2012.05.22

銅鐸について考えた事  小銅鐸と環濠集落

http://www21.atpages.jp/skeikas/page247.html 資料は、前回より2件増えて、35例です。備考欄には、出来るだけ記事を書くようにしていますが、「環濠集落」は
3件になりました。
草刈I区遺跡  
板付遺跡  ③滋賀下鈎
  
  環濠遺跡は、単純に考えますと、集落の周りに造られ、水を蓄えた濠を持つものです。自分の目で確かめたものは、佐賀県の吉野ケ里遺跡です。この環濠は、断面が深くV字形に掘削された環濠やその周辺に逆茂木(さかもぎ)と称されるような先を尖らせた杭を埋め込んでいる様子から集落の防御的性格があったことが窺える(ウィキペディア)

 池上・曽根遺跡(いけがみそねいせき)は、大阪府和泉市池上町と同泉大津市曽根町とにまたがる弥生時代中期の環濠集落遺跡(ウィキペディア)。こちらは、環濠の深さは、歩いて渡れるように見受けられましたが、私は別の所を眺めていたのかも知れません。二重に造られてはいますが、あまり防御の役割は無い様に思われます。 
 土器編年では弥生時代中期後半であるが、柱の1本を年輪年代測定法で調査の結果、紀元前52年に伐採されたことが判明。(ウィキペディア) 

執筆者は、何故か
年輪年代測定法を採用されないで、土器編年を採用して弥生時代中期後半とされています。ということは、紀元後200年頃と云うことでしょうか。奈良の唐古鍵遺跡とチームを組んでいたのではと推理しています。

 環濠遺跡は遺跡内に、取られては困るものがあったはずです。環濠は、始めのころは深く作られましたが、後の世になりますと、防護をする必要が無くなったのではないでしょうか。吉野ケ里遺跡では、米の倉庫は、遺跡の中に作らないで、遺跡の外にありました。お米ではなかったことになります。次は、鉄、銅、金、銀などの金属になりますが、余り多くは見付かっていません。

 絹は、あまり見つかっていませんが、吉野ケ里遺跡では、甕棺の中から、絹が出土しています。
 大切な絹を所持していただけではなく、膨大な量を持っていたから、襲われることを警戒したのではないでしょうか。

愛知県清須市の朝日遺跡は、環濠、柵列、逆茂木、乱杭などで、集落を二重、三重に囲む強固なものであった。これらは、弥生時代のものとしては日本で初めて発掘されている。今でも日本の弥生中期遺跡としては最大級である。(ウィキペディア
 この遺跡では、やはり、方形周溝墓が見付かっています。

 一つずつ、確かめませんと、まだ、判りませんが、環濠を有する集落は、絹を扱っていたのではないか。
 その中で、方形周溝墓を有する集落と有さない集落に分れるのではないか。方形周溝墓を有する人たちの方が、古い時代の人たちではないかと推理しています。

 「遺跡では、南環濠集落の南縁では環濠掘削以前に銅鐸が埋納された」かれていますが、環濠を造る前に、銅鐸を持っていた人が、居て、村の所有者が、銅鐸を持っていた人から、持たない人に変ったということでしょうか。
 と云うのは、環濠がある遺跡では、銅鐸が見付かっていない様に思うのです。
 私の記憶違いでしょうか。

 書いたことは、確定ではありませんが、このような傾向が見られるのではないでしょうか。

環濠集落は、元来、集落が襲われるのを防ぐために作られたと思います。何を取られることを恐れたのでしょう。もし、お米であれば、自分たちが食べる以上のお米を作ったり、蓄える必要が無いはずです。

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2012.05.16

銅鐸について考えた事  小銅鐸(2)

前回、銅鐸の中には、〔小銅鐸〕と云うものがあり、現在の所、50程あるらしいですと書きました。
 
小銅鐸(1)は、http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/05/1-db55.html に書きました。
 資料の保管場所は、【歴史の不思議】http://www21.atpages.jp/skeikas/ です。このコーナーは、私以外に見られる方はありません。

 【銅鐸のおはなし】http://www21.atpages.jp/skeikas/page195.htmlの小銅鐸をご覧ください。

 まだ、50件には到りませんが、33件の資料が集りました。
 静岡、千葉、福岡が、断然多いです。この3つの県には、共通のものがあるはずです。

 小銅鐸一覧のページから「戻る」をクリックして頂きますと、まだ、完成していませんが、大きな銅鐸の一覧表を掲載しています。 大きな銅鐸は、全部で500個近くあるそうです。現在、136個ですから、まだ、利用できませんが、静岡、千葉、福岡には一致しません。
 と云うことは、小銅鐸と普通の銅鐸は、別のものだと考える必要があるように思います。

 銅鐸は、豊作を願ってお祈りするときに使ったとされていますが、そうかもしれませんが、そのような絵が残っているわけでも無く、伝承すらありませんから、考え直す必要があるのではと思います。
 小銅鐸の方は、大きいのと小さい銅鐸があります。どのような所で発掘されたのか、複数個見付かったとか、どの様な場所で見つかったかなど、詳細に見ていく必要があります。

少なく共、静岡、千葉、福岡で多く見付かったということは、今後、ここで見付かるという予想を立てています。

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2012.05.01

銅鐸について考えた事  小銅鐸(1)

別に珍しくもありませんが、銅鐸の資料を蓄えています。毎日、一つずつ、蓄えますと、500日後には、日本で見つかっている銅鐸を集めることが出来るのではないかと思っています。
資料の保管場所は、【歴史の不思議】 http://www21.atpages.jp/skeikas/ です。
出来るだけ毎日、
調べたことを付け加える様にしています。最近は、銅鐸のことを蓄えています。発見したことを書いておきます。

 銅鐸の中には、〔小銅鐸〕と云う物があり、現在の所、50程あるらしいです。判ったことは
①10㎝以下の小さい銅鐸であること。(12㎝のものもあり)
②舌と呼ばれる棒が付いている銅鐸があるということです。
 一例として、福岡県嘉麻市馬見の 原田遺跡 から見つかった銅鐸
③静岡県と福岡県に多い。

 今の所は、これだけですが、毎日、確認していますと、いろいろ考えさせてくれます。私以外の方には、読みづらいですが、辛抱して読んでください。

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2012.02.06

漢字資料23 末と廬

漢字資料23 末と廬   『字通』より転載。一部省略。

利用の目的。 魏志倭人伝に「末廬国」があり、どのような意味を成すかを探る。


指示---木の枝の末端。 その部分に肥点を加えて、その部位を示す。末端であるから、弱小、終末の意がある。
無・莫などと音が通じ、比定詞に用いる。

意味
①すえ、こずえ、さき ②こな、しも、おわり、えだは  ③よわい、かいか、小さい  ④くず



声符は盧。
〔設文に「寄カリヤなり、秋冬には去り春夏には居」とあって、農耕の時に寄宿する田中の廬舎をいう。
服喪するときに居るところ。そのような儀礼の場に忌小屋として用いるのが原義〕

意味
①かりや、ものかりや、いみのかりや  ②いおり、かりずまい  
③やどる、はたご  ④いえ、書斎などをいう  ⑤とのいの間、 宿直室

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2011.06.01

資料 古墳 箸墓古墳 (5)  倭迹迹姫命は誰だ(2)

日本書紀の崇神天皇の10年の所に、書かれている〔倭迹迹姫命〕は、先代の開化天皇にもみることはできませんでした。
 しかし、その前の孝元天皇には、どのような子供が生まれたかは書いてあります。

皇后:欝色謎命との間には、
 第一皇子—大彦命。
 第二皇子--稚日本根子彦大日日尊 (開化天皇)
第三子--- 倭迹迹姫命 です。

倭迹迹姫命の名前は、古事記には、書いてありません。
と言うことは、日本書紀の編集者は書きたかったことになります。


 現在は宮内庁により第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理されています。
倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。

古事記  --夜麻登登母母曾毘売命  第7代孝霊天皇の皇女(宮内庁) 
と言うことは、孝元天皇と兄弟(姉妹)です。
日本書紀  倭迹迹日百襲姫命 崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹。

上に書きましたように、日本書紀の崇神天皇の10年の所には、倭迹迹日百襲姫命の名前は書いて無くて、第三子として、--- 倭迹迹姫命 が書いてあります。

 倭迹迹日百襲姫命は、天皇の系図ではなくて、三輪山の宿る神、すなわち、大物主神の妻と言うことにして、紹介してあります。その大物主神は、実は蛇だったのです。(と日本書紀に書いてあるのですが、それは、あくまで神話であって、ご神体は三輪山であると、歴史家は書いておられます。)
 と言うことで、現在、大神神社がありますが、ご神体は三輪山、其のものであるということになっています。その証拠に、普通の神社には、神殿があるのですが、大神神社には、神殿がありません。 これが不思議なことに、このような形態が、神社の本来姿のだということになっています。
 どして、本来の姿なのか、説明できる人はおられないと思います。

 どうして、このようなことになっているかと云いますと、日本書紀に書いてあることは正しいという所から、日本史は出発しているからだと思います。

日本書紀の孝元天皇の子供には、どのような人がいたかと云いますと、第三子--- 倭迹迹姫命 がいます。別の所では、倭迹迹日百襲姫命がいることになっています。
 これはどうして、このようなことになっているかと云いますと、三輪山の話を挿入しているからです。
 三輪山は、伯耆の国にあったのに、伯耆の国に関係するものは、日本書紀では極力、排除しようとしました。
 一番に、消し去ろうとしたものは、神武天皇のことです。神武天皇の皇后の名前は、無くしました。大物主神は、神武天皇の岳父です。本当は、名前はあったのでしょうが、大物主と言うような名前にしました。
 三輪神社も大神神社に名前を変えてしまいました。

 現在の大神神社の所に、神社はなにもなかったと思っています。
ウィキペディアの「大神神社」をご覧ください。
 御神体は、山だとしながら、祭神は、
〔主祭神とし大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)を配祀する〕
と書いています。主祭神とは、どういうことでしょう。大己貴神と少彦名神を配祀するとは、どういうことでしよう。
大己貴神とは、日本書紀に書かれている神の名前です。古事記では、大国主神です。この神は、出雲大社の祭神です。 これが不思議なことに、日本書紀では、大己貴神が出雲大社に行かれてからは、一切、日本書紀には登場しません。
 どうして、大神神社の祭神として、祀られているのでしょう。

 いくら、神話と云え、神話なりに、ストーリに筋が通っていませんと、神話とは言えません。神話には、それなりに、歴史が読み取れませんと、創作になります。

 もっと、詳細を知りたい方は、調べれば、直ぐに分ると思います。
倭迹迹日百襲姫命を祭神にしている神社が、全国に、どれぐらいあるか調べることです。同じく、倭迹迹姫命を祭神にしている神社も探すことです。
 一社も無かったら、それほど、重要視する人物ではなかったことになります。

倭迹迹姫命は誰だ の結論です。
 日本書紀の編集者が、苦心して作りだした架空の人物と考えるしかありません。

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2011.05.27

資料 古墳 箸墓古墳 (4)  倭迹迹姫命は誰だ

前回も見て頂きましたように、倭迹迹姫命の名前は、日本書紀の崇神天皇10年のところに、書いてありました。ですから、崇神天皇の御世の人だと思っていましたが、崇神天皇の兄弟には、倭迹迹姫命はいません。
 崇神天皇は、先代の開化天皇の子供ですから、ここに書いてあります。6年春に崇神天皇は、第二皇子として、御間城入彦五十瓊殖尊の名前がみられます。
 外に、
第一皇子:彦湯産隅命
第三皇子:彦坐王
 が記載されています。

ところが、古事記では、違っています。これが重要な所ではないかと思います。
古事記では、
第一皇子:比古由牟須美命
第二皇子:御真木入日子印恵命
  皇女  御真津比売命------御真木入日子印恵命の父妣な寺の兄弟
第三皇子:日子坐王
第四皇子:建豊波豆羅和気王 


 古事記では、この天皇の御子等、併せて五柱なり。(男王四、女王一) 
 と念を入れて断ってあります。


崇神天皇に妹がいたという話は、あまり聞きません。しかし、上の様に、日本書紀には、違ったことが書いてあります。
 この辺りのことを以前に書いてことがあります。読んで頂ければと思います。

卑弥呼は崇神天皇の妹
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page744.html

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2011.05.25

資料 古墳 箸墓古墳 (3)  被葬者は倭迹迹姫命

もう一度、日本書紀に書いてある「三輪山伝説」を書きます。

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。(少し、この部分に間を設けます。)

倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。(所々現代語)

倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻と為ると書いてあります。
 そして、その後に、倭迹迹姫命を大市に葬りまつると書いてあります。
 
 文章は続いていますから、誰が読んでも、倭迹迹日百襲姫命と倭迹迹姫命は同じ人物ですが、違うことになります。
 
 では、倭迹迹日百襲姫命は、どのような人物なのか、倭迹迹姫はどのような人物なのか、知る必要があります。

ウィキペディア名よりますと、次の様に書いてあります。
倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと、生没年不詳)は、孝霊天皇の皇女。
『日本書紀』では、母は、倭国香媛(やまとのくにかひめ)。同母兄弟に、倭迹迹稚屋姫命、彦五十狭芹彦命らが、異母兄弟に孝元天皇がいる。『古事記』では夜麻登登母母曾毘売命。同母兄弟に日子刺肩別命、比古佐勢理毘古命、倭飛羽矢若屋比売がいる。
崇神天皇からみますと、夜麻登登母母曾毘売命は、叔母になります。
 読み過ごさないで、古事記でも、日本書紀でも、各天皇の子供の名前と人数を確認してください。

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2011.05.24

資料 古墳 箸墓古墳 (2)  倭迹迹日百襲姫命

現在は宮内庁により第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理されています。
倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。
 
ウィキペディアによると、
 『日本書紀』崇神天皇10年9月の条に、つぎのような説話が載せられている。一般に「三輪山伝説」と呼ばれている。

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。(所々現代語)

箸墓のことは、上のように、日本中の歴史家が、日本の正式の歴史書としている日本書紀に書いてあります。
 このことは、日本書紀が、720年ころに作られる時に、知られていたから、ここに掲載されたのでしょう。
 ウィキペディアの筆者の方が、上の様に書きながら、どうして、一般に「三輪山伝説」などと書かれたのでしょう。
 「三輪山伝説」と呼ばれているものは、古事記にもあります。日本書紀と同じ崇神天皇の所に書いてあります。
 と云っても、古事記には、「三輪山伝説」と書いてあるわけではありません。内容も、丁寧に読んでください。 日本書紀の内容と全く異なっています。

 古事記には、意富多多泥古のことは書いてありますが、大物主神のことは書いてありません。
日本書紀は、712年に完成した古事記に書いてあることが、間違っているので、自分達、藤原氏に伝わっている歴史に書換えたのではないかと考えています。
  
 きつい書き方になりますが、古事記に書いてある「三輪山伝説」は、藤原氏から見れば、許せなかったと考えます。
 日本書紀の編集者は、箸墓の被葬者は、倭迹迹日百襲姫命と分かっていたから、このように、歴史書に書いたことになります。

ただ、上の文章を考察してみます。
①倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。
 この部分に、倭迹迹日百襲姫命と倭迹迹姫命は、同じ、人物の筈ですが、どうして、日本書紀の編集者は書換えたのでしょう。 その意図が判りません。

②「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。
 
箸墓が、倭迹迹日百襲姫命のお墓であることを記すだけではなく、なぜ、箸墓という名前が付けられたか、理由まで書いてあります。
 
 考古学者や歴史家が出る幕ではありません。
 宮内庁が、主張するように、倭迹迹日百襲姫命のお墓であるということは、言い伝えではなく、日本の正史に書いてあることになります。

 これを否定する材料は、調べが付きましたら、又、書いて見ます。
 
 しかし、倭迹迹日百襲姫命は、天皇でもないし、正式の名前すら、判らない「大物主神」の妻であるというだけで、崇神天皇や景行天皇よりも大きい、古墳が造られたからには、日本書紀の製作者には、書き残さなければならない理由があったのだと思われます。

 では、何だとなりますと、三輪山であろうと思っています。 奈良の桜井にある三輪山は、元々、鳥取県に造られたと考えています。桜井にある三輪山は、藤原氏が、無理やりに造ったもので、そこの祭神が、大物主というのも、藤原氏の作り話だと思います。

 では、そのようなことをして、何になるのだということになります。
これが判れば苦労は要りません。藤原不比等に聞くしかありません。

三輪山に鎮座する大物主神を祀る神社は、奈良でもっとも、実力のある神社だと思います。その名前は、『大神神社』と書いて、〔おおみわじんじゃ〕と言うそうです。どうして、『大神』を〔おおみわ〕と読むのか、そのようなことを言っている人は、大神=三輪明神
を理解しない人であると叱られるでしょう。では、理解しようとすればするほど、理解できなくなる仕掛けになっています。この仕掛けは、日本書紀、そのものにあります。
 
 1300年経過した歴史を解きほぐすことは、容易ではありません。
 
 箸墓は、宮内庁の人には、悪いですが、倭迹迹日百襲姫命のお墓ではないと思います。
 次回から、何回かに分けて書いて見ます。
 以前に、次のような記事を書いています。読んで頂ければと思います。

No358浦間茶臼山古墳と箸墓古墳
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-12-04

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2011.05.22

勾玉(4) 勾玉の形は胎児からか(2)

犬でも猫でも、一個の卵であったものが、次々と分裂を繰り返し、63日後には、親のお腹から出てきます。その時は、全ての部品というか、臓器は揃っているだけではなく、歩き始めます。ただ、肉食動物は、たちあがるのは遅いですが、草食動物では、鹿や馬では、仲間の集団に囲まれながら、お産をします。しかし、親の集団も弱いですから、ゆっくり移動をしながら、餌を求めると同時に、肉食動物からの襲撃を避けようとします。
 従いまして、生れた草食動物は、30分~1時間以内に、自分で立ちあがり、ふらふらでも、親と一緒に移動をします。
 どのような動物にも、一人前になるまでの日数は決まっていて、生れでる時点では、一応完成品と考えていいことになります。
 しかし、カンガールやパンダは、未熟な状態で生まれてきます。

 このように考えますと、全ての動物が、妊娠期間の例えば、5分の1の所では、勾玉の形になっているとは、言えませんが、あの勾玉の形の時は、通過するのではと考えています。
 このような状態のときの動物を、普通の人は見ることはできません。
 
 犬猫では、妊娠してから63日で、生れますが、何らかの障害がありますと、妊娠を継続できなくなります。その時は、胎児は、生れ出ることになりますが、妊娠期間が短いときは、生れても育たないことになります。たとえば、犬猫の場合、予定よりも10日早くうまれても育ちますが、勾玉の形の時であれば、全く育ちません。
 このようなときは、胎児は、別にどのようとも表現しませんが、生れることを流産と云います。勿論、胎児の形はしていません。
 人間の場合は、蛭児と呼ばれています。このようなことは、紀元前でも知られていたようで、古事記では、蛭子と書いてあります。

このように蛭子をみる機会は、昔でもありましたから、妊娠後、1ヶ月未満の流産も経験して、見ていたと想像は、出来ますが、それを見て、
〔 勾玉の起源は玉が魂を生じることに求められ、用途は増殖と鎮魂を目的としたものと考えられます〕の意味を含んでいたと考えるようになり、流産しないように、身に付け、次には、無事生れるようにと祈ったのかも知れません。又、前に死んだ蛭子の鎮魂を願ったのかもしれません。

 しかし、これが、三種の神器にまで、結ぶ付くようには思えません。

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2011.05.20

資料 古墳 箸墓古墳 (1) 北緯と太陽の道

箸墓古墳は、奈良県桜井市に位置します。
 その位置は、
北緯34度32分21.34秒
東経135度50分28.42秒
です。

太陽の道をキーワードにして、検索をしますと、多くの記事がヒットします。
 この言葉、NHKのディレクターをしておられた水谷慶一氏が、
番組で取り上げられ、『「知られざる古代」』というタイトルの本も出版されました。

ある時期に、太陽が、北緯34度32分の上を通りますが、その地上にある構造物は、有名なものがいっぱいあるとのお話でした。

 私が興味を持ち、記事は、次の3つですが、もっとあったように思います。
此の外に、太陽は、大阪府堺市の日置荘を通過しましたが、資料はなに一つ残らず、日置という地名だけが残っています。

 箸墓古墳も、この太陽の道の上に造られたと考えています。

箸墓古墳が教えてくれる歴史の中で、超一級品の資料と思います。

次の記事は、以前に私が書いたものの、〔太陽の道〕を含むものです。

No301 一志町と日置 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-02-14
No308 伊勢神宮の位置(7) アマテラスの遷都(5)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-02-21
No330 名居神社と宇流富志弥神社 (2)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-03-22

次のものは、桜井教育委員会から発表されたものですが、私の記事からリンクできなくなっていますので、インターネットから見つけたものです。


箸墓古墳発掘調査資料http://inoues.net/club/hashibaka.html
箸墓古墳発掘調査資料 纒向遺跡第109次発掘調査資料
(財)桜井市文化財協会、桜井市教育委員会 1998年9月13日

Ⅱ.調査の概要

○渡り堤 東西方向に約8mに亙って検出されている。調査区の関係上、後円部との接続部分は確認できなかったが、堤の
南北に丁寧な茸石を施した立派な造り。堤の高さは周濠底より約1.3m、基底幅約4.8m、堤上面の通路幅は約2mと 墳丘に比べて小規模なもの。葺石は北面と南面の葺き方に違いが見られ、北面は比較的小型の石材を急な勾配で積み上げているのに対し、南は面を意識しつつ大型の石材を緩やかな勾配を持たせて葺き上げている。裏込めの手順にも南と北では工程に大きな違いが見られる。北側は基底から頂部にかけて裏込めの土と栗石を入れた後に化粧石を葺き、基底から一気に立ち上げているのに対し、南側は基底石を置いた後、裏込めの土と栗石を水平に入れ、この上に裏込め土、栗石、化粧石を葺くといった2ステップの作業工程を踏んでいた。また、渡り堤の上面には堤に直交して幅約1.6m、深さ約25cmの溝が掘られていた。溝の正確な用途は不明だが、北の濠から南の濠へと水を落とすための掘り込みと考えている。

○周濠 渡り堤の南と北の両方で確認されている。周濠は推定で幅約12m、推積は上・下層と大きく2層に分かれる。下層は周濠が機能していた頃の堆積層で、粘土や粘質土で構成され、上層は最終の埋没段階である植物の堆積によってできた腐植層。この周濠は前方部の南側や北側で行われたいずれの調査でも確認されており、古墳の周囲に幅10m程度の周濠が墳丘に沿う様な形で巡っていた可能性が高くなった。また、北側周濠底の断ち割り調査では渡り堤の下層で地山整形が確認されており、古墳築造当初から計画的に渡り堤が構築された事も解っている。

○外堤 周濠の外側にはすべて盛り土によって構築された、現存する高さ約70cm、幅15m以上の非常に厚い外堤状の高まりが確認されている。盛り土は堤の墳丘側と最も外側に幅2m程度の土手を築いた後に、土手と土手の間に土砂を入れるといった古墳の盛り土によく似た手法をとっていたと考えられる。この堤も前方部の南と北、いずれの調査でも検出されているものであるが、幅が確認されているのは前方都北側で検出された堤の部分だけであり、その幅は17mとやはり大きなものである。

○遺物と出土状況 遺物は主に周濠内と渡り堤や外堤の盛り土内から出土している。周濠下層からは数点の鋤の他に、針葉樹を丁寧に加工した加工木なども見られるが、その用途は不明。周濠内の出土土器は甕や高杯・壷などの日常用の土器が多く、下層は布留0式期、上層は布留1式期頃の堆積層と考えている。渡り堤や外堤の盛り土は周囲の包含層を削ったものと考えられ、周濠内部と同様に甕や高杯・壷などの日常用の土器が多く出土し、最も新しいものは布留0式期の土器片が出土した。

Ⅲ.まとめ

今回の調査は後円部では初めての調査であり、今まで実態のよく解っていなかった著墓古墳について実に多くの知見を得ることができた。まず第一には墳丘周囲の構造が解って来た事である。先述したように古墳の周囲には幅約10m程度の周濠と、その外側に基底幅15mを越える大きな外堤が巡っていた可能性が高くなった。また外堤の所々には墳丘へと繋がる渡り堤が築造当初から付設されており、後の渋谷向山古墳などに代表される渡り堤を持った古墳のルーツとも言うべき様相を
呈していたのであろう。最古の大型前方後円墳といわれる箸墓古墳にこれらの要素が備わっていたという事は古墳の構造や周辺施設の意義を考える上で重要な材料となる。第二には築造時期の問題である。後円部の墳丘そのものを調査した訳ではないが、築造当初から後円部と同時に構築されたと考えられる渡り堤や外堤の盛り土内部から出土した土器のうち、最も新しいものは布留 0式と呼ばれる時期の土器群である事や、周濠の埋没時期、前方部での調査成果(墳丘の構築工程や築造時期)などを考え合わせると箸墓古墳が布留0式期に前方後円墳として築造された事はほぼ間違いの無いものと考えている。
今後の周辺地区でのさらなる調査が期待される。

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