳が1枚ずつ埋葬されたのが理由である。
日本人の古墳で銅鏡が出土すれば手柄を立てた証拠として埋めた筈である。銅鏡は戦死者が多くなって足りなくなった。
一言----こんなにシンプルでいいのかという気がしますが、これは、最高だと思います。歴史学は、あのりにも学問的になり過ぎています。
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2009.07.23
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本のあけぼの(7)
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稲作の計画移民は日本海側の全河川と潟には例外なく入植した。津軽平野は東北では最も多く入植した所である。
稲作技術は1世紀には全国に一先づ行き亘った上で、不毛で中止した地域が生じた。
この時に近畿を中心にニギハヤヒが勢力をのばして行ったので神武東征が行われた。 大和に進駐したがニギハヤヒは勝チ目がないと、分かるとサッサと神武に寝返って、あべこべにナガスネヒコをニギハヤヒの部下に殺させた。
この事件が50年頃片付いたのである。銅たく圏が同時に消滅した。
107年には将軍師升が九州にスパイとして潜入した。
天皇だけは銅たく圏の中心で、にらみをきかせ、軍隊は、日本海からも攻撃されにくい美作の久米国に置いた。
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2009.07.22
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本のあけぼの(6)
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ヒルゼンから撤退したのは紀元前1世紀である。これと同時に天照大神は月読命の隣りの大江山に隠遁した。
この二人の天ツ神は大江山の麓の伊勢神宮にまつられた。現在は大江町で元伊勢である。
イザナギの命が築いた銅たく圏はナガスミヒコが引継いでいたのである。
丹波国に中国からニギハヤヒがやって来て天照大神の子孫になりすました。
ナガスネヒコとイザナギの命は天照大の友人だったことを知っていた。この状態の所にニギハヤヒが自分は天ツ神だと偽って自己紹介をした。ナガスネヒコはニギハヤヒを天ツ神と信じて尽くしたのである。
この年代は紀元ゼロ年から50年のことだ。天照大神から5代目の神武天皇の御世である。天孫族は玄米主食で長生きだから親子4代が同時に生きていたじだいである。
神武天皇はチベット雲南等の少数民族を大量に計画移民として導入した。この時日本にやって来た稲作民は百万以上だったと思われる。
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2009.07.21
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本のあけぼの(5)
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残る一人が天照大神である。この人の家系が古事記である。恐らく中国の周の時代の呉から少人数でやって来た貴族である。
イザナギの命は天照大神に高天原を譲って近江の近江八幡に移った。ここを本拠地にして中山大国の縁故者を近畿一円に入植させた。
この人達だけが銅たくを日本でまねして作って生活をエンジョイしたのである。
天照大神はヒルゼンに留って稲作を試みたが、米はできなかった。この時ヒルゼンに居った人は万をはるかに超えていた筈である。
この時スサノオの命の子孫の大国村のボスだった大国主命は米子平野を支配していたのである。
この米子平野は稲作の適地だったので、天孫族は談判の末手に入れた。
大国主命はかってヒルゼンを追われた、スサノオの命の子孫であることを思い出して欲しい。早く云えば天孫族とは仲が悪かった。
米子平野を手に入れると天照大神は、ニニギの命にバトンを渡してヒルゼンから倉吉の高千穂に政府機関を移した。
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2009.07.20
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本のあけぼの(4)
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中山王国からの人達にイザナギの命が含まれていた。中山王国は北京の南で300年間狭い、一県位の所で独自の高度の文化を持った、狩猟と焼畑の少数民族白狄人の国だった。
中国の中から追出されても、イスラエルを追われたユダヤ人と同じで、白狄人には、行く所があったろうか。
この人達も少数民族で決死的に脱出して日本海沿岸はもちろん、津軽海峡を越えて、太平洋岸を房総半島まで南下した。
この人達は日本で狩猟と焼畑の適地を選んで住んだ。北方系民族だから日本でも、東北が多くなったのは当然である。
隠岐が狭くなるとヒルゼンに進出した。ここが高天原である。ここにやって来たのが、高麗のスサノオの命である。しかし乱棒だったために、天ツ神の座から追われた。
シルクロードのかなたから月氏族の月読命がやって来た。この神は丹波の夜久野の国をあてがわれた。福知山周辺の広大な原野で天山山脈の南と同じ地形であった。古代の人は日本の地形を驚くばかりよく知っていた。
一言---いかがですか。煙にまかれたように思われたでしょう。全部、始めて知られたことばかりだと思います。全部、自信に満ちた文章です。
例えば、「福知山周辺の広大な原野で天山山脈の南と同じ地形であった。古代の人は日本の地形を驚くばかりよく知っていた」の記事は本当でしょうか?
これを確認することは容易でありません。福知山は簡単です。田村氏の所為で、私は5回行く羽目になりました。まだ、完全ではありませんが、地図なしで走ることができます。
天山山脈の南は、行くことが出来るのでしょうか? 行かなくても、地図があれば解ります。10年前ですと、中国から地図を持ち出すことはできませんでした。中国へ行った人に勝手来るように頼みました。もし、カバンをチェックされて地図が見つかりますと、2,3日の取り調べを受けたと思います。現在は日本で買うことができますが、地形図は較べようがありません。田村氏は天山山脈も行かれたのだと思います。
〔隠岐が狭くなるとヒルゼンに進出した。ここが高天原である。ここにやって来たのが、高麗のスサノオの命である。しかし乱棒だったために、天ツ神の座から追われた〕二なりますと、もっと、大変です。
〔隠岐が狭くなるとヒルゼンに進出した〕を証明するためには、隠岐とヒルゼンに共通点を見つけるしかありません。隠岐とヒルゼンに行きませんとお話になりません。
〔ここにやって来たのが、高麗のスサノオの命である〕これは、古事記に書いてあるのですが、古事記を100回ほど読みますと、分かるかも知れません。
〔しかし乱棒だったために、天ツ神の座から追われた〕 これは、古事記を一回読んだだけで分かります。
〔中山王国は北京の南で300年間狭い、一県位の所で独自の高度の文化を持った、狩猟と焼畑の少数民族白狄人の国だった〕は、調べてもきっとわからないと思います。
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2009.07.19
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本のあけぼの(3)
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恐らく紀元前1000年頃に一隻の皮船が隠岐の島後に漂着しコロニーが形成される。
皮船はチベットから、川を下って対馬海流と偏西風で隠岐に運ばれたのである。
日本民族を形成したのは中国に圧迫された民族で、漢民族は居らなかった。
朝鮮は如何に地理的に近くても、後世帰化人として認められた人以外には日本民族には含まれて居らない。
日本人は全てポートピープルである。気概を持った進取の気性に富んだ少数民族だから中国の迫害を受けたのである。
ポートピープルでもベトナムの様に、第三国が介入して同一民族の半分が漢民族となったのとは本質的に異っている。
朝鮮と九州は地理的に近くても、三国史記では5世紀までは、全く交流した様子は、うかがわれない。
隠岐に次に渡来したのは中国の中山王国からの亡命者であ。島後のチベット人と反対側にコロニーを作り、その内にチベット人と交流が始った。
一言----この文章を読まれた歴史のプロの方、なんと馬鹿げた仮説だろうと思われたでしょう。証拠はゼロです。こんなつまらない文章を載せるから、インターネットで引っ掛かり、読む羽目になったと思っておられるでしょう。
歴史のプロでしたら、インターネット見たいなものに頼らないで勉強してくださいと云いたいです。
少し、歴史の勉強をされた方ですと、自分が勉強したことと、全く違うことが書いてあるので、何と馬鹿な人だと思われたでしょう。歴史好きの方は、勉強されたと思っておられるでしょうが、歴史のプロが書かれた本を読んで、自分が共鳴した部分のみを取り込んで、自分の考えだと思っておられるだけです。
田村氏は 日本のあけぼの(2)で書いておられるように、本屋で手に入れることが出来るものは、200冊。全部買われたと思います。その他に、図書館にある本も読まれたと思います。
そして、古事記と日本書紀に書いてあることは、考慮に入れないで、考えたと書いておられます。
そうしましたら、上に書いてあるような仮説になったと云うことです。それにしても、自信満々ですね。今度は、この仮説を立証できる材料を探されたことになります。
それにしても、この自信に満ちた態度が気に入らない方がいっぱいだと思います。
私も3年ぐらいは、少々腹が立ちましたが、少し、ギャフンと云わすことが出来ないかと思いながら、田村氏が言われる本は全部読みました。言われる神社にも行きました。書いてある地名も見に行ってきました。地名を見に行くということは、どう言うことだと思われますか。
そして、最近は、書かれてある仮説は、正しいように思えるようになっていますが、一言では、説明ができません。
頑張って、転載しますので、最後まで読んで頂ければと思っています。
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2009.07.18
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本のあけぼの(2)
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現在本屋で手に入る本は、200冊許りは目を通したのである。この中で不信に思った点については別のアングルから解明したつもりである。
古墳等の年代は科学的根拠のないものは無視したので、読者は時に2世紀以上の開きがあることに気付かれるだろう。
古事記にも何ヶ所おかしい所があったが気付いた時は意見を書いておいた。古事記には根っからの神話は全くなかった。
日本書紀は天皇が即位出来る筈もないのに即位させて、所々エトを中国に合わせ全くの偽書だった。
古事記は天皇の家系だから、歴史としては日本書紀ほど精しくない。
地名が歴史を教えてくれるのは、その地名がつけられて23世紀位の期間だろう。従って地名のパターンで崇神天皇までの歴史を考えて見たのである。
日本人と日本語のルーツとルートを考えるのに役立ったのは、シルクロードやチベット雲南のNHKの放映だった。
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2009.07.17
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第8話 吉備にあった漢の古墳
日本のあけぼの(1)
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昭和55年8月に友人に大山・蒜山国立公園のヒルゼンに高天原があったとの、ヒントを与えられた。
この時以来思い付くままをパンフレットにして来たのである。予備知識ゼロでしかも電気ヤが極めて断片的なことを月々一冊にまとめて友人に配って来た。何回お前の書くことは分かり難いとご意見を聞かされたことか。しかし改めるよりも、日本の建国のベールに包まれた部分が分かる度に、分っただけでも書いてお知らせする気持ちにかり立てられて来た。
昭和56年の終戦記念日が近づいた。一先づ自分なりの、日本の建国を全く別のアングルから眺めた有様をお知らせしたい。
最初に先づ古事記、日本書紀の影響を受けた資料は一切採用しないことにした。国土地理院の5万分の1に載った地名を主にして、地名パターンで、最初地名を必要とした人々を割出したのである。地名には歴史が語られている筈だ。仮りに地名が変更になったのであればこれも歴史である。
一言-------今日から、【第8話 吉備にあった漢の古墳】の始まりです。
この文章は、田村誠一氏が作られた第8番目の冊子に掲載されているものです。
田村誠一氏は、故人ですので、この文章におかしい所がありましても、返事を書くことはできません。
ここに書かれてある歴史が、正しいと間違っていることではなく、全く、歴史の知識がない田村誠一氏が、どのように考え、晩年を楽しく過ごされたかを知って頂ければと思います。
歴史のある国に生まれた者のみが、経験できることだと思います。
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2009.07.16
ヤマトタケルが甲斐征伐したが、ここには富士川があり、銅鏡が出土し、前方後円墓が非常に多かった。地名にも龍王村、山城村、駒城村と中国臭の地名が残っていた。
天竜川、千曲川等と数多くの川が中国人に占領されていた証拠が備っていた。
これらの全ての占領地に共通した条件は絹だったのである。
九州で最近出土した絹は紀元前100年のものだった。地名に絹に縁のあるものがこれらの川の流域から見付かる。
これは漢字で最初に地名を付けた時に絹がすでにあった何よりの証拠である。
青森のチベット式発音の数字がついた地名や田の付く地名は2000年昔のものと考えてよい。
この絹が紅河から西域に運ばれたと考えたいのである。しかもある時期この絹は中国人に奪略されていたのである。
シルクロードはやはり日本書紀から始まっていたし、中国で出土の上等の絹は日本産だった。
一言----倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史は、これで終了です。この冊子は、112ページのものですが、昭和56年12月25日の発行になっています。
この冊子では、「この絹が紅河から西域に運ばれたと考えたいのである」と書かれて、推理されただけになっていますが、その後の調査で、証拠はいっぱいでてくることになります。
昭和55年11月21日の発行の第1話 神々のふるさと ヒルゼン
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2007/12/post_4854.htmlから始めて、第4話まで紹介しました。考えがあって、第12話を紹介してきましたが、次回は、やはり飛ばして、第8話を紹介します。
全くの歴史の素人である田村誠一氏は、友人から、ヒルゼンが古事記に登場する高天原と聞き、自分なりに調べを進めるうちに、次第に、本当のことであると思われます。
そうするほどに、現在の正しいとされている歴史と離れていくために、だれにもれなくて、落ち込んでみたり、反発してみたり、その苦労のあり様が、あちこちで見ることができます。
第12話 河を忘れた古代史では、タイトルは立派ですが、はじめから、仕舞まで、「古事放談」でした。しかし、決して言いっ放しではなく、短い文章の中に、怒りも織り交ぜながらの叫びに似たものがありました。コピーでもして、又読み返して頂けましたら、嬉しいです。
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2009.07.15
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 5-7
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すでにいくつかの河を取上げたが、古代史で最も重要な役目をはたしたのは、久米国と吉備上道国(備前)を結んだ吉井川です。
利根川が古代史に登場しないのはおかしい。関東には本来は次第の天皇となるべき崇神天皇の第一王子、豊木入日子命を上毛野、下毛野の君として配置されている。君子の「君」として派遣されたのである。
ヤマトタケルが征伐した筑波には結城がある。古来結城紬の名産地である。こま周辺に絹かに縁がある地名が多い。
結城の地名が示す様にここも中国人に占領された所である。この近くに埼玉古墳群がある。これこそ中国人の墳墓である。
稲荷山古墳の鉄剣も恐らく日本の砂鉄で作られたものではないだろう。少く共前方後円墓は特定の天皇陵以外は古墳の主は中国人である。更にこの周辺からは銅鏡が沢山出土していたのである。
崇神天皇の時二将軍が会津まで征伐に行った。ここを流れる川が阿武隈川である。この下流に巨大な前方後円墓の雷神山古墳がある。
参考に 埼玉古墳群
http://bell.jp/pancho/travel/saitama/sakitama%20kofungun.htm
雷神山古墳
http://www.pref.miyagi.jp/bunkazai/siteibunkazai/siseki/kunisiseki/kuni-siseki05.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~fx3j-aid/kofun/tohoku/miyagi/12_ntri/raijin1.html
上の方が、教育庁文化財保護課のホームページです。
「遠見塚古墳よりさらに広い地域を統括した、きわめて大きな権力をもった首長の墓と考えられている。・・・」言葉は悪いが、当り前のことでしょう。たとえば、此の地を天皇が、統治をまかせていたとか書けないものでしょうか。
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2009.07.14
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 5-6
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崇神天皇は銅鏡を沢山持っていたタケハニヤスを征伐した。
丹波を征伐したがここにも銅鏡が出土した。
孝霊天皇が征伐した吉備にも銅鏡があった。
景行天皇が征伐した九州や周防、長門からも銅鏡が出土した。
魏志倭人伝で当時2,300万の人は雲南系だと、中国人までが証言している。しかるに学者は天皇天皇は銅鏡愛好者だとおっしゃっている。この謎を学者は先づ解いていただきたいのである。
異民族とは融和、混血は当然だととしか思えない発言を繰返されているのだ。
雲南系日本人は河内国と同じ地名の河内(ハノイ)を流れる紅河を通じて日本に渡来したと考えれば古代史の謎は全て解けるのである。
「河を忘れた古代史」とは、日本国内で古代に重要な道の役目をした多くの河川と紅河を考えて欲しいためにつけたタイトルである。
海を自由に航海した古代には河川は海の延長に過ぎなかったのである。
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2009.07.13
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 5-5
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銅鏡の外に釣針等も椿井古墳から出土した。タケハニヤスは崇神天皇の軍隊に攻撃されてこれらのものを隠して逃げたと考えたい。
これだけの大量の出土品があるなら、巨大古墳であってしかるべきだ。しかしこれは偶然工事現場から出土したのであって、出土するまで古墳と気付かなかった。人を葬ったのではなかったと考えたいのだ。
この木津川は淀川の支流で同じく支流の桂川を遡れば、これも低い峠を超えるだけで魏の植民地だつた伊都国の由良川に到達出来る。
宇治川、瀬田川を通ってビワ湖にも古代の幹線ルートがあったのである。
57年9月9日の新聞は紀の川の北岸に7棟の倉庫群が発見されたと報じた。しかしこの用途はあいまいであった。
これこそ河内を占領していた倭の五王の補給庫と考えるべきだ。倭の五王は5世紀に宋に密使を遣わしたのである。
軍隊は北鮮人で、この人達は集落すなはち小隊毎に終結していた。従って食糧は他所から運ぶ必要があったのである。
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2009.07.11
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 5-4
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魏志倭人伝で伊都国の卑弥呼の許に届けられた文書等は間違いなく邪馬台国の女王の許に届けられたと書かれた。
伊都国は丹波で、邪馬台国は現在の備前である。この間の交流があったのだ。
ここでも地図が必要だ。卑弥呼が居った伊勢大神宮の南に由良川が流れている。この川を遡って天王坂を超えると加古川の上流である。天王坂は海抜が僅かに170米である。
天王坂と大王が往復したにふさわしい地名が残っていた。この天王とは久米国の崇神天皇の義弟、日下坐王でよいだろう。
加古川の下流近くに、社の地名がありここが、「木の国」と書かれた交通の要所である。
ここから久米国に伯耆街道が通じていた。邪馬台国の女王、夜麻登登母母曽姫の許には海を利用したと考えてよい。
崇神天皇がタケハニヤスを先づ征伐した。この賊は奈良のすぐ北の木津川の北岸に陣取っていたここの地名が高麗村で、しかも椿井古墳から30数枚の銅鏡が出土した。
崇神天皇の敵は銅鏡愛好家だったのだ。
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2009.07.09
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 5-3
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伯耆には日野川があり、出雲に斐伊川がある。高天原が蒜山高原にあるためには、この二つの川が登場しないことにはおかしい。
しかも日野川の場合には「之」が必要である。先づ日本書紀では「簸河」と「簸之河」と使い分けがしてある。
古事記では「肥河」と「肥上河」となって「之」の代りに小文字で上の字が加えてある。
明らかに二つの別々の河があった。スサノオ命が遡ったのが、「之」又は「上」のつく河でこれなら日野川になる。
蛇を切って血で赤く染った川は斐伊川だ。この蛇とは製鉄の職人のことと考えればよい。更に中山王国とイザナギ命との関係で述べたが蛇と呼ばれたのは中山王国から来た職人と考えたいのである。
高天原が蒜山高原だとすれば、スサノオ命が高天原から追放されて、遡った川は日野川でこの上流に鳥上山は現存している。
「八俣之遠呂地」と原文にあったのを「八岐の大蛇」と解説している。これは「八岐の遠呂地」で元来地名だった。大呂は現存する。
参考に----地名 大呂 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page268.html
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2009.07.08
古事記の解説書は例外なしに「亀の甲」に乗って来たと書いたので神話になった。
原文には「亀甲」と書かれている。「之」を間に必要とする時には、不必要な位の所にまで「之」が書き込まれていた。
この「亀甲」の地名が米子の東を流れる日野川の川口近くと吉井川の上流の津山の錦織の近くに見付かる。これこそ亀甲が使われていた証拠である。
古事記には当時島だった島根半島が登場しないことはおかしい。従って「子淡道之穂之狭別島」が島根半島だと申し上げた。ここに「之」の使用例がある。
この島が倭人伝の末蘆国で通称松江国だつたのである。ここから亀甲に乗りかえて天津村(西伯町)までやって来た。
従って日野川の下流に亀甲の地名があり、船はここで作られたことだろう。
「之」が重大な誤解の基になったのが「伊勢大神之宮」である。崇神天皇の妹はここを拝き祭ったと原文に書かれていた。しかし解説書は「伊勢の大神の宮」と三重県にした。
参考に---亀甲のことは、日本書紀も古事記にも書かれています。神武天皇の所にです。
ここに書かれてある亀甲の取扱方で、歴史が神話になったと考えてみました。
(最も、日本書紀では、亀甲とはかいてなくて、「艇」と書いてあります。訳本では小舟になっています
)
No574神武東征(23) 豊国の宇佐(24) 艇と亀甲
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2009-05-30から5回にわたって書いています。この亀甲に乗って来たのが、日本書紀では珍彦とされています。
珍彦のことも次から、5回にわたって書いています。
No569神武東征(18) 豊国の宇佐(19) 珍彦
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2009-05-22 日本書紀が、古事記をみて作られたのですが、いかに、苦労したかが分かると思います。
それは、誰にも気が付かれませんでしたから、神武天皇は神話で、実在しなかった天皇とされています。
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2009.07.06
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 5-1
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魏志倭人伝には水行10日とか陸行1ヶ月の文字が見える。
古代には隣の集落との間には原生林の中を抜けなければならない道は存在しなかったと考えたい。
交易が必要な時代でない限り、常時人が往復しない限り林の中の道はすく消える。けもの道が役立ったことだろう。
古代には流れが緩い川と山の尾根を組合わせた所をいざと云う時に歩いたと考えたいのである。緩い川には川原があり、川は浅くて横断も楽だし、川の中でも渡れた。更に両岸からロープで船を引張れば大量の品物も運べたのである。
この時に利用された船が亀甲とは前後がない船で伝馬船のことだ。
神武天皇東征の時に古事記では神戸の和田浦(現在の和田岬)明石海峡のための水先案内がやって来た。
この水先案内は亀甲に乗って釣りをしながら現れたのである。
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2009.07.05
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-9
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古墳時代の前期、中期、後期と云われてもはたして何天皇の御世だか分からない。考古学と歴史学の接点が見付からない位おかしな話はないが古墳の年代が絶対年でない限り、アベコベに接点があったらおかしいのである。
古墳から出土した漢の銅鏡と古墳時代が200年も違うこと位不思議なことがあるだろうか。
弥生時代の遺跡で同じ様な土師器が出ればなぜ同期であり、古墳で中国と日本書紀で同年代の漢の銅鏡が出ても同時期と云ってはいけないのである。
古墳から出た刀は北鮮と同じでも、北鮮は
長期に中国の植民地だった以上中国の武器と呼ぶべきではないか。
将軍は中国人で、帯方郡と同じ様な占領政策が、帯方郡が独立して高句麗となった以降も河内で行われていたのである。
魏志倭人伝で魏と使訳通じる所30余国と書かれたのは、全国に分布した例えば三角縁神獣鏡が出土した所が候補地と考えたいのである。
一言---古墳から出土した漢の銅鏡と古墳時代が200年も違うこと位不思議なことがあるだろうか。
どうしてこのようになるかとて言いますと、紀元前から、人々は、関東から九州まで、多くの人が行き来していたのに、そのように思わないから、土器は、同じところから動かないと思っているからです。出土した土器でその遺跡の存在した時代を決める考え方は、止めませんと、外国から日本の歴史は認められないと思います。
同様に、世界の人が、日本へやってきていたのに、あまり認めたくありません。
昨日、奈良の西大寺でイスラム陶器が見つかりましたが、つぎのようなタイトルになります
国内最古イスラム陶器、奈良・西大寺で出土
「海のシルクロード」で平城京へ
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20090704-OYO1T00313.htm?from=top
「海のシルクロード」は勿論あったでしょうが、証拠は残っていません。中国から雲南を通って、ビルマ経由の方は、絹が運ばれていた証拠は残っています。
古代の人は、世界中を移動していたと考えませんと、世界史に置いていかれます。
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2009.07.03
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-8
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河内には藤原が定めた式内社が113社あった。この神社には戦前の官幣大社、国弊大社の様に国から幣帛料が出されたのである。
河内の113社の氏子に国から幣帛料が出されたことになる。
これは伯耆の6社、安芸の3社に較べれば異常に多い。
実は式内社には天皇を祀った神社は全く含まれてなかったのである。
雲南系氏子が居る神社には幣帛料は全く無くて高句麗人のスサノオ一族と素生が全く分からない祭神の神社に幣帛料が出されていたのである。
河内ではニギハヤヒを祀った4社と藤原の先祖天児屋命を祀った4社以外は神社の所在さえ分からないのが半数だった。
異民族を祀った神社に天皇と同じ鹵簿行列で参拝するだろうか。
雲南系神武天皇の敵ニギハヤヒと藤原の先祖の天児屋命とは同一民族と考えてよい。
一言主神が倭の五王でないことには謎は解けない。倭の五王は中国のために忠節を尽くしたと奏上した記述が中国に残ったのである。
河内は中国の植民地時代が二度あったのだ。
一言---書いてあることが理解できましたか。理解できない方は、全部ご自分で確認されますと、解ります。
①河内には藤原が定めた式内社が113社あった
②戦前の官幣大社、国弊大社の様に国から幣帛料が出された
③伯耆の6社、安芸の3社に較べれば異常に多い
④河内ではニギハヤヒを祀った4社と藤原の先祖天児屋命を祀った4社以外は神社の所在さえ分からないのが半数だった
⑤一言主神が倭の五王でないことには謎は解けない
古事放談4-3 http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/06/4-3-5a19.html
と雄略天皇の所を読んでください。
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2009.07.02
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-7
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古事記は天皇が必至の思いで書き残した記録である。従って中国人の不比等を刺激しない様に書かれている。
又書きたくても書けなかったことを非常に多いものと思われる。重要なこと程書かれてないものとして、裏を読むことである。
雲南系雄略天皇は暴君だと云われているが雲南系日本人の為にたたかってくれたのである。
葛城山中で雄略天皇は一言主神と遭遇して恐怖を感じ、一言主神に頭を下げたのである。
一言主神が登って行った葛城の山中にニキハヤヒを祀った鴨習太神社があった。
ニギハヤヒとは雲南系神武天皇に征伐された人である。日本書紀と古事記を注意深く読めば、従来ナガスネヒコが悪者扱いされて来たことはアベコベだったことが常識があれば判断出来る。
藤原が後世定めた式内社には天皇一族は全く除外されていた。藤原は雲南系天皇の敵で11世紀までは日本は中国の占領下にあったのである。
一言---このページ大切なことです。この文章を書かれた田村氏は、ご自分は、雲南系日本人の様に考えておられるようです。田村という苗字がいつのころから付けられたか判りません。殆どの平民は、明治になってから名前を持った。それまでは、苗字だけだったとい知ったかぶりに云われる人がありますが、そうでもないでしょう。江戸時代の過去帳などは溢れるほど全国に残っていますから、全部、コンピューターに入れて公開すれば分かることです。(個人情報を主張して実現不可能とおもいますが)
昔は隣なり村に行かないで育った村だけで一生を過ごしたと思われていますが、大きな間違いでしょう。2000年前であっても、日本中を駆けづり回っていたことが判ります。
日本史を考える時に、「藤原が後世定めた式内社には天皇一族は全く除外されていた」ということは、重要なものと思われますが、田村氏が主張されて10年以上なりますが、誰一人として、賛成する人はおられません。
当然です。現在でも、日本を治めている人は、中国系の人たちです。認めるわけにはいきません。しかし、否定しますと、日本史は謎ばかりで成り立ちません。
田村氏が言われるとおり、歴史に学問など必要ありません。
〔従来ナガスネヒコが悪者扱いされて来たことはアベコベだったことが常識があれば判断出来る〕は、正しいことです。
現在、政治が混乱しているのは、当り前のことです。これまで持っていた利権が通用しなくなったからです。
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2009.07.01
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-6
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崇神天皇は東北までの中国の基地を掃討して「初国治らしし天皇」と呼ばれた。しかし九州、四国は天皇勢が船を失ったので景行天皇の御世に討伐が行われた。
しかしこの時全国に中国人、北鮮人の敗残兵が残ったのである。
応神、仁徳天皇は一時敵に侵略された摂津河内に都を移して、巨大な前方後円墓を築いて敵に天皇の勢力を誇示した。
この御陵に従事したのは敗残兵だったと考えてよいだろう。しかし天皇には軍隊がなかったのである。
敗残兵を収拾したのが倭の五王である。河内は再び北鮮兵に布陣されてしまつた。 河内だけを考えても主権者はこの様に何代も変わったと考えるべきである。
従って古墳や遺跡の年代が絶対値でないことには古墳時代と云われても漢の将軍、雲南系天皇、倭の五王? と入り乱れて歴史は謎につつまれることになる。
漢の勢力が最も強かった時代の吉備の造山古墳が最もデラックスでよかったのである。
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2009.06.30
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-5
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河内の前方後円墓に阿蘇の石棺が納められていた。これは〝吉備古代史の未知を解く〟に書かれている。
吉備の巨大古墳には阿蘇の石も、四国讃岐の火山石も高砂の竜山石も生駒の二上山の石までが使われていた。
これは一時期九州も四国も飾磨も河内も支配していたのは共通の侵略者で漢の軍隊だったと考えてよい。この本拠が吉備だった。
漢は180年頃には衰亡して2本の補給が途絶えた。この時漢から銅鏡が来なくなって三角縁神獣鏡を九州で作りだした。
この時まで占領されていた吉備、飾磨(しかま)、美作(みまさか)、伯耆を孝霊天皇の御世に奪回して、強力な防備態勢を敷いたのである。
漢が滅びて魏になると丹波に中国軍の基地を築いた。ここは山城、河内から最後には奈良の一部を残した大和まで侵略して来たのである。
この時の軍隊は中国の植民地帯方郡の北鮮兵が主力だった。この軍隊を240年代に崇神天皇が撃破したのである。
一言---河内の前方後円墓に阿蘇の石棺が納められていた。
吉備の巨大古墳には阿蘇の石も、四国讃岐の火山石も高砂の竜山石も生駒の二上山の石までが使われていた。大阪府高槻市の今城塚古墳も阿蘇の石棺と言われています。
〝吉備古代史の未知を解く〟に書かれています。
読んだからといって、上に書いてあることは分かりません。阿蘇のピンク石は特別であることが判ります。
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2009.06.29
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-4
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河内は北鮮人に侵略されていたとして、如何なる矛盾が生じるだろうか。
文物は朝鮮から渡来したと云われる。これ位間違った判断を起こさせるものはない。
北鮮と南鮮は古代には敵味方の関係だったのである。この状態は現在も似ている。
北鮮は中国の植民地だったので支配者は中国人だった。
河内はこの北鮮と同じ状態に置かれていたのである。一言主神すなはち倭の五王は中国人と考えればよい。この中国の将軍は前方後円墓に葬られ、副葬品に銅鏡を必要とした。
北鮮人は軍隊である。小隊毎に集って生活しないことには何時雲南系日本人に襲われるか分らないのである。
軍隊である以上食糧を自給しなくて良かった。集落を作って稲作等に不自由を来たしても差支えなかった。
昭和57年9月9日の新聞には紀の川の北岸に7棟もの5世紀の倉庫群が出土したと大々的に報道された。
これこそ河内の北鮮軍の補給庫である。
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2009.06.28
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-3
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雲南系雄略天皇と同じ鹵簿行列で葛城山に登って行ったのは一言主神である。
同じ雄略天皇の時倭の五王の一人が中国の宋の皇帝に、自分達の先祖は中国皇帝のために忠節をつくして来ましたと使者を出して奏上している。
なぜ 学者達は雲南系の雄略天皇や仁徳天皇を倭の五王の一人にして、日本を中国扱いにしないと気がすまないのだろうか。
魏志倭人伝に書かれた漢の武帝等に征服された所に居った雲南系日本人がなぜ中国皇帝に忠節を尽くしたと云えるのだろうか。
一言主神こそ倭の五王の一人だとすれば、雄略天皇天皇が恐怖を感じた謎は解けるのである。
河内には方形周溝墓が多い。なぜ集落をなした遺跡が見付かるのだろうか。
雲南系日本人は水の近くに住居を設けた方が稲作に好都合である。反対に集落を作っては日常作業に不便ではないか。
方形周溝墓の主は雲南系日本人ではなくて北鮮人であり異民族だと考えれば、河内は侵略されていたことになる。
一言---〔方形周溝墓の主は雲南系日本人ではなくて北鮮人であり異民族だと考えれば〕が正しいとしますと、えらいことです。全国、北鮮人であり異民族だらけであることなります。だけど、全国の方形周溝墓を調べる必要があります。
6月15日、福井県の小浜市へ行ってきました。国分寺跡の近くに、府中という地名があります。国府があった可能性があります。ここで、平成20年に「小浜府中石田遺跡」が発掘されました。
http://www.pref.fukui.jp/doc/maibun-c/hakkutuitiran_d/fil/032.pdf ここには、弥生中世と書いてありますが、此の地は、海抜が2mです。近くの和久里でも3mですから、紀元元年の頃は、海だったのではないでしょうか? まだ、小浜市の歴史は、なんとも言えませんが、この古い頃は、どのような所であったか、考える材料にはなります。
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2009.06.27
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-2
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血液型を例に取ればA型とB型もなくなることはない。
民族間でも優性遺伝子は引継がれている。陳寿は1700昔に日本人の風俗習慣が海南島人と同じだと魏志倭人伝に発表してくれた。これは雲南系日本人と考えてよい。
雲南も少数民族である。しかし漢民族や韓民族とは異なっていたのである。
更に240代には伊都国は中国の植民地で中国人の軍使までが常駐していた。
この敵味方に分かれた民族間に混血が行われただろうか。混血どころか闘争が断得なかったと考えるのが常識である。
古墳から日本製でない武器が出土したのである。恐らく稲荷山の鉄剣も日本製ではないだろう。
この様に考えると稲荷山の古墳の主の先祖が雲南系の雄略天皇だとする学説はおかしい。
雄略天皇の時には雄略天皇さえも恐怖を感じた人に葛城山中で出会ったのである。このことは古事記にも日本書紀にもかかれている。
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2009.06.26
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-1
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昭和57年9月10日の新聞に古墳から出土した刀は日本製ではなかったと書かれていた。
日本の鉄の原料は砂鉄でこれには何千年たっても消滅しない微量元素が含まれていた。
しかし出土した刀にはこの微量元素が欠けていた。鉄の素材を雲南系日本人が輸入して日本で加工しただろうか。
雲南系日本人と朝鮮の帯方郡の中国の植民地の人とは敵、味方である。これさえ分かれば刀の主すなはち古墳の主は敵と云わざるを得ない。
雲南系日本人は家系を重視する。土地に対する執着が極めて強い。考え様によっては極めて排他的で他人者が自分達の村に勝手に入りこむことを好まない。 従って異民族との融和や混血は好まない。
都に出て出世しても墓は故郷に残すのが一般である。
騎馬民族説では三代もすれば融和、混血? したと云われている。騎馬民族だけは異民族と融和する特長を持っていたのだろうか。
一言---「古墳から出土した刀は日本製ではなかった」----雲南系日本人と朝鮮の帯方郡の中国の植民地の人とは敵、味方である
このようなものの考え方を、最近の歴史家はしておられるだろうか、今、私は石田松蔵著 『但馬史 1』を読んでいます。8年前に古書店で買ったものです。大正7年11月1日生まれの方です。発行は昭和48年3月20日(1973年)。定価1300円でしたが、購入価格は1380円でした。買ったものの、ずっと、読んでいませんでした。
高い本を買ったのに、なぜ 読んでいなかったかといいますと、面白くなかったからです。なのに、なぜ 読みだしたかと言いますと、書いてあることが、上と同じような考え方をしておられるからです。但馬は、このころでも遺跡の発掘が少なかったのでしょうか? 少なくても、いっぱいのことを書いておられます。それを元に自分で考えることができます。
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2009.06.25
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-24
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チベット読みの数字、五弦の楽器、銅たくジャポニカ種の稲、絹—何れを取上げても数百頁を要するテーマである。
しかもこの五つは複雑な目に見えない糸でからみあっていたのである。
これを解いてくれたのは、隠岐、多賀、伯耆、蒜山高原の地名だったのである。
更には隠岐や伯耆等の神社と神武天皇を祀った神社を取上げないことには、からみ合った糸はほぐれる筈もなかった。
前漢の武帝に登場してもらはないことにはヒルゼンでイザナギ命と天照大神、スサノオ命、月読命が落合われた謎が解けないで古事記は神話だと一言で片付けられて一巻の終だ。
お前の話は分り難いと友人からはおしかりと励ましばかりいただいている。しかし、何れを取上げても単独では解けない問題ばかりだったのである。
放談の第三部の一応の終りにしたい。題目がつけ様がないから放談とする外なかった次第である。古代史の放談はまだまだ続ける外ないと思案にくれている。
一言---田村誠一氏、12冊目の冊子を出版したものの、ここで弱音を吐いておられます。まとまった形の文章を書こうと思われたのでしょうが、纏めようがありません。
チベット読みの数字、五弦の楽器、銅たく、ジャポニカ種の稲、絹の5つを別々にいくら調べても、何一つ関係がないのです。
これを解いてくれたのは、隠岐、多賀、伯耆、蒜山高原の地名だったと書いておられます。
私は、田村氏の云われることを全部確認しました。一度、挑戦されれば解ります。絹のことをいくら調べても、江戸時代までのものばかりです。考古学では、刀に絹が巻いてあったぐらいです。折角、まかれてあるのが発見されたのに、誰一人として取り上げた人はおられません。銅たくときますと、膨大な資料があるのに、何のために、誰がつくったのか、どうして、急に無くなったのか。回答を書いた人はおられません。祭祀に使われたばかりです。古代の人は、祭祀ばかりしていたのでしょうか? 古墳から発見されたものも、祭祀につかわれたとの説明ばかりです。いい加減な話ばかりです。普通に考えれば、分かります。古代の人は、生きていくのが精いっぱいだったはずです。埴輪をならべて祭祀を行ったなどなどです。
しかし、田村氏は、この後、又気を取り直して、19話まで発行されましたが、各論では駄目だと古事記と魏志倭人伝の読み方を書いた『燦然と輝いていた古代』を平成1年に発行。その後、『燦然と輝いていた古代』・続を平成3年に発行。『燦然と輝いていた古代・追』を平成5年に発行。300ページを超える本です。そして、最後に、『燦然と輝いていた古代・総集編』を平成12年に発行されています。
私は、田村氏の説は、一つずつ確認をしていますが、まだ、3分の1ぐらいしか調べていません。
これは素晴らしいと、確認したことを3つの形で書いていますが、1日読んで頂けるのは、100人もありません。
私は、違うかたちで考えを伝えようとしていますが、無理ですね。田村氏は「お前の話は分り難いと友人からはおしかりと励ましばかりいただいている」のは、良い方です。私の場合は、友人は、すべてなくなりました。そりゃそうですよ。会ったら古代史のはなしばかりするものですから、敬遠されるようになりました。
一言のつもりが、長くなりました。
引き続き、田村氏のお話をお読みください。
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2009.06.24
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-23
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中国人不比等が書いた日本書紀にはイザナギ命がサノオに「天下をおさめよ」と命令したと書かれている。
しかし古事記ではスサノオは天の岩戸事件を起こしたために神々の座から追放された。
この事件はイザナギ命がスサノオ命に「海原をおさめよ」と命令して、スサノオ命が自分は米子平野の根の国に赴任を希望したために、発生したのだった。
河原が河のそばの原である様に、海原とは海の近くの原で倉吉平野のことだった。ここに後日ヒルゼンから御所を移転した高千穂があった。
イザナギ命はこの時天照大神に「高天原を治めよ」と命令され、これはこれはヒルゼン高原のことだった。
天照大神を祀った神社はヒルゼンに2社あることが、天照大神が居られた証拠である。
月読命は「夜食之を治めよ」と命ぜられ、これは丹波の天田郡夜久野のことでよかった。
夜久野の周辺に限って月読命を祀った神社が数社見付かったのである。
御断り----古事放談 3-7 http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/06/3-7-2957.html
において、隠岐の神社が、一枚の地図に詳細に記されていましたので、許可を得ないで、掲載しましたが、許可願いをお出ししていましたが、どなたにも許可していないという返事を頂戴しましたので、削除しました。
残念ですが、私のルール違反ですので、読んで頂いている皆さんにもお詫びいたします。
一つ一つの神社は、〔隠岐島の神社〕
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page211.html
は、ここに掲載しています。神社に興味のある方は、いつかは必要になると思います。コピーして保存して頂ければ嬉しいです。
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2009.06.23
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-22
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スサノオ命は高句麗人である。この本拠は現在の淀江町に合併された高麗村唐王でよい。
前漢の武帝は紀元前108年に北鮮を中国植民地にした。この時スサノオ命は隠岐に亡命して来たと考えてよいだろう。
イザナギ命の許に集まった天照大神、スサノオ命、月読命の年代は前漢の武帝の時で矛盾は生じないことになったのである。
しかも三人武帝に圧迫されて祖国を棄てた人達と考えたいのである。西域の楼蘭が同時期に幻の様に姿を消したのも、圧迫があったせいと考えたいのである。
従って月読命は楼蘭から五弦の楽器携えて日本にやって来た。
呉は揚子江の中流である。亡命する時には第一番に明日の食糧になる種を持って行くだろう。
従って天照大神は揚子江の中流の稲の籾を持ってくるのが常識である。日本の稲が雲南の稲でなくて、揚子江中流のジャポニカ種であることはこれで解けたことになる。
一言---楼蘭の名前を聞いたのは、いつの頃でしょうか。NHKが、発掘された楼蘭を訪ねて放映していました。砂に埋もれた柱が所々に、斜めに刺さっている映像は未だに残っています。当時の話では忽然と消えたように説明されていましたが、その後の発掘で、多くのことが分かっています。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によりますと、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%BC%E8%98%AD#.E9.84.AF.E5.96.84.E5.9B.BD.E3.81.AE.E6.BB.85.E4.BA.A1
楼蘭の歴史の項に、
〔・・・・文献史料に楼蘭の名が現れるのは史記匈奴列伝に収録された手紙の中で触れられているのが最初(紀元前2世紀)であり、その間の歴史は空白である。その手紙は匈奴の支配者冒頓単于が前漢の文帝に宛てて送ったもので、この中で冒頓単于は月氏に対して勝利し、楼蘭・烏孫・呼掲及び近隣の26国を平定したと宣言している。この手紙は文帝の4年(紀元前176年)に送られたものであるため、楼蘭は少なくとも紀元前176年以前に形成され、月氏の勢力圏にあったこと。そして紀元前176年頃匈奴の支配下に入ったことが推定されうる。〕
〔イザナギ命の許に集まった天照大神、スサノオ命、月読命〕の部分は、古事記では、どのように表現されているか、ご自分で古事記を読んでください。イザナギの子供のうち、特別な子どもとして書かれています。
折角、歴史を学ぶのです。この辺りに学問は必要ないように思います。
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2009.06.22
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-21
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イザナギ命の許に現れた天照大神は一体何所から来られたのだろうか。戦後言論の自由が認められて、この様なテーマも扱える様になった。
昭和3年には日留山(蒜山――蛭山)に高天原があったと論文を書いた佐竹先生は不敬罪のかどで勝山中学の教頭から京城の平教員に左遷させられた。
高天原が真実ヒルゼンにあったために不敬罪に問われたと考えてはいけないだろうか。
津田左右吉先生も不敬罪に問われた。しかし審議はしては真実が分ってはかえって政府は困るので、審議はしないままに放置されたのである。歴史は裏を読むことが大切だ。
さて中国の文献に周の呉の太伯の子孫が日本に居るうわさがあると書き残した
これも根も葉もないデマならば、少と共中国の正史が取上げることはおかしいのである。太伯の子孫が日本に亡命したために、うわさ話にゴマ化して書き残したと考えるべきである。
この周とは秦にほろぼされた国だったのだ。
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2009.06.19
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-20
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五弦の楽器だけが独り歩きするだろうか。正倉院の御物の文献を見ていると、中国独自すなはち漢民族らしい例えば竜をあしらった図案のものが少いのである。
唐から伝来したのであれば唐臭のものが最もはばをきかせておるべきではないか。
反対に西域やそれ以遠のものがあまりにも目につくのである。例えば五弦の楽器にはラクダの素晴らしい絵がある。
楽器は少く共踊りと一緒にやって来たと考えたいのである。踊る人が中国や朝鮮を素通りして日本に来られただろうか。
この様に考えると天の詔琴すなはち五弦の楽器を持って月読命が隠岐から伯耆を経てヒルゼンに来たと考えたい。
月読命を祀った神社は隠岐にも伯耆にもあることの謎は、この様に考えれば解けるのである。
この時もたらされた踊が大宮踊でよいだろう。そして天の岩戸の前での神々の踊は恐らく、神をたのしませるお神楽と呼ばれる大宮踊の原型ではなかっただろうか。
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2009.06.18
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-19
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シルクロード音楽の旅の最後の部分でクチャの人が踊りながら道を歩いて行く場面があった。ヒルゼンの無形文化財の大宮踊があまりにもこの踊によく似ていたのである。
月読命が五弦の楽器を携えてヒルゼンにやって来て、踊を大宮人に伝えたとしたら如何だろう。
地名で宮のつく所には雲南からの貴族が居った。大宮とは天子が居った所で、ヒルゼンには雲南からの大王を意味する天王の地名は4ヶ所もあった所である。
大宮の「大」は大礼、大葬、大典の大と同じで単なる大ではなかったのである。
ヒルゼンに大宮踊の名前が残ったことは高天原があった証拠であり、月読命が来られたと考えてよい今一つの証拠である。
スセリ姫が五弦の楽器を持ってカケ落ちしたことはスサノオ命はヒルゼンの西北の高麗村唐王に住居があった。スサノオ命は唐王と称していたのである。
一言---シルクロード音楽の旅は、NHKで購入することができます。ヒルゼンに大宮踊を見に行くことを楽しみにしていますが、実現していません。
動画-- 大宮踊り動画
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2009.06.17
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-18
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スセリ姫が神代に琴を持っていたのである。琴とは弦楽器のことで、すでにこの時日本には弦楽器があった証拠である。
天の詔琴とは一体何だろう。すでに〝卑弥呼の霊に捧ぐ〟で述べたがここに書かれた天(テン)とは天山山脈や揚子江の源流の通天河と同じ解釈でよいだろう。
少名彦名神はカイコのまゆを開いたものをつづった衣物を来て、チベットの皮船に乗ってやって来た。この時は天の羅摩船と書かれていた。
御所を造成するスコップは天の沼矛と書かれていたのである。沼を開墾する道具まで持参で高天原に雲南の神々はやって来たのである。
天の詔琴の詔は実はこの当時雲南にあった南詔国の一字を取ってあった。ここにも雲南を裏付ける証拠が出てきた。
これだけ資料があれば天の詔琴こそは正倉院の五弦の楽器が中国や朝鮮経由した根拠こそ何一つ無いのである。
一言----〔少名彦名神はカイコのまゆを開いたものをつづった衣物を来て、チベットの皮船に乗ってやって来た。この時は天の羅摩船と書かれていた〕
この部分は、古事記解明として、見事なものだと思います。
〔天の詔琴の詔は実はこの当時雲南にあった南詔国の一字を取ってあった〕
この部分は、証拠などありません。人間は何千年たっても、こういう面があります。
歴史とは、学問などと言わないで、こうした単純な人間が繰り返して生きてきた蓄積であると考えればいいと思われます。
自分のこどもが生まれますと、多くの人は、自分の名前の一部を付けたがります。
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2009.06.16
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-17
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イザナギ命が夜見国(御ん墓原――黄泉国)にイザナミ命を見舞いに行って、8人の雷神(中国人)と鬼に追いかけられた。
この時みそぎをしている所にやって来たのが天照大神とスサノオ命と月読命である。
月読命とは一風変った名前だが、月の字がついていることは月氏族で大月国から来たと考えられる。
当時すでに仏教があったので、大山、蒜山の山は仏教式に山を「セン」と名付けてあった。又蒜山には仏ヶ仙と「仏」がついた山までも存在するのである。
シルクロード音楽の旅にクッチャの楽器と踊が出てくる。ここの壁画等には宮中の雅楽の楽器の多くが画かれていた。
又正倉院の御物の五弦の楽器と同じ楽器も壁画に画かれていたのである。
古事記では大国主神がスセリ姫とスサノオ命が居眠りしているすきにカケ落ちした。この時スセリ姫は天の詔琴を持って逃げたのである。 この琴が木にふれて音をたてたので、スサノオ命が目を覚ましました。
一言----〔この琴が木にふれて音をたてたので、スサノオ命が目を覚ましました〕本当かな、確かめてください。
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2009.06.15
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-16
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シルクロードはテレビのお蔭で何千粁も離れて居りながら雲南系日本人とあまりにも多くのかかわりあいがあることが分ってきた。
NHKから出版されたシルクロード第三巻に幻の楼蘭・黒水域のことが書かれている。 楼蘭について愉しく書かれているが、この国は紀元前120、30年頃に東洋史に名が現れた。
しかも僅か50年後の紀元前77年には姿を消した国である。
年代は前漢の猛烈な侵略者武帝の時代と一致する。
楼蘭はシルクロードの真中にあった国で、日本からの絹がここを通って運ばれていたのである。
絹は適当な湿度がないことには良質のものは得られない。中国の河北ではいくら絹があったとしても空気が乾燥しすぎていた。
又、同じ前漢の武帝が紀元前139年の張騫を西域の視察に派遣している。これはシルクロードが西安に通じてなかった何よりの証拠ではないか。
一言---田村氏は「これはシルクロードが西安に通じてなかった何よりの証拠ではないか」と、遠慮がちに問いかけておられます。こんな簡単な事実だけで、少なくとも、シルクロードと言われて有名な道路が、これより後のものだと云っていいのか?
でも、これでいいのですね。
参考に
絹の性能
http://www.kimono-taizen.com/why/why_022.htm
ここに絹の特徴が書かれています。絹は吸水性、吸湿性、放湿性が良いために、いろいろすぐれた所があります。これだけで、いろいろのことを考えることができます。
吸湿性がいいですと、木と同じことです。膨らみます。正倉院の校クラつくりは、木を三角形にして作られています。空気が湿りますと、水分を遮断します。絹の断面は三角形になっていますから、織物にしますと、湿気を遮断します。
天気が良くなりますと、放湿性が良いために乾き易くなります。日本では特に、夏に使える織物と云えます。
新潟県における絹織物発祥の地とされる---http://www.m-activation.net/page066.html
発祥の地は、ホームページを書かれた方の考えでしょう。発祥の地と言われた割には、資料は江戸時代のものです。此の地は、雲南省の人たちが入植した土地です。歴史に証拠は残っていませんが、諏訪神社がもっとも多い県です。
諏訪神社の祭神は、建御名方神です。建御名方神は、大国主神の子供で、伯耆の国に住んでいた時に、アマテラスに国を明け渡すように命じられ、大国主神と事代主神は従いましたが、建御名方神は従いませんでしたので、勝負を挑み負けたことになっています。
逃げた先が、諏訪湖の所です。いわゆる天孫降臨の時に登場する神です。絹の神とは書いてありませんが、絹が運ばれたと思われるルートを、助けられながら逃げたと推察しています。
以上のことから、ホームページを書かれた人が云われている発祥の地は正しいかも知れません。
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2009.06.12
古代史を調べている内についつい派生した事象が現れてくる。従って話が横にそれることが多くなって申しわけない次第である。
中山王国を滅ぼしたのが漢民族で、この亡命者を日本まで追いかけて来て東北に征伐に行ったのが漢の皇帝の子孫だったのだ。
この征伐の命令をだした藤原は中国人でないことには話が通じない。
これも中国人の陳寿が240年代に雲南系日本人が2,300万人居ったと証言していたのである。
この雲南系日本人の支配者が天皇である。前漢の武帝は猛烈な支配主義者だった。北鮮を紀元前108年に中国の植民地にした。
南越まで水軍を出して占領したのは紀元前111年のことである。漢の軍隊は揚子江の上流から河を降りながら雲南地区を侵略したのである。
揚子江の上流からせめられれば雲南の少数民族はいやでも揚子江を降りるわけには行かない。揚子江の謎のカーブから紅河に逃げる外なかったと考えたいのである。
参考に。
南越国の滅亡 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
【紀元前112年の秋、武帝は罪人と江淮以南の水兵併せて10万人に進軍を命じ、・・・・・。
激しい戦闘は1年間続き、紀元前111年冬、楼船将軍の楊僕率が精鋭を率いて尋峡を攻略、・・・・】
紅河 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E6%B2%B3
紅河ハニ族イ族自治州
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2009.06.11
古事記は天皇家の歴史であり、日本書紀は不比等が天皇すなはち即位制を創作したと述べて来た。(〝卑弥呼に捧ぐ〟)
神武天皇とか孝霊天皇は後世に藤原氏が勝手にデッチ上げたのである。
坂上田村磨呂の先祖が後漢の孝霊帝と書かれこの皇帝は中平5年4月に崩じたと系図に注が入れてあった。
この中平5年は188年にあたる。わたしが推定した7代孝霊天皇は186年に崩御されたのである。
藤原は同時期の天皇に中国の皇帝の名をつけていたことになる。
念のため神武天皇の御世は中国では後漢の光武帝である。
神武と書いて「ジンム」と読むことは異例中の異例である。
神戸(コウベ---これ以外の読み方も多い)
神代(コウジロ)の様に神武は「コウブ」と発音すべきだ。この様に読めば同時代の中国皇帝の光武帝と漢字が似て発音が同じだ。
偶然として片付けられる問題だろうか。
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2009.06.10
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-13
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陸奥には葦が繁るデルタ地帯には神武天皇の御世に計画的雲南系日本人が入植したことだろう。しかし稲が育たなかったのでここの雲南人は津軽を越えて太平洋岸を南下し関東平野にまで入植したと考えたい。
津軽で米が取れなくても、津軽までの日本海沿岸は先に入植者があったので、後退する余地がなかったと考えたいのである。
津軽等に雲南系日本人より以前に白狄人がすでに居住していたことだろう。この民族は焼畑、狩猟民族だから生活圏が稲作民とは異なり競合することはなかったと考えてよい。
この民族が蝦夷と呼ばれ、征夷大将軍坂上田村磨呂が登場するのである。
坂上田村磨呂の先祖は後漢の孝霊天皇だった。(〝系図綜覧〟258頁)これを派遣したのは藤原継縄で791年のことである。
藤原は中国人だと〝卑弥呼の霊に捧ぐ〟に述べて来たが、中国人坂上田村磨呂を重視したことによって中国人だとの推理に間違いはなかった。
異民族間には戦争がないことこそおかしい。
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2009.06.09
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-12
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イザナギ命に関する地名や神社が各地から現れた。しかも白狄人の王にふさわしい白王の地名までが銅たく分布の中心の近江八幡市の島(多賀、宮内、白王、王ヶ浜の地名がある所は当時島である)に残っていた。
中山王国の人が山東半島に逃げたと書かれていた中にイザナギ命が含まれていたと考えたら如何だろうか。
鹿児島や直方にイザナギ命を祀った多賀神社があることは、古事記を読んでから後世の人が創建したとは考えられないのである。
古事記を読んで神社が創建されたのであれば天照大神を祀った神社こそ全国に分布しておらないとおかしいのではないか。
イザナギ命は津軽までも行かれたことだろう。実はここにも相馬村に多賀神社があり、イザナギ命が祀られている。
白狄人の一部は北方に逃げたが、ここには既に先住の狩猟民族が居った筈である。従って日本海沿岸に亡命する外なかっただろう。
一部は津軽海峡を越えて太平洋岸を犬吠崎(犬が地名につく)まで南下しただろう。
一言----学問とは何だろうと最近、富に思います。歴史に限りません。医学でも、どの分野でも、専門化し過ぎて、普通の 考え方が出来なくなっているように思います。
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2009.06.08
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-11
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日本書紀民族は騎馬民族だとの東大の江上説を古代史に興味をもたれる方はお読みになったことだろう。
北方系の騎馬民族が日本に侵略(短期間だけ栄えたのであれば渡来ではない)して来て既に済んでいた原住民と混血したとの説である。しかも年代は別として騎馬民族にふさわしい、南方系ではない黄金製品等が出土したことが根拠になっていたのである。
中山王国は騎馬民族であり白狄人と呼ばれていた。この民族は漢民族に囲まれて豪華な四頭立の馬車まで出土した。
しかも装飾金具は黄金製だったのである。すでに述べたが銅たくがあった。この銅たくは近江中心で東西に焼畑と狩猟に適する所に拡がっていたのである。
漢民族と風俗習慣が全くことなる狩猟みんぞくが漢民族の真中にあって前296年には滅ぼされたのである。
北京の南にあったので一部が山東半島に逃げたことは中国史に書かれていた。大部分は狩猟で生活できる北方に逃げたと考えてよい。
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2009.06.07
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-10
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イザナギ命が移られた所は近江八幡市の多賀で、祀られた所は犬上(犬神)郡の多賀大社である。ここにも地名に犬がつけられていた。しかも従来の解説書は移られた所を多賀大社と同じとしたのである。
イザナギ命を祀った多賀神社は鹿児島市、直方市、青森県の津軽平野の相馬村にある。
多賀の地名は仙台の多賀城茨城県の多賀郡があり、この中間の福島県に相馬市がある。
津軽平野の相馬村と相馬市は無縁ではない。だろう。この相馬市の合併前の五つの村等と多賀郡の五つの村の名前が共通だったのである。
更に相馬市のやぶさめや馬追いと同じ行事が隠岐の最大行事だった。
これだけの連関関係が見付かってはイザナギ命を最早神話上の人物として虚像することが許されるだろうか。
これらの地名等は古事記や日本書紀の影響を全く受けなかったのである。
アベコベに日本書紀ではイザナギを命を近江ではなしに淡路に移ったと曲げたのである。
一言----「これらの地名等は古事記や日本書紀の影響を全く受けなかったのである」
この文章は、凄いことだと思います。最近の歴史界は、考古学でなければ、歴史でないような傾向があります。
いくら遺跡を発掘しても、いくら古墳を発掘してもなにも解明されません。出土したものが、いつ頃、使われていたかが、推察できるだけです。
古事記や日本書紀をはじめとして、その他の残された資料は、書いてあることを全部正しいと思うことは、間違っています。
古事記や日本書紀に書かれてあることから、何は信用置けるのか、知る必要があります。
手前味噌ですが、今、その手法を試みています。
【No569神武東征(18) 豊国の宇佐(19) 珍彦】
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2009-05-22
神武東征の折、速吸之門(はやすいなと)という所にやって来た時に、一人の海人が小舟に乗ってやってきた。珍彦(うずひこ)というものです。これは、日本書紀に書かれています。古事記でも書かれていますが、珍彦という名前ではありません。記紀ともに、乗ってきた舟は、艇(日本書紀)と亀甲(古事記)と書いてあるのに、「小舟」と翻訳しておられます。
両方とも、軍用船を表しているのではないかと思って書いています。
その後、【No580神武東征(29) 豊国の宇佐(30) 古事記と日本書紀】
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2009-06-06
まで、12回にわたって書いています。
日本書紀を書いた人は、何を書きたかったのか、古事記を書いた人も、同様に何を書きたかったのかは、このような調子で、記紀を調べていきますと、今後、新しい発見が出来るのではないかと思っています。
これまでの様に、日本書紀と古事記が、どちらが偽物かという捉え方は間違っていることが分かると思います。
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2009.06.06
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-9
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隠岐の犬来の近くにはイザナギ、イザナミ命を祀った神社があった。イザナギ、イザナミ命は中山王国から亡命した証拠があった。
中山の地名は大山の北に中山村があり、津山に中山神社がある。この津山の北にそびえる山はイザナギ命に由来する那岐山である。
この山の中腹にイザナギ、イザナミ命を祀る諾(ナギ)神社がある。
中山王国の王の燭台には蛇と猿が足羅羅ってあった。中山神社の祭神に猿が含まれていたのである。
大山の北の中山村には国主の地名があり、これはイザナギ命を指していることだろう。
この中山村から蒜山高原の途中に加勢蛇川と蛇ヶヶ峠があり蒜山高原には大蛇の地名があった。蛇の地名も中山王国に由来していた。
お断りしておくが中山国は2300年間幻の国で発掘が始まって数年にしかならないのである。
中山王国は騎馬民族で北京の南すなはち漢民族に囲まれた白狄人の国である。イザナギが移られた所には白王の地名まで現れた。
一言----〔大山の北の中山村には国主の地名があり、これはイザナギ命を指していることだろう〕この部分は、正しいようで正しくないかも知れません。「国主」という地名は、他にもいっぱいあります。似たような地名に、国巣、国樔、国栖、国主、国津、来栖、栗栖、楠、久須があります。ここでは、大国主神と少名毘古那命が祀られていることが多いので、大山の北の中山村のことは、検討を要します。
〔この中山村から蒜山高原の途中に加勢蛇川と蛇ヶヶ峠があり蒜山高原には大蛇の地名があった。〕は事実です。
頭の隅においておくべきことだと思います。
以下の二つは私が書いたものです。
No22 美作国の高野神社と中山神社
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-08-23
ここは気になりまして、2回行きました。 中山神社は痛んでいました。国の保護が必要です。美作国はユダヤ人と関係があったのではと考えています。
日本大好き No133 イザナギは中国から来た
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-07-23
諾神社参拝記リンク先
http://websakigake.sakura.ne.jp/06-214.html
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2009.06.03
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-7
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外国から渡来するにしても、中国の水軍だけが何万の単位で敵前上陸出来たのである。
これ以外の少数民族は仮に数人で渡来しても隠岐だけが他から攻撃されずに上陸出来た、日本でも珍しい地形である。
しかもここに外国人が来たことは隠岐には古事記の神代に登場するほとんどの神々を祀った神社があることで証明される。
イザナギ、イザナミ命の間に天照大神、スサノオ命、月読命が生まれたとはおかしい。伯耆の387社の神社の祭神はすべて古事記の神代に登場する神々だったことを解いた学者があっただろうか。
少く共古事記を神話と考えて来られた学者に取っては困った問題が出て来たことになる。
この伯耆の南に蒜山高原があり、ここにも天照大神、スサノオ命、稲田姫、事代主神を祀った神社があったのである。
神々が隠岐から伯耆を経由して蒜山高原に来られ、ここを高天原としたのであれば謎は解ける。蒜山高原は古代の都があったにふさわしい広大な要害の水田が出来る高原だった。
一言----歴史に地形が重要であることは、誰でも知っています。その証拠に、各府県の歴史を扱った書物では、はじめのページには、地形のことが書かれています。しかし、その地形が、当時住んでいた人たちに、どのような影響を与えていたかを書いておられる人はおられません。
たった三行ですが、凄いことを書いておられます。
此の事は、現地を必ず、訪問された田村氏が、肌で獲得されたことではないかと思います。
私は隠岐には行っていませんが、田村氏が書いておられる所は、殆ど行ってきました。行った所が、2000年前の物があるわけではありませんが、地形はそのまま残っています。
①〔隠岐には古事記の神代に登場するほとんどの神々を祀った神社がある〕
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page211.html
②〔伯耆の387社の神社の祭神はすべて古事記の神代に登場する神々だった〕
まだ、全部調べていませんが、次の所に掲載中です。コピーして利用してください。
http://asilka.blog61.fc2.com/
③〔蒜山高原があり、ここにも天照大神、スサノオ命、稲田姫、事代主神を祀った神社があった〕
〔ヒルゼン高原に渡来した神〕
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page686.html
次の図は、隠岐島にある神社の位置と神社名を示したものです。
あいらんどパークホテル 的射氏より頂いたものです。
2007年 産経新聞1週間隠岐の連載の記事がでましたが、その時紹介されてた八幡
浩二さんが作成したものですとのコメントが書かれてありました。
掲載の許可を得ていませんので、拡大したら字がボヤケルようにしました。
島の様子は、ご自分で他の所から、得てください。隣の集落に行く道はすくないよう
に思いのます。
島中、神社がいっぱいである雰囲気だけをご覧ください。
この下に、地図を掲載していましたが、あいらんどパークホテル 的射氏に許可のお願いをしましたところ、掲載しないでほしいとのことでしたので、消去いたしました。八幡浩二様には、ご迷惑をおかけいたしました。お詫び申し上げます。
尚、隠岐島の神社のすべては、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page211.html に掲載しています。その多さだけを見ていただきましても、凄い島だということが分かります。ただ、古代には、各神社を結ぶ道はあまり多くなく、川ごとに集落があり、神社も独立していたのではないかと想像しています。 一番いいのは、実際に隠岐島に行って歩くのが確かかも知れません。
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2009.06.01
隠岐から話が横にそれたが放談としてお許し願いたい。先づ隠岐には大きな島が四つふったのである。
しかも隠岐の島は周囲は山が海岸までせまって、所によっては300米の断崖がそそり立って無数の入江がある。
従って異なる民族が沢山やって来ても、お互いに争いなしに独立したコロニーが築けたのである。
漢字が分る人も現代式の数字の読み方をする人もタミール語を語源とする人も隠岐に集って来てお互いに通じる日本語が形成したと考えたい。
中国の漢字と同じ意味の訓読みがここで発明されたのである。「子淡道之穂之狭別島」が分る人が紀元前に日本に居ったのだ。
隠岐で日本語が形成されれば、東北に一戸から九戸まで現代式地名の読み方があっても不思議ではない。
九州から日本語が漸進して東北にまで伝ったのであれば言語の基本の数字の読み方が統一されることはあり得ただろうか。
一言---なんだか丸め込まれたような気がしないでもありません。無理のないところが心地良いです。
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2009.05.30
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-5
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隠岐が日本国の最初の地点だとすれば先ずづ古事記の記述をみることである古事記では隠岐の三つ児の島を生んだと書かれている。
隠岐は島前(ドウゼン)、島後(ドウゴ)に分けられ、この間はフェリーでも一時間半位かかる位離れている。
しかも島前は三つの島からなって居るので、もともと島後を隠岐と古事記は考えていたことが分る。島後を生んだとは書かれてないが、本州は大倭豊秋津島を生んだと書かれている。
従って古事記では日本の起点は隠岐になっている。さもないと隠岐は四っの島であるから三っ児では矛盾が生じることになる。
古事記に「子淡道之穂之狭別島」を生んだとあり、解説書はこれを淡路島としているがこれもおかしい。
これは島根半島のことで、古代には米子から夜見浜が淡道として通じている穂すなはち先にある幅が狭い島のことであ。
米子の「子」がここに登場する。淡道は狭別島の形容詞と考えるべきではないか。
島根半島の島を書き忘れてよいだろうか。
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2009.05.28
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-4
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古事記で少名彦名命は天ノ羅摩船に乗って美保崎に現れた。チベットはラマ教の国である。羅摩船とはチベットの船のことだった。
チベットではヤクの皮で船を作る。この船は激流を降るのに適している。更に乾かしてかついで山を超えることが出来た。
これで問題は解けたのである。揚子江の中流は金沙江と呼ばれ雲南を流れている。ここでベトナムのハノイを流れる紅河に流れを変えればよい。
この皮船なら揚子江の河口付近まで福建省の沿岸を北上して季節風を利用すれば九州に容易に渡れたのである。
九州から黒船に乗れば隠岐に確実に来られるのだ。これは海上保安庁の海流図が謎を解いてくれたのである。(〝卑弥呼に捧ぐ〟)
チベット人や漢字が分った中山王国の人と雲南の人が隠岐で別々のコロニーを作り、何れ交流すれば隠岐を日本語に統一が先づ可能である。
これには先づ隠岐の地形が問題になる。地形図なしでは古代史は解ける筈がない。
私から一言----このページは、前回の続きです。紀元前に仏教が日本にチベットを経由して、伝わり、その仏教の音楽として、五弦の楽器が伝えられました。勿論、正倉院に残されているような、螺鈿細工は日本で花開いた技術でしょうが、五弦の楽器は、キジル千仏洞と日本書紀にしか残っていない以上、中国や朝鮮を通らなかったことになります。中国や朝鮮を経由したと云われる方は、証拠を示すことはできないと思います。
この文章の意味が判る人は、物事を普通に考える人です。前回に、中国や朝鮮を通らなかったと考えたのであれば、他のルートはないかと田村氏は考えられたのでしょう。
そこで、「古事記で少名彦名命は天ノ羅摩船に乗って美保崎に現れた」が頭にひらめきました。次は、きっと、チベットから船で下ってくることはできるだろうか、古事記にある天ノ羅摩船とは何だろうと。この辺りの思考はとまることはなかったと思われます。
「チベットではヤクの皮で船を作る。この船は激流を降るのに適している。更に乾かしてかついで山を超えることが出来た。」この事実はどこで見つけて来られたのでしょう。
この事実は、標高が低い分水嶺を越えるときに、利用したと思われます。京都宮津の由良川を遡った人たちは、加古川を見つけ瀬戸内海に移動するルートを見つけたと思います。
「ここでベトナムのハノイを流れる紅河に流れを変えればよい」を読んだ時に、田村氏は、ここへ行かれたのだと思いました。ところが、すぐ後に、「これは海上保安庁の海流図が謎を解いてくれたのである」と駄目押しをしておられます。私も真似をして、海上保安庁の海流図を手に入れようとしましたが、ありません。こうなりましたら、神戸の海上保安庁でも行って来ようと思っていますが、果たしていません。
時間はかかりますが、普通に考えることによって、新しい発見が出来ます。
次に、私が考えたことを記しています。
【少名毘古那神と国作り】
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page409.html
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2009.05.26
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-3
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チベットの数字の読み方が中国で行われずに日本にあることは、この間に直通ルートがなければおかしい。
正倉院の御物に例えば五弦の楽器やイランのカットグラスがある。更に宮中の雅楽の楽器がシルクロードのクッチャにある。
正倉院のすばらしい御物は唐には出土しなかったが日本には残ったと学者が発言しておられる。
西域の宝物が中国では出土かったとすればこれは中国で腐ったためと云えるだろうか。
現に2400年昔の中山王国の出土品は、さん然とした輝きを持って出土したのである。
西域の楽器が中国経由ならば中国には日本の何十倍かの遺品があってよい筈だ。更に楽器が日本人に好まれるなら、中国の楽器がもっと日本にないことにはおかしい。
揚子江の源流はチベットに達し、西域からこの上流には西安に行くより容易に行けた。
しかし揚子江を河口まで降ったのであれば流域すなはち中国にその痕跡がないことにはおかしくないか。
私から一言---正倉院の御物にある五弦の楽器はご存じですか?
螺鈿紫檀五弦琵琶は次のアドレスでみることができます。
http://www.eonet.ne.jp/~suwasekai/nanfu-gazou.htm
あるホームページによりますと、
〔五弦琵琶はインドに起こり、中央アジアから北魏に入り、日本に伝わったと考えられ、ペルシャを起源とする四弦琵琶とその発祥を異にしている。
正倉院存庫の琵琶は、現存するものとしては世界唯一のもである〕と書いておられます。
しかし、次のページには、
http://www.gulf.or.jp/~houki/travel/nanro.html
〔五弦琵琶は唐時代には亀玄(きじ)琵琶とも言われていた〕と書いておられます。
それの証拠とも思える壁画が、キジル千仏洞に五弦琵琶を持った飛天が描かれています
http://yui-wsh.kir.jp/memory/kijil.html
これらのものは、シルクロードを経由して、日本に伝わったとされています。田村氏は、古事放談 3-3において、それは間違っているのではないかと述べておられます。
日本に伝わったのは、チベットを経由して、紀元前に仏教が伝わり、その仏教の音楽として、音楽が伝えられ五弦の楽器が正倉院に残されたのではと考えておられます。
文化は、なんでも中国、朝鮮を経由したという考え方は、検討する必要があるのではないかと思います。
その証拠らしきものを書いたものがありますので、興味ございましたら、読んでください。
【No526天孫降臨(99) 伯耆国の寺院(25) 仏教伝来(4)】
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2009-02-22
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2009.05.25
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-2
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青森から岩手にかけて一戸、二戸、三戸と九戸までの地名がある。この読み方はチベットと同じ読み方だった。十二里村や十三村も同じ読み方である。
この読み方が何時から行われたかは興味ある問題である。
青森は黒陶や漆器等紀元前400年の中山王国の出土品と同じものが出土した。又津軽平野には蓬田、蟹田、森田、柴田村、金田村、鶴田村、武田村、田舎館村,稲垣村と実に稲作に縁のある地名が9ヶ村もある。
ここは寒冷の地で元来米が取れる筈がない所である。従って数百人が仮りに稲作をはじめても、米ができないから後続がある筈がない。
従ってこの地名は神武天皇の計画入植の時につけられたと考える外ない。
この様に考えると青森の地名は2000年前にすでに決まっていたと考えたいのである。
中山王国の亡命者か従って漢字を使用する民族がこの地方に渡来していたのである。
青森に戸来(ヘライ)の地名がありヘブライ人が渡来した伝説も否定は困難なことだ。
私から一言――――田村氏は、時間さえあれば、地図を眺めておられたと思います。私が歴史にのめり込むきっかけになった人に、辻保治氏が居られます。全国の国土地理院の25000分の1を所持。何時訪問しても、拡大鏡を手に地図を眺めておられました。「イカルガ」の話をしますと、整理ケースから、5~6枚の地図を出して来て、ここにもある、こちらにもあると見せて頂きました。「イカルガ」は、川が集まる地形にみられました。このような所には、「川合」とか「落合」が付けられていますが奈良の法隆寺がある斑鳩も、奈良盆地の川の水が集まる所です。
このように、地図を眺めていますと、いろいろのことが思い浮かびます。そのすべてが、正しいわけではありませんが、田村氏は、青森と岩手に、一戸、二戸、三戸、九戸を見つけられました。一里とか一ノ坪とかはいくらでもあります。
「この読み方はチベットと同じ読み方だった」
たったこれだけの文章ですが、コンピューターもないころです。何日かけて見つけられたのでしょう。
十二里村や十三村も同じ読み方である。十三村は十三湖辺りに有った村でしょうか。十三湖は、「ジュウサンコ」と読むのだと思いますが、十三村は、かつては、「トサ」と読まれたようです。元禄13(1700)年、十三村は、津軽家五代・信寿の土佐守任官を機に「トサ」を「ジュウサン」と呼ぶようになるとされています。私の近くでは、地名「十三」は、〔ジュウソウ〕です。
このように眺めていきますと、自然と蓬田、蟹田、森田、柴田村、金田村、鶴田村、武田村、田舎館村,稲垣村が目に入ったと思います。
〔青森は黒陶や漆器等紀元前400年の中山王国の出土品と同じものが出土した。〕の文章も急に書かれています。中国の中山王国で発掘されたものの展覧会が全国で行われたようです。何度も出かけられたらしく、その時の感動が、この文章となっています。
どうして感動したかと言いますと、青森の黒陶器や漆器は、いつか、どこかで目にされていたのでしょう。漆器が、青森ではなく、北海道函館で、見つかった時には、凄いニュースだと思いましたが、誰一人として取り上げた方はおられません。
漆器は、中国から伝わったとされていますが、此の時からは、逆に日本から伝わった可能性が出てきたことです。漆器だけがかってに伝わりません。人間の交流があったことになります。紀元前7000年のことです。
ここに書いてあることが、一気に繋がったのだと思います。
一つ一つを見ると、学者の方はだれ一人として取り上げられないことばかりを挙げておられます。 3年前、5年前に見たこと知ったことが、ある日、繋がって見えた時の喜びは、言葉では伝えることはできません。
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2009.05.23
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-1
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地名は同一地名も大切だがパターンで考えると民族の動きがつかめるのである。
中国山地には珍妙な毛無山が数ヶ所ある。
しかもここから1000キロ離れた青森と岩手にも毛無山(森)が数ヶ所見付かる。
これは地名を必要とした人が同種だったことを意味する。これも重要なことだ。
毛無とは毛人すなはちアイヌが居らないとかんがえればアイヌは近くに住んでいたことだ。
日本の本土には北から西までアイヌが原住民として居った証拠である。
56年のNHKのテレビは古代史を考えるのに多くのヒントをくれた。今まで古代史を書かれた学者にとっては自分たちの学説が次々とくずされ苦難の年だったことだろう。
日本民族はどこから来たか。先づ少数だがチベットから来たと考える外ない。日本と数字の発音が全く同じだったのである。
1,2,3,4をイチ、にー、サン、シーと発音していた。ヒー、フー、ミーではなかったのである。これだけでも大変なことである。
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2009.05.21
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 2-12
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「卑弥呼以って死す」とは自殺を賜ったことである。人質にした上で作戦が成功しなかったから殺したのである。
古事記では、丹波のクガミミノ御笠を殺したと書かれている。しかも「これ人の名ぞ」とわざわざ注意書が付けられている。よくよくの人畜に劣る行為をしたことになる。
このクガミミノ御笠こそは難升米だった。洛陽に逃げ帰れたのは僅か20人で、この中に難升米の名は見当たらなかった。
自殺を賜ったヒントは日本書紀に天皇の妹が自殺したと書かれている。自殺の記事は日本書紀ではこれ以外には出て来ないから、よくよくの事である。
人民に自殺のうわさが伝わった以上日本書紀の作者は無視出来なかったと考えたい。
箸墓の威容がある以上これも黙殺できないので苦心して神話をいくつも登場させたのである。
箸墓は昼は人が作り夜は神がつくったと書かれ、神が夜働いたとあればこれも神話だ。
神とは鬼であり中国の敗残兵のことだった。
昭和56年12月25日 発行 発行者 日留山人さん
参考に---
『楽しい人生』の中の【魏志倭人伝を読む 邪馬臺國はどこだ その6】に、
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/04/_6_f1ad.html
を書きました。
ここに、福原会下山人著の「多紀郷土史話」には、玖賀耳之御笠は海外から侵入してきた凶賊で日子坐王に攻められて逃げ回って最後に殺されたことを紹介しています。高句麗人であったことも書かれています。
【魏志倭人伝 邪馬臺國はどこだ】
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/03/__1.html
から、飛ばしながら、その6まで書いています。
【魏志倭人伝を読む】
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page450.html
にまとめています。こちらも内容は、同じものです。
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2009.05.20
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 2-11
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伊都国に郡使がくると、人民は津に迎えたのである。伊勢大神宮の南に天津と勅使の地名まで残っていたことが何よりの証拠だ。
この近くに物部町がある。神武天皇東征の時の敵はニギハヤヒであった。この人は天照大神しか持って居る筈がない天ツ瑞を手に入れて、ナガスネヒコに自分が天ツ神の後継者だと欺したのである。
この神武天皇の敵の子孫が物部である。物部の子孫が伊勢大神宮を斎き祀っていた崇神天皇の妹を人質にして城の中に幽閉した。物部町の本城奥の地名から本城の位置まで判明した。
最近丹波の古図を手に入れた。これにはこの地点に古城の地名が示されていたのである。古図に古城と書かれるには、魏が占拠した時代の城と考えてよいだろう。
丹後半島には海岸に前方後円墓がある。又西暦20年代の貨泉まで出土する。ニギハヤヒも難升米も雲南系日本人の敵の中国人でよかった。クガモモノ御笠は高句麗人に化けて卑弥呼に近づいたのである。
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2009.05.18
崇神天皇の義弟の久米国王が丹波征伐をして、人畜に劣る卑劣な行為をしたクガミミノ御笠を殺したと古事記に書かれた。
不比等の日本書紀はこのことはゴマ化して書く外なかった。不比等は中国人だったのだ。
国土地理院には丹波に伊勢大神宮が載せてあった。又記では崇神天皇の妹が伊勢大神宮を斎き祀ったと書かれていた。卑弥呼とは日の巫女すなはち天照大神を奉斎する人で良かった。巫女が千人あって当然だったのである。
丹波が伊都国で、伊都とは伊勢大神宮の都のことだった。末蘆国から東南に五百里(220粁)は正確なことがむしろ疑問な位だ。
倭人伝では郡使の常駐する所と書かれている。これでは帯方郡と同じ中国の植民地が日本の一角にあったことになる。
なぜ中国が日本を侵略し九州を占領し、全国に前方後円墓がある所、銅鏡が出土する所に中国の基地があったと云ってはいけないのだろうか。
敵の水軍の本拠地は舞鶴湾だった。ここの竜宮の地名が港があった所である。
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2009.05.16
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 2-9
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吉備上道国の西隣りが吉備下道国でここに吉備の巨大古墳群がある。銅鏡が伴って出土したことから、古墳の主は漢の将軍である。
末蘆国から日野川と高梁川を南に降ればよいので、投馬国と書かれたのは玉の国のことだった。ここに玉島があり、玉の海がある。
ここの漢軍を征伐して守備についたのは大吉備津彦の弟の若建吉備津彦である。この北の久米国(狗奴国)を守ったのは、崇神天皇の義弟の日下坐王だった。
邪馬台国7万戸、投馬国5万戸だけでも雲南系の日本人が200万人を超える。
神武東征の時安芸で7年、吉備で8年の間に雲南人を呼集めた証拠が得られたのである。
神武天皇が全国に雲南人を入植させたので崇神天皇の命令で大量の屯田兵が伯耆、美作、吉備、安芸に終結出来たのである。
藤原は式内社を制定して天皇一族を祀った神社は除外した。更に雲南人が多い上記4ヶ国には、式内社を81社しか認めずこの周辺の例えば出雲には187社の氏子には幣帛料の名目で軍資金を出したのである。
一言 ---このようなことを云った人は、おられるでしょうか?
次のことを確かめてください。
式内社と祭神 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html 未完成です。
式内社が少ないところが、神武天皇が雲南人を入植させたところです。反対に多いところは、漢人が征服したところです。
神武天皇を祭った神社 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page311.html
熊本、広島、岡山、福岡をご覧ください。神武東征の折、雲南人が活躍した地域です。
此れだけでも、立派な論文ですが、一切、認められませんでした。この本は自費出版は当然ですが、全国の図書館や大学に送ったと書いてありましたが、誰一人として、賛成する人もなく、反論する人もなく、無視をされたそうです。 どうしてだったのでしょう。こんな馬鹿なという人がおられても良かったと思いますが、反論はできなかったと思います。
【倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史】は、112ページの冊子です。私も真似をして本を書きましたが、100万円ほどかかりました。要らぬお世話かもしれませんが、日留山人さんは、この送料だけで、幾ら使われたのでしょう。ご存命中にお会いしてお聞きしたかったことの一つです。
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2009.05.15
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 2-8
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邪馬台国は末蘆国の南で陸行1ヶ月、水行10日の地点である。米子から伯耆街道を1ヶ月進んだ所が美作である。ここから吉井川を10日で降れば旧西大寺市の古都村に達するここが邪馬台国すなはち吉備上道国の都があった所である。
吉備上道国には魏の襲来に備えて大吉備津彦が将軍として守っていた。この姉が古事記で、夜麻登登母母曽姫と書かれている。
この人こそは邪馬台国の女王でよかった。
しかも岡山市の岡山神社の祭神は、この女王だったのである。
古代の皇族は等には出身国の名前に冠せられている。従って邪馬台国は、元来夜麻登(ヤマト)と書かれていたことになる。
狗奴国とは美作の久米国のことで、現在は久米郡久米町が中心である。ここの旧名は大倭村で、この地名を倭人伝に登場する。
魏の使者は日本軍の軍備を偵察するために沢山の贈物をよこした。しかし日本側は狗奴国を秘密にした。
神武東征の久米のつわものはここ出身だ。
昭和56年12月25日 発行 発行者 日留山人さん
一言、 邪馬台国の説明が、あまりにも簡単で信じられないと思われるでしょう。この通りだと思います。この後に続く歴史が、すべて説明がつきます。
美作に、難読地名がおおいこと、しかも、「神」という字が付く。近畿地方に負けないほどの古墳が多いこと。その中でも特異的に多いのが、陶棺です。竜王山が11もあります。
地図で眺めるだけで確かめることができます。
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2009.05.14
魏志倭人伝は、旅行記ではなくて、中国の正史の一部である。従って、奴国の次に書かれた不弥国も当然末蘆国が起点で、東に百里でなければ不合理である。
この地点は倉吉平野でここに高千穂の地名が現存している。ここが天孫降臨以降の政府機関があった所である。
古事記では景行天皇の時に始めて大和に屯倉を置いたと書かれ、大和はこれまで前進基地に過ぎなかった。
不弥国の不弥とは漢和辞典では政治がゆきわたらないことと書かれている。陳寿はここに政府機関があったことを知っていて、この様な悪らつな国名をつけたのである。
倭人伝で壱岐のことを一大国と書かれていたのに、万人がこれを間違いとして寛容の美徳を発揮している。
方三百里しかない国が一大国だと、ひやかして書かかれているのが何故分からないのだろう。先づこれに気付けば魏志倭人伝の編集方針が解けた筈である。倭人伝は中国が大敗したことをかくすための記録として読むべきだ。
昭和56年12月25日 発行 発行者 日留山人さん
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2009.05.13
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 2-6
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西暦57年に神武天皇は漢の皇帝に使者を出した。この時にもらったのが「漢委奴国王」と書かれた金印である。漢の皇帝は金印を渡せば、毎年朝貢してくると、懐柔手段に出たのである。
雲南系日本人はもともと漢の武帝に侵略されて日本に新天地を求めて渡来したのだ。神武天皇は国内統一が一段落したので、対等の立場で使者をだしたのに、金印には漢の委任統治国、奴国王と書かれていた。
使者はこの金印を埋めてしまった。
この金印にも奴国が登場する。従って倭人伝に書かれる200年前に、すでに奴国があったことを教えてくれた。
邪馬台国九州説の場合には、奴国は志賀島でなければ不合理ではないだろうか。
奴国とは古事記に出てくる根国とすれば古代史には謎は残らないのである。ただ学者だけがお困りになるだけだ。
金印をもらいながら毎年朝貢しなかったので107年に漢は瀬戸内海沿岸に侵攻した。
昭和56年12月25日 発行 発行者 日留山人さん
私からの一言-----このペーシに書いてあることは、初めて聞かれたことだと思います。別に、そんな馬鹿なと読み過ごされても良いですが、試しに、一つずつ確かめられたら良いと思います。京大の先生が書いておられるとか、東大の先生が云っておられるというのは、駄目です。ご自分で確かめられることです。
後漢書東夷伝に西暦57年に倭奴國が使いを出したと書いてあります。
〔建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見〕
この冊子の発行者 日留山人氏は、倭奴國の首長が神武天皇だと書いておられます。
神武天皇は、昭和15年が皇紀2600年と言いますから、2680年ほど間の人だと云ったら、お話になりません。神武天皇は、紀元前50年頃に、神武東征に出かけ、西暦元年1月1日に、奈良にて、戦争を終結させて、柏原(御所市)にて宮を構えました。いや、それは違う、橿原市の橿原神宮の所だと云われる方もありますが、間違いでしょう。
神武東征のことを書くつもりになっています。神武東征は、日本書紀に書かれてあることが正しいと思っておられる方が、ほとんどですが、古事記の方が正しくて、日本書紀に書かれてあることのどこが正しくないのか、調べながら、文章を書いています。手前味噌の観がありますが、これから調べながら、考えながら、神武東征は、どのようなものであったのかを解明するつもりになっています。
【No565 神武東征(14) 豊国の宇佐(15) 日本書紀・諱 】です。書き始めてから、14回目です。
厚かましいですが、ついでに、私の本の宣伝をしておきます。本のはじめから、少し読むことができます。
西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日 (シンプーブックス)
奴国のことは、この前の 古事放談 2-5 に書いてあります。
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2009.05.12
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 2-5
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さて壱岐から海を1000里(440粁)渡ったとあれば、日本海随一の良港日向浦が登場する。この地名は境港大橋の真下に、国土地理院の地図に記載されている。ここは別稿で述べたが神武天皇が東征に出発した港だ。
日向浦は現在は境港市の一部である。境港市は古代には夜見島と呼ばれ現在の様に夜見浜で結ばれたのは後世である。
島根半島が松江国で末蘆国と陳寿が書いたまでである。
古事記に根ノ国が登場する。この根ノ国の島の部分が島根である。従って陸の部分が古事記では根ノ国堅州と書かれ、ここにスサノオ命が本拠地を置いていたのである。
根ノ国を倭人伝は奴国とかいたのである。松江国(末蘆国)の東南100里は正確であった。米子の子の字は根のことだろう。
ここに2万渡ったことは、2,3万人の雲南人が居ったことになる。
ここは北京、天津と同じ様に倭(大国村—西伯町)と天津村(西伯町)がある。これも地名のパターンと呼ぶべきだろう。
昭和56年12月25日 発行 発行者 日留山人さん
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2009.05.11
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 2-4
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魏志倭人伝は中国人向に書かれたので、日本人に読ませるためではない。対馬の次に一大国と書かれている。中国人がこれを壱岐と理解してくれるだろうか。
倭国の中の一大国が方三百里しかなくて、韓は方四千里と比較して考えることだろう。
九州には朝鮮から文化等が伝わったと教えられてきた。この時の朝鮮とは南鮮のことだと許り考えていた。
しかし魏の都からは南鮮の沿岸を通ったのに過ぎなかった。しかもこれは魏の使者に限ったことではなかった。南鮮は紀元前100年から、315年に高句麗が独立するまで、一度も中国の植民地になったことはなかった。
北鮮の中国植民地と九州とが酷似していたのである。九州は中国の植民地だったのだ。
洛陽から一度朝鮮に文化が伝わり、ここで消化されて九州に伝わったのであればよい。
香港やシンガポール経由で和蘭の文明が日本に伝わったのなら、これは少く共中国経由と云えないだろう。
朝鮮経由位人を惑わせる言葉はないだろう。
昭和56年12月25日 発行 発行者 日留山人さん
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2009.05.09
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談2-3
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倭人伝には日本書紀だけでなくて高句麗等の北鮮の国々と南鮮の韓が同じ東夷伝に書かれている。この北鮮と南鮮の里の単位が同じでは不都合を生じる。
陳寿は衆を惑わすために、韓と壱岐までに韓の単位すなはち1里を80米を採用している。
これ以外は魏の本国の単位すなはち1里は440米を採用した。更に帯方郡から邪馬台国まで1万2千里は韓の単位で従って960粁でよかったのである。
九州は魏の植民地だった。従って九州に寄港したことは当然である。寄港すればここは魏の基地だと書かざるを得ない。
しかし、魏は大敗して九州は景行天皇によって征伐され失った。従って記録に残すことが出来なかったのである。
神武天皇から崇神天皇まで何も事象が書いてなかったから、この間は天皇はなかったと日本の学者は発言しておられる。何も書いてない時代こそ大事件があったと考えるべきだ。書きたくても書けないことが多いのである。
一言---
238年ころを中心に魏鏡の資料を記します。
青龍三年(235) 方格規矩神獣鏡 大阪府高槻市安満宮山古墳
青龍三年 方格規矩神獣鏡 京都府太田南5号墳
景初三年(239) 画文帯神獣鏡 大阪府和泉市黄金塚の中央棺
景初三年(239) 画文帯神獣鏡 京都府太田南5号墳
景初四年(239) 斜縁盤龍鏡 京都府福知山市広峰15号墳
正(?)始元年 三角縁神獣鏡 群馬県高崎市柴崎古墳
正始元年(240) 三角縁神獣鏡 山口県御家老屋敷古墳
正(?)始元年 三角縁神獣鏡 兵庫県豊岡市森尾古墳
広峰15号墳から発掘された鏡には、「景初四年五月丙午之日」と書かれていたから、話がややこしくなりますが、丹後にあるということは、この辺りに議の人が住んでいたと見るべきです。
〔九州は魏の植民地だった〕と書いてありますが、はじめのころは、そうだったのでしょうか。 赤壁の戦い(208)に負けた曹操は、216年に魏王を宣言しています。卑弥呼が中国に使者を派遣されたとしているのが、239年ころとしますと、曹操の時代ではありません。この頃は、九州は呉の国の人がいたのではと思っています・
それにしても、このページは上手く書けていますね。主張に無理がないのが素晴らしいです。
昭和56年12月25日 発行 発行者 日留山人さん
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2009.05.08
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 2-2
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古代の航海を現代人の感覚で考えるから謎が生じるのである。砂漠を西域まで旅行するにも大洋を航海するにも、最も大切なことは方向感覚である。
魏志倭人伝を書いた陳寿が方角や距離が間違っていると、万人が述べて居る。陳寿が方角や里程を間違うことは何を根拠にしたのだろうか。
壱岐から九州には黒潮を考えれば、博多湾に先づ来ることが常識ではないか。末蘆国を松浦湾、伊都国を糸島(古代には半島ではなかった)に想定した人達は地形や冬の猛烈な風浪を考慮に入れられたのだろうか。
陳寿は狗邪韓国から対馬、対馬から一大国間には方角が書かれていないのに、壱岐から次コースにはこの場合こそ方角が必要なのに、記入されていないことに注意を払われたのだろうか。
卑弥呼は衆を惑わすと書いたが、倭人伝は敗戦記録だから、中国人を陳寿は惑わす必要があったのである。
昭和56年12月25日 発行 発行者 日留山人さん
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2009.05.07
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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 2-1
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魏志倭人伝は先づ大局から眺めてみることだ。ここに14万戸すなはち少く共200万人の風俗習慣が海南島人と同じだと書かれていたのである。
日本人は中国人とも韓国人とも異なると、これを中国人が発表したのである。日本人は前漢の武帝に圧迫されて雲南(広域)から河を降って来たと考えてよい。
河を降れる船は木造ではない。ヤク牛の皮で作った底の平な船である。これならゴムボートと同じで、季節風を利用すれば東シナ海を一両日で九州に渡れる。
次に魏との航海は後世の様な危険なものではなかった。これは一般の中国人が日本各地にも来られた証拠である。
雲南から渡来した上記の200万を超える日本人と中国人の間に平和共存や混血があり得ただろうか。
雲南人も中国人も海の交通を得意にした人達である。海を考える時九州から日本海を津軽までの距離は、洛陽から九州までの航路の半分に過ぎないのである。
私の一言----田村誠一氏が書かれた本を皆さんに知って頂こうと思って紹介してきました。
本当は、コピーして、そのまま、掲載すれば良いのですが、いっぱいミスを冒しながら、コンピューターにもう一度、打ち直して紹介しています。
殆どの方は、著作権を楯にとって、自分の書いたものに価値があるように主張しておられます。これを歴史の世界で認めますと、歴史は謎の世界になるだけです。
もし、田村氏の考え方が正しいと思われる方は、田村氏の文章を自分の考えとして利用して貰って、新しい日本の歴史の考え方をして頂こうと思って、頑張っています。
もし、田村氏の考え方が、正しいと思われましたら、このブログの読者は、どんどん増えるはずですが、殆ど増えません。
それは、正しくないか、田村氏の考えられたことが、日本史を考えるときの根本であるため、どの方の日本史も覆すようなことになってしまいます。
田村氏が書かれた本は、いっぱいですが、はじめから読んで頂きませんと、理解が困難です。なぜかといいますと、全く、歴史を考えたことのない田村氏が、考えたことが余りにも、それまでの歴史と違うので、薄い冊子を非売品として発行しておられます。
その時の田村氏の生き生きとした姿が浮かびあがってきます。 振り返って、本を読んでみますと、間違っていると思われる所を含みながら、田村氏は心をおさえることができなかつたことが読み取れます。もう一度、はじめから読んで頂きますと分かります。
第一話からはじめて、第四話まで掲載しましたが、第十二話に飛ばしました。
飛ばした方が、皆さんに理解して頂けると思ったからです。
第十二話のタイトルは「河を忘れた古代史」です。
此れまで、32回にわたって、紹介してきましたが、一度も河のことは出てきません。やっと、河のことを書いてあります。その証拠に、田村氏は、古事放談 1-32から、古事放談 2-1 に変更されました。
日本の歴史にしても、中国の歴史にしても、人間は川を遡ったり、川を下ったりしながら、生活をしてきました。
その証拠に、日本地図を拡げますと、川に沿って大きな道が発達しています。その道に沿って、明治時代になって、鉄道が敷かれました。最近は、この歴史を破壊するように、トンネルが掘られ、橋が掛けられ、道路も鉄道も建設されました。
そのお陰で、日本の経済は世界の中でも、優秀な国になりました。
このページは、田村氏が、歴史を完成させられた本だと思っています。作者は田村誠一ではなく、「日留山人」と変えて、しかも、歴史を学ぶ上で、大切なことは、河なのだと訴えながら、 サブタイトルは、「古事放談」というタイトルを付けておられます。
上手く書けませんので、又、長くなってまいました。もう一度、今回のページを読んで頂ければ嬉しいです。
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2009.05.05
邪馬台国は九州だとの説が99%以上である。更に、多数決の論理で九州説を支持する人が現れる。
この人達が古代史を謎にしたのである。更に学閥までが言論の自由を圧迫している。
素人がなにを云っても新聞社は大学教授にお伺いをたて、自らは何の調査もしないで報道すればよい、云はば密室構造である。
九州に照葉樹林があったと誰もおっしゃるが何が根拠なのだろうか。人工破壊で照葉樹林が無くなったのなら、火山とは一帯何だったのか。最大の自然破壊である。
倭人伝に2,300万人居った雲南系日本人は何処に行ったのだろうか。
景行天皇の九州征伐はなぜ考慮にいれないで突然ある天皇以降の記述はホントだと採用されるのか。
古墳の発掘が進む程今までの謎は解けないで増すことこそ謎である。
古墳の年代の決め方の編年表の基本は戦前で、放射性炭素の構成がなされていないのが謎の謎の由縁である。
一言----このページの意味はおわかりですか? 少々、日留山人さん、ご立腹の様子で、言いたいことが多すぎて、この狭いスペースに閉じ込め過ぎた感じかあります。
一生懸命、勉強をされてこられましたが、勉強するほどに、プロが考えられる日本史と自分が進もうとされる歴史とのかい離に、腹を立てておられるようです。
このシリーズは、4号までは、掲載しました。5号から11号がありますが、敢えて飛ばしまして、倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史を掲載しています。これまで、紹介してきました中には、九州の照葉樹林のことはありませんでした。
〔倭人伝に2,300万人居った雲南系日本人は何処に行ったのだろうか〕と書いておられますが、倭人伝には、雲南系日本人のことは書いてありません。しかし、このように考えませんと、古代史は解けないと思います。
舒明天皇の御代に、遣唐使が派遣されました。第一回の時に、大仁薬師恵日という人が派遣されたことになっています。この人は、大仁と書いてありますから、十二冠位の三番目の高官です。薬師と書いてありますから、医学のことを勉強に行ったと書いてある資料がありました。630年のことです。この資料を造られた方は、間違っておられるのではないかと考えています。
東北に、いっぱい薬師を祭る神社があります。例を挙げますと、
陸奥(陸中) 胆沢 久須志神社「少名彦名命」胆沢郡胆沢町南都田字化粧坂16番地
陸奥(陸前) 牡鹿 久須師神社「少彦名命」牡鹿郡女川町大字飯子浜字飯子
祭神は、「少彦名命」です。この神の表記は、日本書紀に書かれている神の名前です。
同じ神と思われものが、古事記に書かれています。「少名毘古那神」と書かれています。
同じではないかと思われた方は、歴史を正しく理解できないと思います。祭神に、「少彦名命」と書いてある神社の集落は、一応、いつの日か判りませんが、日本書紀を作った人たちに支配権を奪われた可能性があります。
古事記は、712年の完成です。この古事記をみて、日本書紀が作られ、720年に完成しました。
実は日本書紀は、712年前に完成したと云われる方もおられます。「少彦名命」「少名毘古那神」と並べてみますと、確かに同じですね。どちらかが、真似をして、漢字だけを変えたからです。真相を知りたい方は、記紀に登場する地名と神や人の名前を全部書き出して調べれば、すぐに分かります。同じものは、殆どないという不思議なことに気がつかれるでしょう。それも、日本書紀がはじめにあって、それを手本に真似をして古事記をつくることは、不可能なことを発見されるでしょう。
「少名毘古那神」は、「スクナビコナノカミ」と読んでいたと推察できます。「少彦名命」のほうは、「スコナヒコナ」と呼んでいたと推察できます。
「ビ」と「ヒ」では、随分違います。なにが違うのか、ご自分で調べてください。一年では完成しないと思います。ということは、濁音を使った人と清音を使った人の違いは読み取る必要があります。
久須志神社では、祭神が少彦名命だけではなく、大国主神も祭られています。
久須志神社では、少彦名命と大国主神が祭られていますが、この二人が祭られている神社には、国津神社があります。九頭神社なども同じ系統の人たちが祭っていると思います。
その地を開拓して住んだ人たちは、大国主神が紀元前に、雲南地方から連れて来たと考えませんと、全国に分布しません。
殆ど、岡山県から、北、東に分布します。
このように順番考えていきますと、確かに、大仁薬師恵日は薬師であったのは事実でしようが、医学のことは、紀元前から、知られていたと解釈しませんと、紀元前は、裸足で走りまわっていた国ということになります。そんな国に、危険を冒してやってくるでしょうか? 中国人は、やってきました。韓国の方に云わせますと、そうではなく、日本にいろいろの知識を伝えたのは、朝鮮人だと云われるでしょう。
日本書紀を読みますと、遣唐使の派遣の合間に、どれだけ挑戦の人がやって来ているか、すぐに分かります。その合間に、遣唐使が派遣されました。渤海国の人たちもやってきました。世界の人が、アフリカを目指して行くでしょうか? 金でも出れば行きます。
630年のことです。この頃に、ワンサと日本へやって来た事実を抜きにしては、歴史を理解できないことになります。
日留山人の怒りは、景行天皇の九州征伐、古墳の発掘と止まりません。古墳の発掘は全国で毎日のように、行われて現地説明会が行われています。その様子は、必ず、「歴史を書き換えるほどの画期的な発掘」だと絶賛されます。
全国で、どれだけ発掘されたか、プロの方でもご存じないでしょう。
そうして、日留山人さんの〔古墳の発掘が進む程今までの謎は解けないで増すことこそ謎である〕の言葉になると思います。
この本の発行は、昭和56年12月25日です。1981年のことです。27年前に書かれた文章です。きっと、発掘がある度に遠くても出かけられたと思います。私も出かけました。
27年経ちますが、日本史の謎は深まるばかりです。
薬師のことは、昨日、次の所に掲載しました。興味がありましたら、覗いてください。
壬申の乱(53) 宮滝離宮(13) 舒明天皇(12)遣唐使(2)
一言で無くなってしまいました。すみません。
昭和56年12月25日 発行 発行者 日留山人さん H21.05.04