2009.11.03

資料38  資料 宗形神社

鎮座地・現住所 鳥取県米子市宗像298番
http://www.jinja.in/single/86069.html

境内説明板によれば
由緒
 ご祭神 田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命 ほか十八神
*三女神は天照大神・素盞嗚命の御子神

例大祭 五月三日
例 祭 十一月三日
歳旦祭 一月一日・大祓祭 七月丗一日・新嘗祭 十一月廿三日

創建年代は不詳であるが、往古宗像氏族が、祖先神である宗像三女神を奉じて九州からこの地に来着し、これを斉祀したのが起源と伝えられている。
平安初期の斉衡三年(八五六)に宗形の神に神階五位上が増叙された旨、文徳実録(日本六国史の一)に所載されている。
醍醐天皇の延長五年(九二七)に勅撰された延喜式神祇の巻に、伯耆国六社(会見郡では胸形神社と大神山神社)の一として、国幣小社に列格されている。
戦国時代には武将の崇敬篤く、尼子晴久は、弘治二年(一五五六)に、宮ノ谷の山頂に鎮座していた社を現在地に遷して新しく社殿を建立し、社領三百石を寄進した。吉川元春(毛利元就の二男)は、更に社領一二〇石を加増寄進すると共に、太刀及び兜(典型的桃形の逸品で社宝として所蔵)を奉納した。中村伯耆守は、社殿修造用材百本を寄進した。
蕃政の世には、歴代の因伯藩主の崇敬篤く、当社を蕃の祈願所に指定し、制礼の建立や池田家々紋を幕・提灯に使用方を裁許し、池田慶徳は自ら社参祈願を行った。
社名は、宗形(文徳実録)、胸形(延喜式)、宗像(明治初年まで)、宗形(明治四年以降)と変遷を重ねて現在に至る。
一、御神徳
延喜式内郷社宗形神社は、平安の古より国史、文献に名を連ね、千数百年の歴史を有する当地方の古社であり、会見郡の鎮守宗像庄の大社として尊崇され、海陸交通・厄除開運の守護神として御神威高く、又虫封じの神としても霊験顕著でその名が高い。
一、神社と古墳
神社を中心として周辺に密集分布する宗像古墳は、県下有数の古墳群であるが、これは当地方が、古くから神社との関り合いの中で生成発展して来たことを物語るものであり、往古の社会・文化探求上で重要遺跡として斯界の注目を集めている。

上の由緒は、何時書かれたものか分かりませんが、次のものは、昭和9年に造られた鳥取県神社誌に書かれた由緒です。

宗形神社   郷社 
 鎮座地 西伯郡成実村大字宗像字向塔  
http://www.jinja.in/single/86069.html

現住所 鳥取県米子市宗像298番
祭神 田心姫命、市杵島姫命、湍津姫命、武甕槌命、日本武命、表筒男命、中筒男命、底筒男命、誉田別命、伊弉諾尊、伊弉冉尊、大日霎尊、素盞鳴尊、大国主命、倉稲魂命、天児屋根命、天太玉命、猿田彦命、鈿女命、阿蘇彦命、保食神、月読命
由緒
 創立年代不詳ならざれども、文徳実録に斉衡三年八月乙亥加伯耆国従五位下宗形神従五位上とあり、又延喜神名式に伯耆国会見郡胸形神社とある旧社にして、古来上下の崇敬殊に篤く、弘治二年尼子晴久社殿を建立し社領三百石を寄進せりと云不、其の後吉川元春右の社領の外に百二十石を増進し、太刀二振り兜一刎を寄進せしが、中村伯耆守一忠当国を領するに及び社領悉く没収せらる、旧藩主池田慶徳幕提灯を寄進せられ、慶応三年には親しく参拝せらる、旧藩時代には社殿の修理営繕に際しては会見郡内の高割を以てなせり、明治初年郷社に列せられ、同四十年二月三日神饌幣帛料供進神社に指定世良る古昔鎮座の地は現社地より北三丁余の宮の谷といふ所にして本宮と呼ぶ、本殿ありしと伝ふる山頂の地には数多の小石あり、中腹に清ありてごふ井戸といひ断水することなし、弘治二年四月三日成実村大字日原字中尾山鎮座無格社住吉神社(祭神 表筒男命、中筒男命、底筒男命 )同村大字石井字要害鎮座無格社石井神社(祭神 誉田別命 )  同村大字奥谷字谷奥山鎮座無格社熊野神社(祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、大日霎尊)  同村大字美吉奥屋敷鎮座無格社上飯生神社(祭神 素盞鳴尊)  同村大字同字屋敷前田鎮座下飯生神社(祭神 大国主命)  同村大字長田字笠頭鎮座無格社陽田神社(祭神 素盞鳴尊)の六社を合併す。
 古昔当社の祭神今の大字長田に(宗像と隣接せる所にして当時この辺まで入海なりしと云ふ)海路御来着宗像の地に鎮座せられしと云ひ、御着船の地を今に船塚と称へ御舟は石に化したりと云伝ふ。

例祭日  4月15日
建造物 本殿、幣殿、拝殿、神楽殿、祭器庫、随神門
境内坪数 1862坪
氏子戸数 230戸

どちらに書いてあることが正しいのかは、私には、調べようがありませんが、気の付いたことを記します。
①境内説明板ですから、仕方がありませんが、「ほか十八神」と書いてあります。一神 数に 相違があります。

②どうして、「ほか十八神」として、まとめられたのでしょう。鳥取県神社誌の方を見ますと、少しはその理由が分かります。「ほか十八神」の神がどこから来られたかは分かりますから、これを糸口にして、調べるとその経緯が分かるかもしれません。
 何か複雑なことがあった証拠です。

③神社の方は、*三女神は天照大神・素盞嗚命の御子神 と書いておられますが、これは間違っています。古事記では、三人は、素盞嗚命の子供となっています。

④一番重大なことは、「創建年代は不詳であるが、往古宗像氏族が、祖先神である宗像三女神を奉じて九州からこの地に来着し、これを斉祀したのが起源と伝えられている」
と境内の説明には書いてあります。
 この説明によれば、九州からここへ遷されたものであると書いてあります。

私は逆で、鳥取県米子市宗像から、九州の宗像に遷されたと思っています。そのことは、この資料を見る前に、随分前に書いています。
【胸形神社と宗形神社】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1419.html
 この記事は、九州のことを調べていましたら、宗像神社に突き当り、調べていたら、宗形神社となりました。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1413.html に関連の記事を治めています。

これらをもとに、次の記事を書いています。似たようなものですが、よろしかったら、読んでください。
No 229 胸形神社と宗形神社 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-26
No 230 米子の宗形神社は古い神社
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-27

今回は、由緒と云うものは、当てにならないと云う所を見て頂く積りで書きました。現在は、米子の宗形神社は、九州の宗像神社を遷座したものだと思っておられますが、昭和9年のときは、そのようなことは 書いてありませんから、僅か、50年でこのように変るのです。
 どちらにせよ、現地に行かれることが大切です。九州と米子と両方です。全国に6000もあると云いますから、全部しらべますと、面白いことが発見出来るとおもいます。

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2009.09.30

資料37  資料 高鴨神社 考察(3)

『延喜式』神名帳に書かれてある[阿治須岐託彦根命神社四座]とは、どの神社のことか。
近くに、鴨都波神社・葛木御歳神社・葛城一言主神社があり、祀られている祭神が、お互いに関係がありそうですし、高鴨神社は上鴨、御歳神社は中鴨、鴨都波神社は下鴨社と言われていると書かれていますから、9月23日に、見に行ってきました。 全ての神社は、これで、3回目の参拝となります。
 御所の市街から、国道24号線を南下しますと、左側に、直ぐに、鴨都波神社としばらくして、葛木御歳神社があります。
 少し南下しますと、花の寺とも呼ばれる船宿寺があります。ここより24号線に戻りますと、峠というほどの峠ではありませんが、風の森峠と言い、小さな祠が祭られていました。ここより先は、吉野への道になります。
 御所の市街から、国道24号線の右側には、葛城山・金剛山がそびえています。その麓に、葛城一言主神社と高鴨神社が鎮座しています。
 吉野へ抜ける道ですから、軍事的に重要だった地域だったと思われます。
 
9月24日の資料36  資料 高鴨神社 考察(2)において、最後に、〔[阿治須岐託彦根命神社四座]と、四座あったことが分かります。この四座とは、どういうことかを次回に書きます〕と書きました。簡単にわるると思ってこの様に書きました。
 
阿治須岐託彦根命神社四座とは、高鴨神社、鴨都波神社・葛木御歳神社・葛城一言主神社の四座のことだと思っていたからです。実際に行ってきましたら、初めに書いたような立地の所に、各神社が鎮座していることが判りました。
 この4社は、全て、式内社です。 ただ、それだけではありません。名神大社とされています。
 高鴨神社は、清和天皇貞観元(859)年正月には、大和の名社である大神神社や大和大国魂神社とならんで従二位の御神階にあった本社の御祭神もともに従一位に叙せられましたが、それほどの由緒をもつ古社でありますと由緒に書かれています。
 葛木御歳神社の由緒を見ますと、仁寿2年(852年)には、当時大和国で最高位となる正二位の神階を贈られましたとあり、 観元年(859)正月27日甲申 従一位 『三代實録』とあり、同じ年に、同じ神階が与えられています。

神階とは、朝廷が各神社に与えた位と言うことになっていますが、よく判っていません。
 私は、藤原氏が、与えたのではないかと推理しています。では、どうして、それを解明するのかと言いますと、容易ではありません。資料は次の所に掲載されています。
 
神社史料集成(神社資料データベース)
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/jinjaindex.html

あんなこと、こんなことを眺めていますと、阿治須岐託彦根命神社四座と書かれていた四座とは、少なくとも、高鴨神社、鴨都波神社・葛木御歳神社・葛城一言主神社の4社ではなさそうです。

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2009.09.24

資料36  資料 高鴨神社 考察(2)

前回は、高鴨神社の名前が出て来るのに、ようようでした。
 では、神社の資料を眺めてみます。初めの部分だけです。
 高鴨神社のホームページhttp://www5.kcn.ne.jp/~takakamo/ に拠れば、
主祭神 
阿治須岐高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)(迦毛之(かもの)大御神(おおみかみ))     
事代主命(ことしろぬしのみこと)  日本書紀表記---事代主神、古事記表記――八重事代主神
阿治須岐速雄命(あじすきはやおのみこと) 
古事記表記-- 阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神 
日本書紀表記---味耜高彦根神’
下照姫命(したてるひめのみこと)・天稚彦命(あめわかひこのみこと) 
古事記表記---下照比売  天若日子 
 当神社は全国鴨(加茂)社の総本宮で 弥生中期前より祭祀を行う日本最古の神社の一つです。
 主祭神の阿治須岐高日子根命は亦の御名を迦毛之大御神と申され この大御神と名のつく神様は天照大御神・伊邪那岐大御神と三神しかおられず 死した神々をも甦えらせる事ができる御神力の強き神様であります。

 ここより、私の疑問を書きます。
主祭神は、阿治須岐高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)(迦毛之(かもの)大御神(おおみかみ)と書いてありますが、その下にも、
事代主命(ことしろぬしのみこと)
阿治須岐速雄命(あじすきはやおのみこと)
下照姫命(したてるひめのみこと)・天稚彦命(あめわかひこのみこと)
と4人の神さんの名前が書いてあります。

初めに書いてある阿治須岐高日子根命が主神で、他の4人の、①事代主命、②阿治須岐速雄命、③下照姫命、④天稚彦命の様にも見えますが、阿治須岐高日子根命と阿治須岐速雄命は、「阿治須岐」の部分は、同じですから、きっと、同じ人なのでしょう。

 この由緒を書かれた人は、事代主命と書いておられますが、『続日本後紀』巻四承和二年(八三五)十月戊子《十七》には書いてありますが、日本書紀にも見ることはできません。

では、上から順に検討しますと、阿治須岐高日子根命は、六国史と古事記では見当たりません。
次の事代主命は、『続日本後紀』だけです。
次の下照姫命は、日本書紀に見られますが、古事記にはありません。
次の天稚彦命は、日本書紀に見られますが、古事記にはありません。
 
 弥生中期前より祭祀を行う日本最古の神社が、ずっと、正しく伝えているにしては、変な話です。由緒を書かれた人が、日本書紀を参考にされたのであれば、日本書紀表記に統一されなければなりません。
②阿治須岐速雄命の名前が、創建依頼伝えられているとしたら、その頃に漢字があったのでしょうか。漢字は無いが口伝されていたとしたら、阿治須岐速雄命が阿治須岐高日子根命であっても、不思議でありません。

 是は、新しい時代になって、由緒書きを書かれた時に、下照姫命も下照比売もどちらでも同じだ思われたのでしょう。

神社のホームページでは、次のようなことも書いてあります。
〔『延喜式』神名帳には「高鴨阿治須岐詫彦根命(たかかもあじすきたかひこねのみこと)神社」とみえ、月次・相嘗・新嘗の祭には官幣に預かる名神大社で、最高の社格をもつ神社でありました。清和天皇貞観元(859)年正月には、大和の名社である大神神社や大和大国魂神社とならんで従二位の御神階にあった本社の御祭神もともに従一位に叙せられましたが、それほどの由緒をもつ古社であります。〕

と謂うことは、「式内社」ですから、日本書紀に書かれてある祭神と一致することが多いです。
ただ、『延喜式』神名帳には高鴨阿治須岐詫彦根命神社] 現在ある神社は、[高鴨神社]ですから、別の神社かもしれません。
元の『延喜式』神名帳を見ていませんから、なんとも言えませんが、
[阿治須岐託彦根命神社四座]と、四座あったことが分かります。

 この四座とは、どういうことかを次回に書きます。

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2009.09.23

資料35  資料 高鴨神社 考察

どうして、高鴨神社のことを調べる気になったかと云いますと、古事記を読んでいましたら、阿遲志貴高日子根神の名前が登場しました。どのようにして登場したかを書きますと、天孫降臨の時に、アマテラスが大国主神に国を明け渡すように命じる時に、使者を差し向けました。その時の使者の一人である天若日子が8年も帰ってきませんので、問いあわせの使者雉の鳴女を派遣したら、鳴女を殺してしまいました。その時に使った矢が、高天原のところに飛んで来たので、投げ返しましたら、矢は天若日子のところに飛んで帰り、天若日子に当たって、死んでしまいました。この事実で、天若日子は、アマテラス之味方の者でないことが判りました。天若日子は、使者として大国主神の所へ行ったのですが、大国主神の子供の下照比売と結婚しました。天若日子のお葬式には、天若日子の父親や下照比売の兄の阿遲志貴高日子根神が参列しましたが、阿遲志貴高日子根神が天若日子そっくりだったので、皆が天若日子は生きていてよかったと喜びました。死人と間違われた
阿遲志貴高日子根神は、怒って喪屋を潰したというお話です。
 別にどうと云うことはありませんが、阿遲志貴高日子根神とはどのような人かなとおもって調べたら、阿遲志貴高日子根神が生まれた時の様子が、古事記に書かれていました。
大国主神から生まれた神の紹介をしてある所に、「多紀理毘売」との間に生まれた子供として、阿遲鉏高日子根神と妹高比売命が生まれたと書いてあります。
 そこに、わざわざ、「この阿遲鉏高日子根神は、今、迦毛大御神と謂うぞ」と書いてあります。なんでもないように思われるかもしれませんが、古事記の出来た712年には、迦毛大御神が通用していたのだと思います。私が知っている大御神は、伊邪那岐大御神と天照大御神だけです。
 そこで、阿遲志貴高日子根神をキーワードにして検索をしましたら、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%82%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%92%E3%82%B3%E3%83%8D」アジシキタカヒコネがヒット、
 「アヂスキタカヒコネ(アヂシキタカヒコネとも)は、日本神話に登場する神。 『古事記』では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神、『出雲国風土記』では阿遅須枳高日子と表記する。また、阿遅鋤高日子根神、味耜高彦根命とも表記される。別名 迦毛大御神(かものおおみかみ)。」と書いてありました。
 これはありがたいですね。良く判ります。
所が次には、「神名の「スキ(シキ)」は鋤のことで、鋤を神格化した農耕神である。『古事記伝』では「アヂ」は「可美(うまし)」と同義語であり、「シキ」はを磯城で石畳のことであるとしている。他に、「シキ」は大和国の磯城(しき)のことであるとする説もある」
この記事を書かれた方は、歴史のプロだと思いますが、こんないい加減なことを書いていいのだろうかと思いました。
日本書紀が正しくて、古事記は正しくないとしますと、こんな文章になります。
古事記が正しくて、日本書紀は気をつけないといけないと考えますと、おかしい所だらけです。
 例えば、先き程書きました「この阿遲鉏高日子根神は、今、迦毛大御神と謂うぞ」では、この阿遲鉏高日子根神ですが、喪屋を壊したときは、阿遲志貴高日子根神です。基は、「志貴」だったのに、「鉏」です。ここの字は、変換できないので、「金+且」と書いておられる方が多いです。「鉏」は「スキ」と読むらしく、「鋤」にりました。「鋤」なら農業に使うので、[神名の「スキ(シキ)」は鋤のことで、鋤を神格化した農耕神である。]と書いておられます。〔鋤を神格化した農耕神である〕とは、どういうことでしょう。

ついでに、おかしい所を記しますと、「大国主命と宗像三女神のタキリビメの間の子。」
と書いてあります。宗像三女神をクリックして調べてください。福岡県の海の中の小島に居た人です。大国主命も、福岡県に居られたのでしょうか。伯耆の国に居られたと思います。そんなに離れていて結婚されたのでしょうか。もし、福岡辺りに住んでいたのであれば、福岡に一杯祀られているはずです。
 まだ、一覧表は完成していませんが、大国主命祀る神社は、現在のところ、鳥取県だけで、139社あります。
【鳥取県神社誌 分析一覧表】
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1401.html

古事記に、阿遲志貴高日子根神と阿遲鉏高日子根神の二つの表記があるということは、
日本書紀の作者が、古事記の阿遲鉏高日子根神に書き換えたと考えるしか、理由が見つかりません。日本書紀と古事記を比べますと、100パーセント近く、地名と神の名前が、難しくて読むことが出来ない漢字に帰られています。

 こうして、次々、WEBをさまよっていましたら、高鴨神社がヒットしました。

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2009.09.22

資料34 高鴨神社 奈良

高鴨神社のホームページより、データーを拝借しました。神社に伝わっている歴史は、歴史家がかいておられるものよりも、正しいことがあります。しかし、逆に間違っていることもあります。近いところでは、明治になってからは、どうしてか、天皇の勢力が強くなりました。天皇が強引にされたのではなく、周りの人間が、そのようにしたのではないかと考えています。一番おおきな変化は、神社と寺院が合体しているところでは、廃止されました。ただ、それだけではありません。祭神を変えたり、新い神を付け加えておきませんと、つぶされる恐れがありますから、祭神が増えたりしています。

今回は、奈良・御所市の高鴨神社のことを書いてみます。これまでに、2度行きましたが、明日にでも、もう一度行ってこようかと思っています。

行きますと又、考えが変わるかもしれませんが・・・・。

まずは、資料を掲載します。


高鴨神社 奈良
奈良県御所市鴨神1110  地図

高鴨神社のホームページhttp://www5.kcn.ne.jp/~takakamo/ に拠れば、

主祭神 
阿治須岐高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)(迦毛之(かもの)大御神(おおみかみ))     

事代主命(ことしろぬしのみこと)  日本書紀表記---事代主神、古事記表記――八重事代主神

阿治須岐速雄命(あじすきはやおのみこと) 
古事記表記-- 阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神 
日本書紀表記---味耜高彦根神’
下照姫命(したてるひめのみこと)・天稚彦命(あめわかひこのみこと) 
古事記表記---下照比売  天若日子 

 当神社は全国鴨(加茂)社の総本宮で 弥生中期前より祭祀を行う日本最古の神社の一つです。
 主祭神の阿治須岐高日子根命は亦の御名を迦毛之大御神と申され この大御神と名のつく神様は天照大御神・伊邪那岐大御神と三神しかおられず 死した神々をも甦えらせる事ができる御神力の強き神様であります。
 それゆえ病気平癒、初宮、大祓い等 甦りに関する信仰が深く また人の歩む道を目覚めさせて下さる神様として全国より篤く御崇敬を受けております。

 「カモ」は「カミ」と同源であり「カモす」という言葉から派生し 「気」が放出しているさまを表しております。
 以下は
 http://www5.kcn.ne.jp/~takakamo/ を参考にしてください。

摂社
東宮 祭 神 
     天照大御神(あまてらすおおみかみ) 
     天兒屋根命(あめのこやねのみこと) 
     住吉大神(すみよしのおおかみ)

西宮  祭神:
      多紀理毘売命(タギリヒメノミコト)(母神)
      塩冶彦命(エンヤヒコノミコト)
      瀧津彦命(タキツヒコノミコト)
末社
祓戸神社 大直日神 神直日神 伊豆能賣神 底津綿津見神
八幡神社 譽田別命
一言主神社 事代主命 
猿田彦神社  猿田彦命
聖神社  大物主命
稲荷神社  宇賀御魂命
金刀比羅神社 大己貴命
八坂神社  素盞嗚命
牛瀧神社  豐岡姫命
市杵嶋姫命神社 市杵嶋姫命
大山咋神社  大山咋神、御歳大神と伝えられる
春日神社  建御雷命
雷神社  火雷命
細井神社 水波能賣命
西佐味神社  高木大神 高龗大神 闇龗神 十二將軍大神
佐味護国神社 護國の英靈

日本書紀表記---事代主神、古事記表記――八重事代主神
などは、私の注釈です。
 なにか気がつくことはありましたか。

私の気がついたことは、明日に書きます。

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2009.08.25

溝咋神社の不思議

由緒は、
延喜式の古社であって、祭神は、五十鈴姫命、玉櫛媛命を主神とし、相殿に三島溝咋耳命、天日方奇日命、速素盞命尊、天児屋根命を祀っている。
日本書紀神武天皇記の本文には、五十鈴媛命は、わが国初代の神武天皇皇后になられたと記されている。また玉櫛媛の父は三島溝咋耳命であって、古代において広くこの地方を統裁しておられた方である。
元来溝というのは水か生命で、農業にとって欠くことの出来ないものである。その溝を構成する杭も大切である。耳とは古代では長を表す、したがって溝咋耳は農業神を意味した。溝咋耳神がこの地方においていかに信仰されたかは、今日立派な松並木をもった馬場先が残っているのからも察せられる。神社に伝わる「暁の御鏡」は天長年間の旱魃の際に祈雨して霊験のあったことを伝えている。現在の社殿は、寛保二年「一七四二」地元出の両替商米屋喜兵衛が達営したものといわれている。
社頭掲示板より
 
 上の由緒には書かれてませんが、別の資料(出所不明となる)によりますと、次のようなものもありました。
「祭神溝咋耳命玉櫛媛命媛蹈鞴五十鈴媛命天日方奇日方命素盞嗚命天児屋根命 由緒第10代崇神天皇のころご祭神のゆかり深き当地に創建された、平安時代延喜式内社、昭和16年府社になる。当社の社殿は室町時代に領主溝咋兵庫介が改築し安土桃山時代に領主長谷川式部少輔が再建、江戸中期に殿村平右衛門石崎喜兵衛が二度目の再建をなし昭和61年信者の寄進によって修復される。
旧上宮
もと五十鈴媛命、溝咋耳命、天日方奇日方命、などが(現在学園町)にまつられていたのを明治42年に現在の社に合祀される」

社伝では、「新屋郷福井の丘に崇神天皇七年九月、饒速日尊の六世の孫・伊香色雄命(いかしこおのみこと)が、崇神天皇の勅命により皇居に奉祭されていた饒速日尊の御魂の憑代(よりしろ)と考えられる神宝、「瑞の宝十種」と「布都主剣」を、天理市石上神官に遷座祭祀した物部氏の祖)によって祀られ、さらに神功皇后が三韓遠征に際して三島県新屋川原で潔禊(みそぎはらえ)を行ない、帰国後、西の川上と東の川上に社を作って、祭神の幸御魂と荒御魂を祀った。それが上河原と西河原の神社である」という。
由緒 「当社は古くは東北五〇〇メートルの溝咋村字宮田に「上の宮」(祭神・媛蹈鞴五十鈴媛命)現社は「下の宮」として、その母・溝咋玉櫛媛が祭祀されていたが、明治四十二年に「上の宮」が「下の宮」に合祀された」とある
もあります。
溝咋神社のどこが、不思議なのかと云いますと、あまり書きたくありません。なぜかと云いますと学門的でないからです。溝咋神社のことを書かれた人のものを読んでいますと、
 此の地に住んでいた三島溝咋耳命は、溝に杭を打って、安威川をコントロールしていた豪族でと書いておられる方がいっぱいです。このようなものは、全く根拠のないものです。本当に安威川のどこかに杭が出てきたのでしょうか。そうなりますと、全国のあちこちで、溝杭という地名があってもおかしくありません。
しかし、私の不思議は、これよりひどいものです。
 
「車で行きますと、どうしても境内にいけないということです」
古代には、車がありませんでしたから、車で行くことができないことは、全く関係ないのですが、この神社は、元々ここになかったのに、無理やりに造られたものだろうと推察しています。
上に書きました由緒によると、五十鈴媛命は神武天皇の皇后であることと、平安時代延喜式内社であること、第10代崇神天皇のころご祭神のゆかり深き当地に創建されたの3つくらいになります。
①崇神天皇5年の頃に、人民の半分ほど死んだと書いてありますから、西暦192年前後の事件と思われます。
古事記によりますと、大物主大神が夢に現れて私を祭れば国は救われる。祭る人は、オオタタネコにさせなさいとのお告げがあったという。オオタタネコを探してきて、祭らしたら、国は平和に収まった。 また、伊迦賀色男命に「天の八十平瓮を作り、天神地神の社を定め奉りたまひき」と書いてあります。
日本書紀でも、「」・・・そこで別に八十万の群神を祀った。よって天社・国つ社・神地・神戸をきめた」と書かれていますから、何処にどのような神社を作ったということは分かりませんが、全国に神社が増えていったとは思われます。

このように考えますと、「新屋郷福井の丘に崇神天皇七年九月、饒速日尊の六世の孫・伊香色雄命(いかしこおのみこと)が、崇神天皇の勅命により皇居に奉祭されていた饒速日尊の御魂の憑代(よりしろ)と考えられる神宝、「瑞の宝十種」と「布都主剣」を、天理市石上神官に遷座祭祀した物部氏の祖)によって祀られ、」と書いてある社殿は、どこにかいてあるのか知りたくなります。事件が起こったのは、崇神天皇5年。崇神天皇七年九月に建てられたのは、どうやら、溝咋神社ではなさそうですが、この話は、一層複雑にさせることになってきます。この神社は、茨木市の新屋坐天照御魂神社らしいですが。
 
長くなりましたので、もう少し書きます。

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2009.08.16

上野神社 ・三島神社の不思議

鎮座地は、 http://www.jinja.in/single/86839.html です。
現住所は 鳥取県西伯郡伯耆町大殿1465番
 住所が書き換えられる前は、 西伯郡幡郷村大字大殿字宮畑 
 
 鳥取神社誌に記るされてあるデーターは、
祭神 溝咋姫命、大山祇命、天照大日孁尊、素盞鳴尊

由緒 創立年月不詳、往古より郷社八幡社摂社にして上野大明神三嶋大明神を称せしを明治元年神社改正の際今の社号に改めらる天照大日孁尊、素盞鳴尊は境内末社なりしを此の時合祀す。

例祭日 10月11日
建造物 本殿、弊殿、拝殿、神楽殿
境内坪数  348坪
崇敬者戸数 77戸 

この神社誌には、神社の境内の広さと、 崇敬者戸数が書かれています。神社によりますと、氏子戸数と書かれた神社もあります。 氏子はご存知ですか。この神社の場合、 祭神が、氏神となります。この氏神の子孫が氏子です。
 このような考え方は、一昔前の考え方です。
 最近は、神社によりますと、その神社の周囲の集落を守る神さんという考え方ができました。従いまして、上に書いた祭神(溝咋姫命、大山祇命、天照大日孁尊、素盞鳴尊)を産土神(うぶすな神)と言います。
 ある町に家を建てて住んだとします。この町に一生住もうと考えた時に、子供が生まれたとします。その時を機会に、氏子になりたいと神社にお願いしますと、氏子になることができます。
 たとえば、奈良の春日大社の近くに住んでいるから、氏子にしてもらえるかどうかは、知りません。
 仮に、近くの神社に云って聞けばわかります。断られることがあります。その神社には、自分の神社が受け持つ集落の範囲を決めて居られる神社があります。
 その範囲に居住しませんと断られます。

 神社では、毎日、氏子の幸せを願って、御祈りをされているはずです。そこで、氏子としましては、子供が3歳になりしたら、その報告を神にし、七五三のお祝いということになります。

 上に書かれてあるのは、崇敬者戸数です。ということは、上野神社 ・三島神社は、氏子が分からなくなったのでしょうか。
 この神社には、行きたくて云ってきました。その時のことを次の所に書いています。
【三嶋神社】
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page513.html

境内坪数は 348坪です。広いですが、鳥居から本殿までは、ずっと坂の石段でした。
上のアドレスにアクセスしますと、写真があります。

次回、続きを書きます。上野神社 ・三島神社の不思議 どこにも不思議らしきものを書きませんでした。大した話ではないのですが、不思議だなと思いながら帰りました。

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2009.04.29

地名 鹿塩(3)

3つ目の「鹿塩」は岐阜県川辺町(加茂郡)鹿塩です。
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35.49575778&lon=137.05220889&ac=21503&az=2&v=2&sc=3
 此の地も山の中です。ここの「鹿塩」には、天皇と関係があるようなものは、なにも発見できません。北東に、宝塚市の鹿塩とおなじようにゴルフ場があるぐらいです。
 もう一つは、地名に石神という地名があるぐらいです。
もう一つは、加茂郡です。全国に加茂郡が3ヶ所あります。この加茂郡には、なにかを共有する人たちが住んでいたと考えるのが普通です。
 知りたいことは、ここの「鹿塩」が天皇家となんら関係があったかどうかです。
 前の二ヶ所のように、鹿も塩も関係はないようです。

もう一つの鹿塩は 下伊那郡大鹿村鹿塩です。
 鹿塩の地図をご覧ください
西に天竜川、東に国道152号線が走っています。天竜川の方は、152号線とは別に、川が並行して走っています。  天竜川と152号線は関連はなさそうです。
多くの道は、川の流れにそって発達しました。152号線は、鹿塩川に沿って走っています。中央構造線が村内を南北に通っており、天竜川の支流・小渋川が南アルプスから西流しています。村の北端は分杭峠、南端は地蔵峠です。地蔵峠から北流する青木川と、分杭峠から南流する鹿塩川が中央構造線の谷筋に沿って流れ、小渋川に流入しています。大鹿村は南アルプスと伊那山地に挟まれた山間地帯となります。従いまして、鹿塩川も中央構造線のずれの生じた低いところを流れ、それに沿って、道が発達したことになります。
中央構造線

大鹿村鹿塩で取り上げるべきことは、梨原にある葦原神社です。この神社は、明治末期の神社合併でできたが、もともとは本諏訪社と云われています。鹿塩の塩泉は建御名方神が鹿狩りをしているときに発見したという伝説や、御頭郷の最上位の席は鹿塩であったことも注目すべきことです。北の分杭峠を越えて北上しますと、諏訪大社です。大鹿村鹿塩と諏訪大社は、何時の頃からか判りませんが、関係があったようです。
残されている資料としては、嘉暦4年(1329年)3月北条高時から信濃国の地頭・御家人に対して出された下知状により行われた諏訪大社五月会・御射山御頭に勤仕した郷村中に大河原・鹿塩の両村が記載されている。いずれにも地頭がいた。(神長守矢文書)
出所ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%B9%BF%E6%9D%91最も、注目すべき点は、「南北朝時代に南朝方の宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの地の豪族香坂高宗に庇護され、以後30余年に渡って信濃宮方(南朝)の本拠地となった」
宗良親王(むねながしんのう)
 南北朝時代に活躍した後醍醐天皇と、藤原為子の八番目の皇子として生まれました。二十歳の時に比叡山延暦寺の天台座主となり、大鹿村には興国四年(1343)の34歳の時に、香坂高宗氏に迎えられて大河原城に入り、以来30余年の間ここを拠点として活動されました。正平七年(1352)親王42歳の時、足利尊氏討伐の宣令が下され、征夷大将軍に任じられ、武蔵野の合戦等に出陣されました。親王は南北朝第一の歌人と称され、歌集に「李花集」「宗良親王千首」、選集には「新葉和歌集」があります。親王終焉は静岡県伊井谷などの各地の説がありますが、大河原終焉を裏付ける古文書が京都後醍の三宝院に保管されており、現在では最も信頼性の高い資料とされています。
御所平(釜沢)
 宗良親王が仮御所に住まわれた地。いくつかの平坦な屋敷跡がありましたが、今は残っていません。
「何方も山のはちかき柴の戸は、月見る空やすくなかるらむ」と親王自らが詠んだ歌を刻んだ石碑が建っています。
以上の出所はウィキペディア(Wikipedia)』です。
鹿塩地区では塩泉が湧出しており(鹿塩温泉)、海から遠く離れた奥山にありながら古くから製塩が行われていた。
製塩が行われていたことと、大鹿村の鹿とで「鹿塩」という地名が生まれたようにも思えますが、私は違うことを考えています。
 〔鹿塩〕の地名の所には、天皇や皇族を護衛する人たちが住んでいたのではないかと推察しています。
上記の資料によりますと、宗良親王は、大鹿村には興国四年(1343)の34歳の時に、大河原城に入り、以来30余年の間ここを拠点として活動。正平七年(1352)親王42歳の時、足利尊氏討伐の宣令が下され、征夷大将軍に任じられ、武蔵野の合戦等に出陣。
 とあります。行ったことがありませんので、どのような所か判りませんが、地図から判断すると山間部です。このような所に30年間も住んでいたということは、此の地が重要な所であったことになります。
 「鹿塩」は、ただの山ではなく、他のところから攻めにくいように、干渉地帯の役割を得、又、何がしの兵力を有していたのではないでしょうか?
名前からその土地の性格を知られないために、大鹿の鹿と塩を含む温泉から命名したように名付けたのではと思っています。 少し、強引なところはあります。
 それを薄めるために、前回、地名 鹿塩(1)において、兵庫県宝塚市には、鹿塩と御所の前という地名があることを紹介し、鹿塩という地名は天皇と関係があるのではないかと、見て頂きました。

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2009.04.27

地名 鹿塩(2)

もう一つの鹿塩は 下伊那郡大鹿村鹿塩です。
 鹿塩の地図をご覧ください

西に天竜川、東に国道152号線が走っています。普通は、もう少し、川の近くを走るものですが、間が離れています。天竜川の方は、152号線とは別に、川が並行して走っています。  
多くの道は、川の流れにそって発達しました。152号線は、鹿塩川に沿って走っていますが、中央構造線が村内を南北に通っており、天竜川の支流・小渋川が南アルプスから西流している。村の北端は分杭峠、南端は地蔵峠です。の難所である。地蔵峠から北流する青木川と、分杭峠から南流する鹿塩川が中央構造線の谷筋に沿って流れ、小渋川に流入しています。即ち、大鹿村は南アルプスと伊那山地に挟まれた山間地帯となります。従いまして、鹿塩川も中央構造線のずれの生じた低いところを流れ、それに沿って、道が発達したことになります。

〔中央構造線〕
http://www.osk.janis.or.jp/~mtl-muse/subindex03.htm
中央構造線は諏訪湖から出発して、九州まで続いています。このことから、いろいろのことを知ることができます。


大鹿村鹿塩で取り上げるべきことは、梨原にある葦原神社です。この神社は、明治末期の神社合併でできたが、もともとは本諏訪社と云われています。鹿塩の塩泉は建御名方神が鹿狩りをしているときに発見したという伝説や、御頭郷の最上位の席は鹿塩であったことも注目すべきことです。北の分杭峠を越えて北上しますと、諏訪大社です。
残されている資料としては、嘉暦4年(1329年)3月北条高時から信濃国の地頭・御家人に対して出された下知状により行われた諏訪大社五月会・御射山御頭に勤仕した郷村中に大河原・鹿塩の両村が記載されている。いずれにも地頭がいた。(神長守矢文書)
出所ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%B9%BF%E6%9D%91
最も、注目すべき点は、「南北朝時代に南朝方の宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの地の豪族香坂高宗に庇護され、以後30余年に渡って信濃宮方(南朝)の本拠地となった」
• 宗良親王(むねながしんのう)
 南北朝時代に活躍した後醍醐天皇と、藤原為子の八番目の皇子として生まれました。二十歳の時に比叡山延暦寺の天台座主となり、大鹿村には興国四年(1343)の34歳の時に、香坂高宗氏に迎えられて大河原城に入り、以来30余年の間ここを拠点として活動されました。正平七年(1352)親王42歳の時、足利尊氏討伐の宣令が下され、征夷大将軍に任じられ、武蔵野の合戦等に出陣されました。親王は南北朝第一の歌人と称され、歌集に「李花集」「宗良親王千首」、選集には「新葉和歌集」があります。親王終焉は静岡県伊井谷などの各地の説がありますが、大河原終焉を裏付ける古文書が京都後醍の三宝院に保管されており、現在では最も信頼性の高い資料とされています。
御所平(釜沢)
 宗良親王が仮御所に住まわれた地。いくつかの平坦な屋敷跡がありましたが、今は残っていません。
「何方も山のはちかき柴の戸は、月見る空やすくなかるらむ」と親王自らが詠んだ歌を刻んだ石碑が建っています。
以上の出所はウィキペディア(Wikipedia)』です。
鹿塩地区では塩泉が湧出しており(鹿塩温泉)、海から遠く離れた奥山にありながら古くから製塩が行われていた。
製塩が行われていたことと、大鹿村の鹿とで「鹿塩」という地名が生まれたようにも思えますが、私は違うことを考えています。
 〔鹿塩〕の地名の所には、天皇や皇族を護衛する人たちが住んでいたのではないかと推察しています。
上記の資料によりますと、宗良親王は、大鹿村には興国四年(1343)の34歳の時に、大河原城に入り、以来30余年の間ここを拠点として活動。正平七年(1352)親王42歳の時、足利尊氏討伐の宣令が下され、征夷大将軍に任じられ、武蔵野の合戦等に出陣。
 とあります。行ったことがありませんので、どのような所か判りませんが、地図から判断すると山間部です。このような所に30年間も住んでいたということは、此の地が重要な所であったことになります。
 「鹿塩」は、ただの山ではなく、他のところから攻めにくいように、干渉地帯の役割を得、又、何が市の兵力を有していたのではないでしょうか?
名前からその土地の性格を知られないために、大鹿の鹿と塩を含む温泉から命名したように名付けたのではと思っています。 少し、強引なところはあります。
 それを薄めるために、前回、地名 鹿塩(1)において、兵庫県宝塚市には、鹿塩と御所の前という地名があることを紹介し、鹿塩とい地名と天皇が関係があるのではないかと、見て頂きました。

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2009.04.23

地名 鹿塩(1)

全国に「鹿塩」と表記される地名が、3つあります。
その一つは、兵庫県宝塚市鹿塩です。読み方は「かしお」です。
地図 http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.21.35.470N34.46.33.190
阪神競馬場の西に、現在、鹿塩1丁目と2丁目があります。もう少し、西へ行きますと、仁川高丸の西に地図では表記されています。
 かつての鹿塩村は、現在の鹿塩1丁目と2丁目、駒の町、仁川台、仁川北2丁目--3丁目、仁川宮西町、仁川団地、仁川月見ガ丘、仁川旭ヶ丘、仁川高台1丁目—2丁目、仁川高丸1丁目――3丁目、仁川うぐいす台、そして、鹿塩(山地)の広大な広さになります。

有名な所では、宝塚ゴルフ倶楽部があります。このゴルフ場の住所は、
〒665-0023 兵庫県宝塚市蔵人字深谷1391-1です。
地名は蔵人(くらんど)で、鹿塩は蔵人村の南西に位置します。
昔の鹿塩村は、現在の駒の町を含みます。阪神競馬場の住所は、〒665-0053 兵庫県宝塚市駒の町1-1です。
多分、競馬場の大部分は、蔵人村であったと思われます。
かつての蔵人村は、宝塚市高司1~5丁目、美幸町、高松町、御所の前町、中野町、大成町、大吹町、新明和町、駒の町、光明町、小林(おばし)5丁目、仁川台、仁川北1~2丁目、そしてゴルフ場のある蔵人です。
 地名・蔵人は摂津国武庫郡のうち、はじめ幕府領。古代に渡来した阿知使の子孫が蔵人の官職を持ち、ここに居住した。(地名辞典)とありますが、蔵人の中に、高司(たかつかさ) と御所の前という地名があります。
御所の前の地名は、孝徳天皇が有馬入湯の際、武庫の仮行宮が造られたとの伝承がありますから、ここに遇ったのかも知れません。 高司は、元は鷹司のあった所かも知れません。御所の前は、現在の武庫川と同じ海抜19mですから、武庫の仮行宮は武庫川のすぐそばに在ったと思われます。
武庫川を渡り、北に行きますと、御殿山の地名が見え、御殿山の少し、東には、売布神社があります。
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&rlz=1G1GGLQ_JAJP308&q=%E5%AE%9D%E5%A1%9A%E3%80%80%E5%BE%A1%E6%AE%BF%E5%B1%B1&lr=&um=1&ie=UTF-8&split=0&gl=jp&ei=08PtSeD_D5SCkQWDyNCiDw&sa=X&oi=geocode_result&ct=title&resnum=1
高司、御所の前町、御殿山と並べますと、天皇が有馬へ行かれる時とか、狩りをされた可能性は大きいです。美幸町は御幸でしょうか?

肝心の鹿塩の地名ですが、地名に「塩」が付いています。確か、どこかで、此処で塩が取れ、その塩を鹿が舐めに来たというような記述がありました。
承応2年(1653)船坂山をめぐって鹿塩村とともに有馬郡船坂村と境界争論を起こし、船坂村が勝訴との文書が残っていますから、鹿塩村は上記の範囲よりも、蔵人村を廻り込んで、船坂村に接していた可能性があります。近くには、塩尾寺、塩瀬、名塩があり、名塩には、武田尾温泉があります。ここのお湯が塩分を含んでいるかどうか分かりませんが、鹿塩の地も、古くは塩分の濃い温泉がわいていたのかも知れません。

推理ですが、鹿塩には、天皇家の側近の軍隊が長期に滞留していたのではないかと考えています。蔵人の方も天皇の側近ですが、文書などの仕事をしていたのではないでしょうか?

有馬への行幸道
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page436.html
に、以前に調べたことを記しています。

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2009.02.05

資料 大崎廃寺

岡山市大崎にある。足守川中流域の東岸山裾部に位置し、平地部に造られている。
廃寺の北側の山には、多くの古墳があり、大崎古墳群の中には、7世紀代のものもあるらしい。知足院古墳などの後期古墳が50基前後集中している。周囲には4,5世紀のものとして佐古田堂山古墳や小盛山古墳などがある。
 3.5キロ南に山陽道が走っている。高松城址の北西に位置する。

発掘調査はされていない。が、塔・金堂・講堂が南北に一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置。
瓦--山背北野廃寺出土瓦と類似した7世紀前半の有稜素弁八葉蓮華文軒丸瓦を採取。
山背の秦氏と関係があるかも知れない。
水切り瓦出土、栢寺廃寺との関係あり?
以上 『吉備の古代寺院』p13より。           H21.02.05

地図あり、http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/kodai-jiin/01.html
水切り瓦の拓本もあります。
「佐古田堂山古墳」「小盛山古墳」の写真があります。
http://homepage2.nifty.com/kodairoad/2008/1_80.htm

大崎廃寺地図
http://www.isekiwalker.com/iseki/135977/  地図をご覧ください。竜王山があります。この山の麓には、いつのことか判りませんが、全国的に、中国人が住んでいたと考えますと、辻褄が合います。鬼ノ城の表示も見えます。ここは、これらの中国人が立てこもった所だと考えています。少し、地図を西へずらしますと、「高尾山」が見えます。これは、イザナギの系統の人が、基準にした山ではないかと考えます。
【高尾山】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page421.html
【大崎廃寺塔跡】http://www.geocities.jp/stupacaitya/touato/33okayama/osaki/osaki.html

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2009.02.04

資料 秦原廃寺 (はだわら)

http://www2a.biglobe.ne.jp/~marusan/phhatahaijisojya2.html に掲載されている
総社市教育委員会の看板の文章。 (心礎の写真あり)

岡山県指定重要文化財 秦廃寺(秦原廃寺) 昭和34年3月27日指定
古代、日本に伝来された仏教は、聖徳太子の出現によりその興隆期を迎え、大化の改新を経て、聖武期にその最盛期を迎えた奈良仏教へと発展していきます。
この秦廃寺は、現在不動の心礎及び礎石は各一をとどめるにすぎませんが、出土する瓦等から、飛鳥時代に創建された岡山県内最古の寺院跡とされています。
当時の寺域、伽藍配置等については明確ではありませんが、寺域は、東西一町、南北一町又は一町半と想定されます。
また、伽藍配置については、寺域の南限、かって柱根一を出土した付近に南門、その北東の塔心礎の位置するところに塔、その西側に金堂、それらの北側に講堂跡が存在したものと考えられます。
ここから出土する軒丸瓦は、二種類が確認されていて、その一種類が、岡山県内で最古の飛鳥様式の八葉単弁の蓮華文の瓦で、もう一種類は、吉備式と呼ばれるものであります。
      昭和57年3月 総社市教育委員会

『吉備の古代寺院』の秦原廃寺の部分を読むことが出来ます。
http://books.google.co.jp/books?id=WRZzg7glaBUC&pg=PT102&lpg=PT102&dq=%E7%A7%A6%E5%8E%9F%E5%BB%83%E5%AF%BA&source=web&ots=6iqqNCRcMQ&sig=VuOHr9UgynjVRLz0DaarGbhoyfQ&hl=ja&sa=X&oi=book_result&resnum=5&ct=result

廃寺の場所は、総社市秦です。総社の西に位置する。少し、詳しい地図で眺めて頂きますと、凄い所に造られています。高梁川の右岸(西岸)で標高20~24mぐらいの山と川に挟まれた所にあります。地名としては、秦の南北に、上秦、秦下、南秦、中村、橋本、山の麓には、天神谷、山根があります。山根のところに180mほどの「城山」がありますから、総社の方から西へやってきたときに、「城山」が目印になり、橋本は、ずっと後になってできた集落ですが、古くは、ここに橋があったのではないでしょうか?
行ったことが地図ありませんので、このように地図で判断しますと、麓にそって、上秦から秦下に曲がった道路があります。これが古代からあった道路と思われます。他はすべて、真っ直ぐの道ですから、新しい道と思われます。
 川から麓までは、600メートルほどですから、寺が建てられた時は、もっと、川が寺の傍を流れていたと思われます。
 凄い所と書きましたのは、どうして、川が氾濫すれば流されるような危険な所に建てたかです。危険を冒してでも、重要な地点であったことになります。
『吉備の古代寺院』には、寺跡の周囲の関連しそうな古墳を挙げておられます。
南南西約1キロの山頂部に石棺内に須恵器を納めた5世紀中葉の秦金子古墳一号墳。
南西約1.5キロに波形石製家形石棺を納めた6世紀末の金子石塔塚古墳。
南西約2.5キロの竜山石製刳抜式横口式石槨の長迫二号方墳などがあります。
 外に、南西約4.5キロに6世紀末~8世紀の板井砂奥遺跡があり、これは、大製鉄遺跡群であるそうです。
 この遺跡の西側を南下して下道郡の中心地、箭田大塚古墳や箭田廃寺のある山陽道に出ることになります。
所在地の地名「秦」、和名抄の「秦原郷」からやはり秦氏が挙げられる。発掘調査では直接の関わりを示すものは見つかってはいないが、河原の文様は山背の秦氏との関わりを想像させるものがある。また、鉄生産も古くから秦氏などが関わると言われているのと板井砂奥遺跡も秦氏が関わっている可能性が高いのではと書いてあります。
廃寺の北700mに姫社神社があります。姫社神社は製鉄と関係するとかんがえられ、このこともこの地域が製鉄と関係があることを示していると書いておられます。

 『吉備の古代寺院』では、出土した瓦について、詳しい考察が行われています。
①7世紀前半の素弁八葉蓮華文軒丸瓦が最も古い。類例は山背広隆寺、摂津市天王寺。
② 同時期の他に類例のない素弁八葉蓮華文軒丸瓦も出土している。
③7世紀後半に吉備式重弁八葉蓮華文軒丸瓦を使って伽藍を整備したようである。
 このようにまだまだ、考察しておられます。
その他、押出仏のことも書いておられます。 上に記しました所で読むことが出来ると思います。

今度は、私の考えを書きます。私は知らないことの方が多いのです。京都のことを知りたいのですが、ここはややこしそうですので、手を付けていません。京都に太秦という所があります。ここは、絹の中心地ではと思っていただけです。太秦は、秦氏と関係があると思っていましたら、『吉備の古代寺院』では、鉄と関係があると書いておられます。
 何分プロの方ですから、ここに書いてあることの方が正しいのだと思います。

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2009.01.21

鳥取県の古墳・銅剣・銅鐸分布図

Photo

左の図は、山川出版社 山中寿夫著『鳥取県の歴史』から無断拝借しました。この図を見て、皆さん、何を考えられますか?  黒丸は古墳です。銅鐸は見えにくいですが、伯耆国分寺とある下に八橋と読めます・その真ん中あたりに出土しています。これが、鳥取では一番西にあります。そして、天神川周辺に。千代川周辺です。大まかに言いますと、天神川より西が、伯耆国、東は因幡国です。銅鐸に限って言いますと、真ん中より東が多いことになります。
 今回は、それぐらいを頭に入れておいて、古墳に注目したいと思います。
日野川を挟んで東西に多くの古墳が分布しています。
 ここが、伯耆の国の汗入郡と会見郡になりのます。私が現在書いています〔天孫降臨〕は、八橋・上神大将軍塚とかいてある辺りです。この辺りに、紀元前100年ころに、ヒルゼン高原(高天原)に居たアマテラスが、孫のニニギ命を行かせます。大国主神に話合いで国譲りをさせたことになります。
 100年後は、神武天皇の時代になりますが、神武天皇は、伯耆の国の経営だけでは、追いつかなくなります。地図の一番左は、出雲になります。 ここからは、日本では最大の銅剣と銅鐸が発見されました。
荒神谷遺跡の銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本と加茂岩倉遺跡の銅鐸39個の発見です。
ここは、神武天皇にとっては、最大の敵ですが、出雲の人をかまってはおれませんでした。主力は、奈良と九州と岡山でした。地図の左上の弓状に突き出た半島の先が、境港(島根半島の日向浦)の所から神武東征に出発しました。
 この頃が、天皇家の最大の勢力範囲であったと思われます。

地図が大きく掲載できませんので、http://asilka.blog61.fc2.com/blog-date-20090121.html
に掲載しました。こちらも上手く掲載されていませんが・・・。

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2008.12.07

宣戦の詔直

天皇による開戦の宣言を「宣戦の詔直」と呼んでいます。たとえば、明治38年10月16日に、露国に対して宣戦布告したものが残っています。
〔日露戦争宣戦詔書]http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/nitirosennsenn.htm
〔露国に対する宣戦の詔勅〕
http://www.jacar.go.jp/nichiro/sensen.htm
ところが、第二次世界大戦の時は、宣戦布告はなく、日本はアメリカを騙し打ちにしたとされ、それが正しいことになっています。いわゆるハワイの真珠湾を奇襲したことを指します。
 一旦、アメリカがそのように、日本に抗議し、殆どの日本人もそのように考えていますが、田母神空幕長の論文をきっかけに、もう一度考え直しても良いのではないかと思います。
その理由は、田母神空幕長が論文を発表したときの政府とメディアの反応の仕方があまりにも、異常だったからです。世論が、気が狂ったように、片寄るときは、なにか、隠し事を暴露されそうになった人が、それを蔽い隠そうとすることが多いからです。

第二次世界大戦のときに、終戦の詔直は、有名です。ラジオで何度聞かされたことでしょう。
開戦も1941年12月8日11時40分に発表されたとされています。
この発表に先立ち、同日、午前7時に、大本営が「帝国陸軍ハ本8日未明、西太平洋ニ於テ米英軍ト戦闘状態ニ入レリ」とラジオで国民に開戦を報せています。

時間的に、天皇の「宣戦の詔直」の方が、遅いことになっています。

戦争を始めてから、「宣戦の詔直」を作ったのか、戦争には、国としての宣戦布告は、必ず必要なものなのか、知らないことだらけです。
 少しずつ、考えたことを書いてみます。    

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2008.11.08

福定神社 鳥取

福定神社   鳥取
鎮座地 西伯郡餘子村大字福定字大蛇郷  地図


現在地 鳥取県境港市福定町374番

祭神 磐長姫命

由緒 創立年月不詳、往古より荒神宮と称す、明治元年神社改正の際福定神社と改められ餘子神社の摂社となる。

 
例祭日  10月28日
建造物  本殿、神楽殿、
境内坪数 231坪
氏子数  90戸


以下、考察
イワナガヒメ(イハナガヒメ)は、日本神話に登場する女神。『古事記』では石長比売、『日本書紀』・『先代旧事本紀』では磐長姫と表記する。
神社の祭神は、磐長姫命とかかれているということは、何時の時代か不明ですが、『日本書紀』・『先代旧事本紀』を書いた人たちによって支配されていたと思われます。
瓊瓊芸命は天孫降臨して直ぐに、木花之佐久夜毘売と結婚を望み、大山祇命に許可を得ます。その時に、条件として磐長姫命と木花之佐久夜毘売の二人と結婚をするように言われます。ところが、磐長姫命が醜かったので、返したことが、古事記に書かれています。その後の磐長姫命のことは記紀には書かれていません。
 しかし、富士山の近くには、磐長姫命と木花之佐久夜毘売が祀られていたり、大山祇命が祀られていますから、親子三人は、この辺りの支配を任されたのだと思われます。

磐長姫命は大山祗命(おおやまつみのみこと)の娘。木花開耶姫命の姉。

磐長姫命だけを祭る神社は、少ない。
伊豆神社    岐阜市切通12番49号 
雲見浅間神社 静岡県賀茂郡松崎町雲見386-2
 以上の神社では、磐長姫が一人で祀られています。

福定神社でも、磐長姫が一人で祀られていますので、西伯郡餘子村大字福定字大蛇郷のあたりに住んでいたと考えるのは、無理でしょうか? 
現在の福定町は、海抜2mです。磐長姫が生きていた頃は、紀元前100年ころですから、この辺りは海だったことになります。
 餘子神社の摂社となるとありますから、餘子神社は近くにあることになります。
餘子神社も、海の中だったと思われます。

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2008.11.01

地名 亀甲

10月27日に書きました小波のすぐにしにある地名です。
この辺りは、海抜4~5mぐらいですので、江戸時代には海の底かと思っていましたが、亀甲神社が現在あり、その資料は、次のようになっています。

亀甲神社  
 鎮座地 西伯郡大和村大字中間字海道ノ上  地図

現在地 鳥取県米子市淀江町中間642番

祭神 須佐之男命
由緒 創立年月不詳、神木を以て荒神宮と称す、大神山神社の摂社たり、明治元年神社改正の際廃社となりしを、同十二年十一月許可を得て再興し、亀甲神社と改む。

従いまして、江戸時代にはあったと思われます。
当初は、「神木を以て荒神宮と称す」とありますので、亀甲神社とは呼んでいなかったと思われます。明治12年に亀甲神社に改められましたから、亀甲という地名が神社より先にあったと思われます。

亀甲という地名は、全国に、次のように確認しています。

 ①大分県臼杵市野津町亀甲 
http://www.navitime.co.jp/address/44206047000
歴史上における「野津」という地名の成立は、11世紀中頃ではないかと考えられています。  少し時代は下りますが、13世紀の土地台帳によると、「野津院(=大友氏の荘園)」は60町(現在の60ヘクタール)で、大友一族の定住と開発が伺えます。(臼杵市ホームページより)臼杵市ホームページより 海岸線より内陸部ですから、造船と関係ないか?

②弘前市亀甲町
慶長8年(1603年)藩祖為部が新城築城とその城下の建設に着手した最初の町割りが当地であったといわれ、兵法にいう城を守る四神(東西南北の神)の北の神玄武(亀のこと)にちなんで命名されたと伝えられています。

③岡山県久米町 周りに、久米、神代、公文、神安、桑下、桑上 の地名あり。
④岡山県中央町(かめのこう)  岡山県久米郡美咲町原田にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)津山線の駅である。駅近くに亀の甲羅のような岩(亀甲岩)があることから「亀甲」の名がある。

⑤福岡県八女市
  山の中で、近くに川も存在しないから、亀甲舟とは関係なさそう。
⑥熊本県玉名市
 菊池川上流ですから、亀甲船に関係あるかも知れません。
 http://www.mapion.co.jp/c/f?nl=32/55/30.446&el=130/33/19.702&scl=25000&uc=1&grp=all&coco=32/55/30.446,130/33/19.702&icon=home,,,,,
⑦熊本県筑後市 

⑧大分県

⑨青森県弘前市亀甲町(かめのこ)

⑩山梨県

⑪鳥取県米子市淀江町 
小波浜と亀甲は、以前は繋がっていたのではないでしょうか? 現在の地図を眺めてください。斜めに、道路が走っています。この道は古い証拠です。この辺りは、-殆ど、海抜4mですが、亀甲にあった荒神宮は明治元年神社改正の際廃社になったとあります。しかし、亀甲には社はあったので、同十二年十一月許可を得て再興し、亀甲神社と改むとありますから、亀甲は存在したと思われます。
許可を得てとは、どのような事情があったのでしょう。

亀甲船と云うものが有ります。
李舜臣行録に、次のように書いてあるそうです。
「亀甲船の大きさは、板屋船(当時の主力戦艦)とほぼ同じく上を板で覆い、その板の上には十字型の細道が出来ていて、やっと人が通れるようになっていた。そしてそれ以外は、ことごとく刀錐(刀模様のきり)をさして、足を踏み入れる余裕も無かった」、「前方には竜頭を作り、その口下には銃口が、竜尾にもまた銃口があった。左右にはそれぞれ6個の銃口があり、船形が亀のようであったので亀甲船と呼んだ」、「戦闘になると、かや草のむしろを刀錐の上にかぶせてカモフラージュしたので、敵兵がそれとも知らず飛び込むとみな刺さって死んだ。また、敵船が亀甲船を包囲するものなら、左右前後から一斉砲火をやられた」
 軍艦と思えばよいと思われます。

伯耆の亀甲では、この亀甲船を造っていたのではないかと想像しています。上に書きました亀甲船は、朝鮮人が造ったとされていますが、伯耆では、紀元前150年頃に造っていたのではないかと思っています。そのときは、もっと、小さいものだったのではないでしょうか?
上に書かれた構造では、亀の甲羅の様に、身体が見えないようにした船と云う事になります。
 想像するに、そうではなく、船の形が六角形だったのではないでしょうか?
そのため、前後、どちらでも進むことが出来た。狭い河では、一々向きを変えなくて進むことが出来たので、機動力に富んでいたのではないかと考えています。

この船で、溝口町の白水、大滝、吉原まで、遡って蒜山高原まで物資を運んでいたのではないかと想像しています。と云う事は、軍艦ではなかったと考えています。溝口まで遡った船は、白水川に入り、遡ったと想像しています。
 大滝、吉原のあたりは、イザナギが禊をしたところではないかと想像しています。 
 どうして、このような発想になるかは、日を改めて書いてみます。

 伯耆以外では、岡山県久米郡美咲町原田は、山野中ですが、天皇の軍隊である久米族が住んでおり、ここで船を造っていたのではと、夢見ています。 
駅近くに亀の甲羅のような岩(亀甲岩)があることから「亀甲」の名がある。と云うようなことで、果たして、街の名前になるでしょうか?  

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2008.10.27

地名 小波

天孫降臨に際して、アマテラスは建御雷と天鳥船神を大国主神のところへ交渉に派遣します。これは、古事記に書かれてあることですし、神話のことですから、どうでも良いのですが、私は実話だと考えています。
 この二人の神は、出雲国の伊那佐の小浜に降り立って十掬剣を抜いて、逆に浪の穂に突き刺して、その剣の前に跌み坐して交渉に臨んだと書いています。
 伊那佐の小浜とは、どこかと言いますと、出雲国とあります。これは、伯耆国ではなかったかと想像しています。
 なぜなら、これまでに、調べてきたことから推察しますと、天孫降臨に関わった神は、鳥取の倭文神社と波波伎神社の祭神として祭られています。
倭文神社は、舎人村
      志津村 
波波伎神社 


 このことから、どうやら、倉吉で天孫降臨が行われたようですが、そうしますと、伊那佐の小浜も伯耆国でなければなりません。
 
 どうして、地名に小波が採用されたと思われますか?
小波とは、その浜には、小さな波しか来なかったから付けられた浜だと思います。と云う事は、遠浅の浜辺でしょう。
 それを現在の地名で確認します。
湘南の小波 http://ameblo.jp/ruisurf0513/
島根県松江市島根町小波 http://www.mable.ne.jp/~ic/松江野地図です。 地図  


次は古事記に書かれてある伊那佐です。稗田阿礼が古事記を書くにあたって、あちこちの神社を調べに訪れたと思います。淀江町の大和村大字小波字浜にある三輪神社へも来たのではないかと思います。鳥取県神社誌が作られた時には、このような地名はあったと思われますが、稗田阿礼が訪れたであろう時は、大和村という地名はあったかも知れませんが、小波や浜という地名はなかったのではないかと思います。

 このように地名の無い所では、その所の風景の様子を書きとめています。従いまして、伊那佐という地名の小浜という地名で談判が行われたのではないと思います。
では、伊那佐とはどう言うことでしょう。否砂ではないでしょうか? 砂がなくて遠浅の海岸だったのではないでしょうか?

 三輪神社に行かれますと判ると思いますが、神社の周りは海ではありません。しかし、神社の後にある壺瓶山が海に迫っていたと思います。壺瓶山の周りに沿って、淀江の方から来る道が走っていたと思います。稗田阿礼がやってきたときも同じ状況だったと思います。なぜかと云いますと、この海岸り西は、海抜4m以下ですから、海だったと思われます。当時は岩場でしたが、この三輪神社のある浜だけは、日野川が運ぶ川砂のために、岩場なのに砂が、遠浅の海岸だったと思います。
 その砂浜で、波が打ち寄せる所のことを、稗田阿礼は「浪の穂に」と表現しました。二人の神は波際まで進んで、剣を逆に立てたと書いています。そのまま、突き刺したのであれば、剣で脅しながらの交渉になりますが、はじめから話合いをしたことになります。
 
 日本書紀では、出雲の国の五十田狭の小汀としています。古事記を読んでも意味が判らなかったのでしょう。五十田狭とは、どう言う意味でしょう。小汀とは、小さな海岸と言うことでしょうか?
三輪神社の西一帯のボーリングを行えば、その当時の地形が現れます。4m掘りますと、岩の層があり、遠浅の砂の層が出ると思います。三輪神社から10m置きに西の方向へボーリングすれば良いことになります。
 三輪神社のある大和村大字小波字浜の「大和村」の「大」は大典、大礼、大葬と同じで大王を表します。ここには、大物主が住んでいました。勿論、大物主は国譲りを賛成したと思われます。古事記には、多くの神が登場しますが、神野名前がないのは、大物主ぐらいでしょうか?

 日本書紀は、伯耆の国に、天皇家ゆかりの人はいなかったことにするのに、一生懸命でした。この大物主もいなかったことにするために、大神神社を奈良の桜井に造り、大物主の神話を作ったと思われます。崇神天皇のところに書いてありますから、読んでください。御神体がなくて、後の山を神体とするとしています。このような神社はほかにもあります。有名な所では、奈良の石上神宮もそうです。神殿がありません。これが、日本の神のもっとも古い形式だとされていますが、本当でしょうか?

この三輪神社の資料をまだ、手に入れていません。手に入りましたら、掲載するつもりです。
 その前に、今日、すぐ近くにある日吉神社の資料を掲載しました。
 

ここに、この神社へ合祀された神さんが掲載されています。
大和村大字平岡字向山 鎮座 無格社平岡神社(祭神 稚日女命)
大和村大字小波字鹽入 鎮座 無格社日御崎神社神社(祭神 天照大御神、素盞鳴尊) 
淀江町大字淀江字天王 鎮座 無格社淀江神社(祭神 素盞鳴尊、稲田姫命)
     
この三つに注目してください。太文字にした地名が、昭和9年当時にはあったことが判ります。天王は天皇陛下ではありません。大王がいつか住んで居られた可能性があります。

稚日女命は、『日本書紀』神代記上七段の第一の一書に登場する。高天原の斎服殿(いみはたどの)で神衣を織っていたとき、それを見たスサノオが馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだ。稚日女尊は驚いて機から落ち、持っていた梭(ひ)で身体を傷つけて亡くなったと書かれています。古事記では似たような記述がありますが、名前は書かれていません。

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2008.10.23

資料No39 生まれた所の地名と名前

天皇の名前は長くて覚えるのが大変です。漢字になにか意味がある筈です。 日子は彦ですから、男子であることを表しています。問題は彦の前野部分です。

初 代 神武天皇 神倭伊波禮毘古命 
第2代 綏靖天皇 神沼河耳命 カムヌナカワミミノミコト
第3代 安寧天皇 師木津日子玉手見命 シキツヒコタマテミノミコト
第4代 懿徳天皇 大倭日子*友命 オオヤマトヒコスキトモノミコト)*…金+且
第5代 考昭天皇 御真津日子訶恵志泥命 ミマツヒコカエシネノミコト
第6代 考安天皇 大倭帯日子国押人命 オオヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト
第7代 考霊天皇 大倭根子日子賦斗邇命 オオヤマトネコヒコフトニノミコト
第8代 考元天皇 大倭根子日子国玖琉命 オオヤマトネコヒコクニクルノミコト
第9代 開化天皇 若倭根子日子大毘々命 ワカヤマトネコヒコオオビビノミコト

初代と2代は、神が先頭についています。この部分は、生まれた国、出身地だと思います。
神の国の生れです。ユダヤ人だとしますと、他の神のつく人もユダヤ人となり辻褄があうことになります。ただ、是では困ったことは、天皇家はユダヤ人の血が入っていることになります。
第4代 懿徳天皇から、御真津を除きますと、大倭の地名が共通しています。大倭は、岡山県久米郡久米町宮尾は、昔は久米郡大倭村と言われたところです。久米廃寺の周辺です。
帯と根子の字が見えます。 根子という地名を探してみましたら、秋田県北秋田郡阿仁町根子に見つかりました。案外無いものです。両方と大倭の小字みたいなものでしょうか? このような時代に小字があったとも思えませんが、大倭村は範囲が広いですから、やはり澄んでいた地域をそのように呼んでいたと思われます。「命」の前の部分が判りません。
 各天皇は、「大倭」で生れました。と言うことは、母親が、その時に大倭に住んでいたことになります。では天皇は、何処に住んでいたかと言いますと、奈良になります。

  安寧天皇は兄弟が3人でした。
 常根津日子伊呂泥命 生まれは常根津。 常根津は不明。
 大倭日子鉏友命    生まれは大倭。 大倭は岡山県。
 師木津日子命      生まれは師木津。 師木津は磯城津でしょうか? ここに津があったでしょうか?

師木津日子玉手見命の名前は成人してからの名前です。古事記には、
師木津日子命も書かれています。 玉手見が抜けています。 と言うことは、生まれた後に呼ばれた名前になります。それは何処からかとったことになります。大阪府柏原市に玉手と言う所があります。 では「見」は何だと云うことになります。 関係ないかも知れません。

常根津日子伊呂泥命は、縣主波延(はえ)の女(むすめ)である阿久斗と結婚して
生まれた御子は、常根津日子伊呂泥命と書いてあります。

師木津日子命には二人の王がおり、伊賀の須知の稲置と那婆理の稲置、三野の稲置の祖。(二人の皇子は、伊賀と名張に行ったことが判ります)
女性は、和知都美命と言い、淡道の御井宮に居ました。二人の娘ができて、
上を蠅伊呂泥、又の名は、意富夜麻登久邇阿禮比売。 これは、大倭国の阿禮比売でしょうか? 「蠅」は「波延」でしょう。これも元々は地名でしょうか?
下は蠅伊呂杼です。
 と言うことで、姉の名前は、伊呂泥。妹の名前は、伊呂杼。二人が生まれた時は、祖母(阿久斗)の家で生まれたことになります。
 このように、眺めてきますと、
初 代 神武天皇は、橿原神宮の南にある柏原に都を定めて政治を行っていました。 第2代 綏靖天皇は、葛城の高岡宮で政治を行う。 
 その後は、磯城に移り、志木県主の祖、河俣毘売と結婚して、師木津日子玉手見命を生む。安寧天皇は片塩の浮穴宮(葛城郡)にて、政治を行ったことになっていますが,大倭にて、懿徳天皇を生んでいます。その後の天皇もずっと、大倭で生れていますから、奈良は危険な状態であったために、避難していたと考えられます。

大倭、倭と名前がつく人は、天皇とは限りません。
生まれた地名を付けてあります。孝霊天皇の后に、意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれいのみこと・安寧天皇の孫娘)がいます。この后の子どもが夜麻登登母母曾毘売命(やまととももそびめのみこと)です。

さて、如何でしたか?
一部無理な所がありますが、この名前の付け方が正しいとしますと、時代の流れが推測できます。

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2008.10.16

資料No38 波波伎神社 式内社

鎮座地 東伯郡日下村大字福庭字樅ノ木  ( 現在・鳥取県倉吉市福庭654番) 地図
祭神 事代主神、下照姫神(下照比売)、天稚彦神(天若日子)、少彦名神(少名毘古那神)、健御名方神、味耜高彦根命(阿遅鉏高日子根神、)、 狭依比売命(市寸島比売命)、多紀理比売命(多紀理毘売命)、多岐都比売命(田寸津比売命・狭依毘売)
( )の中は、古事記に書かれている神の名前です。

波波伎神社は、伯耆神社といっても良いような神社です。この神社は伯耆国にある6つの式内社の一つです。従いまして、延喜式が完成した、8世紀頃には、藤原氏の支配下にあったと思われます。
 祭神の事代主神は、事代主命と書いてあったのですが、宮司が最低の抵抗をして、事代主神と書き換えたのかも知れません。
健御名方神は、古事記に登場する神です。大国主神一家では、最後まで抵抗した神です。ところが、何故か、日本書紀では、書かれていません。日本書紀では、最後まで抵抗した神は、天香香背男となっています。 日本書紀の作者は、健御名方神の名前を書きたくなかったので、波波伎神社の祭神には、書かなかったのかも知れません。
または、次に掲げます由緒の通り、「伯耆神は国造り坐し大国主大神の御子事代主大神なり」とあるように、神社が出来た当初は、事代主神だけが、祭神だったのかも知れません。他の神は、後から合祀されたのかも知れません。
しかし、祀られている神々は、宗像三女以外は、すべて、天孫降臨の際に登場した神です。
宗像三女は、大正5年3月31日下村大字海田字坂根 鎮座  村社 海田神社(祭神 狭依比売命、多紀理比売命、多岐都比売命) を合併とありますから、土師からは無かったことになります。
由緒を眺めてください。太い文字の部分を取りますと、古事記に書かれてある内容と全く同じと言っていいと思います。
由緒  伯耆神は国造り坐し大国主大神の御子事代主大神なり、御鎮座の由来は天祖・天照皇大神、此の豊葦原の瑞穂の国は皇御孫命の天壌無窮に可治国と武甕槌、経津主の二神を出雲国に降し給ひて大国主神に国譲の諾否を問はせ給ふに、吾は答えず我が子事代主答ふべきも、今三穂碕にありと、 すなはち天鳥船神をつかはし召し来て問はせ給ふに、此の豊葦原の国は皇御孫命の可治国と父を諫め位を退き国を譲らしめ、己も天使の旨を諾ひ給ひ、天夷鳥命の子国夷鳥命に手を組ましめ一ツ木の神玖四浮根に座しし船足を此の青柴の巻籬内にと踏み方むけしめ来入座て宣曰く、吾が心すがすがし幾世福庭ぞ此の青柴のまにまに栄ゆく如く皇御孫命の大御代は栄え大坐ませ。己が命の神魂は皇孫命の近つ護の神とならむ。天栄手を青柴籬に柏誓て御隠れましし天栄手の宮なり。仁明天皇昭和四年正五位上に進む、延喜の制小社にれっす、平城天皇大同三年(大同類衆方 )に伯耆神は延喜式伯耆国河村郡波波伎神社党国国造祖神を祭る伯耆薬は伯耆国川村郡波波伎神社に伝ふと、天文十二年雷火の為に焼失、寛永五年まで百六十五年間小祠にてありしが産子伊藤孫左衛門発願祠を建立す、後百六十九年を経て明治十年五月産子福井善十郎今の祠を建立す、其の昔天文年中迄は祭式判然として見ゆ衆人二宮と崇敬す、境内に古墳あり、明治二年郷社に列す。
明治四十年二月三日神饌幣帛料供進神社に指定せらる、
大正5年3月31日下村大字海田字坂根 鎮座  村社 海田神社(祭神 狭依比売命、多紀理比売命、多岐都比売命) を合併
昭和4年8月13日 県社 に昇格す、当社の社叢は天然記念物として指定せらる。

境内神社
 稲荷神社 祭神 保食神、天照大神、素盞鳴尊、稲田姫神、誉田別神
 北野神社 祭神 菅原道真、 素盞鳴尊

波波伎神社の由緒と古事記の内容とどうして、同じになると思われますか?  一度、試してください。由緒をみながら、古事記をかく。古事記の文章を見ながら、由緒を作成する。
 古事記の文章を見ながら、由緒を作成するのは難しいと思われます。
 この波波伎神社には、古事記を作った人が、やって来て、宮司から波波伎神社のことを聞いたのだと思います。
 この記事の前に、いっぱい神社のことを書きました。宮崎神社、神郷神社、松尾神社、これからもどんどん書いていきます。訪れたのは、稗田阿礼ではないかと想像しています。
 どうしてかといいますと、稗田阿礼はこの近くの生まれで、勤務先も近かったのではないかと推察しているからです。
ヒルゼン高原の東隣が竹田村で現在は三朝町です。ここに竹田神社があります。この神社の由緒に福本にあった稗田神社を合祀したとあります。この福本に字稗田と言う地名があります。詳しいことは、又の機会にしますが、稗田阿礼がここの出身であることを隠すために、ややこしい合祀が行われ、現在では、此処まで書いたことを調べるだけでも難儀しました。
竹田や稗田などの地名は消えてしまっています。
ここの出身ですと、ヒルゼンは良く知っていたことになります。竹田神社のまえを流れる川を竹田川と言うのだと思います。この川を下って行きますと、天神川になり、どんどん下りますと、波波伎神社のある東伯郡日下村大字福庭 です。福庭は「福」が付いています。中国の雲南省からやって来た苗族が入植したところであり、稲作を伝えた人たちだと思っています。昔は竹田川と言ったのではないかとおもいます。その証拠となるかどうか分かりませんが、竹田橋があります。国府川と小鴨川が合流して、天神川に合流する地点があります。その少し上流に竹田橋という名の橋がかかっています。この橋の下を流れる川が竹田川といったから付けられた名前だと思います。

福庭の東に東郷池があります。その東に、宮内という地名があります。ここに、倭文神社という式内社があります。昔の住所は、東伯郡舎人村大字宮内字宮坂ノ一です。
舎人村という村です。昔、舎人が住んでいたから、この村の名前が付いたと言われる方がありますが、一人ぐらい出身者がいたから、村の名前にはならないと思います。から
 この近くに天皇が居られたことがあるのではと推理しています。その時に、多くの舎人が住んでいたのではないでしょうか?
稗田阿礼は、古事記を作る前に、このような神社を片ぱしら訪れ、祀られている神や、伝えられている事を神主から聞いたのではないでしょうか。

 ヒルゼン高原にも、天孫降臨をした時の神さんが全部祀られていました。伯耆国にも、すべて祀られていました。と言うことは、ヒルゼン高原から伯耆国に移動したのだと稗田阿礼や太安万侶は考えたのだと思います。
 偶然かどうか判りませんが、伯耆の国の真ん中に、「高千穂」という地名が残っています。
此の地名は、戦後入植した方が付けられたといわれていますが、その周りにある地名や神社には、特に、天孫降臨のときに、瓊瓊芸命に従った神を祭った神社があります。
 瓊瓊芸命は、「高千穂」で住み、護衛の人たちは、その周り、ほぼ、3キロのところで住んでいたのではないかと推理しています。
 
 各々の神社を訪れた稗田阿礼は、太安万侶や舎人の人たちと古事記に書かれてあるような神話を作成したと推理しています。そのように考えませんと、あまりにも古事記に登場する神社が残り過ぎています。
 
話題はもとに戻りまして、
この倭文神社が問題です。全国に14の同じ名前の神社があります。鳥取には、二社あります。
そのテーターは、
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page732.html
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page730.html
に掲載しました。
 皆さん、ご自分で、どうして、全国に散らばってあるのかも推理して頂ければ思います。
いろいろの角度から、考えますと、真実が浮かび上がると期待しています。

波波伎神社と二つの倭文神社のことをまとめて、
No445天孫降臨(18)  倉吉の近くの神社 に書きましたので、ご覧ください。
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-10-12

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2008.10.14

資料No37 神郷神社 手力男命

鎮座地 東伯郡上郷村大字大杉字栃谷   地図 

現在地 鳥取県東伯郡琴浦町大杉887番

祭神 大物主命、猿田彦命、手力男命、素盞鳴尊、大山祇命、金山彦命、大日孁貴女、稚産霊命、豊櫛命

由緒 往古より大杉大明神と称す、勧請年月不詳、後醍醐天皇の御宇毎月朔日及び各祭日に御供を供へ来りしとて御供免朔日免椎免と称する田地より収穫の米を以て各祭典に供す、
当地は神ノ郷と称し、公文以南一ノ郷の氏神なり、御祭日は三月三日早苗 神楽五月五日御田植神楽、九月十九日例祭なりき、現社地東方四町字古宮新田に御鎮座ありしを、洪水の為め浸水神威を瀆さん事を恐れ享保五年現社地に奉遷す、明治維新の際大杉神社と改称せられ、同五年村社に列す、大正四年五月上郷村大字公文字大畑 鎮座無格社大畑神社(祭神 素盞鳴尊)、同大字山田字北山 鎮座無格社北山神社(祭神 大山祇命、金山彦命)、同大字大杉字西山 鎮座無格社今田神社(祭神 素盞鳴尊)、同大字福永字森田 鎮座無格社出合神社(祭神 素盞鳴尊)  同上字宇湯合西手 鎮座無格社赤松神社(祭神 大山祇命) 同大字野田字齋谷 鎮座無格社野田神社(祭神 大山祇命、大日孁貴女)の六社を合併す、同九年十一月神郷神社と改称す、同十年二月十一日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

由緒によると、祭神は、往古より大杉大明神と称されていたが、明治になってから、大杉神社と改称されたと書かれています。その後、大正5年に、6社の神社が合祀されたことが書いてあります。合祀された神さんを最近の神社の祭神から除きますと、
大物主命、猿田彦命、手力男命、稚産霊命、豊櫛命が残ります。

大物主命は、少名彦神が大国主命主のそばから居なくなってか、やって来た神さんです。
伊那佐の小浜で、刀を浜につきさして、談判が行われたときに、大国主命の方と立会人だったと思われます。
猿田彦命は、瓊瓊芸命がヒルゼン高原から、伯耆の国に降臨してくる時に、高千穂まで案内した人です。猿田彦命は、三重県の神社に多く祀られています。また、鳥取県にも祀られています。と言うことは、東伯郡上郷村のことも良く知っていたことになります。どうして、この神社に祀られているか判りませんが、三重県とこの辺りを常に行ききしていたと思われます。
手力男命は、フマテラスが、素戔鳴尊の乱暴に耐えかねて天の岩戸に立てこもった時に、岩戸を開けた人です。天孫降臨のときに、従った神のうちの一人です。瓊瓊芸命を守るために、この辺りの警備の担当をしたのではないでしょうか?   
小波浜  page—7
田村氏の推察では、伊那佐の小浜は、出雲ではなく、伯耆の国だったとされています。

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2008.10.12

資料No36 高尾八幡宮 郷社

鎮座地 東伯郡栄村大字西高尾字八幡山 
現在 鳥取県東伯郡北栄町西高尾340番   地図 

祭神 誉田別尊、帯中津彦命、気長足姫命、武内宿禰命、大已貴命、別雷神、素盞鳴尊、瓊々杵命、菅原道真

大正4年4月21日 
栄村大字上種字宮惣鎮座村社 大宮神社 (祭神 大已貴命、別雷神、素盞鳴尊、瓊々杵命、菅原道真)
同大字東高尾字堂山鎮座 無格社 東高尾神社(祭神 素盞鳴尊)を合併す。

北栄町のホームページには、884年(元慶8)に岩清水八幡宮別宮、種八幡宮として勧請され、藩政期には藩主池田家の祈願所として崇敬された。現在の社殿は明治時代中頃に東高尾と西高尾が競って寄進し、石垣の石の積み方や末社の拝殿などそれぞれの受け持ちによって違いが見られると記す。

八幡宮という神社は、何処にでもありますが、私は注意が必要と思っています。無理やりに作られた歴史があるように思います。
ここの場合がそれに当たるかどうか分かりませんが、考えたことを書きます。

①先ず、鎮座地の西高尾に注目してください。西が付いていますから、当初、高尾という地名がありましたが、次第に大きくなりましたから、西とか東をつけて分けたことが判ります。
 どうして、このような辺鄙なところで、村が発展したかです。
 もう一つは、「高尾」は特殊な名前です。これは、伊邪那岐神の子孫によって付けられた地名だと思っています。最も、今まで調べたものは、高尾山ですが。
隠岐、島根県、兵庫県、大阪府、その他にありますが、すべて関係があると考えています。彼らが移動するときに、目印となるように名付けたと考えています。
地名 高尾山
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page421.html

この神社に、何故か、栄村大字上種字宮惣鎮座村社 大宮神社 (祭神 大已貴命、別雷神、素盞鳴尊、瓊々杵命、菅原道真) が遷されてきました。 大正時代ですから、この時の事情は知っておられる方が居られる筈です。この大宮神社は、あちこちにありますから、甘利木にされないかと思いますが、「大」が付きますから、位の高い人と関係があると考えるべきです。ヒルゼン高原にもありました。
 『ウィキペディア(Wikipedia)』では、
「大宮神社(おおみやじんじゃ)という名前の神社は日本全国に存在する。「大宮」という語は神社を敬っていう言い方の一つで、氏子などから「大宮」と呼ばれていた神社が、それに「神社」をつけて社名としたものなどである。よって、祭神は一定ではない。」
 と書いておられますが、研究が足りないと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE
と偉そうなことを言いましたが、私は調べていません。このように、無くなった神社に目をつけています。
高尾八幡宮の現在の由緒に、大宮神社があるかどうか調べていませんが、戦後作られた『神社名鑑』には、八幡宮からは、瓊々杵命が無くなっています。印刷するときのミスでは済まされないと思っています。瓊々杵命を失くしたい人が、大正時代にも居られ、戦後の昭和にもおられたということになります。
次にあります、境内社も興味ありますが、考えていません。

境内神社  稲荷神社、祭神 倉稲魂神
      道祖神社 祭神 猿田彦神
例祭日    10月15日
建造物    本殿、弊殿、社務所、参籠所、
境内坪数   1636坪
氏子戸数   154戸

資料全文は、http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-225.html
に掲載しています。

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2008.10.09

資料No35松尾神社 鳥取県神社誌より

鎮座地 東伯郡花見村大字野花字西ノ上口    (地図) 

現在地 鳥鳥取県東伯郡湯梨浜町

祭神 別雷命、大山咋神、木花開耶姫命、素盞鳴命、多紀理毘売命、伊邪那岐神、伊邪那美神、大己貴命、少彦名命、事代主命、思兼神
由緒 創立年月不詳、当社は羽合の郷光吉村(古名布河)に鎮座せられ、羽合の郷、花見の郷の惣氏神と称し奉祀し来たりしが、年月不詳、洪水のため社殿流れて野花村江渚浜藪と云う所に漂着せられ、茲に光吉村を始め羽合郷氏子一同は社を舁〈かつ〉ぎ奉り、元社地に斎き奉らんとせしも、御神慮を恐〈かしこ〉み其儘〈まま〉社地を開き奉祀せし由、後今の地に遷し奉れりと(此の浜藪の地は当社の御神幸の御旅所と定め、今に関係を絶たず、光吉村に今に松尾屋敷と称する字存せり、是れ元の鎮座地たり、尚当社祭日には松尾大明神と記された幟を建てゝ祭れる習慣羽合の郷に失はざるは、此縁故に依るものにして、何時の頃より氏子分離せしか明らかならざるは甚だ遺憾なり)
当社は往古より南條家崇敬の神社にして、祈願所として永禄5年(1562)11月9日同家元清より社領75万石寄附せらる、
大正11年3月18日 花見村大字野花字向山鎮座無格社向山神社(祭神 素盞鳴尊)合併
大正11年3月20日 同村大字長和田字向山及若宮鎮座無格社長和田神社(祭神 多紀理毘売命)境内末社田中神社(祭神 思兼神)
           同村大字佐美字瀬戸平鎮座無格社佐美神社(祭神 素盞鳴命)
           同村大字埴見字宮ノ谷鎮座無格社大宮神社(祭神 大己貴命、少彦名命
           同村大字埴見字羽衣石境鎮座無格社高宮神社(祭神 事代主命)
           同村大字羽衣石字権現堂鎮座無格社高山神社(祭神 伊邪那岐神、伊邪那美神、素盞鳴命)
右六神社を合併す。
山城国官幣大社松尾神社古文書正嘉二年十一月伯耆国河村郡同社領境界図中に松尾社の位置現社地に在り。

東郷町誌によれば

 松尾神社が羽合.花見両郷の氏神であったこと。松尾神社がはじめ光吉にあったとする伝承は史実ではなかろうかなどの考察が書かれています。また、「原田氏系図」に東郷氏が長和田の地(野花を含む範囲)を京都松尾社に寄進したとする注記があるとも書かれています。
 松尾神社の祭神は、大正11年に合祀された六つの神社の祭神を除きますと、別雷命、大山咋神、木花開耶姫命が元からあった祭神と言うことになります。

「山城国官幣大社松尾神社古文書正嘉二年十一月伯耆国河村郡同社領境界図中に松尾社
の位置現社地に在り」の記事と祭神が大山咋神であることから、松尾神社は京都の松尾
大社と何らかの関係があったのでしょう。
では、どのような関係があったのかと言いますと、普通は、京都の松尾大社の方が大きいですから、鳥取に勧請したことになりますが、どうして、このような遠いところへ勧請したか。また、松尾大社の社領ということになっていますが、同じく、どうして社領になったかを考える必要があります。
もう少し、資料がほしいところですが、ないとなりますと、古事記に頼ることになりま
す。大山咋神と別雷命はどのような神であるかと言いますと、
大山咋神(おおやまくいのかみ)は、大年神とアメノチカルミヅヒメの間の子である。即ち、スサノオの孫になります。
比叡山の麓の日吉大社(滋賀県大津市)が大山咋神を祀る全国の日枝神社の総本社です。
別雷命は大山咋神と玉依姫の間に生まれた子です。

大山咋神は、はじめから京都に居たのではなく、鳥取に居たのではないでしょうか?
いくつかの根拠らしきものがあります。
その一つは、神話と言われているものの中に、「いなばの白ウサギ」というものがあります。大国主神が、80人ほど兄弟と旅行に出かけます。行き先は、八上比賣(八頭郡の売沼神社に祭られています)のいるところです。この時は、大国主神は、大穴牟遅神と呼ばれていました。多くの兄たちの荷物を持たされて、旅行についていった話が展開します。皆が願っていた八上比賣との結婚は、大穴牟遅神が、白ウサギを助けたことから、八上比賣の心をつかみ、結婚することになります。
古事記は、この物語を通して、スサノオには、いっぱいの子供・孫を含めて80人ほどいるのだということを表しました。
この事件のために、大国主神は、兄弟から苛められることになります。
その後、大穴牟遅神と呼ばれる時に、スサノオが住んでいる根の国を訪れ、スサノオの娘の須勢理毘賣と意気投合しますが、スサノオは認めません。スサノオにも苛められますが、二人は駆け落ちをすることになります。
 この時の様子は、古事記に詳しく書いてあります。
根の国訪問」に書いてあります。
できれば、ご自分で原文を読んでください。
「根の国訪問」のその4に、大国主が行ったところが書いてあります。

スサノオは、駆け落ちをする須勢理毘賣と大穴牟遅神に向かって、結婚を認めると大声で言います。
「其の汝の所持(ショジ)する生大刀と生弓矢で以って、汝の庶兄弟を坂の御尾に追い伏せて、亦、河の瀬に追い撥(ハ)って、意禮(オレ) 大國主神と為(ナ)って、亦、宇都志國玉神と爲って、其の我の女(ムスメ)の須世理毘賣を嫡妻と爲して、宇迦能山(ウカノヤマ)の山本に於いて、底の石根(イワネ)に、宮柱布刀斯理(ミヤバシラフトシリ)、高天の原に於いて、氷椽(ヒギ)多迦斯理(タカシリ)して居利なさい。是が奴(ヌ)也」

兄弟はどこにいたかは書いてありませんが、追い払えと言っています。そして、「大國主神と為(ナ)って、亦、宇都志國玉神と爲って」国を作れ。 それを、奴の国とせよと云っています。
此れ以後、スサノオ一族は、京都にやってきます。日枝神社、松尾大社、八坂神社、伏見稲荷大社の祭神として祭られています。

簡単に書きましたので、理解困難かも知れませんが、このように考えますと、松尾神社と松尾大社を奉祀している人たちは、遠くに離れていますが、スサノオ一族の人ですから、何年たっても、関係を結んでいたと考えていいと思います。

今回、ここに取り上げましたのは、天孫降臨のときに、家来として瓊瓊芸命に従った「思兼神」が、ここで祀られているので取り上げました。しかし、大正11年3月20日 境内末社田中神社(祭神 思兼神)が、松尾神社に合併したとありますから、田中神社は、どこにあったのか判りませんが、他の神社と同様に、東伯郡に所在したのではないでしょうか?

木花開耶姫命は瓊瓊芸命と結婚しました。木花開耶姫命の表記の仕方は、日本書紀に書かれている表記です。

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2008.10.07

資料No34 郷社 宮崎神社 古老の話

鎮座地 東伯郡大誠村大字島字宮ノ後口   地図 
http://www.jinja.in/single/86825.html

現在地 鳥取県東伯郡北栄町大島648番

この資料は昭和9年のものですが、いろいろ面白いことが判ります。昔、大誠村大字島という所が、現在は北栄町大島 となっているところです。 「島」の周囲の海抜を調べますと、4m以下です。ということは、いつのことか判りませんが、4m以のところは、海でした。
(海抜を調べる方法は、精密ではありませんが、次の方法で可能です。カシミール3Dをインストールします。フリーソフトですから、無料です。購入しても知れています。本も付いていて、3000円ぐらいだったと思います。ソフトを可動させて、「大島」で検索し、いっぱいでてきますから、鳥取県の中から選択します。もし、多すぎるときは、北栄町で検索しますと、一帯の地図がでます。そこから、大島を見つけます。 大島の周りにポイントを持ってきますと、標高が表示されます)
東伯郡には、郷社が13社あります。全部で141社ですから、特別な神社てあったと考えていいと思います。どのように特別であったかは、これから調べます。

祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、素盞鳴尊、天児屋根命 ですが、後ろに書いてある通り、素盞鳴尊、天児屋根命は、西穂波神社と穂波神社から大正三年にやって来られた神さんです。
 従いまして、元々は、伊弉諾尊、伊弉冉尊を祭っていたと思われます。しかも、古いのではないかと思います。
由緒は長くて、書き移すのがしんどかったのですが、省略しないで、移しましたので、読んでください。
どの神社にも見られるように、創建及び沿革等が判らないと書いてあります。原因は、文化年度の火災に焼失とあります。神社の記録が無いとあるだけで、どこかにあるかも知れません。
小朗の口碑略に言う のような話は、どこにでもあるように思って、無視しがちですが、丁寧に読みますと、孝霊天皇の御字皇子大日本根子彦国牽尊や景行天皇の御宇、皇子日本武尊の名前が出てきます。これらのことは、一応、置くことにしますが、頭の隅に置いておき、どこかで似た話が有った時には、すぐに引き出せるようにしておくことが大切かと思います。

 この資料は、昨日、出来たばかりですので、まだ、検討の最中です。
 大島は、西穂波と穂波の中間の位置にあります。 大島の近くには、亀谷神社があります。
タイトルの古老の話については書きませんでしたが、孝霊天皇と景行天皇の名前が出ると云う事は、どう言うことか、考えて頂ければと思います。
皆さんで、調べて頂ければと思います。
 
以下に、資料をそのまま、掲載しておきます。

鎮座地 東伯郡大誠村大字島字宮ノ後口   地図 


現在地 鳥取県東伯郡北栄町大島648番

祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、素盞鳴尊、天児屋根命
由緒 創建及び沿革等の古書類は渾て文化年度の火災に焼失せしにより詳ならざれども古老の口碑略に曰ふ本村土地の姿たる往古は入海にて、今に当村の北に瀬戸といふ村名又艮の方に原灘といふ地名巽に穂波といふ村名南に大船頭鼻といふ地名坤に高鼻及び津原の村名にしに汐ノ宮等の名称を存せり、舟筏無くば他村に渡渉し難き処にして、湖水満る時は民家将に沈没せむとし土人頗る之に艱難す、是に於て孝霊天皇の御字皇子大日本根子彦国牽尊、土人の為今の本社地に御祖伊弉諾尊伊弉冉尊を奉齋し給ひき、是れ本社の濫觴なりと、斯くて数十年を経て景行天皇の御宇、皇子日本武尊の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引寄するが如く本社地乾の隅に着御し給へり、尊大に歓喜し給ひて宜はく斯く清らかなる地の海面に浮出つるはこは浮洲にやと、是より社地を称して浮洲の社と云ふ、洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨き給ひて二尊を祭り神助を謝し給へり、御飯を炊き給ひし地は本社の北にあり今飯ノ山といふ、斯くて其後風波穏やかになりければ如何なる御訳にや、小艇は此処に?置き給ひ御艦に召され進発し給ひしと云ふ、其小艇石に化して今に社畔に在り、土人は之を石船と称して崇祀せり、又御難風の御時尊の御沓を一隻海に失ひ給ひしが、後潮引ける時本社より西方なる山岸によれり、土人此沓を奉して祀れり、是今の汐宮なりといふ、其後幾何の星霜をか経にけん、原瀬戸両村の北に砂浜つきて入海漸々鹵沢して巨多の良田となれり然れども本村の地のみは尚池の中央に在て浮洲の社の形容を存したりしが、元和三年に国主松平光政の時この鹵沢を田地に開墾せむとし着手し給へども、如何せん池の流末なる大川口より波打揚潮差来りて成功の期なし、時に神殿奉行円乗寺勘兵衛なるもの本社の旧社にして神徳著しきを畏み懇に祈願せしが、冥護空しからず漸々多数の田地開墾あり、之に依て国主光政感喜斜ならず、終に古地朱高三石九斗一升の社領を寄附して藩の祈願所と為し、例年三月九日社職へ祈祷を命ぜられ祈祷料銀六十二匁宛下し給ひ、本社よりは神札を献上するの例にて、その後寛永九年五月光政備前に移封せられた松平相模守光仲因伯の太守となりし後も尚ほ前例により更に崇敬厚かりき、明治八年地租改正の蔡社領地は村共有の名義となりしも、毎年該地の作徳米を以て本社の経費に補償し来りしが、大正十一年四月該地は本社の縁故地の故を以て本社の財産として寄附せらる、明治二十六年九月元因伯の太守侯爵池田輝博より相州秋広作(長二尺三寸四分)の刀剣一振を奉納せらる。
 明治四十年二月三日神饌幣帛料供進神社に指定せらるる、大正三年十二月六日大誠村大字西穂波字大門

鎮座無格社西穂波神社(祭神 素盞鳴尊)を合併す、同五年五月十四日大誠村大字穂波字塚林西 

鎮座村社穂波神社(祭神 天児屋根命 )を合併す。


例祭日    4月9日
建造物    本殿、拝殿、神門、神輿庫、参籠所 
境内坪数   935坪
氏子戸数   130戸

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2008.10.06

資料No33倉阪神社 村社  鳥取神社誌より

データーは、http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-217.html に掲載しました。

もう一度、転記します。 このデーターは、昭和9年に、皇紀2600年である昭和15年を迎えるにあたって、全国的に、神社のデーターを作ろうとされたようです。このデーターから、全国に神武天皇を祭る神社がどれだけあるかも分かりました。
【神武天皇を祭った神社】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page311.html

とは言うものの、コンピューターのない時代ですから、作業は大変だったと思われます。
本当は、どのようなことが目的であったかを調べていませんが、この膨大な作業を知ると、この後、日本は、「神の国」へと突入して、世界を相手に戦争をしたという近代史は間違っているのではないかという気がしています。
 もっと、多くの思いがありますが、又の機会に書くことにして、このデーターを見て考えたことを書いていきます。

鎮座地 東伯郡上郷村大字倉阪字宮ノ谷   地図 
ht

現在地 鳥取県東伯郡琴浦町倉坂1229番

祭神 石凝姥命,事代主命、素戔鳴尊、雅産霊命、大山祇命、豊櫛命
由緒 創建年月不詳、往古より倉阪村の氏神にて国石大明神若一王神と称す、明治維新の際倉阪神社と改称せられ、明治五年村社に列す、大正四年十二月十一日上郷村大字倉阪字石臼谷鎮座無格社一家神社(祭神 素戔鳴尊)を合併す、昭和七年七月十七日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

例祭日    7月9日
建造物    本殿、拝殿、参籠所 
境内坪数   536坪
氏子戸数   65戸

考えたこと---氏子戸数65戸という数字は、一つの村が、上手くやっていくことが出来る数字ではないかと思っています。ただ、一家神社(祭神 素戔鳴尊)がどうして、合併されたのか知りたいところです。昭和9年ですから、当時のことを知っておられる方が居られる筈です。
 祭神をご覧ください。
 石凝姥命,事代主命、素戔鳴尊、雅産霊命、大山祇命、豊櫛命

素戔鳴尊は、合祀されたから書いてあるのでしょう。大山祇命は、ニニギ命が結婚した木花之佐久夜毘売の父です。雅産霊命、豊櫛命の二人は調べていません。
石凝姥命は、天孫降臨のときに、ニニギに従ってきた人です。
 どうやら、すべて、古い神のようです。
 ということは、少なくとも、この辺りは、江戸時代に開拓されたところではなく、もっと、昔からあったと考えるべきです。
石凝姥命は作鏡連(かがみづくりのむらじ)らの祖神とされている。 古事記では伊斯許理度売命、別名 櫛石窓神、豊石窓神、日本書紀では石凝姥命と表記されています。

この神社は、式内社ではありません。式内社は、祭神がすべて、日本書紀に書かれている神の名前となっています。と云う事は、藤原氏によって、無理やりに祭神の名前を書き換えられ、そして、その他の面でも、支配された神社だと考えています。

伯耆国の式内社は。僅か、6社です。
伯耆国の式内社
htここを見て貰いますと、
波々伎神社 八重事代主命
 波々伎神社は、式内社なのに、 祭神は、古事記に書かれている八重事代主命に表記されています。
倭文神社 健葉槌命
 倭文神社も古事記の表記の健葉槌命になっています。 この二社は、式内社に指定されましたが、神社の名前を変えることには、従わなかったことになります。

この様に見ていきますと、伯耆国の式内社が、僅か、6社ですから、天皇家の勢力が強かったことになります。倉阪神社は式外社ですが、石凝姥命,事代主命、素戔鳴尊は、日本書紀に書かれている表記ですから、藤原氏の支配を受けていたことになります。

倉阪神社は、創建時は、瓊瓊芸命の人たちとともに、祀られていましたが、その後、藤原氏の人たちが支配したと思われます。

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2008.09.26

資料No32八幡神社(北尾) 村社  鳥取神社誌より

鎮座地 東伯郡下北条村大字北尾字八幡山   地図

鳥取県の神社をすべて調べるつもりになっています。 一番の理由は、天孫降臨という言葉があります。ニニギ命が、高天原から降りて来た所が、鳥取県の東伯郡ではなかったかと思っています。そこで、先ず、東伯郡だけでもと思いますが、東伯郡だけで、141もの神社があります。全部調べる訳には行きませんので、気になった神社から、調べていきたいと思っています。
 天孫降臨は紀元140年ころのことではないかと考えていますが、なに一つ証拠らしいものがありません。
有るとしますと、地名と神社と考古学上の資料かと考えます。そのような頃に神社があったのかと云いますと、無かったと思います。
 古事記や日本書紀が作られた時は、式内社という形で残っていますから、古事記や日本書紀との関係を絡めながら、考えてみようと思っています。

 一回目は、北栄町北尾にある八幡神社です。資料は、大正9年に作られた鳥取神社誌からです。
祭神 誉田別尊、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、住吉神、大山祇尊、猿田彦神、素戔鳴尊、大己貴尊、少彦名尊、国常立尊、綿津見神、奥津彦神、奥津姫神、菅相烝、土御祖命、倉稲魂神、天児屋根尊、山神

由緒 当社は清和天皇貞観七年八月(866)筑紫宇佐八幡宮の御分霊を奉祀して産土神とし尊崇するものにして郡内屈指の大社なり、古来庶民の崇敬は固より武門武将の尊信篤し、永禄五年岩倉城主小鴨左衛門元清社領五百石寄進。
天正八年吉川元和春鞍骨一脊寄進、元和二年里見忠義社殿を造営す、北尾堤城主山田左衛門尉紀秀員入道眞観なるもの弘安六年の制作に係る梵鐘を改鋳奉納す。
 明治40年4月27日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
 大正2年12月28日 
下北条村大字曲字苅山 鎮座 村社苅山神社 (祭神 綿津見神)
       同上字岡 鎮座 村社岡神社 (祭神 素盞鳴尊)
同上字米里字三ノ崎鎮座 無格社 嶌沢神社 (祭神 素戔鳴尊、大山祇尊)
同上大字島字田村 鎮座 無格社 田村神社 (祭神 猿田彦尊) 
同上大字弓原字妙見 鎮座 無格社 田井神社 (祭神 国常立尊)
同上大字下神字南宮脇 鎮座 無格社 下神神社 (祭神 菅相烝)
同上大字土下字宇野本 鎮座 無格社 三輪神社 (祭神 大己貴尊、少彦名尊、猿田彦神、倉稲魂神、天児屋根尊)
同上大字弓原字飯田 鎮座 無格社 弓原神社 (祭神 奥津彦神、奥津姫神、菅相烝、土御祖命
の八神社を合祀する。
大正11年5月 当社後方の崖より古鏡、香合、櫛、経筒、刀剣を発見す、何れも藤原時代の制作にして優秀なものなり、文化年中にも社前の石崖修繕中石櫃を発見せしが中に刀剣経筒古文書巻物十卷あり現に宝物として保存す。
 合併神社三輪神社は大国主尊、少彦名尊を祀り、猿田彦神、倉稲魂神、天児屋根尊を合祭す、当神社は大正二年神社整理の結果八幡に合併せるものなるが元官帳所載の三輪神社なるを知るに足るものあれば茲にその概要を記す。

一、地名 上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ、大和国三輪神を遷し奉りしより此の名称出づ。
二、往古三輪神の鎮座地は下神郷の中央なる三輪山の麓字三輪脇に在りしが、宝暦三年の火災により野本山に移転せり。
三、鎮座地 土下(ハシタ)は往古土師部の此の地に移住せしより地名とす、土下山の頂には今尚数百の古墳散在し古器物を発見す。
 例祭日 10月15日
 建造物  本殿、弊殿、拝殿、随神門、社務所、参籠所、第二参籠所
 境内坪数 6911坪
 氏子戸数 627戸

祭神が多いですね。どうしてだと思われますか? WEBで調べましたが、何故の多いのか、書いたものはありません。その代わり、八幡山の相撲や放生祭りのことが書かれていました。そのまま、記事を掲載します。著作権で叱られるかも知れません。叱られましたら、消去することになりますので、それまでの命です。
【八幡山の相撲は放生祭りの日、鳥居下の土俵で行われた。これは戦時中まで続き、広い観客席をいっぱいにした。
放生祭りは、放生会(ほうじょうえ)といい、八幡神社ではこの日、生きたものを放して、今まで殺生した霊を祭るという気持から生れたものであった。この放生会を行う所は県下で3ヶ所といわれ倉田八幡宮、逢坂八幡宮、北条の八幡さんであった。かつては8月15、16日が祭りであったが、養蚕とつどうので明治の中頃に10月15、16日に変更した。しかし、その年いせいち風(南東の風)が吹き荒れたので元に戻したという。】


この文で気になったことは、
①放生会を行う所は県下で3ヶ所といわれ倉田八幡宮、逢坂八幡宮、北条の八幡さんと書かれていることです。この地方では、八幡宮が3社はあるということです。多いのか少ないのか判りませんが、気になります。八幡宮は急に作られた可能性があります。その点を調べたいのです。
②「養蚕とつどう」とはどういうことでしょうか? 私は、この5年間、「絹」のことに注目していますが、鳥取は、倭文神社が、二社もあるのに、絹に関する記録が少ないところです。少なくとも、倭文神社の周りで絹が作られていても、おかしくないのに、ありません。
③いせいち風(南東の風)が吹き荒れたので元に戻したの意味も解りません。地元の方ですと、すぐにわかるとおもいますが・・・。

 日本海新聞に北条八幡神社
に追儺式のことが掲載されています。この記事には、前田昌彦宮司の言葉として、
 北条八幡宮は、平安末期に山城国(京都府)の石清水八幡宮別宮として鎮座し、千余年がたつ歴史ある神社であると書かれています。上に書きました 鳥取神社誌より写したものでは、「当社は清和天皇貞観七年八月(866)筑紫宇佐八幡宮の御分霊を奉祀して産土神とし尊崇するもの」とあります。どちらが正しいのでしょう。

どちらにしても、北条八幡神社は、宇佐八幡宮か石清水八幡宮から勧請されたことになります。
祭神がどうして多いのかは、由緒に書かれてある通り、八社の神社を合祀したからであることが判ります。どうして、 大正2年12月28日 に一気に合祀することになったか知りたいところですが、今の所分かりません。
 八幡神社は全国にたくさんあります。祭神は、応神天皇が普通です。由緒には、誉田別尊と書かれています。どうして、応神天皇ではなく、誉田別尊なのでしょう。
合祀された神社の祭神を八幡神社の祭神から除きますと、誉田別尊、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、住吉神、山神が残ります。

誉田別尊についての考察--誉田別尊の名は、神功皇后の47年の所に、太子誉田別尊として日本書紀に掲載されています。日本書紀の応神天皇紀には、誉田天皇が記されています。
古事記には、品陀和氣命。『播磨国風土記』には、品太天皇(ほむだのすめらみこと)と表記。 「上宮記」逸文には、凡牟都和希王(ほむたわけのみこ)と表記。
 従いまして、 誉田別尊は、太子のときの呼び名であって、天皇の呼び名ではなさそうです。しかし、天皇とされておられる方もおられます。仲哀天皇は、日本書紀では、
足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、古事記では、帯中日子天皇の表記です。
仲哀天皇の名は、記紀の両方にも見つかりません。(その内に見つかる?)
ということで、八幡神社の由緒に書かれてある祭神・誉田別尊、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、住吉神、山神は、昔から伝えられている祭神とは限らないようです。
住吉神とは、底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命を言いますが、どうして、ここに祀られているのでしょう。
山神も不明です。
 判らないことばかりですが、このままにしておきます。


参考--貞観七年 貞観期に起きた出来事 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E8%A6%B3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)#.E8.B2.9E.E8.A6.B3.E6.9C.9F.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.8D.E3.81.9F.E5.87.BA.E6.9D.A5.E4.BA.8B富士山噴火-- 


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2008.09.24

資料No31 松神神社

東伯郡下北条村大字松神字屋敷  (鳥取県東伯郡北栄町松神796番
 地図

祭神 猿田彦神、木花開耶姫命
由緒 創立年月不詳、往古より松本大明神と称し、大字松神の産土神として崇敬せり、明治五年大字北尾鎮座・村社八幡神社を以て産土神となし同神社の摂社として社号を松神神社と改称せらる。
例祭日 4月8日
建造物 本殿、神楽殿兼通門、神輿庫
境内坪数 269坪
崇敬者戸数 85戸   鳥取神社誌より

この神社の鎮座地は、東伯郡下北条村大字松神字屋敷です。松神神社があったから、地名が大字松神となったか、地名が松神であったから、神社の名前が松神神社となったかは、不明です。

 この神社を調べる気になったのは、
由緒 創立年月不詳、往古より松本大明神と称し、大字松神の産土神として崇敬せり、明治五年大字北尾鎮座・村社八幡神社を以て産土神となし同神社の摂社として社号を松神神社と改称せらる。
ここに書かれてあることが納得できません。往古より松本大明神と呼ばれていた神社の祭神が、どうして、猿田彦神、木花開耶姫命に代わってしまったかです。

もう一つは、東伯郡下北条村大字松神字屋敷の村の産土としていたのですが、明治五年大字北尾鎮座・村社八幡神社を以て産土神となし同神社の摂社として社号を松神神社と改称せらる。と書いてあることは、何故か、理由があって、産土神とすることは、禁止されて、八幡神社の摂社になってしまいました。

そもそも、私がこの神社に興味を持ったのは、二つあります。神社の名前が、松神神社だったからです。土地の名前に、「神」がはいっている場合は、ユダヤ人が住んでいたからではないかと推察しています。この松神の近くに、下神と上神という地名があります。ここも、そうだと想像しています。こちらは松神と違って、「シモツワ」、「カズワ」と呼び、難読地名です。
 どしてこのような、名前があるのか、難読だでけでは、証拠になりません。そこで、この推理が正しいことを説明出来ればと思っています。
往古より祭神は、松本大明神と称されていたと書いておられますが、わたしは、猿田彦神、木花開耶姫命が、元々祀られていた神の名前だと思っています。というのは、二人とも古い神の名前だから、古くから神社があったと思っています。その祭神が、使うことを禁止されて松本大明神になったのではないかと思います。しかし、八幡神社の末社になることを条件に、猿田彦神、木花開耶姫命が復活されたのではないでしょうか?

猿田彦神はアマテラスの孫であるニニギが、高天原から降臨する時に、ニニギが道に間違わないように、分岐が多い道で待っていた神です。三重県の神社にいっぱい祀られていますから、三重県から遠いところまで向かいに来た事になります。そして、そのニニギは、三重県に行ったのかと云いますと、福岡県に祀られています。ニニギ父親の天忍穂耳命も九州の神社で祀られています。ということは、ニニギと天忍穂耳命がふたりで、九周征伐をしていたと考えますと、推理がすっきりします。

それと、同様に木花開耶姫命のことを推理してみます。ニニギが降臨してきたときに、笠沙の御崎で麗しい美人に遇われました。「あなたは誰の娘かとききますと、「大山津見神の娘、名前は神阿多都比売、又の名前は木花の佐久夜毘売」 と言ったと古事記に書かれています。
木花開耶姫命は、コノハナノサクヤビメと読まれています。一般的には木花咲耶姫と記され、これでしたら、コノハナノサクヤビメと読むことはできます。古事記の木花之佐久夜毘売は、だれでも読むことができます。別名を古事記では神阿多都比売(カムアタツヒメ)、日本書紀では神吾田津姫、鹿葦津姫または葦津姫(カヤツヒメ)が本名でコノハナノサクヤビメは別名としています。日本書紀の鹿葦津姫または葦津姫も読むことは不可能です。
 日本書紀では、古事記に出てくる地名や名前は、全部、古事記と異なる漢字を使つています。そのために、殆ど、読むことはできません。
 神阿多都比売をインターネットで検索しますと、薩摩の国阿多郡の阿多だとしておられます。(岩波文庫の『古事記』の中で、校注者の倉野憲司氏が注釈に書いておられるからでしょうか) また、神は美称だと書いておられます。
 神阿多都比売の「神」はユダヤ人であることを表しています。阿多は生まれた土地を表しています。
猿田彦神は、古事記では「猿田毘古神」となっています。
猿田彦神、木花開耶姫命は、天孫降臨の頃に、松神のあたりに住んでいたか、一時滞在していたと考えますと、無理がありません。古事記に載っていたから、格好がよいので、私たちの産土の神にしようではないかとはならなかったと思います。
松神神社は、元々、猿田毘古神と木花佐久夜毘売が祀られていたのですが、この村は、藤原氏の勢力範囲となり、祭神は、松本大明神を名乗るように言われていましたが、八幡神社に吸収されてしまいます。そして、そこでは元の松神神社を名乗りましたが、猿田毘古神と木花佐久夜毘売は認められなかったか、長い年月の間に、忘れられ、漢字は違う猿田彦神、木花開耶姫命が祭神になったのではないでしょうか?
それはごく最近のことで、明治五年のこととされています。

明治40年前後に、神社の合併がありました。三重県です。当時の政府の方針だったと思われますが、何があったのでしょうか? これが解けませんと、日本史の真相は解明できません。
 
次回は、八幡神社の摂社にされたのですが、その八幡神社はどのような神社であったのかを調べてみます。

この松神神社が、天孫降臨前後に関わった二人の神が祭神ということは、天孫降臨は、九州ではなく、この近くだったのではないでしょうか?

このような観点から、日本書紀を読みなおしますと、日本書紀の本文には、猿田毘古神についてはなにも書かれていません。日本書紀の編集者は、他の書きものには、こんなのがありましたよと、全部で、八つの書物を掲載しています。この中の「第一書」とされるところには、猿田毘古神のことが掲載されています。

 日本書紀の作者は、伯耆の国に、ニニギが天孫降臨したことを書きたくなかったのではないでしょうか?

参考に
三重県の神社整理(神社合祀)
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page711.html 
誰が何のために、100あった神社を潰したのでしょう。三重県だけに限りません。特に、戦後の歴史は、日本人全員で考え直さなければなりません。  H20.09.24

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2008.09.16

資料No29上神大将塚古墳

所在地:鳥取県倉吉市上神
指定年月日:昭和63年7月7日

古墳時代前期の古墳で、直径25m、高さ3mの円墳。大正5年1月14日(1916)からの発掘により、大型箱式石棺の中から、多くの副葬品が発掘されました。

保育社の『日本書紀の古代遺跡・鳥取』によれば、
三角縁三神三獣獣帯鏡 1
碧玉製鍬形石 1
滑石製琴柱形石製品  4
管玉 22
臼玉  31
槍身 1
斧頭  2
刀身残欠 1
このほか、当時散失したもののなかには銅鏡三面があった。多くの玉類や鉄器が出土。これらの遺物の多くは東京国立博物館に収蔵されています。

碧玉製鍬形石や滑石製琴柱形石製品は、山陰では極めてまれと記されています。

小林行雄博士の研究によれば、三角縁三神三獣獣帯鏡と同笵関係のものが、大阪、京都、滋賀、愛知などに合わせて七面知られている。


スプリング8 利用
http://www.spring8.or.jp/pdf/ja/SP8_news/no16_04/p2-p4.pdf


追加—上神は「かずわ」と読みます。 下神という地名が、 鳥取県東伯郡北栄町下神にあります。前は北条町だったと思います。

「倭名類聚抄」によりますと、伯耆国には、東から、河村、久米、八橋、汗入、会見、日野という六郡があり、久米には、八代、立縫、山守、大鴨、小鴨、久米、勝部、神代、下神(しもずわ)、上神(かずわ)の郷がありました。
和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。
承平年間 (931年 - 938年) 、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂したとされています。従いまして、この年間には、神代、下神、上神の郷は存在したと思われます。国府は、久米郡八代郷にあったと言われています。
 下神の近くに、松神、弓原、田井という町があります。
下神と松神を結ぶ道が、曲がって走っています。ここは、古くからある道で、海岸線だったと思います。弓原、田井は海抜、4mですから、海であった時代があるということです。
海をへだてて、下神、上神があったことになります。普通は、地名があり、集落が次第に大きくなりますと、上と下に分かれますが、そうしますと、「神」という地名があって別れたことになります。
 ここらあたりは、もう一度、検討の余地があります。

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2008.09.15

地名---上神・国府・大谷・寺谷・大谷茶屋

国府の説明を書こうと思いますが、難しいので、『ウィキペディア(Wikipedia)』より借りてきます。
国府

律令制において、国司が政務を執った施設を国庁といい、国庁の周囲は塀などによって方形に区画されていた。国、郡、城柵で政務の中心となる建物をまとめて政庁というので、国庁もしばしば政庁と呼ばれる。国庁とその周りの役所群、都市域を総称して国衙(こくが)、国府という】
 741年に聖武天皇の詔によって、全国の各国に、国分寺と国分尼寺を造るように命令されたことになっています。全部調べたわけではありませんが、今までに、知った国分寺は、その国の真ん中に造られ、しかも、洪水などになり難いようなところに造られていると思います。
 倉吉市の地図をみて、上神・国府・大谷・寺谷・大谷茶屋の地名を見つけてください。
少なくとも、伯耆国においては、国府辺りが国の中心だったと考えていいと思います。
「国府」は、「こくふ」と読む所がありますが、ここでは「こう」だと思います。近くに「国府川」が流れており、「こうかわ」と呼ばれているからです。どこの国の国府でも、国府は室町時代に完全に消滅し、ほとんどが所在不明となりましたから、「国府」をどのように読むかさえ分からなくなりましたが、川は流れ続けましたから、川の名前は、残されたと思います。
 本当に、この辺りには、多くの人が住んでいたのか、また、どのような人が住んでいたのか?  確かめる気になっています。

 ① 国分寺古墳      所在地:国府 国分寺
 ② 三度舞大将塚古墳  所在地:大谷
 ③ 上神大将塚古墳    所在地:上神
 ④ 猫山古墳群      所在地:上神
 ⑤ 寺谷3号墳      所在地:寺谷
 ⑥ イザ原古墳群     所在地:大谷茶屋

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2008.09.14

資料No28 長瀬高浜遺跡の概要

平均1mの黒砂の中からは、弥生時代前期の土器(2200~2300年前)から、中世末期(400年前)の五輪塔があった。  (私の考え、400年前までは正しいですが、弥生時代前期の土器は最近の資料を見ていますと、研究者によって、当てにならないと思っています。従いまして、他の遺跡などとの比較なども深める必要があると思われます)

竪穴住居跡  150棟  ここからは、多数の土師器。中には、畿内庄内式系の叩きをもつ甕や瀬戸内式・酒津式系の甕をみられる、小片であるが、備讃瀬戸地方の製塩土器も出土している。
           多数の鉄器出土。
           農工具や鉄鏃・短剣等の武器。
           剣形鉄製等の祭祀用具や釣針・銛。
           小銅鐸、剣、素文鏡・櫛歯文鏡・捩文鏡の小型鏡。
           12本の鏃、ヤリガンナ状銅製品や釧なども出土。
金メッキされた座金具状銅製品。 これらの殆どが小型に作られているため、祭祀用具と見られる。
掘立柱建物   50棟
井戸       6基
古墳      30基  土師器とともに古式須恵器が副葬。
石棺墓     25基 石棺内には、鉄剣・刀・鏃が少量ずつ入れられていた。一号墳の箱式石棺に、「つづらさわまき」のカタナとはこんな形をしていたかと推察される。鞘に絹紐を巻いた立派な太刀一口副葬。
<八雲立つ 出雲梟帥が 佩ける太刀 黒葛(つづら) さわまき さ身無しに あわれ>
木棺墓     20基  

形象埴輪群   1ヶ所  家形埴輪5個体・甲冑形埴輪3個体・盾形埴輪3個体、蓋形埴輪10個体・円筒埴輪10個体は、本来は樹立していたと考えられる形で掘り出された。(下線の意味が不明。全部、倒れてわれて見つかったのに、どうして、建っていたと考えるのか)。
             古墳以外
弥生時代前期の玉作工房をともなう住居跡  5棟
 ここからは、数千個のチップ(清佐久によって生じた石屑)、作りかけの半製品、石製の工具類が多量に出土。
墳墓群      50基

中世の火葬墓   50基
五輪石  約50個

長瀬高浜遺跡のことは、忘れていましたが、下記のところに書いています。その下に、全部書きくわえて置きます。以前の文は、何時の資料か、どこから集めたのか記憶がありません。
上記に書いたものは、1983年発行の『古代文化 35号』のものです。25年前のものです。
なにか新しい発見が、発表されているかと思いましたが、発表されていません。どんどん、発表してほしいですね。


No302 長瀬高浜遺跡を探る 
 http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-12

遺構
 ①弥生時代前期の玉作り工房跡4棟、住居跡2棟
 ②古墳時代の竪穴住居跡167棟。大型高床建物を含め掘立柱建物41棟と井戸跡6基。
 ③奈良時代の掘建柱建物3棟
 ④弥生時代前期~中期の土壙(こう)墓群、古墳41基、箱式石棺62基、木棺墓24基、
   土壙墓23基、土
器丘陵地帯の古墳と長瀬高浜遺跡は関係あるように思いますが、資料がありませんので、長瀬高浜遺跡のことだけを考えて見たいと思います。
遺構
 ①弥生時代前期の玉作り工房跡4棟、住居跡2棟
 ②古墳時代の竪穴住居跡167棟。大型高床建物を含め掘立柱建物41棟と井戸跡6基。
 ③奈良時代の掘建柱建物3棟
 ④弥生時代前期~中期の土壙(こう)墓群、古墳41基、箱式石棺62基、木棺墓24基、
   土壙墓23基、土器棺墓4基、円筒埴輪棺13基からなる古墳群。
 ⑤中世の火葬墓81基。土葬墓81基。
 ⑥大型方形周溝墓、埴輪群、土塁状遺構。
遺物
 大半は古墳時代の土師器です。外には、鉄製農工具、釣針、土錘。小型の銅鐸、銅剣、銅釧、巴形銅器、銅鏃が10数個。小型素文鏡。7号周溝墓に馬が埋葬。多数の馬の骨出土。
古い時期からの須恵器や鉄製武器類、玉類。
円墳1号墓から、箱式石棺から女性の遺骸と一緒に枕として、高杯3個、前頭部に竪櫛、右手横に絹紐を巻いた太刀が置かれていた。
この遺跡の最大の特徴は、お墓ではないところから、膨大な埴輪が出土したことです。墳墓飾られている埴輪は、円筒埴輪が少なくて朝顔形埴輪との比率が1:10と逆の現象を示していることです。従いまして、このことから、保管していたと考えられますが、ある墳墓ように発注されたものであれば、円筒埴輪のほうが多いのですが、逆であることは、複数の依頼者から頼まれて制作していたことになります。今後の調査結果によりますが、船を使って、意外に遠くまで運んでいたのかも知れません。
屋根の上に見える横の木を鰹木といいます。伊勢神宮などに見られる特殊なものです。雄略天皇のところに次の文章があります。
大后が日下に居られた時、真っ直ぐに峠を越えて日下に行こうとされた(天皇が)。山の上(信貴山)から眺めたら、堅魚木を上げて屋根を作っている家がありました。天皇はその家の者に尋ねました。「その堅魚を上げて舎を作れるは誰が家ぞ」答へて云うには、「志幾の大縣主の家ぞ」と云いました。そこで、天皇は言われました。「奴や、己が家を天皇の御舎に似せて造れり。」直ちに、人を遣わしてその家を焼かせようとしますとした話が書かれています。上の写真は、実際の家ではなく、ハニワですが、ミニチユアーとは云うものの、鰹木の使用は許されなかったと思います。このようなハニワは、いくらでもありますよと、ある資料館の学術員の方が言われましたが、私は30ヶ所ぐらいしかないと思っています。例の魏志倭人伝の冒頭に出てくる「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。旧百余国。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十国」の30所です。
「志幾の大縣主の家」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page813.html に書いています。
「岡山南遺跡のハニワ」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page823.htmlもう一つ気になるものは、「円墳1号墓から、箱式石棺から女性の遺骸と一緒に枕として、高杯3個、前頭部に竪櫛、右手横に絹紐を巻いた太刀が置かれていた」のうちの「右手横に絹紐を巻いた太刀」の部分です。絹が使われています。中国で作られた太刀かもしれませんが、女性の右側に置かれていました。武器ではなかったのでしょう。ここに絹が使われていました。
 絹に携わっていたから、このような製品を持っていたのではないでしょうか? はじめの頃は、銅鐸が出ていますから、大国主命の系統のものが、絹の采配を振るっていたのではないかと考えます。その後、最盛期には、100m級の前方後円墳を作るようになったのではないでしょうか?  7世紀には、志津の倭文神社は、日本書紀を編纂する藤原不比等らに、制圧されます。天皇の近衛兵であり、雑用係が住んでいた舎人村にある倭文神社も式内社になりましたから、藤原不比等らの支配下になったと思われます。
長瀬高浜遺跡は絹を巡って、多くの人が戦いを繰り広げた所だったと思われます。

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2008.09.11

資料No27 長瀬高浜遺跡と天神川

長瀬高浜遺跡は、鳥取県東伯郡羽合町長瀬字高浜にあります。No26長瀬高浜遺跡において、地図を眺めて頂きました。少し、小さすぎましたので分かりにくかったと思います。

新しいことを考えています。鳥取県の歴史を探ろうと思っています。その第一のものとして、長瀬高浜遺跡を取り上げました。
Photo


上の地図をご覧ください。天神川の上の方の右岸に記しがしてあります。ここが、長瀬高浜遺跡です。遺跡の少し南に、東北に向かってカーブの道が見られます。これは、昔の天神川の堤防とおもわれます。旧天神川は、そのまま、日本海に流れ込んでいましたが、現在の橋津川のところへ流れ込んでいました。従いまして、長瀬高浜遺跡は北条砂丘の一番東に位置したことになります。『古代文化 35号』によりますと、もと旧天神川の流れは、江戸時代以後と書いてあります。古い川は曲がっているのが普通で、洪水などが多いおおいので、人の手が加わり、まっすぐになると思われます。添付の地図は、小さいので、鮮明ではありませんが、カーブの北に多くの集落が記されています。カーブに上は、川の中に当たりますから、川洲に集落が出来たことになります。集落はここだけですから、この集落のために、河川の付け替えが行われたのも、不思議な気がします。

天神川の概要
 天神川は、鳥取県の中央に位置し、その源を鳥取県東伯郡三朝町の津黒山に発し、福本川、加谷川、三徳川等の支川を合わせて北流し、倉吉市で国府川、小鴨川と合流し、日本海に注ぐ一級河川です。
 その流域は南北に流れる本川の流路延長約32㎞に対して、東西の幅が約42㎞と、全体として東西に伸びたひし形の形状をしています。流域面積は490㎢で、鳥取県中部における社会、経済の基盤となる地域に及んでいます。
http://www.cgr.mlit.go.jp/kurayoshi/river/tenjingawa/tenjingawa.htm 流域面積の地図や航空写真を見ることができます。
南北に流れる本川の流路延長約32㎞ですので、天神川は他の一級河川に比べて急勾配な上、洪水時の河川水位は周辺の地盤より高くなっています。流域の形状から洪水の流出が早く、またほぼ同じ流域面積を持つ本川天神川と支川小鴨川が倉吉市街地付近の平地で合流するため、大雨が降ると流出が重なり、合流点とその下流ではピーク時の流量が降雨と比較して大きな値を記録することがあります。(倉吉河川国道事務所より)

以上のことから、長瀬高浜遺跡は、何度も繰り返される洪水の地下で埋もれていたことになります。
ただ、2000年前にこの遺跡で暮らした人たちの墓などは判っていません。東郷池の東野馬ノ山古墳群のお墓は、この遺跡の人と関係があるのでしょう。

天神川を遡りますと、小鴨川の支流と分岐します。天神川にそって、国道179号線が走っています。南にある津黒山(1118m)から水を集めた大谷川と福本の集落の水を集めて、天神川に合流しています。
この天神川という名前は、いつ付けられたか判りませんが、土地の方は、小鴨川との分岐点の所からじょうりゅうを現在でも、竹田川と呼んでおられるそうです。分岐点を少し上ったところに、竹田橋として竹田の名前が残っています。

どうして、竹田川と呼ばれていたものが、天神川と呼ばれるようになったかを知りたく思っています。
東伯郡三朝町には、29社の神社があります。
畠谷神社   鳥取県東伯郡三朝町三徳1226番
笏賀神社  鳥取県東伯郡三朝町笏賀468番
大宮神社   鳥取県東伯郡三朝町大瀬370番
五郷神社  鳥取県東伯郡三朝町牧560-1
本泉神社  鳥取県東伯郡三朝町本泉220番
清常神社   鳥取県東伯郡三朝町柿谷550番
北野神社   鳥取県東伯郡三朝町大字吉尾535番
三朝神社   鳥取県東伯郡三朝町三徳796番
今泉神社   鳥取県東伯郡三朝町今泉179番
山田神社   鳥取県東伯郡三朝町山田380番
坂本神社  鳥取県東伯郡三朝町阪本1167番
東小鹿神社 鳥取県東伯郡三朝町東小鹿690番
北野神社  鳥取県東伯郡三朝町片柴992番
神倉神社   鳥取県東伯郡三朝町神倉1053番
金森神社   鳥取県東伯郡三朝町余戸267番
俵原神社  鳥取県東伯郡三朝町俵原267番
中津神社   鳥取県東伯郡三朝町中津528番
小鹿神社   鳥取県東伯郡三朝町東小鹿1516番
大正神社   鳥取県東伯郡三朝町久原261番
熊野神社   鳥取県東伯郡三朝町大谷599番
幸能鶴神社 鳥取県東伯郡三朝町宍鴨590番
大畠神社  鳥取県東伯郡三朝町助谷854-2
守山神社   鳥取県東伯郡三朝町下畑697番
田代神社  鳥取県東伯郡三朝町田代663番
日幣咫神社 鳥取県東伯郡三朝町福本342番
賀茂神社  鳥取県東伯郡三朝町森331番
福山神社  鳥取県東伯郡三朝町福山196番
竹田神社  鳥取県東伯郡三朝町上西谷381番
玉坂神社  鳥取県東伯郡三朝町曹源寺247番
福本神社  鳥取県東伯郡三朝町福本

東伯郡--1896年3月29日 - 河村郡・久米郡・八橋郡が合併し発足。(1町58村)
1907年10月1日 - 高勢村・賀茂村・竹田村が合併し、旭村が発足。(3町52村)
1911年1月1日 - 西竹田村・東竹田村・源村が合併し、竹田村が発足。(3町50村)
1953年11月1日 - 三朝村・三徳村・小鹿村・旭村・竹田村が合併し、三朝町が発足。(8町14村)
ということで、現在の三朝町は、東伯郡竹田村と言われたところは、現在の三朝町の南に位置し、西に蒜山高原と接します。
ここに竹田神社がありました。この神社の由緒に福本にあった稗田神社を合祀したとあります。稗田阿礼は蒜山高原の東の福本字稗田の生まれでした。稗田神社があれば稗田阿礼が居たことが判るので手力男神を祭った竹田神社に合祀したのです。

竹田神社 東伯郡竹田村上西谷
  祭神  手力男神、大山祇神、須佐之男尊、猿田彦尊、伊弉諾尊、伊弉冊尊
以上6行、田村誠一著「燦然と輝いていた古代・総集編」 P109 より
(記事の内容、確認できず)        H20.09.10

もし、この記事が正しいとしますと、何故、三朝町福本に福本神社が無くて、日幣咫神社があることになるのかとの疑問がわく。

482号線を通って、岡山県に入ると、中和村です。ここきは、「ちゅうか」と読みます。近くに、「下和」「初和」の難読地名があります。中和を「ちゅうか」と読むのは、ユダヤ人の読み方か?

この地名のところを通って、岡山県の津山から東郷池まで、ユダヤ人によって絹が運ばれていたのではないかと推察しています。

『絹の道』http://homepage1.nifty.com/o-mino/page189.html

鳥取県側には、上神、下神、松神の地名が、ユダヤ人が名付けのではないかと推察しています。

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2008.09.08

資料No26 長瀬高浜遺跡(2)

前回に書きましたように、黒砂が1mほどあり、その下は、白砂でした。ということは、この1mの砂が蓄積する間、ここに古代の人が住んだことになります。
 出土した土器から判断すると、弥生時代前期(2200~2300年前)から、中世末頃(400年前)まで住んでいたことになります。
 その前と、その後は、押し寄せる砂のために住めなくなったようです。蓄積した黒砂が1mで、2000年かかっていますから、一年に0.5mmの草木砂の蓄積があったことになります。
 この砂丘には、隠岐島へ上陸した人たちが、その内に、上陸するようになり住み始めたのではないかと想像しています。
 その人たちは、3~6世紀頃には、地図上に黒く塗られた前方後円墳を作れるぐらいの人たちになったと思います。
北にある群集墓のある辺りは、30~45mの高台にあり、日本海を望めるようになっています。右のあたりに鳥居のマークがあります。これは、倭文神社です。この字は「しとりじんじゃ・しずりじんじゃ」と読みます。倭はヤマト、日本のことです。文は織物の意です。
 日本の織物は、絹織物であったらしく、絹織物とは言わずに、「しずり」と言っていたようです。それを中国人が、倭の織物という意味で、倭文と書きましたが、中国人はどのように発音していたのでしょう。日本の絹と同じものが中国にあれば、倭文と云わなかったと思います。 「しず」は、静、志津、賤ヶ岳のように、地名に付けられていますが、殆ど、絹と関係があります。
 
No298 倭文神社はなにを教えてくれるか 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-08No299 倭文神社はなにを教えてくれるか –2
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-09

倭文神社は、全国に14社存在します。この神社は織物に関係がある神社です。
上野国佐波郡           甲斐国巨摩郡
大和国葛下郡           但馬国朝来郡
伯耆国久米郡           伯耆国川村郡
駿河国富士郡           伊勢国鈴鹿郡
丹後国与謝郡           丹後国加佐郡
因幡国高草郡           美作国久米郡
伊豆国田方郡           近江国滋賀郡

伯耆国には、2社あります。この地図には見えませんが、志津という所にあります。
、それだけに、長瀬高浜遺跡は、絹織物と関係があったと考えています。全国から集められた絹は、この大きな東郷の湾から中国、そしてヨーロッパに輸出されたと考えています。

Photo_2

全国で、絹を扱っていたところには、全部,前方後円墳があります。絹はそれだけ富を生んだのだと思います。最も、質が良かったのは、埼玉・群馬辺りの絹ではなかったかと思います。
山上の古墳群は、馬ノ山古墳と呼ばれています。 参考ホームページ 
http://inoues.net/ruins/umanoyama.html普通の地図を眺めてください。
東郷池から、少し、西へ目を移しますと、下神という地名があります。「しもつわ」と言います。国分の近くに、上神があります。こちらは、「かずわ」と読みます。神という字が付く地名は、全国にいっぱいありますが、読むことが無理な地名は、ユダヤ人が住んでいたのではないかと推理しています。国分寺が建てられるようになったのは、741年後のことになりますが、伯耆国の場合は、もっと早くから、寺院が建っていたのではないかと思っています。絹を運んだのは、この湊からは、ユダヤ人ではなかったかと思っています。


随分、以前に、書いていました。

No301 東郷池周辺の遺跡  http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-11

No302 長瀬高浜遺跡を探る http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-12

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2008.09.07

資料No25 長瀬高浜遺跡

この遺跡は、鳥取県東伯郡羽合町長瀬字高浜にあります。
 遺蹟のあった高浜は鳥取県中部の北条砂丘の東端に位置します。現在は標高4mぐらいですが、最高の所では、16mほどあったそうです。と、清水真一氏は、『古代文化』1983春に書いておられます。ところが、ここを掘り下げますと、ほとんど何もない白砂があり、
この下1mの黒砂があり、この中に古代人の生活の痕跡が、ぎっしりと詰まっていたと書かれています。
北条砂丘は、古事記の天孫降臨の所に書かれてある「ここは韓国に向かひ、笠沙の御崎を眞来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此処は甚古き地」と書かれてあるところだと思います。天孫降臨の地は、どう言うわけか、宮崎県の日向ということになっています。
 いせきには、行ったのですが、時間がなく、資料館のみを見てきました。

Photo

出土品はここ羽合町歴史民俗資料館に展示・保管してあります。購入した冊子にすばらしいものもいっぱいありました。
 先ず、地図をご覧ください。東郷池は、海抜ゼロmです。直線は道路ですが、殆ど、4mになっています。神武東征が行われた紀元前は、この部分は、海であったと思われます。
 遺蹟の位置は、天神川の右岸、地図で見ますと、一番上の左に記しが付いたところです。(地図は、『古代文化』1983春から無断借用です) 

 内容をざっと、頭に入れるために、パンフレットから借用です。
この遺跡は、1977年(昭和57年)から7年間行われた発掘調査は約5万㎡にものぼり、これまでに弥生時代から奈良時代の竪穴住居址や掘立柱建物、井戸などの生活の跡が200棟以上、弥生時代から奈良時代、そして中世の墓が合計300基以上を数える他、弥生時代の菅玉をつくる日本最古と言われる工房跡や大型高床建物跡、埴輪群が見つかりマスコミをにぎわせました。遺跡の中心は1500~1600年前の古墳時代の集落と古墳群で、その密集度は県下随一です。出土品も出ないものがないと言われるほど種類も量もぼう大なもの。
大部分が弥生土器、土師器、須恵器などの土器ですが、その他石や鉄でつくった農工具や漁労具、刀・鉄鏃・玉などの副葬品、小型の銅鐸や銅剣、小型の鏡などの祀りの道具も多数出土しています。
このように長瀬高浜遺跡は古代史を考える上で大切な資料を示してくれる貴重な遺跡です。天神川流域下水道終末処理場と国道9号北条バイパスの建設に伴い、記録保存という形で広い範囲で消滅しましたが、1号墳は処理場内に移築され、出土品はここ羽合町歴史民俗資料館に展示・保管しています。

次回に、私の思いを交えながら、紹介します。9月は、2回連休がありますので、出来ましたら、一泊して、ゆっくり回られたらと思います。 

参考ホームページ 写真がいっぱいです。http://inoues.net/ruins/nagasetakahama.html

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2008.08.12

資料No24 大阪・加美遺跡で発掘

古墳期しのぐ規模、「方形周溝」27×15メートル 河内王権のルーツか 弥生中期の大墳墓
上の写真は、昭和59年12月26日 に読売新聞に掲載されたものです。活字を大きくして、楯にも横にもタイトルがいっぱいです。その内の一番小さいタイトルをこのファイルのタイトルにしました。それ以外のタイトルをはじめに列記しました。

この賑やかなタイトルを見るだけで、読売新聞の興奮が伝わる思いがします。

本文を紹介しておきます。
前文
古墳が出現する約三百年前の弥生時代中期」(約2000年前)の河内平野に並みの古墳を上回る大墳墓が築かれていたことが明らかになった。二十五日までに大阪市教委と市文化財協会が、同市平野区加美東6の加美遺跡で発見したもので、墳丘は全長27メートルと全国で最大の方形周溝墓。学会では「古墳の定義を書き換える」「中国戦国時代の墓制がうかがえる」などとおおきな反響をよんでおり、やがて巨大な前方後円墓を築く「川内王権」のルーツに結びつく重大な手掛かりと云える。

本文
 この周溝墓は、弥生時代末期の遺構が広がる加美遺跡の下層、現地表の約3.5mの溝が南北40m、東西28mにわたって掘られており、その中心に墳丘が、高さ2m、南北27m、東西15mに盛土でつくられていた。これまでに、頂上の平坦な部分から、高野マキ製と見られる木簡が13基埋め込まれているのが見つかっており、いずも人骨が残っていた。
 この時期の方形周溝墓としては、これまで最大とされていた東大阪市の瓜生堂遺跡の二号墓で、全長12m。岡山県倉敷市の楯築(たてつき)方形台状墓(全長推定70m)弥生末期から古墳時代にかかる時期で、「古墳」の原型の一つと見られており、今回見つかった周溝墓が、完全な「弥生墓」の中で最大となる。
 現地を見た森浩一同志社大教授(考古学)は「古墳がいつ出現したかは考古学、古代史上重要な関心事だが、今回の周溝墓は驚きだ。古墳の定義を書き換える画期的な発見」と高く評価し、古墳の出現について楯築方形台状墓などの敷きり三百年近くもさかのぼらせてもいいのではないか、と大胆な見解を取っている。
 また、この時期に十トンダンプで八十台という大量の盛り土をし、古墳をしのぐ大型墳墓を築いた集団について、同市教委では「これが首長クラスの家族墓とすれば、すでに当時社会的にそれだけの勢力(経済力)差が出ていたといえる。この土木技術は、巨大な前方後円墓築造につながる」と説明している。
 通称、支配体制の発生は、古墳時代に入ってからとされるが、今度の発見で弥生時代にまでさかのぼらせる根拠にもなるわけだ。特に、四、五世紀にかけて河内平野に応神陵などの古代古墳を造った「河内王権」につながるルーツともとらえられる。
一方、同遺跡の弥生末期(三世紀後半)の方形周溝墓、その近くの大溝からは、これまでに、機内では前期古墳(四世紀)からしか見つかっていない小型の国内製鏡二枚が見つかっている。
 
少し、長くなりましたので、著作権侵害で叱られるでしょうか? この記事は、ずっと以前から気になっている記事です。
 「この賑やかなタイトルを見るだけで、読売新聞の興奮が伝わる思いがします」と書きましたように、書かれた記者も河内平野に応神陵などの古代古墳を造った「河内王権」が解明されると胸を膨らませたと思います。
 河内王権は、解明されていません。 それどころか、方形周溝墓のことも分かっていません。
 せめて、方形周溝墓と前方後円墓とは、何らかの関係があるのかどうか解明されても良いはずです。
 なぜ、解明されないのかと云いますと、方形周溝墓と前方後円墓が、全国に跨って、沢山ありすぎるからだと思います。仮に、ヤマトが奈良だとしますと、ヤマトの支配力が、関東まで、及んでいたことになります。 ヤマトが九州であれば、群馬・埼玉県まで、直接支配することは大変ですから、中間に連絡所があったことになります。大阪の古市古墳群は、その証拠でしょうか?
支配力とは何でしょう。関東の人が、作った米を集めに行ったのでしょうか? それだけ、広大な各地を支配しようとしますと、記録は欠かせないことになります。

このようなことを考えていますと、「河内王権」が解明されるどころか、同じような形をした方形周溝墓の説明が付きません。

この新聞記事から、34年経っています。折角、加美遺跡を発掘したのに、なにも役立っていません。本当は、殆ど、解明されているが、私が知らないだけかもしれません。

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2008.07.18

地名 福良 (ふくら)

前回の福浦と福江は如何でしたか? 田村氏は、毎日、地図をながめておられて発見されたと思います。私が歴史に興味を持つきっかけとなった人に、辻 保治さんが居られました。もう故人となられましたが、いつ訪問しても、鼻眼鏡に拡大鏡を手に地図を眺めておられました。その時、使っておられました50000分の1の地図を譲り受けましたが、よう使いこなしていません。
 辻さんからは、福浦の話は聞きませんでしたが、辻さんは、鹿児島県には、中福良しかないことを指摘されていました。
 もし、お持ちでしたら、鹿児島県川辺郡川辺町の地図を出してください。同じ、川辺町に5つも中福良の小字名があります。川辺町の方は、この5つの町をどのように区別して呼んでおられるのでしょう。東にあるのであれば、東福良と名づければよいはずですが、すべて、中福良です。
 辻さんは、中福良のもう少し大きい縮図の地図を掲げて、中福良がどのようなところにあるかを見ておられます。
「 山すその多少の高所に家並みがあります。そこから大谷川の堤までの、何とみごとな“ ふくらみ”でしょう。この土地を開いた人々は、川を向井の山裾に押しやりつつ、このふくらみを自慢したのでしょう」

辻さんのこの文章も、田村氏と同様に、発見されたときの喜びが伝わってきます。

こんなことを書かれたら、川辺町へ行って、ここの中福良には、なんという名前の人々が住んでおられるのか、確かめたくなりませんか?
 辻さんが云われるように、中福良はあくらんだ所にあるかどうかです。北隣は山下、西隣は上山田です。この膨らんだ所に入植された人は、どのような仕事をしておられたのでしょうか? なにか遺跡は、見つかっているでしょうか? 鹿児島に上陸したものの、山野方まで、押しやられたのでしょうか?
 上山田の地図 です。大谷川や山下の地名をみつけてください。現在は南九州市川辺町中福良になっています。
http://www.mapion.co.jp/c/f?el=130/26/38.450&scl=70000&uc=1&grp=all&nl=31/22/29.474


鹿児島までは行く元気がありません。出来ましたら、鹿児島県の方で興味のある方は、調べて、教えてください。
 最後に、現在分かっている「福良」地名を記しておきます。
 鹿児島県 22件、宮崎県 3件、大分県 6件、 熊本県 2件、 福岡・佐賀・長崎は調べていません。

新しい日本の歴史の中の「日本大好き」に、「No178 渡来人がやってきた証拠 福浦」
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-10-05
を書いています。興味がおありでしたらね覗いてください。

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2008.07.02

地名 東川 (うのかわ)

タイトルに書きました東川は、奈良県吉野郡川上村東川です。全国に、東の字がつく地名は、【地図に見る日本地名索引】によりますと、8857件あります。東霧島(つまきりしま)、東北(ときた)、東田(はるた)、東田(ひがいだ)など、難読地名はありますが、「東」は、ひがし、とう、あずまが、ほとんどで、「う」とか「うの」と読む所はありません。

「東川」は、全国で、74例あります。あずま 4件、うの 1件 、ひがし 69件です。

「東川・うのかわ」のように、読むのが難しい地名は、古くからあると思っています。どうしてかと言いますと、新しい町を作ったとします。地名は、その場所を町の住人以外の人に知って貰うためにつけますから、誰も読めないような地名は意味がありません。最近では、元あった地名でも難しいときには、ひらがなの地名を採用するようになっています。
「東川・うのかわ」は、古い地名であるだけではなく、全国に、一つもないということは、この村の人が、個人的に出ていくことはあっても、集団で他の土地に移動されなかったと思います。第二のところへ行かれますと、同じような名前を付けることが多いです。全国のどこかに、「東川・うのかわ」があってもよさそうですが、ありません。

「東川・うのかわ」は、吉野の川上村にあります。周りの集落の名前を書いておきます。
北塩谷、寺尾、神之谷、粉尾、白屋、上多古、下多古、武木、井光、上谷、白川渡、瀬戸、中奥、柏木、北和田、井戸、迫、人知、高原、伯母谷、入之波、大迫

 なにか気付かれましたか? 
井光には、井光神社があり、祭神は井氷鹿(いひか)とされています。祭神の井氷鹿の名前は、古事記の神武天皇の東征のところに国津神として掲載されています。
 他人に言われたから覚えるのではなく、自分で確かめてみますと、面白いことがいっぱい発見できます。
川上村の東川には、烏川神社があります。
また、この村では、次の行事がのこされていまして、写真をみることができます。

弓祝式 http://naraguru.fc2web.com/gyouji01c.htm">http://naraguru.fc2web.com/gyouji01c.htm">http://naraguru.fc2web.com/gyouji01c.htm
場所…烏川神社・運川寺(吉野郡川上村)
お問合せ…07465-2-0111 吉野郡川上村産業振興課 1月9日
千本杵搗きhttp://blog.goo.ne.jp/mnjr05gob/e/40d0d5b42a05669d0e38703d8baa7b40

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2008.06.19

資料No23文祢麻呂銅板墓誌

榛原・八滝地図 
http://www.mapion.co.jp/c/f?nl=34/29/49.862&el=135/59/15.000&scl=25000&uc=1&grp=all&coco=34/29/49.862,135/59/15.000&icon=home,,,,, 墓は伊那佐山の南東に位置します。

奈良文化財研究所のホームページによりますと、次の様に書かれています。
【1831年(天宝2)に現在の奈良県宇陀郡榛原町八滝の丘陵から文祢麻呂の墓が発見された。当時の記録によると、墓誌を入れた銅箱と、ガラス製骨蔵器を納めた金銅製壺型外容器を墓壙内に置き、周囲を焼炭で埋め ていたようである。墓誌は青銅製で、縦26.2cm、横4.3cmの短冊形の薄板である。表面に2行17字詰めで、祢麻呂の官職と位階、没年月日を記した簡潔な墓誌銘を刻む。
「壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒」
この銘文によると、祢麻呂は707年(慶雲4)9月21日に左衛士府の長官の職で没し、正四位上の位階が追贈された。冒頭に「壬申年将軍」とあるように、大海皇子の舎人として活躍した壬申の乱の功臣で、「日本書紀」にもその名が見える。】
http://www.nabunken.go.jp/gallery00/3/3_1_2.html

名前が、文祢麻呂(書根麻呂)ですから、文書関係の仕事に携わっていた人かと思っていましたが、左衛士ですから、門番(職掌は宮門を守衛し通行者を検察する。)をしていた兵士となります。しかし、壬申の乱では、将軍の名に値するトップクラスの地位に居たことになります。

墓誌に書かれていた名前は、文祢麻呂です。日本書紀に書かれている名前は、書根麻呂です。「壬申年将軍」とあることから、日本書紀に書かれている書首根麻呂であることが分かります。
墓誌の銘文によると、祢麻呂は慶雲4年(707年)9月21日に左衛士府の長官の職で没し、正四位上の位階が追贈されたことが分かります。では、何故、追贈されたのでしょう。
又、どうして、名前が違うのでしょうか?
日本には、墓誌は30ぐらいしかないと耳にしたことがあります。どうして、少ないのでしょうか? 今後、まだまだ、見つかる可能性があるのでしょうか?

下に掲げました、【参考リンク】に次の様な文章が書いてありました。
 これは、勉強が必要です。

<文祢麻呂は、文氏という渡来系の氏族に属する者のようです。東漢氏(やまとのあやうじ)の系統とも言われているようですが、西文氏(かわちのふみうじ)に属する者のようでもあります。私にはどちらとも言えないのですけど、墓域にあった案内板には、西文氏と書いてありました。
 だとすると、西琳寺などとの関連もまた面白いものになってきます。>


参考リンク
文祢麻呂(書根麻呂)墓探検記 http://sanzan.gozaru.jp/bb/bb59/bb59.html きれいな写真があります。

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2008.06.18

資料No22岩神神社

奈良県吉野郡吉野町矢治  mapoin
祭 神:岩穂押開神

御神体
岩穂押分神 

昭和14年 宿ノ神社を岩神神社と改名。


参考 リンク先

古社を訪ねて http://blog.goo.ne.jp/taisi_ii/e/b6bf5531817d5f2ec144db87fcc44959
岩神神社  http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt0/n8iwg02.htm
岩神神社  http://kamnavi.jp/as/yosino/iwakami.htm


岩穂押開神の名前に注目。
吉野町矢治は、清滝の隣(菜摘)の隣の集落です。 どうして、「矢治」という名前なのでしょう。どうして、菜摘なのでしょう。

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2008.06.11

資料No21 大蔵神社

鎮座地 吉野郡吉野町南国栖343 mapoin
祭神  鹿葦津比賣命、大倉姫命、石穗押別命

石穗押別命に出てくる尾をもった人です。大倉姫命は下照姫の別名です。
 鹿葦津比賣命がどのような神か分かりませんので、探してみました。

奈良県香芝市今泉592 に志都美神社があります。
祭神
天兒屋根命、譽田別命、底筒之男命
『神名帳考証』葦津比賣命 社伝では鹿葦津比賣命
延喜式神名帳葛下郡同名社。
 清水八幡、シズヒメ明神と称した。
 社伝に「大織冠鎌足公の四世の孫、従四位片岡民部少輔綱俊なる人、弘仁四年(813)、宮を片岡に作りて、以て片岡家の鎮守とし、清水神社と称す。是、当社の創建なりと伝えり。」とある。

志都美神社は式内社ですから、祭神は書き換えられたかも知れません。 鹿葦津比賣命の鹿葦津比賣命が元の祭神なのではと思っています。
 次の資料も、参考にしてください。

大蔵神社は、国栖の遠祖・石穂押分命、大倉比売命(大己貴神の子「下照姫」の別名)、それに鹿葦津比売命(かしつひめのみこと)の三柱を祭神として祀っている。『大和志』などでは、この神社を「延喜式」神名帳に記載された川上鹿塩(かわかみかしお)神社に比定しているようだ。だが、式内川上鹿塩神社は吉野郡吉野町樫尾に鎮座している。いずれにしても、吉野国栖の祖神を祀っていることから、東川村と南国栖村の氏神として尊崇されてきた。
明治初年に「神仏分離令」が出されるまで、大蔵神社は神宮寺だった。つまり、現在の社殿の近くに別当寺が建っていて僧侶たちが宮司を兼ねていた時代が長く続いた。廃仏毀釈によって廃寺となったが、庭園や広い寺屋敷の跡が現在も神社の社殿に隣接して残っている。

『平成祭礼データ』
 吉野町の東南端、川上村に通ずる衣笠山の南斜面に鎮座する旧指定村社で、国栖郷一円の鎮守であった。祭神は大倉比売命・鹿韋津比較売命・石穂別命。創祀不明。
 『大和志』に川上鹿塩神社として「在= 樫尾東川南国栖三村之交界- 今称= 大蔵明神- 国栖荘七村民家相共預= 祭祀- 」とあったことで式内川上鹿塩神社とされた時代もあった。
 本殿に接して、神宮寺の寺屋敷や庭園などがある。東川村・南国栖村の氏神であったが、明治の神仏分離で別当等は廃寺となった。数十年前までは東川と南国栖が祭典に参加した。
 神前一対の石灯籠の右側は弘化四年(847)東川若連中から、左側は天明六年(1786)国栖郷から寄進している。 
 その後、東川は当社分霊を自村へ遷祀して氏子から離別するに至った。例祭は九月一日初遡祭として親しまれてきた。 本殿は切妻造・桧皮葺の三間社で、内陣に安置の神像はいずれも鎌倉期の作。社宝に中世以来奉納の古鏡多数あり、中の一面に「大蔵大明神、正応五年(1292)五月弐拾五日 藤原□□敬白」との針書がある。
 大蔵神社庭園は室町期の標高三〇三メートルの高所にある小池や流れを持つすぐれた庭園として県指定の名勝である。


参考:ホームページ
古社を訪ねてhttp://blog.goo.ne.jp/taisi_ii/e/b1da95eafbceec5287e648cd73e6242a
神奈備 http://kamnavi.jp/as/yosino/ookura.htm
吉野郡 国栖の神々 http://yasaka.hp.infoseek.co.jp/kuzu.html

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2008.06.10

資料No20 浄見原神社

鎮座地 吉野郡吉野町南国栖1 mapoin
祭神 天武天皇

『平成祭礼データ』によりますと、
浄見原神社は 南国栖、吉野川の右岸断崖上に鎮座する旧村社で、天渟中原瀛真人天皇(天武天皇)を祀る。毎年旧正月十四日伝翁の末裔の人々によって国栖奏が奉納される。国栖奏とは石押分の末孫の翁筋の人々が朝廷の大儀に御賛を献じ、歌笛を宮中の儀鸞門外で奏した美しい故事に則ったもので、舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、謡翁五人の計一二人で奏上する。当日の神饌は腹赤の魚(うぐい)、 酒(一夜酒)、土毛(土地の特産物として根芹、山菓(木の実)・栗・かしの実)、毛 (かえる)である。岸壁に建つ神殿は、神明造一間社。石燈籠のうち亨保五年(1720)の刻銘のものが古い。
国栖奏の第四歌に「かしのふに、よくすをつくり、よくすにかめる、おほみき、うまらに、きこしもちをせ、まろがち」と歌う。
 社頭掲示の「国栖奏のこと」


 吉野町観光課の説明より

 吉野は古く、古事記・日本書紀の神代編にその名を現します。古代の吉野は今の吉野山を指していたのではなく、吉野川沿岸の地域をそう呼んでいました。
 古事記日本書紀に書かれていることが、そのまま歴史的事実とは言えませんが、記紀に伝える模様を裏付けるように、縄文弥生式の土器や、そのころの生活状態を推定させる、狩猟の道具がこの付近からも発掘されています。
 記紀には「神武天皇がこの辺りへさしかかると、尾のある人が岩を押し分けて出てきたので、おまえは誰かと尋ねると、今天津神の御子が来られると聞いたので、お迎えに参りました、と答えました。これが吉野の国栖の祖である」という記載があり、古い先住者の様子を伝えています。
 又、記紀の応神天皇(今から約1600年前の条に、天皇が吉野の宮(宮滝)に来られたとき、国栖の人びとが来て一夜酒をつくり、歌舞を見せたのが、今に伝わる国栖奏の初まりとされています。
 さらに、今から1300年ほど昔、天智天皇の跡を継ぐ問題がこじれて戦乱が起りました。世にいう壬申の乱で、天智天皇の弟の大海人皇子は、ここ吉野に兵を挙げ、天智天皇の皇子、大友皇子と対立しました。
 戦は約一ケ月で終わり、大海人皇子が勝って天武天皇となりました。
 この大海人皇子が挙兵したとき、国栖の人は皇子に味方して敵の目から皇子をかくまい、また慰めのために一夜酒や腹赤魚(うぐい)を供して歌舞を奏しました。これを見た皇子はとても喜ばれて、国栖の翁よ、と呼ばれたので、この舞を翁舞と言うようになり、代々受け継がれて、毎年旧正月14日に天武天皇を祭る、ここ浄見原神社で奉納され、奈良県無形文化財に指定されています。
            
【浄見原神社】http://kamnavi.jp/as/yosino/kiyomihara.htm には、ページ開設者は、次の文を載せておられます。
  「 国栖奏を朝廷で演ずるようになったのは、吉野に隠れた大海人皇子に当地の民人が支援を行った故であろう。
 犬を飼わない村と云う民話がある。国栖の村のこと。大海人皇子が逃げてきた際、渡しの翁が渡し舟を引っくり返してかくまった。そこに追手がカグハナとミルメという二匹の犬を連れてやって来た。 犬は皇子を嗅ぎつけて舟の周りをまわり出した。危ないと思った翁は、そばにあった赤い石でその犬を殴り殺した。皇子はことなきを得たと云うことで、後に飛鳥浄見原に構えた際、印を持って国栖の翁がやってきたという。
 犬を飼う、飼わないとは、鉱山師の一群を思わせる。また「赤い石」は丹沙の石を思わせる。丹生の民であったようだ
 大海人皇子の決起後の辿った道筋は中央構造線にそって伊勢まで行き、美濃から伊吹方面へ来ている。武器となる金属の産地を押さえているのだ」
「 吉野川の北岸の切り立った岸壁上の岸壁の隙間に鎮座、いかにも古い時代からの祭祀の場を思わせる。この辺りの神社には狛犬がないのは上記民話によるもの。」
この辺りの神社には狛犬がないのは上記民話によるものというお話は、本当かも知れません。

資料 国栖奏歌  
 世にいでば 腹赤の魚の片割れも 国栖の翁が 渕にすむ月
 み吉野に 国栖の翁がなかりせば 腹赤の御贅 誰れか捧げむ
 鈴の音に 白木の笛の音するは 国栖の翁の 参るものかは
 かしのふに よくすをつくり よこすにかめる おほみきうまらに きこしもちおせ まろがち

参考ホームページ
大蔵神社と浄見原神社のことを書いたホームページ
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2007_11_14.htm

国栖奏のことを書いたホームページ
【国栖奏】http://www.geocities.jp/eastwoodism/fieldnote/field45/field45.htm
【万葉散歩】 http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/  

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2008.06.04

地名 菜摘と夏身

菜摘という地名があるかどうか知りません。奈良県の吉野に吉野離宮があります。吉野川を少し遡りますと、菜摘という地名があります。
このように書いたものの、気になりますので、WEBで調べましたら、
東京紅団 http://www.tokyo-kurenaidan.com/yoshino2.htm に地図も記事もありました。
ホットライン関西 http://www.unisys.co.jp/KANSAI/manyo/31/3-2.html 
こちらには、北菜摘と南菜摘と夏実の川が、地図に見ることができます。
 川が大きく弧を描いているところらしいです。「菜摘」と書かれています。「なつみ」と読むのだと思います。地元の方にお聞きすればすぐに判りますが、夏実の川のほうの夏実も「なつみ」と読めそうですから、きっと、「なつみ」だと思います。

万葉集に、大瀧乎 過而夏箕尓 傍為而 浄川瀬 見何明沙 兵部川原 (1737)
 大滝ぐらいは、どこにでもありますが、「夏箕」と揃いますと、吉野離宮の近くの「大滝」と「菜摘」の所のことを詠んだものでしょう。

大滝を、過ぎて夏実(なつみ)に近づきて、清き川瀬を、見るがさやけさ

 もう一つ、「なつみ」と読む地名があります。 三重県の名張市です。名張市に「夏見廃寺」と呼ばれる遺跡があります。名張市のホームページには、次の様に書かれています。
【醍醐寺本薬師寺縁起に「大来皇女、最初斎宮なり、 神亀2年(725)を以て浄(御)原天皇のおんために昌福寺を建立したまう。 夏身と字す。もと伊賀国名張郡に在り。」と記載された個所があり、その昌福寺が夏見廃寺と考えられています】

 このことから、「夏身」と云う地名の所に、昌福寺というお寺を建てたことが判ります。
ここに書かれている大来皇女は、天武天皇と天智天皇の娘の大田皇女の間に生まれた皇女です。
百済を助けるために、斉明天皇7年(661年)に、筑紫に向かう途中の、天智天皇一行の乗った船が、大伯の海の上を通過している時に誕生したとされています。
 昌福寺は、大来皇女が父と弟のために建てたとも、天武天皇の皇后である持統天皇が、建てたとも言われていますが、本当のことは判りません。
大来皇女は、701年に、持統天皇は、703年に亡くなっておられますから、725年の昌福寺の完成は知らなかったことになります。
 天智天皇が1月に崩御されますが、その少し前より、壬申の乱が始まる6ヶ月の間、大来皇女と持統天皇は、吉野の菜摘の里で楽しまれたでしょう。
 その時の思い出を込めて、同じように川が湾曲した所の高台に、昌福寺は建立されました。そして、その地は、「なつみ」と呼ばれていましたが、「醍醐寺本薬師寺縁起」が作られた長和4年<1015>には、地名は、「夏身」と書かれていたことが判ります。
 地名もない所に、昌福寺が建てられて、その後、その土地を「夏実」と呼んでいましたが、平安の頃には、「夏身」と書かれたのかも知れません。

現在は、「夏見」と書かれています。
「夏見」と云う地名は、滋賀県湖南市と千葉県舟橋市にもあります。
関係ありそうですが、調べていません。

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2008.05.09

遣唐使の構成と手当 

遣唐使の構成と手当 「延喜式」(大蔵省)より

職 名|   |絁 匹|絹 屯|布 端 |特別支給品    
    |大使 | 60 | 150 | 150 |彩帛 117匹、 貲布20端
    |副使 | 40 | 100 | 100  |彩帛 78 匹、 貲布10端
    |判官 | 10 |  60 | 40  |彩帛 15 匹、 貲布 6端
使 節|録事 |  6 | 40 | 20  |彩帛 10匹、 貲布  4端
    |史生 |  4 | 20 | 13  |
    |雑使 |  3 | 15 | 8  |
    |傔人 |   2 | 12 | 4  |

通 訳|唐  |  5  | 40  | 16  |彩帛 4匹、 貲布  4端
    |新 羅|    | 12  | 13 |

    |船 長|  5  | 40 | 16 |彩帛 5匹、 貲布  2端
    |機関長|  4  | 20 | 13 | 
船 員|操舵手長|  3  | 15 | 8 | 夏冬の衣服
    |操舵手|   2  | 12 | 4 |夏冬の衣服
    |水夫長|   2  | 12 | 4 |夏冬の衣服 
    |水 夫 |    | 4 | 2 |夏冬の衣服

    |神 主| 5  | 40 | 16 |
    |卜 部| 4  | 20 | 13 |
    |医 師| 5  | 40 | 16 | 
    |陰陽師| 5  | 40 | 16 |
    |画 師| 5  | 40 | 16 |
技 手|射 手| 4  | 20 | 13 |
    |音声長| 4  | 20 | 13 |
    |音声生| 3  | 15 | 8 |
    |船 匠 | 3  | 15 | 8 |
________________________________________      
    |玉 生| 3  | 15 | 8 |
技術  |段 生| 3  | 15 | 8 |
研究生|鋳 生| 3  | 15 | 8 |
    |細工生| 3  | 15 | 8 |


     |留学生| 40  |100 |80 | 
    |学問僧| 40  |100 |80 | 彩帛 10匹
留学者|傔 従||4  | 20  |13 |
    |還学僧| 20  | 60 |40 |彩帛 10匹
     |請益生|  5   | 40 |16 |


留学生は長期留学、学問僧も長期留学

留学者のうち、長期留学と手当てが、長期学問僧の手当が、副使と同じ高額であるのに注目。還学僧も高額ですから、日本からの僧侶は、中国にとって値打ちがあったことになり、長期にわたって留学してくれる方がありがたかったことになります。

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2008.04.18

資料17 壬申の乱の登場人物

全部完成していません。 少しずつ、追加していきます。 物部氏関係が気になっています。

朴井連雄君・村国連男依・和珥部臣君手・身毛君広・大分君恵尺・黄書造大伴・逢臣志摩・縣犬養連大伴・佐伯連大目・大伴連友国・稚櫻臣五百瀬・書首根摩呂・書直智徳・山背直小林・山背部小田・安斗連智徳・調首淡海。

朴井連雄君(えのいのむらじ)—物部雄君連 (もののべのおきみのむらじ)
壬申の乱の天武側の武将。天武天皇の舎人。

天武1年3月、私用で美濃に赴いたとき、近江朝廷が美濃・尾張の国司に命じて山陵を造るために人夫を徴発し、彼らに武器を取らせたことを知った。これは山陵を造るためではなく、事変の前兆だろうと考えた雄君は、急ぎ吉野にかえって、大海人皇子に報告し、すみやかに避難するように進言。
同1年6月、大海人皇子に従って東国に赴く。

天武5年6月、病のため没する。
天皇はこれを聞き驚いて、壬申年に車駕に従い、東国に入り、大功のあることをもって、内大紫位を贈り、物部の氏上を賜った。(『紀』)

『旧』天孫本紀には、饒速日15世孫、父は守屋大連とあり、天武天皇の時代、氏上・内大紫位を賜り、神宮(石上)を奉斎したとある。物部目の娘・豊媛を妻として忍勝、金弓の二児を生む。天武5年没。朴井連家は物部朝臣麻呂が後継し、石上姓を賜った。天武天皇の崩に際して誄[しのびごと]をした石上朝臣麻呂である。
 朴井は本拠地の名前であるが、大和国高市郡の桜井、同国添上郡の本辻村、和泉国和泉郡などの候補があるが特定できない。

村国連男依・和珥部臣君手・身毛君広・----美濃国に行くように命令される。安八磨郡(安八郡)の湯沐令の多臣品治に機密を打ち明け、兵を集めるように命令を受ける。不破道を塞ぐように命令される。
 村国連男依---美濃国各務郡村国郷を本拠とする村国氏の出身地。ここには、村国神社、村国真墨田神社がある。
木曽川を挟んだ尾張国葉栗郡村国郷あり。大和国添上郡村国郷あり。

和珥部臣君手----和珥氏は大和国添上郡の和珥(奈良県天理市檪本町和邇)を本拠とした。春日氏とも称した。6世紀半ばころ、大宅・檪井・柿本・栗田・小野の諸氏に分かれる。
 和邇氏の始祖と言われる天足彦国押人命の母、世襲足姫は尾張の出身であったと言われている。尾張氏は海部氏の系統。
君手のむすこは近江国滋賀郡の郡司? 君手の和邇部氏は近江国滋賀郡の和邇を本拠にした氏族? 美濃国には、味蜂間(安八麿)をはじめとして山方・肩県の諸郡に丸部(和邇部)を称する者がいた。(遠山美都男著 壬申の乱 P93)

身毛君広---:景行天皇の皇子、大碓命の後裔と称する身毛(牟義都)氏の出身。その本拠地は美濃国武芸郡(岐阜県武儀郡)であった。身毛氏は牟義都国造の地位にある来た美濃の豪族。

多臣品治---品治は古事記を書いた太安万侶の父であると言われていますが、確かではありません。神武天皇の子の神八井耳命(かむやいみみのみこと)の後裔と言われている。
多氏の本貫は肥後国だが、その子孫は、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹波臣、嶋田臣など、全国にわたり国造になっている場合が多い。

 多臣品治は、安八麿評に置かれた大海人の湯沐邑を管理する責任者の地位にありまし。
多氏の一族は大和国十市郡に移り、同地の飫富郷に住む。甲斐国、信濃国の飫富氏は、その一族とされ、また常陸風土記によれば鹿島神宮は多氏の氏神と伝え、信濃国造家もまた多氏の後裔という。
 肥後国から移ってきた多氏は飫富郷を本拠地としますが、この近くには、十市郡の前身である十市県の祭祀を行なった十市県主が本拠を構えていた。多氏の祭る多神社と十市県主の本拠と思われる十市県主坐神社の間は、現在では、2キロぐらいです。十市皇女と十市県主の関係はある?


大分君恵尺---〈大分君と大分国造〉
 『 古事記 』、『 日本書紀 』等に見える古代大分の豪族。
『古事記』 神武記に神武天皇の子の 神八井耳命を祖とする地方豪族として、小子部連、 火君、阿蘇君、筑紫三家連等とともに大分君の名があげられている。
『 旧事紀 』「 国造本紀 」には火国造の項に大分国造と同祖と見える。

大分氏の本拠地である大分郡に津守郷がある。津守氏が住んでいた可能性がある。津守は火明命を始祖とする氏族で、尾張氏と同祖同族関係にある。

当時近江京に残っていた 大津皇子と 高市皇子を父大海人皇子に伊勢国で合流させる任務を受ける。瀬田の合戦で、活躍。大分君稚臣は、大津皇子が合流するにあたり、同皇子に従っていた舎人の一人。

恵尺は天武天皇4年(675)病に。この時天皇は、恵尺に特に親しく詔を贈った。<汝恵尺よ、お前は私心を捨てて国のために尽くし、身命を惜しまず先の大乱(壬申の乱)に功績をあげた。私は永くお前を慈愛しようと思う。もしお前が死ぬようなことがあっても、子孫を厚く賞しよう>。
外小紫位(とのしょうしのくらい)を与える。律令制度の位にあてれば三位に相当する破格の位であった。大海人皇子の舎人として功績をあげた人物の中では、村国連男依とともに最も高い位を賜わっているのである。
大分君稚臣も天武天皇8年(679)に死亡。外小錦上の位を賜わる。この地位は、令制下の五位に相当する位。

黄書造大伴----黄書氏は、高句麗の人、久斯祁王の後裔を称する氏族。子に粳麻呂がいる。
倭(大和国)の京の留守司高坂王に使者を遣わし、駅鈴を求めた。このときの使者に、大分恵尺、黄書大伴、逢志摩の一人。黄書大伴は、大伴馬来田と吹負の兄弟に挙兵を告げたらしい。
黄書画師と呼ばれる集団を率い絵画を書く仕事をして遣える。
天武天皇12年(683年)9月23日に、黄書造は連の姓になった。
大宝元年(701年)に黄文造大伴の壬申の乱での功績が中第と評価され、前に与えられた100戸の4分の1を子に伝えることが定められた。
大宝3年(703年)7月5日に、正五位下の黄文連大伴は山背守になった。山背国は後の山城国である。
和銅3年(710年)10月14日に正六位上[1]で死んだ。壬申の年の功によって、正四位下と物を贈られた。  『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

久世郡には水主郷があった。水主氏は、ニギハヤヒ命を始祖とする物部氏系の氏族。大海人は美濃を拠点に物部氏と関係あり。このことと、関係があるか?

逢臣志摩---不詳。壬申の乱の初期に、駅鈴を求めるために、高坂王の所へ派遣された使者、大分恵尺、黄書大伴、逢志摩の一人。

高坂王---皇族だが系譜は不明。672年の壬申の乱ではじめ大友皇子の側で戦ったが、敗れて大海人皇子(天武天皇)に従った。
大友皇子は穂積百足、穂積五百枝、物部日向を倭京に遣わし、高坂王に軍の編成を命じた。
天武天皇12年 (683年) 6月6日に三位で亡くなる。

書首根摩呂---

書直智徳---書智徳(ふみのちとこ、生年不明 - 持統天皇6年(692年)5月20日?)は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は文とも書く。旧仮名遣いでの読みは同じ。姓(カバネ)は直、後に連、さらに後に忌寸。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)側についた。贈直大壱。
壬申の乱の勃発時、書智徳は大海人皇子の舎人であった。6月24日に皇子が挙兵を決意して吉野を発ったとき、書直智徳は皇子に従った二十数人の男の中にいた。乱の後、書直智徳が功により100戸の封戸を与えられたことが、『続日本紀』の大宝元年(801年)7月21日の記事から知られる。  
 参考 -"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B8%E6%99%BA%E5%BE%B3" より作成

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、人物の一覧表があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1

以下は関係ありません。日本書紀の一部です。

《天武天皇元年(六七二)六月壬午【二十二】》◆六月辛酉朔壬午。詔村国連男依。和珥部臣君手。身毛君広曰。今聞。近江朝庭之臣等。為朕謀害。是以汝等三人急往美濃国。告安八磨郡湯沐令多臣品治。宣示機要。而先発当郡兵。仍経国司等、差発諸軍。急塞不破道。朕今発路。
《天武天皇元年(六七二)六月甲申【二十四】》◆甲申。将入東。時有一臣奏曰。近江群臣元有謀心。必造天下。則道路難通。何無一人兵。徒手入東。臣恐事不就矣。天皇従之。思欲返召男依等。即遣大分君恵尺。黄書造大伴。逢臣志摩于留守司高坂王。而令乞騨鈴。因以謂恵尺等曰。若不得鈴。廼志摩還而復奏。恵尺馳之往於近江。喚高市皇子。大津皇子、逢於伊勢。既而恵尺等至留守司。挙東宮之命、乞騨鈴於高坂王。然不聴矣。時恵尺往近江。志摩乃還之、復奏曰。不得鈴也。是日。発途入東国。事急不待駕而行之。黴遇県犬養連大伴鞍馬。因以御駕。乃皇后載輿従之。逮于津振川。車駕始至。便乗焉。是時。元従者草壁皇子。忍壁皇子。及舍人朴井連雄君。県犬養連大伴。佐伯連大目。大伴連友国。稚桜部臣五百瀬。書首根摩呂。書直智徳。山背直小林。山背部小田。安斗連智徳。調首淡海之類、二十有余人。女孺十有余人也。即日。到菟田吾城。大伴連馬来田。黄書造大伴。従吉野宮追至。於此時。屯田司舍人土師連馬手供従駕者食。過甘羅村。有猟者二十余人。大伴朴本連大国、為猟者之首。則悉喚令従駕。亦徴美濃王。乃参赴而従矣。運湯沐之米伊勢国駄五十匹、遇於菟田郡家頭。仍皆棄米、而令乗歩者。到大野以日落也。山暗不能進行。則壌取当邑家籬為燭。及夜半。到隠郡、焚隠騨家。因唱邑中曰。天皇入東国。故人夫諸参赴。然一人不肯来矣。将及横河。有黒雲。広十余丈経天。時天皇異之。則挙燭親秉式、占曰。天下両分之祥也。然朕遂得天下歟。即急行到伊賀郡。焚伊賀騨家。逮于伊賀中山。而当国郡司等、率数百衆帰焉。会明至〓萩野。暫停駕而進食。到積殖山口。高市皇子自鹿深越以遇之。民直大火。赤染造徳足。大蔵直広隅。坂上直国麻呂。古市黒麻呂。竹田大徳・胆香瓦臣安倍従焉。越大山、至伊勢鈴鹿。爰国司守三宅連石床。介三輪君子首。及湯沐令田中臣足麻呂。高田首新家等参遇于鈴鹿郡。則且発五百軍、塞鈴鹿山道。到川曲坂下、而日暮也。以皇后疲之、暫留輿而息。然夜〓欲雨。不得淹息而進行。於是。寒之雷雨已甚。従駕者衣裳湿、以不堪寒。乃到三重郡家。焚屋一間、而令温寒者。是夜半。鈴鹿関司遣使奏言。山部王。石川王、並来帰之。故置関焉。天皇便使路直益人徴。

甲申、將入東。時有一臣奏曰、近江群臣、元有謀心。必害天下。則道路難通。何無一人兵、徒手入東。臣恐、事不就矣。天皇從之、思欲返召男依等。即遣大分君惠尺・黄書造大伴・逢臣志摩于留守司高坂王、而令乞驛鈴。因以謂惠尺等曰、若不得鈴、廼志摩還而覆奏。惠尺馳之、往於近江、喚高市皇子・大津皇子、逢於伊勢。既而惠尺等、至留守司、擧東宮之命、乞驛鈴於高坂王。然不聽矣。時惠尺往近江。志摩乃還之、復奏曰、不得鈴也。是日、發途入東國。事急不待駕而行之。倏遇縣犬養連大伴鞍馬、因以御駕。乃皇后載輿從之。逮于津振川、車駕始至。便乘焉。是時、元從者、草壁皇子・忍壁皇子、及舍人朴井連雄君・縣犬養連大伴・佐伯連大目・大伴連友國・稚櫻部臣五百瀨・書首根摩呂・書直智德・山背直小林・山背部小田・安斗連智德・調首淡海之類、廿有餘人、女孺十有餘人也。即日、到菟田吾城。大伴連馬來田・黄書造大伴、從吉野宮追至。於此時、屯田司舍人土師連馬手、供從駕者食。過甘羅村、有獵者廿餘人。大伴朴本連大國、爲獵者之首。則悉喚令從駕。亦徴美濃王。乃參赴而從矣。運湯沐之米伊勢國駄五十匹、遇於菟田郡家頭。仍皆棄米、而令乘歩者。到大野以日落也。
甲申に、東に入らむとす。時に一の臣有りて、奏して曰さく、「近江の群臣、元より謀心有り。必ず天下を害らむ。則ち道路通ひ難からむ。何ぞ一人の兵無くして、徒手にして東に入りたまはむ。臣恐るらくは、事の就らざらむことを」とまうす。天皇、從ひて、男依等を返し召さむと思欲す。即ち大分君惠尺・黄書造大伴・逢臣志摩を留守司高坂王のもとに遣して、驛鈴を乞はしめたまふ。因りて惠尺等に謂りて曰はく、「若し鈴を得ずは、廼ち志摩は還りて覆奏せ。惠尺は馳せて、近江に往きて、高市皇子・大津皇子を喚して、伊勢に逢へ」とのたまふ。既にして惠尺等、留守司のもとに至りて、東宮の命を擧げて、驛鈴を高坂王に乞ふ。然るに聽さず。時に惠尺、近江に往く。志摩は乃ち還りて、復奏して曰さく、「鈴を得ず」とまうす。
 是の日に、途發ちて東國に入りたまふ。事急にして、駕を待たずして行す。倏に縣犬養連大伴の鞍馬に遇ひ、因りて御駕す。乃ち皇后は、輿に載せて從せしむ。津振川に逮りて、車駕始めて至れり。便ち乘す。是の時に、元より從へる者、草壁皇子・忍壁皇子、及び舍人朴井連雄君・縣犬養連大伴・佐伯連大目・大伴連友國・稚櫻部臣五百瀨・書首根摩呂・書直智德・山背直小林・山背部小田・安斗連智德・調首淡海の類、二十有餘人、女孺十有餘人なり。即日に、菟田の吾城に到る。大伴連馬來田・黄書造大伴、吉野宮より追ひて至けり。此の時に、屯田司の舍人土師連馬手、從駕者の食を供る。甘羅村を過ぎ、獵者二十餘人有り。大伴朴本連大國、獵者の首たり。則ち悉に喚して從駕らしむ。亦美濃王を徴す。乃ち參赴りて從る。湯沐の米を運ぶ伊勢國の駄五十匹、菟田郡家の頭に遇ひぬ。仍りて皆米を棄てて、歩者を乘らしむ。大野に到りて日落れぬ

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2008.04.16

資料16 遣唐使への考察

下の資料より、
 (1)1回~7回、規則正しく、遣唐使が派遣されている。
 (2)天武・持統天皇の時代は、遣唐使が派遣されていない。
 (3)第二回遣唐使のときに、遣唐使として僧、定慧の名前がある。中臣鎌足(藤原鎌足)の長男であり、藤原不 比等は弟である。


 第1回 舒明2年(630年) - 舒明4年(632年):犬上御田鍬(大使)・薬師恵日
舒明天皇は、日本の第34代天皇。
(生まれ--推古天皇元年(593年)? - 崩御、舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))
(在位:舒明天皇元年1月4日(629年2月2日) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))。

先代の推古天皇は、在位36年3月7日(628年)に死去。
蘇我蝦夷は群臣にはかって田村皇子を立てて天皇とする。舒明天皇誕生。
舒明天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷。
在位中、最初の遣唐使を送り、唐からの高表仁の返訪を受けた。 唐には使者の他にも学問僧や学生が渡り、隋の頃に渡った者も含め、僧霊雲、僧旻、僧清安、高向玄理が帰国した。

第2回 白雉4年(653年) - 白雉5年(654年):吉士長丹・吉士駒・高田根麻呂・掃守小麻呂・道昭 、定慧
定恵(じょうえ、皇極天皇2年(643年) - 天智天皇4年12月23日(666年2月2日))。飛鳥時代の学僧。父は中臣鎌足(藤原鎌足)。母は車持国子の娘・与志古娘。
出家前の俗名は「中臣真人」、弟は藤原不比等。
653年5月遣唐使とともに唐へ渡る。長安懐徳坊にある慧日道場に住し、神泰法師に師事した。遊学して内経外典に通じたという。665年(天暦4年)9月、朝鮮半島の百済を経て日本に帰国。同年12月大原(現在の奈良県高市郡明日香村小原)で亡なる。病気で紀未来か?

第3回 白雉5年(654年) - 斉明元年(655年):高向玄理・河辺麻呂・薬師恵日
高向玄理は帰国せず唐で死亡。

第4回 斉明5年(659年) -斉明7年(661年): 坂合部石布・津守吉祥・伊吉博徳

第5回(送唐客使)天智4年(665年) - 天智6年(667年):守大石・坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間
第6回 天智6年(667年) - :伊吉博徳
第7回 天智8年(669年) - ?:河内鯨(大使) 
以上が2隻、これ以降は4隻

673年~686年  天武天皇 在位
690年~697年  持統天皇 在位  持統天皇崩御 大宝2(702)年12月22日
697年~707年 文武天皇 在位
草壁皇子が689年に亡くなり、その後、高市皇子も亡くなったため、693年立太子した。 697年、祖母・持統天皇に譲位され即位した。 まだ15歳であったため、持統天皇が後見人として付いた。
701年(大宝元年)に大宝律令が完成し、翌年公布。
第8回 大宝2年(702年5月) - 慶雲元年(704年:粟田真人(遣唐執節使:しつせつし)・山上憶良(少録:しょうさかん)・高橋笠間・坂合部大分

第9回 養老元年(717年) - 養老2年(718年):多治比県守・阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・大伴山守・藤原馬養
第10回 天平5年(733年) - 天平7年(735年):多治比広成・中臣名代・平群広成・大伴古麻呂
帰路、第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。天平11年(739年)に帰国。
第11回(746年) - 派遣中止:石上乙麻呂
第12回 勝宝4年(752年) -  勝宝6年(754年):藤原清河(大使)・吉備真備(副使)・大伴古麻呂(副使)
帰路、鑑真同乗。第1船の藤原清河と阿倍仲麻呂は難破し唐に残留
第13回(藤原清河のため迎入唐使) 宝字3年(759年) - 宝字5年(761年):高元度

第14回 宝字5年(761年) - 派遣中止:仲石伴・石上宅嗣・藤原田麻呂
第15回 宝字6年(762年) - 派遣中止:中臣鷹主・高麗広山
第16回 宝亀8年(777年) - 宝亀9年(778年):藤原鷹取・小野石根・佐伯今毛人・大神末足
第17回(送唐客使) 宝亀10年(779年) - 天応元年(781年):布施清直・多治比広成
第18回 延歴23年(804年) - 大同元年(806年)10月:藤原葛野麿・石川道益・最澄・空海・橘逸勢
第19回 承和5年(838年) - 承和6年(839年):藤原常嗣・小野篁(副使であったが派遣前に逃亡流罪にされた)・円仁
第20回 寛平6年(894年) - 派遣中止:菅原道真(大使であったが派遣中止を進言)・紀長谷雄

遣唐使一行
『延喜式』大蔵省式 大使・副使・判官・録事・知乗船事・訳語・請益生・主神・医師・陰陽師・絵師・史生・射手・船師・音声長 新羅奄美訳語・卜部・留学生・学問僧・傔従・雑使・音声生・玉生・鍛生・鋳生・細工生・船匠・柂師・傔人 挟杪・水手長・水手など

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2008.02.27

資料No15 国別分布

http://punipuni-nikukyu.com/knowledge/old_country.php

律令制で、大国、上国、中国、下国に分けられましたが、なにを基準にしたかは、
①国を面積や人口などで四等に分けた。
②日本国内の各国は国力等の政治・経済上の基準で分けた。
  上記2種類があります。

両方とも、面積や人口 そして、国力等はわかったのでしょうか?

親王任国 <「守」(従四位下) 「介」(正六位下)>
常陸・上総・上野
上野(現在の群馬)と、常陸(現在の茨城)・上総(現在の千葉)は、親王の任国とされています。この三国も大国です。
●大国 <「守」(従五位上) 「介」(正六位下)>
陸奥・下総・武蔵・伊勢・近江・越前・大和・河内・播磨・肥後   

●上国 <「守」(従五位下) 「介」(従六位上)>
出羽・下野・相模・信濃・甲斐・駿河・遠江・三河・尾張・美濃・越後・越中・加賀・山城
摂津・紀伊・丹波・因幡・但馬・備前・備中・備後・美作・出雲・伯耆・安芸・周防・讃岐
阿波・伊予・豊前・豊後・筑前・筑後・肥前  

●中国 <「守」(正六位下)>
安房・能登・佐渡・丹後・若狭・石見・長門・土佐・日向・大隅・薩摩   

●下国 <「守」(従六位下)>
伊豆・志摩・伊賀・飛騨・和泉・淡路・隠岐・壱岐・対馬   


上記の国別は、いくつかのホームページに書かれているものを記しましたが、平安時代のものかも知れません。

 
以下、参考になるホームページです。

平安以降の国分布 
国の職員 http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kani-tihou2.html
官位相当表 http://www2s.biglobe.ne.jp/~yochicaz/doc/kandjst.html

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2008.02.26

資料14 神郡

神郡は、カミコホリ、カミゴオリ、シングンと読みます。
郡は、現在ですと、大阪府豊能郡豊能町というように使います。この形からみますと、町がいくつか集まって、郡を形成します。府県の下にあり、町などの上にある行政区画になります。古代ですと里とか郷が集まって郡を形成していました。

その郡に「神」が付いています。神さん用の郡ということでしょうか?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は、次の様にかかれています。
「神郡とは、国郡制成立に伴い神社の神域(神様の領土)として誕生した他郡とは違う特別な郡のことである。大化の改新 
によって国郡制 が成立し、649年に神郡制度が成立した」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

当初、次の郡が定められた。
 筑前国宗像郡:宗像大社
伊勢国渡相郡:伊勢神宮
伊勢国多気郡:伊勢神宮
安房国安房郡:安房神社
出雲国意宇郡:熊野神社・杵築大社
常陸国鹿嶋郡:鹿島神宮
下総国香取郡:香取神宮
紀伊国名草郡:日前神社・国懸神社

 上記のうち、平安時代に、「神宮」の称号で呼ばれていたのは、延喜式神名帳によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけです。
神郡成立後は、渡相郡・竹郡に分割され後に度会郡・多気郡と改称した。664年に多気郡から飯野郡を分割して公領とした。

その後、伊勢国内の諸郡は次々と神郡に編入されていった。
員弁郡-940年
三重郡-962年
安濃郡-974年
朝明郡-1020年
飯高郡-1185年

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2008.02.25

資料13 神庤

神庤と書いて、「かんだち」と読むそうです。

 「庤」の字はヤマイダレではなく、マダレです。
 「字通」には、痔の字は「ニンベンに待」と同じだと書いてあります。読み方は「チ」、「マツ」「ソナエル」と書かれています。
ニンベンに待つですから、意味は人が待つことなのでしょう。

この言葉は、どこに使われているかと言いますと、『皇太神宮儀式帳』に掲載されています。
【延暦23年8月28日伊勢大神宮祢宜等解(『皇太神宮儀式帳』)・一初神郡度会多気飯野三箇郡本記行事(804)
右従二纒向珠城朝廷一以来。至二于難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇御世一。有尓鳥墓村造二神庤一弖。為二雑神一政所仕奉支。而難波朝廷天下立レ評給時仁。以二十郷分一弖。度会乃山田原立二屯倉一弖。新家連阿久多督領。礒連牟良助督仕奉支。以二十郷分一。竹村立二屯倉一。麻続連広背督領。磯部真夜手助督仕奉支。 (略)】

国学院大学のhttp://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/district.html に一部掲載されています。
意味は、「纒向の珠城の朝廷より以来、難波の長柄の豊前宮に御宇天万豊日天皇の御世まで、有尓(うに)の鳥墓村に神庤を造って、雑の神政所(かんまつりどころ)として仕え奉り支。・・・・」
神庤は、漢字の意味から言いますと、一寸した役人の待機所かと思いましたが、上の文面から考えますと、雑(いろいろ)の神に関してのことを司る所のようです。
 そうであれば、その後も、あちこちに使われていても良いと思われますが、今の所、目にしません。
文章は、その後、すぐに、続けて書いてあります。
「而難波朝廷天下立レ評給時仁。以二十郷分一弖。度会乃山田原立二屯倉一弖。新家連阿久多督領。」
十郷分を以て、評(その前は県)を定め、度会の山田原に屯倉を造ったということでしょうか。そして、新家連の阿久多が督領になり、礒連の牟良が助督になって仕え奉った。

ここには、書かれていませんが、同じ、『皇太神宮儀式帳』に、中臣香摘連須気が神庤で長として在任中に、「度会の山田原に御厨を造りて、神庤という名を改めて御厨と号(な)つ゜け、やがて大神宮司と号づけき」と書かれているそうです。
度会の山田原に屯倉を造ったと書きましたから、その後に、度会の山田原に御厨を造って、神庤という名を改めて御厨と号(な)つ゜けたことになります。
 御厨は、御が付いていますから、普通の台所ではなく、神饌をつくる台所でしょうか?


「有尓(うに)の鳥墓村に神庤を造って、」という記述があります。
ここに書かれている有爾郷は、斉宮があった多気郷の隣の郷です。現在は、鳥墓村はありませんが、三重県多気郡明和町蓑村字鳥墓に 鳥墓神社 があります。ここの由緒にこの神社に、有尓神社を合祀したように書いてあります。
この神社の入口に、昭和6年の「鳥墓神庤旧跡」と彫った石碑が建っているそうです。
 仮にこれが、神宮の政庁であれば、神宮はこの辺りにあったと思われます。
 斉宮跡との距離は、2.5Kmぐらいです。

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2008.02.05

資料No12地名日置と人名日置

日置姓の分布
人口は2000年時  単位は1000人

府県名 日置姓 府県別人口 人口比

北海道 144 5698 2.53
青森 1 1469 0.07
岩手 1 1412 0.07
宮城 3 2394 0.13
秋田 0 1189 0
山形 3 1247 0.24
福島 3 2148 0.14
茨城 27 3057 0.88
栃木 7 2026 .0.35
群馬 6 2035 0.29
埼玉 54 7099 0.76
千葉 104 6022 1.73
東京 183 11554 1.58
神奈川 84 8456 0.99
新潟 2 2490 0.08
富山 9 1124 0.80
石川 5 1190 0.42
福井 11 827 1.33
山梨 0 908 0
長野 32 2229 1.43
岐阜 434 2126 20.41
静岡 101 3791 2.66
愛知 464 7007 6.62
三重 290 1886 15.38
滋賀 52 1351 3.85
京都 90 2633 3.42
大阪 168 8677 1.94
兵庫 145 5587 2.60
奈良 18 1479 1.22
和歌山 30 1081 2.78
鳥取 42 610 6.89
島根 13 758 1.72
岡山 34 1969 1.73
広島 14 2903     0.48
山口 4 1530 0.26
徳島 2 829 0.24
香川 4 1027 0.39
愛媛 5 1492 0.34
高知 3 805 0.37
福岡 23 5023 0.46
佐賀 0 885 0.00
長崎 10 1516 0.66
熊本 77 1865 4.13
大分 2 1218 0.16
宮崎 27 1176 2.30
鹿児島 98 1774 5.52
沖縄 11 1318 0.83
-----------------------------------
合計 2840 127890 2.2

上手く表示できません。<日置さん全国分布> をご覧ください。

和名抄に記載された日置
 大和国葛上郡(今の広陵町を含む一帯)に 日置郷
 和泉国大鳥郡(今の鳳町を含む一帯)    日部郷あり、堺市に日置荘あった
 伊勢国一志郡に                 日置郷あり


9世紀はじめに存在した日置(和名抄より)
鹿児島県川内市
熊本県玉名郡
山口県大津郡
山口県佐波郡
鳥取県気高郡
兵庫県多紀郡
兵庫県城崎郡
京都府与謝郡
石川県珠洲市
新潟県東蒲原郡
新潟県中蒲原郡
新潟県南蒲原郡
愛知県海部郡
千葉県安房郡

日置地名


読み 府県名  経度          緯度       地図名
 
1  ひおき  富山   137度17分   36度39分     五百石
 
2 ひおき 富山    137度17分  36度40分       上市
 
3 ひおき 愛知     136度53分  34度39分       熱田町
 
4 ひおき 三重     136度26分  34度39分       大仰

5 ひおき 京都      135度13分 35度36分       日置

6 ひおき 京都      135度32分  35度05分       殿田
 
7 ひおき 兵庫      134度46分  35度27分       江原

8 ひおき 兵庫      135度17分  35度03分       福住

9 ひおき 鳥取      134度01度  35度59分       鳥取
 
10 ひおき 熊本      130度43分  32度31分       来氏
 
11 ひおき 熊本      130度37分  32度31分       八代

12 ひおき 宮崎      131度30分  32度04分      日向日置

13 ひおき 宮崎      131度30分  32度05分       高鍋
 
14 ひおき 鹿児島     130度21分  31度34分       伊作

 
15 ひおき 鹿児島    130度21分  31度35分       長里

16 ひおき 鹿児島  130度22分       31度35分       伊集院

17 ひき 愛知  136度42分  31度34分       名古屋

18 ひき 和歌山 135度26分       31度35分      紀伊日置

19 ひき 和歌山 135度27分       31度35分      紀伊日置

20 ひよぎ 岡山 133度33分      34度37分       矢掛

21 へき 福井 135度30分      35度27分      高浜

22 へき 愛知 136度44分      35度09分      弥高

23 へき 京都 134度58分     35度19分     矢名瀬

24 へき 山口    131度04分      34度21分     山口
 
25 へき 熊本 130度38分      32度31分     八代

26 へき 熊本 130度42分      32度58分     熊本

27 へき 宮崎 131度30分      32度04分       高鍋

28        宮津市  135度16分    35度04分

29 篠山市  135度13分    35度36分


上手く表示できません。<日置地名>をご覧ください。

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2008.02.02

資料No11 神階について

三重県には、名神大社と呼ばれる神社が二社あります。
それは、
 阿射加神社三座(伊勢国壱志郡)
多度神社(伊勢国桑名郡)

です。この二社が、どのような文献に、どのような掲載されているかは、國學院大學21世紀COEプログラムという中で、公開されています。
この中の、「神社史料集成(神社資料データベース)を利用しますと、すべての神社の資料が利用できるわけではありませんが、阿射加神社三座と多度神社は、利用することができます。
阿射加神社を見えるようにしてください。みつからない時は、左の阿射加神社をクリックしますと、現れます。

ここに掲載されている資料は、すべてのようです。
『日本三代実録』貞観元年正月27日甲申条(859)における資料が一番多いことが判ります。
多くの資料の中から、三重県に注目しますと、

伊賀国無位穴石神従五位下。伊勢国従三位多度神正三位。従四位下阿射加神従四位上。

ここに書かれてある資料は、神社名と階位のようです。
① 伊賀国の穴石神には、無位だったのが、従五位下が与えられました。
② 伊勢国の多度神には、従三位だったのが、正三位が与えられました。
③ 伊勢国の阿射加神には、従四位下だったのが、従四位上が与えられました。
 
 階位のことは、全く知りませんが、どうやら、従四位下より従四位上が上だということ、従三位より正三位の方が上で、多度神は、この年、格段の差で昇進したことが判ります。
それに、各神に階位が与えられたのですが、多くの神に与えられたことが判ります。

神階は、神に与えられたのですが、神はそれによって、喜ぶわけでもなんでもありません。その神を祭っている関係者になにかいいことがあるから与えることになります。

神位を与えるのは、だれでしょうか? 一応、天皇か朝廷ということになると思いますが、
貞観元年正月27日甲申条(859)という年は、余程、特別なことがあったと思われます。

神位を与えるということは、神位を受け取る人がいることになりますが、授与式の様なことが行われるのでしょう。その時は、神位を書いたものを準備し、受け取る方は、頭を下げて受け取ることになります。
 この時に、身分の上下関係がはっきりすることになります。
資料の方は、その後に、日時は書いてありませんが、『延喜式』3(臨時祭)・名神祭条〔28〕
と記して、掲載されています。『延喜式』に掲載されることになると思われます。

このように考えますと、阿射加神社三座と多度神社の二社だけを比べますと、多度神社の方が、昇進の仕方が大きいですから、多度神社の方が、神位を与える人に忠実であったことが、想像できます。

現在で言いますと、文化勲章を受けるようなものです。勲章の種類によって人間の値打ちを決めるようなものですが、受け取ることを喜ばれる人のほうが多いです。現在は、無くなりましたが、軍人に与える勲章も似たようなものです。
 安い勲章を与えるだけで、与える方と受け取る人の間で、歴然とした差を作ることができ、この階位によって、受け取った方を、上から下まで並べて管理し易くなります。

さて、私のこの考え方が、正しいとしますと、貞観元年正月27日甲申条(859)の頃は、その作業がピークに達した時だと思われます。

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2008.02.01

資料No10三重県の神社整理(神社合祀)

神社合祀政策は1906年(明治39年)の勅令によって進められ、全国で1914年(大正3年)までに約20万社あった神社の7万社が取り壊された。特に合祀政策が甚だしかったのは三重県で、県下全神社のおよそ89%が廃され、青森県では、4%ぐらいが取り壊され、京都府では10%程度ですんだ。
和歌山県や愛媛県もそれについで合祀政策が進められた。

田辺に住んでいた南方熊楠は、次の様に述べている。(全文は)
「神社合祀は第一に敬神思想を薄ふし、第二民の和融を妨げ、第三地方の凋落を来し、第四人情風俗を害し、第五愛郷心を減じ、第六治安民利を損じ、第七史蹟古伝を滅ぼし、第八学術上貴重の天然記念物を滅却す。当局は斯く迄百方に大害ある合祀を奨励して一方に愛国心敬神思想を鼓吹し鋭意国家の日進を謀ると称す、何ぞ下痢を停め人とて氷を喫ふに異ならん。」と合祀政策を非難しています。
 
三重県では明治39年から神社整理の嵐が吹きすさび、39年に562社が整理され、翌40年には神社境内の設備と神社基本財産について規定を定め、さらに必ず専任神職を置くことを求め、それに合わぬ神社の存立を認めぬ方針を打ち出した。このため、41年4月までに7348社が合祀され、一村一社という県の方針に従った町村が97、社名を町村名に改称した神社は、112に達した。地域的には南伊勢が激しく、伊賀がそれに次ぎ、北伊勢ではさほど出なかった。 (参考書籍—山川出版社 三重県の歴史)

この例として、佐那神社を挙げる。
祭神
 天手力男命 配祀 曙立王命
 合祀 天宇受賣命、速玉男命、伊邪那美命、天照大御神、須佐之男命、天忍穗耳命、天津日子根命、天穗日命、活津日子根命、熊野久須毘命、田紀理毘賣命、多岐都比賣命、市寸嶋比賣命、火産靈命、倉稻魂命、大山祇命、木花咲耶姫命、事解男命、譽田別尊、猿田彦命、菅原道眞
摂社
天宇受賣命和魂、天宇受賣命荒魂

祭神が天手力男命というのは、珍しいです。古い神社だと思っていいと思います。
この神は、アマテラスが岩戸に隠れてしまった時に、天の岩戸をこじ開けて、アマテラスに出てきてもらうのに功績のあった神です。
 又、ニニギ命は天孫降臨に際して、天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命の五人の家来を伴って、天降されますが、その時に、常世思金神と手力男神、天石門別神を副えたと古事記に書かれています。今、手力男神は佐那那縣に坐すとも書かれています。
合祀された神々は、すべて、古事記に登場する神です。今となっては、この神々がどこで祀られていたのか判りませんが、佐那神社の周りでつられていたと思います。
この後、古事記では、ニニギ命が天孫降臨する時に、猿田彦大神が分かれ道で、道案内をするために、待っていた描写があります。その時の相手をしたのが、天宇受売命であり、案内が済んだのちに、伊勢にやって来たような描写になっています。
 又、猿田彦大神は、以前に、阿邪訶に住んでいた時に、溺れた話が、挿入されています。
古事記に書かれている「阿邪訶」は、一志郡のあたりを阿佐賀国と称していましたから、この辺りに住んでいたと思われます。
 ここに、式内社の阿射加神社(松阪市)があります。祭神は、猿田彦大神です。

このように、眺めてきますと、一志郡のあたりを阿佐賀国は、天皇家の祖先たちが、大勢やってきて住んでいたことになります。
伊勢全体は、神社に関しては、最も、特殊な土地となりますから、神社の資料は、注意深く考える必要があります。

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2008.01.31

資料No9 多度神社

三重県桑名市多度町多度1681  
◆祭神
本宮 多度神社 天津彦根命
別宮 一目連神社 天目一箇命
摂社
新宮社「天津彦根命幸魂、天目一箇命幸魂」
美御前社「市杵嶋比賣命」
一拳社「一言主命」
雨宮八幡社「天之水分神、國之水分神、品陀和氣命」

御祭神の天津彦根命は、天照大御神と速須佐之男尊との御誓約による五男三女の御子神の第三皇子です。『新撰姓氏録』に「桑名首、天津彦根命の男、天久之比乃命の後なり」とあ。天目一箇命は、天津彦根命の御子神であり、『古語拾遺』により、伊勢忌部氏の祖であることが知られる。天照大御神が天の岩戸にお隠れになった際にも、刀・斧を作り活躍された神で、金属工業の守護神(製鉄・金作りの神)である。さらに、雨や風を支配され、生きとし生けるものの命のもととなる農業水産を守護し、諸難を滅し、諸願を成就する神で古来神殿には御扉を設けない造りになっている。

◆由緒
古来より標高403メートルの多度山が、神体山として信仰され、古代祭祀を物語る磐座が山の中腹に存する。社伝によると五世紀後半、雄略天皇の御代に社殿が創建されたと伝えられる。
『延喜式』巻九神名帳の桑名郡十五座のうち「多度神社 名神大」とみえ、いわゆる延喜名神大社である。後一条天皇の御代に、東海道六社の一社にかぞえられ、天皇即位後の御一代一度の奉幣に預る神社として大神宝使が派遣され、宣命・幣帛・神宝が奉られ朝廷の厚い崇敬を受けた。
奈良時代末期に、満願禅師が多度神の託宣を受け、天平宝字七年(763) に多度菩薩を中心とした三重塔二基・法堂・僧房からなる神宮寺(日本で三番目)を建立した。後に国分寺に準ずる扱いをうけ、寺院70房・僧侶300余を数える大寺院となった。さらに、鎌倉時代の弘長元年(1261)には正一位が授けられ、南北朝時代の暦応年間には多度祭の上げ馬・流鏑馬神事が始まったと伝えられる。しかし、元亀二年(1571)に織田信長の兵火にかかり、社殿宝物をはじめ神宮寺も焼失し、一時社頭は荒廃したが、徳川氏が天下を治め平和な世となるとともに、桑名藩主本多忠勝・忠政の支援により本殿以下の社殿・神事が復興された。桑名藩主が松平家に替わった後も、桑名地方の守護神として厚く崇敬され、社殿の造営・社領の寄進が度々行なわれ、藩例として毎月正月には藩士が代参する習しであった。また、当代の庶民の伊勢参宮の折りには、北伊勢大神宮とも称される当神社を必ず参拝した事が「お伊勢まいらば、お多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と謡れていたことからも明らかである。

雄略天皇の御代御社殿創建。
天平宝字七年  763年 満願禅師阿弥陀仏を祀る。多度神の託宣がある。
宝亀十一年   780年 多度神宮寺三重塔建立。
延暦元年    782年  神階従五位下が授けられる。
延暦二十年   801年  『多度神宮寺伽藍縁起並資財帳』撰進。
承和十一年   844年   神階四位下にすすむ。
嘉祥二年    849年   多度太神宮と『続日本後紀』に記される
嘉祥三年    850年   多度神社、官社に列する。
貞観元年    859年   朝廷より神位記、財宝が奉られる。
   神階従二位にすすむ
貞観五年    863年   神階正二位にすすむ。
仁和三年     887年   朝廷より幣帛か奉られる。
延長五年     927年   延喜式」に多度神社名神大、又、同書に多度神宮寺を伊勢国准国分寺に列すると記される。
寛仁元年    1017年 御一代一度の大奉幣に預かる神社となり、後一條天皇の即位に際し、大神宝使派遣される。
弘長元年    1261年  神階正一位にすすむ
元亀二年    1341年  この頃、摂末社百余座、年中七十五度の神事あり。
        1571年  多度神社、多度神宮寺織田信長の焼き打ちにあう。
慶長五年    1600年  桑名藩主本多忠勝神領を寄進する。

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2008.01.29

資料No8阿射加神社

現在、阿射加神社と称する神社は、
阿射加神社(三重県松阪市小阿坂町120) 周辺地域
北緯34度35分27秒,東経136度28分8秒
阿射加神社(三重県松阪市大阿坂町) 周辺地域→
 の二社ありますが、どちらの神社も、自分のところの神社が、延喜式神名帳に書かれている阿射加神社三座(並名神大)であると称している。

祭神は、猿田彦大神とされています。
別々に一座としても、二座にしかなりませんから、一座は別にあったか、
出口延経『神名帳考証』 佐久御魂・都夫多都御魂・底度久御魂
  橋村正身『神名帳考証再考』 底度久御魂・都夫多都御魂・阿和佐久御魂
  『三國地志』 伊豆速布留神・大國主命・天日別命
のように、猿田彦大神の別名かどうか判りませんが、差人の神の名前がありますから、この三座なのかもしれません。

     
小阿坂の神社の祭神は、阿耶訶大神とも呼ばれ、伊豆速布留神・竜天大神の2神が別に祭られ、大阿坂町の阿射加神社では祭神は、猿田彦大神で、伊豆速布留神、底度久神を併せ祀るとも言われています。
両神社とも、阿坂山の東麓の傾斜面に鎮座しているが、「上世ハ阿坂山上」にあつたのが応仁の乱の時北畠氏が「本社ヲ今ノ地ニ遷」したとする伝えもありますから、元々、阿坂山上の同じ場所にあったのかも知れません。
式内社の総数は3132座ありましたが、それらは総て大社と小社とに区別されてゐました。伊勢国に於いては、式内社総数二百五十三座の内、大社が十八座で、他の二百三十五座は皆小社でした。其の大社十八座の内、七座は皇大神社と度会宮即ち豊受大神宮、七座は其の別宮で、残る四座の内の一座が桑名郡の多度神社、三座が松阪市の阿射加神社です。
松阪市の阿射加神社は、それだけに、特別であることが判ります。

【由緒】承和2年(835)12月従五位下『続日本後紀』
       嘉祥3年(850)10月従五位上『文徳天皇實録』
       斎衡2年(856)正月名神・従四位下
       貞観元年(859)正月27日従四位上『三代実録』
       貞観八年(866)従三位『三代実録』

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2008.01.28

資料No7日本書記における猿田彦神

日本書記の本文では、ニニギ尊が、高天原から降りる様子を次のように述べています。
【時に、高見産霊尊、真床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊に覆ひて、降りまさしむ。
 皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道分きて、日向の襲の高千穂峰に天降ります。
 既にして皇孫の遊行す状は、槵日の二上の天浮橋より、浮渚在平処に立たして、膂宍の空国を、頓丘から国覓ぎ行去りて、吾田の長屋の笠狭碕に到ります】

その後、日本書記は、そこで、神吾田津姫とであって、結婚し、一晩で孕み、3人の子供が生まれたと記しています。
 しばらくたって、ニニギ尊はおかくれになった。天津彥彥火瓊瓊杵尊崩.因葬筑紫日向可愛愛,此云.之山陵.とすぐに死んだように書かれています。

これは、古事記に、次のようなことが書かれているからかも知れません。
【その猿田彦神は、阿耶訶におられるときに、漁をしていて、比良夫貝にその手をはさまれて、海に沈み溺れてしまいました。それで、海の底に沈んでおられるときの名を、底度久御魂といい、その海水が泡粒になって上がるときの名を、都夫立御魂といい、その沫が裂けるときの名を、沫佐久御魂といいます。

さて、天鈿売命は、猿田彦神を送って帰ってきて、ただちに大小の魚たちを追い集め、「お前たちは、天神の御子にお仕え申し上げるか」と問いました。このとき、多くの魚はみな、「お仕え申します」と申しましたが、その中でナマコだけが答えませんでした。
そこで、天鈿売命がナマコに向かって、「この口が答えないのか」と言って、細小刀でその口を切りました。そのため、今でもナマコの口は裂けているのです。
御代ごとに初物の魚介類を献上するときに、猿女君らに分かち下されるのは、これがその起源です】

古事記のこの部分を読んだ日本書記の編集者たちは、猿田彦神は溺れて死んだとかいしゃくしたのでしょうか?
日本書紀の編集者たちは、猿田彦神のことは、どうやら書きたくなかったようです。そのくせ、第8の書まで作り、天孫降臨は、いっぱいの説があるのだと書いています。その中でも、第一の書にのみ、猿田彦神のことを書いています。

【「一柱の神が天の八街にいて、上は高天原から下は葦原の中国までを照らしています。その鼻の高さは七握、背の高さは七咫あまり、まさに七尋というべきでしょう。また、口の端は明るく光り、目は八咫鏡のようで、照り輝いていることは赤酸鞘漿に似ています」

そのため、御伴の神を遣わして詰問させようとしましたが、たくさんの神がいるものの、みな眼光が鋭く険悪な雰囲気になってしまって、尋ねることはできませんでした。
そこで、手弱女ではありましたが、天鈿売に命じて、「お前は眼力が人に勝れた者である。行って尋ねなさい」といわれました。
天鈿売命は、その胸をあらわにむき出し、腰ひもを臍の下まで押しさげて、あざ笑って向かい立ちました。

街の神は、なぜこんなふうにするのか、天鈿売に問いました。
答えて、
「天神の御子がおいでになる道に、このようにいるのは誰なのか、あえて問います」といいました。
街の神はこれに答えていいました。
「天照大神の御子が、今降っておいでになると聞きました。それで、お迎えしてお待ちしているのです。わが名は猿田彦大神です」】

古事記ができた712年には、阿射加神社の祭神は、猿田彦神の三つの御魂である底度久御魂(そこどくみたま)・都夫多都御魂(つぶたつみたま)・阿和佐久御魂(あわさくみたま)が当社の祭神であると言われていたのではないしょうか。

ちなみに、猿田彦神派、海でおぼれたとになっていますが、阿射加神社のあるところの海抜は30mぐらいですから、この辺りが海であった可能性はありません。

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2008.01.27

資料No6日本書紀の猿田毘古神

日本書紀は、本文に当たる(?)部分と、その他の部分に分かれています。この構成をどのように解釈するかによって、日本書紀には、何が書かれているか受け止め方が全く、異なってきます。
 日本書紀は、複数の人で編集されたようです。誰が作るように命じたかは、よく判りませんが、その時の朝廷が命じた、即ち、天皇が命じたようにされています。完成は、720年とされ、古事記は、その8年前の712年完成とされています。
 古事記は、天武天皇が太安万侶に作るように命じたことが、古事記の序文に当たるところに書かれています。
 しかし、不思議なことに、この序文は、太安万侶が書いたのではなく、本文と別の人が書いたというのが、通説でして、翻訳すらされていません。
中西 進著『天つ神の世界』古事記をよむ1において、詳しく、古事記をよむことを試みられておられますが、詳し過ぎて、なんのことやら解りません。意味の解らない部分が、何故、判らないかということを説明し過ぎておられるからだと思います。その書いてある説明が、本文の訳より難しいのです。
 簡単にいえば、私の頭が悪いだけのことですが、意地悪を言えば、この序文は、太安万侶が、誠心をこめた文章だろうと考えています。
 古事記の内容は、殆どが、天皇家血縁関係を述べたものだと考えています。
ただ、本当のことを書きますと、すべて、世の中から、末梢されてしまうことを恐れた太安万侶は、訳のわからないことをかいて、その中に、正しい部分を読んでもらおうとした部分が多くみられます。

このように、いくら書いても、理解して頂くのは、無理だと思い、真正面から取り組んだ時がありました。その成果を【楽しい人生】のカテゴリー「古事記と日本書紀」に書き始めました。
No1 最初が間違ったから書き始めましたが、途中から、続けるのが嫌になり、序文の翻訳に挑戦しています。
No21古事記は何故作らなければならなかったか
No22 古事記の序文 その1
と続けて書いています。古事記の序文には、太安万侶が、壬申の乱のことも、書いています。壬申の乱は、天皇家の内輪争いの様に捉えられていますが、日中戦争であつたことも、それとなく,太安万侶は書いています。
 
話題が随分それてしまいました。
日本書記の本文に当たる部分には、日本書紀の編集者が正しいと思っていること、または、強く言いたいことが書かれています。
 その他の書が多い部分は、読むときには、大いに注意を要するところだと思っています。
天孫降臨というような言葉は、記紀ともにありませんから、誰かが、作った言葉だと思います。
要するに、ニニギ命が、高天原から高千穂にやってきたことが書かれている部分のことです。
このように、解釈しますと、日本書紀の本文には、猿田毘古神についてはなにも書かれていません。日本書紀の編集者は、他の書きものには、こんなのがありましたよと、全部で、八つの書物を掲載しています。この中の「第一書」とされるところには、猿田毘古神のことが掲載されています。

次回には、本文にあたるところと、「第一書」に当たるところを書いてみます。 

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2008.01.26

資料No5古事記の猿田毘古神

猿田毘古神の名前は、古事記と日本書紀に出てきます。古事記にん書かれている猿田毘古神を検討します。
原文
爾日子番能迩迩藝命將天降之時。居天之八衢而。上光高天原下光葦原中國之神於是有。故爾天照大御神、高木神之命以。詔天宇受賣神。汝者雖有手弱女人。與伊牟迦布神【自伊至布以音】面勝神。故專汝往將問者。吾御子爲天降之道。誰如此而居。故問賜之時。答白。僕者國神。名猿田毘古神也。所以出居者。聞天神御子天降坐故。仕奉御前而。參向之侍。

翻訳文
 ここに日子番能迩迩藝命將、天降りする時、天の八衢(ヤチマタ)に居て、上は高天原を光(テラ)し、下は葦原中國を光らす神 是れに有り。故ここに天照大御神、高木神の命を以(モ)ちて、天(アメ)の宇受賣神(ウヅメノカミ)に詔(ノ)りたまわれた。「汝は手弱女人(タワヤメ)で有ると雖えども、伊牟迦布神(イムカフカミ)と面勝神(オモカツカミ)なり。故 專(モ)はら汝往(イ)って將に問う、『吾が御子の天降りする道を 誰ぞ此の如くに居る』ととへ。」とのり賜いました。
故 問い賜いし時、答えて白しました。「僕は國つ神。名は猿田毘古神也。出で居る者所以(ユエ)は、。天つ神の御子天降り坐すと聞いた故に、仕奉御前に仕え奉てまつろうと、參い向え侍ぶらう」と。

考えたこと
①「故爾天照大御神、高木神之命以」この部分が重要です。迩迩藝命が降臨する現場にいないのに、どうして、天照大御神、高木神が判ったのか不思議ですが、天宇受賣神に聞きなさいと命令しています。その場所にいないときは、このように間接的に命令しています。では、どこにいたのかと言いますと、福知山へ行っていたはずです。
五人のお供の中の宇受賣神に依頼しました。宇受賣神は天岩戸の前で、踊った神です。この時の役目と今回とはつながりがありません。
②「居天之八衢而」八は数が多いときに使われますが、実際に八つに道が分かれているところがあるのかもしれません。これを指摘できれば、いよいよ、高天原と降臨の地・高千穂が確定できますが、スサノオが、八俣の遠呂智を退治したところが、横田町の八方に道が通じていた八俣でしたから、同じ「ヤマタ」ですから、単に道が分かれていて間違いやすいので、道案内に来たと受け取ってもいいかもしれません。
③大勢に関係ありませんが、天の宇受賣神は、手弱女人ではあるが、伊牟迦布神と面勝神の両方の性格を持っているので、適任者だと判断されたことになります。どのような性格でしょうか?
④猿田毘古神が重要人物ですが、だれの説を読んでもなるほどと思われません。私は仮定の話しですが、上は高天原を光(テラ)し、下は葦原中國を光らす神 とありますから、光と大いに関係があって、天津神ではないことは確かです。光輝きながら現われた人が外にもいます。それは大物主神です。この神も正体不明のところがありますが、奈良の大神神社の祭神で、崇神天皇のときにも天皇の上に立ち、命令を下しています。
私はユダヤ人だと思います。ユダヤ人は神武東征のときにも、天皇の応援をしています。ユダヤ人は、常に自分の居る位置を知る方法をもっていたのと、お金として当時通用していた絹を持っていました。 
田村誠一氏は、やちまたの様子を次のように表現されています。
「やちまたで高天原や葦原の中ツ国を原の中ツ国を猿田彦が光らしていました。が光らしていました。これは鏡を利用して通信が行われていたことです。古代に現代人が創造もできない、通信網が全国に出来ていました。この問題を解く一つの鍵が鉄を鍛えて作った鏡の利用と考えられます。
ここに出てくるやちまたは道が各方面に分かれている所で、れに該当する所は鏡成(カガミナル)です。道を間違わないために、原の中ツ国を猿田彦が光らしていました。が道案内を引き受けました。
これから一行は蒜山高原の明連川を遡り、鏡成を経由して高千穂に下ったことが分かり
ます。一行は天の浮橋すなはち雲海が出ている、早朝に出発し明ッ神が連れ立って遡った川は明連川と名付けられました。明連川の北側の山は擬宝珠山で、天の浮橋の欄干に由来に由来している地名です。地名は紀元前150年の大ロマンを教えてくれます。

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2008.01.23

資料No4静岡神社誌より分析

次のデーターは、
田村誠一氏の『西暦は日本の建国紀元だった』のP157に書かれてあるものです。
データだけではなく、書かれてあることをそのまま、掲載します。

神社誌はすべての神社を網羅しているので、どの民族の勢力圏かが判ります。

        伊豆国   駿東郡   富士川  安倍川  大井川   遠近国
               富士山東  流域    流域   流域    
皇大神社・
神明宮   61       35      32     14     29      140

大山祇命  102      48     60      28       14      109

浅間神社   5       55        42      10       18      27

諏訪神社 17          10        8         3      10        86
   
速須佐男命 71       32         47       14        96      259
           
熊野・多賀神社34       12        10        4        7      82
 

速須佐男命以外は苗族と苗族に降伏した建御名方神を祭る神社です。

これから富士山周辺は東の高天原に相応しいことが分かります
熊野神社や多賀神社は白狄人が祭ったので、苗族とは友好関係にあります。

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2008.01.21

No3伊勢の弥生遺跡

伊勢の弥生遺跡の分布図です。

Photo

五十鈴川、宮川あたりは無いことに注目です。ほとんど、縄文・弥生遺跡がありません。志摩に先代の人が住んでいた形跡があります。
雲出・櫛田川一帯に、銅鐸が出土ています。

No1、No2の資料とも重ね合わせて、眺めてください。
静岡県の引佐郡・細江の銅鐸も同時に、眺めてください。


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2008.01.20

No2伊勢の古墳の分布

次に掲載する図は、山川出版社 「三重県の歴史」P13のものです。他の資料もこの書物に書かれていたものです。
Photo

 三重県下で発掘された古墳は、昭和49年7月で3803におよび、伊勢2783、島229、伊賀に788、紀伊(北牟婁郡)に3という分布を示している。

前期の古墳---雲出川流域。
 ①筒野古墳---一志郡嬉野。平野部に面した丘の端。全長40m、高さ4m、前方後円墓。
        一志の君塚とも呼ばれる。三角縁神獣鏡。銅鏡4面・石釧・水晶玉出土。
        この三角縁神獣鏡と同氾の鏡は、京都府の大塚山古墳や岡山県の車塚古墳。

雲出川流域以外では、伊賀の地に見られます。
① 馬塚古墳  名張市新田。長さ142m。古墳の周囲には幅15メートルの濠。
② 殿塚古墳(4世紀末)
③ 女良塚(5世紀?)
④ 毘沙門塚古墳(6世紀?)・
⑤ 貴人塚古墳(6世紀?) 方後円墳。
⑥ 荒木車塚古墳(上野市)
⑦ 石山古墳(上野市才良) 前方後円墓、長さ、120m、前方部には円筒埴輪が三重に。後円部には、深さ2mの長方形の堀。堀の上に円筒埴輪の列が並び、楯、家・靫・蓋・甲などの埴輪配置。この埴輪にかこまれたなかに粘土で周りを包まれた木棺出土。遺骸の頭の辺りから、鏡と玉、腰のあたりから刀と剣が出土。
 まだ、資料を全部集めたわけではありませんが、掲載しておきます。
 この図を見られたら、なにを考えられますか?

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2008.01.19

No1 伊勢の廃寺

①夏見廃寺 
 名張市夏見男山(オトコヤマ)2810
[国史跡]がある。1937[昭和12]年頃寺跡が発見され、1946~47年に発掘調査が行われ、およその伽藍配置と多くの塼仏(センブツ)などを出土した。「醍醐寺本薬師寺縁起(長和4年<1015>)」には、「大来皇女、最初斎宮なり、神亀2年(725)・・・昌福寺を建立したまふ。夏見と字す。もと伊賀国名張郡に在り」とあり、この寺跡が昌福寺ではないかとされている。 
1984~86年度の再発掘調査の結果、寺域は東西約84m・南北約75m、金堂はその中心部に、塔は金堂の東側、講堂は金堂の南西の一段下に配置され、それぞれ斜面を削平した基壇上に礎石を残している。
法起寺伽藍配置と判明。
出土した塼仏は6種類あり、大形 仏には「甲午年□□中」の字有り。甲午年は694年。
軒丸瓦は、毛原廃寺と同氾。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/h200208cyu.htm を少し、スクロールすると、写真多数。


② 額田廃寺 (桑名市額田笹貝)
 元は浄蓮寺と称し、織田信長の北勢侵攻の時、兵火。
江戸時代に專仏、礎石などが発見され、昭和16年県史跡に。
昭和38年(1963)調査。塔、金堂、講堂、僧坊、中門跡などが発掘。
法隆寺式の伽藍配置を持つ大化改新以前に建設。法隆寺西院より創立は古いとされる。
山田寺式の重圏縁単弁蓮華文の軒丸瓦を出土。
遺構は調査終了後宅地造成のために跡形なし。
員弁川(町屋川)を挟んで南に縄生廃寺、北に額田廃寺が建立。

③毛原廃寺
 金堂跡(7間4面) 、中門跡(5間2面)、南門跡(5間2面)の礎石(そせき)残存。

金堂の規模は、礎石の配列から唐招提寺の金堂と同じくらいの大きさあり。
そのほか、西塔跡[礎石埋没(まいぼつ)]、講堂跡[推定]、鐘楼(しょうろう)跡[伝承]などがある。
出土した軒(のき)丸瓦[蓮華(れんげ)模様]、軒平瓦[唐草(からくさ)模様]はいずれも奈良時代後期のものと考えられる。
毛原廃寺に関する文書記録はなし。

④全部で10ヶ寺あるとされる。

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